ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

2021.11.05
XML
カテゴリ: 芸能資本主義


みなさん方、今回の反社会的勢力と関係した不運で不幸なお笑いさんと吉本との確執は、どたばた劇にすぎないのか、はたまた熟考すべき社会問題なのか、確かに反社会的勢力と芸人との結合関係は暴対法強化以降の社会的問題だ。FRIDAYのスクープもこの延長上にある。芸人二人の落ち度は明らかだ。嘘をついたことも、5年前の曖昧な記憶が災いしているとはいえ、責められてしかるべきだ。

 とは言え、果たして吉本から契約解除されるべきかいなかは難しいところだ。マスコミはその後の吉本の対応(23日の5時間の社長記者会見)に非難ごうごうの質問を浴びせかけた。「冗談で言っただと、ふざけるな」「今の時代にパワハラを冗談で済ませるのか、アホちゃうか」「よれよれ会見だ」とういう訳だ。実はこの問題の背景には、芸人と事務所、テレビ局、暴力団の「社会=分散化」を繋ぐ構造変化があるように思える。この構造変化は、スポーツ界にも言える資本主義の構造変化だ。公取委はスポーツ界の競争制限行為についても軽く指摘した。この問題について暫く考察を加えよう。
 その前に、吉本社長の5時間に及ぶ7月23日の「ぐだぐだ」記者会見をじっと見た後、翌日のテレビ報道を見ると、まず23日ののっけから東京系の羽鳥慎一率いる報道番組に続いて、「ひるおび」はこぞって激しい、かつもっともらしい吉本批判をエアコンの効いたスタジオから繰り出した。
 私は、22日はちょうど横浜のマッカーサーの「ニューグランドホテル」へ仕事で泊まって、帰宅途中、夕方まで車の中でテレビを見ることができたので、「ごごすま」をはさんで、「ミヤネ屋」まで4大報道番組を見ることができた。一見して分かるように、前2社が激しい、根拠に乏しい吉本社長攻撃を繰り出したのに対して、ミヤネ屋は吉本それ自体の擁護論を展開した。「競争制限行為を公取委に取り上げさせろという」バカなコメンテーターもいる。そんなことをしたら、ジャニーズも無傷ではいられないよ。元ジャニーズの若いタレントの中にも、公取委や局ががジャニーズに忖度しているという人がいる。
 もともと、吉本や阪神タイガースの人気は、東京の権威主義への反抗であり、議論がかみ合わない。桂三枝が巨人ファンから阪神ファンに変わるのに、10年かかったという。反社にまみれた横山やすしが関西お笑い文化に受け入れられる理由は、東京の頭でっかちのコンプライアンス主義者には理解不能だ。わずか数年六法全書をかじっただけの司法人の屁理屈では、今回の問題は到底理解できない。いわれのない吉本批判は、ギャラ欲しさの「ギャラ飲み」とレベルにおいてたいして変わらない。
 かと言って、やすしやノックのお笑い文化が踏襲されてよいわけではないが。時代は明らかに変わっている。文中指摘したように、スポーツ、芸能関係の不祥事の多くの問題は、現代の資本主義の構造変化の問題なのだ。この点は、小出しではありが追って説明してゆく。
 今日のところはここまで。


 地獄の双六 吉本興業の不祥事

 7月24日段階での報道番組が伝える、吉本芸人二人の反社会的勢力との金銭授受疑惑に対する吉本興業代表のパワハラまがいの不適切対応に関して、エアコンの利いたスタジオでの芸人タレントを含む吉本興業関係の芸人たちの反応を彼らの言葉を借りてまとめると以下のようになる。

「地獄の双六」芸人
「加藤の乱」民法TV局 極楽とんぼの加藤が吉本に直訴したことを表現。
「売れてるから言える 自主路線」吉本興業教育関係者
「吉本牧場」吉本興業教育関係者
「契約解除は死刑宣告」吉本興業売れっ子芸人
「下請け法違反だ」民法TV局
「自称吉本」Nスポーツ
「寝不足芸人いっぱいやろな」HM吉本興業芸人
「5990人の芸人はファミリーと思ってない」吉本興業芸人
「黄金の方程式の副作用」大崎会長が当時25才の若さで、東京事務所開設後、ダウンタウンを師匠なしで有名にしたビジネスモデル。ワイドスクランブルコメンテーター
「タレントの倍働けでやって来た」「退職高齢者を再雇用せよ」吉本もとマネジャー
「アメリカの職種別の組合を作る」評論家
「吉本が誰のために何のためにあるのか」をはっきりさせる 評論家
「研修講師になりたいから吉本の看板がほしいと言う人もいる。6000人の中にいる」元吉本マネジャー

(羽鳥のモーニングショー、ワイドスクランブル、ミヤネ屋等7月24日を参考にした)
 今回の事案は、不謹慎だがまるで吉本新喜劇を見ているようで面白い。反社会的勢力との疑惑は論外だが、起承転結の最後は笑いと涙のハッピーエンドであってほしいと願っている。


 吉本興業失態事件に群がるピラニア芸人たち
 一国の首相が吉本新喜劇に登場して人気を博する時代だ。政治がお笑い化しているが、この事については別の機会にゆずります。ヒョーロン家や売れない弁護士、事務所に籍を置くキャスター崩れのコメンテーターたちが、ピラニアの如く「闇営業」のエサに群がっている。これに各省庁が入り乱れて、新喜劇を演じている。
 これに特任○❌なる冠をかぶったお笑い教師が加わって、まことしやかな他人批判や自己弁護劇を演じている。特任○❌にとってはお笑いの世界はうってつけのアルバイト先なのだ。
 そう言えば、2011年の東日本大震災直後にも、売名行為見え見えの売れない芸人や消費期限切れのタレントが、被災者の不幸にかこつけて出てきたが、良くできたもので、このピラニアたちの中で生き残ったものは一人もいない。震災ただ乗り一発屋だったのだ。
 バカの一つ覚えのように「ガバナンス、コンプライアンス」「契約」をおうむ返しする落ち目のヒョーロン家の言葉をよく聞けば、口約束で自分の仕事がなくなるのが心配なだけだ。また「契約解除は死刑宣告に等しい」というキャスターは、自分の仕事がなくなる夢に魘されるのだろう。また胸に手を当てると「過去に反社会的勢力と関係があったかもしれない」「捏造された写真で脅されるかも知れない」、はたまた「現に付き合いがあるかもしれない」ギャラ飲みのお笑いさんにとって、このお笑い騒動の裏で眠れぬ毎日を送っていることだろう。火の手はジャニーズの領域をなめ尽くすかもしれない。
 そしてこのような世界とは全く縁遠い世界にいるサラリーマンや一般庶民はTVや週刊紙を見て笑い転げていることだろう。新喜劇は終わることのない儚い夢なのかも知れない。


 芸人商品の属性研究序説
 ここでいう「芸人」とは、「芸」を生計の資として売って生きるあらゆる階層の人びと、誤解を恐れずに言うと、資本主義の発展によって、実体経済に機械や、さらにはコンピューターが導入され、それらがAIと結びつくようになると、サービス経済化が進み、「笑い」や「芸」「感動」「躍動」「美」「情動」等を自らの身体表現の結果としての「商品」を売ることを使命とする、資本の自己増殖の結果としてのあらゆる形態の利潤、その派生形態の税収によって養われる、自営的存在の不生産的階層としての人びとー芸能人的職種、タレント、ライター、クリエイター、弁護士、タレント議員、首長、コメンテーター、フリーアナウンサー、大学に寄生するエセ教員等が「芸人」資本主義の担い手として登場し、行き場所を失った資本は、更なる増殖を求めて芸能プロダクションやスポーツクラブ、養成学校などへ流れていく。資本主義のこのような発展段階を芸能資本主義と規定し、グローバルな角度から分析する経済学の分野を「グローバル情動資本主義」と呼ぶ。。
 既存の経済学は、近年急速に拡大し影響力増している、これら社会集団に関する分析を著しく欠いている。
 これらの階層は、テレビ、雑誌等のマスメディア、小屋掛け、ライブ会場、劇場等で芸を披露し、ギャラという対価を得るのみならず、番組等の制作者の意図を満たすべく、芸を磨き、反転化した自己を観客(聴衆)に提供する。それは一見して「美」を売るビジネスに見える。しかしその「美」は性フェロモンが充満する、「官能」産業とも言える。
 私は大学教員だが、このような舞台芸術を日々大学の教室の教壇で演じている芸人(役者)である。私の友人で、今有名私立大学の学長をしているM教授は「大学教授は役者だ」を口癖にしていたが、別な意味でまったくその通りになった。以下は「芸人」全般に当てはまるわけではないが、少なくともいくつかは当てはまる性格特性だ。

1 自虐的人生観 笑を売る 媚を売る 脱羞恥心 ↔ ポジティブ
2 自己顕示欲 ↔ 内省的 ニヒリズム
3 オプティミズム ↔ 厭世観(悲観主義)
3 虚栄心 ↔ ブランド志向 ↔ 高級マンション 外車
4 義理人情 ↔ 宵越しのカネは持たず
5 センセイションシンキング ↔
6 自己愛性パーソナリティー障害 ↔
7 ナルシズム(自己愛) ↔ 
8 マザーコンプレックス ↔
9 積極的 ↔ 消極的
10 攻撃的 ↔ 防衛的
11 開放的 ↔ 閉鎖的

↔の右側には対義語が入る。共生、清貧、自他一如、勤倹誠実、虚心たんかい、といった性格特性は今後検討する。
 8を除いて、すべての芸人(商品)に当てはまる性格特性だ。芸人は「商品」だということは誰も否定しないだろう。芸人商品は資本家によって原料として仕入れられ(オーディションやエントリー、昔は路上での引き抜き)、訓練とPRによって商品としてテレビ局や劇場に売られていく。芸人商品は会社に所属しない「モノ」としての商品であり、彼らが人間であるのは「専属マネジメント契約」と「専属エイジェント契約」の文言の中においてである。真に人的でありたいなら、インディーズであるしかない。
(以上の性格特性は検証中であり詳細は上書きして公開します)
 これらの性格特性は、最近高速道路等で危険な煽り運転を繰り返し暴行に及んだ犯人の性格特性に通じるほか、煽られたとして、隣国に煽りをかけ、煽り合戦を演じている某国の官邸政治に似ている。この煽り政治家の周辺には煽りを煽る「同乗者」がおり、上に挙げた芸人的役割を果たしている。
(2019年8月22日)


「商品」としての芸能人 タレント(政治家)、芸人、アスリート

 経済学として芸能資本主義を扱うさいに基本的視点となるのは、彼、彼女らが芸能「資本」によって、労働力「商品」として雇用されるのではなく、資本の循環に必須な「原材料」としての生産手段、厳密に言うと、「不変資本」として利用、消耗されるということである。ここが重要なので、繰り返し読んでいただきたい。労働力商品として雇用されるのは、芸能プロダクションの社員、テレビ局のアナウンサーたちだ。
 この芸能資本主義の資本によって原材料商品となるのは、雇用形態従って契約形態(専属マネジメント契約か専属エイジェント契約か)によって内容規定は異なるが、現状で、固有の芸能人、タレント、ジャーナリスト、タレント議員、アスリート(現役か退役かを問わない)たちだ。芸能資本主義に必要なパソコンや消耗品と同じ位置付けの原材料商品だ。インターネットで、アメリカで活躍しているアーチスト(アクター)が自らのことを商品として位置づけ、自ら輝くことを使命としているといっていたが、まさに核心を付いていると思った。

 一方、芸能資本に位置付けられるのは、いわゆる芸能プロダクション、映画会社、テレビ局、インターネットTV及びこれら芸能資本と取引関係にある関連会社、サプライチェーンである。
 資本主義は実体経済での譲与価値生産が行き詰まり、相対的な縮小を余儀なくされるに従って、「芸能資本主義化」せざるを得ないというのが、ここでのエッセンスだ。芸能資本主義には、前夜すなわち歴史があり、「芸能資本主義に先行する諸形態」が考察されなければならない。静御前、河原芸人、小屋掛け、興業ヤクザの世界だ。しかし、この検証のためには人生がもうひとつ必要になる。あるいは「芸能経済学会」が必要なのかもしれない。
 芸能資本主義「商品」の性格特性に関する試論は、このブログですでに示した。お笑いに関しては、いわゆる反社会的勢力との黒い癒着が取りざたされているが、以上にのべたようなことが解明されて、初めて浄化の道が開けるのではないか。
 私はお笑いが好きだ。アホの坂田ややすしのようなお笑いさんが現れないことを寂しい思いでテレビを見ている。議論が健全な方向に進み、そして笑いながら死にたいと思っている。

演歌に挑戦したい
 これまでPOPsを中心に作曲してきましたが、これからは演歌にも挑戦したいと考えています。演歌と言えば、「義理」「人情」「酒場」「失恋」「恋」「兄弟」「母」「別れ」「出会い」「旅」など、人と人の心の触れ合いの、奥深い部分を表現してきた歴史があります。
 しかしその歴史は古く、 最初は、19世紀末の自由民権運動の時代に遡り、藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために政治を風刺する歌(プロテストソング)として「演説歌」が生まれたとされています。(wikipedhia 以下wikipedhiaによります)
 有名なものに、ダイナマイト節や川上音二郎のオッペケペー節があり、オッペケペーは私も小さいころに聞いた記憶があります。やがて、20世紀に入るころには、自由民権運動も一段落し、演説歌の内容にも変化が訪れ、題材が政治に対するプロテストから社会問題に関する風刺に代わってゆくとともに、ヴァイオリンでの伴奏が導入されるなど、芸人の要素を強めていきました。
 また、担い手も政治運動を生業とする壮氏から書生によるアルバイトに移行するなど、より商業的な存在にもなってゆきます。大衆娯楽として変質したということでしょうか。この時期の作品としては、しののめ節、ラッパ節、ハイカラ節などがあげられますが、私は聞いたことがありません。
 やがて、昭和初期にレコード歌謡の市場が完備されると、演歌師の活動も打撃を受け、盛り場で「流し」をして生計を立てるのが一般的になるとされ、私がはじめて出会った演歌は、酒場演歌でした。私は東京の大学生だったころに、新宿の酒場でアルバイトをしていたのですが、その酒場横丁でよく流しのギター弾きを見かけました。また、そのカッコよさに憧れたものでした。
 この昭和初期の演歌については、実証的な研究は少ないと言われ、同時代の演歌師であった添田唖蝉坊とその息子、添田知道の著作が、主要な情報源として用いられているとされています。一方でその政治的な態度についての証言に対しては、倉田喜弘や西沢爽が実証的な批判的研究を行っているとされ、これは今後の課題としたいと思います。
 演歌は艶歌とも言い、独特の節回しとギターや三味線による心の銀線にふれる日本的な曲と歌い方が特徴です。演歌には、ビールやワインよりも日本酒や焼酎が似合うと言われ、それはいわゆる「酒場」の「流し」によって奏でられる曲をイメージするからでしょう。
 J-POPがどちらかというと、ひとの感情を控えめに表現するのに対し、艶(演)歌は、極限まで人の感情を背景となる風景描写に投げかける日本独特の曲の構成と歌唱方法ではないでしょうか。
 以上をまとめると、演歌はもともと政治・社会的な主張を「歌」に乗せて届ける、日本的なコミュニケーション手段で、それがJ-POPなどの洋楽と棲み分けを求める中で、今のような歌謡曲になったということでしょう。「演歌」はいつも「何か」を主張し続けてきたと言う点で洋楽に卓越した存在だということはできないでしょうか。今に求められる「何か」とは一体何なんでしょうか?


 芸人は労働者か? 子供タレントの合法性に関連して

 近年、子どもがCMをはじめ、古くからある「子役」に加えて、様々な場で芸能者として活躍する機会が増えている。同じことは、アマチュアスポーツにおいても、早くから芸能事務所に所属し、メディア等への「露出」を通じて、ファンを獲得し、スポーツを盛り上げる手段として、「少年少女」の起用が増えている。このことは、好ましいことではあるに違いないのだが、加熱しすぎると、社会問題にもなりかねない。そこで、ここでは「芸能人」が労基法上の労働者であるのか、労働者でないとすると、いかなる働き手なのか、根源的な問いかけを行ってみたい。
 まず、労働基準法第9条では「職業の種類を問わず、事業又は事務所に使用される者で、賃金を支払われる者」と定義されている。使用者の指揮命令を受けて労働力を提供し、その労働の対価として賃金を支払われる者は、本条でいう「労働者」に当てはまる。契約の形や名称にかかわらず、実態としての雇用契約(民法第623条)が締結されていると認められるかどうかが基準となる。私は、長年大学教授であったが、引用した雇用契約の下で働いてきたわけで、まぎれもなく労働者として働いてきたわけである。だから、この小論の問いかけは、芸能人は「サラリーマン」と、労働法とは別に、経済学的にどう異なるかということになる。
 したがって、小中学校の児童・生徒としての子どもが芸能活動を行う場合、「労働者」と認められる場合、それは労基法によって深夜労働が禁止されることになる。「労働者」でない場合は、禁止されないことになる。しかし、ここでは、まず「子供タレント」が労働者かどうかは一応置いておき、芸能人が労働者かどうかを考えよう。

 労働省(現在の厚生労働省)が、1988年(昭和63年)に発した通達「昭和63年7月30日基収355号」の一般的な呼称で、芸能人が、うえにみた労働基準法第9条でいう「労働者」に該当するかどうか(芸能人の労働者性)の判断基準を示した「芸能タレント通達」をwikipedhiaからの引用を交えながら考察しよう。当時の人気アイドルグループ・光GENJIの活動が時代背景としてあったことから「光GENJI通達」とも俗称されたようである。
 1988年当時、光GENJIは、たびたび夜の生放送番組に出演していたが、当時の光GENJIには、中学生のメンバーが2人いたため、15歳未満の者の深夜業を禁止した労働基準法第61条5項に照らし合わせると、彼らの活動は、同法に抵触するのではないかと疑義が出された。こうして、労働基準監督署が、同年6月に光GENJIの所属するジャニーズ事務所へ調査に入った結果、「報酬面」「税法上の取り扱い」「事業所所得として課税されている」などの実態があり、光GENJIのメンバーは「(労働基準法上の)労働者とは認められない」(=労働基準法は適用されない)という判断を下したのであった。つまり、個人事業主としての契約実態が示されたということであろう。
 実は、それもそのはず、これに先立ち、1985年(昭和60年)には、労働省内の「労働基準法研究会」が「労働基準法の「労働者」の判断基準について」という報告書を出しており、これによれば、「労働者性」の有無は「使用される=指揮監督下の労働」という労務提供の形態及び「賃金支払」という報酬の労務に対する対償性、すなわち報酬が提供された労務に対するものであるかどうかということによって判断され、そのうえで「専属度」、「収入額」等の4つの要素をも考慮して、総合判断することによって「労働者性」の有無を判断することとなっていた。経済学的に言えば、資本によって雇用される「労働力商品」の販売者としての労働者である。
 この報告は芸能タレントに限ったものではないが、「労働者性」について包括的な判断基準を示したものだった。現在においても、芸能タレントの芸能プロダクションとの間における労働者性についての判断基準は基本的にこの報告に拠っている。繰り返しになるが、芸能人は芸能プロダクションによって雇用される「労働者」ではなく、芸能という労務を提供する個人事業主であり、芸能プロダクションサイドから言えば、テレビ等に「芸能商品」として販売する「商品」である。芸能プロダクションにとって「労働者」は、同プロダクションの社員である。この「芸能商品」を考察するのが『資本論』の未開拓の仕事であると、筆者は考えている。
 こうした背景があって、労働省は都道府県労働基準局からの問いに答える形で1988年7月30日に上述の「芸能タレント通達」をだしたとされる。内容は1985年の「労働基準法研究会報告」を受けて、以下の4要件を全て満たす者は、労働基準法第9条の「労働者」に該当しないとするものであった。①当人の提供する歌唱・演技等が基本的に他人によって代替できず、芸術性・人気等当人の個性が重要な要素となっていること。②当人に対する報酬は、稼働時間に応じて定められるものではないこと。③リハーサル、出演時間等スケジュールの関係から時間が制約されることはあっても、プロダクション等との関係では時間的に拘束されることはないこと。④契約形態が雇用契約でないこと、以上である。
 以上の4要件によって、労働基準法第9条の「労働者」に該当しないとなれば、労働基準法で定める種々の規制(労働時間、深夜業を含む年少者保護等)は適用されないことになる。したがって、これらの条項にとらわれずに活動することができる。ジャニーズの少年2人は労働者ではなく、深夜労働も違法では二ということになった。

 ところで、実際の運用は上の判断に示されたような芸能人としての「人気」や「個性」といった属性は画一的な基準で測れるものではなく、通達発出後も実際の芸能タレントが「労働者」に該当するか否かは、その都度個々の事情に応じてケースバイケースで判断するしかないとされたようである。
 こうしているところへ、1999年(平成11年)12月に当時15歳の女性タレントが深夜の生放送ラジオ番組に出演したところ、所属事務所と放送局の関係者が書類送検されるという事案が発生した。所属事務所と放送局の関係者は当該タレントを「表現者に該当する」と考えていたが、労働基準監督署は労働者であると判断した。この判断については国会でも取り上げられ、当該タレントについて「余り売り出しがまだできていないような方」「労働基準法上の問題に抵触する可能性がございました」とした。
 こうしたことが契機となり、現在では各放送局ともに概ね「たとえ“表現者に該当する人”であっても、15歳未満の芸能人は21時以降に生出演させない」という自主規制を定めている。こうして、規制改革の流れの中で、2004年(平成16年)に通達が発出され、「演劇の事業に使用される児童」については、労働基準法第61条5項の「厚生労働大臣が必要と認める場合」として、当分の間「午後8時から午前5時まで」を「午後9時から午前6時」とすることとなった(平成16年11月22日基発1122001号)。つまり、午後9時から午前6時までの深夜労働は禁止されたのである。
 以上をまとめると、現行法規においては芸能人は上述の4要件を満たす限り労働者ではなく「表現者」、つまり、筆者の規定では芸能プロダクションがテレビ等メディアに販売、提供する「芸能商品」であり、子ども芸能人も「21時から翌朝6時まで」の時間制限を設けて労基法の例外とする、つまり大人と同様に「芸能商品」となり得るというものである。


子役タレントの活躍は社会を映す鏡?

最近、テレビなどを見ていると、「子役」が活躍する場が増えていることがわかります。子役のメディアへの登場は、今に始まったことはないが、子どもが「鑑賞」や「CM」の主体(対象)として登場したのは、古い時代からのことであり、その意味を歴史にさかのぼって考察する必要はあるが、現時点での「児童労働」としての現状や問題点を、考えてみる必要があると思う。
 児童労働が禁止されてから久しいが、今なお一定の条件の下で許されているのが「芸能」の世界だ。芸能の世界は、果たして前近代的な世界なのだろうか。それとも社会の進化をリードする先進的な世界なのだろうか。筆者は、今、だれも考えたことのない世界へ踏み出して考えてみたいと思う。
 人間の欲望には限りがない。一度味わった快感は忘れることができず、次なる、さらなる快感を求めて、快感源を探し求める。このニーズを満たすために新たなサービスがうまれ、提供されていく。そのようなところへ「カネ」と「情報」そして「モノ」と「ヒト」が流れていく。児童労働はなくならないばかりか、資本のさらなる剰余価値の源泉として、搾取対象となっていく。「搾取」という言葉が適切でないなら「人的資源」でよい。この「芸能資本主義」連載では、この仮説を検証していきたい。
 芸能人をめぐるいわゆる「不祥事」が後を絶たず、かなりステレオタイプ化されて続いているところをみると、組織的に仕組まれているか、あるいは業界全体にビルトインされている、発生メカニズムが温存されているのではないかとさえ疑いたくなるのは、私だけだろうか。「反社との付き合い」「不倫」「覚せい剤等危険ドラッグの使用」など、枚挙にいとまがない。
 引用したサイトを一読すればわかるように、適切な契約のもとに行われる子役の活躍は、何ら問題ではないし、親子のきずなを深め、社会の見本にすらなり得る存在だ。しかし、、、である。
https://www.bengo4.com/c_18/n_115/

東出の不倫発覚を一人個人のせいにしてよいのか?
東出昌大、不倫発覚で相当落ち込んでいることが伝えられている。(下記サイト)莫大な損害賠償を抱える可能性がが報じられ、芸能界をあまりよく知らないものにも、ちょっと行き過ぎではないかとさえ感じられる。
スポンサーから言わせれば、事務所からとんだ欠陥「商品」を押し付けられたと言うことになり、倍返しに近い賠償を請求することになるだろうが、それは契約に明記されているのなら致し方ないことではあるだろう。でも「カネ」の問題ではない。
しかし、問題なのは、人間だれしもあるこのようなまちがいが、繰り返し繰り返し芸能界では「再生産」されており、過剰に反応することだ。うまくできすぎた不倫ストーリーとして、どこかで台本ができていたのではないかとすら疑ってしまう。また「影の役者」が存在していたのではないかとも考える。実に迂回タイミングで出てくるものだ。「不祥事」がまるで順番を待っているかのようだ。
覚せい剤しかり、反社との付き合いしかりである。これは、公正取引委員会が指摘するように業界の古さゆえの反作用なのか、したがって克服されるべき課題なのか、それとも業界の内部構造に深く根を下ろした構造的な問題なのか。筆者は、いわゆる「芸能資本主義」を資本主義的生産関係の新しい展開として、腰を落ち着けて考察していくつもりだ。
筆者は、新喜劇を見て育ち、チャンバラ映画や月光仮面から「正義」の尊さを教えられて育ち、旧御三家の歌声には散々励まされて、大人に成長してきた。優しい「兄貴」がいつもそばにいた。性フェロモンの塊ような今の操り人間とは違う「芸能人」がそこにはいた。「愛と死を見つめて」からは愛の尊さを教えられた。かつでの「夢」と「愛」と「正義」に育まれてきた芸能界は一体どこへ行ったのか。
https://news.livedoor.com/article/detail/17838158/


新型コロナは芸能界を直撃する

4月になってからとはいえ、ジャニーズ所属の人気グループ・嵐の予定されていた北京公演が中止の運びになった。実に早い決断だ。このところ、コンサートなど芸能人が活躍するコンサートやライブの中止や延期が相次いでいる。
 こんどの新型コロナウイルスは、とにかく閉鎖空間で「抜群の」感染力を持っている。そのように改造されたウイルスであって、誰かが意図的に遺伝子組み換えを行ってばらまいたのではないかとさえ疑ってみたくもなる。現にそのような情報もネット上で散見される。
 デモンこと閣下も、熊本でのライブが中止になったとテレビで漏らしていた。2月25日、厚労省が新型コロナ対策の「基本方針」を発表し、「イベントの自粛」を盛り込んだものだから、この流れはさらに加速すると思われる。この基本方針、内閣の支持率の低下に気をもんでの「苦し紛れの思い付き」との憶測が乱れ飛んでいる。
 これに対し、芸能プロダクションや、イベント会社などの経済的ダメジは測りがたいものになるだろう。インバウウンド=観光業界では、ホテルの倒産に追い込まれたケースも出ている。そうなってくると、イベントやライブに関係する芸人さんたちの経済的なダメジも懸念される。「コロナウイルス禍」はスポーツ・芸能界においても深刻な影響が予想され、休業補償など「基本的」対策が求められ
よう。
https://www.asahi.com/articles/ASN2K5VTRN2KUCVL031.html


 新型コロナウイルスの攻撃対象は、もはやスポーツビジネスから芸能界へと向けられてきている。厚労省のウイルス撃滅作戦は「ウイルスの巣になるクラスターをつぶす」だが、まるでこの作戦を読んだかのように、次から次へと新たなクラスターを見つけては襲い掛かっている。IQレベルで、新型ウイルスのほうが官邸よりもはるかに勝っている。
 私は、芸人さんが利用するスタジオを何度か訪問したことがあるが、そこはまるで密室そのものだ。当たり前の話で、防音のためだ。そこには、コロナウイルスが好むマイクやアンプ、ドアやロッカー、各種機材などがあり、空気の流通がない密室なのだ。テレビ局での生番組や収録にも何度か行ったことがあり、そこは風通しの良い大学の教室とは違いやはり密室空間だ。すでにギャラリーなしの放映や収録を実施した番組もある。ギャラリーなしの開催はゴルフからプロ野球にも及んでいる。昨日、駅前の居酒屋に行ったが、駅前は閑散としており、居酒屋には私しかいなかった。
 アーチストのダイゴは、なかなかしっかりしているし、よく観察している。無能な政治家や御用学者より、よっぽどしっかりしている。あ、彼はそういえば有名な総理大臣の孫だったか。政治資金集めのパーティーは予定通り開き、「同僚の政治家だってやったじゃないか」と、責任転嫁。生活のかかっている芸人さんには自粛をなかば強要し、休業補償すら払わない。
 こんな政治を何とかするように、芸人さんたちもユニオンを作って戦ってほしい。どうせ仕事がなくなるんなら、反対運動をイベントで展開してファンを繋ぎとめよう。下手するとテレビの制作局、芸能プロダクション、キャスティング、日銭稼ぎの芸人、タレント、モデルさん共倒れになっちゃうよ。司会は、「桜を見る会」を断った千原ジュニアがいい。彼はなかなかしっかりしている。これから気候が良くなって屋外で大規模コンサートもできる、ギリギリ対策をして、corona撃滅一大コンサートを開いたらどうか。
 いや、やっぱり小規模な集会が良い。場所はいくらでもある。賞味期限の切れた歌手や、アーティスト、タレントさんを集合させ、「コロナ不況ぶっ飛ばせコンサート」を開く。尾藤イサオやチェリッシュさんたち、公演にかける費用が200~300万円だって。一人当たり2,3万じゃないの。裏方さんも同じ程度のギャラしかもらっていないというじゃないか。政治資金パーティーはよくて芸人のファンサービスはやめろなんて、ウイルス対策はどうかしてる。https://www.excite.co.jp/…/article/SportsHochi_20200227_OH…/

トランプ劇場とコロナ過で芸人化した大学教師

私はウイルス学者でもなければ、感染症学、公衆衛生や特定の医学分野に精通した医者でもない、あえて言わせていただければ、長い間大学で経済学を教えてきた一介の教師に過ぎません。いや、もっと遜って言えば、生活のための給与を受け取るために、諸規則に従順に従うことを生業としてきた、いち給与所得者に過ぎません。
 長い間学生相手やや講演・研修での聴衆を前にして話をしてくると、上から目線で知識を見せびらかし、多少あやふやなことでも「見てきたようなうそを言い」、自分を尊大に見せるいかさま詐欺師に近いと、自虐的に思うことがある。
 学生や聴衆を前にして話をする商売は、落語家や講談師に近い習性を身に着けており、舞台の上やカメラの前で気取って演技をする役者と言えば聞こえがいいが、見世物小屋の芸人に近い。昔の私の友人で、いま私立大学の学長をやっているA君は、退学教師は芸人だと常々言っていた。毎回の授業で、何回学生を笑わせるかが生きがいだと言っていた。
 とすれば、皿回しの皿と棒を「本」に変えただけだ。現役の大学教授にはすまないが、本質的に大学教師は「芸人」に近い。テレビに出ることを生きがいとしている大学教授はごまんといるが、その目的はギャラと、自己顕示欲の自己満足的充足だ。また大学の管理者も、大学のPRになる教師を競って雇う。
 2020年1月末から、自宅のテレビで、嫌というほどこれらの見世物小屋=大学教師の演じる舞台劇を見てきた。それでも、テレビは手っ取り早くコロナ情報を提供してくれるから、自分と家族の身を守るために、嘘と真実を問わず、メディアの情報を頼りに1年を過ごしてきた。
 今から30年近く前に、中央アフリカで人類を席巻したエボラ出血熱感染を、経済学的視点から研究したことがあるので、今次の新型コロナウイルスに関しては、2020年初頭の武漢ウイルスの蔓延からの事態の推移を、ある程度系統的に追うことができ、山師的報道に惑わされることなく、自分の防護だけでなく、ワクチンの接種から集団免疫、経済の再建の課題を冷静に分析することが出たように思う。
『新型コロナウイルスの影響を考える』を昨年4月、緊急事態宣言が発令されたのと同時に出版して、黙々と情報収集と分析を行ってきた。いかんせん、この道の専門家ではないので、とんだ間違いや早とちりがあったかもしれない。年が明けて2021年の年初、「ゆるい」緊急事態宣言が8日に発令された。解除の条件は東京都の場合500人を下回ること、医療施設のひっ迫状況などだ。
 第2次緊急事態宣言が発令されて、1月23日(土)、東京に限れば、新規感染者数ではやや落ち着きを見せ始めた。政府は新規感染者が500人を切ったら「緊急事態」は解除すると言っている。
 しかし、医療提供体制はひっ迫から崩壊への兆候を見せ始めている。命の選別(トリアージ)さえ行われていると言って過言ではない。いや筆者の目には「命の選別」どころか「命の切り捨て」が始まっていると映っている。
 徹底したPCR検査と封じ込め(ロックダウン)で対応した諸国は再感染の波に対しても、多少暴力的だが、即座に減少に転じさせるすべを心得たように思えるが、日本ではいまだに、初動対応の失敗から何も学んでいないばかりか、だだらとした「感染対策と経済の両立の」予定調和世界から脱出できていない。犯罪の捜査に「初動捜査」が重要であることは誰もが認めることだ。しかし、現政権はこの初動対応の遅れを認めたがらないばかりか、打つ手を心得てさえいない。
 太平洋戦争勃発直前、真珠湾攻撃の情報を察知され、ミッドウエー攻撃では暗号を解読され、南雲中将の空母を失ってからは、「飛び石作戦」によって、マッカーサーのフィリピン奪還を許し、フィリピン、沖縄と負け戦、それでもソ連の仲介によって講和へ持っていけるという判断ミスによって、広島と長崎への原爆投下を許してしまった、あの失敗を今も繰り返しているのが、今次、新型コロナへの対応だ。
 ①情報戦・リスクマネジメントにおける失敗=科学的思考の欠落、②巨艦大砲主義の失敗=積極的疫学調査(クラスターへの執着)、③言論弾圧と④情報隠蔽改竄(コロナムラの利権構造)が太平洋戦争の失敗であり、敗戦へ導いた要因であるとすれば、カッコの中が新型コロナに勝てない日本的要因である。with corvid2019 というウイルスとの「講和」が可能であるかのごとく、能天気に感染沈潜化を期待しているのが現状だ。
 一方、アメリカでは大統領選挙に敗北したトランプの挑発で、議会制民主主義のシンボル・ホワイトハウスに暴徒が乱入し、上院の17名が反旗を翻した場合、トランプは弾劾訴追を受け、公民権をはく奪されかねない事態になっている。この期に及んでもなおトランプを擁護する大学教授が多数いることは、コロナ禍の中で、限りなく芸人化する大学教授の、もう一つの一団を見ることができる。この場合の大学教授には、非常勤・客員講師等さまざまなタレント的肩書を持った大学教師を含む。一昔前のタレント教授とは性格特性が異なる、劣化した大学教員のクラスターを、いま画面の中に見ることができる。
 特任、客員、特別招聘、非常勤などの肩書の教師は、弁護士や公認会計士と同じく、教師としての収入では食っていくことができないから、芸能事務所に所属し、メディアに登場する。「この世界で生き残っていくには、このはげー」くらいのことは言えないとだめだとMCに言われ、転落していった元政治家もいる。政治家がタレント・芸人化しているのは周知の事実だ。弁護士に国際の冠がついても、弁護士業務で食っていけるのはごく一握りの弁護士に過ぎない。こうして弁護士の芸人化が進む。
(2021年1月25日)


エージェント契約は芸人の質を向上させるか 森七奈さんのケース

Yahoo知恵袋に投稿された「今はやりのエージェント契約とは何ですか?」の質問に対するベストアンサーはこうなっている。「メリット:やりたい仕事や仕事量を自分で決めることができる。ギャラが増える。デメリット:事務室(所)が勝手に仕事を持ってくるこれまでの契約とは違うので、自分自身でしっかりとしたビジョンがないと、仕事を継続的に続けられない。また人気・知名度がないと仕事が得られない。基本的にエージェント契約にする人は、自分がどんなビジョンを持って仕事をやるのかが分かっている、かつ自分自身の力で仕事をとってこれる能力がある人が結ぶと思います。」
 契約の形式は、当該芸人さんと事務所との間で交わされるので、ケースバイケース異なるだろうが、伝統的な「専属マネジメント契約」とは違って、主体的に芸能活動をしたいという芸人さんにとっては、自主性を伸ばす契約形式だろう。これまでの、ベテラン芸人さんの独立事例を見た限りそう思える。「SMAの発表は、エージェント業務提携ということですが、どこまでの業務を行う契約になっているのか外部からは詳しくわかりません」と言っている人もいるようだ(THE PAGE 1月25日)。
 しかし、仕事を選り好みできるほどマーケットは大きくはないので、コロナ禍の中でどれだけ有効かは、定かではないが、吉本興業が2019年に始めたこの選択的エイジェント契約は、極端に仕事量が減少した現在は、言われるほど芸人さん主導で進めるための切り札とは必ずしも思えない。下手をすると独立したものの、仕事が来なくなって干上がってしまうことになるかもしれない。
 筆者は、芸能界全体のためには、エージェント化が望ましいと考えるが、旧来の専属マネジメントへ時計の針が戻るのか、ウイズ・コロナの時代にふさわしい方式として今後も増え続けるのか、しばらく見守らなければならないかもしれないと考えている。
 芸能界で長きにわたり仕事を重ね、裏も表も熟知しているベテラン芸能人にとっては、実効性のある望ましい契約形態ではあろうが、2-3年マネジメント契約で仕事をもらって有名になり、給料が安いからと言って、エイジェントに切り替えても、事はそう簡単にはいかないだろう。大分県で中学時代にスカウトされ、高校時代は東京へ通う形で芸能活動を行い、有名になって「さあエイジェント」と、母子ともども上京してきたタレントの森七奈さんのケースでは、FRIDAYの1月22日号(森七菜 移籍の裏にあった「仁義なき争奪戦」の深層)がこのケースを取り上げてから、様々な意見が寄せられているようだ。日刊スポーツは、おおむね好意的に受け止めた記事を出している。
 SMAの公式ホームページでは次のように掲載されている。
「平素より大変お世話になっております。
この度、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツは、森七菜さんに関しましてエージェント業務提携を行う事となりました。今後とも、変わらぬご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
 この度はファンの皆様、関係者の皆様にご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。
感謝の気持ちを忘れず、皆様に笑顔を届けられるよう努力してまいりますので引き続き応援頂ければ幸いです。
 今後ともよろしくお願いいたします。
森七菜」

 零細事務所から大手事務所(SMA)への移籍であるので、とりあえずは「おめでとう」と言いたいところだが、この業界については素人の私にも、この新たな船出が七奈さんの輝かしい未来を必ずしも保証していないことだけはわかる。サイゾーウーマンでは、七奈の母親が旧事務所から出演料を搾取されていたことなどの事情があって、様子見のエージェント契約になったという関係者の言葉を紹介している。
 どうやら、母親がエージェント機能を担うのだろうが、コロナでパイが縮小している現下の状況の中、仕事を選り好みし、しかもお付きのマナジャーが離れることになれば、糸の切れた凧になりかねない。逆風の中、切れた凧が、試練に耐えて新たな境地を切り開き成長することを願う。
(2021年1月26日 記)

京都八坂神社の小屋掛け・見世物小屋 ノスタルジア

筆者が静岡大学から東海学園大学へ移籍して間もないころ・・・1996年ころのことだったと思う。東海学園大学は、愛知県で女子短期大学を創設、この短期大学を母体にして東海学園大学経営学部を開学したのが1995年のことだった。その後、経営学部大学院修士課程、文学部、人間健康学部、教育学部を矢継ぎ早に創設し、中堅総合大学に成長した大学だ。京都の浄土宗・知恩院が経営するこの学園では、創設以来、入学者を新入学オリエンテーションの一環で知恩院へ連れて行き、入学報告をする日帰り恒例行事があった。
 バスを何台も連ねて知恩院詣でをするこの行事は大変なことでもあり、大変意義深いものでもあった。爾来、私は定年退職する2019年まで23年間、この知恩院詣でを皆勤した。今回の「芸能資本主義」のタイトルは、「京都八坂神社の小屋掛け・見世物小屋 ノスタルジア」だが、この小論を書くことにしたいきさつを少し披露したい。ノスタルジアというのは、もう身近には見ることができなくなった、過去の日本芸能文化に対する郷愁といった意味で使う。
 大学を挙げての知恩院参拝は、年によっても違ったが、だいたい4月の第1週の平日であったと記憶している。1995年ころは、まだ、そんなに地球温暖化の猛烈な影響が顕在化していなくて、桜の咲き始めるのが、京都では第1週過ぎたころではなかったかと思う。それが現在では、年によって異なるが、3月の下旬には咲き始める。円山公園中央の満開の枝垂れ桜に彩られた知恩院界隈は、平日ではあっても、人でごった返し、コロナ禍の今では考えられないような賑わいだった。
 知恩院参拝が始まって間もないころのことだった。参拝終了後自由散策の時間があって、私は仲のいい教授仲間を連れて、周辺を散策するのが常だった。円山公園の枝垂桜、清水寺、少し遠出して四条河原町方面へと、散策範囲を広げては自由時間を楽しんだものだ。
 そんな、知恩院詣での中で絶対に忘れることのできない光景があり、それが知恩院下の「見世物小屋」なのだ。何気なしに、下の大通りのほうに向かっていた時に目に入ったのが、小屋掛けの見世物小屋で、隙間から垣間見えたのが猟奇性のある見世物の風景で、木戸銭を払わなければ見ることはできないが、垂れ下がった筵の隙間から見えたのが、それらしき見世物の実態だった。「名だたる寺院や仏閣が並ぶこのような聖地になぜ」という素朴な疑問と違和感が脳裏をかすめるのだが、学生を引率しての年度初めの緊張に、そのような不協和音はすぐに打ち消された。寺院や神社が参道や境内でこのような興行を行っていたことは、よく承知していることではあったが、猟奇性のある見世物の堂々たる興行には違和感よりも、蔑視の念のほうが勝っていた。見世物小屋と縁日をごちゃまぜにすることはできないし、縁日はフーテンの寅さんの営業の場所であり、どこでもやっている日本の風物詩である。しかし猟奇性のある見世物の興行となるとちょっと話が違う。
 最初は知恩院の地続きで知恩院の経営かなと思い、あまり気にせずに数年が過ぎたころ、知恩院の土地で見世物小屋をやっていることが気になって調べ始めたところ、実は知恩院ではなくて、もっと西の八坂神社の境内(土地)での見世物小屋だと分かった。同じような記憶を持っている人が、何人かブログやsnsで投稿しており、八坂神社の興行だと分かった。
 それならば合点が行くはずで、東海学園大学を定年退職して、自分が八坂神社の見世物小屋を見ていたことを確認することになった。それが、いつ頃廃止になったのかは定かではないが、最後に知恩院へ行ったのが2018年、その時には見世物小屋はなかったと思う。でも、つい最近まで見世物小屋はあったのだ。見世物小屋は、私の故郷の津山市が江戸時代の森・松平藩だったころ、今の翁橋付近、たぶん泰安寺付近で小屋掛けが立ったことは、歴史に刻まれている。寺院や神社と見世物興業とが密接につながっていたことは、我われから親の時代の記憶を遡ってみれば鮮やかに蘇るだろう。
 私はここで、現代の様々な芸能活動、芸能ビジネス、さらにスポーツビジネスも、中世のこの見世物小屋にルーツを持っているのではないかとの仮説のもとに、分析を始めた。移動を経営形態とする見世物小屋とは異なり、能、歌舞伎など継続性を特徴とする芸能は、江戸では、常設子屋での営業だったようである。相撲も縁日形態で行われていたとされる。岡山県の津山市の西部に、相撲の土俵を備えた寺院がある。
 とすれば、現代資本主義の最高の発展段階の特徴として描き出すことのできる「芸能・スポーツ資本主義」と、そのグローバルな展開こそ現代の経済学が分析を深めなければならない分野だと言っても過言ではない。京都八坂神社の見世物小屋ノスタルジーから、趣旨がそれてしまった。中世の芸能に関する文献を多数買い込んだので、少しずつ分析を深めて後日披露したいと思う。(2021年5月14日)









お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.11.05 18:59:12


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: