ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

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2021.01.20
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カテゴリ: 労働
鉄づくりは、産鉄から精製、製品化、流通、販売まで、古くから地域社会と一体となった、共生のネットワークの中で行われていた。明治維新以降は、周知のとおり産業革命の要請によって高炉方式へと切り替えられ、大量生産の原理にしたがうべく、巨大マニュファクチュアへと変化し、地域社会ネットワークは姿を消してしまった。本稿は、前資本主義的生産関係の下での、鉄づくりを考察し、資本主義的生産様式における、いわゆる「本源的蓄積」過程の研究の一助とするものだ。あわせて、古き良き時代の面影をしのぶことを狙いとしている。
 皆さんは、「村の鍛冶屋」という歌をご存じだろうか。昭和23年生まれの筆者には、どこか頭の隅に残っている歌の一つだ。「村の鍛冶屋」は、作詞・作曲者不詳の文部省唱歌(尋常小学4年 1912年 大正元年)だ。まず、作者不詳のオリジナルの歌詞を紹介しよう。この歌詞の中に、古い鉄づくりの真髄が込められている。
 なにせ古い歌なので、掲載は可能だろう。著作権の残存している歌詞は、転用できないことになっている。口語体のママ乗せたので、多少の違和感はあるだろうが、意味を把握することは、若い世代にもできるだろう。( )の中に読み方をつけておいた。一番から五番まである。


暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
ふゐごの風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋



早起き早寝の知らず
鐵より堅しと誇れる腕に
勝りて堅きは彼が心


刀はうたねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬(くわ) 鋤(すき)よ鉈(なた)よ
平和の打ち物 休まずうちて
日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)注の敵と


稼ぐにおひつく貧乏なくて
名物鍛冶屋は日日に繁昌

槌うつ響にまして高し

注 怠けること、怠惰

 筆者は、1月末までに「たたら製鉄」に関する小論を学術書に書かねばならず、毎日構想を練っていたところ、子どものころに聞いたこの曲を突然思い出した。面白いもので、最近30年も40年もこの曲は聞いたことも歌ったこともないのに、突然ひらめくように脳裏に去来したのだ。
 この歌は繰り返すが、作詞者、作曲者ともに不詳。初出は1912年、大正元年12月「尋常小学唱歌(四)」と言われている。とすれば、私の母はこの歌を聞いて歌ったことがあるに違いないが、今はコロナ禍で、会うことすらできない。
 歌詞は、当初のものから時代により書き換えられながら、長く全国の小学校で愛唱されてきたと言われるが、昭和30年代頃から農林業が機械化するにつれ、野道具の需要が激減し、野鍛冶は成り立たなくなって、次第に各地の農村から消滅していった。鍛治町という地名は、日本各地にある地名で、江戸時代に各藩の城下町で鍛冶職人を住まわせた町であることが多いとされており、鍛冶町と書く場合もあり、静岡県浜松市に存在する。鍛治町は、封建権力のいわば殖産興業政策の工業専用地域的特区であった。岡山県の法然上人の菩提寺の誕生寺では上人没後、津山市の鍛冶職人や周辺の百姓の協力で梵鐘づくりが行われた記録が残っている。(参考文献 田中祥雄、袖山榮眞『美作誕生寺古記録集成』山喜房佛書林、2017年)

 話を「村の鍛治屋」に戻そう。作業場で槌音を立てて働く光景が、児童には想像が難しくなった昭和52年には、文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除された。以後、教科書出版社の音楽教科書から消えはじめ、昭和60年にはすべての教科書から完全に消滅した。道具屋で販売する刃物を製造する工場はあり、町の鍛冶屋は非常に少なくなっているが、それでも日本各地に残っており、地元の農家を支えていると言われる。

 1903(明治36) 年4月、小学校令の改正により定められた小学校用の国定教科書「尋常小学讀本」には次のような記述がある。(資料は国立公文書館のアーカイブで閲覧できるhttp://www.archives.go.jp/)
「第十 かぢ屋 
 僕の近所に年よりのかぢ屋があつた。せが高く、目がするどくて、ちよつと見ると、おそろしいが、いたつて氣だてのやさしい老人であつた。
『トンテンカン、トンテンカン』と、毎朝早くから弟子を相手につちを打つ音が聞える。一日も休んだ事がない。僕は時々其の仕事場の前に立つて見てゐた。ある時は釘をこしらへてゐた。ある時は鎌をきたへてゐた。又車のわを打ってゐた事もあつた。僕の家で一度つるべの金たががこはれた時、つくろひを頼んだ事があつたが、翌日すぐにこしらへてくれた。夏のどんな暑い日でも、あせを流しながら、暮方まで働いてゐた。仕事をしながら、僕に色々な話をした事もある。ある時の話に、 『自分は今こそこんな小刀や釘などを造ってゐるが、元は少しは人に知られた刀かぢで、若い時から何十本となく大太刀・小太刀をきたへた。刀は武士のたましひといはれたものだから、きたへる時は身を清めて、一心不亂に打つたものだ。』といつた。
 何時も丈夫さうな老人であつたが、去年の暮に死んでしまった。其の時分までよそへ奉公に行つて居つた若いむすこが、今では其の後をついで、朝から晩まで相かはらず、『トンテンカン、トンテンカン』と働いてゐる。」

 岡山県津山市には「作州鎌」(津山鎌)が残っているが、これも鍛冶屋の伝統的な遺産であろう。津山市には鍛治町という地名が残っているが、これは、城下町時代(森藩)に計画的に配置された鍛冶職人の作業場で、周辺の産鉄地域から鍛冶職人を集めて住まわせたという。生産された鉄製品は城下の需要にこたえたばかりでなく、周辺の農家の需要にも応え、農耕生産力の発展に寄与したことは寄って知るべしであろう。農耕生産力の発展は剰余労働の絶対的・相対的増大につながり、剰余生産物の増大を意味し、耕作地の拡大と貢納を拡大させ、農産物を原料としたの小商品生産物したがってまた地域市場を拡大させていったことは容易に想像できる。資本主義に先行する本源的蓄積に不可欠な「資本」の蓄積が進行したのである。

 この歌の主人公である老職人は、農具など野道具や山道具を製作する職人で「野鍛冶」と呼ばれた。彼らは歴史に名が残るような刀鍛冶ではなく、地域の農民とともに生きる無名の野鍛冶であり、武勇のための兵器ではなく、民衆が平和時に生産に励むための農器具を鍛える自己の職業を誇りとしていた。しかし、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)3月刊の「初等科音楽(二)」に収録されたときには、三番以降の歌詞の後半(平和のうち物 休まずうちて)が、戦時下の国策に不適当として教科書から削除され、今に伝えられている。音楽が戦争に利用されてきたことは周知の事実だが、歌詞まで書き換えていたことは誰も知らないだろう。
「鉄のふるさと ー失われた鍛冶屋と地域とのつながりー」というタイトルにしては、いささか内容が貧弱ではあるが、別の機会に論じたいと考えている。





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最終更新日  2021.01.21 11:11:36
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