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その城は2回訪問した。幹線道路の6号線(水戸街道)の根木内交差点から東側に進むと根木内公園の駐車場があるので、訪問しやすい城である。入口はR57から坂道を登れば樹木の茂る城址に入る。中心は平地の郭跡で、土塁で囲まれている。公園であるが、城の遺構、空堀、虎口、土塁などを見ることができる。西側は水戸街道に切れ落ちている。東側に空堀跡を降りていくと、現在は池となっている。<地図>東西約200m・南北約300mの主体部は、北北西へ突き出た台地の先端にある。南端の外郭部との境には旧水戸街道が通る。なお戦後の国道敷設と宅地化により、主体部の約三分の二が消滅した。<遺構>旧陸軍や1957年製の測量図によれば、主体部は3~4つの郭で構成されていた。南端中央部の旧坂を登ると大手の虎口である。II郭入口で屈曲させた道は北進し、櫓台状の施設と横に見ながら枡形虎口を通ってI郭に到る。随所で堀・土塁を曲げ、横矢を懸けるなど、技巧を凝らした造りである。したがってI郭で土塁を切る道は粗放に過ぎる。近年調査された旧水戸街道の南方150mの同じ台地上からは、折れを持った堀跡が検出され、出土陶磁器は主体部 と同様の年代幅を持つ(根木内遺跡)。この外郭部の発見によって、より大規模な城郭だったことが判明した。<歴史>戦国期の高城氏が広域領主化する過程で、台地奥の栗ヶ沢から根木内、さらに小金城へと本拠を移動したとの伝承がある。確証は得られないものの、水陸流通路の把握という点からすれば積極的に解釈すべきかもしれない。なお出土陶磁器の年代観は、小金城とほぼ同じ、15世紀中頃から16世紀中頃である。 <関連部将>高城氏</関連部将> <出典>房総の城郭(千葉城郭研究会)</出典>
2023.01.28
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根戸城のある場所は柏市と我孫子市だ接する位置にあり、JR北柏駅から手賀沼方面に行くと手賀沼沿岸の低地からやや高い位置に宅地化されていない森があり、城の遺構はその樹木の中に眠っている。郭跡の平地や空堀などを見ることができる。現地の案内板には根戸城跡・金塚古墳とあるので、古くは古墳があって、そのに城が構築されたのであろう。<地図>根戸城は、高田支谷が東方の根戸で交わり、やがて端部へと落ちるあたりの北側標高16mの台地突端部にある。したがって地勢的には松ケ崎城の約1キロ下流の位置にあり、さらに約一キロ先の沼を隔てた南東方向対岸に、戸張城を 遠望できる要衝の地点にあるといえる。<遺構>根戸城の中核部分である台地突端部の遺構は、直線連郭式のもので、保存のよい土塁と空堀によって、その一郭が現存している。犬走りも南側にみることができる。城郭の遺構のある荒迫の北側には、宮前・上屋敷・合田・法花坊、さらに北側には、西から御蔵(大倉)屋敷・中馬場・北ノ内という城郭に関連ある地名が含まれており、ことに北ノ内には、妙見大明神を祀った北星神社がある。上屋敷の畑からは数多くの鉱滓が発見されている。『東葛飾郡誌』にも、中馬場の根戸大坂の旧国道を明治23年(1890)に修築した時、円形で直径1.5mほどの抜け穴が発見されたとある。また、「御蔵下」の西には、「殿様の井」という所があって、このあたりに根戸城の糧米などを貯蔵したという伝承がある。このように、きわめて豊富な伝承と中世城郭に関連する諸要件があることから、これまでも城域を旧国道まで拡大して考えるべきかどうかという議論があった。<歴史>城主と歴史について『東葛飾郡誌』では、相馬胤村次郎左衛門の三子三郎胤光が根戸氏を称しているので、彼が城主ではないかとしている。さらに『東葛飾郡誌』とその根本資料である『富勢村誌』は、城山の西南麓の字花輪下から柏の堀の内新田に通ずる道に、「道濯橋」の名称の橋と字名があることと、これに加えて、9キロ南に酒井根村があり、この地で有名な太田道灌と千葉孝胤の文明10年(1478)12二月の合戦があったことからか、太田道灌の築城説が地元にあると記している。『東葛飾郡誌』はまた、城内にある塚を、道灌の臣の墳墓としているが、『富勢村誌』では古墳であるとしている。 <関連部将></関連部将> <出典>日本城郭大系</出典>
2023.01.21
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岩富城は小田原合戦で北条氏が滅んだあと、玉縄城主だった北条氏勝が入った城と記憶している。R22(千葉八街横芝線)は城の下を走っているが、城のある台地を貫く道があり、そこから城域に行くことができる。城は土塁で囲まれた感じの平地で今は畑になっている。台地縁のR22と鹿島川を見下ろす場所に土塁と祠がある。<地図>千葉市土気地区を水源とし、印旛沼に注ぐ鹿島川と、その支流弥富川との合流点を眼下に望む半島状台地に 立地する。東方には馬牧(近世の柳沢牧・小間子牧)が広がっていた。<遺構>半島状台地の先端にあるI郭が主郭であり、周囲に土塁イがめぐる。台地続きとなる南側と、虎口口のある東側には空堀があるが、虎口の前面は食い違いとなっている。II郭は、当城跡を南北に縦貫する古街道(佐倉と東金を結石)に沿った、テラス状の削平地からなり、家臣団の屋敷地があったと考えられる。南側にはクランク状に折れ曲がった土塁ハで守られる。Ⅲ郭は土塁二Iホ・へによって囲まれたほぼ正方形の曲輪である。小字名は「本宿」であり、城主の居館であったと考えられる。その南側には城下町が設けられていたが(付近は「町方」と呼ばれる)、城主の菩提寺卜と鎮守チが街道を挟んで向き合っており、計画的に配置されたと考えられる。この部分が「外郭部」である。<歴史>当地は平安末期以来、両総平氏の白井氏の支配下にあった。当城跡からは弘安10年(1276)の板碑が 出土している。享徳4年(1455)に起きた享徳の大乱では原氏が侵攻し、以後当城を本拠とした。この系統を「弥富原氏」という。天正18年(1590)、原氏が滅亡すると、徳川家臣となった北条氏勝が一万石で入封した。しかし、慶長18年(1613)には養子の氏重が転封され、廃城となった。 <関連部将>原左衛門尉景広</関連部将> <出典>房総の城郭(千葉城郭研究会)</出典>
2023.01.14
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館山城は館山湾を見下ろす丘陵にあった。JR内房線の館山駅からR410を南下し、汐入川を渡るあたりで、R257に入ってまもなく館山市立博物館もある城山公園につく。城跡は丘陵上にあるので、木立のある散策路をぐるりと歩きながら楽しむことができる。残念ながら里見氏時代の城の遺構はほとんど残っていない。公園内にある八犬伝博物館には滝川馬琴の里見八犬伝に関する展示がある。江戸時代に書かれた室町時代の徳川政権を憚った架空の小説に関する史跡(?)がこの付近に点在するのはなぜであろうか。<地図>館山平野の南西部、波静かな良港として知られる館山湾を見下ろす独立丘陵を主体部に、その周囲約二キロを城域とする。房総里見氏最後の本城である。中世以前の館山平野は、海岸線がところによっては現在より二、三百mも内陸に入り込んでおり、そのため城域の外縁部西・北端は直接海に面していたと考えられる。また城下に位置する柏崎浦・沼といった集落は、館山湾に浮かぶ高の島を天然の防波堤とすることで、館山湾に向かってはやくから開けていた湊集落だった。さらに城域の東部に接して流れる汐入川の河口は、中世以前大きく湾入しており、その河口部から川沿いの現上真倉あたりまでが、里見氏以前から栄えていた真倉湊とそれに伴う町場だったと推測される。<遺構>当城は、主体部にあたる丘陵部をはじめその周囲も後世の改変が甚だしく、往時を復元するには相当の困難が伴う。まず現在模擬天守が建つ丘陵部は、近世城郭的呼称でいえば本丸・ニノ丸に相当する部分である。ただし山頂に形成された平坦面の大部分は、太平洋戦争の最中、高角砲陣地構築のために一〇m近くも削りとられた ことによってできたもので、それ以前には規模の大きな建造物が建てられるような面は存在しなかったという。一方、城の中心的施設が存在していた面(郭)と考えられるのは、その一段下がったところ、現在茶室があるあたりで、ここには「千畳敷」という地名が残されている。またその下の南斜面(「御厩下」)にも何段かにわたって平坦部が築かれているが、ここからは近年の発掘調査によって、いくつかの建造物跡や、中世末から近世初頭にかけての陶磁器などが出土している 一方丘陵の東斜面中腹の現在クジャク園あたりは「新御殿跡」という地名が残されるが、果たしてここにどのような施設が存在したのか明確ではない。館山城の大規模遺構として近年まで明瞭に確認できたものは、丘陵の周囲を取り巻くように穿たれた堀跡である。これは関ヶ原合戦後里見領となった常陸鹿島の住民を動員して掘削したと伝えられる堀で、そのためか「鹿島堀」と地元では伝承されている。ただこの「鹿島堀」の範囲にしても全体像は明らかではなく、しかも遺構の主要部分は、近年の城跡周辺の宅地化によって消滅した。ところで、江戸時代中期、この地を訪れた寛政の三奇人の一人として知られる高山彦九郎の踏査記録によれば、城の南に位置する現在の見留川およびその周辺湿地帯(沼)の水源と、北から東に流れる長須賀川(汐入川)が直接接続していた らしいことがうかがえる。とすれば、館山城は、北西部の新井浦・柏崎浦という海岸部を合わせて、外郭をすべてぐるりと水系で囲まれた、いわば島状の地に立地した城だったことも想定される。 <歴史>館山城のことが史料上から確認されるのは、今のところ、天正一〇年前後に出された里見義頼書状(「上野家文書」)が最初であり、またこの文書から、そのころの館山城は、岡本城の支城の一つとして機能していたことがわかる。そして天正一九年(一五九一)まで里見氏は岡本城にあったことが確認されるので(「妙本寺文書」)、館山城へ里見氏が本拠を移しだのはそれ以後のことである。この本拠地移転の理由については諸説ある。ただ移転の時期が、小田原北条氏の 滅亡によって戦国の争乱に終始符がうたれ、里見氏が中央政権下の一大名として歩まざるを得なかったときに重なることは、このことが里見氏の近世大名としての生き残りをかけた選択だったことをうかがわせる。またその際、それまで当城郭を指す呼称 として使用されていた「館山」を、新たに作る城下の広域地名として採用したらしい。その後里見氏は、館山城下に家臣団や商工業者を集住させることで城下町の都市基盤整備をすすめ、また特に港湾都市的な発展をみせていた館山湾の経済活動に対しては、町代官を置いて直接管理するとともに、特定の商人に大きな権限を与え、その見返りとして利権の一部を吸いあげ、さらには支配の一端をも担わせるなどの諸政策を行っている(「岩崎文書」)。またその際、館山城そのものにも里見氏本城として相応しいような工事がなされたようで、以後館山城は、軍事的機能を優先させた城郭から、領国支配の拠点としての城郭へと面目を一新したらしい。その一端が城域の周囲を取り巻く堀(鹿島堀)の掘削であり、また根古屋地名一帯に一族・重臣屋敷などを建設することだったと思われる。なお根古屋付近は、江戸時代末期に 稲葉氏の館山藩の政庁が置かれたところでもあり、現在もその遺構の一部は確認できる。 <関連部将>里見氏</関連部将> <出典>房総の城郭(千葉城郭研究会)</出典>
2023.01.07
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