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延暦十三年の征夷
延暦10年1月18日(791年2月25日)に桓武朝第二次蝦夷征討が具体化すると、田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され、兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、征討軍の兵力は10万人ほどであった。
7月13日(791年8月17日)に大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、田村麻呂は百済王俊哲・多治比浜成・巨勢野足とともに征東副使となった [23] 。軍監 16 人、軍曹58人と伝わるが、軍曹の多さが異例であることから、実戦部隊の指揮官級を多くする配慮ともみれる。
なお実戦経験がないはずの田村麻呂が副使として登用された理由は不明だが、朝廷からみても田村麻呂の戦略家・戦術家としての能力は未知数であったと思われる。
延暦11年の東北地方では、1月11日(792年2月7日)に斯波村の夷・胆沢公阿奴志己等が陸奥国府に使者を送り、日頃から王化に帰したいと考えているものの、伊治村の俘等が妨害して王化を叶えられないと申し出たため、物をあたえて放還したと陸奥国司が政府に報告している。
政府から陸奥国司に対して夷秋は虚言もいい、常に帰服と称して利を求めるので、今後は夷の使者がきてもむやみに賜らないことを命じている。
これは伊治呰麻呂や伊佐西古のように服従した蝦夷が寝返ることもあり、報告では伊治村の俘とあるため不審から政府の言い分としてはもっともであった。同年7月25日(792年8月17日)の勅では夷・爾散南公阿波蘇が王化を慕って入朝を望んでいることを嘉し、入朝を許して路次の国では軍士300騎をもって送迎、国家の威勢を示したとある [ 原 9] 。
同年11月3日(792年11月21日)に阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚・吉弥候部荒嶋が長岡京へと入京して朝堂院で饗応され、阿波蘇と隠賀は爵位第一等を、荒嶋は外従五位下を賜り、今後も忠誠を尽くすようにと天皇が宣命を述べている。1月時点と7月以降では政府の立場が一転しているため、この頃には蝦夷に対する懐柔策も推進していたのではないかと推測できる。
延暦12年2月17日(793年4月2日)、征東使が征夷使へと改称され、2月21日(793年4月6日)には征夷副使の田村麻呂が天皇に辞見をおこなった。
延暦13年2月1日(794年3月6日)、弟麻呂は征討へ出発。3月16日(794年3月21日)には征夷のことが光仁天皇陵と天智天皇陵に報告され、3月17日(794年4月21日)には参議・大中臣諸魚に伊勢神宮に奉幣せしめ征夷を報告している。
同年6月13日(794年7月14日)、『日本紀略』には「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」と短い記事のみあり、『日本後紀』に存在したはずの延暦13年の蝦夷征討の関係記事は散逸しているため、この戦いの具体的な経過や情況はほとんど不明である。9月28日(794年10月26日)には諸国の神社に奉幣して新京に遷ること、および蝦夷を征すことを祈願しているため、蝦夷征討は継続中であったと考えられる。
10月22日(794年11月18日)に長岡京から新京に遷都されると、10月28日(794年11月24日)に新京に到着した報告によると、戦闘終了時に近いとみられる10月下旬時点での官軍側の戦果が「斬首 457 級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処」であった。11月8日(794年12月4日)、新京は「平安京」と名付けられる。
延暦14年1月29日(795年2月23日)、弟麻呂は初めて見る平安京に凱旋して天皇に節刀を返上した。同年2月7日(795年3月2日)には征夷の功による叙位が行われたが詳細は伝わらず従四位下に進んだとみられる。2月19日(795年3月14日)に木工頭に任命された。
征夷大将軍
延暦二十年の征夷
延暦15年1月25日(796年3月9日)、田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命されると、同年10月27日(796年11月30日)には鎮守将軍も兼ねることになった。延暦16年11月5日(797年11月27日)、桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられたことで、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持った。桓武朝第三次蝦夷征討が実行されたのは3年後の延暦20年(801年)だが、田村麻呂がどのような準備をしていたかなどの記録は『日本後紀』に記載されていたと思われるものの、記載されている部分が欠落している。
延暦17年閏5月24日(798年7月12日)に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将になると、延暦19年11月6日(800年11月25日)に諸国に配した夷俘を検校するために派遣されている。この頃には肩書きが「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」となっていた。
延暦20年2月14日(801年3月31日)、田村麻呂が44歳のときに征夷大将軍として節刀を賜って平安京より出征する。軍勢は4万、軍監5人、軍曹 32 人であった。この征討は記録に乏しいが、9月27日(801年11月6日)に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり [ 原 、征討が終了していたことがうかがえる。また「討伏」という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている。
同年10月28日(801年12月7日)に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日(801年12月15日)に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を叙位された。12月には近衛中将に任命された。
胆沢城造営
延暦21年1月7日(802年2月12日)、田村麻呂が霊験があったことを奏上した陸奥国の3神に位階が加えられた。
同年1月9日(802年2月14日)、田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へと派遣された。
同年1月11日(802年2月16日)には、諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられている。かつては胆沢城の造営について、大墓公阿弖利爲らを降伏に追い込む契機となった出来事ではないかと指摘されてきた。
近年では和平交渉の結果、阿弖利爲らの正式降伏に向けてシナリオが定まり、それにともなって戦闘が全面的に終結したため、本格的な造営工事の着手が可能になったとの見方もされている。
同年1月20日(802年2月25日)に田村麻呂が度者(僧侶)を1人賜っている。理由は不明であるが、『類聚国史』によると田村麻呂を含めた8人が度者1人を一括して賜ったとある。戦乱による彼我の戦没者の冥福を祈るため、蝦夷の教化のためなどの説が推定されている。
大墓公阿弖利爲の降伏
延暦21年4月15日(802年5月19日)、胆沢城造営中に大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が種類500余人を率いて降伏してきたことが田村麻呂から平安京へと報告された。阿弖利爲らの根拠地はすでに征服されており、北方の蝦夷の族長もすでに服属していたため、大墓公阿弖利爲らは進退きわまっていたものと考えられる。
また、降伏のさいに古代中国の礼法である「面縛待命」がおこなわれた可能性を説く学者もいるが、史料にはそこまでは書かれておらず、和平交渉が重ねられた末の降伏と見ることも不当ではないため、厳しい礼法が実施されたとはやや考えがたい。
同年7月10日(802年8月11日)には田村麻呂が付き添い、夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が平安京に向かった。『日本紀略』には「田村麿来」とのみあり、阿弖利爲と母禮が「入京」したとは記されていない。また「夷大墓公二人並びに従ふ」とあることから、この時点では捕虜の扱いではなかったとも説かれる。
上記に関連して同年25日(802年8月26日)には平安京で百官が上表を奉って、蝦夷の平定を祝賀している。
同年8月13日(802年9月13日)、陸奥の奥地の賊の首領であることを理由に夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等の2人が斬られた。『日本紀略』には公卿会議でのやり取りが記されており、2人を斬るときに田村麻呂らが「この度は大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の願を聞き入れて胆沢へと帰し、2人の賊類を招いて取り込もうと思います」と申し入れた。
しかし公卿は執論して「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた梟帥を、田村麻呂らの主張通り陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、いわゆる虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対した。公卿の意見が受け容れられたことで、阿弖利爲と母禮が捉えられて河内国椙山で斬られた。
田村麻呂は公卿に対して阿弖利爲と母禮を故郷に返して、彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張したが、田村麻呂の意見が受け容れられることはなかった。史料がごくわずかで推測の域をでないが、朝威を重んじて軍事(蝦夷征討)の正当化にこだわった桓武天皇の意思によって阿弖利爲らを斬る決定がされたとの論がある。平安京で公卿会議に参加していることから、田村麻呂は河内国椙山に居なかったものと考えられる。
延暦22年3月6日(803年4月1日)、田村麻呂は造志波城使として彩帛50疋、綿300屯を賜って志波城造営のために陸奥国へと派遣された。
参議就任
陸奥国に胆沢城と志波城を築いたこともあり、延暦23年1月19日(804年3月4日)、桓武朝第四次蝦夷征討が計画されると、7ヵ国が糒1万4315斛・米9685斛を陸奥国小田郡中山柵に搬入するよう命じられている。これを受けて田村麻呂が1月28日(804年3月13日)に征夷大将軍に任命され、副将軍には百済教雲・佐伯社屋・道嶋御楯の3名が、そして、軍監8人・軍曹24人が任命されている。
同年5月15日(804年6月25日)、危急に備えて志波城と胆沢郡の間に1駅を、11月7日(804年12月12日)には栗原郡に3駅を置くことなどが決まり、朝廷も蝦夷征討に向けて準備を整えていく。
この頃は平安京にいた田村麻呂は、延暦23年5月に造西寺長官に任命されると、8月7日(804年9月14日)には桓武天皇の巡幸の際の仮宮殿・行宮設定のため和泉国・摂津国に派遣され、10月8日(804年11月13日)には和泉国藺生野(現在の大阪府岸和田市)にて行われた狩猟に随行して桓武天皇に物を献上し、綿200斤を賜っている。この頃の肩書きは「征夷大将軍従三位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」であった [44] 。
延暦24年6月23日(805年7月22日)、48歳の時に坂上氏出身者として初めてとなる参議に就任した。
同年10月19日(805年11月13日)、清水寺に寺印1面を賜ると、永く坂上氏の私寺とすることを認める太政官符が発符された。11月23日(805年12月17日)には坂本親王の加冠に列席して衣を賜った。
徳政相論
延暦24年12月7日(805年12月31日)、桓武天皇の勅命が中納言・藤原内麻呂に下り、殿中で天下の徳政について相論された。32歳の参議・藤原緒嗣が「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。
此の両事を停むれば百姓安んぜん」と桓武朝を象徴する軍事と造作、つまり蝦夷征討と造都事業の中止を論じた。反論の内容は伝わっていないものの65歳の参議・菅野真道は「異議を確執して、肯て聴かず」であった。桓武天皇は若い緒嗣の意見を善しとして認めたため、桓武朝による4度目の蝦夷征夷はここに中止となった。
参議となって半年後に起こった徳政相論の席に田村麻呂も参列していたものと考えられるが、桓武天皇が蝦夷征討の中止を決めたことから、田村麻呂は征夷大将軍として桓武朝第四次蝦夷征討での活躍の機会を失い、これより先は陸奥国へと赴くことはなかった。しかし本来は臨時職である征夷大将軍の称号を生涯に渡って身に帯び続けた。
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