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ここには、昨年、成田街道歩きの際、2度訪れていたのですが、城跡だと知らなかったので、城址の痕跡を求めて、訪ねました。京成線国府台駅から、江戸川沿いに少し進み、江戸川から分かれた真間川に沿って行くと北側の台地の樹木の中に弘法寺の高い石段が見えます。参道の石段を上がると、仁王門があり、右手の小高い土盛りの上に鐘楼堂が建っていて、そこから東方向に土塁が続いています。東側の広場先は崖になっている。北側にある祖師堂付近も小高くなっており、土塁の址のようです。広い境内を西に進むと真間道場があり、その近くに弘法寺古墳が残されている。(2016/01/10訪問) 永享3年(1454)に始まった永享の乱の余波で、下総では千葉氏一族が古河方と上杉方に分裂して抗争が勃発した。千田庄内の多胡・志摩両城に立て籠もった上杉方の千葉介胤直・胤宣及び千葉胤賢(千葉胤直の弟)らが、、古河方の千葉常輝(馬加康胤)、原胤房らに攻め滅ぼされ、その残党が千葉実胤・自胤(胤賢の子)を擁して市川城に拠って対抗したのである。そして、康正2年(1456)正月、足利成氏は「南図書助・梁田出羽守、その他大勢」の兵を派遣し、数度合戦して市川城を攻略し、千葉実胤・自胤らを武蔵へ追い落した。(東葛の中世城郭(千野原靖方))
2016.01.31
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これは、訪問したことになるのか?仲間と成田街道の最終回の下見をするため船橋駅で待ち合わせしていたが、早く着いたので近くにある船橋城址を見学しようと船橋中央卸売市場に向かった。市場の北側の入口で市場の案内人に聞いたら、船橋城?そんなの聞いたことがない。市場の中は年末が近い朝で仕入れをする人や一般の買い物客で混雑していた。東口の方へそんな広い市場の中を歩いて、樹木がある場所を探した。市場内に店を出している人から、その場所を伺って、今工事中で中には入れないよと言わたので、近づいてみると、まさに囲いのなかで工事車両が土を掘り返していた。多分「城ノ腰松」も切倒され、建物が建つのだろう。残念!写真は、東口付近にわずかに残る樹木です。(2015/12/19訪問)JR船橋市場町社宅の東入口付近から船橋中央卸売市場内の東口駐車場にかけた一帯100m四方が城跡であったと伝えられる。現在、駐車場の一角に、昭和18年(1943)に飛行機部品を製作していた工場の電気溶鉱炉爆発事故で死亡した従業員22名の霊を弔って建立された鎮魂碑と、平成10年(1998)10月建立の伝説「将門の松」という石碑が設置されているが、古くはこの地に植えられていた「城ノ腰松」といった。大日本帝国陸地測量部大正6年測量2万5千分の1之尺「船橋」地図をみると。海老川の東側。水田地帯の中に「城ノ腰松」と記された独立樹が載っている。標高1~4mの低地帯に囲まれた丘状の地に、かって土塁跡があったと伝える。一説に水城であったとか、土豪の館であったといわれるが、今、城跡を裏付けるような微証はない。(神奈川中世城郭図鑑)
2016.01.25
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八王子城の砂利の駐車場に着いた。すぐ近くにガイダンス施設、城跡管理棟がある。初め、北条氏照の墓にお詣りして、山頂の要害地区に登ろうと八王子城跡入口の方へ少し戻り、案内に従って、民家の間の道を北側の山の方に向かう。その場所は、階段を直登して、それほど広くない平坦部にあった。落城の際、奮戦した中山勘解由の孫が江戸時代に供養塔を建てられたそうだ。その奥にも家臣の思われる墓石が並んでした。そのから山道が続いているので、この道は要害地区へ向かう道と合流するだろうと判断し、枯葉の踏み跡の道を登り始めた。道には、マークがついていたのでかろうじて迷うことはなかったが、道は段々急な滑りやすい急坂で、いくつものピークをたどる。途中には三叉峠とか松姫古道とかの標識があるので、目的の方向に向かっていることは確か。最後は岩登りでやっと管理棟からの道に合流ある場所に着いた。標識には高丸、危険とあった。そこからは整備された道で、しばらくすると展望のきく平坦な道もあり、東屋のに着いた。そこから石段を登ると八王子神社、脇の道を登ると本跡のそれほど広くない平坦地である。松木曲輪からは高尾山方面の展望もきく。駐車場に戻り、御主殿跡に向かう。管理棟付近は、大きな樹木の剪定作業が行われていて曳橋は工事中と案内があり、大手門跡方面からは曳橋、石段の虎口へは、進入禁止で、工事中の曳橋の下を通り御主殿の滝を見て、御主殿跡に登った。そこは土塁で囲まれ、虎口は門があり、曲がった石段(間宮氏が織田信長に使いで行った際、安土城を見学したので、安土城を模して作ったと言われている)に続いている。城を訪問する際は、大手門から曳橋を渡って石段の虎口から御主殿にはいるのであろう。御主殿は広くて、今は、建物の礎石は埋められていてその位置に石が配置されている。前回訪問した時は、要害地区のみを見ただけだったので、今回はいろいろ見てガイドさんにも、少し話を聞け、ガイダンス施設でも情報を得て、満足の登城でした。(2015/12/17訪問)八王子城は、北条氏康の次男の居城であり、築城年代は天正10年代と考えられ、天正18年(1590)6月23日に、豊臣秀吉の小田原攻めの一環として、前田利家・上杉景勝らの北国勢に攻められ落城した。北条氏康は、天文15年(1546)の河越夜戦を経て、天文21年に関東管領上杉憲政を擁する越後長尾氏に対抗するために、上杉氏の武蔵守護代を務めた大石氏を次男氏照に継がせ、入間・多摩群を中心とする西多摩地域を支配させることにした。氏照は、大石氏の滝山城を居城として、この地域の本格的経営に乗り出す。滝山入城も時期は、永禄2~3年(1559~60)のことである。その後、氏照は、居城を新しく築いた八王子城に移すことになるが、その時期は天正15年末と推定される。八王子築城は、豊臣秀吉の来攻に備えるためであった。築城開始の時期は、早くても天正12年だと思われる。この年、北条氏は秀吉の来攻を意識そ始めて、小田原城を始め、武蔵・相模・伊豆の諸城の修築を開始するからである。そして、天正14年末、秀吉が「関東・奥惣無事」の扱いを徳川家康に命じたことが、諸大名に伝えられると、北条氏なにわかに緊張を高めていく。年末から翌15年にかけて領国内の総動員体制を固めるとともに、各支城の普請を始める。天正15年の正月からは、本城の小田原城の大改修工事が始まり、氏照の小田原に詰めていて、その監督に掛りきりだったので、八王子城の方は、重臣の狩野一庵に任せて工事を続けていた。天正16年正月になっても、大工その他の職人衆に、八王子城の普請を特命していることから見ても、築城工事は急ピッチで進められた。(関東の関東の名城を歩く(南関東編))
2016.01.22
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箱根板橋駅から国道1号線を上板橋の交差点まで進み、そこからHILL富士山の高級住宅街への急な急な坂道を登る。昔の道が早川沿いだったか分からないが、富士山陣城のある山林の斜面に建てられた住宅のようだ。住宅街の坂道を奥へ進むと、城域の山林へ入れた。城址は山林ながら、今の時期は踏み跡もあり、土塁・郭址・空堀も確認することが出来た。住宅地の山際の道の北側(神奈川中世城郭図鑑の方位は違っている)の崖の上が城址のようだ。3郭は低木や草が茂っていたが、周りを進むと一段高い2郭に着き奥には土塁がある。この土塁はかなり低くなっていて、難なく越えられた。Aの虎口近くは、大きな木が切られ横たわっていて、進むにな苦労した。1郭の境界にも土塁があり、1郭を抜けると一段低い位置の祠のある開けた斜面があり、北側には空堀Cが認められ、その下は帯曲輪状の蜜柑畠。1郭の南側も一段低い平地があり、給水場の設備がある。(2015/12/10訪問)小田原の役に際して後北条軍が砦を築いていたが、細川忠興が攻略して陣城とした。小田原城惣構の板橋口まで1キロ、水之尾口までは0.6キロの距離にあって、石垣山城とは早川をはさんで向かい合っており、包囲陣の中でも要となる場所だったことが分かる。小田原城攻囲戦の陣城で遺構をよく残しているのは、石垣山城と富士山陣城くらいなので、たいへん貴重な城跡である。(神奈川中世城郭図鑑)
2016.01.18
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御殿場線の下曾我駅から城前寺までは、少し回り道をしたが近い。寺への入口は閉鎖されていて、入口が分からない。裏の保育園への入口が寺の人の車庫で、中へ入ると園児が楽しく遊んでいた、寺の裏手に曾我兄弟の墓があった。この付近が城域のようだ。この墓の五輪塔がある築山が曾我城の土塁であるという。寺への入口が閉鎖されていたのは、境内が保育園の遊び場で園児が勝手に外に出ないようするためのようだ。城前寺から東へ約100mの畑の中に曾我城址の碑と物見塚古墳の碑があった。この付近が城の中心部なのだろうか。しかし、城址と云うには、台地の上であるが、防御の地形は1つもない。館があったのであろうか。中世の城なら、そこから北にある山に構築したと思われる。城址の碑から西側の民家の間の道を進むと、今や「蜜柑」の収穫時期で農家の人達は忙しそうであった。宗我神社に行った。広くて立派な神社である。今は境内の紅葉や銀杏の紅葉が美しい。そこから駅方面への参道は広い坂道で、途中で富士山を望むことが出来た。(2015/12/10訪問)曾我兄弟の養父・曾我祐信の屋敷跡と伝える。その子孫・信正に至り、永禄2年(1559)、後北条氏に滅ぼされたと「新編相模風土記稿」は記すが、関連する史料はない。鎌倉期のいわゆる方形館のような形跡は認められず、丘陵上の地形や古墳を活用して粗放な「城」があったとすれば、室町・戦国期の陣跡だった可能性も考えられる。(神奈川中世城郭図鑑)
2016.01.13
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足柄城訪問の後に、足柄峠から相模側に至る尾根道に後北条氏により設けられた砦があり、今回は、古楢尾砦と阿弥陀尾砦を訪ねた。これらの砦の先の尾根には、丹土尾砦、山伏平堀切があり、矢倉岳を通って、浜居場城があるようだが、今回は割愛した。山伏平、浜居場城には以前行ったことがある。足柄万葉公園の駐車場から万葉公園を進む(すぐ近くに休憩所があり「通り尾砦」とあった。ここも砦跡なのだろうか)。公園の道は一度、車道のカーブの位置におり、更にさきに進むと意外に近くにベンチがあり、小さな「古楢尾砦」の案内があった。良く見ると土塁がカーブしてあり、窪んだ平地がに砦があったのだろうか。堀切などはかなり平坦化されているようだ。そこから先に進むと「万葉公園の頂上」のピークがあり、山伏平への道に下りる道が分岐しており、尾根道を更に進む。しばらくすると、山林のピークがあり、道は左に下って行く。しばらく降りて、この道は谷へどんどん下りるので、地形から見て、阿弥陀尾峠を通り過ぎたようだと気づき、戻って良く観察すると、右に分岐する踏み跡があり、これが丹土尾砦に向う尾根道のようだ。そうすると、ここが「阿弥陀尾砦」だ。平らであるが、樹木が茂っていて、表示もないので、見落としたようだ。谷方面への道は箱根足柄トレイルと案内があったので、山道を走る人のために整備されているようだ。(2015/12/04訪問)現在の足柄道は、足柄城を抜けるとすぐ斜面を下って麓の地蔵堂に達するが、中世では現在の県境に沿う尾根を北上して阿弥陀砦付近を通っていた。さらに東に進路を変えて浜居場を経由し、河村城に近い南足柄市内山付近にて平地に達する古道も多く利用された。この尾根筋や、谷峨方面に枝分かれする尾根に城郭遺構が点在し、全体として足柄峠方面を防衛していたのが見て取れる。(神奈川中世城郭図鑑)
2016.01.07
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明けましておめでとうございます。今年は、穏やかに年が明けました。今年は、以前訪問した所も含め、近くの城址を足を使って訪ねたいと思っています。前日に雨が降り、12月なので、足柄峠への車道が凍結していないか、心配しながら出発する。神奈川県側から右手に紅葉の矢倉岳を見ながら整備された坂道を登る。足柄峠から石段を登ると、1郭であるが、通勤時間の渋滞を避けるため、早朝に出発したので、まだ、太陽が昇って間もない時間で、気温が低い上に寒風が吹き寒い事この上なし。石碑の奥の富士山は、頂上付近が雲に覆われていた。1郭は起伏に富んだ芝の丘で、東側の樹木の中に「お玉ヶ池」があり、この時は水がなかった。昨日の雨は余り降らなかったのか。空堀を隔てて2郭で、1郭より、やや低い。富士山がよく見える。東側に下りの山道があり、その下の方は、蔵屋敷。3郭の間も空堀があり、3郭は方形であるがBへは屈曲していて、馬出かも知れない説明がある。Bの南西下に保塁Cと先は車道向うに竪堀や尾根Dがあるとのことであるが、カヤが茂っていて、近ずく事はできかかった。4郭の遊歩道脇に井戸址があった。5郭の間の空堀は想像以上に大きい。その空堀に下りて、車道の所まで、行って見たが、まだ全部見て回ることはやめて引き返した。寒いし。(2015/12/04訪問)足柄城は、古来より箱根と並んで関東の玄関口であった足柄峠に位置し、静岡県小山町側、すなわち駿河方面に延びる最大で幅広な尾根上を中心に遺構を展開している。築城時期は定かではないが、昌泰2年(899)には関所が設けられ、中世でも建武2年(1335)に足利尊氏と朝廷軍との戦いが山麓の小山町竹之下付近で行われた(竹之下合戦)。戦国期の文献では天文24年(1555)が初見とされ、武田氏との緊張が高まった永禄12年(1568)以降、たびたび普請が行われたのを確認できる。特に元亀2年(1571)に駿河側(静岡県御殿場市)にあって、後北条側の前線基地であった深沢城を武田側に奪取されて後は当城が最前線拠点となり、後北条氏は河村・足柄両城の普請を指示し、極度に緊張した状況にあったことがわかる。武田勝頼時代の天正7年(1579)にも、武田氏が上杉氏と甲越同盟を結んだため再び緊張し、後北条氏は武田氏が織田氏によって滅ぼされた後まで、足柄城付近の通行を厳しく制限した。武田氏に代わって駿河の主となった徳川氏とは天正壬午の乱以後は和睦するが、徳川氏が豊臣氏に屈服すると事態は悪化し、豊臣氏との緊張が高まった天正15年(1587)以降は、足柄城は勿論、後北条領内の諸城郭が盛んに普請され、滅亡寸前の天正18年(1590)まで続けられたようだ。今日見る足柄城の姿も後北条氏最末期のものであろう。(神奈川中世城郭図鑑)
2016.01.04
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