PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List
ナポリさらに、聖オノフリオ音楽を訪ねた当日のバーニー博士の報告を紹介後、シットウェルは以下のように続けます。
幕が開くとそこは地中海である.だがその波しぶきは日がな誰彼にかまわず降りかかっている.何故なら誰もその輝きを目に留めないからである.海辺はといえば漁師と乞食(lazzaroni)で溢れてはいるが,その意味では無人島の初々しい砂浜の如くあられもない姿である.実際,海は空席の劇場に対してではなく,舞台から目をそらし桟敷席を見上げてばかりいる観衆に向って演技をしているのだ.これは街中すべての家が日差しを遮るために建てられ,そのせいで海側の窓はブラインドか鎧戸で覆われているからである.もちろんその街とはナポリのことである.雑踏の中,あるいは街中の歌声からもそれとすぐ分かるだろう.
この永遠の都ではちょうどその熱い活気が最高潮に達しようとしている.それは「南」の首都,一つの巨大で永続的な都市である.これがバルコニーや展望台からナポリを一望して誰もが抱く印象だ.それだけでなく,我々がそれについて書いている当時,人口という点でナポリに匹敵するような都市は全ヨーロッパ中でも他にたった二つしか存在しなかった.それはロンドンとパリである.修道士と修道女の街ローマの路が人で溢れるなどといった懸念はほとんど無用であった.ヴェネチアは衰退しつつあった.イタリア中で随一の大都会といえばナポリだった.これは議論の余地のない事実として,以下でその街の声に耳を傾けているのが何年のことなのかを明らかにする前にはっきりさせておかなければならない.街からは混乱した音の喧噪が立ち上っている.テノールの歌声が辻々で聞こえ,彼らの歌は露天商の叫び声でかき消されあるいは中断される.サンタ・ルチアの港はカキとマカロニを食べる人々で溢れている.ヴァイオリン弾きやハープ奏者は気の向くままに船着き場で楽器を奏でる.湾の穏やかな水面さえギターのつま弾く音を返すかのようである.実際,そこは音楽の王国なのである.さて,今やそれが1685年であることを,そしてその日付を選んだわけが件の人物,我々がこれからその活動について調べてみようとしている人物の生まれた年だからである,ということを明かしてもよいだろう.
以下は,一世紀後にバーニー博士が彼の「音楽の旅」の中でナポリについて語った部分である:「私はイタリアであらゆる音楽的贅沢と洗練によって我が耳を楽しませることが出来るとすれば,それはナポリでしかないと期待していた.他の都市への訪問は仕事の一環であり,自分自身に与えた課題をかたづけるためのものであった.しかし,その地には喜びへの期待に胸を弾ませながら着いたのだった.二人のスカルラッティ,レオナルド・レーオ,ペルゴレージ,ポルポラ,ファリネッリ,ヨンメッリ,ピッチンニ,トラエッタ,サッキーニ,そして声楽,器楽を問わず他に無数の第一級の輝かしい音楽家達を輩出した場所にあって,音楽の愛好者たるものが最も楽天的な期待を抱く以外に一体何をするべきというのだろうか?...(中略) 」
このような文章は消え失せて忘れられた世界に光を当てないだろうか?というのも,バーニー博士が言及した作曲家達は,若い方のスカルラッティという孤立した例外を除いて現代世界にとっては完全かつ全面的に無名だからである.
(中略)
彼(アレッサンドロ・スカルラッティ)は1684年から1702年まで,そして再度1709年から1719年までそこで暮らした.彼が1702年にナポリを去ってフィレンツェ,さらにローマへと移り住んだ時,息子のドメニコは17歳であった.従って,ドメニコの音楽教育はナポリにおいて行われたに違いなく,それはバーニー博士が称賛する例の音楽学校の中であっただろう.かくも時を経た現在においてそれら学校の質を評価することは不可能だが,全くの忘却の彼方に失われたナポリ楽派の遺産がどれほどのものであったかを示すものとして,E. J. デント教授の「アレッサンドロ・スカルラッテの生涯」から以下の言葉を引いておこう.「確かに言えることとして,アレッサンドロ・スカルラッティの最上の弟子はモーツァルトである.我々が基本的にモーツァルト風だと大雑把に考えている諸々の様式的特徴は,モーツァルトが前半世紀のイタリア人達から学んだものである.実際,モーツァルトはある程度までスカルラッティの仕事を再現し,自身の中でレーオの巨大な力強さ,デュランテとペルゴレージの甘美さ,ヴィンチのエネルギッシュな俊敏さ,およびロリオスチーノの際どいユーモアといった要素を,スカルラッティだけに属していた旋律の高貴な美しさと統合したのである.」(中略)
同じ日の後半について,バーニー博士はナポリに良質の音楽がふんだんにあることを例示する小景を報告している.「この日,大臣閣下と夕食を共にするという栄に浴し,午後には一人の肥った聖ドメニコ会の修道僧の演奏で大いに楽しませてもらった.彼は喜劇の歌を演奏しに来ており,自身でハープによる伴奏をしながら,ピッチンニとパイジェッロの軽喜歌劇の中にある数多くの滑稽な場面を引いて,カザッチアにほとんど劣らない喜劇の力強さと,彼より遥かに優れた美声でもってそれらを歌って見せたのであった.」上記は、ナポリが音楽の首都として絶頂を極めていた頃の様子ですが、先週の番組ではそこに至るまで前史を辿る感じもあって、この点もまた大変面白いものでした。
かの南国の街では,当時の一日はこんな風であった.というのも,ナポリといえば何にも増して音楽だったからである.これが黄金の浜辺の風土であった.ナポリとは音楽そのものを意味していた.これこそはあのジャン・ジャック・ルソーが彼の音楽辞典中の「風土(Genius)」という項目に記したことである.「Vas, cours, vole a Naples.(行け,もちろんナポリを盗みに.)」彼の頭の中では二つの事物が同義語であった.音楽とはナポリの芸術であり,それは正にヴェネチアにとっての絵画と同じである.今日我々がナポリを想うときに忘れているのはこのことである.
その街は音楽における世界の中心であり,この章の始めの文章はその特異な性格へと読者の注意を引くように案配されている.街の古い家は湾を見渡す絶景に背を向けるかのように建てられていることに気づく.海は演技をしているかのように描かれ,その演技は空席の劇場に対してではなく,舞台から目を背け,常に桟敷席ばかりを見上げている観衆に対してのものである.(中略)比較的静かなのはシェスタ(昼寝)の時間帯だけで,残りは一日中声の喧噪に溢れ,夜の時間が一日の中で最も騒々しい.
これが「南」の首都である.我々が話題にしている当時,そこでは現代の都会の空虚な喧噪よりはましな生活の充実があった.少なくともジャズ音楽というその街に固有の音楽を持っているニューヨークですら,そのスケールという点ではトレド通りの周辺で見られたであろう目や舌を楽しませる生活の豊かさに比べるべくもない.これが古いナポリのブロードウェイだった.(以下略)

オーケストラの持続可能性と「華麗なる衰… 2026.04.19
神戸の響きは誰のものか — 補助金打ち切り… 2026.04.12
響きの黄昏--ルイ・クープランの「ブラン… 2026.04.05