2月10日(金)の京都歩き、「その3」です。(「その1」は こちら
こちら
)
知恩院訪問のあと、建仁寺塔頭の久昌院に向かいます。円山公園を通って、八坂神社へ。
八坂神社で結婚式があって、本殿でお祓いをした新郎新婦が式場に戻るところで、係の人が人の通行を一時遮断していました。間もなく、新郎新婦・親族の方が出て来られました。ちょうどこの場に居合わせた外国人観光客はラッキーです。
八坂神社横の王将で昼食。ビールもいただきました。
建仁寺境内にある 久昌院
へ。「京の冬の旅」の特別公開ですが、ここは我がガイド会担当ではないので、有料です。
●久昌院の沿革
建仁寺塔頭。慶長13年(1608)美濃加納城主(今の岐阜市)の 奥平(おくだいら)美作守(みまさかのかみ)信昌
が 三江紹益
を開基に迎えて創建した奥平家の菩提寺で、久昌院の名は信昌の法号から名付けたと言われている。
信昌は、天正3年(1575)、織田信長、徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破った長篠の戦いで長篠城に1ヵ月間たてこもり、城を死守して武田城を撃退した勇将である。その功績により、信長から一字を与えられ、信昌と名乗った。さらに家康の娘、亀姫を妻としてめとった。関ヶ原の合戦に参戦し、その直後、初代京都所司代に任命され、慶長6年2月に加納城主となって10万石が与えられた。
方丈室中右側の御本尊は亀姫が持念佛としていた薬師如来像(室町時代作)。
開基の三江紹益は、建仁寺の住持を務め、高台寺の開山も務めた。
●方丈
室中の間(仏間)の背後には2室の座敷があり、南側の6畳が茶席となっている。天井は竿ぶち天井で、床柱など要所に磨き丸太が用いられている。床は上部に織部板を入れ、棚板の壁の部分を一文字に切り取って、軸が下がるように工夫されている。
●長篠合戦図(大和絵)
方丈、上間一之間の襖絵6面のうち2面。宇喜多一ケイ(1795~1859)筆。田中訥言(とつごん)に絵を学び和歌や書道にも長じ、安政の大獄に連座した尊攘派の志士としても知られる。訥言や冷泉為恭と並ぶ、復古大和絵派巨匠の貴重な作品。
●庭園
心字池を中心とした本堂前庭は、二段に刈り込まれた生垣の奥に建仁寺の堂宇や東山を望む池泉鑑賞式庭園。
●書院高松軒
方丈の西側にあり、渡り廊下でつながれている。十二畳台目と八畳台目の座敷が造られている。主室の十二畳台目の座敷には西南隅に二畳台目の上段の間を設け、火頭窓の付書院になっている。
またこの座敷の北隣には俗に「遠州別好(べつごのみ)ノ席」と呼ばれる三畳台目の小間の茶室がある。床前正客の座の天井は珍しい舟底型の化粧屋根裏にするなど、複雑で変化に富んだ席となっている。
●牧童笛吹図(指頭画
)(ポスター展示)
長沢芦雪(1755~1799)筆。円山応挙を師として、近世画人の中でも筆墨の名手として知られる芦雪の作。筆ではなく指、爪、掌を用いた指頭画(指墨画)で、写生画でなく新しい境地を開こうとした、芦雪のあまり知られていない部分が推察される作品。
●寺紋
一つは軍配。珍しい。
上記の解説は、お寺のパンフレットからです。白黒の写真もお寺のパンフからです。
ガイドさんは、30代くらいの女性と学生さんと思しき人でした。名札は「京都市観光協会STAFF」となっていました。あとで、この女性ガイドさんに聞いたら、人材会社から派遣されているとのこと。私が養徳院と八木邸でガイドをしていると言ったら、「この前、養徳院行ってきました。」とのこと。やはり勉強しているのですね。
妙法院も行きたかったのですが、時間切れであきらめ、商工会議所に寄った後、ガイド会のエリア会議出席のため、烏丸丸太町に歩いて向かいました。
(守秘義務再考版。原文は非公開日記に移動済み。)
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