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2023.08.20
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カテゴリ: カテゴリ未分類

白川城は、阿武隈川と南湖の中間の丘陵にある。実は、白河城に行くつもりでカーナビに設定して着いた
ところが白川城であった。小峰白河城は近世の城で、規模も大きいはずで、城跡は林の中に広場があるだけ の場所で、小峰白河城とな違うことがすぐ分かった。戦国時代に白河結城氏が勢力をもっていたことは
知っていたので、ここがその本拠であったのかと納得した。
<地図>
白河市街地より東へ3キロ、阿武隈川右岸に標高400mほどの丘陵が連なる。その丘陵地を利用して、白川城 は築かれておる。その広さ、約36.6ヘクタールにおよぶ。 
<遺構>
昭和63年福島県教育委員会を主体とした「福島県の中世城館」の調査により、白川城跡の縄張図が作成
される。さらに、城館周辺部における開発計画などに対応するため、平成7年(1995)には中世城郭研究会の 佐伯正廣により、広範囲におよぶ詳細な縄張図が作成され、白川城の基本資料となっている。丘陵西側の (中山地区)や谷部(下門入地区)にかけては、丘陵斜面部に階段状に配置された平場や堀切が確認できる。 御本城山から北西にかけては、北西に開く谷部とこの谷部の三方を囲む丘陵地が存在する(藤沢山地区)。 特に、北側の丘陵頂上部の周囲には、部分的ではあるが斜面部に構築された階段状の平場が存在する。また、 谷部の奥は、時宗の寺院である「小峰寺」の旧所在地と推定される場所である。御本城山の東側(堤ヶ入地区) を挟んだ東にも、遺構のまとまりが見られる。北に開く谷部である美濃輪地区を囲むように丘陵が存在し、 それぞれの丘陵頂上部には平場が、丘陵斜面部に小規模な平場が配置されている。西側丘陵頂上部の鐘撞き堂 山、東側の搦目山地区頂上部にも比較的面積の広い平場が存在し、城館としての大きなまとまりをみてとることが できる。藤沢山にも、丘陵斜面部に小規模な平場の存在が確認できる。南の押さえとして位置付けがなされている。 平成22年から26年度にかけて実施された確認調査により、白川城跡の変遷が明かとなった。御本城山地区に おいては、丘陵頂上部である1号平場、その北側の2号平場を中心に14世紀を中心とする遺構・遺物が確認され、 南北朝時代における城館の中心が、御本城山地区であったと判断された。出土遺物中には、威信財と考えられる 青磁の酒海壺蓋や三足水盤が存在している。15世紀から16世紀の前半代にかけては、御本城山地区の遺構は 減少する。いっぽう、藤沢地区の「小峰寺跡」の伝承地においては、寺院跡の存在は確認できなかったものの、 遺構・遺物の存在を確認できた。室町期以降の出土遺物は、城域東部の搦目地区・美濃輪地区に多い傾向があり、 城館の中心が東部の搦目山地区に移動している可能性がある。御本城山地区周辺では、16世紀後半頃に南北朝期  の遺構面を覆う形で大規模な整地がなされたことが確認でき、その整地層上面に伴う遺構・遺物が確認されている。 同様な整地は藤沢山地区中央部・北部等でも確認され、さらに共通した特徴を有する土師質土器が、藤沢山地区 北部・中山地区、搦目山地区等でも出土している。この時期、城域は硬派にに広がり、城域全体で大規模な改修 などが行われた可能性が考えられる。 

<歴史>
下総結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、文治5年(1189)に源頼朝の「奥州合戦」 において戦功をあげ、白河荘を与えられたる。朝光の孫で、白河結城氏の祖とされる祐広は、13世紀後半に 
白河に下向し、白川城を本拠としたといわれる。祐広の子宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、 新田義貞らと鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は、結城家の「惣領」に命じられ、 のち天皇に反旗を翻した足利尊氏を破り、天皇から「公家の宝」とまで賞賛されている。南北朝内乱期を へて、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有し、福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、 その職権を背景に、室町時代には奥州南部から北関東にまで勢力を伸ばし、室町幕府から南奥の雄と認識される に至った。現在の地が、白河結城氏の本拠であることは、すでに江戸時代から認識されていたようでで、 文化2年(1805)編纂の「白河風土記」の記載や、城館の北東部の断崖に結城宗広・朝光の忠烈を刻んだ 「感忠銘」碑の存在から伺うことができる。こうした江戸期の認識あ近代以降も失われることなく、城館の保存 が図られ、昭和12年(1937)には、御本城山に「忠烈碑」や結城氏を祀った祠などが建設されている。さらに、 昭和28年(1953)には福島県の史跡に指定された。 
  <関連部将>結城祐広、宗広ほか</関連部将>
   <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>





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最終更新日  2023.08.20 07:03:48
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