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2026.04.05
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カテゴリ: 音楽


そんな季節の移ろいを感じながら、亭主は先月末のジャン・ロンドーの演奏会に刺激されて、この数日ばかりルイ・クープラン(Louis Couperin, c.1626–1661)の楽譜をハープシコードの譜面台に広げていました。ルイといえば、あの有名なフランソワ・クープラン(大クープラン)の伯父にあたりますが、彼が35歳という若さで世を去った17世紀半ばは、音楽史において実に興味深い「端境期」にあります。

よく言われるように、彼の時代は「 教会旋法と中全音律(ミーントーン) 」という古い秩序が色濃く残る一方で、後の「 調性音楽(長短調)と循環音律(平均律など) 」という新しい夜明けが、地平線の向こうから顔を覗かせ始めていた時代でした。現代の私たちがピアノや平均律の鍵盤で彼の作品を聴くと、一見、ごく自然な「バロック音楽」として耳に馴染みます。しかし、当時の調律と感性を前提にその響きを紐解いてみると、そこには現代人が忘れ去ってしまった「危うい美」が潜んでいることに気づかされます。

まず、当時の鍵盤楽器の前提であった中全音律(ミーントーン)について考えてみる必要があります。この音律は、主要な長3度を「純正」に響かせることを目的としていますが、その代償として、特定の和音から遠ざかるほど、激しい唸りを伴う「ウルフ(狼)」と呼ばれる不協和音が発生します。

例えば、彼の「嬰ヘ短調のパヴァーヌ (Pavane in F-sharp minor, No. 120)」を例に挙げてみましょう。当時、嬰ヘ短調という調性は、中全音律の鍵盤では「禁忌」に近い領域でした。和音によっては、耳を刺すような、絞り出すような苦しげな響きが生まれます。

しかし、ルイ・クープランという作曲家は、この音律の「物理的な限界」を欠陥として避けるのではなく、むしろ「悲哀」の表現として積極的に取り込んでいる節があります。平均律という均質化された響きの中では決して味わえない、あの、心臓を抉るような「音の歪み」こそが、彼の音楽の官能性を支えていたのではないでしょうか。

また、彼の組曲に頻出する「ニ短調」にも、古い秩序の名残が見て取れます。現代のニ短調なら当然つくはずの「シ」のフラット(♭)が、当時の楽譜ではしばしば調号として書かれません。これは「ドリア旋法(第1旋法)」の伝統に基づいているためです。旋法的な明るい「ロ音(B-natural)」と、和声的な暗い「変ロ音(B-flat)」が、一つの曲の中で万華鏡のように入れ替わる…この「調性の揺らぎ」こそが、この時代の音楽特有の浮遊感を生んでいるわけです。(ふと思うに、バッハやスカルラッティの楽章内で短調と長調が糾える縄のように絡み合うのも、このような「調性の揺らぎ」の名残りかも?)

ルイ・クープランの数ある名曲の中でも、亭主がとりわけ心惹かれるのが「ブランクロシェ氏のトンボー (Tombeau de Monsieur de Blancrocher)」です。



これは不慮の事故(階段からの転落死)で亡くなった名リュート奏者、ブランクロシェを悼むための作品ですが、ここには前述した「旋法・中全音律」から「調性」への過渡期ならではのドラマが凝縮されています。

曲は、中全音律において最も純粋で透明な響きを持つヘ長調(F major)」で静かに始まります。この時のヘ長調は、天上の音楽のような汚れなき秩序を感じさせます。しかし、楽曲が進むにつれ、その秩序は無慈悲に侵食されていきます。

注目すべきは、ブランクロシェが階段を転げ落ちる様子を模したと言われる下降音型です(下図)。ここでクープランは、ヘ長調の枠組みを逸脱し、変ホ(E-flat)や嬰ヘ(F#)といった、中全音律では「濁り」を伴う半音を執拗に導入します。



現代の耳で聴けば単なる「半音階的進行」ですが、当時の聴衆にとって、この純粋なヘ長調の響きが徐々に「汚され、歪んでいく」過程は、単なる比喩を超えた、生理的な衝撃を伴う「音の死」の描写であったはずです。機能和声的な「解決」を待つエネルギーよりも、旋法が持つ「重力に従って淀んでいく」感覚。そして、音律が内側からヒビ割れていくような不快な唸り。それらが混ざり合うことで、友を失った喪失感が、物理的な響きそのものとして立ち現れてくるのです。

亭主が思うに、ルイ・クープランの音楽がこれほどまでに私たちの胸を打つのは、彼が「古い世界の終わり」と「新しい世界の始まり」の両方に足をかけていたからではないでしょうか。

すべてが機能的に整理され、どの調性も均質に響く平均律の世界では、このような「響きの落差」によるドラマは生まれません。彼は、教会旋法という長い歴史の残照を惜しみつつ、同時に新しい時代の波に洗われ、その軋みの中からしか生まれ得ない「一瞬の美」を、クラヴサンの弦に刻み込んだのです。

ルイがもし、バッハやラモーの時代まで生き延びていたとしたら、彼の音楽はもっと整然とした、洗練されたものになっていたかもしれません。しかし、35歳で早世したからこそ、彼の作品には、永遠に「夜明け前の薄明」のような、不安定で、それゆえに抗いがたい魅力が宿り続けているのではないか。

皆さんは、ルイ・クープランの「音の歪み」に、何を感じられるでしょうか。






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Last updated  2026.04.06 23:00:54
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