2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
今日の写真はロケハンの時に佃撮影監督が撮ってくれたものです(^o^)/なんだかテレビでは「集団的自衛権」を延々やってる。眺めていると911テロの時やオウム真理教や福島原発水素爆発のときとおなじく時代の変わり目をみているような気もしてきてる。まあ床屋政談こそ民主主義の血ではなかろうかとも思うので書いてみる。これやっぱり神学論争だよね。ピンの上で何人天使が踊れるかとか、異教徒に人権は在るのか、神がいるのになぜ悪魔が存在するのかとかと同じで、外から眺めると何でそんな事を真剣に考えてしまうのって。”集団的自衛権”は 戦争に巻き込まれる のか それとも戦争を遠ざけるのか。そんなもん、どっちの場合もあるだろうとしか思えない。”個別的自衛権”も”集団的自衛権”も実は政治的や軍事的な戦略・戦術として区別なんて出来るのか?と。誰を狙ったかって動機でもないだろうし、結局はどんな風に自分に被害がかかるかどうかしかなく、普通それは単に”自衛権”と呼ぶんじゃないか。問題が起こった場合にいかに全体の被害を少なく抑えるか。実はそれが平和(と戦争)の問題なんだと思う。不当な行動の被害を防ぐために個人の復讐の連鎖にまかせると拡大増殖するので、国がルールの下に処罰して終わらせる方が全体の被害は少なくなるのと同じように。もちろん自衛が過剰な場合も自衛が不足な場合もある。だけれど、その問題を自衛が単独か集団かで判断するのが合理的とはまったく思えない。どう考えても単独自衛だって過剰に破壊する可能性もあるだろうし、集団的自衛がより破壊性の少ない選択肢になる可能性もある。要は状況しだいでどちらがより双方の全体の被害が少ないかを判断する仕組みと実行する仕組みを作るかってのがキモだろうに。がなぜか”集団”と”個別”にとてつもない意味があるように振舞っている議論。このものの捕らえ方に規制された神学的な論争。他のパラダイムはなぜか提出されない議論なんだかカルト教団の脱洗脳のドキュメントでも見ているようにも思える。神学的論争って現代だと一番激しくされているのは、カルト教団からの離脱のときだろうな。さて、実はこの騒ぎで憲法改正への心理的な壁が崩れてきた気がしてます。つまり解釈での運用に批判を集めることで、今までタブーとして触れることさえ拒絶してきた部分を理性で検討できるようになってきてる。そういう論調が多く目に付く。「憲法の解釈で運用するのはまずい!」って批判をちょっと先に進めると「やるなら憲法改正がもっと良い手段」という正論が出てくる。目的である自衛力の強化自体に対する批判は少ない。天災や周辺国の拡張主義のゴタゴタがあって今の憲法では対応できなくなってきているのは共通認識になりつつある。さてさてそこで、いままで憲法改正、特に9条改正にはかなり恐怖を感じていたんじゃなかろうか。冷静に考えたら、9条の改正で交戦権を認める方向も逆に交戦権にさらに制限する方向もどちらも二つあるのに、なぜか9条改正を考えるたびに第二次大戦のイメージが恐怖と共に膨らむように心理的にプログラミングされてなかったっけ。この恐怖のやわらげ方、回避方法、これって逆洗脳の手法のような気がする。不合理な洗脳下にある人に合理的な説得をしても受け入れられず、むしろ彼の恐怖の引き金を引いてしまう。それがさらに不合理な反応や信念を強化する結果になってしまい、逆効果になる。むしろその不合理な体系の中に一度入ってそのおかしな体系上で対話と説得と議論をして彼の中に沸き起こる恐怖をいなしつつ、少しずつ常識的な感覚、感性に気づかせてゆく。もちろんこの場合、常識的や社会性も実は一種の幻想であって、より合理的な幻想で再洗脳することで破滅的な幻想から離脱させるという自覚がないといけない。正常・異常、正しい・間違いなどで区別していると、再洗脳が成功してもまたすぐに別の破滅的な幻想に上書きされてしまう。ってカルト離脱の方法論。なんだか今日本中で聞く議論ってこの再洗脳のように聞こえてきて。そりゃ感情的な嵐や恐怖も吹き荒れるよなぁと思う。たぶん第二次大戦後の再編成で、なまなましい戦争への恐怖を使って自己否定をセットして、新しい価値観をプログラミングしたんだよなぁ。そういう洗脳手法が確立されたのが第二次大戦の頃じゃなかったか。催眠術にかける時と同じにショックを与えるのとコントロール不能を自覚させるのと。それをもっと強烈な形で長時間繰り返して、刻み付けてゆく洗脳。えーと主語を書いてなかったね。実はわざとぼかしてました。ごめんなさい。日本でもドイツでもいいし世界全体でもいいし私個人でもあなた自身でもいいしアメリカ人だって当てはまると思う(^o^)/なぜヒトラーや国家社会主義なんたら党は悪の権化のイメージなんだろう。毛沢東やスターリンや様々な虐殺者もっと言えば南米や北米の原住民を駆逐した者たちには、なぜ悪の権化のイメージがついてないのだろう。戦争前ヨーロッパでユダヤ人を差別してたのはドイツだけだったのか?やっぱり100年、1000年単位で大雑把に見ると日本の明治維新から大東亜戦争は人種解放運動に見える。日本人とか黄色人種とか有色人種とかどこで区切るのかはあれどね。公民権運動で人種差別と戦ったキング牧師の「I Have a Dream」演説が1968年。その27年前に日米戦争、1941年。その時代の有色人種国家が白人国家連合と近代兵器で戦争するってのが大きく見るとどういう風に見えるか。しかし公民権運動や人種差別撤廃の遥か以前の日米戦争時になぜか不思議なことにアメリカが有色人種を差別しなかったイメージになってやしないか。日本での世界史上最大の無差別爆撃や原爆投下をヨーロッパ戦線ではしなかったね。国や集団を個人と同じように考えて精神分析的に見るやりかたってのがあって、それで考えて見ると、今の日本はある種カルト的な(恐怖と自己否定を使った)不合理な反応から、離脱しようとしているのかも。今はそのための再洗脳中ということになるのかも。願うのはその再洗脳でプログラミングされる価値観や反応がどうか合理的なものであってほしいということ。私は平和が大好きです。だからこそ平和の反対語が戦争だけってなってるのは歪んでると思うわけです。そこには犯罪も天災も騒乱もテロも虐殺も紛争も侵略も暴動も、そしてたぶんイジメもぜんぶ平和を壊すものであるわけです。平和とはすべての人がある程度は幸福な状態なんじゃなかろうか。それぞれが幸福か不幸かを自分で選べる状況が整っている状態。だから例え国際ルールにのっとった正式な戦争状態が無かったとしても、例えば誰かが理不尽に扱われるのを毎日当たり前に目にするような社会は断じて平和ではないだろうと思うのです。どうかこれからの価値観が恐怖と自己否定を源としない合理的なものになってゆきますように。やっぱり9条は「戦争の放棄」ではなく、「平和を維持する義務がある」であってほしいな。戦争の放棄では平和の実現にはまったく足りない。なんかもうテレビの論調見てて腹たってきたんで、なぜかと考えたら、たぶん自分の恐怖を克服中だった。これ世の中の変わり目ですね、きっと
2014/07/02
コメント(4)