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ちょっと早いけど今度の日曜日、12月1日は第1アドベントと言って、ドイツではこの日からクリスマスの飾り付けが始まります。(商店などではもっと早くからデコレーションされていますが)クリスマスの日から数えて4週間前の日曜日から、日曜日ごとに第1、第2~第4アドベントと呼ばれています。私はクリスチャンではないので、宗教的ないわれはよくわからないのですが、きっと意味があるのでしょうね。(どなたかご存知だったら教えてくださいね) クリスマスの飾りといえばまずはクリスマスツリーですが、ドイツではクリスマスツリーはクリスマスイブに飾り付けをするのが、昔からの習慣だったようですが、今では小さい子供がいる家などでは、もっと早くから飾ることもあるようです。(アメリカの影響もあると友人は言っていました) あとびっくりなのはクリスマスツリーのもみの木が本物なこと!(もちろん日本と同じような作り物のものも売られていますが)噂では聞いていたけれど、お父さんらしき人がもみの木をずるずる引っ張って運んでいる姿を見たときはいいなぁと思いました!そしてもっと驚いたのは、今でももみの木に本物のキャンドルを飾って、火を灯してしまうこと!!!!友人のお宅でそれを見たときは、本当に感動したっ!!!!でも小火もたまにあるらしい… あとは4本のキャンドルが立てられた、リースのような飾りがあって、アドベントごとに一本ずつ火が灯されていきます。これはテーブルとか、窓辺に飾られている事もあるし、天井からリボンでシャンデリアのように吊るされていることもあります。 全体的に見て、ドイツのクリスマスデコレーションはとてもシックです。小さな町だったからよけいにそういう風なのかもしれません。日本のようなお祭り騒ぎというような感じはなく、そこにはとても宗教的な神聖さを感じます。キャンドルの灯りがとても象徴的でした。
2002.11.28
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息子の幼稚園生活が始まったものの、彼は毎日行くのを嫌がった。登園する時間が午後なのもちょっと問題だった。というのも彼は幼稚園に行くことが嫌で、朝から「今日も行くのぉ~」と気になっていかたないらしく、朝食もすすまない。午前中はそれでも機嫌よく遊んだり、一緒に買い物に行ったりして気が紛れているのだが、お昼の時間になり、“これを食べたらいよいよ行かなくてはいけない”と思うと、もうゴハンが喉を通らない。そんな日々が半年くらい続いていた。 では本当に幼稚園が嫌なのかといえば、そうでもない。幼稚園に行けば行ったで、実に楽しく、のびのびと遊んでいるらしかった。幼稚園は楽しいのだけれど、問題は当然のことながら言葉で、意志の疎通がはかれないことが最大の苦痛なのだった。これは主人にしても同じで、異国の地で仕事をすることの大変さを身にしみて感じていた。こうして家の中で、男2人は朝から「早く日本に帰りたいなぁ」とつぶやき、ため息まじりに朝食をとった。そして私ひとり、朝から「ドイツっていいわねぇ~」などと言ってヒンシュクを買うのだった。 話は幼稚園に戻るが、幼稚園のほかの子供達はドイツ語を全く話せない、日本人の子供をどのように受け止めてくれるのだろうかと、さすがにわたしも少し心配だった。いじめられないだろうか、乱暴されないだろうかと最初は心配だった。けれど数日息子を送りに行ったついでに様子を見ていたら、そんな心配は吹き飛んでしまった。彼らはごく自然に息子を受け入れてくれたようだった。日本人であることは、やはりものめずらしかったようで、最初は色々なことを息子に聞きに来ていたようだったが、とにかく息子はドイツ語は全然わからないから、答えようがない。そのうちにむこうも、“もういいや、遊ぼう!”みたいな感じになっていった。彼らはよく息子の名前を呼んで手招きしてくれた。息子もそれを拒むことなく喜んでホイホイ付いて行った。言葉がなくても遊びは十分に成立していた。 クラスにいろいろな年齢の子供達がいることも、息子にとってはラッキーだった。私達が幼稚園に行くと、年齢の大きい世話好きのお姉ちゃんたちが「ハローッ」と言って2,3人で来たかと思うと、みんなで寄ってたかって息子のヤッケを脱がせ、手を取り遊びの中に引っ張っていった。そのうちにお姉ちゃんたちによる“ドイツ語講座”が始まったりする。でもよく見るとお姉ちゃん達は他の小さい子供達の面倒もよく見ている。靴紐を上手に結べない子の紐を結んであげたり、ヤッケのジッパーをはめてあげたり…なによりよく“待って”くれていた。こうして息子は少しずつドイツ語も覚えてゆき、仲の良いお友達も何人か持つ事ができた。つづく!
2002.11.25
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私達がドイツでの暮らしを始めたのはちょうど夏だった。最初の4~5日は挨拶回りやら、歓迎のお食事会などであっという間に過ぎ、それから主人が会社にも普通に行くようになると、家に残されるのは当時4歳だった息子と私の二人きりだった。ふたりとも当然のことながら、まわりに友達はなく、TVをつけてもドイツ語ばかりだし、日本語で会話できるのはお互いを相手とする他はない。今ままで、毎日のようにお友達と騒ぎ、お喋りをしていた生活から一変して、社会から孤立した二人になってしまったわけだ。10日も過ぎる頃にはお互いストレスがたまりにたまって、私も些細なことですぐに怒り、息子は息子でわがままを言いたい放題になり・… ドイツに来る前は、息子を幼稚園に入れようなどとは全く思っていなかった。日本にいたらちょうど3年保育でいう年少さんの年齢だったし、小さい町なので日本人幼稚園なんて絶対にないので、ドイツ語が話せない彼にドイツ人の幼稚園にいれるのは、ちょっと酷な気もしていたので、敢えて入れることもないか、と思っていたのである。家のまわりにだって日本と同じようにきっと公園があって、きっとドイツ人の子供たちだって遊んでいるだろうから、その中で少しずつ慣れていってくれたらいいなと思っていた。 しかしっ!!!家の近くの公園に遊びに行っても誰もいない…。毎日行ってみたけど誰もいない…時間も変えてみたけど誰もいない…みんな~ぁっ!どこにいるのぉぉぉぉぉぉ!!!!と叫びたくなった。で、まわりの家をよく見ると、そんな郊外の町だから土地がいっぱいあるわけで、みんなひろ~いお庭がある。ハイジにでてきそうな大きな木にかかっているブランコや、ハンモック、お砂場、おままごと用の小さいおうちだってある家が並んでいる・…息子はそんな家を見ながらつぶやいた。「お母さん、ドイツには公園付きのお家があるんだねぇ…」と…そう、わざわざ公園まで行かなくてもいいのである。 日本と違って個人をとても大事にするドイツ人だから、たとえば日本で“公園デビュー”とやらでやっきになって公園仲間を作ろうなんて意識はないのだと思う。みんな個々の家庭でそれぞれの過ごし方をする…と、ごくあたりまえのことを思い出させてくれた。 でも、私達の関係はどんどん煮詰まってくる。私ももう我慢ができなくなった。やっぱり子供には同年代の友達が必要だ。私にも必要だぁ!!えーーーーーーーいっ、幼稚園に入れてしまえぇぇぇぇっ!!!こうして幸か不幸か彼のドイツ幼稚園生活が始まるのである。 私は知人に幼稚園のことを相談すると、彼女はその手続きの一切を引き受けてくれ、おかげで事は実にスムーズに進んだ。ドイツの他の幼稚園のことはわからないが、息子が通っていた幼稚園は教会が経営している幼稚園で、日本で言う「保育園」のようなところだった。子供達が通うクラスはは朝の8時から夕方5時までのクラスと、午前中だけ通うクラス、午後だけ通うクラスに分かれていた。送り迎えは親がする。私も息子もドイツ語が全くといってよいほど話せないということを考慮してくれて、子供の人数が少ない午後だけ通うクラスに入れていただいた。午後は全体で14~15人くらいで、先生は2~3人いらっしゃった。(幼稚園全体の子供の人数は100人以上らしい。先生の数も午前中はもっとたくさんいらっしゃる)年齢別のクラスではなくて、どのクラスも“縦割り保育”とよばれるいろいろな年齢の子供で構成されていた。 最初の日は息子はわけわからず、私に幼稚園に連れて行かれ、その日は1日私も一緒にいたので、彼はドイツ人の子供たちにまぎれて、久しぶりに伸び伸びと楽しそうに遊んだ。問題は次の日からだった。私がずっと幼稚園にいるわけではないことを知ると、顔色が変わった。いやだと泣いた。まあ、予想はしていたのでとにかく連れて行った。先生が「はろー!」と優しく迎えてくれ、泣いている彼を置いて私は帰った。こうして彼は幼稚園に行く前、毎日泣いていたが、私には“きっと大丈夫”という確信があった。それは迎えに行くと、大抵彼は幼稚園のお庭で遊んでいて、今度は「帰りたくない、まだ遊ぶぅ!!」と言って泣いていたからだ。(ただの我侭息子だ!)彼が最初に覚えたドイツ語は「noch einmal!(ノッホ アインマル)」“あともう1回!”だった。つづく!息子を地元の幼稚園に放り込むっ!2ヘ
2002.11.20
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とても久しぶりの日記になってしましました!今日はビュッケブルグの写真で~すっ!!!!ビュッケブルグにすんでいたのは、もう5年前…その頃の写真は普通のネガの写真なので、スキャナーのないウチでは、PCに取りこめなかったのですが、スキャナーのある実家に帰った時にためしに取り込んでみました。サイズとか解像度とかまだよくわからなくて、あまり美しいとはいえませんが、ご覧下さいね。 お城の写真。全景のものでなくてごめんなさいね。しかも、これ裏側なのよね。正面が映っているものは良いものが無くて… これは町の郊外の写真。春になると本当にきれい…ビュッケブルグの周辺に限らず、ドイツはちょっと街を離れるとこんな風景をたくさん見る事ができます。 ここは私達が住んでいたアパートから、30分くらい歩いたところにある森の中…ここをもっと奥に行くと、丘の上に昔使われていた、見張り台のの塔が建っているのです。 ときどき乗馬の人たちが遠出しに来たりしているのに遭遇したりもします。もし皆さんの中でドイツに関する質問などがありましたら、どうぞ掲示板の方に書きこんでくださいね。できる限りの範囲でお答えいたします。(街のガイドはあまり得意でないかも…)どうぞよろしくっ!!
2002.11.18
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ドイツにはロマンティック街道や、古城街道などいくつかの観光ルートがあります。ちょうどドイツの真中あたりを通る、ハーナウという街からブレーメンまでのメルヘン街道というルートがありますが、ビュッケブルグはこのメルヘン街道の中のハーメルン(『ハーメルンの笛吹き男』というお話で有名ですね)からブレーメンに抜ける途中にあります。『メルヘン街道』という名前にふさわしい町なのに、ツアーなどでも寄らずに通りすぎられてしまうのは、時間とか知名度の低さのせいでしょうか?残念に思う反面、ツアーの観光客でいっぱいになるより、静かなままのほうがいいかなと思っています。 ビュッケブルグの見所のひとつは町の中心にあるお城でしょう。ドイツのお城には2種類あって、『ブルグ』と呼ばれるものと、『シュロス』と呼ばれるものです。『ブルグ』のほうは要塞的性格のもので、その姿も砦のようでもあります。反対に『シュロス』の方はノイシュバンシュタイン城のように、その土地の王様が贅をつくして建てたような、見た目にも美しいお城です。ビュッケブルグのお城は、地名には「ブルグ」という言葉が入っていますが、『シュロス』の方のお城で、こじんまりとしていますが、中も一つ一つが凝っていてとても美しいお城です。時間帯によって見学することができます。そして今でも昔の王族の子孫の方が「家」として使っていらっしゃいます。北海道の『グリュック王国』のオープンの際は、日本にもいらっしゃったそうです。私も一度お会いした事があるのですが、私達が日本から来た事をたいそう喜んでくださって、その時に日本にこのお城のモデルがあるということを、お聞きしましたのです。 もっと書きたいけど、今日は時間がないのでまた明日…いえこの週末は書けないのでまた来週!ではっ!!
2002.11.08
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1997~1998年の1年間、主人の仕事の都合で家族で滞在することになりました。住んでいた町はハノーファーから西に約60キロほど離れた、ビュッケブルグという人口が10000人くらいの小さな町でした。日本人が多く住んでいるデュッセルドルフなどとは違い、私達のほかには日本人など住んでいないような町です。(後であらためて書こうと思いますが、正確には日本人の方、お一人いらっしゃいました)英語も主人の会社の方は話すことができますが、町のお店屋さんのおばちゃんなどはまるっきり話せません。もっともドイツ語はもちろん、英語も苦手な私にとっては、相手が英語を話そうが話せまいがあまり関係ありませんでしたが… ビュッケブルグは17世紀の始め頃に、小さいながらもとても美しいお城と、バロック様式の教会を中心にできた町です。その美しいお城はなんと北海道の帯広にある、『グリュック王国』というテーマパークの中のシュロスホテル(お城のホテル)のモデルになっており、ほとんど同じにできています。(よろしかったら『グリュック王国』のHPに行ってみてくださいね。ごめんなさい、ここではリンクしません。ヤフーなどで検索するとすぐでます) まわりは写真集やポスターにでてきそうな、田園風景が広がり、春には菜の花畑が一面を黄色く染め、遠くの丘はまるでパッチワークのようになります。まさに赤頭巾ちゃんや白雪姫がでてきそうな風景です。道路には車はもちろん、馬や馬車、あるときは戦車まで通ります。 その素晴らしさはとてもひとことでは語れません。このページでそんな御伽噺のワンシーンのような町、ビュッケブルグについてお話していきたいと思います。
2002.11.06
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