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ヨーカ堂を支えた陰の立役者達 普通の人間にとって、「あの人の助力がなければ、今の自分はなかった」とはっきり言い切れるほどの人に巡り合うことは、そうそうあることではない。あったとしても、自力で乗り切ったことにして、あるいはそんな気がしてきて、受けた恩義を忘れてしまうことも多いかもしれない。創業経営者となると、相当な波風を乗り切らなくてはならないから、そんな場面を語る人も少なくない。しかし、伊藤ほど多くの人を挙げ、恩義を深く受け止めている人間は、たくさんはいないと思う。それは、伊藤の言う「運が良かった」ことの表れとも言えようが、恩義を恩義として受け止める伊藤の心の働きによるように見える。伊藤にとって、受けた恩義を忘れるほど没義道なことはない。と同時に、人のために何かをした時、それを言い募るほどいやなこともない。「そんな人間は最低だ」と顔をしかめて話したことがある。母ゆきが身をもって示した生き様だ。伊藤がまず名前を挙げる「大恩人」が、関口寛快(ひろよし、1981年没)である。関口は神奈川県平塚市の百貨店、梅屋の社長を務め、終戦後の一時期、梅屋を「東海道一の繁盛店」と評判の店に仕立て上げた。経営者として優れていたばかりでなく、苦労人であり、伊藤に生き方を指南した。伊藤の人生に影響を及ぼした点では、母、兄と並ぶ人だ。伊藤自身、「父親代わりのような人」と語っている。それほどの影響を与えた関口だが、劇的な出会いがあったわけではない。同業者の先輩、後輩として付き合っている内に心が共鳴したようだ。なぜ関口が創業期の伊藤の同族問題に我が事のように熱心に取り組み、助言してくれたのか、伊藤からも明確な答えは返ってこない。伊藤自身にも順序立てて説明できない心の交流が生まれたのではないか。それが今日のイトーヨーカ堂につながっていることを考えれば、人生の機微、不思議と言うほかない。兄、譲の急逝後、成長軌道に乗り始めた羊華堂(当時)の後を誰が継ぐかという問題が起きた。合資会社羊華堂は兄の会社だった。実際の商売は伊藤が取り仕切っていたものの、譲には弟と妹がおり、子供も4人いた。異父弟の伊藤がすんなり継ぐわけにはいかなかった。同族の争いが起きたのである。「重荷を背負え」先輩の言葉に……このもめごとは伊藤を苦しめた。何もかも嫌になって、何度も投げ出そうと思った。いさめたのは関口である。「あなたが腹を立てて投げ出せば、あなたはよくても、お兄さんの家族や社員は路頭に迷うことになる。重荷を降ろそう降ろそうとするけれど、降ろしたらみんなだめになってしまうではないか。そのまま背負っていく考え方が大事なのだ」この言葉で伊藤は悩みを吹っ切れた。伊藤は今も、関口のこの忠告を大切に心の中にしまっている。関口はある日、親族会議に出席してくれて、どうすれば一番いいか、私心を全く挟まない態度で話し、もつれた糸を解きほぐしてくれた。その日は関口の奥さんが大腸がんの手術をした日だったことを、伊藤は数年後に知った。関口ヘの感謝を語る時、伊藤は必ずこの話をする。感激屋の伊藤がどれだけ感動したか、目に浮かぶようだ。涙を流したかもしれない。関口自身、似た苦労をしていた。関口は梅屋の娘と結婚し、婿養子のような立場だった。梅屋を繁盛店にすると、立場が微妙になってきた。開口は身を退くが、そうすると経営がおかしくなる。また参加する。そんな同族間の苦労をしてきた人だけに、伊藤の苦しみが他人事とは思えなかったのだろう。伊藤は恩人関口の地盤である神奈川県への出店は控えていた。「構わないから店を出しなさい」と関口は言うばかりでなく、厚木や茅ヶ崎の土地の人に伊藤を紹介し、仲介の労を取った。昭和30~40年代、気位が高くてスーパーには商品を卸そうとしなかった百貨店間屋を紹介してくれもした。おかげでイトーヨーカ堂は比較的早く、百貨店間屋と取引できた。まさに「関口さんがいなければ、今のイトーヨーカ堂はなかった」と言える人だった。関口が入院したことがある。伊藤は夫人の伸子に退院までの1カ月間、一日も欠かさず手づくりの弁当を届けさせた。伊藤の気持ちだった。関口の日記には、そのことへの感謝が記してある。こういう関係が出来上がる縁とは、どのようなものなのだろうか。昭和40「(1965)年、繊維関係の取引先の集まり「千羊会」で挨拶する開口寛快氏(当時、社外取締役)。その頃、スーパーはまだ力が弱く、開口氏に取引先を紹介してもらった伊藤と伸子の縁を結んだのは、渋井賢太郎である。ネクタイを商う渋井は伊藤の取引先であり、伸子の実家である東京・高円寺の洋品店とも取引があった。渋井が縁談を持ち込み、千住と高円寺を1カ月にわたって往復し、めでたくまとめた。その意味でも恩人だが、店にとっても「おかげで今日がある」恩人だ。恩人達との不思議な線創業期、わずか2坪の店舗からスタートした羊華堂は、何度か店を替え、拡張して大きくなっていった。決定的な転機になったのは、150坪の店を買ったことだった。昭和24(1949)年のことである。売り値は50万円。今のお金で数千万円、あるいは1億円近い。将来の発展のためには、ぜひとも手に入れたかった。だが、親戚からも断られ、どう工面しても25万円しか集まらない。銀行は無論貸してくれない。意を決した母と兄は、当時羽振りが良かった渋井に借金を申し込んだ。渋弁は黙って二人の話を聞いていた。後日、訪ねてきて、「これを使ってくれ」と言って、ボンと25万円の小切手を差し出した。インフレが激しく、お金を貸せば損をするのが目に見えている時代だった。母と二人の息子は、人の親切のありがたさが身にしみて泣いた。この店が成長の第一歩となる。渋井はなぜ、損を覚悟で大金を都合したのか。取引先の立場で店の潜在成長力を見込んでいたのだろうが、何よりも母子を「信用した」からに違いない。伊藤は後に、信用を最も重んじる商人になるが、この時の経験も背景になっているのだろう。羊華堂は終戦後、浅草から千住に店を移した。伊藤には「千住の商店街や洋品組合に受け入れてもらった」との意識がある。新参者に対して、色々と世話を焼いてくれた。千住は伊藤にとって格別の地である。当時、足立区議会議員だった鯨岡兵輔は、統制下で商品を仕入れるのに必要な切符を羊華堂に回してくれた。それがなければ、そもそも商売ができなかった。鯨岡は後、都議を経て国会議員へと上り、衆議院副議長まで務めるが、その清廉で飾らない人柄は変わることがなかった。伊藤が好み、尊敬するタイプで、長く付き合いが続いた。イトーヨーカ堂のメインバンクは三井住友銀行である。始まりは三井銀行千住支店からだ。支店長だった西脇秀夫は「ヨーカ堂がこけたら、私はクビだよ」と言いながら、ヨーカ堂のことを我が事のように心配し、親身になって支えた。昭和36年、初めて欧米を視察し、チェーンストアの時代が来ることを確信した伊藤にとって、店舗展開の資金手当てが当面の課題で、その頃から銀行との付き合いが始まった。三井銀行の社長、会長を歴任した小山五郎も、イトーヨーカ堂を応援した。日本企業で初めて無担保・無保証の外債(普通社債)を発行した時、周囲の抵抗を排除してくれた。小山に「ソニーとイトーヨーカ堂を育てたのは、三井銀行の誇りだ」と言われたのが、伊藤にとっても誇りになっている。頭の上がらぬ最大の恩人伊藤に言わせれば、これらの人々はすべて、助力がなければ「今日のイトーヨーカ堂はない」恩人だ。「イトーヨーカ堂は自分だけの力で大きくなったのではない。多くの方々の助力があって、運が良かったからだ」というのが伊藤の考えだから、「恩人」の名前はこのほかいくらでも出てくる。伊藤が挙げない名前が一つある。夫人の伸子である。伊藤には、父親とは既に別れ、異父兄と共に商売する複雑な家庭事情がある。縁談が持ち上がった時、兄の譲は伸子に包み隠さず話し、「それでもよければ」と申し入れた。伸子は承諾した。実は、知り合いの霊感を持つという神主に相談し、「うまくいく」とのご託宣を得ていた。それで承諾できる気性の人なのだろう。創業時のことだ。伸子は仕入れにも行き、レジ番もした。住み込んでいる店員達の面倒を見るのも、伸子の仕事だった。兄、譲が亡くなって、親族の問で事業継承を巡るごたごたが続いた後、親族達にヨーカ堂の株で建築資金を作らせ、それぞれ家を持たせていったのも伸子だった。10軒以上の家の建築にかかわった。古い社員は皆、伸子の内助の功を語る。「この人がいなければ、今日のイトーヨーカ堂はなかった」一番手として挙げねばならぬのは、伊藤も「頭が上がらない」と語る伸子かもしれない。伊藤は経営から身を退きつつあるが、自ら創業した企業から完全に離れるのはなかなか難しいらしい。心配でたまらない。寂しくもある。創業者が味わう思いを、伊藤も今、かみしめている。伸子と長女の尚子は、いつまでも会社にしがみついているのはよくないという意見を持つ。二人の意見は、伊藤に対して効き目がある。その意味では伸子は過去のイトーヨーカ堂だけではなく、将来にも大事な人と言っていいのかもしれない。 (文中敬称略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日経ベンチャー2004年2月号より
2004.04.12
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母に学んだ「商人道」兄が教えた「人の道」伊藤雅俊が物心ついた時、家業は煮豆屋だった。今の武蔵小山商店街(東京・目黒区) である。煮豆屋という業種は既に姿を消したが、近いものを挙げれば、作り売りの惣菜店になろうか。前夜遅くまで掛かって仕込みをし、朝早く起き出して、煮豆をはじめ各種のおかず類を作る。労をいとっていたのでは成り立たない小さな商いである。少量の商品でも売り切ることのできる日はそう多くない。売れ残った商品を、少年の伊藤は悲しい思いで見つめた。それは自家での晩のおかずになる。“箱入り娘”が商売に執念 両親はこの店を開く前、短い間だが、東京・渋谷の店に奉公した。商売を習い覚えるためである。父親は結婚前、証券会社に勤めていた。株屋と呼ばれていた時代である。株屋から小売業に商売替えしたのは、恐らく母ゆきの強い働き掛けによったのではないか。母ゆきは東京・神田にあった大きな乾物問屋、吉川商店の娘である。「商売さえしていれば、何とか食っていける」という人生哲学の持ち主だった。勤め人の安定感に信頼を置いていなかった。昭和の初めには珍しい考え方ではなかったろう。当時、後に百貨店に衣替えする呉服の伊勢丹が近くにあり、創業家の小菅家のお嬢さんと仲良しだった。家には、まだ個人宅にほとんど普及していなかった電話が引かれていた。裕福な家庭だった。電話交換手相手にいたずらをして、たしなめられた逸話がある。その実家が父親の病死が原因で没落する。伊藤の母が商売にこだわり、ひたむきに取り組んだ背景には、「何とか家を再興したい」という強い思いがあったのではないか。伊藤はそう考えている。そんな思いを込めて、商売の道に入ることを夫に説いたと想像できる。商家の娘とは言え、商売を手伝っていたわけではない。改めて夫婦で仕事を習うことにしたのだろう。店には両親と伊藤の他に、もう一人“奉公人”がいた。伊藤は父親を「旦那さん」と呼ぶその人を奉公人だと思っていた。それが13歳年上の異父兄、譲である。小学校も高学年になって、伊藤は兄であると知った。母ゆきと兄譲が、伊藤の人生と商売の原点と言っていい。母親を敬慕するのは普通のことだが、伊藤のそれは並外れている。母の教えと兄の生き方を、全く揺らぐことなく一生の道しるべにした伊藤のような人生は、世の中にそうたくさんは例があるまい。ゆきは商売上手だった。才覚にあふれた人だったようだ。「店前に水をまく時は、自分の店の前だけまかず、両隣の前にもまきなさい。そうすると店構えが大きく見える」と伊藤に教えた。商売が軌道に乗ってくれば、扱う品も増えてくる。作って売るだけでなく、仕入れて売るものが多くなり、煮豆屋から漬物屋に変化したということであるらしい。煮豆屋と漬物屋の違いは分かり難いが、要するに商売が広がったのだろう。お茶や海苔も扱い始めた。お茶や海苔は収穫期に1年分の仕入れをすると、安く手に入る。最初の内は販売力も資金力もないから、近くの大きな同業店から少しずつ分けてもらうしかない。当然利益は上がらないし、情けなくもある。伊藤はゆきが頭を下げて分けてもらう様子を覚えている。さして時が経たぬ内に、茶箱で仕入れるようになった。海苔も1年分仕入れ始めた。支店を自由が丘と大岡山に2軒開き、1店は譲が任されるようになった。伊藤はこの間、大いに店を手伝ったわけではない。たまに御用聞きや配達を受け持った程度らしい。しかし、ゆきが商売上手であることを、ちゃんと見抜いて観察していたようだ。背中を見て学び頑固一徹に守る新しい店を出したりするのに、まとまった資金がいる。銀行は小さな小売店など見向きもしなかった時代である。ゆきは弟の元に何回か借金に出向いた。その際、必ず伊藤を伴った。小さな子供でも用向きは分かった。嫌で嫌でしょうがなかった。後にイトーヨーカ堂が実質的な無借金経営を続けたのは、この時の経験から生まれた、伊藤の「借金嫌い」による部分もある。この伊藤にとっての叔父、吉川敏夫は元々足袋屋に奉公していたが、洋品店をやりたくて「羊華堂洋品店」を開いていた。なかなか進取の気性に富んだ人で、日本で最初のボランタリーチェーンを組織した。動くショーウインドウを作って、おまわりさんが出て整理するほど人を集めたこともある。終戦後、「羊華堂」の一店を譲が暖簾分けしてもらったのが、「イトーヨーカ堂」の名前の由来である。商売がうまく回ると、父親が道楽に走り出した。よくある話だ。夫婦喧嘩はしょっちゅう。父親は夜になると、ふらっと出掛けてしまう。元々、商売の方はゆきに任せっきりで、大きくしたのはゆきと譲の二人だった。結局、両親は別れることになった。伊藤はゆきと譲に、今も限りない同情と感謝の気持ちを抱く。譲は奉公人の扱いで働いていた。伊藤にすれば、暖簾分けの仕方も納得できなかった。喘息持ちで咳き込みながら働く姿をよく見ていた。家計の苦しい中から、伊藤を専門学校に通わせてくれた。羊華堂の年商が1億円になり、これからという時に44歳で亡くなった。涙がこぼれるほどの同情心を覚えている。ゆきをないがしろにした父を許さなかった。二人が別れた後、一切行き来せず、葬儀にも出なかった。二人を敬慕する気持ちが深いのは、こんないきさつがあるためだが、伊藤の柔和な表情の裏にある強情さ、意志の強さを思い知る。伊藤がゆきに心服するのは、その才覚ゆえではない。商人としての心構え、商売に取り組むひたむきさ、骨惜しみしない姿勢に対してである。伊藤はそれを「背中で教えてくれた」と表現し、「商人の業を見た」と言う。今に続く基本三つの「ない」伊藤がゆきに教えられ、今も商売の基本とするのは三つの「ない」である。「お客様は来てくださらないもの」「お取引先は売ってくださらないもの」「銀行は貸してくださらないもの」もちろん今では、イトーヨーカ堂の店舗は客を集め、問屋も銀行も競って取引を求める。しかし、その状態が続く保証はどこにもない。状況は明日変わるかもしれない。だから三つの「ない」を前提に、すべてを考える。その時、商人が頼れるもの、立つべき基盤は何か。それはお金でも物でもなく、信用である。伊藤が信用を失いかねない行いに対して、自分にも社員にも極めて厳格なのは、そこが商人の根本と考えるからである。例えば、伊藤は創業以来、取引先に対する支払いを遅らせたことは一度もない。社員には取引先から接待を受けるのを厳に禁ずる。どんなに売り上げや利益が増えても、この基本哲学が揺らぐことはない。その厳格さと持続性が、伊藤の商人としての際立った特徴だろう。自分が商人であると規定し、そのためには教えられたことを守り抜くのだと素直に考える。そうした精神の働きがいかにして可能なのか、不思議にさえ映る。ゆきの骨惜しみしない姿にも、伊藤は大きな影響を受けたに違いない。「骨惜しみ」という言葉自体、死語になりつつある観があるが、骨惜しみしないのは商人の基本動作と言ってもいいものである。個人的な感想を差し挟めば、「モノが売れない」と言いながら、仕入れを他人任せにして手を抜いている商店のいかに多いことか。ゆきは北千住の店が繁盛し、店員が増えてきた時、厳格にしつけた。当時、伊藤の家族は店の奥に住み、店員の多くも住み込みだった。ゆきは一室に陣取り、朝の挨拶、食後の挨拶をさせ、気付いた点は注意した。店の中央に銭湯の番台のような形でレジがあり、そこに座って店員の接客態度に目を光らせる。イトーヨーカ堂のしっけが厳しいのは業界では有名である。ゆきが残したものは今も脈々と生き続けている。勝てば勝つほどに抱く「恐れ」譲は「報われることが少なかった」と、伊藤は思っている。それにもかかわらず決して腐ったり、投げ出したりせず、真撃に人生を送った。「辛いのが分かっていてもそちらを選び、真っ直ぐに生きた人」である。譲がある時、「店を開いたばかりの時は、売り上げを神棚に供えて拝む。ところが軌道に乗ると、書き入れ時の盆暮れしか店に顔を出さなくなる。そんな店主が多い。開店時の真剣な気持ちをいつまでも忘れないことだ」と伊藤を諭した。洋品店では実際、そんな経営者が多かった。伊藤はこの言葉を片時も忘れず、自らを戒めてきた。伊藤は譲を「商売の師」と言うが、それは商売の技術を教えられたことではない。商人としてのあり方、もっと言えば人の道を教えられたのである。伊藤の商売の原点を探ってゆくと、ゆきと譲に行き当たる。ゆきと譲から受け継いだのは、「地道に、誠実に」という「商人道」と呼んでもいい古風な思想に見える。一つ断っておくが、伊藤は勉強家で経営書もよく読んでいるし、現代の経営技術にも通じている。小売業が常に変化に対応していなければならないことも、よく承知している。それでも、20歳で小売りの世界に入ってから約60年を経た今日まで、哲学はピクリとも揺るがなかった。イトーヨーカ堂は現在、小売業界の勝者と言っていい。勝ち残った要因は、この哲学以外に見出せない。伊藤は「針の穴を通り抜けるような幸運に、幾度となく恵まれた。自分は運が良かった」と語る。実感かもしれないが、謙遜でもあろう。幸運で数年はもっても、60年はもたない。伊藤が印象深い一言を語った。「経営者は恐れを知らなくてはいけないのではないか」という言葉である。人間にも企業にも、自分の力ではどうしようもないことが起こる。人は病気にもなればけがもする。企業も天災で致命的な打撃を受けるかもしれない。それはいつ来るか分からない。人も企業もその意味では、小さな存在である。伊藤に勝者の驕りなどない。60年間「恐れ」を持ち続けてきたし、勝てば勝つほど「恐れ」を強く抱くのである。(文中敬称略)日経ベンチャー2003年11月号より次は、伊藤雅俊 イトーヨーカ堂名誉会長「商人とは、経営者とは」第3回です
2004.04.05
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