PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
「三十八年戦争」
を経て、この時期(9世紀初)に現れた城柵が胆沢城、志波城、第Ⅱ次雄勝城説が有力視される払田柵跡、城輪柵、そして徳丹城である。この時代の城柵はそれまでの丘陵地ではなく(かつ、地形上の制約を受ける不整形の外郭でなく)、平地上に方形で作られている。
阿弖流爲と母礼の降伏及び処刑を挟んで、胆沢城は延暦21年(802年)、志波城は延暦22年(803年)に造営が開始された(それぞれ現在の岩手県奥州市及び盛岡市)。
それまで陸奥国の国府機構と鎮守府とで兼任となっていた官制を分離し、多賀城から胆沢城に鎮守府が移された。この官制の分離は、胆沢地方の征服により拡大した朝廷の支配域に対し、陸奥国司が鎮守府官人を兼ねる従来の官制では対応できなくなったためと考えられ、鎮守府は胆沢城を拠点として陸奥国北部を支配する統治機関へと変質していくこととなる。
多賀城に代わる新たな鎮守府となった胆沢城は、一辺約670m四方の築地塀による外郭と、一辺約90mの政庁を持ち、外郭南門は多賀城の規模を上回る、正面 5 間の重層門となっていた。
胆沢城の翌々年に造営が開始された志波城はそれをさらに凌駕する一辺840m四方、推定高さ4.5mの築地塀による外郭を持ち、当初は胆沢城より重要な城柵だったものと推定されている。
時期をほぼ同じくして出羽国でも、払田柵跡が東西1370m、南北780mという規模で造営されている(現在の秋田県大仙市、美郷町)。
これらの城柵が史上最大規模で造営されたのは、当時の朝廷がまだ北に向かって支配を拡大する意思を持っていたことのあらわれであると考えられる。
事実、志波城が完成したとみられる延暦23年正月には、坂上田村麻呂が再度征夷大将軍に任命され、桓武期での第四次征討計画が検討されている。しかし、この征夷計画は副将軍、軍監、軍曹などの人事が行われたもののその後進展せずに、翌年の徳政相論により都の造作と征夷の中止が国家の方針として決定されるに至って、計画が破棄されることとなった。
これは、桓武天皇の治世で行われた都の造作(長岡京、平安京)と征夷により、民衆の疲弊と国家財政の窮乏が進んだことで方針転換に至らざるを得なかったためであり、治世末期に行われたこの徳政相論のおよそ3か月後に、桓武天皇は崩御している。
桓武天皇の崩御を受けて即位した平城天皇及び、平城天皇から譲位された嵯峨天皇の治世でも、徳政相論で示された方針が踏襲されることとなった。平城天皇の治世はおよそ3年と短いが、中央の官司を整理したり、参議を廃して観察使を設置するなど財政と民生の回復に意を注ぐものであり、軍事政策についても版図不拡大の方針が確立する時期である。嵯峨天皇についても、平城天皇が行った政策の是正がしばしば行われたものの、弘仁2年(811年)の文屋綿麻呂の征夷は長年の征夷政策を終結させるために行った事業であり、徳政相論の方針と矛盾する性質のものではない。この時期の政策は、長年征夷政策を遂行するための人的・物的資源の供給源とされ、疲弊の著しかった東国の諸負担を開放することに主眼が置かれており、柵戸については延暦21年正月に胆沢城周辺に東国の浮浪人4,000人が送り込まれたのを最後に実施されず、鎮兵についても大同年間(806年 - 810年)に東国からの派遣が停止されて、陸奥・出羽両国からの徴発に改められた。
最後の征夷が行われた弘仁2年(811年)の閏12月、征夷将軍であった文屋綿麻呂は陸奥国の鎮兵3,800人を段階的に1,000人まで削減し、陸奥国に置かれていた4個軍団4,000人の兵力も2個2,000人まで縮小することを奏請した。この縮減の動きと関連して城柵の再編が行われ、史上最大規模の城柵であった志波城に代わって築かれたのが、最後の城柵である 徳丹城 である(現在の岩手県紫波郡矢巾町)。
志波城が雫石川に近く、しばしば氾濫による水害を被ることを理由とした理由とした移転だが、徳丹城は志波城より南に10㎞ほど後退し、外郭の規模も志波城の一辺約840mから一辺約355mへと大幅に縮小された。これは徳政相論以後の律令国家が、従前の版図拡大政策を放棄して現状維持に転換したことを示す考古学的な証左であるとみられる。また、以前から残る城柵に収められていた武器や食糧も他所に移され、この時に伊治城や中山柵が廃止されたものと推測されている。弘仁6年(815年)には鎮兵の制度が完全に廃止され、城柵の守備は軍団の兵士と、勲位を有する者を兵士に指定した健士によって担われることとなった。なお、発掘調査により、徳丹城の機能も9世紀半ばまでには廃絶したものと推測されている。
城柵の時代の終焉
鎮守府を胆沢城(ついで志波城)に移して軍事的な性格が後退した多賀城は、他国の国府と共通する官衙としての性格を強めていくこととなる。史料上に多賀 城 が「城」として表記されるのは「忽至城下」(たちまち城下に至る)と記録された貞観11年(869年)が最後で、その復旧は貞観12年(870年)「修理府」(府を修理す)とあり、以後はすべて多賀 国府 と記されるようになり、城柵としての位置づけは希薄となっていく。
承和年間(834年 - 847年)とみられる徳丹城と玉造塞の停止をもって、9世紀中葉に残存する城柵は、多賀城、秋田城、胆沢城、第Ⅱ次雄勝城とみられる払田柵跡、出羽国府とみられる城輪柵跡の5つとなった。これらの5城柵は10世紀中葉までは機能していたものと考えられ、最後まで残った多賀国府(多賀城)、秋田城は10世紀中葉あるいは11世紀前半ごろまで機能したものと考えられる。また胆沢城も、10世紀中葉以降の姿は考古学的には瞭らかでないものの、文献資料の上では胆沢鎮守府として後代まで現れており、鎮守府将軍の職名は後々まで残ることとなる。
終末期まで残った城柵は、鎮守府の在庁官人として現地の機構を掌握していたとみられる安倍氏や、同じく中央の貴族が下向して雄勝城の在庁官人として土着したとみられる清原氏など、その後の東北地方の歴史に関わる存在にとっての揺籃の役割を果たした。
特に終末期まで残り東北地方北部の「第二国府」的な役割を果たした胆沢城(鎮守府)、秋田城を通じた支配体制は「鎮守府・秋田城体制」とも呼ばれるが、一方で「鎮守府・秋田城体制」はあくまで中世史研究上の要請に基づいて理論化されたものであるという面を指摘し、鎮守府・秋田城とも陸奥・出羽両国府の被官以上の存在でなく、これに見直しを迫る見解も存在する。
国家事業としての征夷が終息を迎え、軍事的な緊張が緩和された中でも、ただちに蝦夷の支配が安定した訳でなかった。9世紀中葉には陸奥国の奥郡で蝦夷系住民と移民系住民の対立による騒乱が連年のように発生しており、出羽国では元慶2年(878年)、同国で史上空前の反乱である元慶の乱が発生している。また、9世紀から10世紀にかけての日本、なかんずく東北地方は貞観11年(869年)の 貞観津波 あるいは十和田火山の噴火など巨大な自然災害が頻発した時期でもある。このような情勢のもと、東北地方の社会全体の不安定な状況は9世紀後半から10世紀にかけて続くことになった。
また、あるいは10世紀中葉以降は、考古学的に検出される城柵遺構が消滅していく時期にあたり、これは全国的に他の国府遺構でも軌を一にする現象でもある。これは律令国家から王朝国家へと変容していく中で、地方支配が受領を通じた徴税請負に特化していき、律令体制下のような壮大な官衙ではなく国司館のような「館」支配へと転換していったとみられることによる。
実際の城柵が消滅していくにもかかわらず文献上に国守や鎮守府将軍、秋田城介といった官職が現れるのは、地方支配の拠点が城柵内の政庁ではなくこれら官人の公邸である館へと転換していたことを窺わせるものである。
〇「陸奥按察使」 (むつあぜち、みちのくのあぜち)は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職である。しばしば 陸奥出羽按察使 (むつでわのあぜち、みちのくいではのあぜち)とも言われた。720年頃に設置され、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した。他の地方の按察使が任命されなくなってからも継続したが、817年以降は中央の顕官の兼職となり、形骸化した。令外官で、属官に記事があった。官位相当は721年に正五位上、812年から従四位下と定められたが、実際の位階は従五位上から正二位までの幅があった。
陸奥按察使の成立
按察使は養老3年(719年)7月に、全国ではなく一部地域を対象に設置された。陸奥・出羽両国は含まれなかったが、間もなく任命されたことが『続日本紀』が伝える翌年の事件で知れる。
すなわち養老4年(720年)9月28日に、按察使の上毛野広人が蝦夷に殺されたと陸奥国が報告した。この時期の陸奥国は一時的に石城国、石背国、陸奥国に三分されていた。広人が「陸奥按察使」だったとは明記されないが、状況的に陸奥守の兼任で石城国と石背国を下におき、出羽国は含めなかったものとみられる。
養老5年(721年)6月10日に按察使の位は正五位上相当と定められた。陸奥按察使が出羽国を隷下におさめたのは同年8月19日であった
当時、按察使は一般に職田6町と仕丁5人を給された。
「歴史の回想・宝亀の乱」桓武天皇即位。… 2024年11月26日
「歴史の回想・宝亀の乱」 秋田城非国府説… 2024年11月26日
「歴史の回想・宝亀の乱」出羽国、そして… 2024年11月26日