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2023.11.11
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カテゴリ: カテゴリ未分類

久野城も東海道に関連して構築されたのであろう。民家が点在するような道を行くと案内板のある駐車場があり、その上の 丘陵に城が展開する。城の規模はそれほど大きくないが、城の遺構が整備されている。西側の低地には沖ノ川の支流が流れて いる。東名高速道路から久野城跡の看板を見ることができる。
久野城の位置は守護所のあった見付宿と掛川宿の中間で、東海道より北側にある南方向に伸びた舌状の低丘陵地に築城されている 平山城である。本丸から見ると近世東海道をよく見渡すことができ。戦国期の東海道も同位置にあったと想定され、東海道を抑える ための軍事的に重要な場所であったことがよくわかる。また、城の東側には東海道から真言宗の古刹である油山寺に行くための油山寺 道があり、この油山寺道から分かれて宇刈から森町方面にいくための道も存在していたといわれている。城の北側を除いた周辺には 低湿地が広がり、自然の要害の地に築城されていたこと、北側の尾根筋も痩せており、守るに好都合な場所にあることもよくわかる 立地条件を備えている。 
<遺構>
久野城の築城は、久野氏系図によると宗隆の代である明応年間(1492~1501)、あるいは永正年間(1504~1521)とされていた が、本丸の発掘調査により小規模な掘立柱建物とともに、15世紀末~16世紀初頭の土器・陶磁器が出土したことから、系図の記載通り 明応年間の築城であることが判明した。この時期の出土遺物は本丸に限られるものの、北の丸と二の丸ぐらいまでの丘陵頂部を中心 とする範囲の小規模な平山城であったと考えられる。土器・陶磁器などの遺物の出土量がまとまっていることから、城主の居住場所 としての館(山城型居館)も本丸を中心として、城内に置かれていたと考えられる。このほか二の丸西側の土塁や、本丸東側の小規模 な堀切などもこの時期による遺構と見られる。16世紀前葉になると久野氏は今川氏の氏配下に入るといわれているが、この頃の城の 姿はよくわからない。おそらく、築城当初とさほど変わらない規模や構造であったと思われる。永禄12年(1569)になると、桶狭間 の戦いにより今川義元が織田信長に討ち取られたことにより、勢力を失いつつあった今川氏真は、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康 により挟撃され、氏真は掛川城に立て籠もるも開城し戦国今川氏はここに滅んだ。この時の久野城主であった久野宗能は、今川氏との 関係の深い家臣を粛清し、以後家康家臣として活躍するようになった。そして、武田信玄、勝頼親子の遠江侵攻戦に対抗すべく、城の 規模を拡大させたと考えられる。この時の宗能の改修としては、本丸の北斜面に大規模な横堀と土塁を設けて防備を固めるとともに、 
さらに北の丸の北側に続く尾根筋を大堀切により分断し、北の曲輪群の整備を進めて、城の弱点である北側からの敵の侵入を防いだ 構造に大改修したと考えられる。大堀切については現在道路や宅地として削平されているが、道路下に堀切の痕跡が残っていると 思われる。また、南の丸下層から掘立柱建物が発掘調査で確認されていることから、この時に南の丸という山麓部の曲輪も整備して、 山上の居住施設(館)が山麓に移されたと考えられる。豊臣家臣である松下之綱が入城すると、本丸周辺部からの瓦の出土から、
織豊系城郭として瓦葺建物が建てられたことが発掘調査で判明した。本丸周辺部から城郭に使われた軒瓦、鯱瓦、桐文の施された 鬼瓦が出土したため、本丸や櫓や門などの瓦葺建物があったことは確実で、地山削り出しによる小型の櫓台や、天守台の周辺部に めぐらされたと思われる雨落溝といった遺構も発見された。しかしながら、これらの遺構については、石垣をともなう天守台や 櫓台としては検出されていないため、瓦葺建物の遺構とすべきか検討を要する。また、この時期、東の丸に礎石建物の遺構、油山寺 道に面した大手に木柵による枡形虎口、南の丸にも整地土が確認できるため、石垣はないものの本丸に何らかの瓦葺建物、本丸南側 の高見に物見ないし櫓とみられる規模の大きな掘立柱建物、南の丸や東の丸の御殿としての礎石建物、東側に城の玄関としての 枡形虎口が造られ、織豊系城郭の特徴がみられる城に改修されたことが発掘調査で明かとなった。石垣が確認できない理由は、横須賀 城天守台のような低い石垣の天守台で、近世初頭(北条氏重段階)の破城、ないし近代の開墾などで壊された可能性、さらに破城 により埋められた本丸虎口などに石垣があった可能性も指摘しておきたい。また、城の東、南、西側の低湿地は、深さ2~3m、幅 30mの範囲で水堀状に掘削していることも発掘調査で確認できたが、曲輪の改革ラインを保護するための石垣を使用した水堀とは なっていなかった。この後、城の大規模な改修が認められるのは、北条氏重によるものである。まず、豊臣政権のシンボルであった 本丸の瓦葺建物を解体し、本丸周辺部の斜面に破棄している。低湿地の堀部分の土をわざわざ使い、破城とでもいえるような本丸全体 
を埋め立てていたことが発掘調査により確認された。この時、天守台や虎口部分の石垣は解体され、いずれかに持ち去られたか、破壊 し埋め立てられたとも考えられる。このように軍事的に重要な丘陵部の曲輪は破棄し、更地にしていることが確認された。つまり、 織豊政権時代の象徴である瓦葺建物(天守か)を破却することにより、徳川政権に代わったことを示したとみられる。代わりに山麓部 の南の丸と大手、その間の水堀部分を埋め立てて南の丸北曲輪を造成し、大手、南の丸北、南の丸一帯を御殿とした。さらに西の丸 や主税屋敷なども一ぶ堀部分を埋め立て拡張し、家臣団の屋敷地として整備したことも判明した。氏重段階の瓦は大手からしか出土 していないため瓦葺建物は大手門のみであったと思われる。氏重時代の瓦は少なく、この時期の建物のほとんどは瓦葺建物ではなかった ことも確認されている。さらに、石垣も確認できないことから、近世城郭としての石垣作づくりの城でなかったことも判明した。 このように氏重段階の城の姿は、大坂の陣により豊臣秀頼が滅び豊臣政権に脅威がなくなったことにより、軍事的な城としての性格 から、城主や家臣の居住地としての城として変化したことが確認されたのである。しかしながら、櫓門とみられる大手門を除いて、 近世城郭としての特徴である石垣をともなう瓦葺建物である天守や櫓、水堀などについては採用されない点、久野城の特性として 指摘される。構造としては城と言うより陣屋規模であったと思われる。 
<歴史>
久野城の歴代城主のうち最初も城主とされるのは、久野氏系図によるところ久野宗隆とされ、以後久野宗能まで15世紀後葉 より16世紀後葉の100年間、久野氏の居城となっていた。久野氏の家系図によると、藤原南家の一族である工藤氏の末裔とされ、 文献史料によると鎌倉時代後期まで存在を遡ることができる。室町時代の久野氏の動向はよくわからないが、駿河今川氏の家臣に なっていた時期も考えられる。戦国時代になると初代城主として宗隆が登場する。その後、久野氏八代の城主が認められ、天正18年 
(1590)、豊臣秀吉の関東・奥州平定戦により後北条氏が小田原城落城により滅亡した後、秀吉が徳川家康に関東国替を命じると、 家康家臣の久野宗能も千葉佐貫へ移封となった。代わりに秀吉から東海道筋の支配を任された秀次付の家臣として、松下之綱が久野 城主となった。ちなみに、之綱は足軽時代に秀吉が初めて家臣となった人物として伝承されている。今まで無名の之綱が突如大名と しての久野城主に抜擢された事実から見ると、この伝承も事実であった可能性が高い。之綱死去の後、家督を継いだ重綱は家康家臣 として関ヶ原合戦に東軍として活躍したため、引き続き城主としてとどまることが許される。ところが慶長8年(1603)城の石垣工事 などを幕府に許可無く行ったとして、常陸国小張へ減封のうえ蟄居の処分を受けた。おそらく徳川幕府が行った関ヶ原合戦後の東海道 筋における豊臣大名の国替え政策にともなうもので、無許可の石垣工事は口実に過ぎなかったのであろう。重綱後は久野宗能がふたたび 隠居城として入城するが、慶長14年(1609)病没し、孫の宗成が家督を継ぎ城主となった。宗成は元和5年(1619)、紀伊城主となった 徳川頼宣の付家老として、伊勢田丸に移封となった。以後歴代久野宗家は幕末まで伊勢田丸を領した。宗成の代わりに徳川家康の 異母妹多却姫の息子という家康の甥にあたり、玉縄北条氏の後を継いだ北条氏重が城主となった。氏重も寛永17年(1640)下総関宿 に移封となり、横須賀藩あずかりとなった。ちなみに、氏重の墓はその後掛川藩主となり、掛川城で没したことから、家臣により 袋井市上嶽寺に改葬され、今でも墓所が残っている。正保元年(1644)廃城となった。廃城となった理由は定かではないが、周囲が 低湿地であったため、城下町を形成することができなかったとされているが、加えて徳川幕府が安定したことにより東海道を監視 するための戦略的な目的は失われたことによると考えられる。 
 <関連部将>久野氏、松下氏、北条氏重</関連部将>
  <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>





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最終更新日  2023.11.11 05:20:48
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