ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

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2020.06.28
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カテゴリ: 社会時評
2020年6月、静岡県では、大井川最上流部の地下深く建設が予定されている、南アルプストンネルの是非をめぐって、対JR東海との協議で揺れに揺れている。問題は、大井川の地下深くに建設される、トンネル工事に伴う水の喪失だ。この水問題は、過去、流域住民や産業の犠牲にちりばめられた地域開発の歴史を持っている。いま、この歴史をたどってみる。
 大井川流域の過疎化は、過去に建設されたダム建設と深いつながりを持っていた。ダム建設それ自体は、過疎対策とは一応無関係であり、農業用水、飲料水、工業用水の確保、電源開発、流量調節を目的とするものであることはいうまでもない。
 しかし、ダム開発が、地域の振興の手段をうたい文句として行なわれてきたこともまた明らかであり、アメリカ、1930年代の大恐慌への対策としてとられたニュー・ディール政策の一環であるTVAがその典型例である。我が国においても、第2次大戦後の地域開発において、河川奥地の電源開発が産業復興の観点から行なわれ、地域振興の旗印が高く掲げられたことは周知の通りである。しかし、電源開発の恩恵は、電力資本(静岡県にあっては中部電力)と鉄鋼業など重化学工業が享受したところであって、地元地域にはほとんど及ばなかったことがたびたび指摘されている。
 宮本憲一教授は、「特定地域開発の決算書をつくってみると、明らかに、これは電力資本の水資源の独占的利用―地域独占の完成にあったといってよい」「特定地域開発のおこなわれた地点は、今は巨大なダムを残して過疎農村となっている。……日本経済の復興の育ての親ともいうべき特定地域の地元民は、育てた子供たる財界からすてられたのである」と厳しい意見を述べている。本節では、大井川に建設されたダムを取り上げ、ダム建設が地域社会にどのような影響をもたらしたか、またそのことが過疎問題とどう関連しているのかを考察したい。大井川の水問題は、かかる歴史的考察を経てはじめて正しく認識されるからである。(注)
 1951年の電力事業再編令により、電力事業が全国九電力会社に再編されたのを機に、田代ダムを除く大井川水系の全発電所は中部電力に移管された。当時は、朝鮮戦争による特需景気で工場生産が活発化し電力需要が大きくなっていた。
 このため電源開発は「国策」として強力に推進されており、中部電力は愛知県の矢作川などで水力発電事業を推進していたが、大井川で大規模ダムを建設して、出力の大きい水力発電所を建設し、名古屋方面への電力供給を図ろうとした。大井川上流の井川村(井川ダム)と奥泉地点(奥泉ダム)が注目され、この二地点にダムを建設する計画が1951年から立案された。

 井川ダムと地域社会の変貌
 大井川の上流部で、現在では南アルプスの玄関口である静岡市井川地区は、東西12キロメートル、南北68キロメートル、総面積約500平方キロメートルの地域で、昭和27年頃、戸数553個、人口2873という小さな山村で、山間奥地の農産物は、粟、稗、玉蜀、黍などであった。他は山に猟をし、川で漁を行なうくらいで、主な仕事は川狩作業(注)くらいのものであったといわれる。

(注)二つの意味があり、一つは川で水をせき止めたり投網を打ったりして魚を捕ること。もう一つは木材を、筏(いかだ)に組まずに一本ずつ上流から下流の木材集積地へ流し送ること。トラックがなかった時代にはこの方法で切った木材が市場へ運ばれていた。大井川の最上流部でも、「鉄砲」と呼ばれる筏流しが行われており、私たちは、35年ほど前の6月上旬、アイスバーンを踏みしめながら「鉄砲」の跡を確認できた。

 ダム建設に関する最初の話し合いは、昭和27年4月、井川村で村民代表10人と中部電力との間に開かれたが話し合いは決裂した。そこで、静岡県総合開発事務局が調停に乗り出した。また昭和27年6月には、村民達も栗山村長を会長とする「ダム対策委員会」を組織し、前後20回にわたる協議を行ない、ダム建設に対する以下の3点の代償を求める決議をした。
 村民が長年にわたって念願している井川―静岡の大日道路を、井川ダムの完工するまでに完成すること。村づくりを進め、文化の水準を高めること。村民の納得のゆく個人補償の完遂と、現在の生活を上回る民生の安定をはかること。
 そして、さらにこの三大原則を基として、公共、厚生施設の完備、移転の補償及びそれらの補償に付帯した条件などを書き並べた膨大な要求を作成し、この要求に対して満足な回答が得られないならば、ダム工事を認めることは出来ないとして中部電力に提出した。
 また、昭和30年6月16日、村では村長はじめ35人からなる「村づくり推進委員」を選定し、水没後の具体的な村づくりについて、中部電力と折衝することとした。まず、造地計画について、標高665.4メートル以上800メートルまでの間で数か所の土地が選定された。特に水没地の代替耕地は農林省と静岡県との協力により適地調査をした後、西山平をはじめ割田原、久保山ほか数地点を、農地法により国有地を未墾地買収し、これを中部電力が田及び畑に造成した。
 未墾地買収の面積は、畑地、山林、原野あわせて116,578坪にのぼり、この中から田を21,103坪、畑37,969坪、採草地36,859坪、総計97,930坪を造成することになった。未墾地買収の面積に比べて実際に造成された農地面積が1,800坪以上も縮小したのは、村外移転希望者が2,30戸くらいの見込みであったのに対し、実際には79戸となり、代替補償を受ける人たちの中に代替地でなく金銭決済によって補償してほしいという人が増え、代替農地が減ってしまったことによる。
 補償の第二次折衝は宅地造成であるが、水没者を二通りに分け、比較的営農面積の少ない者、及び農業を生業としない世帯を第一分類とし、これを収容するために湛水地内の水深の浅い地域を埋め立て、5,523坪の宅地を造成したのである。そして、これに伴う道路、排水路など1,475坪、未分地362坪、側敷23坪を造成して44戸を移住させた。次に水没者のうち農業を主体とする世帯を第二分類とし、これを収容するために西山平を造成して25戸を移住させた。
 補償の三大原則の一つである文化村建設について、中部電力は村の要望に従い次の事業を完成していった。井川えん堤から湛水の末端、最上流部落の大河内まで、湛水池の右岸に六メートル幅の幹線道路を、11キロメートル完成させた。また、対岸の岩崎、上坂本の両部落を結ぶ2.7メートル幅延長2キロメートルの上岩崎道路を建設し、この道路と右岸の幹線道路とを結ぶために湖面を横断して、2.7メートル幅、延長258メートルの井川大橋を架設した。
 この他、玉川村横沢から大日嶺開拓村を経て井川えん堤に至る道路の工事が、国、県、中部電力及び井川村の4者によって着手され、昭和33年3月、井川林道として完成した。また、上水道の敷設、山地農業研究所を兼ねた西山公民館、これに並設した共同作業所、火葬場、プール、郵便局、派出所、駐在所などが設けられた。
 これらの補償を経て、井川ダム建設は完成された。しかし、前にも述べたが、村外移転希望者が当初の2、30戸の予定が、実際には90戸にのぼり、その後も人口流出が続いた。商品経済の波が井川村においても進みつつある時期に、ダム建設による村づくり計画は、井川村の急激な擬似都市化を進展させ、人口流出を加速させたといえる。
 それは第一に、それまでの自給自足的の生活が崩れつつある時期に、ダム開発により、静岡という都市への交通が容易となった事による。交通手段の整備による都市との時間距離の縮小は、本来ならばその地域の発展をうながすはずだが、農山村の内発的な経済開発が並行して進まない場合には、ストロー効果によって人口流出促進にむすびつく。

 そして農山村にとどまっても、将来性は期待出来ないと考えるものは、農業をやめて都市に流出してゆく。逆に都市から遠く離れて都市化の洗礼をあまり受けていないところでは、たとえ都市との所得格差が大きくても、それほど不満感は持たず、現状維持的傾向が強い(32)からである。
 次に、補償により村人は土地から解放されたといえる。これは祖先から受け継いだ土地はダムの底に沈んでしまい、替わりに土地を与えられたとしても、それは愛着ある祖先の土地ではない。これに加え、一時金を受け取ることが出来たなら、都市に出て行く条件は整う事になる。
 一方、村に残った者は、その後どうであろう。静岡県は早い時期から井川の村づくりを考え井川の山地農業について調査を行なっており、県の農業指導者・高島権三技師を送り、農家の代表を選び、駿東郡原里村に派遣し、技術を習得させ、あるいは品種の選定などあらゆる研究を積み重ね、海抜八百メートルに寒冷地稲作を成功させたのである。
 このような静岡県の努力により、一時的な所得の増加はあったが、高島技師が村を去ってからは年々収穫量が減少していった(33)。ダム開発により、それまであった村の秩序は急速に崩壊した。ダム開発が行なわれた時は、それまで自給自足を中心としていた村にも、徐々に商品経済が浸透して行こうとする時期にあたっていた。
 ダム開発による道路整備は、地方都市に近く、しかも東京という大都市にも比較的近い都市の影響を受けやすい村の住民にとって、一家して転出して行くきっかけとなった。挙家離村である。また、都市の側からみると、農村に市場を求める資本は、村への交通が容易になると同時に、大量の商品を送り込み、村人たちにその消費者としての資格を付与したといえる。

 しかし、ダム建設は村を一時的に「豊か」にするとともに前記現象を急激に早めた。そして、その急激な変化に村人が逆らうことができなかったのは、それは村人のせいでもなければ、開発側のせいでもなかった。それは「神の見えざる手」になるものと言えよう。

(32)(33)武市光章『大井川物語』二昌堂書店、昭和42年、527ページ。以下、井川ダムと地域社会に関する事実経過説明は本書によっている。今井幸彦『日本の過疎地帯』岩波新書、昭和43年、
(34)武市光章、前掲書、537ページ。





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最終更新日  2020.06.30 20:40:56


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