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エレベーターが開いて、まっすぐに真崎の部屋へ向かう。廊下に濡れた足跡がある。渇き始めていて、それでも寄り添うように繋がっていく濡れた跡、気がついて前を見やるとそれは真崎の部屋に続いている。
振り返る。
エレベーターから、廊下を辿って、ここまで続いている跡。
美並の靴跡も少し濡れて重なりつつ、足下まで続いていて。
「……一人、ってのは」
こういう、ことだ。
必死に抵抗していた真実への扉が、容赦なく開け放たれた気がした。
二人が一緒に歩いて続いていた道のりを、美並は一人で追いかけている。片方の靴跡に寄り添っているつもりでいて、実はどちらの靴跡とも見分けがついていなくて、果てしなく先に積み上げられていく時間の前に、圧倒的に置き去られていくしかない、孤独な歩み。
「盗られるも何も」
ないのか…?
初めから、真崎は美並の側には居なかった、そういうことじゃなかったのか。
のろのろと歩き出す。
濡れた二つの足跡をそろそろと踏みしめながら歩いて、真崎の部屋まで着き、そこで途切れてその先には続いていない足跡を眺めながら、ベルを鳴らした。
もう一度振り返る。
美並の足跡は最初の足跡に紛れて、見分けなどつかない。
もう一度押すべきか、そう迷って振り向いた瞬間、扉が開いて息を呑む。
視界に真っ青になった真崎の顔。乱れてスラックスから引き出されたシャツ。外されかけたベルト。
まるで今の今まで愛し合っていたところに乱入してしまったような感覚。
「伊吹さんっ!」
飛びついてしがみついてくる。顔色と正反対に熱っぽい体はシャツを通しても汗ばんでいるのがわかる。喘ぐように早まった呼吸を耳元に吹き込みながら、抱き込まれた頭に頬ずりされるのが、まるで視界をわざと覆われてでもいるようで。ことさらに距離を保った腰に一瞬伸ばした指先が触れて、主張しているものを掠めた瞬間、ざわりと髪が逆立った。
コレは何?
一体、誰に、どうしてこんなところで、
ワタシジャナイ。
乱れた呼吸を繰り返しながら、真崎は一心に美並の体を抱き締めている。なのに、腰は寄せてこない、それがあからさまに不安をかき立てる、これほど距離を縮めるまでは、そんなこと、気にも止めなかっただろうに。
真崎の体が欲している、けれどそれは自分じゃないと、突きつけてきている。
「あー……えーと」
声を出したのは、拘束される頭を自由にしたかったから。何かを話したがっていると気づいてくれれば不自然なく体を動かせる、そう計算している自分の意図に吐き気を感じる。
思った通り、真崎は少し力を緩めた。美並の頭を強く胸に抱え込んだ状態から、美並の全身を包み込むように抱き締める。その動きに乗じて、静かに顔を上げた視界に。
「……」
黒いスカートとブラジャー。
「………」
ぐずぐずと足から崩れそうになった。小さく震え出す体が遠くなる。声が出ない。衝撃を受けているとわかっているのに、乾いた感覚に涙もでない。
知っていた。
既に合図されていた。
そんなこと、とっくに、知っていた、美並の方が後なんだ、と。
廊下に連なっていた濡れた足跡が、美並を越え、真崎を越え、部屋の奥へと続いている。
美並はここで遮られて、ここから奥へ進めない。
真崎の体から甘い匂いが立ち上っている。熱を籠らせ、切ない喘ぎを響かせて、快感を追う匂いを満たした体を与えられて、納得しろと言われている。
これでいいだろ、満足しろ、と。
だって。
だって。
私は欲しい。
あの人も、この人も、その人も、欲しい。
あの山の中で聞いた声が美並の中に甦る。
そうだ美並は欲しい。真崎の体だけではなくて、その心も、真崎のものは何もかも、自分のものとして愛しみたい、味わいたい、獲得し、蹂躙し、懇願のもとに満たしてやり、美並なしには生きていられぬ、そう酷薄させたやりたかったのだ、ずっと。
「……」
なのに。
与えられたのは、体だけ。だ。
じれったがるように揺れる体にそっと手を回し、滑らかな感触の背中を撫でて楽しむ。熱の高い部位に掌を当てると、そこが過敏に波打ってきて、もっと熱を上げて吸い付いてくるのを感じ取る。シャツに当たった唇を少し動かせば、ああ、と無意識にだろう、吐息を漏らして押し付けてくる。誘うように美並の頭を胸に引き寄せる、そのままに含んで濡らしてやれば、きっと歓びの声を上げて晒してくれるだろう、全てを。
それでも、
「……」
視界が滲んだ。
「……」
それでも。
「……、」
ここどまりだ。
「………………」
美並はもう、ここから先へは進めない。
真崎の体を喜ばせ満たす道具としてしか、存在できない。
「………、…」
京介。
お互いの全てを差し出し、満たし合える関係に、なりたかった。
大石とは紡げなかった未来を、一人では歩けない世界を、一緒に歩いてみたかった。
それでも、ここから先は、無理なんだ。
いつか思った、恋人になれるかと言う問いの答えが、今出ようとしている。
「どうしたの?」
するりと自分の口から平板な声が出た。
「今夜、だめって」
真崎が呻くように呟く。
そうだ、美並は今夜会えなかったはずだった。今夜ここにいないはずだった。だから?
「うん、だめなんですけど」
美並が自分の欲望に負けた。見なくていい未来を引き寄せ、存在しなくていい場所に自分を放り込んだ。
「ちょっと気になることがあって」
零れ落ちかけた涙を必死に飲み下す。
『その名は支配』
ハルの声が響く。
『それでは人は守れないよ、美並』
ごめんね、ハルくん。
あんなに頑張って堪えて守ってくれた境界線、ハルはきちんとそこから踏み込まなかった。自分の本分を貫き、同時に美並の範囲を守りぬいた。それゆえ、ハルは美並を失ってはいなかった。違う形で保つことを受け入れた。
けれど美並は、自分の形から逃れられなくて、入ってはいけない部分に入り込んで、二人の繋がりを切ってしまった。
「聞いていいですか?」
ならば、これはやはり、美並が引くしかない幕なんだろう。
「……どうして」
絡みかけた喉を堪える。
「廊下にブラジャーが落ちてるの?」
「は?」
真崎が弾かれたように体を離して振り返る。
瞬間に開いた空間に、冷えた空気が刃物のように突き刺さってくる。
「い、ぶき、」
振り返らずに呼びかけてくる真崎の狼狽を見たくなかったからほっとする。
「誰か来てるの?」
尋ねる、けれど、そのままで居てほしい。振り返らずに、居てほしい。
最後のことばを告げるのは自分だろうけれど、それでも少しは甘えさせてほしい。
「……恵子、さん」
ざくん、と刃物が足下まで振り落ちた。
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