全5187件 (5187件中 1-50件目)
**************** アシャは満足していた。 もたらされる結果も、それによって噛み締める後悔も、考えることなく、初めて自分の全ての力を解き放った。 世界を破滅させるための兵器と化した自分は、魔性にしか過ぎない。 けれど、その自分を確実にユーノが屠ってくれる。 最後の一滴まで力を搾り出し、ボロ切れのようになったらユーノを探せばいい。 ユーノの剣の下に頭を垂れれば、速やかで安らかな死を導いてくれる。 何という安堵。 向かってくる気配に容赦なく炎を放つ。焦げ崩れる姿を何度も焼き払う。 『太皇(スーグ)』の積み重なる記憶の中でさえ、アシャのような存在はいなかったらしい。『人』の姿を模した天の雷、終末を知らせる炎を溜め込んだ体を、あえてかつての記憶で探すなら、天空に浮かんでいたと言う巨大な道具だろう。 その道具は空も地上も、『人』も太古生物も分け隔てることなく、凄まじい熱量で貫き灼いたと言う。 放て、放て。 これが終焉、美しく輝かしく、世界に君臨した『ラズーン』の末路。 黒く焦げた大地に、命の燃え滓が灰色の塊として積もる光景の中、アシャは微笑みながら彷徨っている。 何も残すな。 この後の世界は、ユーノ達『人』の世界となる。 ぎりぎりで生き延びられる数しか残っていないだろう。 未来を脅かすような存在は、今ここで全て消滅させておかねばならない。 ユーノを護る。 ユーノが守ろうとする『人』を護る。 遠く彼方に自分を呼ぶ声がした。 懐かしい、甘い、切ない、愛おしい、大切で、かけがえがない、声。『違うっ! そっちじゃない、こっち! 私だ! 私に向かって撃って、アシャ!』 ああ、ユーノ。 何と正しく的確にアシャの本分を望んでくれるのか。「もちろんだ、ユーノ」 微笑み頷く。 ユーノのためなら、骨が折れ、肉を突き破り、ただの血肉の塊となろうとも、敵を屠ろう。 全開にしたのに、ほんの僅かだが力が絞り切れなくて、アシャは煙る世界の中で立ち上がる。自分の中に燻る悪夢の炎を使い尽くそうと、内側から自身に炎を放とうとし……体から力が抜けた。 ミネルバのように『運命(リマイン)』狩に世界を巡るはずだったのに、自身への過大評価だったのか。命が揺らぎ細く頼りなく小さくなっていくのが分かる。『っ、アシャ!』 ユーノの声が耳元で聞こえる。「随分優しいじゃないか」 自分を生み出した存在に苦笑いする。「命の最後を、彼女の声で送ってくれるとは」 満足感がなお広がる。 深く柔らかく、重く静かな闇。 アシャは微笑みながら沈んで行った。****************今までの話はこちら。次は新章、『新たなる国』の予定です。
2026.05.09
コメント(0)
**************** セシ公を送り出してから、『太皇(スーグ)』は再び『ハテノトショカン』に戻った。 久しぶりに取り出して眺めた映像は、懐かしいものもあれば、記憶にないものもある……もっとも、今生の体では、と言うことだろうが。 崩れるようにセシ公が座り込んでいた椅子に腰掛け、指先でもう一度1つの水晶球を呼んだ。 天井付近から、カロカロ、カロカロと小さな音を立てて空中を滑り降り、手元の台に辿り着く。 指先を触れて呟く。「紫の雷の時代、3500」 水晶球が揺らめき、真っ黒に染まった。 『太皇(スーグ)』は無言で目を閉じる。 突然声が響いた。『「花弁」は人類の英知を集結させた資料庫、図書館のようなものだと思えばいい。「大樹」はそれらを統合し、命を再生する場所になる』『最終戦争は間近だ。細菌兵器・化学兵器が次々投入されるだろう。僕達がこれほど長く丁寧に磨き上げてきたDNAもあっという間に汚染変形させられる。そうなってしまってからでは遅すぎる』『「SORA」が発動したら、およそ95%の人間は助からない』『「花弁」に十分な知識を溜め込んでおけば、きっと文明はすぐに甦るはずだ』 別の声が加わる。『んーと。つまりね、新しい世界には新しい世界にふさわしい命があるんじゃないかっていうこと』『あたし達じゃない方がいいってことはないの?』『知らなかったの、わかっていなかったの、無知だったのよ、ただ、知らなかっただけ、なのよ!』 困惑した声が響く。『…計画通りだ』『問題はない。うまく行っている』『僕達はどこで間違ったんだ?』 興奮しひび割れた声が叫ぶ。『どういうことだ、自然発生なんて! 外部因子の設定を間違った? データの集積範囲が狭過ぎた? だって、全ての不安定因子を取り除いたんだ!』『……長期間のDNAの再生は変異をもたらす……ただし、選別された特殊な個体を基本ベースとして使用する限りにおいて……?』『……98%…?』『僕が人を滅亡させた張本人だ。なのに、誰も断罪してくれない……』 明瞭な声が断じる。『「うさぎ」はもう保たない、わかっているだろう?』『離脱しろ。「SORA」の機能は破壊している。太陽系を離れても、もう追撃はないはずだ』『ごめんよ、君。大人はいつも愚か過ぎて、君の未来を守り切れなかった。守り切れないのに、君に未来を託そうとする傲慢さを許してくれ』『君の苦痛に寄り添い、君の重荷を共に背負う。産まれた瞬間に人の未来を背負わされた君を僕が支える………この「ラズ・ルーン」を』 声が途絶えた。 『太皇(スーグ)』は閉じていた目を開いた。 この水晶球には映像が浮かび上がらない。だが、どれほど繰り返して眺めようとも浮かび上がらない光景を、『太皇(スーグ)』はまざまざと脳裏に呼び出せる。それこそが、『太皇(スーグ)』だけが保持しているかつて滅びた『この世界』の光景だ。 自らを命の選択者とし、運命を紡ぐ存在と断じ、巨大な理に無防備に手を突っ込み、背負い切れない悪夢を呼び起こした。 必死で愚かで虚しい願い。 『人』を永遠に存続させようとした試み。 だがそれもまた、『氷の双宮』が閉じられると共に失われて行くことになるだろう。「あなた達が『人』のために置いた道標を、今、手折ろうと思う」 誰にともなく、『太皇(スーグ)』は呟いた。 既に次世代へ引き継ぎは済んだ。この後、『太皇(スーグ)』が生き残ることは、開かれた未来に影を持ち込むようなものだ。 微笑むことのなかった幼いアシャの顔が、血塗れになって走るユーノの姿が、呆然としたギヌアの表情が、脳裏に煌めきながら過っていく。「『人』は再び多くの間違いを犯し、あなた達が辿り着いた高みの端にさえ到達できず、ただ滅亡して行くだけかも知れない」 それでも、滅びも含め、未来を人の手に返そうと思う。「…あなた方が、守護の名の下に奪い去った未来を、『人』は自ら選び自ら歩むことで取り戻す」 指を上げ、水晶球を元の棚へと引き戻す。「選択に責任を、祈りに努力を、そして、自己憐憫には咆哮を」 カロカロと音を立てながら離れていく水晶球を見つめる『太皇(スーグ)』は晴れやかに微笑む。「それがユーノから学んだことなのじゃ」****************今までの話はこちら。改めて2130000ヒット、ありがとうございました!と言うか、いつもの連続ヒッターさんですかね。気がつけば、次が目の前に迫っております。既に7000超えてます。3800/日超えなんて初めて見ましたよ、多分。色々ご事情はありそうですが、それでもヒットはヒット。早く次を、と言われているのだと考えて、頑張りますです。改めて、ありがとうございました。で、今回のお話で、あれ?と思われた方はBLの方も読んで頂けているんですね。はい、あの4人の会話ですね。『DRAGON NET』の中の別世界のお話に出てきた4人です。でも、もちろん読んでおられなくとも、『やらかしちゃった人達が居たんだなあ』って思ってくださるだけで十分です。そういえば、『ハテノトショカン』の別世界、見たことがあるような、と思われた方は、随分長くお付き合い下さっていますよね。いつも本当にありがとうございます。次回も間近、頑張りますね。
2026.05.08
コメント(0)
**************** 電話を切って、風呂に入って、ことさらごしごしと体を洗って、上がった時は2時を回っていた。 身動き出来ない社会の裏側を、今美並は有沢と覗き込んでいる。不安定な足下に手を伸ばして探れば、支えてくれるのは真崎の涼やかな笑みではなくて、有沢の熱っぽい腕の感覚で。 自分の存在が本当に役立つのは、真崎の側ではなくて、ひょっとしたら有沢の側、なのだろうか。「……」 携帯の有沢の番号に一つの曲を設定した、真崎のそれと同じように。 それは有沢の電話を待つという意味、それを自分は本当にわかっているんだろうか。「京介」 声が、聞こえません。 顔が、見えない。 どうして今、ここにいないの? 唇を噛んで、ベッドに潜り目を閉じる。 いつかこの部屋に真崎が居た、それが幻のように遠く感じる。 うつうつと反転を繰り返す寝床で、奇妙な夢を見た。「京介、どこ?」 闇の道を彷徨い歩く。「美並」「京介」 ようやく見つけた相手を抱き締めて、互いに唇を重ね合う。 と、ふいに掌の中の腕の感触がくしゅりと潰れた。 力をいれると果てしなく握り込めそうな実体感のなさ、目の前の京介の顔がぼやけて、眼鏡の奥の瞳がますます平に、やがてボタンかスパンコールのように無機物的な黒い塊になり、どうみてもぬいぐるみに変わってしまう。「キス」 虚ろな声でよびかけてきて我に返った。「正体が見えてますよ」「オネガイ」「ぬいぐるみですか、それとも」 自分の中の暗闇に苦笑する。「懐かしい顔の亡霊ですか」「ミナミ」 どうして、見捨てた? つぶやきは美並の傷みを抉る。「救いを求めたのに」 助けてくれと願ったのに。「他には何もなかったのに」 お前しかいなかったのに。 大石だろうか、有沢だろうか、それともこれから見捨てることになるかもしれない京介だろうか。 繰り返す声は怨嗟と呪詛に満ちている、けれど美並はそれを耳にしたまま、握り締めた掌から熱を送り込む、命の熱を、今生きている強い願いを。「お願い」 相手のことばより遥かに強く呼びかける。「京介、ここに来て下さい」 視界の奥を掠める真白な雪の庭。「ミナミ、ボクハ、ココニ」 くしゅくしゅのぬいぐるみが機械的な声で応じる。 それをなおも抱き締めて願う。「京介」 私の声を聴き取って。 落ちる紅、命を抱えて。 また一つ、美並は失ってしまうのか。「ミナミ」 平坦な声に目を閉じる。体の内側の闇の孤独と傷を見つめる。 ずっと一人で生きてきた。ずっと一人で生きていくつもりだった。それでも、今この時、愛しい人を抱き締めて歩く幸福を、大事な人が笑い返す喜びを、美並は必要としている。「だって、私はずっと」 一人が辛かったんです。 落ちても花でいる。 踏みにじられてもまた花のままで。 そうやって気を張って、一歩も引くまいと、ただ気を張って。 それでもずっと。 閉じた視界を濡らして溢れる、真珠色の光。胸の内の空虚に滴り、零れ落ちていく甘やかな祈り。「誰かを、待っていた」 押しつぶされそうな、この重圧の中で。「もういいよ、と言ってくれるのを」 もう一人で背負わなくていい、そう笑ってくれる存在を。「一緒に行こうって」 一緒に生きようって。 約束してくれたのはただ一人。 約束を守ろうと必死にあがいてくれているのも、ただ一人。 傷だらけの命の中で、『美並』 その笑顔をどれほど望んでいるだろう。 目を開いた。ぬいぐるみになった京介の顔に微笑みかける。「京介」 私を、見つけて。「迷子になっちゃいました、私」 京介。 呼ぶ声が溢れる涙に途切れた。 **************** 今までの話は こちら
2026.05.06
コメント(0)
****************『あなたからのラインは期待できそうにないから、こちらもそれなりに動いてみていますよ』 有沢は皮肉な響きを効かせて笑い、すぐに真面目な声になった。『飯島は最近では仕事もせずにずっとふらふらしてたようです。おそらくは何かの金ヅルを掴んでいた、そう見てます』「真崎大輔…?」『「ニット・キャンパス」で表立って動いているから、その可能性もあるが、手を下したのは違うでしょう。アリバイがあるんです』 飯島が殺されたと思われる時間に、大輔は『ハイウィンド・リール』で女性と会っています。「じゃあ…」『羽鳥、本人の可能性もあるかと』「今さら、ですか?」『現在調べているところですが、飯島もそれなりに食えない男だったようで、知人に預けていたパソコンにいろいろデータを隠していたんですよ』 知人というのは飯島がコンビニで務めていた頃からの知り合いで、安全保証の意味もあったとも考えられる。『あなたがさっきおっしゃった5年前の事件からこっち、飯島の金回りが急によくなっているのも確認しました。不似合いだとは思いますが、定期預金も始めている。コンスタントに金が入る手立てができたということでしょう』 ひょっとすると、それがらみで何か関係に問題が起きたのかもしれないですね。『コンビニ強盗で稼いだ金を元手に暴行を主体とするパーティを繰り返していた、これだけで十分真崎大輔を追い込めますが、その影に動く「羽鳥」の姿が掴み切れないと、大輔一人押さえただけで終わってしまうかもしれない。大輔を追い込んでいけば、「羽鳥」の正体も割れるかもしれませんが、後に喜田村会長が居る。これ幸いと大輔をスケープゴートに残りを始末されかねません』 もっとも交渉は進めているんですが。 有沢は低い嗤い声を立てた。『皮肉かもしれませんが、喜田村会長は「ニット・キャンパス」での桜木通販の動きを評価しています。特に真崎京介の手腕をね』 不出来な兄より有能な弟を取り込むために、餌をうまく使いたいと考えているのかもしれません。「……大輔の失脚をちらつかせて、桜木通販を利用する?」『それこそ、5年前の話もありますしね』 使い捨て切られていく末端の惨さということか、と美並は溜め息をついた。 つまり、喜田村会長は目をかけていた真崎大輔の度重なる不評にいい加減うんざりしていて、どこかで真崎兄弟の噂も聞きつけたのだろう、大輔を始末するかわりに京介を手駒にしようという算段を組み始めているということか。喜田村にすれば、「ニット・キャンパス」の手腕を評価したと言い訳もつくし、個人的にも社会的にも申し分ないいい手だ。 おいそれと桜木元子が頷くはずもないだろうが、そこは5年前の桜木通販の事件をネタに揺さぶってくるかもしれない、ということだ。高山や石塚の危惧も満更外れてはいなかったらしい。『できれば「羽鳥」を視野に入れてから、大輔確保に踏み切りたい』「…」『こっちも危うい賭けの繰り返しですよ』 有沢が声を途切れさせた。『……ぎりぎりだ』「お体が?」『痛み止めが効かなくなってきた。…だからこうやって』 あなたの声で一時休もうとしてるんじゃないですか。 柔らかな声がまた甘えを帯びる。真崎が見せない、他の誰でも休めない、美並だけだとほのめかす忠誠。『正直きつい。あなたと話してると、まだ少しは手が打てると安心できる。あなたは……安らぎだ』 体より先に気持ちが死にそうですよ。『……慰めてくれませんか』 じわりと滲んだ艶にぎくりとする。『すぐに駆けつけますよ?』「無駄です」『頑固だな』「しつこいって言われません?」『刑事ですからね』 はぁ、と苦しげに吐いた呼吸が熱っぽい響きを宿した。『一度だけ、助けてほしいんだ』 もう少し粘りたい。『あなたにとっても大事なことでしょう?』 私がここで倒れるのは望んでいないはず。『あなたにしかできないことなんだ……一度だけでも、いい』「…」 真崎だって恵子と会っていた。これほど求められて、これほど必要とされて、しかも相手には時間が限られていて、そのぎりぎりの中で美並を望んでいてくれる。 なぜ有沢ではいけない? なぜ美並はここでわかりました、と頷けない?「電話でなら」 自分の声が遠くで響く。「お力になります」『ああ…よかった』 耳元で温かな声が笑って、ぞくりとした。 **************** 今までの話は こちら
2026.05.05
コメント(0)
**************** 恵子が居た、京介のマンションを出て、冷えたアスファルトを靴の踵で叩きつけるように歩いて、大通りでタクシーを拾った。「お仕事?」「残業で遅くなって」「ふうん?」 運転手は訝しげだったが、美並の暗い顔に踏み込むべきではないと判断したのだろう、それ以上話しかけては来なかった。最後に一言、「親御さん、心配するよ?」「…ありがとうございます」 夜遊びの帰りととったらしい見当違いな一言は、違う意味で美並の胸を刺す。 釣り銭を受け取って遠ざかるタクシーのテールランプを見送り、のろのろと階段を上がった。『親御さん、心配するよ?』「……うん、わかってる」 そうだ、もう十分に心配はかけている。 気づかせないようにしてはくれている、気にしないように振る舞ってはくれる、けれどそれでも、美並が特殊な力があることで困らせたことは一度や二度ではない、だからといって。「どうにかできるわけも、ないし」 冷えきった部屋に入って、ぼふん、とベッドに正面から倒れ込んだ。 胸の中が切なくて、耳の奥に置き去ってきた京介の声が響いて、泣きたい、のに泣けない。「どうしたら、いい?」 真崎を囲い込んだり閉じ込めたりなどできはしない。本人が喜んでも、仕事もある、美並が永久に生きられるわけもない。四六時中側に居たところで、一瞬目を逸らした隙に別の人間に攫われることだって十分ありえる、真崎自身が拒まないなら。「……いっそ、嫌いだと言ってくれたらいいのに」 美並なんか顔を見たくないとか、それこそ振ってくれたなら。「ああ……」 これが問題なんだよね、と美並はごちる。 真崎は美並を欲している、と繰り返す。美並さえ居れば何もいらない、と。けれど美並が居ないなら、他は誰でも同じこと、という奇妙な論理もまかり通っていて、それは真崎の中で美並への誠実と反しない。 心はいつも美並にあるよ、けれど体の餓えは別だから、美並を最上級フルコースにするけど、お腹が減ったら菓子パンで我慢してもいい。「ずるい、なあ」 でもそういう自分もずるいよね、と美並はまた溜め息をつく。 真崎がそこまで餓え切っているのを知りながら、結局は美並を全部与えることはしないのだ。 胸元を探って、そっとアメジストの指輪を取り出してみた。「何が怖い…?」 自分が大輔のように真崎を傷つけるような愛し方しかできないかもしれないことか? それとも恵子のように、自分を差し出して真崎にそっぽを向かれることか? 結局美並だって、他の誰かさん、と同じように、真崎を幸福にはしないと思い知らされることか? 『BLUES RAIN』の場面が脳裏を過る。 美並は今あのロボットなのか、それとも主人公なのか、それとも。「…」 そうか、と気づいた。これはいつものおなじみのやつじゃないのか。自分の力、自分の存在が、実は周囲を傷つけ不安がらせるだけでしかない、大事な相手さえも守ることができないという。「っ!」 ふいに鞄の中から携帯の着信音が鳴り響いて驚いて跳ね起きる。 真崎からの音ではない、外部からの一般着信音、しかももう真夜中過ぎのこんな時間に一体誰が。「…有沢さん」 携帯を確かめて吐息をついた。 そうだった、まだ有沢の着信に決まった音をあててはいなかった。「……もしもし?」 少し迷ってから通話に切り替える。『…夜分にすみません』「……お仕事ですか?」『いえ』 有沢は掠れた声で笑った。『あなたの声が聞きたくなって』「……」『まだ起きておられたんですね』「…はい」 明らかに甘えているとわかる柔らかな声に気分が重くなった。「飯島さんの件、ですが」 顔を一つ振って、仕事モードに切り替える。『飯島?』「真崎大輔が関わっていたパーティ、5年前にも似たような事件があって、それに桜木通販が関わっていたというのはご存知ですか?」『5年前…ああ、そちらの緑川さんが客になっていたという件ですね』 有沢はすぐに話を繋いだ。とすると、警察の方ではもうかなりの部分で真崎大輔を追い詰めるべく、手が打たれているといことなのだろう。 **************** 今までの話は こちら
2026.05.04
コメント(0)
****************「……」 ことばが、でなかった。 伊吹がどれほど守ろうとしても、京介が大輔に抵抗しない限り、恵子を受け入れる限り、京介は繰り返し傷つく。 今まではそれでも京介一人のことだった。 けれど、今は。「……ご、めん…」 京介が傷つくことは、同時に伊吹を傷つけることだ。 思い出したのは背中に当てられた小さな掌。 有沢に何を言われたのか、何をされかけたのかはわからない、けれどあれほど怯えて頼りなげになってしまった伊吹を見て、京介もまたたまらなかった。自分の大切にしているものが、脅かされ傷つけられた。京介は有沢に何もされていないのに、それでも伊吹の傷みがまるで京介に写し取られたみたいに、苦しくて、辛かった。そこまで伊吹を追い詰めた有沢に怒りを感じた。 けれどもし、伊吹が望んで有沢に会った、としたら。 有沢に、傷つけられることも予想していたのに会ったとしたら。「…ぼく…」 京介は伊吹にもまた怒るだろう、伊吹がどれほど京介にとってかけがえのない大切なものなのか、理解していないと責めるだろう。 映画はもう最後にさしかかっている。 ロボットの墓にそなえられたオレンジは、主人公が約束したものだ。主人公も病を得ていることを物語は示唆している。どれほど愛しみ寄り添っても、いずれ離れて別れていく。 違う体だから。 違う存在だから。 どうしても一つになることなどできない、その関係を、ロボットは愛情だと言う。 一つの存在だったら気づかなかったことだった、と。 離れているから守れない。 離れているからわかりあえない。 ならばその距離をどうやって重ね合わせるのか。 離れている間に自分を守るのだ、相手の代わりに。 離れている間に自分をわかるのだ、相手とより近くに寄り添うために。 そうしてやがて。 ヒトとロボットが、一つになっていく、その結末。「……」 伊吹が微かに吐息をついて、片方の手で頬を擦った。 もう片方の手を、いつの間にかしっかりと、京介は固く握りしめていた。 その伊吹の掌が自分の掌の中に握り込まれた光景を、京介はじっと見下ろした。 伊吹の指輪を嵌めた右手は、京介の何も嵌めていない左手に覆われて、約束の形は見えない、誓いの姿も見えない、けれどその温もりは確かにこの掌の中にあって。 会場が明るくなる。人々が席を立つ。 犯人が京介そっくりだとか、ハルが何を思ってこれを伊吹と見たがったのかとか、もうそんなことはどうでもよくなっていた。 濡れた頬の伊吹の手を握りしめて立たせる。そっと頭を引き寄せて、唇を頬に、それから唇に当てた。「……幸せになるから」「……」 伊吹の目に再び膨れ上がってくる大粒の涙を、そっと吸い取る。「約束する、幸せになるから」「……きょう…」「もう一度だけ」 僕を信じて。 伊吹が目を閉じて静かに頷いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.05.03
コメント(0)
**************** 『BLUES RAIN』は思っていたよりずっとシビアな物語だった。 主人公の女性刑事に、戸惑いつつ気持ちを募らせていく護衛ロボット、そしてその存在に嫉妬する犯人が容赦なく主人公を追い詰めていくに従って、護衛ロボットは自分の本分を逸脱していく。 本来ならば主人公の安全を守るために側にいるはずが、いつの間にか主人公を守るためと称して、拘束し囲い込み身動きとれない状態にしていく。そしてそれは犯人が主人公を追い詰めるのと変わらないのではないかと考えて、護衛ロボットは主人公から離れる決意をする。『俺の宝物はあなたです』 離れる瞬間にロボットが囁く睦言のような甘い囁きにハルを思い、主人公が引き止めるのも構わずくるりと背中を向ける姿に、さっき見たばかりの有沢の背中を思った。「……違うじゃないか」 違う。 君は犯人とは全く違う。 二度目なのに、食い入るように画面を見ている伊吹を視界の端に入れて、京介は映画の中のロボットに話しかける。 君は彼女に愛されている。 君は彼女に必要とされている。 君は彼女を守ろうとし、彼女のために命を捧げる。 君は彼女にとって唯一無二、なのにそれがなぜ犯人と同じだなんて思える。 犯人の男は彼女を奪おうとしている。 彼女の意志を無視し、自分の欲望だけに従っているのに、それを彼女が望んでいると思い込んで暴走する。 自分のすることは彼女にとって一番いいことだと信じ込み、彼女を心身ともに壊していく。 犯人は彼女を傷つけ、ロボットは彼女を守ろうとしている。 その二人の在り方が同じはずが。『幸せになってやってくれ』『あの子と一緒に居ることで、幸福だと喜んでやってくれ』「っ…」 ふいに京介の耳元に哀しみを秘めた深い声が響いた。『あの子は大事な人間に幸せになってもらいたいんだ』 でもそれはかなわなかった、伊吹が伊吹である限り。 伊吹が伊吹でしかない限り。『あの子の願いを、満たしてやってくれ』『どうか一人にしないでくれ』「おと……さ…ん」 このロボットは、そうした、か? 主人公と居ることで幸せだと喜んだか? 主人公の願いは物語の中で繰り返し語られている。 あなたはあなたとして生きていてほしい。 ロボットだとか人間だとか、そういうことは関係なく。 その願いを満たしたか? ……一人に、しなかった、か?「……」 違う、じゃないか。 思わず隣の伊吹を見て、息を呑む。 場面は主人公を守るために、ロボットが自らの手足を犠牲にするところだ。自らを犠牲にすることさえ厭わない、そこまで愛され大事にされている、そう表現されていると取れるはずの場面で、伊吹は静かに泣いている。 まっすぐに画面を見据えて、声一つ立てずに、けれど揺らぎもしないその瞳が苦しそうで悲しそうで。 その顔が画面の主人公の女性そっくりで。『それに、あんたはあんただけのためじゃなくて、その指輪のためにも戦わなくちゃいけないんじゃないか』 源内のことばが響き渡る。『京介は誰のものですか?』 僕が、傷つくと、伊吹さんは、どう思う? 思わず画面を見直す。 傷だらけになって、今まさに犯人を屠ろうとするロボット。 そんなことを望まない、そう主人公は訴えているのに。 望むのはただ、ロボットの無事。 握りしめたこぶしに触れた指輪を意識する。 伊吹の望みは? 京介の、無事と、幸福? 僕はそれを、満たした、か?「あ……ぁ…」 同じなんだ。 このロボットと犯人は同じだ。 主人公の願いを無視し、意志を曲解し、自分の欲望のためだけに暴走し。 ロボットは自分を傷つけることでロボットを大事に愛しむ主人公の心を刻み、犯人は主人公を傷つけることで自分の存在を主人公に刻もうとしている。歪んだ、けれどそっくりな、二つの思い。「……み……なみ…」「……きょうすけ……」 そっと触れた手は何かを堪えるように強く固く握りしめられている。「……わたしは……あなたを」 守れないんですね。 掠れた今にも消えそうな声。「どんなに……ねがっても……」 どんなに、大切でも。「………わたしの……いみは……」 なんですか…? **************** 今までの話は こちら
2026.05.02
コメント(0)
**************** 映画。 映画。 伊吹と映画に出かける。「考えない」 それが京介そっくりの人間が破滅していくものであっても。「考えない」 なぜ急に美並が一緒に見に行こうとしているのかも。「……考えない」 その後、京介と美並がどうなるのかも。 美並は指輪をつけてきた。あれほど丁寧に扱ってくれていたもの、傷つくからと大事にしまっておいてくれたものを、急につけてきたのは京介に突き返すためだからじゃないかとか。 映画の内容をじっくり見て昨日一晩考えたんですけど、京介とは一緒にいられないってわかりました、と説明されるんだろうとか。 考えない。 考えたらもう終わりになる。 跳ねるように階段を駆け下りていく京介に、受付の女性職員が微かに笑う。 きっと機嫌よく見えてるんだろう、今にも踊り出しそうに。「そうだよ」 今にも踊り出すかもしれない、この階段から飛び出して、玄関を越えて弾むような足取りで目の前の交差点に飛び込むぐらいには。 それでもいい、最後に美並と一緒に居られるなら、それだけでいい。「んーと」 仕事が終わったと伊吹に連絡を入れたけれど、なぜか携帯はすぐに繋がらなくて、一瞬繋がった背後の物音は明らかに外、「わかりました」と慌ただしく切られて不審が募る。まだ勤務時間中だったはずと課に電話をしてみると、出てくれた石塚がちょっと席を外してます、と応じた。『メール便かもしれませんね』 違うよね。 直感と言えばそうかもしれないけれど、京介の耳が微かに拾ったのは横断歩道の青を知らせるアラーム音、道路を越えていく場所に持っていくメール便などない。「どこへ行ってるの、美並」 京介が戻ってくるのを待つのではなく、仕事が終わったなら連絡しろと言ったのは、その隙に誰かと会うためじゃないの?「……考えない」 どうでもいいよ、もう。 伊吹に嫌われた京介が伊吹が会う誰かに嫉妬しても仕方がない。「僕は美並と映画を見る、んだ」 映画を見て。 そこで自分そっくりの男が正義の味方にぼこぼこにやられるのを見て。 伊吹が別れを告げるのを見て。 それから、最後には。「……」 見上げた空は紫がかった薄闇色、星もなければ月もない、逢魔が時に踏み入る時間。「…ふふ」 美並の前でというのは悪趣味だよね?「…どこがいいかなあ…」 いっそ、実家に戻ろうか。 実家に戻って大輔に死ぬほど抱かれて、そのままあの山の果てから吹っ飛ぼうか。 でも。「……も…一度…」 美並に抱かれたかった、な。 溜め息まじりに口の中で呟いて、ずきずきした下半身に苦笑しながら横断歩道を会社に向かって渡りかけ、角で向き合うカップルに気づいた。「……美並?」 すらりとした紺色のワンピース、短めの灰色ボレロはお出かけ仕様、京介が初めて見る可愛らしい気配だったが、相手の男は色気のない濃い灰色のビジネススーツ、しかもその手が。「っ」 ためらう間もなく駆け出していた。横断歩道を一気に渡り、そのまま速度を緩めることなく角まで走って、体を引いた美並の腕をしっかり握る相手の前へ、「失礼!」「!」 体を割り込ませるように腕を差し入れた。「京介…っ」「なんだ、君は」 相手は浅黒い顔で京介をまっすぐ睨みつける。大石とは違った精悍な顔立ち、がっちりした上背、厚い胸板、一瞬身構えた姿勢に殺気があった。「婚約者です」「え?」「彼女の婚約者ですよ」「……」「大丈夫、美並?」「……はい」 背中で伊吹が小さく応え、ひたりと背中に温かなものが寄せられて、背筋に痺れが走った。「…美並?」 背中越しに振り向いて、伊吹の髪が微かに震えているのに気づく。背中に当てられたのは掌、それが驚くほど小さく感じて。 怖がっていた? ふいに、胸が苦しくなった、固くて重いものに貫かれるように。 今の今まで自分が落ち込んでいた傷みとは、全く違ったその痛みに、息が止まるほど切なくなる。 こんなに怯えるほど僕の美並を怖がらせた、この目の前の男が。 突き上げるのは、これまで感じたことのない、重くて冷たい怒り。「……そうか、君が」 ぼそりと目の前の男が低く呟いて、顔を戻した。「君が真崎京介か」 はっきり名前を呼ばれてじろりと見返す。「そうですが、あなたは?」 穏やかに、けれどきっぱりと問い返すと、相手はゆっくり深く吐息をついた。張りつめていた気配が見る間に緩み、しぼんでいく。「………有沢、基継と言います。……向田署の…刑事です」「刑事……?」「伊吹さん」 京介を越えて有沢は背中の伊吹に呼びかけた。「今日は、これで」 失礼します。 それ以上粘ることもなく、有沢はすぐに身を翻して離れていく。「伊吹さん…?」「……っ」 遠ざかる男が会話も聞こえなくなっただろうあたりで、京介はそっと伊吹を振り向いた。いやだ、と詰るようにスーツの背中を強く掴まれて、訝しく思いながらも前を向き直しながら、そっと背中に手を回す。「……どうしたの?」「………」「……何があったの?」「…………」「………僕に……話せないような、こと?」「……………」 珍しく沈黙したままの伊吹が、じっと背中に張り付いている。周囲を行き過ぎる人間達が二人をゆっくり避けながら、それでもちらちら横目で眺めていく。「…………映画行こうよ」 ひょっとして、今のが伊吹さんの新しい彼氏なのかな。 じわりと湧き上がった想像に竦みそうになったのを押し殺して、もう一歩。「映画行って……ご飯食べて…」 駄目かもしれない拒まれるかもしれない、けれど今のがそうならなおのこと、今日が最後ならもう一歩。「…………伊吹さん」 ごくり、と唾を呑み込んだ。「……………僕のところでコーヒー飲もう?」 その意味をわからないはずがない。伊吹と京介の間で、そのことばが何を示すか、忘れるほどに距離は空いていないはず。 けれど。「……はい」「っ…」 小さな同意が背中で響いて、微かに体が顫えた。 **************** 今までの話は こちら
2026.05.01
コメント(0)
****************「商談出てきます」「はい、いつ頃戻られますか」 問いかけてきたのは石塚、伊吹は高崎に何か頼まれたらしく、書類の束を抱えて高崎の後について部屋を出ていく。「そう、だな」 昼も外で食べるから。「夕方まで、戻らないかも」「わかりました。お電話は」「急ぎは携帯にお願いします。一度は戻ってくるから、それ以外はメモに残しておいて」「わかりました、いってらっしゃい」「いってきます」 笑い返して部屋を出て、廊下を玄関に向かっていくと、印刷機の前で伊吹と高崎が向かい合っている。「ああ、そうなんですか」「そうなんだよ」 高崎は大きな身振りで楽しそうだ。「で、そいつ、今『Brechen』に居て、あ、これ課長に内緒な」「どうして?」「だって知り合いがあっちに居るってさ」 やばくない? 肩を竦める高崎の朗らかな笑顔がうっとうしい。「大丈夫ですよ」 伊吹が微笑んで安心させるように付け加える。「課長はそんなことであれこれ引っ掛かる人じゃないですし」「違うことじゃ、引っ掛かるけどね」 そちらの出口から出る必要はなかったけれど、気がつけば二人の側に近づいていた。「う、課長」 何ですかいきなり、聞いてたんですか? 人が悪いなあと笑う高崎を目を細めて迎え撃つ。「そりゃこういう部署の課長をやってれば、多少人も悪くなるよ」「……」 何か言いたげに見上げてきた伊吹を無視する。「志賀さんでしょ」「げ」「君と同じ出身校だ」 それぐらいは知ってるよ。「あ、隠すつもりじゃなかったんすけど」 手加減するつもりとか思われるの癪だったし。「手加減なんてしないでしょ、君なら」 それぐらいはわかってる。「それに」 僕は目はそれほど悪くないよ。「眼鏡かけてるけどね」「あ、えーと、課長?」 高崎がへらっと笑って頭をかいた。「なんか俺、絡まれてる感じがしたりして」「絡んでないよ?」 じろりと今度は正面から相手を見つめた。「ただ」「婚約者が他の男と話してるのにむかついてるだけ」「っ」 ばさりと伊吹が切って、思わず口をつぐんだ。「い、伊吹さん」 そういう言い方しちゃ課長の立場ってものがないんじゃないすか。 高崎がひきつるのに、伊吹が冷ややかに京介をみやる。「そうですよね?」「……」「だから、高崎さん、行っていいですよ、これは私と京介の問題ですから」「あーはいはい」 じゃあお願いします、それ。 高崎が、すげー、伊吹さん課長呼び捨てーとくすくす笑いをしながら去っていくのに、京介は無言で立ち竦む。 伊吹は沈黙したまま京介を見つめている。きららかに晴れた日差しの中、容赦のない表情に京介は追い詰められる。 とうとう堪えきれなくて、口を開いた。「伊吹さん、あの」「課長」「はい」 びしりと遮られて黙る。「職場ですよ」「はい…」「プライベートを持ち込まないで下さい」 仕事にならないでしょう。「、だって」 まっすぐに見つめられて、自分が乾き切っていると感じた。「だって、美並」 足りない。「課長」 全然足りない。「だって美並」 眠れない。 食べられない。 水を飲むのが精一杯で。「か…」 言いかけた伊吹がぽかんとした顔で口を開いたまま固まる。 視界が歪んだ。ぼたぼたと零れ落ちる涙に我ながら呆気にとられる。けれど。開いた口からも言葉が溢れてとまらない。「嫌いに……ならないで」「……課長」「……僕を……捨てないで…」「………京介」「…………いっそ……殺して…」「………」 伊吹がじわじわと赤くなった。 やがて静かに深く溜め息をついて、右手を上げてみせる。「見えますか?」「うん」「指輪、つけてきましたよ?」「…うん」「…………今夜忙しい?」「え…?」「映画、一緒に見に行きましょうか」 この前、ハルくんと行った映画です。「『BLUES RAIN』…?」「知ってたの?」「ネットで調べた…」 京介の応えに、伊吹は奇妙な表情になった。今にも泣き出しそうな、今にも笑い出しそうな、やがてふわりと温かな微笑に変わって、京介はほっとする。「どうします?」「行く」「じゃあ仕事終わったら携帯に連絡して下さいね?」「うん」「待ち合わせして行きましょう?」「うん」「………それから」 顔洗ってから商談に出かけたほうがいいですよ。「そんな顔で出かけたら襲われそうですから」 言われた瞬間、京介は全身を覆った熱に慌てて洗面所を目指して走った。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.30
コメント(0)
**************** 伊吹に嫌われたんだ。 一晩中考えて、京介はそう結論した。「伊吹さんに、嫌われたんだ」 部屋に差し込むまばゆい朝の光に、夜中繰り返したことばをもう一度呟く。「どこでへましたのかなあ……」 きっと致命的なミスだったんだ。 恵子のことではない、と思った。恵子のことで怒っているなら、もっと伊吹は直接にぶつかってくる。「でも理由なんて…どうでもいいよね?」 自分が伊吹に疎まれた、抱きたくないと言われるほど嫌われた、それだけで十分だ。 立ち上がり、シャワーを浴び、出勤の用意をし、コップに水を一杯、それで部屋を出る。 自分が自動人形になったような気がする。「嫌われた」 改札を通るときに指輪に気づいた。「はめてていいのかな」 外さなくちゃいけないのかな。「でも」 外した瞬間に、京介は生きていくことができなくなる。「も…すこし」 甘えさせて、伊吹さん。 こぶしを握り締めて、零れ落ちていくものを必死に掴む。「おはようございまーす!」 会社の受付で笑った。「おはようございます、機嫌いいですね」 いいことでもあったんですか。「僕はいつも結構元気だと思うよ?」 尋ねてきた守衛ににこにこしながら笑い返すと、「そうそう、ご婚約されたそうですね、おめでとうございます」「え? 知ってるの?」「そりゃもう。真崎さんが婚約したって社内で噂になってますから」「へえ、僕って人気者なんだなあ」「またまた」 かなわないなあ、と苦笑する相手に手を振って勢いよく階段を駆け上がる。眠っていない体がみしみしきしむ気がするが、エレベーターでまた婚約についてあれこれ言われるのは今耐えきれないし、何よりどこかでエネルギーを使い切ってしまわないと、とんでもないことをしそうだ。「ハードな状況だよね」 あれだけそっけなくされた相手と一緒に部署で働くなんてさ。 乱れた呼吸を整えつつ、開発管理課の前で気合いを入れ直す。「さ、いく…」「おはようございます」「!」 とたんに背後から響いた声がまともに腰まで落ちて凍った。「課長?」「あ…うん、おはよう、伊吹さん」 必死に笑顔を保って振り返り、「もうメール便? 早いね」「そろそろ『ニット・キャンパス』関係で動いてますから」 高崎さんからも早めに見て来てね、と言われてるんです。「ふぅん?」 両手にフォルダやファイルや封筒を抱えた相手が通るためにドアを押さえていて、それに気づいた。「あ、れ、伊吹さん、それ」「高崎さん! 見てきましたよ」「わー。ありがとう、あ、こっちの連絡来たな!」 部屋に入った伊吹に早速高崎が駆け寄ってきて、その後を続けることができずにぼんやりする。「今の」 確かに伊吹の指に紫の石が光っていた。「指輪?」 なんで?「職場ではしないって」 石が傷むから。「課長、鳴海さんからお電話です!」「あ、回して!」 石塚に呼ばれて慌てて電話に向かう。「おはようございます、真崎です」 電話の向こうの声は生き生きとしていた。『Brechen』に連れていかれていた従業員が一部戻されて、予定していたニット帽も期日より早めに仕上げられるかもしれないという内容だった。「それはよかった」『あんたが裏で動いてくれたんだってな?』 鳴海がどこか照れたような声で続けた。『戻ってきたやつらが言ってた、あっちでの仕事に配置換えがあって急に予定が変更になったんだと』「僕は何もしてませんよ」 曖昧に微笑む。 昨日の会議の応対を見ると、大石はほとんど手配を終えたのだろう。予定より早く切り上がってきたのは、色を限定されたから、別バージョンを設定したのを取りやめた可能性はあるが、京介の働きかけというより『Brechen』自体の方針変更だ。『いや、本当ならぎりぎりまで戻れなかったそうなんだ、それが昨日の夜、急に連絡されたらしくってな』「ああ…なるほど」 源内の煽り方がうまかったせいもある。大石が自分の統率力を誇示したくなったのかもしれない。『正直、あんたのところのがどこまで揃うかってところだったんだが』 おいおい。「それはよかった」 狸だな、この人も。 それはこちらに知らせてなかったあたり、さすがに伊達や酔狂で厳しい業界で生き抜いてきたわけではないということか。 頷いていると、ひょいと視界にメモを差し出されて目を上げると、高崎が片手を立てて拝みながら中身を指差している。ざっと読み下して、ちらりと相手を上目遣いにみやると、にやっと片目をつぶってきた。「それじゃ……ちょっと甘えていいですか」 じつはお願いしていた分よりもう少し流通させたいんですよ。「ライン、動かせます?」 京介の提示した量に一瞬口をつぐんだ鳴海は、苦笑いの口調で応じた。『できないとは言えねえな、わかった、間に合わせる』「ありがとうございます」 にっこり笑って高崎に頷くと、相手はやった、と無言でガッツポーズを作り、跳ねるような動きで離れていったが。「伊吹さん、行けるって」「よかったですね」「サンキュ、思い切らせてくれて」 やっぱやるだけやってみるもんだよなあ。 にこやかに笑う高崎に伊吹がどういたしまして、と微笑するのを京介は凝視した。 とすると、高崎にしてはえらく周到なやり方は伊吹仕込みらしい。 じり、と焼け付いた胸に唇を噛んで、京介は予定を確認し、上着と鞄をもう一度手にした。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.29
コメント(0)
****************「み、なみ…」 伊吹が怒っているのは確かで、それは京介が恵子を家に上げたからだ。けれど、それだけではなくて、伊吹は京介にも怒っている、それもかなり深いレベルで。「……マフラーと同じでしょ?」「……マフラー…?」 でもあの時は買わせてくれた、京介に新しいのをねだってくれた。 確かにそう考えれば,今回のこれはそっくりな出来事だ。 ならばなぜ、今度は京介にシャツとジーパンを買わせてくれないのだろう。「美並、僕」 よく、わからない。「じゃあそういうことで」「え!」 部屋に戻ってそのまま入ってくれるのかと思えば、玄関に置いてあった鞄を手にして出て行こうとする伊吹にうろたえる。「なんで? 今夜は泊まってくれるって」「恵子さんの手前、とりあえずそう言っただけです」「は?」「……玄関に見覚えのあるパンプスがありましたから」「………彼女が居るって……気づいてたの…?」 じゃああそこでのやりとりは全部はったりとお芝居?「気づいてましたよ?」 気づかないはずがないでしょう。「けれど、彼女の存在を京介はどう思ってるのか、知りたかったんです」「どうって…」「婚約者が居るのに他の女性を夜中に家に入れて、ついでにシャツを脱ぎかける相手が、その女性をどう思っているか、知りたいのは当然でしょう?」 目を細めて伊吹ははっきり付け加えた。「京介は誰のものですか?」「、それはもちろん美並の」「私の?」「うん、美並のもの」 応じたとたんにじんわりと温かな痺れが手足の先に広がって、自分がどれほど美並に抱かれたいのか自覚する。「僕は、美並のものだよ」 内側も、外側も,心の底まで。「違います」「……え?」 思いもかけぬ一言に茫然とした。「美並……?」「京介は、私のものじゃありません」「っ、違っ」 今のことのせいだろうか。 体を温めてくれようとした感覚が一気に冷えてぞっとした。「美並っ、今のは………っ」 ふいと伊吹が指を伸ばして体に触れ、息を呑む。「み…」 シャツの上からなぞられているのに、それだけで確実に熱を拾う。まだ部屋に入っていない、マンションの廊下で、誰が来るかわからない、なのに伊吹の指先から流れ込むものに自分の体が揺らぎながら応じようとする。「京介?」「……は…い…」 吐息まじりに応えると、指が止まってじっと伊吹が京介を見上げてくる。「ここで、抱かれたいの?」「っ」 体が震えて喉が鳴った。「誰が来るかわからないんですよ?」「……そう…だね」「京介はそれでもここで抱かれたい?」「……み…なみが…」 望むなら。 そう続けようとした答えを先に聴き取ったように、伊吹がゆっくりと首を振った。「嫌です」「え…?」「私は京介を抱きたくありません」「……え?」 京介を抱きたくない。「美並…?」 不安が広がる。「僕…」「ということで」 あっさり話を切り上げて、伊吹は携帯を取り出した。「タクシーを捕まえて帰りますね」 恵子さんと同じように。「恵子…??」 伊吹のことばの意味がよくわからない。「どうして、美並が恵子さんと同じなの?」「………」 ぴたりと伊吹が動きを止めた。 そのままじっと京介を見上げてくる瞳が、得体の知れない揺らぎに満ちているのに思わず誘い込まれる。瞳の中央、虹彩の暗闇が底知れない深さで京介の意識を吸い取っていくようで、体の力が奪われる。へたりと崩れて抵抗できなくなる感覚、視線が外せなくてくらくらする。「私も」 ゆっくり伊吹が瞬いて、ようやく息をつけた。「ふ…」 耳を侵す、密やかではっきりした睦言。「私も、京介を、抱きに来たから」「う…ん」 そっと笑い返す。 そのことばを知っていた気がした。 自分が望まれると知っていた、と。 目を細めて満足に唇を綻ばせた瞬間。「だから抱きません」「……は?」 そっけなく言い放たれて世界の音が消える、伊吹のことば以外。「もう一度聞きます」 京介は誰のものですか?「その答えが見つかるまで」 ここへは泊まりに来ません。「み…」「おやすみなさい」 くるりと背中を向けて容赦なく去っていく伊吹に、京介はただただぼんやりとした。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.28
コメント(0)
**************** 確信があった。「は、いっ」 恵子の前をがくがくする脚で飛ぶように抜けて、ドアに辿り着く。防犯スコープをのぞくまでもなく、すぐに開いた扉に、何事か考え込む顔をしながら廊下の彼方を見ていた伊吹が振り返り、一瞬目を見開いた。「京介?」「伊吹さんっ!」 しがみつく、抱き締める、冷たい髪の毛にほおずりして、自分の熱を冷まそうとする。「あー……えーと」 さすがに困惑したのだろう、伊吹はすぐには抱き返してくれなくて、やがてそろそろと背中に手を回してくれるまで数十分もたった気がした。「どうしたの?」「あぁ」 耳元に囁かれた声に泣きそうになる。「今夜、だめって」「うん、だめなんですけど」 ちょっと気になることがあって。 伊吹は静かに京介の背中を撫でながら応じてくれる。「聞いていいですか?」「うん」「……どうして廊下にブラジャーが落ちてるの?」「は?」 思わず間抜けな声を上げてしまった。うろたえて体を起こして振り返ると、確かに廊下にスカートとブラジャーがこれみよがしに放置されている。倒れていたはずの恵子の姿はとうになく、濡れた足跡が奥へ向かっているのが見えた。「い、ぶき、」「誰が来てるの?」「……恵子、さん」「どうして?」「…………雨に、濡れた、からって」「………そう」 お邪魔でしたか?「ちがっ」 優しく確認されて慌てて振り返り、説明しようとした顔をそっと包まれた。「?」「キスしてもいい?」「……うんっ」 意図はわからないけれど、キスは大歓迎だ。嬉々として唇を重ねて、温かな感触に夢中になる。「み、なみ…っ」「扉、閉めますね」「うん…」 伊吹が中へ入ってドアを閉め、しがみついた京介をもう一度抱いてくれて、今度はもっと深くキスしてくれた。「は…っ」 冷えきっていた体が溶けてきて、自分が今まで煽られていた熱よりももっと切ない熱さに炙られて、思わず息を吐くと、「今夜泊めてもらってもいい?」「…え」「終電無くなったから、京介の所に泊まろうかなと思って来たんですが」 携帯で連絡するべきでしたか? 覗き込まれて確認され、キスほど楽観できる状態ではないと気づいた。「美並、僕は」「どうして?」「え?」「どうして恵子さんを家に入れたの?」「だって、びしょ濡れだったし、もし風邪でもひいたら」「心配?」「うん、子供達がもっとかまってもらえなくなるし」「……京介」 ほ、と伊吹が息をついた。「優しいのと甘いのは違いますよ?」「……うん」 源内が言ったのと同じことだよね、これ。「私は京介の婚約者ですよね?」「…うん」「婚約者の家に夜中にブラジャー落とすような女性が居て」 大人しく、そりゃいいことをしましたね、って笑えると思いますか?「う…」 指摘されて恥ずかしくなる。「……ごめん、なさい」「しかも婚約者は半裸だし」「あ」「かなり難しい状況でしょ?」「う…うん」 やっぱり伊吹も信じてくれないんだ。 背後で恵子の嘲笑が聞こえるような気がして、唇を噛み締めて俯くと、その側を京介を抱く腕を解いた伊吹がするりと通り抜けた。「伊吹さん?」「彼女は? バスルームですか」「え、いや、あの」「……のようですね」 すたすたと奥へ入っていくと、しばらくして悲鳴に続いてはっきりとした声が響いた。「申し訳ないですが」「何するの、今」「終わったらすぐに帰ってもらえますか」 伊吹の口調は淡々としている。抵抗しているのだろう、恵子が何かを応えた後で、「……いい加減にしないと」 初めて聞く冷ややかな唸り声が聞こえた。「警察を呼んで叩き出しますが、そちらの方がいいですか?」 シャワーを終えた恵子はほとんど強制退去状態だった。伊吹のシャツとジーパンを押し付けられてぶつぶつ言ったものの、伊吹はがんとして譲らず、再び警察を呼ぶと言われて仕方なしにタクシーを呼んで出ていった。「……あの…」 恵子が乗ったタクシーを見送ることもなく、さっさと引き上げる伊吹の後を追う。「ごめんね、シャツとジーパン…」「今度」 くるり、といきなり伊吹が振り返って固まる。「一緒に買いにいきますから」「あ、う、うん、僕が買うから」「……京介」 じろりと今度は明らかに冷たい目で見られて凍りつく。「あのシャツとジーパンは私が勝手に恵子さんに押し付けたものですから」 京介が払うものじゃないでしょ。「だって」「それに」 今の状況でそれを言い出されるのは、まるで恵子さんの後始末を京介がしているようで不愉快です。 言い捨てられて瞬きする。「京介に買ってもらうなら、京介の服を渡すように頼んでます」 静かな声に糾弾されている気がした。「京介はこれからもそうやって、大輔さんや恵子さんが京介に押し付けたものを支払う気ですか?」 **************** 今までの話は こちら
2026.04.27
コメント(0)
**************** 投げたバスタオルは頭から被っていて、ボタンを外したブラウスの胸元から押さえつけられた白いふくらみが見える。膝を曲げる、濡れてはりついたストッキングの脚が、いつの間にボタンをそこまで外したのだろう、きわどい部分だけを残して艶かしくスカートの脇を割る。顔をタオルで遮られているから、京介の視界に入るのは柔らかそうな体の線と、少しずつ露になってくるあちこちだけだ。 恵子なのに恵子ではなく、顔のない女、男の欲望を揺り動かすために描かれた幻のような姿に、京介の中の抵抗がみるみる逸らされなだめられていく。「…ふふ」「、」 ごくりと唾を呑み込んだ瞬間、恵子がバスタオルの間から視線を投げてきた。「ずるいわ、京ちゃん」 視線が這い降りる。「体で誘っているくせに」「く」 指摘されて、恵子の視線の先に気づいた。顔が熱くなり、急いで向きを変える背中に、「確かめてみる?」「……何を」「伊吹さん?」 あの人とどこがどう違うか。「っっ」 ぞくりと竦んだ背骨の付け根、けれどそれは決して不愉快なものではなくて、切ない痺れ感。「私はしゃべらないし」「……」「あなたも話さないでしょう?」 伊吹の名前に刺激されて湧き上がってくる甘い感覚が、恵子の声に揺さぶられる。「……恵子さん」「誰も知らない」「………やめて」「知ってても、止められないわよね?」 掠れた笑い声。その声がどこで響いたのか、京介はまざまざと思い出す。開いた膝の、その中央で、濡れた唇が舌を出して嗤ったのは。『ここでやめてもいいのよ?』 瞬間に追い詰められる、不安と苦痛。 腰が一気に重くなる。「……僕は」「…………もっと、来て」「!」 脳裏によぎった自分の昔のことばをそのまま繰り返されて、京介は振り返った。 恵子が薄笑いをする。「もっと、僕を呑み込んで……そう言ったわよね?」「恵子さん…っ」「初めての時の京ちゃん、可愛かったわ」 伊吹さんには何てねだってるの?「私のときとは違うのよね?」 話してあげたくなるわ、京ちゃんがあんまり冷たいと。「けい…こ……さ…」 がた、と背中で音がして、自分がよろめいて壁によりかかったのだと気づいた。 するすると滑りよってくる恵子は微笑んだまま、唇を突き出して京介の額に触れる。「そんなに怖がらないで、京ちゃん」 私達はいい関係でいられるわよ。 眼鏡をゆっくり外されて、視界がぼやける。「あの人……大輔からも守ってあげる」 でないとほら、あの人はあなたを二人で、なんて言うかもしれないわ。「う…」 瞼にキスされて眼を閉じる。粘りつく冷たい汗が体中に吹き出して、歯を食いしばる。「…いや…だ」 そんな経験などないのに、閃くフラッシュバックは、自分が大輔と恵子に挟まれて泣き叫ぶ姿で。 コワレル。 突き落とされるような恐怖に竦む。「…あら……そうしてほしいの?」 耳に吹き込まれて体が震えた。 淫乱ね、京介。「違う…」 そんなことを望んでいない。 じゃあ、この感覚は。 こうして恵子に迫られて身動きできなくなる自分は。「伊吹さんに全部話してあげましょうか」「、あ」 当てられた掌が脚を這い上がっていく。「あなたがどこが弱くて」 滑らかに進む指先が。「どこが一番気持ちよくて」「恵子、さ、」「私にいつも何をねだっているのか」 その手に腰が動いた瞬間、ざぶりと波に呑み込まれた気がして喘いだ。「なあに、こんなにして?」 伊吹さんは満足させてくれないの。「京ちゃんは欲しくなったら止まらないのよね」 嘲笑うような声に薄目を開く。 どこからか伊吹の声が響いてくれるのを待って、次の瞬間、『それに、あんたはあんただけのためじゃなくて、その指輪のためにも戦わなくちゃいけないんじゃないか』「あ…」 耳に戻ってきたことばに瞬きした。 指輪。 指輪。「い…ぶき…さん…」「……いいわよ?」 喉に唇が当たる。肌に舌が触れる。「彼女のことを想ってても」 京ちゃんが気持ちよくなるのは私の体だから。 恵子の声に上がりかけた呼吸を必死に戻す。 何だっけ。 手をつく、んだ。「っ、」 シャツの中に冷たい手が入ってくる。それを感じつつ、背後の壁を両手で探った。撫で上がる指が胸に近づく、ぞくぞく痛いほど敏感になる皮膚を辿って、その先を想像する意識を掌に集める。「それ…から…」「いつもみたいにしてあげる、ここを舐めて、一緒にここも」 恵子が微かにうわずった声に呟きつつ、開いたシャツに顔を埋めてこようとした瞬間、崩れそうな体を壁から突き放した。「きゃ…っ」「い、や、だ!」 どさり、と恵子が床に尻餅をつき、呆然とした顔で京介を見上げてくる。肩で息をしながら、京介はシャツをかき寄せ握りしめた。「おかしなことを、するなら」 出てってくれ。 震える指で、内ポケットから携帯を取り出す。「今すぐ、あなたが、何をしてるか」「誰に話すつもり?」 く、と恵子は嗤った。「誰が聞いても、京ちゃんが暴行したって思われるわ」「伊吹さんは、違う」 震えそうになる声を吐き出す。「伊吹さんは、信じて、くれる」「ふぅん?」 じゃあ呼んでみなさいよ。 恵子は低く唸った。「今ここでこの格好で」 京ちゃんが何もしてないって信じてくれるとでも思う? タイトスカートのボタンを一気に外して恵子が嘲笑う。「一度や二度の関係じゃないのに」「でも…っ」 でも、伊吹さんは。『今夜はだめです』 響いた声を無視して、京介は携帯を握った。 今夜はだめ、そんなことはもう聞いた、けど僕は。「今夜、伊吹さんに居てほし…っ」 滲む涙を情けないと思えるほどの余裕はなかった。今すぐコールしようとした矢先。 チャイムが、鳴った。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.26
コメント(0)
**************** **** 美並との夕食の機会を失い、そのままあれこれと残り仕事を片付けて、京介は遅くに会社を出た。「ふ、ぅ」 やってきた電車は通勤ラッシュの時間帯を越えているせいでかなり空いている。それでも座席に座らずに、京介は戸口に立って自分の体を抱き締めながら吐息をついた。 軽く目を閉じ、扉に頭をもたせかけると、ぼんやり眠気がやってくるような気もする。揺れるたびに、自分の汗の臭いがまとわりつくような気がして気持ちが悪い。 一応下着は緊急の泊まり込み用に置いていたものに替えたけれど、半端に燻ったままの体の奥が不愉快で、眉をしかめて目を開ける。「おかしく……思ってくれたかなあ…」 伊吹に気づいてほしいような、気づいてほしくないような。 知られることを思うと全身熱くなるのだけれど、なぜそんなことをしたのかとか、どうやってしたのかとか、もう少し踏み込んでそれほど寂しかったんですかとか、それなら少し一緒にいましょうかとか、今夜泊まっていきましょうかとか、そういう展開になるととても嬉しい。「……やば…」 ふと我に返って、思わず顔が熱くなっって、緩んだかもしれない口元を掌で覆う。「…さすがに伊吹さんでも引くよね…」 ああ、なんだか僕、どんどん危ない方向に突っ走ってる気がする。 はぁ、と溜め息をついて、ふと突き刺さるような視線を感じて振り向くと、はっとした顔で慌てて顔を伏せた数人が居る。「……」 気づかぬふりでそのまま再び扉の方を向いてもたれながら、鏡になっているガラスでみやると、京介が向きを変えたと思って顔を上げた幾人かが、お互いの視線には気づいていないのだろうか、じろじろと舐めるように京介を見つめてくる。中には丁寧に上から下、腰のあたりも凝視してくれるのも居たりして、京介は薄く眉を寄せた。男女問わずというあたりが、とんでもなく微妙だ。「……何か漏れてるのかな」 抱いてほしいと思う気配、とか? 口を覆った掌の中でそっと呟いた。 伊吹にどこもかも見られて暴かれるのは好きだけど、こんなふうに探り回れるように見られるのは、ぞくぞく寒いものを感じて、体の置き場所がなくなってくる。「汗の臭い…するとか」 くん、と肩に鼻を寄せて嗅いでみたがよくわからない。ただ体を捻ったとたん、確実にびく、と硬直したのが居て、思わず振り返ると妙に前屈みになった若い男と視線が合った。京介が振り向くと同時に目を見開き、見る見る真っ赤になって立ち上がり、そそくさと別車輌へ移動していく。 京介も一応男だから、その動き方の不自然さの意味は十分にわかる。「……あれって」 たぶんやばくなっちゃったことだよね?「なんで?」 そんな美女もいなかったけどな。 首を傾げたあたりで駅について、とにかくべったりした汗を流すだけでも気持ちがいいだろうと家路を急ごうとして、降り落ちてきているものに気づいた。「あ~」 弱り目に祟り目ってこういうことなんだろうな。 秋の雨は細かくて冷たい。駅のコンビニはもう閉まっているし、周囲に傘を調達できそうな店もないのは承知、仕方なしに上着を脱いで軽くかざし、濡れた道を小走りにマンションまで戻ってぎょっとした。「遅かったのね」「恵子さん…」「すっかり冷えちゃった」 白い唇を引き攣らせるように微笑んで、上から下までずぶぬれの恵子がマンションの壁から体を起こした。「……はい」「ありがとう」 急な雨だったでしょ? 京介の差し出したタオルを受け取って、恵子は玄関で濡れた髪の毛を拭きながら続けた。「昼間はそうでもなかったから、傘なんて持ってなくて」「どうして?」「え?」「タクシーでも何でも呼んで帰ればよかったでしょう」「ああ……手持ちがなかったのよ」 カードも忘れてきたし。 嘘だろう、と京介は思った。 恵子がそういう不手際をするはずはない。何より不愉快を嫌う女なのだから。「お友達と会って……ああ、京ちゃんに連絡したのよ、雨が降り出したときに」「……知ってる」「あら…」 恵子はタオルを動かす手を止めて,目を細めて笑った。「連絡くれなかったじゃない」「僕がどうして連絡しなくちゃならないの?」「だって私、あなたの『義理の姉』でしょう?」 微笑みを深めた恵子の目は笑っていない。「それで、どうするの?」「え?」「私にくれるのはタオルだけ?」 これみよがしに肩から胸へ擦る仕草で、濡れたブラウスを透かしてくっきりと黒いブラジャーが浮かび上がる。 一瞬その胸元に伊吹の柔らかな感触を思い出して、喉が干上がった。「ねえ、京ちゃん…?」 ゆっくり降ろしていくタオルは、秋物にしては薄すぎるブラウスをぴったり肌に張りつけていく。押し付けられた力に抵抗するように一瞬ひしゃげて緩やかに形を取り戻す胸、その真下を潜るように、やがてふっくらと柔らかそうな黒いタイトスカートに包まれた下腹へと滑っていくそれに、まるで自分が恵子の体を撫でていくような錯覚に陥った。「ほら……中まで、びしょびしょ…」 タオルを持った指がそっと伸ばされて、タイトスカートの脇に綺麗に磨いた爪がかかる。そこには布ボタンが一列に並んでいて、恵子の指先がじらすようにボタンを撫でながら一つ外した。滑り込む指がかき分けたスカートの下に、ぺたりと濡れた薄いピンク色の紐が見える。「気持ち悪くて」 濡れて、気持ち悪いから。 重なるさっきまで自分が抱えていた同じ感覚。「ねえ、シャワーを貸してほしいの」「っ」 囁かれた瞬間に我に返って、自分が恵子の指先を凝視していたことに気づき、京介は身を引いた。間近に迫っていた熱から距離を取る、それだけでは足りない気がして身を翻す。「どうしたの、慌てて」 くすくすと笑い声が背中から響いて、下半身を生ぬるいものでくるまれた気がして舌打ちする。 まずい。 煽られていく中心に不安になる。 なまじ関係を持ったことがあるだけに、体が勝手に記憶を取り出し、反応していく。 熱くなってくる息をごまかしながら、バスタオルを取り出してきて玄関に戻り、腰をくねらせた姿勢で立っている相手に投げつけ、顔を背けた。 見なければいい、そんな京介の思惑を逆撫でするような媚びた声が応じる。「いいの?」「あなたが大事だからじゃない」 吐き捨てた。「子供達はどうしてるの」 体中がちりちりする。視界に入らない恵子の身動きする音を耳が追いかけてしまうのを、家に残されている子供に振り替えようとする。「ああ……今夜は見てもらってるの」 今夜は?「どういう意味…」 思わず振り返ると、恵子はそっとパンプスを脱いでいた。************ 今までの話は こちら
2026.04.25
コメント(0)
****************「違います」 真崎がすっと顔色をなくした。「京介は、私のものじゃありません」「っ、違っ」 はっきりと顔を強張らせて迫ろうとする相手に指を伸ばして、シャツの下で膨らみかけた胸に触れた。「み…」 切ない声が響く。「京介?」「……は…い…」 掠れた声が蠱惑を宿す。「ここで、抱かれたいの?」 ごくり、と真崎が唾を呑んだ。揺れる視線が廊下を彷徨い、周囲に誰かの視線を探すように揺らめき、やがてもう一度唾を呑み込んで唇を開いた。小さく舌が覗く。「誰が来るかわからないんですよ?」「……そう…だね」 舌がそっと唇に触れる。「京介はそれでもここで抱かれたい?」「……み…なみが…」 細めた瞳の奥に蕩けるような光が滲んだ。 命じれば、今ここで立ったまま、美並に見られながら自分を自分で慰めることさえ厭わないような、濡れた光。『抱かれていないとコワレルだけなの』 美並が開いた真崎の扉は、快楽のためになら誰にでも自らを明け渡してしまうようなものだったのか。「嫌です。私は京介を抱きたくありません」 気がつくと言い放っていた。 それは望んだものではない。そんな満たし方を教えたわけではない。「ということで、タクシーを捕まえて帰りますね」 それでは同じだ、恵子と、大輔と、だがしかし。 美並は他にどうやって真崎を満たしてやれる? 「どうして、美並が恵子さんと同じなの?」 絶妙なタイミングで尋ね返されて、ぎくりと体が震えた。 見上げる。真崎は今にも崩れてきそうだ。美並の望むままに、全てを晒して、甘やかに。 そうだ、なぜ今、美並はここにいるのか。「私も」 恵子と同じ。「ふ…」 真崎が吐息をついた、ベッドでの喘ぎに繋がる、誘うように密やかな声で。「私も、京介を、抱きに来たから」 大輔が、この街へ現れたのと同じ意図。「う…ん」 真崎が唇を綻ばせた。 瞳が宣言している、自分の勝利を。 真崎の体に誰もが溺れる。それを貪るために誰もが夜を這い回る。 堕ちておいで。 真崎がそう誘っている。 僕に、堕ちて。 そうして自分の欲望を、その非情さを、その虚ろさを、支配の歓びを味わい尽くそうとする自分の驕りを知るがいい。 ふいに美並は理解した。 自分の能力の先に、この門はいつも出現するに違いない。 人の範囲に踏み込む傲慢の代償を、どう支払うのかと迫られるに違いない。 ならば。「だから抱きません」「……は?」 真崎の顔が惚けた。「もう一度聞きます。京介は誰のものですか?」 美並のもの、と応えさせるような応え方ではだめだ。献身ではこの先一緒に歩けない。美並はいつか疲れ切るだろう、恵子のように、手に入らない幻の重荷に。その幻を消してしまいたくなるだろう。 けれど今、美並には、それ以外の応え方がわからない。 それ以外の方法が見つからなければ、美並は真崎を隷属させるか、殺すしかない。 大輔にも恵子にもならない方法を、美並はまだ見つけられていない。「その答えが見つかるまで、ここへは泊まりに来ません」 でなければ、美並は真崎を抱くためだけに生きる羽目になる。 そして、その先に待っているのは、難波孝、ただ一人。「み…」 真崎が細かく震えている。美並も細かく震えている。 自分ではやっぱりだめだったのか。 真崎を満たすには足りなさすぎたのか。「おやすみなさい」 背中を向けて立ち去りながら、美並は絶望を抱えた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.24
コメント(0)
****************「……あの…」 玄関の扉が閉まって部屋に引き返してきた美並に、真崎がおどおどと声をかけてくる。「ごめんね、シャツとジーパン…」「今度、一緒に買いにいきますから」 不安そうな真崎が妙に可愛らしく見える。瞬きしてこちらを見返す瞳が濡れていて、その先を期待しているようで心が揺れる。「あ、う、うん、僕が買うから」 舌打ちした。 ここでそれを口にしてしまうのか。「京介」 びくりと体を震わせた相手を睨みつける。「あのシャツとジーパンは私が勝手に恵子さんに押し付けたものですから、京介が払うものじゃないでしょ」「だって」 この境界線の甘さはどうにかならないのか。人に押し入られて蹂躙されることを望んでいるとしか思えない。「それに、今の状況でそれを言い出されるのは、まるで恵子さんの後始末を京介がしているようで不愉快です」 ここまで言わなくてはわからないのかと焦れつつ、口にすると、真崎はなお不安そうに瞬きした。 わからない、と告げている顔に、買ってもらうなら、真崎の服を渡している、と応じると、なお困惑している。「京介はこれからもそうやって、大輔さんや恵子さんが京介に押し付けたものを支払う気ですか? ……マフラーと同じでしょ?」 マフラーは真崎が汚したものではない、大輔の理不尽なやり方に奪われたものだ。 美並のシャツとジーパンだって、美並が自分の意志でゴミ箱に捨てたと同じ、美並の中では真崎に絡む恵子の糸を断ち切ったつもりなのに、御丁寧にも自腹でそれを拾い上げようとしている真崎が居る。「美並、僕……よく、わからない」 そっと応じて唇を噛む仕草は、どこか儚げで妖しい。 誰でもいいのよ、と恵子の嘲笑う声が聞こえる。 誰でもいいの、自分に快感を与えてくれる相手なら。一番強くて気持ちいい快感を与えてくれるのが大輔で、それ以外はそれを再現してくれる相手なら、誰でもいい。 抱いてさえ、くれるなら。 ならば、美並に真崎が魅かれたのは? 美並が大輔を熟知し、大輔の本質を理解し、今までの誰よりも、それこそ恵子よりも大輔に近いやり方で、真崎を扱うことができたからだろうか。 真崎にとっては、ただそれだけのことでしかないんじゃないか。 ならば。 ダイテヤレバイイ。 真崎の求める抱き方を、きっと美並は確実に再現できるようになる。人の心の奥底を理解し、感じ取る美並だからこそ、真崎が望む「大輔に一番近いやり方」で満たすことができる。 けれど、その時、美並はどこに居るのだ? 真崎を抱いている美並は、一体誰なのだ?「じゃあそういうことで」 そのまま思った通りに真崎をののしりそうになって、冷えた心で向きを変えた。扉を開け、廊下に出る。「なんで? 今夜は泊まってくれるって」 慌てて真崎が追ってきた。「恵子さんの手前、とりあえずそう言っただけです」 真崎がきょとんとしている。つい今までの、不安そうな中にも微かに揺れていた期待が削り落とされている。「玄関に見覚えのあるパンプスがありましたから」 気づいていたの、とあやふやな口調になる真崎に冷ややかに嗤った。「気づいてましたよ?」 気づかないはずがないでしょう。「けれど、彼女の存在を京介はどう思ってるのか、知りたかったんです」 いろいろ不愉快なほどに十分にわかった気はするが。 目を細めて尋ねた。「京介は誰のものですか?」「、それはもちろん美並の」「私の?」「うん、美並のもの」 こくん、と真崎が無意識にだろう、喉を鳴らした。開かれたシャツの首が艶かしく動く。薄い笑みが華やかに唇に広がった。「僕は、美並のものだよ……内側も、外側も、心の底まで」 呟いたことばに煽られたのか、真崎が微かに腰を揺らせる。 けれど、その欲望は、本当に美並に向けられているのか、それとも、美並が再現する大輔へのものなのか、今美並には判断ができない。**************** 今までの話は こちら
2026.04.23
コメント(0)
急に暖かくなったり、気温の割には冷え冷えしたり、ややこしい気候になっております。みなさま、体調崩されていませんか。いつもと違ってだるいな、と思ったら、少しだけ早めに休養取ってくださいね。色々なことがある中、ご来訪、いつもありがとうございます。おかげさまで順調にヒットを伸ばしております。始めた頃には、こんな数まで行くとは思ってなかった。やっぱり、継続は力なのか。書き始めてから50年は経ってるものなあ。で、『ラズーン』ですが、すみません、今回はまだできていません。鋭意製作中(笑)今しばらくお待ち下さい。それと、以前『闇を闇から』の最新版を並行してあげていたんですが、訳がわからなくなってしまうので、現在は『アルファポリス』と『小説家になろう!』にだけ、最新版あげています。毎週水曜日連載です。ついでにお知らせしておきますと、今、『アルファポリス』と『小説家になろう!』で、以下のように連載中です。<アルファポリス> 『闇を闇から』(18禁恋愛ミステリー・闇をと闇からの合体版)『闇を見る眼』(美並視点)『闇から見る眼』(京介視点)(毎週火曜日) 『これはハッピーエンドにしかならない王道ラブストーリー』(全年齢ファンタジー)(毎週水曜日) 『ドラゴン・イン・ナ・シティ』(18禁BL)(毎週金曜日) 『segakiyui短編集』(童話・小文・詩など色々短いもの)(毎週日曜日)<小説家になろう!> 『闇を見る眼』『闇から見る眼』(毎週火曜日) 『これはハッピーエンドにしかならない王道ラブストーリー』毎週水曜日) 『ドラゴン・イン・ナ・シティ』(毎週金曜日)全部メルマガで連載しているものを、数ヶ月〜1年遅れで連載させて頂いています。ご興味あれば、お越し下さい。 では、今後ともよろしくお願いいたします。
2026.04.22
コメント(0)
**************** 恵子には美並のジーパンとシャツを与えて、タクシーで放り出した。「いやよ、こんな夜にどうやって帰れっていうの」「警察の方が安心ですか」「……いやだわ、こんなの、趣味も違うし、サイズも」 ほらここのところがきついし。 胸と腰を指差す恵子に、「着てこられたものは焼却炉に回しますが、何か?」「ちょっと」「その服も好きなように扱ってかまいませんよ」「あなた」 一体何様のつもりよ。 恵子は再び唇を尖らせる。 シャワーで洗い流された口に新しく引かれた紅の色は鮮やかすぎて、薄白くなった顔色に浮いて見えた。「何様でもないですね」 ただなりふり構わずというところです。 冷ややかに応じてやると、あら、と恵子は目を見開いて、微笑んだ。「大輔が気にするのもわかるわね。あなた京ちゃんに似てるわ」「…」「大輔と張り合う時の京ちゃんに。屈しそうで屈しない、追い詰めて勝利を確信した最後の瞬間に噛みつかれそうでゾクゾクするって。わかるわね」 趣味が悪い男よ、と恵子は掠れた声で嗤った。「寝物語に、私に抱いてる男のことを話すのよ」 くつくつ、と今まで聞いたことがないしわがれた声が響いた。「殺してやりたいと思うのも飽きたわ」 瞬きをして、きつそうな胸を無理矢理シャツに押し詰めてボタンを止める。「子どもの事、聞いた?」「いえ」「二人居るでしょ。どっちも大輔の子どもじゃないわよ」「……」「一人は誰か知らないわ、大輔が連れてきた仲間って人」 品が良さそうな穏やかそうな男だったけど。「女をモノ扱いするのに慣れてた男だった」 恵子はジーンズのチャックを弄った。「セックスは楽しかったけど、二度とはごめんね。女が惨めになるような抱き方しかできない男」「もう一人は」 その答えがうっすらと透けて見える。「孝」 大輔と結婚して、孝と別れて。「街へ出た孝が、誰でも寝てるって聞いたから」 歪んだ笑みを浮かべて恵子は美並を見返した。「試したの、うまくなってるか」 男が惨めになるような抱き方。 恵子がさっき口にしたことばが、立場を変えてそのまま鳴り響いた気がした。「うまかったわよ、夢中になった。何度でも繰り返したかった。夢中になって、夢中にさせたくて、大輔をまねたの、孝ならきっと京ちゃんと同じぐらい悦ぶんじゃないかって」 ひどいことを。 一瞬、ことばが出なかった。「悦んだわよ、気が狂ったみたいに……叫んだの、大ちゃん、もっと、って」「、」「大ちゃん、もっと、って」 繰り返した恵子の瞳が真っ黒に光を吸う。「京ちゃんも同じ。何度も聞いたわ、悲鳴みたいに叫んでるのを。気持ちよさそうに貫かれて、喘ぎながら何度も何度も駆け上がって、汚した布団の中で薔薇色の体して眠ってるのを見て、ずっと欲しかった」 綺麗だった。涙にまみれて、汗に濡れて。「伊吹さん」 恵子が薄笑いする。「あなたが知ってる京ちゃんは、どんな男なの」 私が見たのと同じ、大輔に抱かれてよがってる男じゃないの。「誰にでも体を重ねて、誰にでも気持ちよくなって、その底にはあの男しか入ってなくて」 それとも、そんなところまでも抱いてないかしら。「京ちゃんが我を忘れるほども、満たしてあげてないんじゃないの」 恵子は唇を歪める。「だから、こんなにあっさりと私を迎え入れるのよ」 見せてあげたかったわ、玄関でどんな顔して私の唇を待ってたか。「ねっからの淫乱よ、あの子は」 抱かれていないとコワレルだけなの。「孝もそう」 私でなくても、大輔を思わせる誰かに抱かれてさえいればよかった。「……孝を殺したかったのは、私よ」 言い捨てて、恵子は美並の前を通り過ぎた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.22
コメント(0)
**************** 中に居たのはやっぱり恵子だった。 濡れた白い肌、ふっくらと柔らかな曲線は豊かな胸元だけではなく、滑らかな下腹にもむっちりとした腰にもあって、俯いた肩の丸みや、少し曲げた足首に包みたくなるようなか細さがある。「なぁに?」 すぐに恵子は眼を細め、ルージュの光る唇でほくそ笑む。「ひどい顔ねえ」「……」「そそけだって、きりきりしてとんがって。それ、女の顔じゃないわよ、鬼の顔。般若?」 私も古風だわね くすくす笑ってこれみよがしに盛り上がった胸に指を這わせた。「嫉妬は醜いわよ。いいじゃないの、共有したって」 少し持ち上げた乳房の下に吸い付いて残したとわかる、赤い痣があるのを指先で示す。「あなたはしなやかで強いんでしょ。私は柔らかくてあったかいんですって」 それぞれに好きな時に好きな方を楽しめばいいってこと。「まあ、男が女を欲しがるのは安らぎたいのが本音だから、あなたの出番が少ないのも無理ない……きゃあっ!」 話し続ける恵子に一気にシャワーの水コックを開いた。「申し訳ないですが」「何するの、今」 ざぶっとかかった冷水をすぐに止め、反論しかける相手を見据える。「終わったらすぐに帰ってもらえますか」「京ちゃんに言ってよ、連れ込まれたんだから」 第一、一度でも京ちゃんが頼んだ、私を追い出してくれって。恵子は声を低めた。「言ってないでしょ。私に怒るのは筋違いでしょ、何度も何度も」 唇を尖らせ、もう一度温かいシャワーを浴びようと手を伸ばしながら、恵子はくすくす嗤う。「ねだるのよ。もっとちょうだい、もっと僕を呑み込んで、恵子さんもっと、って」 ベッドまで待てなくて、玄関で襲われて、雨に濡れてるから寒いでしょって言ったのに。「ここで今すぐにって聞かないんだから」 そんな風に求められたことある? 玄関で脱がされて押し倒されたの、嫌だって拒んだらもっと興奮しちゃって、もっと恵子さん見せてって。僕のここ見てって。「そう言いながら、自分から跪いて舌を這わせて」 自分で啼きながら求めてきて、可愛いのよ、いつも。 美並の中で声が響く。 だって。 だって。 私は欲しい。 あの人も、この人も、その人も、欲しい。 私がうんと欲しいから、誰かにうんと欲しがられたい。「で、最後には自分で開きながら、ここ突き刺してって言うの」 そんな京ちゃん、知らないでしょ。「あの子が一番欲しがってるのは、大輔に抱かれることなのよ」 吐き捨てるように言った恵子が下半身に手を伸ばす。 指先が苛立たしげにかき分けていく部分に、恵子も美並も目を落とす。 その瞬間、同じ感覚を分け合ってしまう、乱れ狂う真崎の濡れた視線が振り返った先に広がる闇の存在と、自分のそれとの彼我の差を。 あなたが私は欲しいのだ。 けれどあなたが欲しがっているのは私ではないのだと感じてしまう。 私がなり得ない何者かなのだと感じてしまう。 あなたから私が得られるのは、その熱に溶ける体だけで、切望する瞳は私を通り抜けてしまうのだと気づいてしまう。 それでは足りない、うんと足りない。 それでは私は一人になるだけ。 熱が、醒めた。 恵子もまた、真崎を得てはいないのだ。 得ているのは反応する体だけで、その視線が通り抜けていると気づいている。 だからこうして焦る。些細なきっかけ、僅かな繋がりを引き寄せて、真崎の懐に入り込もうとする。 同じものを美並は持っている。同じ誘惑を、同じ媚を、同じ揺れを抱えている。 体しかないなら、体でしか真崎を得られないのなら、美並もまたそうしたのだろう、体だけが欲しいなら。「私やあなたのここじゃなくてね」 指先でその部分を広げてみせようとする恵子に、美並は再び水コックを思い切り捻った。うろたえた恵子が飛び出してくるのに一歩も引かず、鼻先を付き合わせて目を細める。 けれど美並はもっと貪欲で。 真崎の全てが欲しいのだ。 その願いを放棄できるのか? 否。 恵子のように、体だけで満足できるわけがないだろう。 切り裂かれた自分の身の内には、紅蓮の嫉妬が渦巻いている。 真崎の全身を溶かし込み、奪い去るまでおさまらない。 なら。「……いい加減にしないと」 戦うしかないだろう。 真崎を揺らめかせる全てのものと。「いっ」 掴んだのはキスマークのついた乳房だった。指の力に実体がないように握りしめられる、その柔らかさにつけ込んで力を込める。驚きに目を見開いた恵子が次第に青ざめたのは、握る力を増し続けたせいだ。「警察を呼んで叩き出しますが、そちらの方がいいですか?」 恵子が瞳を揺らせて、初めて顔を逸らした。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.21
コメント(0)
**************** ばたばたっ、と現実ではない音をたてて、けれど見えない美並の心を裂いて、紅蓮の赤が散ったのが見える。 これが嫉妬の報い。これが支配の代償。「どうして?」 もう尋ねなくてもよさそうなものなのに、どうして尋ねてしまうのだろう。そこにどんな理由があったら、納得できるのだろう。「…………雨に、濡れた、からって」 今時、下手なマンガでもそんな理由などあり得ないだろう。 あれほど怯え、あれほど拒み、あれほど自分を犯した相手を、相手が雨に濡れていたから家に招き入れる? 可哀想だったから? 仕方なかったから? 人道的に? 男として? 正義として? それでも傘はあっただろうに。 思いついて苦笑する。 傘どころか、双方立派な大人なのだ、家に入れることがどういう意味を持っているか、わからなかったというわけでもあるまい。「そう。お邪魔でしたか?」「ちがっ」 慌てて振り返った真崎の白い顔に微笑んだ。 違う、以外のどんな答えが返せるというのだ、この状況で、真実がどうあろうとも。ましてや真崎は人の心の動きには通じている。美並をごまかせるとは思っていないだろうが、それでも社会通念として、認めるわけにはいかないことぐらいはわかっているだろう。 もう、いい。「キスしてもいい?」 うろたえる真崎が悲しかった。 ごまかされるしかない自分が辛かった。 真崎の顔を包み、ねだってみた。うんっ、と嬉しそうに頷いた真崎に、恵子で満足しきれなかった部分もあるってことか、とひねくれて思い、その自分にずたずたになった。「み、なみ…っ」「扉、閉めますね」 出来上がった構造だ。奥では別の女が居て、その同じ屋根の玄関で唇を重ねて抱き締め合っている。奥で恵子は聞いているだろう、美並と真崎のやりとりを。嫉妬を感じたりするのだろうか、それとも、虚しい抵抗を試みる美並を嘲笑っているのだろうか。「は…っ」 真崎が口の先で喘いでぞくりとする。この男は、女二人に交互にねだられている自分に満足しているのかもしれない。背後にさっきまで求められていた女の視線を感じ、目の前の女に求められて乱れていく自分を感じ、そうしてぎりぎりの狭間で快感に狂う自分を楽しんでいるのかもしれない。「今夜泊めてもらってもいい?」 残酷なことばが口を突く。「…え」 真崎が薄目を開けて怯えた表情になるのに、昏い喜びを味わう。「終電無くなったから、京介の所に泊まろうかなと思って来たんですが、携帯で連絡するべきでしたか?」 そんなことを楽しむならば、お望み通り修羅場に追い込んでやろう。「美並、僕は」 ただし、それは女二人に同時に求められるなどという際どい場面じゃない。狡さと無責任さを抱えて、欲望のために被害者ぶって人を操ろうとするみっともなさを、じっくり自覚してもらおうということだ。「どうして?」 とまどう真崎に静かに繰り返す。「どうして恵子さんを家に入れたの?」 答えられるものなら答えてみるがいい、恵子が耳を澄ませて聞いているこの場所で、さっきの睦言は嘘だったと自分で証明してみるがいい。「だって、びしょ濡れだったし、もし風邪でもひいたら」「心配?」 そこまでして、正義の味方で居たいのか。「うん、子供達がもっとかまってもらえなくなるし」 その子どもは恵子の子どもなのに、そこまで案じてやること自体、どれほど美並を傷つけているのか、きっと思いもしていない。「……京介」 ばかばか、しい。 溜め息をついた。 何のことない、今このやりとりで傷ついているのは美並の方だ。「優しいのと甘いのは違いますよ?」 真崎が繰り返し押し付けてきているのは、美並の存在よりも美並の気持ちよりも、恵子の状況と恵子の気持ちが大事だということでしかないのに。「私は京介の婚約者ですよね?」 そんなことに何の意味もないけどな。 どす黒い怒りに唇を噛み締める。「…うん」 うん、って言うな。 その同意の重ささえ理解していない男に、そのことばを発する権利なんかない。「婚約者の家に夜中にブラジャー落とすような女性が居て、大人しく、そりゃいいことをしましたね、って笑えると思いますか?」 ぐ、と真崎が詰まって見る見る赤くなる。「……ごめん、なさい」 何に対して謝ってんだか。 美並は吹き上がりそうになる怒りを堪える。「しかも婚約者は半裸だし……かなり難しい状況でしょ?」「う…うん」 うんって言うなって。 わかってないとわかる。美並の訴えている意味が、美並の感じている辛さが、ほんの欠片も伝わっていないと感じる。真崎から感じるのは戸惑いと混乱、不愉快と拒否。唇を噛み締めて俯く真崎の腕に、これ以上触れているのが苦しくて、美並は振りほどいて擦り抜ける。「伊吹さん?」 まだ、伊吹、なのかよ。 殴りたくなる。 彼女は恵子さん、と呼んでいる。美並は、伊吹さん、としか呼んでない。 その熱の差に、扱いの歴然とした違いに気づきもしない真崎が、うっとうしくて腹立たしい。「彼女は? バスルームですか」「いや、あの」 まだ庇う気か。「のようですね」 すたすたと奥へ入っていく。 シャワーの音が響いていたのが、唐突に止んだのを合図に一気に扉を開いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.20
コメント(0)
**************** エレベーターが開いて、まっすぐに真崎の部屋へ向かう。廊下に濡れた足跡がある。渇き始めていて、それでも寄り添うように繋がっていく濡れた跡、気がついて前を見やるとそれは真崎の部屋に続いている。 振り返る。 エレベーターから、廊下を辿って、ここまで続いている跡。 美並の靴跡も少し濡れて重なりつつ、足下まで続いていて。「……一人、ってのは」 こういう、ことだ。 必死に抵抗していた真実への扉が、容赦なく開け放たれた気がした。 二人が一緒に歩いて続いていた道のりを、美並は一人で追いかけている。片方の靴跡に寄り添っているつもりでいて、実はどちらの靴跡とも見分けがついていなくて、果てしなく先に積み上げられていく時間の前に、圧倒的に置き去られていくしかない、孤独な歩み。「盗られるも何も」 ないのか…? 初めから、真崎は美並の側には居なかった、そういうことじゃなかったのか。 のろのろと歩き出す。 濡れた二つの足跡をそろそろと踏みしめながら歩いて、真崎の部屋まで着き、そこで途切れてその先には続いていない足跡を眺めながら、ベルを鳴らした。 もう一度振り返る。 美並の足跡は最初の足跡に紛れて、見分けなどつかない。 もう一度押すべきか、そう迷って振り向いた瞬間、扉が開いて息を呑む。 視界に真っ青になった真崎の顔。乱れてスラックスから引き出されたシャツ。外されかけたベルト。 まるで今の今まで愛し合っていたところに乱入してしまったような感覚。「伊吹さんっ!」 飛びついてしがみついてくる。顔色と正反対に熱っぽい体はシャツを通しても汗ばんでいるのがわかる。喘ぐように早まった呼吸を耳元に吹き込みながら、抱き込まれた頭に頬ずりされるのが、まるで視界をわざと覆われてでもいるようで。ことさらに距離を保った腰に一瞬伸ばした指先が触れて、主張しているものを掠めた瞬間、ざわりと髪が逆立った。 コレは何? 一体、誰に、どうしてこんなところで、 ワタシジャナイ。 乱れた呼吸を繰り返しながら、真崎は一心に美並の体を抱き締めている。なのに、腰は寄せてこない、それがあからさまに不安をかき立てる、これほど距離を縮めるまでは、そんなこと、気にも止めなかっただろうに。 真崎の体が欲している、けれどそれは自分じゃないと、突きつけてきている。「あー……えーと」 声を出したのは、拘束される頭を自由にしたかったから。何かを話したがっていると気づいてくれれば不自然なく体を動かせる、そう計算している自分の意図に吐き気を感じる。 思った通り、真崎は少し力を緩めた。美並の頭を強く胸に抱え込んだ状態から、美並の全身を包み込むように抱き締める。その動きに乗じて、静かに顔を上げた視界に。「……」 黒いスカートとブラジャー。「………」 ぐずぐずと足から崩れそうになった。小さく震え出す体が遠くなる。声が出ない。衝撃を受けているとわかっているのに、乾いた感覚に涙もでない。 知っていた。 既に合図されていた。 そんなこと、とっくに、知っていた、美並の方が後なんだ、と。 廊下に連なっていた濡れた足跡が、美並を越え、真崎を越え、部屋の奥へと続いている。 美並はここで遮られて、ここから奥へ進めない。 真崎の体から甘い匂いが立ち上っている。熱を籠らせ、切ない喘ぎを響かせて、快感を追う匂いを満たした体を与えられて、納得しろと言われている。 これでいいだろ、満足しろ、と。 だって。 だって。 私は欲しい。 あの人も、この人も、その人も、欲しい。 あの山の中で聞いた声が美並の中に甦る。 そうだ美並は欲しい。真崎の体だけではなくて、その心も、真崎のものは何もかも、自分のものとして愛しみたい、味わいたい、獲得し、蹂躙し、懇願のもとに満たしてやり、美並なしには生きていられぬ、そう酷薄させたやりたかったのだ、ずっと。「……」 なのに。 与えられたのは、体だけ。だ。 じれったがるように揺れる体にそっと手を回し、滑らかな感触の背中を撫でて楽しむ。熱の高い部位に掌を当てると、そこが過敏に波打ってきて、もっと熱を上げて吸い付いてくるのを感じ取る。シャツに当たった唇を少し動かせば、ああ、と無意識にだろう、吐息を漏らして押し付けてくる。誘うように美並の頭を胸に引き寄せる、そのままに含んで濡らしてやれば、きっと歓びの声を上げて晒してくれるだろう、全てを。 それでも、「……」 視界が滲んだ。「……」 それでも。「……、」 ここどまりだ。「………………」 美並はもう、ここから先へは進めない。 真崎の体を喜ばせ満たす道具としてしか、存在できない。「………、…」 京介。 お互いの全てを差し出し、満たし合える関係に、なりたかった。 大石とは紡げなかった未来を、一人では歩けない世界を、一緒に歩いてみたかった。 それでも、ここから先は、無理なんだ。 いつか思った、恋人になれるかと言う問いの答えが、今出ようとしている。「どうしたの?」 するりと自分の口から平板な声が出た。「今夜、だめって」 真崎が呻くように呟く。 そうだ、美並は今夜会えなかったはずだった。今夜ここにいないはずだった。だから?「うん、だめなんですけど」 美並が自分の欲望に負けた。見なくていい未来を引き寄せ、存在しなくていい場所に自分を放り込んだ。「ちょっと気になることがあって」 零れ落ちかけた涙を必死に飲み下す。『その名は支配』 ハルの声が響く。『それでは人は守れないよ、美並』 ごめんね、ハルくん。 あんなに頑張って堪えて守ってくれた境界線、ハルはきちんとそこから踏み込まなかった。自分の本分を貫き、同時に美並の範囲を守りぬいた。それゆえ、ハルは美並を失ってはいなかった。違う形で保つことを受け入れた。 けれど美並は、自分の形から逃れられなくて、入ってはいけない部分に入り込んで、二人の繋がりを切ってしまった。「聞いていいですか?」 ならば、これはやはり、美並が引くしかない幕なんだろう。「……どうして」 絡みかけた喉を堪える。「廊下にブラジャーが落ちてるの?」「は?」 真崎が弾かれたように体を離して振り返る。 瞬間に開いた空間に、冷えた空気が刃物のように突き刺さってくる。「い、ぶき、」 振り返らずに呼びかけてくる真崎の狼狽を見たくなかったからほっとする。「誰か来てるの?」 尋ねる、けれど、そのままで居てほしい。振り返らずに、居てほしい。 最後のことばを告げるのは自分だろうけれど、それでも少しは甘えさせてほしい。「……恵子、さん」 ざくん、と刃物が足下まで振り落ちた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.19
コメント(0)
****************「これが最後でしょ」「ううん、もう一台あるわよ、でも」 美並が電車を降りて改札を通り過ぎるとき、入れ違いに入ってきた女性達がくすくすと笑いながら背後を振り返る。「恵子は乗れないわよね」 恵子。 思わず振り向く美並に気づかず、華やかな色のスーツ姿の、どこかで気楽な会合を楽しんできた奥樣方と言った気配の彼女達が笑い声を上げる。「旦那も旦那だろうけど」 恵子も恵子よねえ。「昔からあちこち騒がれるのが好きだけど、今度はちょっとやりすぎよぉ」 笑い声に苦笑まじりの溜め息。「義弟となんて小説の読みすぎ」「ああ私、一度見かけたことがあるわよ」 得意げな声が響いた。「『ハイウィンド・リール』のロビーで。恵子のマフラーを首に蝶結びされて」 そりゃ可愛いらしいったら、憎らしいほど。 まさか、それは、真崎のことか。 背筋を冷たい怒りが走った。 偶然にしてはできすぎた合致、似ている出来事と考える方が不自然だ。 あの時だろうか、真崎が恵子に孝のことをネタに連れ込まれた日。戻った真崎は疲弊していて今にも死にそうだったけれど、恵子のマフラーの蝶結びなんて。「そんなことされて大人しくしてたって?」 呟いた自分の声がうっとうしいほど暗い。 嫌々だと訴えた、男の性もある、仕方がないのだろうと思っていた部分をぐさりと貫かれて美並は唇を噛む。 本当にそうか? それは美並の都合のいい妄想、自分が好かれていると思いたい気持ちが先走っただけであって、実は真崎も恵子との逢瀬を楽しんでいたのではないのか、心の底で。「兄弟二人を相手になんて、ねえ」 嘲る声は低められて見る見る遠ざかっていく。 その集団に無理に背中を向けて、美並はアスファルトを蹴りつけて歩く。 ハルと別れた後感じた不愉快な感覚、真崎が誰かと今一緒に居る、お互いを貪り合って過ごしている、そう想像してしまった自分と、今しがた聞いた会話が噛み合って、ぎちぎちと心臓を鈍くすりあわせている。 細かい雨が降っていたのが、少しずつまばらになり止んでいった。 真崎のマンションの入り口を擦り抜けるようにして入っていく時に、ふと視界の端に濡れた床が掠める。 まるでずぶ濡れの誰かがそこに立って誰かを待っていたような。 瞬間、耳の奥に微かな吐き気を伴った声が響く。 盗らないで。 盗らないで。 私からその人を盗らないで。「んっ」 思わず口を押さえて襲っためまいを堪えた。「なに?」 もう一度濡れた床に視線を向ける。何も聞こえない。何も感じない。けれど、その声には覚えがあり、この感覚にはくっきりとした映像が伴っている。 冴え冴えとした月光。 静まり返った山の、澄み渡った空気の中に沈む墓標の群れ。 まさか。 微かに震えが走って、エレベーターと、その辿り着く先を見上げた。「違う、よね」 自分の声が震えている。 すれ違った女性のことば。濡れた床。耳に響いたこの声と、視界の裏を満たす月光。 それらが何を語っているのか、美並は痛いほどに知っている。それらが何を告げているのか、その偶然は必然と呼ばれる合図でもある。 盗らないで。 盗らないで。 その人を私から盗らないで。 エレベーターのボタンを叩き付けるように押す。 頭の中で勝手に鳴り響く声が切なく寂しく訴える。 だって、その人は唯一の。 唯一、美並の能力ごと受け入れてくれた、未来を一緒に歩けそうな、ただ一人の。「違うじゃないか」 意識の遠く、その声を届けてきた恵子の幻影に向かって唸る。「違うだろ」 あなたには何人も相手が居た。孝という恋人、大輔という夫、そして京介。 恋人に満足しなかったのはあなたじゃないのか。夫に納得しなかったのはあなたじゃないか。あなたが選びあなたが見初め、あなたが手に入れたものがその瞬間から色褪せしなびていったとしても、それは他の誰のせいでもないのに、まるで壊れたおもちゃが勝手にどこかに落ちていったように容赦なく切り捨てて、次のおもちゃを探し回る。「何が一人だ」 自分のわがままを通したいがための、自分の欲望を完全に満たしたいがための願い。「そんなものが一人なもんか」 一人というのは。 一人で居る、というのは。「くっ」 脳裏で鮮烈に輝く紅い花。 雪の上に落ちて、どこまでも凍りつく光景に、ただ、一つ。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.18
コメント(0)
****************「……支配」 ハルに見えていたのは、この深い所の赤だろうか、それともこのやや桃色がかって見える赤だっただろうか。「腐った血の色…」 それは、あの雪の上に落ちた椿の色だろうか。 美並はあの赤を、いつのまにか自分の中でもっとも忌むべきものに膨らませてしまっていたのだろうか、一度は制したと感じた、大輔の存在の裏側で。「……」 タイルの淡く桃色がかった紅が、体の底の何かを揺り動かすのに目を閉じる。 見えてきたのは、京介の首の付け根だった。 いつか強く吸いついてつけた、所有の徴。「っ…」 ごく、と無意識に唾を呑み込んでぎょっとする。 意識した次の一瞬には、眼鏡を外した京介の、滑らかな上半身が微かに震えながら反るのが見えた。乱れた呼吸を堪え切れぬように弾ませて、瞬きをしながらこちらを見下ろす瞳が潤んでいる。薄く開いた唇が掠れた吐息で呟き、切なそうに目を伏せた睫毛が濡れる。零れ落ちる雫が顎から伝って首筋を這い下り、そのまま頂きを濡らしていくのに、小さな声を上げて京介が口を開いた。動く唇、喘ぎながら閃く舌先、逃げそうに体を引くのを追いかけて。「!」 思わず体が浮いて固まった。 欲しい。 強烈な衝動に目の前が眩む。ぐしゃりと握りしめたチラシと、指先が白くなるまで掴んだタイルの赤を美並は凝視した。 のろのろと起き上がる。 体の底が熱くて息苦しい。 チラシを膝の上で指先で伸ばしながら、その下にある自分の体の熱さを否応無く感じ取る。隣に置いたタイルから得体の知れない熱の波が広がり部屋を満たしていく。「ハルくん、天才、なんだ」 自分の声が干涸びている。「よくわかる」 支配。 確かにこの逆らい難い力は、そう呼ぶにふさわしい。 圧倒的なこの熱を誰かに注ぎ込みたい。 チラシを折り畳み、タイルを挟み、バッグに片付ける。ベッドを降りて、流しまで歩いていく体がふわふわと揺れて定まらない。 脳裏に閃くのは京介が甘い声を上げて眉を寄せる顔、伝う汗と雫、一瞬食いしばった唇の間から解放を願って吐き出される悲鳴、そして見開かれてこちらを見返す、虚ろに霞んだ真っ黒な瞳。「ちっ」 思わず舌打ちしてコップに水を汲み、飲み干す、何杯も、けれど渇きはなお酷く、餓えている自覚だけが鮮明になる。「ああ、もう!」 京介は望んでいた、今夜美並を望んでいた、今もきっと望んでいる、期待して待っているだろう、美並の心変わりと突然の訪問を、そして、そして。『お、ねが、い』 掠れた声が耳を打ってびくりとした。『僕を、もっと』 そんなことばを京介は囁いただろうか。そんな誘いを向けただろうか。それともこれはひょっとして。「…………」 ふいに真っ黒な闇が心を塗り潰した。『もっと』 京介が、今誰かと一緒にベッドに居て、誰かにそうねだって懇願しているのを感じているのでは、ないのか。『おねがい』 美並がいないから。不安だから。『そこを』 ただ一瞬の安心のために満たしてほしいと、美並に見せたあの柔らかな部分への侵入を許したのではないか。「…っ」 がちりと握った冷たい流しの縁がみるみるぬるくなってくる。心配なのか不安なのか、それとも今まで感じたことのない類の怒りなのか、自分の中を駆け上ってくるそれは赤黒いねっとりとした輝きをたたえている。「く、そ…っ」 腐った血の色、確かにそうだ。これは怒り、これは絶望、これは容赦のない傲慢、自分の手にある美しいものを他の誰かに蹂躙されたと決めつけて、それを理由に相手を踏みにじることを正当化する不愉快で居たたまれない感情、そうだ、ハルはきっとこれを見ていた、きっとそうだ、これが大輔の中に、『羽鳥』の中に、人の命を貶める全ての衝動の中にあったもの。「…嫉妬、してるのか、私は」 吐き捨てた。「それほど、京介が、欲しいんだ?」 わかった。「とことん付き合ってやる」 美並は大きく一つ息を吐いた。 体を起こし、荒れ狂う衝動を抱えたまま、もう一度身なりを整え、口紅を引き、化粧を直す。 鏡の中から見返した自分の顔は、夜を背景に暗く苛立って見えた。**************** 今までの話は こちら
2026.04.17
コメント(0)
**************** 『村野』での食事を済ませて、送ろうというハルを断って、美並は一人部屋に帰った。「ふう」 バスン、と両手を広げて仰向きにベッドに倒れ込む。 頭の中で交錯する二つの声。『それでは人は守れないよ、美並』 なら、どうすればいい?『……今夜僕のところへ来ない?』 行きたい。恋しい。不安を京介で埋めたい。 けれど、それが別の形での「支配」でしかないなら。「どう、したら、いい?」 目を閉じて、別れ際のハルに再び問う。『わからない』 ハルは透明な眼差しで美並を見返し、次の一瞬、微かに顔を歪めた。『居ないのに、手一杯』 黒い瞳に揺れて吹き出しそうになった激情。それを見逃すほど美並も鈍感ではない。 誰よりも好きな相手が居て、その相手以外の人間の気持ちを無下にしてしまう傲慢。 ハルは眉をひそめて、そっとポケットに手を突っ込み、何かを指先で引き出した。 美並にくれたのと同じようなタイルがもう一枚。 なに、と尋ねると、小さく吐息をついて首を振り、苦い笑いを浮かべながら再びそれをポケットに戻した。『違う形』 話し出したのは『ニット・キャンパス』で行われるオープン・イベントの形が少し変わるということ。 渡されたチラシをバッグから引っ張り出して広げてみる。 始めは準備したタイルにその場で色を塗ってもらって、即興でハルが一枚の絵に仕上げていくという趣向だったのだが、それでは保存が困難になるということで、二つの方法が取られることになった。 一つはスペインのタイルアートをヒントとして、3週間ほど前に市役所のカルチャーセンターに参加料を払って、クエルダセカタイルという、一定の柄をレリーフとして成型してあるタイルに色を塗ってもらうもの。ここで着色されたタイルは焼かれて当日持ち込まれる。美並にくれたのも、そのタイプだという。 もう一つは10色程度の小さな色タイルを準備し、当日参加料を払って好きな色と数を買い求めてもらう。 その二つのタイルがハルの素材として提供されるわけで、当日好きな色を塗って即興で一つの絵を作り上げるというダイナミックさがかなり欠けるとハルは不満だったらしい。 集めた色をどう組めばどうなるか、事前に見てしまえば予想がつく。そんなのはつまらない、と。『でも、変わる』 美並と話していて、人は変わるのだと気づいた。他者だけではなく、自分もまた。 集まったタイルを何度も何度も組み合わせていって、一番美しいと思った組み合わせでも、当日集まったタイルや、自分の感覚で変わってくるものがあるかもしれない。 その変化もまた、面白いかもしれない。『時間が見える』 自分と人々の中に積み重なる時間が、一つの形として。『面白い』 ちらりと笑ってみせた横顔ははっとするほど大人びていた。「……クエルダセカ、タイル」 チラシにはカルチャーセンター講習内容とイベントへの参加案内、今回使われるスペインタイルの説明が載せられていた。京介にも同じものが源内から渡されるはずだと言う。 イスラム文化と一緒に持ち込まれたタイルアートは発展して変化し、今やバレンシア地方やアンダルシア地方で有名らしい。元は甘い茶色の、押し型によって模様が成型された素焼きタイルだ。油とマンガンの混合物で縁取りをした図形の中に釉薬を流し込む。縁取りで囲まれた空間に様々な色が配置され、ものによっては一枚のタイルが多くのタイルを組み合わせたように見える。 美並に渡されたタイルには薄く幾何学模様が刻印されている。だがそれを区切る線はなく、全体にかけられた釉薬が一面に覆っており、刻印された図柄に載った薬の多少で濃淡が変わり、淡く模様が浮かび上がっているように見える。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.16
コメント(0)
**************** のろのろと携帯に手を伸ばす。 まだ番号は入っているはずだ。電話を待っている相手はすぐに出るだろう。京介の連絡を喜び、場所を決め、京介と会うために子供も夫も放ってやってくるだろう。 指先でアドレスを開くと、そこに同じ名前がある。「………」 くるくると動かすと、別の名前が浮かび出る。『伊吹美並』「……今まだ上映してる」 自分に言い聞かせるように呟いて指を動かす。「二人で居るんだから」 邪魔しちゃだめだよね? 掠れた声が耳に遠い。『真崎恵子』 彼女なら待ってる。 きゅ、と唇を噛んで指を動かした。『伊吹美並』 追い詰めて嫌がられてしまうかもしれない。 もう一度呼び出す。『真崎恵子』 きっとわかりはしない、携帯を切って、恵子と転がり込むベッドはきっと温かい。 今夜も一人じゃまた眠れなくなるに決まっている。 指を動かす。『伊吹美並』 プログラムされた感覚。 京介のトラウマは伊吹を苦しめるだけだろうか。『真崎恵子』 彼女は苦しまない。楽しんで京介を突き落とし、ずたずたにしてくれる、跡形もないぐらい。『伊吹美並』 眠れない。「伊吹……さん…」 ふいに自分が何を欲しがっているのか自覚した。 伊吹の声じゃない、姿でもない、記憶じゃない期待じゃない、体が欲しい、伊吹の熱が。「伊吹、さん」 疼く部分や速度を上げ始める心臓や、微かに乱れてくる呼吸を感じてうっとうしい。 今ここで伊吹を抱きたい。 今伊吹の中に入りたい。 今。「君の中で」 眠りたい。 指先が止まった先の名前を凝視する。『真崎恵子』 きっとここも温かい。眠ることはできるはずだ。「……、、っ」 今にも押しそうな指を必死に堪えて、京介は歯を食いしばった。急いで相手の名前をアドレスから削除する。「、は、あ…っ」 荒くなっていた息を一気に吐き出し、ずきずきしている感覚に眉を寄せた。「…めんど…うだな…」 確かに男として伊吹を抱けるのはわかった。 けれど、男として伊吹を望まないで平然と過ごすことが、どんどん難しくなっているのを感じる。 ましてや、今日みたいに下手に他人の欲望に触れたり晒されたりすると、あっさり揺れて堕ちそうな自分を制するのに、どうしても伊吹のことを思い出すし、思い出せばそれはすぐに体に繋がるようになってしまっていて。「きつ……」 何度か強く息を吐き出したけれど、上がった熱が去ってくれない。「……トイレ…いこ…」 立ち上がった矢先、手にしていた携帯が震えてどきりとした。「…あ」 表示された名前に押さえつけていた熱が一気に上がる。「…もしもし、伊吹さん?」『京介? ……どうかしたんですか?』「……ううん。なんで?」 蕩けた熱が全身に零れ落ちてくるのに、椅子にへたりこんだ。携帯を耳に当てつつ、額の汗を拭った手を降ろし、指先が触れた部分にびくりとする。『なんか声が苦しそうですよ?』「……ああ……ちょっと,今…」 ばたばたしてたから。 呟くように応えつつ、指をゆっくり上下させた。「伊吹さんは? 今…どこ…?」 最低かもしれない、僕。 薄笑いしつつ、始めたものは止まらない。耳元に響く声が甘くて、気持ちよく体が浮いていく。『今映画を見終わりました。これからご飯食べに行きますけど』「うん…」 競り上がってくる感覚に息が途切れそうになる。「映画は…おもしろかった……?」 映画の中の真犯人も、こんなことをやってたんだろうか。『そうですね……切なかったです』「……そ…、」 切ない、の伊吹の声が吐息まじりで煽られて、思わず意識が光った。息を止めて堪えてしのぐ。『それで、京介』「う…ん…っ」 もうだめかも。『一緒に行く?』「、っっ」 優しい声で囁かれたそのことばがどれほど衝撃だったのか、伊吹にはおそらくわからなかっただろう。『京介?』「は…い…」 ああ、やっちゃった。『忙しいですか?』「え?」『だから、今からご飯食べに行きますけど、京介も一緒に行きますか?』「……えええっ!」『…何』「あ…いや…その…」 京介は呆然と自分のスラックスを眺めた。「あの……ごめん……僕」 何やってんだろう? 情けなくて半泣きになりながら、体を起こしてがっくりする。「僕……ちょっと今すぐは行けない…かも…」『お仕事ですか?』「うん……」 心配そうな伊吹の声に、そっと、今夜僕のところへ来ない、と誘ってみたが。『あ…ごめんなさい。今夜はだめです』「……わかった……」 僕ってかなりの馬鹿だよね? さらりと断られて、京介は深く溜め息をついた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.15
コメント(0)
****************「ただいま戻りました」「おかえりなさい」 京介が開発管理課に戻ると、待ちかねていたように石塚が席を立った。 伊吹はもう席にいない。時間は7時を回っている。 今頃は。 そう考えかけて首を振った。「残業みっちりつけていいですよね」「いいよ、遅くまでごくろうさまでした」「おつかれさまです」 一瞬何か言いたげだった石塚はくるりと温かそうなマフラーを巻いて素早く部屋を出て行く。京介の笑顔にぐったりしたものを読み取ったあたり、伊達や酔狂で長く勤めているのではないというところか。 だが、石塚は戸口でひょいと振り返った。「ああ、お電話がありました」「僕に?」 ひょっとして伊吹さんかな、と思った期待はあっさり裏切られる。「戻られたらご連絡下さいとのことなので、メモを置いてあります」「わかった、確認します」「失礼します」 ちらりと鋭い眼になった石塚に訝しく思いながら、メモの相手の名前を見て凍りつく。『真崎恵子』「……凄いな」 思わず笑ってしまった。 あの二人に互いを思い合う夫婦の感情などはないのに、こうやって京介を追い詰めてくるポイントというのは、いつも的確に連携プレイで外さない。「実はかなり似合いなんじゃないの」 くつくつ嗤いながら、コーヒーサーバーに残っていたコーヒーをカップに溜めた。とろりとした黒色が白いカップを満たしていくのをぼんやりと眺める。 今頃どうしてるのかな。 映画館の名前は聞いたけれど、何を見るかは聞いていない。 時計を振り仰ぎ、まだ見ている最中だよね、と一人ごちる。「電話もできないんだ?」 渡来は伊吹と一緒に並んで座って映画を見て、この場面はああだとかあそこはどうとか小さく囁きあったりして、きっと後で夕食を一緒にして、そこでまた映画のこととかいろんなことを話して。「……僕、まだ伊吹さんと映画行ってない…」 『ニット・キャンパス』で忙しくて時間が取れなかった。 それでも今日一緒に映画を見るなら、確かに渡来にしてみれば初デートかもしれないけれど、京介にしても伊吹と初映画なわけで、何も渡来だけの記念日じゃない。 そうどこかで思っていたけれど。「………にが…」 気づかぬうちに一杯にしていたカップを取り上げ、啜って顔をしかめた。胃のあたりがちくりと痛んだ気もする。 飲みつつ、ゆっくり窓に向かって外を眺めた。 どうせなら、もうしばらくここに居て、渡来と伊吹が一緒に出歩いていないような時間になってから会社を出たほうがいいかも知れない。昼間の大輔とのやりとりや、会議はいいとしても、その後に執拗に小桜にお茶に誘われたことにもかなり疲れている。今へたに二人が親しいところを見てしまうと、歯止めが利かなくなるかも知れない。 渡来に嫌われるのは平気だが、伊吹に疎まれることになるのは絶対嫌だ。「……どんな映画かなあ…」 考え始めると気になって、思わずパソコンで検索してしまった。 その時間にやっているのは、それほど種類が多くない。平日の夜のラインナップのせいか、恋愛ものと社会ものがメインだ。伊吹が教えてくれた映画館でやっていたのは、一本だけだった。「『BLUES RAIN』…?」 ブラックレイン、というのはあったよね。 あらすじを読んで、京介はゆっくり血の気が引いていくような気がした。 それは近未来の警察の話だ。主人公はバツイチの女性刑事、組むのは男性形態の護衛ロボットで、二人一組で事件を追っていきながら魅かれあっていくのだが、やがて女性刑事はかつての夫が関わった事件に遭遇する。「この真犯人…って」 彼女はその事件で夫を失っており、動揺しながらも事件の真相を突き詰めていく彼女を、護衛ロボットである男性が支えていく。そしてついに彼女は夫を殺した真犯人を見つける。その真犯人は過去の事件でトラウマを抱えていて、なおかつ彼女を愛しており、夫から彼女を奪うために事件を起こしたのだ。「………僕……?」 だが実は護衛ロボットそのものに大きな秘密が秘められており、彼女の夫の事件の背後には、その秘密に絡んだ組織が蠢いていた。彼女とロボットは真犯人追求と組織壊滅に向かっていくのだが。「ハル……くん…」 あんたじゃだめだ。 そう渡来の声が響いた気がした。 トラウマを抱えて、それから回復するために刑事の彼女をひたすら追い詰めていく真犯人は、自分が彼女にとって迷惑な存在であることが受け入れられない。側で彼女を支えるロボットに嫉妬し、怒りをぶつけ、それによってより彼女に拒まれていくのだが、そのことも理解できない。 ロボットであるはずの男性が、自分の在り方に悩み、彼女の傷みを思いやることで次第に人間に見えてくる一方で、他人の気持ちを考えることなく、自分の意志と思考と感情しか頭にない真犯人が、まるで何かでプログラムされたロボットのように見える皮肉。「……」 ゆら、と自分の視線が泳いで、側にあったメモの名前が視界に入った。『真崎恵子』 **************** 今までの話は こちら
2026.04.14
コメント(0)
****************「いえ、面白いなと思ってお聞きしてました」「ほう、何が」 大石がちらりと視線を送ってくる。「企画提案についてはもう説明させて頂いたので、僕達と大石さん達の扱うものの違いはおわかりでしょう。あれとよく似ているな、と」「今の話がですか?」「ええ」 微笑しつつ頷く。「みなさん、服装は自由意志で選べるものだと思っていらっしゃる」「?」「学校に属するという意志の元に制服を選ぶ。自己の内面表現として選ぶ。あるいは社会的地位や所属集団を示すために選ぶ」「学校に属するためというのではなく、高校生としてふさわしい服装について考え学ぶということで、ですよ」「高校生の『在るべき姿』という思想の表現として、でもいいですが」 絡みかけた小杉をばさりと切った。「まるで思想強制のようにおっしゃっては…」「で、そのどこが似ていると?」 反論しかけた小杉を大石が遮る。「大石さんのショーは表現するモデルのために服装を準備するというコンセプトでしょう? 対して僕達には選択の余地はない、使えるものはもう決まっている。だから僕としては」 選べない服装、与えられた自由の中で、それでも表現したいと思う人間の願いや想い。「そういうものに肉薄していきたい」「……制限された選択の中の可能性、ということですか」 大貫がじっと目を据えた。「今目の前にある現実」 それはそういうものではないんですか。「……面白いわね」「……つまりこういうことか?」 大石がゆっくりと目を細めた。「『Brechen』にも枷をかけろと?」「無理ですか?」 あなたのところには有能な部下がおられ、しかもこういう仕事はお得意だ。「僕達にも成功のチャンスを頂ければと」「…ぬけぬけとよく言う」 大石が唇の端を上げた。「勝利をもぎ取っていくつもりだろう」 京介は無言で微笑み、さっきから微妙に大石にやりこめられる形になっていた小杉が薄く笑う。「わかった。じゃあこちらも同じ条件にしよう」「同じ?」「ショーのニットは黒を基調とする、これでどうだ?」 仕方なさそうに言いながら、大石の目は困っていない。「そっちと同じ土台で展開すれば、こちらでは『自由』を、そちらでは『可能性』を見せられるだろう?」 乗ったふりをして、これは計算内だ、とわかった。ニットの色を黒に絞ったところで、『Brechen』のラインナップにはほとんど問題は起きないのだろう。「有難いです。じゃあこちらは全てに黒のニット帽を使いますが、色の制限はなしということでいいですか」「好きなようにすればいい」「大石さんは『色の制限』を、真崎さんは『形の制限』を受ける、その中で無制限な自由よりも豊かな表現を目指して下さる、そういうことでいいですか」 源内がにこやかにまとめる。「いいですね、私達の社会は様々な制限の上に成り立っている」 大貫も満足そうに頷いた。「けれど、その制限は人間の表現を妨げるものではなく、むしろ新たな表現を促すものである、そういう方向性を示すイベントということですね、有意義でな試みだと思います」「生徒達に伝えます」 小桜が嬉しそうにメモを取った。ホール・イベントには関連している諸機関の学生が参加することが許されており、特にファッションアート向田と辻美、向田花信短大の学生の優秀な者にはショーの最後に自分の作品をアピールする機会を与えられることになっている。「いいですね、じゃあその方向で……ぼちぼち時間ですね。お時間よろしければあちらへ」 立ち上がった源内が退室を促す。 真っ先に背中を向けて立ち去っていく大石、不安そうな顔で横目で京介を見やって出ていく小杉、当初とは違った興味のある顔で京介と源内を見る大貫、そして未練がましく何度も京介を振り向きつつ、大貫を追っていく小桜。 それぞれに特徴的なメンバーを見送りながら、源内は機嫌よく京介の元へやってきた。「わざとか?」「え?」「先生の反発、まとめなかっただろ?」 話に聞いた限りでは、あんなやりとり丸くまとめるのは上手なはずだけど。「あなたこそわざと?」 にっこり笑って返してやる。「話がずれてっても見守るだけでしたね」「ああいう対立は嫌でも起こってくるさ」 早いうちにこなしとけば、後々面倒が減るからな。「あんたみたいに、それを利用して自分に有利に持ち込む芸当なんてできないが」 怖いな真崎京介は。「考え過ぎだよ……あ」 肩を竦めたとたん、内ポケットで震えた携帯に、ちょっと失礼、と一歩離れて開く。「……え…?」 読んだ内容がうまく頭に入ってこなくて、何度か読み返した。「……どうして……?」「何かあったのか?」「あ……いや…」 無理に微笑みを押し上げた視界が薄暗く濁った気がする。『ごめんなさい。今日のデート、一緒に行けなくなりました。帰ったら連絡しますね』「……伊吹…さん……?」 何があったの? ハルの笑顔が脳裏を掠めた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.13
コメント(0)
**************** 休憩を挟んで戻った後は、一転してブレーンストーミング状態になった。「服装というのは、その人間の内面の表現だと思います」 高校教師らしい意見を小杉が述べると、「内面即ファッションだと? けれど人間は装う存在でもありますよね」 ファッションアート向田専門学校の対外交渉担当だと言う小桜が、インパクトのある赤い縁の眼鏡の奥から鋭い視線を投げる。「所属を知らせるものでもありました」 助教授の職を誇示するように大貫が丸い肩を竦める。「階級もだ」 ぼそりと言った大石はどこか挑戦するように小桜に目をやる。「階級? 古めかしい発想ですよね」 小桜が苦笑する。「事実だろう、人間は服装で人を判断し、理解し、決めつけるものでもある」「穏やかじゃないな」 小杉がややひきつった顔になる。「内面の表現ではあるが、それで全てを判断するとは言い切れないとは思うが」「校則はどうです?」 小桜が口を挟む。「あれは人間の内面を拘束するものだと思いますわ」「集団を管理する以上」 小杉がむっとした。「一定基準は必要でしょう」「どこにその基準を置くかということです」 大貫が考え考えうなずいた。「何をもってよし、とするか」「落差が面白いってこともありますわ」 小桜が言い放った。「たとえば源内さんの服装は黒づくめですけど」 いきなり俎上に出されて源内が目を細める。「似合うカラーかどうかで大きく印象が変わりますし」「それを源内さんの表現と取るか、それとも社会的な表現と取るか、近年の社会常識の変遷を考えると、従来の判断は通じなくなっていると考えるべきです」 大貫が何かの論文を読み上げるように続けた。「校則は学校の規範を定めるものでしょうが、その『在るべき姿』を学校側がどう規定するか、いわば校則は学校の目的と意志の表現と言えます。学校が社会を構成する人材を育成することを目的とするなら、服装に関しても、学校を取り巻く社会の在り方について提案をする形で校則を定めるべきで、旧弊は改めるべきです」「あなたがたは生徒の実態を知らないんだ」 小杉が険しい顔になった。「校則を変えてしまえば、いろんなことが野放しになってしまう」「服装一つで全てが野放しになるようなものなんですか」 大石が微かな嘲笑を滲ませた。「服装は基本だと言ってるんです」 面白いな、と京介は一人一人の顔を微笑みながら眺めていた。 ここに居る誰もが一つ共通している点を持っているのだが、それについては誰も触れようとしない。みんなお互いの違いについて、相手に理解させよう納得させようとしている。 つまりはわかってほしいってことだよね、と考えながら、指輪に目を落とした。 この指輪も服装の一つと言えば一つだ。 これで京介は伊吹に属していること、伊吹のパートナーであることを知らせている。京介にとっては、この指輪の美しさより、伊吹と繋がっているということがはっきりしていることのほうが大事だ。 それでいけば、空き缶のプルタブでも、輪ゴムでも、それこそ、伊吹さんのキスマークでも何でもいいわけだけど、僕が伊吹さんのものであると示すことができるなら。「……」 ちょっと熱が広がった体に苦笑しつつ、さりげなく手を上げて考えこむふりで指輪に口づける。 ふと視線を感じて目を上げると、会話を続けながらこちらを凝視していたらしい小桜と目が合った。無意識ににっこり笑ってみせると、「さ、さきほどから」 どもりながら小桜が口を開く。「真崎さんは何もおっしゃってないようですが」「そうですね、どうです何か?」 源内が苦笑しながら京介を促した。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.12
コメント(0)
****************「人の色って変わるの?」「変わる」 環境や生き方や、いろいろなことで。変わらないほうがおかしい。 苦笑したハルがふいとぼんやりした瞳になった。「変わる……」「ハルくん?」「変わる……」 もうテーブルの上を眺め、何かを探すように指を回す。「バジルスパゲティ」「うん?」「から」「うん…?」「変わる……」 ハルは何かを考えついたらしい。突然弾けるような笑顔が広がった。「変わる」「うん」「楽しいな」「うん……??」 見る間に上機嫌になったハルにわけがわからないまま、美並はハルのことばを頭の中で繰り返す。 顔を覚えている。会えばわかる。10年たって変わっていてもわかる。なぜなら変わらないから。「ハルくん?」「ん?」「何が変わらないの?」「色」「? 人の色は変わるんでしょ?」「変わってない」「えーと……その人の赤が?」「ずっとくさ…」「あ、それはいいから、変わってないんだね、その人の色は。そうか、ふーん、変わってない、変わって……ない…?」 どすん、と背中を何か重いもので叩きつけられた気がした。「ハル、くん?」 何て言った?「変わってない」「違う、そうじゃなくて、今」 同じ色だって。「うん、くさった」「どうして?」「え?」 ハルが困惑した顔になる。「どうして、そんなこと、わかるの?」 答えがそこに見えている。だがその答えが怖すぎて見られない。「美並の中」「私の中にある色だからだよね? でもそれは、私が記憶を思い出している色なんだから、10年前とかそういう色なんだよ、それは今の色じゃないの」 自分の声が不安定に揺れていくのに気づいていた。 違う。そうじゃない。ハルは、この巨大な才能は、美並の中の記憶と現在を混同したりしない。「…今の色じゃ、ない?」 ハルが戸惑う。「今ここにない?」「じゃなくて、今現在のことじゃないんでしょ?」「違う」 残酷なほどはっきりとハルは首を振った。「変わってない。今も10年前も同じ色」「……どう、して…?」 答えを見たくない。「知ってる」 ハルは明瞭に答えた。「美並は、会ってる」 美並は、会ってる、『羽鳥』と。「……そんな」 まさか、自分がその『羽鳥』に繋がっている人間、なのか? まさか、自分の間近に『羽鳥』が居る、のか? 有沢は気づいていない。ハルも見かけていない。二人が接触していない人間で、美並の中に印象が残るほどの関係となると。「っっ」 桜木通販、の、中に、居る、のか? 全身から一瞬にして血の気が引いた気がした。 その美並の衝撃になおも淡々とハルがことばを重ねる。「怖い?」「え?」「なぜ?」「なぜって…」 ハルを連れ回っていれば、すぐ『羽鳥』が誰かわかるだろう。証拠を集めるのは容易ではないし、有沢以外に誰が信じてくれるかと言うとどうにもならないが、ひょっとすると檜垣は『羽鳥』をそれと知らずに目にしているかもしれない。 必死に考えていた美並の頭に浮かんだ一人の男の顔がにやりと目を細める。 真崎大輔。 そうだ、大輔なら『羽鳥』が当人かどうかを確実に知っている。大輔の証言が取れれば、『羽鳥』を捕まえられる。そして、大輔は我が身可愛さにかけては天下一品、自分に手が回っていると知れば、罪の重さを軽くするために仲間を売ることは十分考えられる。 でもそうなった場合、桜木通販は? 『ニット・キャンパス』は? 孝を手に掛けたかもしれない人間と一緒に仕事をしていたと知った、京介は? それを暴いた、美並、は?「美並の赤」「…え」 ぽつりとハルが呟いて、相手に意識を戻す。 辿りついた結論と、それをどう扱うかで頭も心も一杯で、ハルのことばが十分に聴き取れない。瞬きして、眉を寄せ、必死にハルを見つめ返す美並に、「さっきの赤」「うん」 ハルは静かに美並の手のタイルを指先で撫でた。「凄く、近い」 きん、と耳鳴りがした。「何、に…?」 聞くな。 聞いちゃいけない。 聞かなくていい。 美並はそれを。「知ってた?」 寸分違わずことばを当てられる。 ハルの凝視に全身射すくめられる。「は、る…」 声が揺らぐ。足下があやうい。「その名は支配」 また再び、あの声が響いた。 美並を断罪する、天上の刃が見える。「それでは人は守れないよ、美並」 がちん、と固い音をたてて美並の指からカップが落ちた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.11
コメント(0)
****************「これ」 食事が終わってコーヒーを頼んだ後で、ハルはスラックスのポケットに入れていたらしい一枚のタイルを取り出した。「これ……オープン・イベントのタイル?」「美並」「私?」 タイルは鮮やかな紅に塗られている。いや、紅というより、僅かにピンクが入っているのだろうか。それでもくっきりとタイルそのものを輝かせるような色で、それこそどこからどう見ても100円均一のショップで売られているような平凡なタイルなのに、まるで宝石のように目を奪う。「思い出した」「あの時の?」「側に居た、美並」 優しい柔らかな声で続けられてはっとした。 側に居た。 今もここに居るのに、ハルには美並がここに居ないことがわかっている。自分と映画を見、食事を楽しんでいるはずの相手が、ここには居ない誰かと一緒に居ることが。「ハルくん」「不愉快」 言い返しながら、ハルはくすりと笑った。「ガキ」「……京介?」「……」 無言で唇の端で笑い返してくる。 高校生にガキと言われてしまっては救いようがないかもしれないが、確かに今のハルにすれば、京介は自分の気持ちを持て余している子どもにしか見えないだろう。「私も、でしょ」「いい」 美並は。「見る」 ぽつぽつことばを並べたハルが、すっと視線を逸らせて、「きつい」 穏やかに言った声にいたわりがあった。「あ…ああ、うん、でも、あの、それは」 見る間に視界が滲んでしまったのは、ハルのことばがまっすぐすぎるからだろうか。 見えることを負担にしている、見えることを背負っている、見えることで苦しんでいる、見えることで悩んでいる。 幾つものことばを重ねあわせても、どこかで緩んでしまうその意味を、たった一言で表すとすれば、そうなるだろう、そうとしか言えないだろう。 なぜそれをハルがわかる。なぜそれをハルが表現できるのか、美並の代わりに。「そっか…」 芸術の力。 ハルは、その才能でもって、一つの世界の高いところに辿りついている。同じ高さで見ると、違う分野であっても、同じ高みは見えるに違いない。別の高みを表現する術は拙くても、伝えるべき事柄の真髄は確かに掴んでいる。 だからこそ、ハルのことばは真実を貫いてしまう、幼い簡単なことばだけで。 そしてそれを「きつい」と言えたのは、ハルもまた、同じ傷みを経過した時間があったからだ。同じ重荷を背負い、同じ苦しみを抱え、同じ悩みに潰されそうになったからだ。 それを通り過ぎて今がある、だからこそ、美並の今居る場所が的確に見えるのだ。「うん……」 きつい。 きついよ、ハルくん。 俯いて、曝けてしまった。「どうしたら…いい…?」 どうすれば、生きていける。「京介の、側で」「ばか」 罵倒もまた、甘く。「ごめん」「……ばか」 今度は自分に向けてだとわかった。「………ばかばっか」 京介も追加されたらしい。「でも」 綺麗。「え?」「許す」 綺麗だから。「ハルくん…」「それ、あげるよ、美並」 芸術家は綺麗なものには全敗するんだ。 大人びたことばを紡ぐと、ハルは微笑み、ふいに顔を引き締めた。「さっきの赤」「うん」「見た」「………えっ」 一瞬ぐしゃ、と頭のどこかで何かが壊された気がした。「見た?」 ハルが? 『羽鳥』の赤を? どこで? いつ? どうやって? 立て続けの疑問が吹き上がる頭がくらりとして、美並はタイルを握り締めたまま、コーヒーを一口飲んだ。「待って、ハルくん、さっきの赤って」 私の中にあった赤、だよね?「あそこのカーテン、右前のスカート、左後の皿のピーマン」「は?」 ハルが指先を素早く動かして指し示したのは数種類の赤。「52%、33%、15%」「え…?」「近い」「……えーと…その…」 どうやらハルはその『赤』を手近のものをパレットに見立て、その配色をある比率で混合するとできる、そう言っているらしい。「わかりにくい、んだけど」「『腐った血の色』」「ぶ」 思わずコーヒーを吹きかけた。 ハルは平然としたものだ。以前やりあった評論家が同系色の似た色を、そう表現したと言い添えた。「その、色を見たことがある?」「見た」「それは…」 ごくりと唾を呑む。「人、に?」「人」 つまり、ハルはそれと知らずに『羽鳥』に会ったことがあるのだ。「どこで?」「土手」「土手って…あの土手?」「絵」「うん、赤い空の?」「破いた」「え…っ」 あそこにあった破かれた絵は一枚ではなかった、のか。「じゃ、じゃあ、それって」 10年ほど前、まさにコンビニ事件のただ中だ。「顔、覚えてる?」「覚えてる」「今見てもわかる?」「わかる」 ハルはきっぱり言い切った。「でも、10年もたったら変わるんじゃない?」「変わってない」 ハルは静かに首を振った。「同じ色」 10年前も、今も。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.10
コメント(0)
****************「いただきます」 とりあえずこちらはマカロニグラタンを頂こう、そう思い直して、フォークで熱々の中身を掬う。ゆらりと上がった湯気がさっき濡れた頬を撫でて、ハルの静かな指先を思い出した。 どうして京介を守る。 どうやって『羽鳥』を追い詰める。 太田、『飯島』という手がかりは消えてしまった。残っているのは檜垣だが、檜垣が『羽鳥』そのものに接触したわけでもない今、何を手がかりに『羽鳥』を探せばいいのか。 覗き込むグラタンのマカロニにゆっくりと蕩け落ちるチーズを眺めた。 絶対色感。 太田の印象は黄色だった。 閃光のように鮮やかな黄色。 あんな色を見たのは初めてだ。 今まで何かよくないものを抱えている人には黒っぽい靄が見えていたが、ひょっとして、人にはそれぞれ固有の色があるのだろうか。 ひょっとして、太田の黄色から檜垣を追えたように、『羽鳥』の赤から誰かの中の情報を追えるだろうか。 けれど似たような赤は一杯あるかもしれない。檜垣の件はたまたまだった。 ならば『羽鳥』を一体どこの誰から追えばいいんだろう。檜垣が昔一緒に居たという仲間も、『羽鳥』は下っ端と接触していない気配だから知らないかもしれない。 『羽鳥』はそもそも誰かと接触しているんだろうか。『飯島』が生きていれば、もう一度会うことで『羽鳥』を追えただろうか。それとも、『飯島』の持ち物や、それこそ死体、の状況からなら。「誰?」「え」 ぞくりと身を震わせた瞬間尋ねられて、何のことかわからず、美並は瞬きした。「何、ハルくん」「それ、誰?」「誰? それって………え?」 ひょいと見上げたハルが真っ黒な目で美並を凝視している。 まさか、と思った次の瞬間、ハルは淡々と続けた。「赤」「赤って」 ハルくん、『見える』の? 人の中身を見たことはある。けれどこうやって、自分を誰かに見られるのは初めてだ。 美並は少し竦んだ。いやもちろん、人としてやましいところなどないつもりだけど、それでも京介とのことや、京介への気持ちや、それこそさっき一瞬掠めた、京介と一緒に居るかもしれない誰かへの嫉妬を見透かされての『赤』なのかと一瞬体が強張る。 それから。「……あーもう」 自分がいつもやっていることじゃないか、とうんざりした。 そうかこういう気持ちなんだなと自覚しつつ、なるほど不安にもなるよなと宥めつつ、そういう気持ちと格闘しながら黙ってしまった美並に、ハルがスパゲティを指差す。「?」「補色」「ほしょく?」「違う」 美並の中にあるもの。 よくわからないが、何かの作用で感じたものではなく、美並の中から感じたもの、ということか。「待って」 ハルはスパゲティを食べ出した。村野に失礼じゃないかと思うぐらいの儀礼的な早さでさくさく食べ終えてしまうと、その後しばらくまた、残ったオリーブオイルが乱れた空の皿に視線を落とす。 違うんだ、と思った。 ハルは村野の料理を味や匂いではなく、色彩の料理として味わい尽くそうとしているのだ。「綺麗」 やがて少し吐息をついて顔をあげたハルは微笑んでいる。「いい店」「うん」「美しい感覚だ」 ぼそりと呟いた声には一瞬思わず跪いてしまいそうな荘厳さがあった。 とんでもなく尊いものを間近に見せられているという感覚。まるでこの世にあり得ない何か、もっと巨大な高みでのみ開かれる巻物が、目の前で広げられたような圧倒感。 そうか、これが才能というものなんだ、と気づいた。 理由づけを必要としない。 評価を必要としない。 それは既に完成され、隅々まで満ち足りている。 それがこの目の前の、白づくめの服を着た少年の中に一つも余さず封じ込められている。 源内は凄い、ととっさに思った。 これほどの相手を、しかも外見はただの奇矯な振る舞いをする子どもでしかない存在を、よく壊さず欠けさせることもなく守り得ている。 この守り方を身に着けられれば、京介を守れるだろうか。 続いた小さな声に胸が詰まる。 この守り方ならば、京介の側に居られるだろうか。 そうだ。 私は京介の側で生きていたい。 今初めて気づく。 たとえ京介を傷つけるしかなくても、京介の側で生きていたい。のだ。 なんて傲慢なんだろう。 どこまで私は罪深いんだろう。「美並」「なに?」「一人は無理」「っ」 ハルが再び美並を凝視していた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.09
コメント(0)
****************「ごめんね」「いい」 映画の後半が楽しめなかっただけではなく、見終わった美並は無性に京介の声を聞きたくなって、しかめ面のハルに無理を通して、京介も一緒に食事をしたい、と訴えた。『僕……ちょっと今すぐは行けない…かも…』 妙にあやふやな不安定な声がためらう。 あれ? 違和感に首を傾げる。「お仕事ですか?」『うん……今夜僕のところへ来ない?』 どこかあやうげな響きをたたえて、京介が誘うのに危うく頷きそうになったが、『飯島』の件がある。「あ…」 まだ踏ん切りはついていない、そこまではまだ。「ごめんなさい。今夜はだめです」『……わかった……』 しょんぼりしているようだが、安堵したような響きもある。しかも、電話の向こうに妙に熱っぽい感覚が漂っていたのは気のせいだろうか。 携帯を切って、思わずまじまじと眺めてしまった。「……まさか」 仕事、というのは言い訳で、恵子か誰かと会っていたりして。 珍しく不安な気持ちが渦巻いたのも、映画の途中の、それもまさにキーになるような部分を見損ねてしまったせいかもしれない。 あの二人は最後までお互いを全うした。 最後の最後まで、それぞれの『命』を全うした。 たぶん、あの見損ねた部分にあった展開が、美並の引っ掛かっていた『どうして』の部分だったのだろうけど、美並は見ていたのに見なかった。 大切なところから目を逸らしてしまう、それはこんなにきまり悪く落ち着かない気持ちのものなのか。 今まで味わったことのない気持ちで携帯を閉じながら、もう一度京介と見に来ようか、そう考えて、自分の目の前でじっと美並の電話が終わるのを待っているハルに気づく。「来る?」「ううん、来ないって」「OK」 淡々とした応えに、やはり微かな怒りを読み取って、約束を果たしにきただけとはいえ失礼なことをしている、と改めて頭を下げる。「ごめんね、ハルくん」 やっぱり今日はここで終わりにしていい?「だめ」 ハルはそっけなく拒んだ。「ご飯」「でも」「渡すもの」「え?」「ごはん」「あ、うん」 どうやら何か渡すものを持参していて、それを食事の席で渡したいということらしい。 仕方なしに先に立って人ごみをすり抜けていくハルの後に従う。 出向いた先は『村野』だった。「いらっしゃいませ」 迎えた村野は一瞬美並の連れが京介でないことに瞬いたようだが、静かな微笑に紛らせてどうぞ、と奥の席に案内してくれた。「初めてじゃない?」「うん、何度か来てる」「よかった」「え?」「好み」「ああ」 好んでいる場所でよかった、そういう意味らしい。 二人向き合って、ハルはバジルスパゲッティを、美並はマカロニグラタンを頼む。 運ばれてきた料理を、ハルはしばらくじっと眺めていた。「食べないの?」 冷めるよ。 声をかけても没頭するようにバジルスパゲティを凝視していて応じない。 その目が鋭く柔らかくバジルの細かな葉一枚一枚を追うような気配なのに、絶対色感、ということばをまた思い出した。 今ハルは美並にはバジルスパゲティとしか見えないものを、一枚の絵画のように味わっているのかもしれない。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.08
コメント(0)
**************** 映画はよくできていた。 近未来。 人と寸分変わらぬロボットが闊歩する世界で、犯罪もまた様変わりしている。 主人公の女性刑事はかつて恋人を犯罪がらみで失っている。その時無力だった自分を悔やみ、主人公は強く生きようとしている。誰かを巻き込んで死なせなくていもいいように、次には大切な誰かを守れるように。 一人必死に生きている主人公に護衛としてロボットが配置される。どこか亡くなった恋人を思い出させる仕草、優しい思いやりに主人公は心を開いていくが、ロボットに痛覚機能があると知って不安を募らせ、やがて自分のミスで相手に大きな損傷を与えてしまった後、ロボットですから大丈夫です、と笑われて気づく、それが問題なんじゃない、と。 いつの間にか愛してしまっていた、かつての恋人を重ねあわせてではなく、一人の人間として。しかし相手は護衛ロボット、主人公の盾となり壊れていくのがその使命。折も折り、かつての恋人を失った事件が再燃、それに巻き込まれていく主人公は否応なく危険に晒される、ロボットとともに。『俺の宝物はあなたです』 そう囁いて動けなくなった主人公を守るために死地に飛び込むロボットに美並は凍り付いた。 始めは主人公に自分を重ねた。 そっくりな状況、美並しか目に入っていないようなハル、そして今向かっている、別の恋人の過去に絡む事件。 画面で主人公を凝視する動かない表情に、隣に居るハルの横顔が寸分違わず重なって、ハルはこの映画で自分はこのロボットのようなもの、それほど美並が大事だと伝えたいのか、と。 がしかし。 ロボットは主人公に執着し、公私共に距離を縮め、やがては同居し始める。そればかりか、主人公を守ることばかり考え、じわじわと主人公の感情や思考をその存在で覆っていく。 やがて主人公は身動きできなくなっていく。 本来ならば一人で強く生きていこうとしていた部分もロボットの腕に守られることに慣れていって、その分、自分の生き方を忘れていく。そして主人公の過去の事件に絡む一件に、ロボットが主人公を置き去りに飛び込んでいく下りでは、まるで羽根をもがれていく鳥のようにさえ見える。「……っ」 これは、私だ。 美並は息を呑む。 京介を守るためと口にしつつ、京介の意志も気持ちも確かめることなく、一人難波孝の事件に接近していっている。しかも、有沢と一緒に動いていることを、京介は既に知っているのに、それに対してまともな説明一つしていない。 京介が『ニット・キャンパス』に集中できるように。難波孝の一件に関わって傷つかないように。美並がし残した仕事だから。有沢のことは京介に関係ないから。 当たり障りのいい理由は、映画のロボットが並べ立てる言い訳にそっくりだ。 自分は世界を背負っている。それが自分の仕事であり、使命であり、それはあなたには関係がない。俺はただあなたに幸せに笑っていてほしい。そのためなら何でもする、たとえこの命が消え去ろうとも。なぜなら。 俺の宝物はあなたです。 なんて酷いことを言うんだろう。 いつの間にか深く深くロボットを愛してしまっている、その主人公が身動きできない、その責めを一人で背負って精算すると勝手に決めてしまう傲慢さ。自分が居なくなった後、主人公がどれほど大きな傷を抱えて生涯苦しむのか、全く想像していないのはロボットだからか、それとも、愛という免罪符を掲げた殉教者の愚かさか。「……美並」 小さく呟いて、ハルがきゅ、と左手を握ってきた。「冷たい」 囁き声でも周囲には響く。しっ、と叱る気配が周囲に広がったのは、今まさに映画がクライマックスにさしかかったからだ。 ロボットは敵を追い詰めた。 もう俺には守るものなど何もない。 凄惨な顔で笑う。 俺とともにあんたをここで葬って、そして俺はあの人に永遠の平和を贈るんだ。「ちが…」 違う。 美並にはそうはっきりわかる。 ロボットの顔に今度は京介が重なる。 もし万が一、京介が美並の突っ込んでいる事件を知って、美並を守るために『羽鳥』と相打ちになるなら本望、そう笑われたなら。 かたかたと体が震える。理性でも感覚でもなく、生理的な堪え切れない恐怖、有沢と向かい合って全てを失うつもりで居た時にさえ湧き上がらなかった不安、竦むような感覚に座席に呑み込まれて堕ちていきそうだ。 嫌だ。 そんなことは、嫌だ。 誰が何と言おうとも嫌だ。 だが同時に理解する。 もしこのロボットが美並であったとしたら。 きっとこの恐怖を、行き場のない憤りと這い上がれない深い傷みを、京介もまた味わうだろう、生涯背負う無力感とともに。 そしてそれは美並にはとてもよくわかっている出来事ではなかったか。骨の髄までしみ込んでいる感覚ではなかったか。 大石、という存在によって。 あの絶望を、あの苦しい夜を、京介が味わう…?「…」 鳥肌が立った。 嫌だ。 それもまた、嫌だ。 ならば、どうする。 どうやって、京介を守る。 どうしたら、京介を守れる。 美並に何ができる。 何もできないんじゃないか。 何も。 何も。 せっかくあそこまで笑えたのに。 せっかくここまでやってきたのに。 また、何もできずに、今。 また。 失う。「美並」 ハルがまた強く手を握り、やがて少し溜め息をついて、力を緩めた。「大丈夫」「……え」「見て」 ハルがもうこの映画を見ていたのだ、とふいに気づいた。 横を向くと、大人びた優しい顔でハルが画像に意識を促す。「綺麗」「きれ…い?」 視界がぼやけてうまく見えずに瞬きすると、頬を涙がつるつると流れ落ちた。けれど、それを拭うよりも先に、視界に入った光景に呆気に取られる。 ロボットが主人公にしがみついて泣いている。敵は背後で悶絶しているが死んではいないようだ。 いつから映画から気持ちを逸らせてしまっていたのだろう。 いつから美並も泣き出してしまっていたのだろう。 ハルがそっと指先で頬を撫でて、涙を拭ってくれる。 さっきは確かにロボットが一か八かで敵を屠ろうとしていた。主人公はそれを必死に止めようとしてできずにいたはずなのだ。 何が起こったのかわからない。『おかえり』 優しく甘い声が主人公の唇から漏れ、それを吸い取るようにねだるようにロボットが唇を重ねた。「いのち」 同じぐらい豊かで甘いハルの吐息まじりの声が聞こえた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.07
コメント(0)
**************** 目立つ、ということにかけては京介も似たようなものだけど、ハルの目立ち方はかなり違う。 映画館に向かっていきながら、美並は入り口近くで立っているハルにそう思った。 どちらも人の目を釘付けにする、独特な存在感で。 だが京介のそれが動き出しての柔らかさとか、にこりと笑った目元の男性らしからぬ艶やかさとか、つまりはもっぱら「動き」出してからの華に目を惹かれるということに対して、ハルはともかくそこに立っているだけで注目を集める。 真っ白なシャツ。真っ白なセーター。真っ白なスラックス。真っ黒な髪。真っ黒な瞳。通った鼻筋に色の薄い唇。しかもぱちりと目を開いたまま周囲に意識を向けることなく、両手を垂らしたまま立っている姿というのは、服装の珍しさだけではなく、人を寄せつけぬ気配が満ち満ちていて、それとなく人の流れがハルを避けているのがわかる。「美並」 今しも美並が近づいていったのに気づいて、微かに瞳を緩ませたハルに、思わず数人が相手は誰だとこちらを見るのがわかった。「ごめんね、待たせたでしょう?」「始まる」 美並の問いに応じたのか応じてないのか、ハルはちらっと目を動かして入り口を示した。そこにはこれから上映される演目『BLUES RAIN』のポスターが貼られている。『世界を破壊する能力を ただ一人のために使う』 背景の暗さを跳ね返すような紅で書かれたキャンチフレーズに、なぜハルがこの映画を選んだのか、わかるような気がした。『絶対色感、というものがあるのかもしれない』 いつだったか、京介が『ニット・キャンパス』について話したときに、そうハルの能力を説明したことがある。『絶対音感、じゃなくて、ですか』『世界の全てを色で見ている…?』 僕が言い出したんじゃないよ、と京介は面映そうに笑って続けた。『源内さんの言うことをまとめると、ってこと』 音と同じように色にもまた限りがない。音階に比べれば、色の区分はずっと細やかに表現されているけれど、全ての音を音階のどこの音が鳴っている、と感じる人がいるように、全ての光景を色調のどのあたりの色だと感じる人がいる。ロマンチックな言い方をすれば、世界の全てが音楽に聴こえる、世界の全てが絵画に見える、そういうことだろうけれど。『それでも鋭い感覚で生きていくには、人間社会は鈍すぎるんだろう、って』 幼ければ幼いほど、その感覚の支配している時間は長くて強烈だろう。 そしてまた、幼ければ幼いほど、その存在を社会が呑み込もうとする力は大きい。 思い出したのは「赤い空」だ。 美並はハルが「夕焼けの空」を考えて色を塗ったのかと考えていたが、あるいはひょっとすると、見上げている青い空の中にも微かな赤みがあって、それをハルは強く感じるのかもしれない。それを主体に「空」を描こうとしたのかもしれない。 だが教師にも、美並にも、空は「青」いとしか見えない。感覚が鈍いから。 そして社会は基本的には「鈍い感覚」を一般常識として動いている。それが一番大多数を集約できるラインだから。 鋭い感覚を失うこともできずに成長していく子どもにとって、この社会は自分の存在そのものを否定する大きな監獄にしか過ぎないのかもしれない。自分が生きられない場所、それでもそこに居なくてはいけない場所で、何とか生き延びていくためには、社会を壊すか自分を壊すしかないのかもしれない。 その激しい闘いにほとんどが破れ、どちらかを失い傷ついてぼろぼろになっていく中、ごく少数がその両者をバランスさせて生きていく術を見つける。『それが芸術の力だろうって、源内さんは言っていた』 美並もひょっとすると、そういう方向が必要なのかもしれない、ね。 小さく呟いた京介が、どこか不安そうに瞳を潤ませたのは、それが自分を美並から引き離すことを考えたせいかもしれない。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.06
コメント(0)
****************「すみません、何度か呼ばれてました?」「ううん、初めてだけど」 石塚は首を振り、これ、どう思う、とパソコン画面を指差した。「? ウェイターの制服……?」 白シャツ、黒スラックスに同色カフェエプロンをまとった女性が、にっこり微笑んでいる。「これなら体型とか年齢とか構わずに、結構スマートに見えるわよね」「ええ、はい…?」 頷いたものの、さすがに相手の意図がわからずに美並は首を傾げる。「まだ確定じゃないんだけど」 『ニット・キャンパス』のオープン・イベントに屋台が出るでしょ?「ちょっと出店数が厳しいかもしれないから、各企業にブースの提案が求められるかもしれないんだって」「そうなんですか?」 それは初耳だ、というより、真崎も口にしていなかった情報ではないだろうか。「どこからそれを?」「ああ、まあ、その、いろいろ」 石塚は微妙な表情で珍しくばたばたと手を振った。気のせいか薄赤くなってもいるようだ。「高崎くんに話を振ったら、食いつきはよかったわよ」 メイド喫茶とかいいなあとか目尻下げてたけど。「メイド喫茶……ああ、それで」 なるほど、もし桜木通販でそういうブースを考えるとしたら、元々が流通しかなかったところだから、今すぐこれといってできるような展示もなし、ならばいっそ学園祭の出店よろしく雰囲気を盛り上げる方向で考えよう、そういう発想なのだろう。もちろん、そうなれば女子社員、つまりは美並や石塚が『メイド』にさせられる可能性は大きいわけで。「まあもちろん、最大の難関はあれだと思うけど」 くい、と顎で指し示したのは真崎の席だ。「絶対叫ぶわよ、だめだめだめだめっ、とか」「そうですね」 真崎の反応を簡単に想像できて、二人でくすくす笑った。「で、ほら伊吹さんはいいけど、私はそれなりにそれなりの歳だから」 体型もまあそれなりにだから。 石塚がまた薄く赤くなった。「でもまあ、お祭りならいいんじゃないかって気にも、少しなったから」「つまりメイド服じゃなくて、こういう格好なら」「納得しそうじゃない?」「かもしれません」「だからさ」 もし、そういうことがあったら、あっちの説得はお願い。「そうですね」 頑張ってみます、と請け負う。 それまでに孝の一件が片付いて、『ニット・キャンパス』に集中できれば言うことなしだが、と溜め息をついたが、「でも……珍しいですね」「え?」「石塚さんがこういうイベントに」「あ、ああ、そのまあ」 石塚がふいにぎゅっと眉を寄せた。「まあ社内でいろいろ後押しもしてくれるみたいだし、他の課も様子を見に来る、手伝うって言うから」「もしかして」 高山さんですか?「べっ」 別にそういうことじゃないのよただまあそのそれなりに付き合いも長いし最近いろいろ話すことも多くなったしそういうあたりで同期としてはね。 一気に石塚がまくしたてて、ちょっと呆気にとられると、はっとしたように相手は口を噤み、一転表情を変えた。「評議会の青年部部長、真崎大輔」「はい」「課長のお兄さんよね?」「……ええ」「……よくない噂があるらしいじゃない」 石塚が今度は本気で顔をしかめた。「喜多村会長と親しいとか」「よくご存知ですね?」 意外と言えば意外な話に瞬きをすると、少しためらった石塚がああ、と溜め息をついた。「遅かれ早かれわかるだろうから、話しとくけど」「はい」「私,実はボランティアグループに参加しててね」 そのグループが今度の『ニット・キャンパス』にも参加する。「着なくなったニットを再利用したり、必要な所へ贈ろうという運動で」「ああ……ひょっとして」 地域のパワフルなおばさん達、と思い出すと、そうそう、と苦笑いした。「出店の話もそこからの流れなんだけど。それで今流れてる噂っていうのが」 真崎大輔っていうのが、裏でいかがわしいパーティを開いてもうけてるってやつでね。 思わずぎょっとして石塚を見る。脳裏に『飯島』が死体で見つかったという話が過った。「実は……仲間の一人の娘さんがね」 石塚は声を低めた。「その、よくない場所に連れ込まれそうになったって言うのよ」「…それは」「幸い、直前に親戚が通りがかって声をかけたから逃げられたらしいんだけど」 それから大学にも行けなくなって。「優秀な子で、大学側も期待してたところがあったから、結構あれこれね、あったのよ」 それで、まあ、そういう事情がわかってきて。「場所が『ハイウィンド・リール』だってあたりで、喜田村会長に繋がってきたらしくてね」 あの人は『ハイウィンド・リール』のかなり大きな株主なのよ。「株主総会のときに、そういう噂があるが、と突っ込んだのが居たらしいわよ」 喜田村会長をよく思っていない相手が紛れ込ませた総会屋崩れだったらしいって。「どこまでがほんとかわからないけど」 火のないところに煙は立たずって言うでしょ。 しばらく秘密を抱えていたのだろう、石塚は一気に話し終えると、ほう、と深い息を吐いた。「それがらみで、こっちも何か食らうんじゃないかって、高山さんも心配してるのよねえ」「高山さんが…」「5年前みたいなごたごたはこりごりだからって……あ」「5年前?」 それは美並がここに来る前の話だ。「5年前にも似たようなことがあったんですか?」「……内緒よ」「はい」「緑川課長って言うのが居て。社長の親類なんだけど」 これまた色ぼけじじいで。 石塚がばさりと切り捨てたところによると、5年前、経理部に居た緑川という男が似たようなグループと関わりを持って、かなりややこしいことになったらしい。「そこでトップが代わって会社の改編をやって」 そこで今の桜木元子が社長を締め、真崎も課長昇進になったらしい。「周囲は若すぎるって反対したけど英断だったわね」 じゃあ、伊吹さんは何も知らないのね、そう笑う石塚にすみません、と改めて頭を下げながら、伊吹は奇妙な符号に不安になった。 5年前の同じような事件。 ひょっとしてそれは、美並と有沢が掴み損ねたあの事件に繋がっているのではないか。 そして難波孝は、それに巻き込まれたりはしていないだろうか。 美並は手帳を取り出した。 ハルとの約束は外せない、けれど、このことは有沢には連絡を取る必要がある。 もしそれに孝や『飯島』が関わっていたとしたら。「京介……」 まだ、話せない。 まだ、どこからどう話せばいいのかわからない。 泣きそうになった心が弱々しく本音を漏らす。 まだ、京介を傷つけず、失わずに話せる自信がない。 無意識に胸にリングの感触を確かめて唇を噛む。 しばらく迷いながら仕事を片付け、手が空いた時にメールを送った。『ごめんなさい。今日のデート、一緒に行けなくなりました。帰ったら連絡しますね』 不安になるかもしれない。けれど、今はこれ以上伝えられない。 まだ京介を失いたくない。 ぱちりと携帯を閉じながら、美並は胸の中で呟いた。 今夜真崎と会うわけには、いかない。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.05
コメント(0)
**************** 『飯島』が死体で見つかった。 最後に有沢が伝えたことばは、美並の中で二つの意味を持った。 一つはこれでまた、難波孝に辿り着く道筋が細くなったということ。 そしてもう一つは、また美並が近づいた人間が死んでしまったということ。 同時にそれは、あの高校生の時にコンビニで『飯島』と出会ったことが、どれほど貴重なかけがえのない瞬間だったのかを思い知らせた。 あの時。 自分の能力を信じて何か行動を起こしていれば、今も『飯島』は生きていて、難波孝も死ぬことはなかったのだろうか。 それはまた、同じ想いを抱えて彷徨った夜の冷たさを思い起こさせる。 真冬の星の下、するべきだったことから逃げ、伝えるべきだったことを隠し、そうしてかけがえのない人を次々失っていく運命なのかもしれない、そう号泣した夜のことを。 能力を信じて人を傷つけることと、能力を信じず人を見殺しにすること、どちらが罪は軽いだろうか。 まんじりともせずに迎えた空の薄白い明るさが目に痛かった。「……ひどい顔だなあ……」 くたびれて疲れ切った顔は、うっとうしそうで暗い。 鏡の中から見返す瞳の不安定さにはどんな化粧も似合わない気がして、たびたび手が止まる。それでも、一つ一つ手順を進めたのは。「京介…」 そっと取り出した小箱には、鎖に通したアメジストのリング。ブラウスを開いて首にかけると、少し痩せてしまったのか鎖骨が目立つ首もとに、小さく光を跳ねた。 指先で触れる。 嬉しそうな真崎の顔を思い出す。 どうしてつけてくれないの、と不満そうに尖らせる唇の温もりが、今ひどく恋しい。 指先で摘んでキスを贈って家を出た。 真崎は課室には居なかった。 既に『ニット・キャンパス』の打ち合わせに出向いたらしい。今日の夜はハルと一緒に『BLUES RAIN』を見ることになっているから、それまでに仕事を片付けておいてしまおうという頭なのだろう、動きが早い。 夕べの一件で自分にとって改めて真崎がどれほどかけがえのない相手なのかわかったから、ハルとのデートに伴うのにほっとしている。 ハルはたぶん幻を追いかけているのだ。 自分を唯一認めてくれた優しい母親、現実には存在しなかったイメージを美並に重ねている。 そういう目で見られている美並が、美並自身を否定されているように感じるとは、きっと思いもしていないだろうが。 ましてや、夕べのように有沢がただただ自分の安全弁として美並を求めた後で、またハルに温かで柔らかな寝床としてだけ求められるのは,正直苦しい。「京介…だけなんだ…」 ふいに気づいた。 真崎だけが美並を能力から入って能力を無視して求めてくれる。美並の感情に向き合って受け止めてくれる。見てほしい、とは望まれるけれど、それは街角に立つ占い師のように自分の迷いを見抜いて方向を示してほしいというのではなく、真崎京介としての存在を美並の視界に焼き付けたい、そういう熱の形だ。「ああ……そっか」 真崎は美並を縛らない。 いや確かに、現実では指輪や約束や存在の場所や、つまりはずっと側に居てほしいと言い続けているけれど、それは美並の意志を妨げない、美並の能力を限らない。こう見てほしいとか、こう見るべきだとかは迫らない。愛してほしいとは言うけれど、愛しいものとして見ろとは言わない。 だから美並は安心して、真崎の側に居られる。 美並がどんな風に真崎を見ようとも、むしろそれが自分に新たな姿を与えてくれると言いたげに、そのまま変化し花開いていく、美並に向かって微笑みながら。「………京介、だから」 大輔や恵子に蹂躙され、自分というものがすっぽり欠け落ちた状態で、望まれるままに応じて形を変えてきた、たとえそれが自分に苦痛を与えるものであったとしても。 その柔軟性こそが、美並にとってかけがえのない相手としての特性なのだ。 美並は相手の中にあるものを全て見つめてしまう。光も闇も、薄暗がりも。 だが、大抵の人間は自分の全てが好きだというのは稀で、好きなところ嫌いなところがあり、それを取捨選択して表現し、社会の中で生きている。『そのままの自分』ではなく『こうありたい自分』『こうあらねばならない自分』でいるために。 美並はそれを白日の下に晒してしまう、全てをただ見つめることで。 真崎は『こうありたい自分』を常に砕かれ続けてきた。『こうあらねばならない自分』であることだけを求められ、それを満たすためにエネルギーの全てを持っていかれて、真崎の中は何もなくなってしまっていた。 だが、美並は、その空洞に『無』ではなく『空間』を見つけたのだ。 『なにもない』のではなく『何でも入る』巨大な器を。 社会常識に守られなかったことが、常識を超えた発想を産み出せる力になる。意志を無視されたことが、どんな視点にも立ちうる幅に繋がる。感情を翻弄されたことが極めて正確な人間理解に転じ、厳しい条件で生き抜いたことがぎりぎりの踏み込みを可能にし、そこに『方向』が与えられれば、それはしなやかでしたたかな統率力になる。 真崎は美並の視線に自分を晒すことで、その全てを受け入れた、そういうことではないのか。 そして、美並はその真崎に相対して初めて、自分の能力の可能性に気づく。 それは。「伊吹さん」「あ、はい」 ふいに呼びかけられて、美並は瞬きして顔を上げた。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.04
コメント(0)
****************「手?」「て…?」 大輔がぎくりとしたように力を緩めて、腕に力が戻り、指先に洗面台が触れた。 手を突く。 捉えた平面に掌を付ける。「そのまま一気に突き放す! 後ろに頭を振り上げる!」「っん!」「がっ!」 命じられたことばのまま、思い切り手をついて体を反らすと、がんっ、と後の大輔に後頭部がぶつかった。思わぬ反撃に悲鳴を上げた大輔が吹っ飛び、一緒に崩れかけたのを途中で食い止められる。「あ」「ぐあ!」 同時に足下で重いうめきが響く。 京介を支えながら覗き込んだ相手がひょいと視線を下に逸らせ、ああすまん、脚を踏んだか悪かったな、と白々しい口調で謝るのを瞬きながら見返して、何がなんだかわからないまま、ずきずきする後頭部に手をやった。「いた…」「き、さま…っ」「おやこれは」 京介の体を支えた相手が不思議そうに大輔を見やる。「真崎大輔さん」「う」「で、この人は真崎京介さん」 とぼけた口調でいいながら、じろじろと遠慮ない視線で大輔を見ているのは、源内だ。「トイレで兄弟喧嘩ですか」「…ちっ」「一体何が原因なんです、仲が悪いですねえ」 『ハイウィンド・リール』でも妙なやりとりされてたような? 源内が薄笑いをするのに、大輔が訝しげに顔をしかめ、やがて狼狽した表情になった。「覚えておられない? お会いしましたよね」 それとも、弟さんと話をすることで頭が一杯で、その他のことは忘れておられるのかな。「あの時……いつから…居た」 大輔が顔色を無くしながら問いかける。「何のことですかねえ」 源内が人の悪い笑顔を広げる。「ただ……今『ニット・キャンパス』に妨害としか思えないような噂があるんですが、あの発生源ってのも」 なんとなくわかるような気がしてきました。「…御大は、このこと、ご存知ですか?」「く…っ」 大輔が慌てたように汚れたスラックスを気にしながら立ち上がる。「ご存知じゃない? でしょうね、あの人、醜聞は嫌いですからねえ」 源内が吐き捨てるように続ける。「個人的な事情はともかく、俺はこのイベントに人生かけてんだよ」 これ以上余計な振る舞いしてくれるなら、こっちもややこしい手を使わしてもらうぜ、おっさん。「妙な誤解をするな」 大輔が必死に平静を装うように手を洗い、不愉快そうに顔を歪めて京介の側をすり抜けながら唸る。「誘ったのはそいつだ」「へえ?」 誘ったのに、あれだけ抵抗されてんなら。「あんたよっぽど嫌われてるんだよ」「…ちっ」 嘲笑う源内に大輔はきつい視線を返すとそそくさとトイレを出て行く。「…大丈夫か?」「……ええ」 京介は頷いて床に落ちた眼鏡を拾い上げ、のろのろと洗面台で水洗いしてハンカチで拭いた。「……傷害罪で訴えることができるぜ」 くい、としゃくられて教えられたのに鏡の中を覗き込むと、右の頬に薄くかすり傷がついている。「脅迫罪でもいける」「……大丈夫」 そんなことをしたら、『ニット・キャンパス』が動かせなくなってくるでしょう? 眼鏡をかけて鏡の中から微笑むと、源内が複雑な顔になった。「仮にも大きな要の一つ、社会連絡協議会の青年部部長がこともあろうに、その会議打ち合わせ中に、なんて?」 あなたの管理責任、コーディネーターの責任が問われてしまう。「…何を脅されてる?」「……」「だんまりか」「……」「あんたもハル系か」 ああ、だからあの女にはまるんだな、きっと。 溜め息まじりに呟いた源内が頭を掻きながら、仕方ないなったく、と本来の用向きにかかった。「……ありがとう」「ん?」「助けてくれて」 手をゆっくり洗いながら吐息をつき、京介は指輪を眺めた。 本当に。「僕また伊吹さんをうんと悲しませるところだった」 呟くと、小用を終えた源内が隣に並ぶ。しばらく黙っていたが、小さく溜め息をついて吐き捨てた。「無防備なんだよ、あんたは」「……うん」「何かやったことないのか?」「え?」 京介が瞬いて鏡の中から見返すと、源内が考え込んだ顔で見つめ返す。「武道とか、護身術とか」「ないね」「……教えようか」「は?」「俺は多少合気道をやる」 複雑な顔になって源内は肩を竦め、苦笑した。 さっきみたいなことがたびたびあるんなら。「あんたは自分で自分を守れなくちゃいけないんじゃないか」「自分で、自分を」 ぱしん、と額の中央が割れたような気がして京介は瞬いた。「それは」 考えたことがなかった。 応えて、そういうことを考えつかなかった自分に愕然とした。 そりゃそうだよね? 駅のことだって、マフラーは仕方ないにしても、ただ大輔に貪られるのを受け入れる必要はなかったはずだ。「今のなんか、ちょっと喧嘩慣れしてりゃ、すぐに逃げられる」 なのに大人しく押さえつけられてるから、相手も頭に乗るんだ。「見てたら……なんか抵抗しちゃいけないって考えてるみたいな感じだからさ」「う…ん…」 刷り込まれた恐怖と植え付けられた手順を重ねられると、身動きすることさえ罪のような気がして、京介は自分を傷つけることしか考えられなくなる。「抵抗しなくちゃいけない、戦わなくちゃいけないってのが苦手でもさ」 合気道は型、だから。「型を体に入れておけば、危険に勝手に反応してくれる」「そういうもの?」「そういうもんだから、型って言うんだ」 源内は苦笑した。「それに、あんたはあんただけのためじゃなくて、その指輪のためにも戦わなくちゃいけないんじゃないか」「え…」 ハルならそう言うと思うけど。「大切な人を悲しませるようなことをするのも、相手を傷つけるのとおんなじだって」「僕が、傷つける?」 京介が傷つくことで、伊吹を傷つける?『幸せになってやってください』「あ…ああ」 そういう、ことか。 伊吹の父親のことばの意味が、ようやくきちんとわかった気がした。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.03
コメント(0)
**************** ホールでの流れをだいたい確認し終わって、一度休憩が入った。 葉延七海の小曲で会場開け、全ての部門担当が一度集まってのセレモニーで開会宣言と挨拶、ソーシャル・イベントからの不要ニットの提供と寄付の呼び掛け、続いてオープン・イベントと屋台、ホール・イベントがそれぞれ始まる。 まずは『Brechen』のショーが1時間半、間に再び七海のミニコンサートが入り、後半1時間半が桜木通販の持ち時間だ。 『Brechen』の1時間半はそれなりに足止めできるが、七海のコンサートでハープ演奏に興味のない人間のかなりが抜けることが予想されるし、30分のコンサート時間はじっくり聞くにもどこかで時間を潰すにも短かすぎる。 9時開始で昼までのホール・イベントは午後からのオープン・イベントの客を減らさない意味もある。午後からのイベントに合わせて早めの昼食をとろうとする客も多いだろうし、現在人気の『Brechen』の後に続く知名度の低い桜木通販の1時間半のイベントに、どれだけ再度人間を引き寄せられるのか。「ふぅ…」 なかなか厳しいよ、高崎くん。 トイレに立って京介は小さく溜め息をつく。 桜木通販は元々ショーや舞台など華やかな状況には無縁の会社だ。正面から張り合っても『Brechen』に対抗しきれないのはわかっているが、それでも全く注目されないとなると、やはり抱えたニット帽の在庫が負担になる。 万が一を考えて、ドロップシッピングの許可も得てはいるが、やはり全面敗北を認めた形になると上層部でも納得しきれない人間は多い。「販売ビジネスでいいんじゃないかってわけにもいかないよね」 岩倉産業がじわじわと桜木通販の株買収に乗り出しているのを不安がっている株主は多い。大丈夫なのか、と社長も遠回しに打診はされているようだ。 合併までは譲歩する、だが吸収となると立場が違うだろう。今のうちに、岩倉産業のスポンサーに回っていたほうが無難だということかね。 ケツの穴の小さいのがそう言ってきたけどね、と元子は笑っていたが。 かた、と背後の個室で小さな音がして思考が途切れた。振り向くと閉まったドアの向こうに人の気配がある。 まさか、とは思うけど。 急いで向き直って、気配を殺すようにそっと支度を整えた矢先、キイ、と後でドアが開いた。出て来た相手が一瞬動きを止め、やがてのそりと真後ろに立つ。「……」 無言で待ったが動く気配がない。 まさか。 不安に背筋が竦む。 そんな偶然。 あるわけがない、あってなどほしくない。 嫌な予感をあえて気づかぬふりをしてそこを離れようとしたとたん、ぎちりと腕を掴まれた。「っ」「怖いのか」 背中にひたりと寄せられる体、低く響く声は大輔のものだ。 全身冷たい水を浴びたような気分になった。 どうして、また。「離して下さい」 なんでここに。 強く顔を背け、体をねじって離れようとする。「ここにはあいつは来ない」 ドアはすぐそこだ。「離せ」 声を立てることもできる、不利なのは大輔のはずだ。 なのになぜ、脚が竦む、ドアが遠い。「ここに俺が居るってことが、神様がどっちの味方かわかるってもんだよな」「っ!」 ぞくりとした。 記憶が蘇って背筋が凍った瞬間、振り払う間もなくもう片方の腕も後から掴まれ、叩きつけられるように洗面台の壁に押しつけられる。「く」 どしん、と強く打った胸と、とっさに向きを変えたものの鏡に突っ込みそうになった顔に、一瞬息を呑んだ。「俺が手を出せないと思ったのか」 くつくつと大輔は嗤った。「職を…失う気ですか」「それはお前の方だろ、ええ?」 耳のすぐ側で囁かれて皮膚が粟立った。「この仕事が失敗したら、会社がなくなるんだろ」「…」「お前の会社も馬鹿だ、お前なんかに命運を任せて」「失敗するとは限らない」「成功できるはずがないだろう」 大輔は喉の奥で低く嗤った。「俺が居るんだぞ?」 噂を聞いてないのか。「お前がどんな奴なのか」 繰り返し吹き込んでやる、周囲に。「男にここを」(中略) 眼鏡が、外れる。 気づいた瞬間、凍るような不安が湧き上がる。 眼鏡が。 外されて。 それは蹂躙と虐待の開始の合図だ。「う…」 体を震わせながら大輔の膝を拒もうとし、なお深く突かれて中心が強く押さえつけられた。 刺激に反応する自分が居る。「……腰が揺れたぞ」 刷り込まれた悪夢が、勝手に体の内側で再生を始め、一番楽な方法を選びたくなる。 大人しく心を閉じてやり過ごせ、別に殺されるわけじゃない、と。 でも。『京介』 いや、だ。『逃げなさい』 もう、いやだ。 美並。「体は正直だな」「く、」 いっそ舌を噛むとか、自分で鏡に顔を叩きつけてやるとか。 ああ、それはいいかもしれない。 自分の中でひんやりしたものが凝り固まっていく。 顔を少し上げて、それから思いきり鏡に顔を叩きつけてやれば、割れるかもしれない、顔か鏡かどちらかが。 もう要らない、こんな自分など。 誰もかれも、京介の外側ばかりを欲しがっていくのなら、全部ずたずたにしてしまって、それから伊吹の元へ行こう。伊吹は京介を拒まないはずだし、それだけぼろぼろになって行ったらきっと、捨てるとか置き去りにするとか考えないだろう。他の誰かを好きになっても京介を側に置いてくれるかもしれない、哀れみと同情で。 それはいい。 それでもいい。 もう、伊吹以外の誰かに体を明け渡したくない。「…ふ…」「…感じてきたのか」 ゆっくりと体を起こして仰け反っていく京介の視界がふいに霞んだ。眼鏡が顔から滑り落ちていくのと同時に、思いきり顔を逸らしてそのまま一気に額から鏡に突っ込もうとしたとたん、「手を突け」 びしりとした声が響いてはっとした。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.02
コメント(0)
**************** 動きで空間を区切っていくという雰囲気というか、一場面一場面が絵画的におさまる鮮やかさとか。 京介の頭の中で蘇ったのは、シュレッダーの前で紙を処理していく伊吹の立ち姿、翻る腕と空間を撫で切る指先、静かに伏せた目とすらりと無駄のない体のライン。 思わず押塚の薄いタイツに包まれた脚を眺めていて、ふと目を上げると、大石もちょっと驚いたような顔で押塚を見ている。 その戸惑った瞳の色に、相手も同じことを感じていると気づいた。 そうだ、押塚まりは、伊吹美並に似ている。 顔立ちというより、その立ち居振る舞いがとても似ている。 さりげなく肩までの髪を耳にかけるように掻きあげられて、横顔にどきりとした。 静かで透明な表情、微かに綻んだ唇の感じ、ゆっくり瞬いて目を見開く動きなんか特に。 中身も似てるのかな。 立ち居振る舞いというのは、体とそこにおさまっている心の産物だ。 伊吹と似た動きをするこの女性は、伊吹と似た心と体を持っているのかもしれない。「……」 視線を感じて向きを変えると、押塚がこちらを見やってにっこりと笑う。 華のような笑顔。 伊吹にはない、けれどこんな風に笑ってくれれば、きっともっと綺麗に見えるだろうと思える微笑。 その向こうに呆然とする大石を見つけた。 ただただ見惚れていた目が、まるで目の前に伊吹が居て、その伊吹がまた京介を選ぶのを見せつけられたと言いたげな不愉快そうなものに変わっていく。 それはどう見ても生の押塚を初めて間近で見たという顔、そうするとあの宣伝広告にもっぱら関わったのは大石以外、右腕だという志賀なのかもしれない。 美並にそっくりな演出だと思ったのは深読みし過ぎだったか。 少しほっとしてそう考えて、大石のなお向こうに源内の淡々とした表情を見とがめる。 視線が合いそうで合わない眼は、押塚まりに向けられているようだ。 ああ、そういうこと。 京介の中にすとんと理解が落ちてきた。 このタイミングで押塚が紹介されたこと、京介と大石の間にセットされた席、意識的なのか無意識的なのか、伊吹そっくりに振る舞う押塚の存在の背後に源内が居る。「なるほどね」「ん?」 人の良さそうな顔で首を傾げた相手に微笑を返す。 つまり、一石二鳥を狙ったのか。 押塚は伊吹に似ている。元々そうだったのか、それともそう仕立てられたのかはわからない。 ただ、伊吹をハルは望んでいる。京介も大石も伊吹に固執している。京介に危うい噂が立てられて、一歩間違えればイベントそのものも混乱しかねない状況、それぞれの伊吹への傾倒がおかしな方向に走ってもらっては困る。 ならばその圧力を緩めてやればいい、源内はそう考えたのではないか。 事前に噂のことを話したのも、京介のウエディング・イベントへの拒否を封じるためだろう。京介が伊吹に関して暴走することは既に知られている。 うまく転んで、京介や大石が押塚といい雰囲気になってくれれば、伊吹はフリーになり、ハルも機嫌を損ねない、イベントもうまく進められる。 したたかな企画。 ひょっとすると、この押塚の振る舞いも計算のうちなのかもしれない。「ずいぶん安く見られたな」「何か?」「いえ」 不思議そうに見返してくる押塚に視線を戻して、柔らかく笑った。「僕も近々結婚するので」 ぴくり、と大石が顔を引きつらせる。「いいリハーサルになりそうだなと」「あら」 押塚は悪戯っぽく笑った。「私は本物のお式のつもりですけど」 それもまた伊吹が時々見せる微かな支配力の誇示に似ている。 大石の顔がまた一層不愉快そうになる、まるで伊吹本人が京介に囁いているのを見るように。 それを十分意識しているのだろう、押塚はこんな素敵なお二人とバージンロードを歩けるなんて楽しみです、と背後を振り返り、大石がひくりと唇を引き攣らせた。 相手に吸い寄せられるような大石の眼差し、自分も同じような眼をしてるんだろうか、と京介は思う。 してるわけ、ないな。 胸の中で苦笑した。 伊吹さんは違う。 確かに振る舞いや表情や動きはそっくりだ。ひょっとすると、伊吹本人よりも大石や京介が願う姿に近いのかもしれない、でも。『京介』 耳の中に響く声は直接京介の体を震わせる。 は、ぁ。 自分が零れさせる息が甘くなるのを自覚する。 ほんと、駄目だな、抵抗出来ない。 そういう意味じゃ僕はとことん節操のない男、だからどう軽く見積もっても構わない。 けど、伊吹さんは。 よろしくお願いします、ね? ちらりと唇から濡れた舌を出してみせた押塚に京介は残念そうに肩を竦めてみせた。「僕はあなたに釣り合うような男じゃないですよ」 お隣の大石さんなら押し出しもいい、あなたとよくお似合いです。「それに、僕は恋愛真っ最中なんで、彼女以外目に入らなくて」 彼女を満足させるためなら何でもしようという心づもりなんです。 これ見よがしに、はにかんで笑って見せた。「四六時中、彼女のことばかり考えてるんです」「……」 押塚がそれならなお、と言いたげに小首を傾げて微笑み、背後の源内が面白そうに唇の端を上げる。「だからあなたも彼女に見えてくるぐらいで」「…」 ぴく、と押塚が笑みを強張らせ、源内がぷ、と微かに吹き出した。「もっとも女性全部そうなんですけど」 離れてるのが辛くてたまらないからですかね。「もう恋しくて恋しくて」 こうしてても、携帯で今すぐ声を聞きたいなんて考えてる始末なんですよ。「お幸せ、なんですね」「ええ、はい」 開けっぴろげなのろけに部屋中が白くなっていきそうだったが、後々こうるさい付きまとい方をされるぐらいなら、色惚けしていると思われている方が楽だ。「ということで、あなたにはいろいろ失礼かもしれないんですが、よろしくお願いしますね、押塚さん」 君は所詮伊吹さんの前座。 コピーは本物には叶わない。 そのニュアンスを響かせて握手に手を差し出すと、押塚が表情を消した。 **************** 今までの話は こちら
2026.04.01
コメント(0)
**************** 時間だ、行くか。 先に立って小会議室の一室へ進む源内に、一緒に行くとまずいんじゃないかと考えたが、噂を気にして振る舞うのが一層まずいのは明白、ドアを開けた相手の後から京介は部屋に入っていった。「遅れましたかね」「いや」 源内の声に、既に円形に配置されている、小テーブル付きの椅子に座っていた大石が、手にしていた資料を捲りながら首を振った。「今内容を頭に入れてるところだ」 かっちりとした物言いに、残りの人間が慌てた様子で手元を覗き、改めて資料を読み始める。 周囲の狼狽を気にした様子もなく平然と椅子に座っている、せせこましく作られている簡易テーブル付き椅子が、事務所の堂々たるデスクに見えてくるような動きに、大石の自信が伺えた。 伊吹と離れてからの歳月、再会する時を思って自分を仕上げてきた男は、それまでの繊細さをかなぐり捨てるようにタフになっている。 そこに伊吹へのあからさまな執着を感じて、京介はまた気持ちを乱す。 本当に。 本当に僕は伊吹さんに必要とされるんだろうか、こんなしたたかな元恋人を前にしても。 姉思いで豊かな明、前途洋々たるハル、そして大石。 伊吹の周囲に居る男達は誰もそれぞれ見事な資質を開いている。 じゃあ僕は? 僕には一体、何がある?「ざっと紹介しておきます」 頷いて、ホワイトボード前の椅子に腰を降ろした源内が、周囲を見渡した。席にはそれぞれ名札プレートが置かれ、大石と一つ分空けて示された椅子に京介は腰を下ろす。「ホールイベント、岩倉産業『Brechen』の大石圭吾さん」「よろしく」「同じくホールイベント、桜木通販、真崎京介さん」「よろしくお願いします」 微笑んで会釈すると、うろたえた顔で視線をそらした男が一人、向田市立高校、地域担当、小杉通、と紹介された。すぐに失礼だと気づいた顔で目を向けてくる顔が、京介の凝視に微妙に赤らむ。年齢的には大輔より少し上か。資料で名前を確認するように急いで俯いたが、ちらちらと好奇心に満ちた視線を上げてくる。 その隣の向田花信短大家政科助教授、大貫はるみと名乗った女性と服飾専門学校ファッションアート向田『ニット・キャンパス』委員会の小桜静も、一瞬眼を通わせて含みのある視線で源内と京介を見比べる。 どうやらさっきの噂というやつをそれぞれ多かれ少なかれ耳にしているらしい。 やっかいだな。 眼を伏せて資料を読み込むふりをしながら、京介はまた胸の中で舌打ちする。 思い込みはいろんな情報の質を変えてしまう。 たまたま京介の発案に源内が共感したとしても、それを関係あってのものだと読み込まれては話が進まない。何より、京介の自由な発言というのは、かなり制限されてくる。何を言うにしても、噂と関わる部分を頭にいれておかなくちゃならない。 ひょっとして、それを大輔は狙ったのか、と気づいた。 部門も違う、この前の一件があっては手出しもできない、だからこんな間接的な妨害をしかけてきたのか。 しかもここには伊吹がらみの大石が入っている。意識して絡むほど馬鹿な男ではないだろうが、噂がこじれて伊吹との距離が空いてしまいでもしたら、その隙に伊吹に接近されかねない。同じ部門なのだ。京介に連絡を取るためと言えば、伊吹とやりとりすることはいくらでもできる。 石塚さんに電話応対専門になってもらおうかな。 ちらりとそんな焦った発想さえ浮いて、京介は溜め息をついた。 そんなこと、伊吹は納得しないだろうし、何より彼女を信じてないのかと言われるかもしれない。 信じていないのは……伊吹を魅きつけ続けられる力がないかもしれない自分、なのだが。「ふ、ぅ」 漏らした息に、ぴくりと小杉が動かしていたボールペンを止めた。上目遣いに見やってくる視線が粘りつくようで、これはこれでかなり息苦しい。ひょっとすると、自覚もなくてオープンにしてはいないかもしれないが、そういう嗜好なのかもしれない、そう思ってうんざりした。「で、鳴海工業、鳴海正三郎さん」 源内は淡々と紹介を続けている。「今回のイベントニットを岩倉産業と一緒にフォローして頂きます」 あいかわらずむっつりした顔で、それでも正三郎が会釈した。「後一人は」「……すみません、よろしいでしょうか」 柔らかなノックが響いて、同時に少しドアが開いた。「押塚まりさん」「遅れました、すみません」 一気に部屋の中が華やいだ、そう感じるぐらいのオーラを放って、押塚は源内の後に立って頭を下げた。「最後の一着を着せて頂きます、押塚です、みなさん、よろしくお願いいたします」 なかなか抜け目がない。 京介はしらっとした顔の源内を見やった。 ホールイベントは『Brechan』と桜木通販がそれぞれのメインとするニットを、ファッションショー形式で見せ合うことになっている。 タイトルは『Brechen』が「トクベツなわたくし」、桜木通販が「デザイナーズ」。 前者が主要ニットの新製品を紹介するのに対して、後者は既にあるニット製品を如何に遊ぶか、そこに焦点を置くことで、それぞれのカラーが打ち出される。 交互に舞台に出るという案もあったが、それは『Brechen』という世界を見せたいという大石の主張で却下され、前半大石、後半が京介の担当になっていた。それぞれサブに『Brechen』が志賀、「デザイナーズ」が高崎が入っている。 押塚にしてみれば、その間ずっとホールに拘束されることになるし、今売れつつある彼女がこんな地方の小イベントに駆り出されるのを事務所もよしとするとは思えなかったが、それこそさっきの「海外のバイヤー」もターゲットにするとすれば、悪くないと判断したと見える。 ファッションショーでは平凡な演出だが、最後にそれぞれがウエディング・ニットを披露することになっていて、それに押塚まりを出演させることになったらしい。「今日は顔合わせということで、押塚さんには後リハーサルと本番の二回、来て頂きますが」 源内が薄く笑った。「一応ウエディングということで、最後のエスコート役は、大石さん、真崎さん、お二方にお願いできますか?」「え」「……ふむ」 ちょっと待ってよ。 京介は一瞬浮きかけた腰を慌てて引き戻した。 そんな、伊吹さん以外の人と、ってか、伊吹さんより先にウエディング?「……ご不満ですか?」 押塚はにっこり笑って真崎を見た。「恥ずかしい思いなんてさせませんけど」「いえ光栄ですよ」 するりと出てしまった同意、にこりと笑った自分にまたうんざりした。身についた計算、いろんな不利な噂がある中、ここでまた進行速度を遅らせてしまってはと無意識に自分を制御する習性は健在だ。 伊吹さんにちゃんと説明しなくちゃ。 ふいにそう思った。 ちゃんと説明して、京介が望んで考えた演出じゃないとわかってもらっておかなくちゃ。 って、なんで僕はそんなことを考えてるの? 疑問に思ったとたん、「よかった」 じゃあ、こちらに座らせて頂きますね。 押塚がさりげなく空いていた京介と大石の間の椅子に滑り込む。滑らかで洗練された動きは、スチール写真で見ていたようなぶっつけ本番的なものではない。「あ」 自分が何に身構えたのか理解した。 伊吹さんに、似てる。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.31
コメント(0)
****************「ただ」 ふいに源内は悪戯っぽい笑みに唇を綻ばせた。 美並を連れてく、ハルはそう言ってるけど? 覗き込まれて微笑を返す。「宣戦布告はされてますよ」 それぐらいは言うだろう。それぐらいの自信はあるだろう。 圧倒的な勝利をきっと確信してるだろう、けど。 無意識に指輪に触れ、源内がすぐにそれに気がついた。「淡々としてるのは、指輪のせいか?」 くすりと源内が笑う。「あいつにはそんなもの関係ないよ」「……彼女の意志を無視すると?」「形式なんか意味がないって思ってる」 形式なんかじゃない。 形式とかそんなのじゃなくて、京介にとってこれは。 閃いた答えを京介は呑み込む。 僕の、命綱。 黙った京介に源内は笑みを深めた。「あいつは、彼女も自分と一緒だ、と言ってる」「……」「彼女もここでは生きられない、と」 ずきり、とした。 見たくなくても、伊吹は人の内側を感じ取り見抜いてしまう。関わるまいとしても、そこに生死がかかっているなら見過ごすことなどできやしない、京介を闇から引き戻すために度々飛び込んできてくれたように。 そして、それは時に、大石や大輔のような、伊吹の優しさにつけ込む奴に利用されることにもなるわけで。 京介もその一人と言えないこともない、わけで。「……」『………幸せになってやってくれ』『……あの子の願いを、満たしてやってくれ』 大事な人に幸せになってほしい。 ただそれだけの願いを抱えて生きてきた伊吹に、京介は君を失っては生きていけないと伝えることしかできない。 それは、伊吹にとって幸福だろうか? 満足のできる応えだろうか? 幸せだと告げて、そのことば通りに、京介が幸せだと思ってくれるだろうか? 薬指の指輪をふいにきつく感じた。 京介は幸せだ、伊吹が側に居てくれさえすれば。 けれど。 眠れない夜に身悶える自分を知ったら、伊吹は不安にならないだろうか、自分が居なくなることが京介を不幸にするかもしれないと。 そうして自分が生きる道を京介のために限ってしまわないだろうか。 それは形が違うだけで、大石がしたこと、ハルがしようとしていることと同じ拘束ではないのか。 けれど。 伊吹なしでも平気だと、京介はまだ笑えない。 きっとずっと笑えない。 それを伊吹は負担にしないか。 背負い込んでしまわないか。 伊吹なしでも平気なのは無理だけど、少し離れてるぐらいなら大丈夫、ぐらいにはならないと、伊吹と一緒に生きられないんじゃないか。 考えてもみなかった、不安。 一緒に居て、もし京介が幸せにならなかったら、それは伊吹を苦しめるんじゃないだろうか……?「と、そうじゃなくて、今引き止めたのは違う話なんだ」 源内がふいに口調を変えて瞬きした。「というと?」「部門別になってややこしいことを持ち出すのはいないと思うが」 さっきのを見ると絡んでくるのがないとは言えないから、先に話しておこうかと思って。「あんたと俺がデキてるんだって」「………は?」「そういう噂が流されてる」「……」 思わずまじまじと相手を見つめ返した。 そういう気配の男は意外にわかる。京介がまともに見つめ返すと、不安定に視線を揺らせたり笑ったりしてくる。 だが、源内には一切その気配はない。明や大石と同じ、性的対象ではない、ただの同性の他人に向ける視線しか感じたことはない。 それでも一応確認する。「私は男、ですが?」 暗にあなたはそういう嗜好だったのか、と響かせる。「俺も男だが、実は年下の方が好みだから安心してくれ」「ああなるほど、だから渡来さんが」「納得するなよ」 源内は苦笑いした。「違うって。最近の流行? ま、そういうあたりのものらしい」「……馬鹿馬鹿しい」「後から駆け込みで『桜木通販』と『Brechen』が通った理由の一つとして、そういう裏があったんじゃないかって話が出てる」 曰く、真崎京介は男女問わず寝物語で仕事を確保し問題を解決する、その筋ではよく知られた男だ、と。「実際はハルの要望だっていうのは、あんまりおおっぴらにしてない。これ以上馬鹿な絡みをされてはたまらないから」「……大石さんとは噂になってないんですか」「キャラクターが違うのかね」「……」 微妙だ。 京介は溜め息をついた。「心当たりは?」 源内がくい、と喜田村と大輔が出ていった戸口に顎をしゃくる。「なんか妙な感じだったな、御大ともに」「……ありすぎるほど」「ふん」 源内は鼻を鳴らし、ハルが聞いたら絶対やめると言い出すな、と眉を寄せた。「俺としてはできるだけスムーズに動かしたいと思ってるんだが」 ハルの機嫌を損ねないためにも。「そうもいかないかもしれない、そこんところは含み置いてくれるとありがたい」「わかりました」 ご迷惑おかけして申し訳ありません。 京介がぺこりと頭を下げると、源内はところでこれは興味本位だけど、と続けた。「伊吹美並って、そんなにいい女?」「……はい?」「だって、あんまりそういう感じには見えなかったんだけどな、ちらっと見た感じじゃ」 少なくともあんたがそこまで入れ込むような、と言いかけた源内がゆっくりと惚ける。「……あー…いいや」 そんなもの、とびきりに決まってる、そう応えようとした京介を源内は気まずい顔になって遮った。「?」「いや、だって……大の大人にそんなに一気に赤くなられちゃ、聞く方が野暮だろう」 指摘され、まるでさっきの煩悩まで見抜かれた気がして、また少し顔が熱くなった。「おいおい」 何重ねて赤面してんだ、あんた幾つだよ、女性経験皆無ってことないよなまさか、あんたのその顔立ちで。 源内が呆れ返る。「いくら婚約したてだっていってもな、そんな無防備じゃあんたとてもハルに勝てないぜ」 源内が溜め息まじりに苦笑して続けたことばに、京介は固まった。「あんた、脆すぎる」 **************** 今までの話は こちら
2026.03.30
コメント(0)
**************** おおまかなスケジュールが確認され、各部門ごとに小会議室へ移動することになって席から立ち上がると、背中に視線を感じた。「…ま…き…きょう…」 自分の名前が微かに聞こえた気がして京介が振り返ると、先立って背後の扉から出て行こうとする一団がいた。どうやらソーシャル部門の連中、その中でも二人、半白の髪の恰幅のいい老人と他ならぬ真崎大輔が何かこそこそと話しながらこちらを見ている。「喜田村会長」 別の方向から呼びかけられて、ん、と半白の老人が顔を振り向け、そうか、あれが向田市社会連絡協議会会長、喜田村英資か、と気づいた。同時に、『ハイウィンド・リール』で大輔とぶつかった時にこちらを見ていた老人がいた、というのが喜田村だったかもしれない、ということも。 古くからある組織、しかも地域密着型のものは確かに活動が安定し人脈も豊かであるという利点がある。 けれどその一方で、属する人間達が癒着していくのもまた避けがたいこと、桜木通販も地元の特産物を流通させるときに、何度か背後に社会連絡協議会の裏人脈と思われるつながりに煮え湯を飲まされたことがあった。 さすがに京介レベルでは会長と話す機会はなかったが、社長は面識があるはずだ。 あれが、大輔の後ろにいるのか。 眼鏡を押し上げて静かに視線を合わせ、軽く会釈すると、喜田村はじろりとこちらを見返して側の大輔に何事か囁いた。京介の前ではあれほど威丈高な大輔が、恐縮したように頭を下げる。 その大輔を歯牙にもかけない様子で、喜田村は京介を上から下まで眺めた。表情を変えないまま、しばらく京介を値踏みしていたが、やがて取り巻きを引き連れてゆっくり部屋を出ていく。 あの眼の意味は知っている。 自分の欲望を満たす道具としてしか人間を見ない者の眼、もっとも、性的な意味かどうかまでは読み取れなかったが。「ったく、どいつもこいつも」 目を細めて微笑に見える表情を作りながら、京介は胸の中で舌打ちした。 時々、うんと自分を傷つけたくなる。 ずたずたにしてしまって、それでもまだ京介を欲しいと言うのか、試してやりたくなる。 欲しいものは何だ。 この顔か。体か。それとも真崎京介という名前か、社会的な器なのか。 そんなもの、僕の中身を何一つ語っていないのに。 いっそのこと腹の奥まで引き裂いて、望みのものがあるのか聞いてやろうか。『京介?』「…そんなことしちゃだめだよね」 耳の奥に伊吹の声が響いて我に返った。「美並に怒られちゃう」 切ない気持ちに小さく呟いた声が甘い。 ……怒られて……ちょっといじめられるのも……いいけど。 微かに疼く体の底で、美並が与えてくれる快感を思い出す。「……」 うっすらと熱くなった体に冷えた怒りと不快感を散らされて吐息をついた。眠りの足りてない頭、また美並が恋しくなったのを振り払うように書類をまとめ、部屋を出ようとして背後からぽん、と肩を叩かれた。「?」「よう、ハルの恋敵さん」 振り向くと、源内がにやにや笑いを広げながら片目をつぶってきた。「何ですか、一体」 急に馴れ馴れしくなった相手に警戒する。 ハルの恋敵、そう呼ばれたところをみると、源内は渡来のかなりプライベートな部分にまで関わっているのだろうと察した。「あれ? 違った?」 きょとんとする源内に悪気はなさそうだ。「……違いませんが」「まあしばらくつきあってやってよ」 源内は苦笑しながら続ける。「ざっと見たところじゃ、お宅…と大石さん、ぐらい? まともに話が通じそうなのは」 いささかうんざりした顔になっているのは、さっきのような遣り口をする人間が意外に多いということか。「まあ大きく金も名前も動くからね」 ここぞとばかりに売り込みたがるおっさん達がいるのは無理ないけど。「いいかげん、ハルも煮詰まってきてるし、またああいうのを嫌うやつだから、さっきのなんか見たら一発でやらないって言い出しかねないし」 ここまであいつを逃がさないでおくのも大変だったんだよ、自分の望むことができないと、すぐに周囲と縁を切っちゃうやつだから。「それに俺がハルをフォローするのも、たぶん『ニット・キャンパス』終わるまでだ」 いささか残念そうに源内は溜め息をつく。「どういうことですか?」「海外からオファーが来てるんだ」 源内は向きを変えた京介に肩を竦めた。「イタリアの方から1~2年こっちへ来て勉強しないかって。前に学校から海外交流ってことで一度出たんだよ、あいつ。その頃に知り合って惚れ込んだのが居て、それからずっとハルをマークしててね。あいつも珍しく一発でOK出したから、確実に行くつもりだろうし」 どうせあいつの才能は、日本のピラミッド型の権力構造にはおさまらないよ。「今まで唯一、ハルを理解してくれて場所を与えてくれてたのが辻美の校長だったんだが」 今回の『ニット・キャンパス』に海外からの客も来る、注目株だって認識されてるらしいとわかったら、掌返したように自分のところへ来ないかと引っ張り込もうとする教育系も居てね。「……ああ、なるほど」 京介は微笑んだ。「どう見ても気苦労ばかりで、実入りも人脈も手に入りそうにない企画のコーディネーターをやってるのは、彼のためですか」「…」 一瞬源内がきつい視線で京介を射抜く。「……はっきり言うね」「ざっくばらんに打ち明けて下さったので」 こちらも多少は砕けておかないとまずいかと。「違いますか?」 目を細めてうっそり笑った。「当たってる」 源内は腕時計をちらりと見た。移動を兼ねた休憩終了まで後数分、その間に話をつけられると踏んだのだろう、肩を竦めてみせて話を続けた。「海外のバイヤーを焚き付けて、日本観光絡めて呼んでる。あいつは嫌がる手管だが」「時には必要」「その通り」 頷いて、あれは本物だよ、と源内は吐いた。「本物だけに扱いが難しい」「そうですね」「ほんの少しでもここは安全じゃないと思わせたら致命的だ。一気に表現を閉じちまう。そういうことを、今のこの国の人間は理解しない」 昔はもっと余裕もあったし器の大きな人間も多かったんだ。「人の概念から外れたところで花開くものこそが才能で、それがどれほど繊細で激しいものか、少なくとも芸術畑にいるやつはよくわかってた」 源内の目は厳しい。「でも、今はそんな器のあるやつはいない。自分達の居場所を荒らされるからと才能のあるやつは潰そうとばかりする」「……なるほど」 どこも同じですね、と京介は苦笑した。「権力構造、ですか」「まあな……あいつも自分の扱いが難しいのは自覚してるよ」 だからこそ、『ニット・キャンパス』を置き土産に日本を離れるつもりなんだ。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.29
コメント(0)
****************「本日はお忙しいところをお集り頂き、ありがとうございます」 部屋の中は場所の狭さだけでなく、正面のホワイトボードの前に立っている源内を見定めようとでもするように、人が溢れ返っていた。 手元の資料を眺めつつ、隣と頭を寄せあい、どう見ても打ち合わせというよりは雑談の気配が濃厚な出席者は、50人を軽く越えている。各団体から1~2人来ているにしても多いと思ったら、壁際の数人がメディア系らしく、カメラを手にしていた。「『ニット・キャンパス』のコーディネーター、『企画・イベント 晴』の源内頼起です。本来なら全体打ち合わせを本部のある大辻美術専門学校でするべきなんですが、出席者が予想以上に多かったのでこちらをお借りしました」 相変わらず上から下まで黒づくめの源内はにこやかに室内を見渡した。「本日のスケジュールをご案内します。始めにこちらで全体の進行についてご説明し、ご質問を受け付けます。続いてホール、オープンと屋台、ソーシャルの3部門に分かれて、打ち合わせと調整を行います。ホールは私が、オープンと屋台は今回辻美文化祭と重ねるということで辻美校長と市役所担当が、ソーシャルは社会連絡協議会会長がそれぞれ担当責任者となります。各企業と参加団体は事前申し込みの通り各部屋にて打ち合わせを行って下さい」 それぞれの担当と示された人間が起立し、一礼して自己紹介し、拍手で迎えられる。「…よろしくお願いいたします。終了後は再びこちらで進行報告と決定案をお伝えしますが、後日資料送付することもできますので、出席可能な方だけで結構です。事前配布資料でお伝えした通り、『ニット・キャンパス』の趣旨は学校や地域や行政が芸術部門において、互いの発想や力を持ち寄ってみんなの喜びをつくり出そうというものです。ブレインストーミング方式を使って可能不可能の検討の前に自由な発案を引き出して下さい。各部門ごとに柔軟で豊かなアイディアの提案を楽しみましょう」 うまいな、と京介は思った。 これだけの多人数、多団体参加のイベントは、理念だの意味だの責任だのの検討に時間を奪われがちで、実際にどのように実現していくかについては末端に丸投げされてしまい、子どものための豊かな時間をつくり出すと銘打ちながら、業者を雇ってイベントを行い、何人参加したか動員数で評価を行うような虚しい展開になりやすい。 だが源内は「基本」についてはラインをあらかじめ打ち出しておき、そこから具体的にどう参加するかで各部門に参加団体を引き入れると同時に、お互いにそれとない競争心を煽っていくことで活気を引き出しているわけだ。 おそらくは窓際のメディアも、それぞれの部門会議に散っていくのだろう。あえて録音系を準備していないのも、個人攻撃や演出としてのつまらない言い争いを防ぐ意図があると見える。「ではイベントのスケジュールを御案内します。このスケジュールは『ニット・キャンパス』そのもののスケジュールでもありますが、事前準備や会議日程を含みます」 お手元の資料を御覧下さい、そう源内が続けたとたん、一人の男がのっそりと立ち上がった。「すまないが」「はい?」 源内が動きを止め、ざわめいていた部屋が静まる。「質問したいんだが」「申し訳ありません」 源内は爽やかに遮った。「ご質問はスケジュール説明の後にお願いいたします」「この会議打ち合わせ自体に異論がある」 男は構わずことばを継いだ。「は?」「君はコーディネーターと言ったな?」「はい」「なぜ『君』が『ニット・キャンパス』のコーディネーターになったのか、その経過を知りたい」 ああ、やっぱりこういうのが出てくるか。 京介は冷笑しながら男を見た。 年齢は50~60代、いかにも実直で地味な背広上下だが、高価そうなネクタイや時計をこれみよがしに見せているあたりがどうにもうさん臭い。会議の進行を遮る方法も物慣れているし、不審そうな周囲の視線にたじろいだ気配もないあたり、雇われた可能性もなきにしもあらずだ。「…さて、どうする」 源内のお手並み拝見だな、と京介が見つめていると、源内は如何にも困惑したような顔でゆっくり部屋の中を見渡した。「みなさん、説明が必要ですか?」「俺はあんたに聞いてるんだ」 男の口調が荒くなった。「答えをごまかす気か」 ごまかす気はない、そう受けた瞬間に、今のやりとりに噛みついてくるのは必至、もめごとの気配を察して既に及び腰になっている出席者も居る。「誤解しておられるようですね」「なに」「私はコーディネーターです」「そんなことはわかってる」「この『ニット・キャンパス』は私が主催してるんじゃない」「…」 男が訝しげに眉を寄せた。「発案は辻美の高校生、協賛される企業や支援団体があって、『ニット・キャンパス』が動き出した」「それがどうした」「だから『ニット・キャンパス』の主催は、ここにおられるみなさんです」「……だから」「みなさんが説明が必要だとおっしゃるのなら、私にはそれを説明する義務がある。ですが」 源内は微笑した。「その経過については既にご説明していますし、パンフレットにも載せていました。読まれた上でのご参加だと思っていたんですが、読まれておられない?」「……」 男の顔に微かに怯みが出た。公的な場所で源内の責任の範囲を問い正し、そこに付け込んで何かの利益を得ようとしていたはずなのに、逆に参加した自己責任と判断を衆人環視の中で問い正される羽目になってしまったのに気付いたのだ。「どこに、そんな、ものが」「失礼ながら、お名前を」 源内が薄く笑って、京介は苦笑した。 終わったな、と男を見遣る。「パンフレット送付時に漏れがあったとしたら大変申し訳ないことでした。是非改善の糸口にしたいと思いますので、どうぞお名前を」 名前を告げた途端に源内の側に控えている女性がリストをチェックし出すのは明らかだ。「名前など、今はどうでもっ」「では、参加部門を」 部門会議でそれを持ち越されては会議が進行しにくくなりますから、私がそちらに参加します。「その際に適宜ご質問を承りましょう」「う……、」 男は一瞬真っ赤になり、やがてふいに懐に手を入れた。「連絡だ、失礼する!」 ぐるっと身を翻して周囲をうっとうしがらせながら部屋を出て行く。わざとらしく携帯を耳に当て、ドアを開けながら、私だ、今は会議中だ、と話しつつ遠ざかるのに、ほっと部屋の空気が弛んだ。「……で、みなさん」 源内が声をかけると注目が一気に動く。「私がコーディネーターである説明が必要ならばさせて頂きますが」「必要ないでしょう」 聞き覚えのある声は大石だった。「私には不要だ」 確かに、ああ、と周囲に頷く輪が広がり、源内が微笑しながら、ではスケジュールを、とボードに向き直った。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.28
コメント(0)
**************** 一体何を考えてるの、伊吹さん。 ともすれば、疑問がぐるぐるしそうになるのを堪えつつ、京介は市役所の会議室へ向かっている。 今日は参加企業と支援団体、教育関係者や地域自治会などとの調整とスケージュール確認が行われることになっていて、京介は桜木通販の担当者として出席することになっていた。『一緒に来ますか?』 伊吹がさらりと誘ったから、思わずうん、と応えてしまったけれど、ひょっとして渡来と仲がいいところを見せつけられたりするのだろうか、そう不安になる。「第一、デートに他の男が同行するって」 困るのは伊吹だろうに、そう考えて気付く。「……僕を気遣ってくれた?」 何があったんだろう、どんなことを話したんだろうと気にするだろうと、だから京介に同行するかと尋ねてくれたのか。「……行くって言っちゃ、まずかったかな」 ここは大人の余裕で、いいよ行ってきて、とか笑ってみせるところだったのかな。「伊吹さんを信じていないみたいに思われる? 右手の指輪を見つめる。 伊吹はやっぱり会社では指輪を嵌めてくれないけれど、昨日の朝、ほらここにありますからねと胸のポケットから小さな袋を取り出して見せてくれた。フェルトのようなやわらかくて厚めの布、手作りらしいそれに包まれている指輪は、まるで特別なケースにおさめられたもののように柔らかく光っていてほっとしたけれど、身体には着けてくれてないんだ、と拗ねてしまった京介に、軽くキスしてくれて。『大事にしてるんですよ』『だって』『私は事務補佐ですんで、いろんな仕事をしますから』『?』『固い荷物だって運ぶし、印刷インクだって付くし、トイレ掃除の洗剤とか、お茶当番の流し用クレンザーとかいろいろ使うんですよ?』『ああ…』 確かに京介はそういう仕事はしない。もっぱらデスクワーク、パソコンと電話が相手だ。『石が付いていると大切に扱ってやらないとすぐに変色するし傷つくし』『………うん』『京介と一緒に居る時は付けますから』 変色しても傷ついても、僕のものだと叫びたいから、とはさすがに言えなくなってしまった。同時に、自分が伊吹の仕事を何ほどもわかっていないのを改めて知って、それが情けなくて恥ずかしかった。『ごめんね?』『え?』『僕…わがままだった?』「いいえ』 にっこり笑った伊吹が、わがままを言ってくれる距離に居て下さいね、京介、そう囁きながら耳にキスしてくれて、もう少し時間があればもっと愛してもらえたのに、とひどく悔しかった。「……うん」 そうだ、伊吹は京介を大事にしてくれるし、気遣ってくれる。その伊吹が渡来とのデートに一緒に来るかと誘ってくれたのだ、きっと何か考えがあるのだろう。「僕は伊吹を信じる」 うん、と一つ頷いて、京介は市役所の中に入っていった。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.27
コメント(0)
****************「私は、あなたを」 もっと知りたい。「残り三ヶ月もない時間だ」 彼に『ニット・キャンパス』に集中させてあげて、あなたが難波孝と私の相手をする。「ちょうどいい取引だと思いませんか」 美並はまっすぐ相手を見返した。「そうやってまた」 逃げるんですね。「っ」 ついた吐息に頬を嬲られた、そういう顔で有沢が顔を歪めた。「逃げる?」「前は恋人で、今度は檜垣さん」 相手が代わっただけでしょう? 怯まずことばを続けることに集中する。「圧倒的な体力差だし、うかうかこんなところに居た私が間抜けだった、これがその結果なら」 一瞬目を閉じ、京介の顔を思い浮かべる。甘く切なげな微笑に心を緩めて、気力を奮い起こす。「ぎりぎりまで抵抗します。最後に負けたとしても」 無事じゃすみませんよ、あなたも、と相手を凝視した。「真崎さんが知ったら」 彼は傷つくでしょうねえ。 有沢が低く唸る。「傷つきますよね」 自殺しちゃうかもだけどな。「それでも…数パーセント、生きてくれる可能性はあります」「……え?」「でも、私があなたを抵抗もせずに受け入れたなら、それこそ京介は自分の生きている意味を失ってしまう」「……たいした自信だ」 それほど愛されてるってことですか。「それとも、あなたにそこまで言わせる真崎さんが凄いってことかな」「あなたには関係ないでしょう」 恋人を抱え続けることもできなくて、太田さんを信じ続けることもできなくて、警察組織に染まり切ることもできなくて、残り数ヶ月の命を何に賭けるか決めることさえ他人に聞くような男に。「真崎京介と比較できる何があるんですか」「!」 同じぐらい低い声で言い放った美並に、有沢が目を見開いた。赤くなり、続いて青くなり、白くなる顔が表情を失う。「毎日毎日殺され続けるような傷を抱えて生きてる京介が、私にかけてくれている気持ちを」 美並は滲みかけた涙を呑み込んだ。「私は、裏切らない」「伊吹、さん」 わからないんですか、私はあなたをむちゃくちゃにすることができる。ここで何もかも奪うことができる。どんな汚い手段も使うことだってできる、私に未来はないんだ、もう守るものも信じるものも生きている意味ももう。 吐き捨てた有沢が歯を食いしばって震えている。「ならばそうやって」 美並はなお有沢を見つめた。「みっともなく汚く現在を使い潰して下さい」 吐き捨てる。「檜垣さんはさぞかし喜ぶでしょう、あなたも同類だとわかって。太田さんもあちらで両手広げて迎えてくれますよね、さすが相棒だって。あなたが見捨てた恋人も、安心するでしょう、失ってよかった相手だと」「あなたに何が!」 有沢が叫んだ。「あなたに何がわかる何がわかる何が何が何が!」 がばりとしがみつき美並を抱き竦めながら、有沢が怒鳴る。「痛いんだ、体中全部どこもかしこもずっと限りなく痛くて薬も効かない際限がないいつまで我慢すればいいんだいつまで頑張ればいいんだいつまで俺はいつになったら俺は死ねるんだ…っ!!!!」 叫ぶような泣き声が続いた。「怖い怖いんだ怖くてたまらないんだどうしたらいいんだどうしたら消えるんだどうしたらここから出ていけるんだどうしたら何も感じずに何も思わずに何も考えずに眠れるんだどうしたらどうしたらどうしたら…!!」 いきなりがたがたっと大きく震えたかと思うと、有沢は激しく唸って身を縮めた。「うぉおあああぅ」 すがりつくしがみつく抱き竦める、美並の体を粉々に砕こうとでもするように。そのまま震え続けながら啜り泣く有沢が、やがて次第次第に静かになっていく。 美並はじっと車の天井を見上げていた。 数十分、あるいは数時間たったのかもしれない。「……は、ぁ」 小さな吐息が耳元で漏れた。「………伊吹さん」「はい」「………怖く…ないんですか…」「……怖いですよ」「………」 のろのろと有沢が体を起こす。ようやく大きく息がつけて、美並が息を吐くと、有沢が深く俯いたままどさりと運転席に体を戻した。顔を覆う。「今なら…逃げられますよ」 呻くように呟いた。「もう、これ以上踏み込まなくてもいい…。私と檜垣でやります」「……『羽鳥』のことは?」「『飯島』と『羽鳥』の関係を突き止めれば、もう少しわかってくるでしょう」 今度は檜垣が居る。「『飯島』を締めれば、『羽鳥』に繋がる」 檜垣に気持ちいい死に様、見せるって約束しましたからね。「でも、もう少し」 付き合わせて下さい。 美並の声に有沢がびくりとした。「このままでは、京介を守れない」「………あなたは結構鈍感だ」「え?」 くすりと笑った有沢がぐしゃぐしゃになった髪の毛をかきあげながら横目で見た。さっきよりずっと落ち着いて、しかも静かな明るい光が瞳の底にある。「男が何を拠り所にしてるか、ご存知ない」 命を賭けて悔いなし。「そう思えさえすればいい」 なぜ警官になったか応えてませんでしたよね。「………優しい恋人や、温かな家庭より、俺には巨大な力を揮うことの方が楽しかった」 にやりと唇を片方あげる微笑は、今までの有沢にはなかった笑みだ。「そういう自分を正当化したかっただけですよ」 そしてもし、真崎さんがあなたの言うような男なら。「あなたに守られるより、あなたを守って死ぬことこそ本望」 そういう気持ちはわかりますか?「……それは」 ひょっとすると、自分のしている方向は間違っている、そういうことか。 美並が問いかけようとした矢先、有沢が片手を上げてことばを止めた。胸の携帯を取り出す。「ああ、もうすぐ帰る……え、何…っ」 鋭い視線を投げて有沢が美並にも聞かせるように繰り返す。「『飯島』が死体で見つかった、んだな?」「っっ」 すぐ、戻る。 有沢が頷くのに、美並も頷き返して、急いで車から降りた。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.26
コメント(0)
**************** 派手な物音に警戒していたらしい部屋の外の仲間達をさりげなく逸らせ、有沢は美並を送っていくと言い出した。「え、そんなこと俺がやりますよ」 不服そうに檜垣が唇を尖らせるのを、この人を送っていくのを『そんなこと』と言い出すような奴には頼めないだろう、といなして、有沢は美並を誘う。「随分遅くなりましたから」 それに、と充血した目を細める。「私もかなり疲れました」「なら、なおさら俺が」「お前は『飯島』についてもっとまとめとけ」 追いすがる檜垣を冷淡な響きで牽制、う、と引き攣る相手に、俺の命令に従うはずだな、とダメを押す。「っかりました、けど」 気をつけてください、その女。「やっぱバケモン…った!」「いいからもう黙っとけ」 ぱこりと一発頭を張って、有沢は先に立って向田署を出た。「…どこから、どうやって」「え?」「いや…」 パトカーを使わず自分の車を使ったのは、有沢にとっては不利になりかねないだろうが、美並の周辺を気遣ってくれたのだろう。確かに今へたに注目されては辿り着ける情報にも辿り着けない。美並は構わず有沢の好意に甘えることにした。「どこからどうやって、あんなことが見えてきたのか」 有沢は滑らかにハンドルを切りながら、目の端で笑う。「今もよくわかりませんよ」 どこからどうやって、あんな話になって、あんなことが明らかになったのか。「……檜垣があんなことを抱えてたなんて」 警察の身上調査はそれほど抜けていないものですが。「………見えると思っていなければ、見えないものかもしれないです」「え?」「………そこに何かがあると思っていなければ」「……………なるほど」 それは、どこかでずっと人を疑っているということですか。「それとも」 有沢が赤信号で止まり、前方を見据えたまま尋ねてくる。「自分の中にあり得る可能性ってことですか」「……そう、ですね」 美並もまた前方に行き交う人々を眺めながら応える。「自分の中にあるものだと思えば、見つけやすいかもしれません」 太田の中にあった複雑に入り組んだ闇と光。警察機構の中にある絡み合った光と闇。 全てのことは、所詮光と闇の曼荼羅にしか過ぎない、そう言い切るのは簡単なことだけど。「……なぜ、警察官になったのかと、檜垣に尋ねられましたよね」「はい」「あれを私も自分の中に尋ねていた」 何かを込めるように有沢がアクセルを踏んだ。赤信号でも渡りかけた男がうろたえた顔で身を引き、何かを怒鳴って見送るのが見えた。「私はなぜ警察官になったのか、と」 一度は自分と引き換えにしても惜しくない、そう思った相手を置き去って。 緩やかなカーブを曲がる。美並の家は教えていないが、車は確実に家へのルートを辿っている。「……何度か尋ねられたことがあったし、太田さんにもきかれたことがある。そのたびに、あたりさわりのない、口当たりのいい理由を口にしました」 世の中の役に立ちたい。困っている人を救いたい。犯罪を裁きたい。正義を貫きたい。「全部、嘘だ」 うっとうしそうに落ちてきた髪をかきあげ、目を細める、その横顔に今までにない柔らかな翳りがあった。「私は、逃げたんです」「逃げた?」「……」 美並が繰り返すと、軽く唇を噛み締めて、横目で見やってくる。「付き合っていた人は優しいけど脆い人で」 まっすぐで真面目で誠実で。 呟く声が掠れる。「私は彼女に応えたかった。真実、彼女を支えたかった」 でも、どこかで自分の中に潜んでるモノにも気づいていた。「狩人としての自分に」 住宅街に入る小道、人通りの絶えた町並みで有沢はそっと車を止めた。エンジンを切ったのを見て、ここからは歩いて戻れということかと助手席のドアを開けようとすると、ふいに手首を握られてぎょっとする。「あなたも、でしょう?」「え?」「あなたもまた」 前を凝視していた有沢が手首を掴んだまま、くるりと顔をこちらに向ける。「真実に辿りつこうとするんでしょう?」「っ」「それが誰の何を暴くことになろうとも」 真実を、知りたい。 有沢の瞳が真っ黒に見える。「今、私が何を知りたがっているか」 教えましょうか。「!」 握られた手首を強く引かれた。とっさに手を引き寄せ、ドアへ身を引こうとして固めた体をあっさり有沢の胸に呼び込まれ、そのままシートに押さえつけられる。「私は知りたい、あなたがなぜここに居るのか」「あり、さわさん」 重い。 想像以上にずしりとのしかかられて、美並は跳ね返そうとした力を抜いた。少し深めに倒されたシート、片手を取られ、もう片方の肩を掴まれ押さえられて身動きできない。腹筋で押し返せるような角度でも重さでもない。「同情ですか」 暗い瞳が嗤った。「欲望ですか」「私は」「真崎さんへの忠義立てが、こんな状態で通るとでも?」 なぜ、私と二人きりになったんです。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.25
コメント(0)
****************「なぜ、有沢さんのところに居るんですか?」 ちら、と檜垣は有沢の方を横目で見たが、相手が身動きしないのに溜め息をついて自嘲した。「組織ってやつです。あれこれ言っても安定してるでしょ、警察って仕事」「あなたは有沢さんが嫌いなんですか?」「……なぜ、そんなこと聞きたいんすか」「駅で」 有沢さんを引き止めたあなたの声は真実でした。「っ」「有沢さんの残り時間を一緒に生きよう、そう呼びかけているように聞こえた」「……だから?」 人間口先だけなら何とでも言えます。「太田さんは嫌いですよね? 太田さんを呑み込んで良しとしている警察も嫌い。では、有沢さんは?」「……馬鹿だと思ってます」 檜垣は視線を逸らせた。「残ってる時間が少ないんだから、こんなとこに居ないで、好きなこと、やりゃあいいんです」 女抱いたり、金使って遊び回って。「楽しいことやりゃあいいんです」 太田みたいなヤツのこと、いつまでも引きずってないで。「あちこち立ち回っていい人だなんて言われて、それなりに仲間内でうまいことやってるヤツなんか放っといて」 なんで一人で背負って、痛いの堪えて、いつ消えるかわかんない命を、そんな馬鹿なことに使ってんのか、わかんねえ。「……だから、どうするつもりなのか、見てやりたかった」 低く唸って檜垣は目を細めながら、上目遣いに有沢を見上げた。呼ばれたように目を開けた有沢が、冷えた目の色で見下ろす。「あんたがどこまで馬鹿やる気なのか、見届けてやりたかった」 『飯島』が『羽鳥』だって証拠はない。「俺だって、一緒に遊んでる間にちらっと話を聞いただけなんだ」 でも、あの『飯島』ってヤツでは器が小せえって気がして。「あんたなら、ほんとのことに辿りつけるって気がした」 なにせ、命がけですもんね。「けど」 くっ、と檜垣は笑いを噛み殺した。「も、おしまいっすよね、太田さんがなんで死んだのか、どうなったのか知りたかったから追っかけてたんでしょ」 その謎解きは済んじまった。「あの夜、俺はまだチンピラで『飯島』にくっついてふらふらしてた。コンビニ強盗に加わっちゃいなかったけど、遅かれ早かれやったでしょう。太田さんはお節介にも突っ込んできて、俺をあいつらから引きはがそうとした。これ以上、こいつを巻き込んだら、それなりの始末をつける、そう言ってライターも突っ返した。付き合いはもう終わりだ、お前らもそろそろ大人になれとか言っちゃって」 狡い大人の言い抜けだ。「『飯島』さんは頭にキた。約束だからって、俺はライターと一緒に落ちた記事を、言われた通り教えられた警官に渡しに行った。太田さんはそこに残った。俺の無事と引き換えだったんでしょ、あの人が縛られたの」 後はもうお定まりの出来事。「新聞記事にもまともなことは載ってなかった。誰もまともなことなんか確かめようなんてしねえし」 汚くて狡くて吐き気のするような世界。「まともなことなんて、突っ込んだら痛いだけっすよ」 なのに、あんたは突っ込んでくるから。「死にかけってのは強いっすね」 失うもんないからっすね。「けど」 俺にももう、失うもんなんて、ねえんです。「最低の、やろーだから」 ぎりっ、と歯が鳴る音がした。「だから」 睨み上げる、その視線を、有沢がより強い視線で睨み返す。「あんたの死に様を見せて下さいよ」 それを餌に生きてってやる。「うんと気持ちいい死に様、見せて下さいよ」 『羽鳥』が見せた、太田のような逃れようのない虚しくて寂しくて身動きできない無力な死ではなく。 声にならない声がそう叫んだように聞こえた。「でねえと、こんなくだらねえ世界、生きてられないでしょ」 でないと、呑み込まれる、意味のない命をただ貪るだけに生きている絶望に。 『羽鳥』が突きつけてくる、真っ暗な闇に。「ねえ、有沢さん」「………」「有沢さん…っ」 詰るように祈るように叫ぶ檜垣の顔にふいに京介が重なった。 教えて。 感じさせて。 この命が生きてるってこと。 生きている意味が確かにあると、美並が僕を愛することで教えて。「……『羽鳥』は『飯島』なのか」 有沢が低く尋ねた。 はっとしたように檜垣が目を見開き、首を振る。「ほんとのとこは、わかりません。ヤツはそうだと言ってるけど」「お前にはそう思えない?」「『飯島』はどっか甘いんですよ。『羽鳥』の命令はもっとクールっす」「別に居る、ということか」「……おそらく……っ」 有沢がふいに立ち上がった。しゃがみ込み、檜垣の襟を掴み上げて覗き込む。「見せてやる」「…え」「お前が満足するような死に様を見せてやる」 だから。「俺のためだけに動け」 俺の命令だけ聞け。組織のために生きるな。「それができるなら」 ついてこさせてやる。「……は、いっ」 檜垣の顔がみるみる紅潮し、綻ぶような笑顔が広がる。同時に有沢の顔に浮かんだ静かな殺気に、美並は少し、見惚れた。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.24
コメント(0)
****************「……」 檜垣が緩やかに目を伏せ、腕を組み、そろそろと背後にもたれた。「檜垣…」「教えてもらえませんか、檜垣さん」 美並は相手の周囲に揺らめく黄色の炎を見つめた。「なぜそこまで太田さんに怒ってるんですか?」「…怒ってる?」 檜垣が? 有沢が困惑した顔になる。「……………オカルト巫女ってニセもんばかりかと思ってたけど」 やるじゃん、あんた。 檜垣は冷笑した。「あの場に……居た、のか」 有沢が呆然とした顔で囁く。「ガキんちょでしたけど」「あの、中に」「『飯島』さんは面倒見はよかったっすよ」 檜垣は平然と嘯いた。「でも太田さん刺したのは俺じゃないっすから」「けれど、刺されることは、予想してた…?」 有沢が苦い声で唸る。「まあね。いろんな裏取引も知ってたし」「お前が…『羽鳥』なのか…?」 じわじわと暗い怒りを溜め込みながら有沢が体を起こす。「お前が味方の顔をして、俺達を」「誤解ですって」 檜垣がひょいと肩をすくめる。「俺がやったのは、言われた通りに太田さんのライターを受け取っただけ。その時一緒に落ちた記事、今更だけど、妹の顔が移った写真じゃむちゃくちゃできないでしょ」「妹…?」「大園ひろみ。俺は母親に引き取られたんで、檜垣になってますけど」 血は繋がってる。「………やめろって言われましたけどね。こんな奴らの仲間になってもいいことないぞって。仕事ドジして妹死なせた野郎、しかもほどほどに『飯島』さんと仲良くやってる腐った警官が、何説教してやがるって。俺もガキだったっすね」 つまり、檜垣は昔太田が絡んだ事件の被害者家族で、太田を恨んでいた。『飯島』と一緒にうろうろしていたのを太田は見つけ、自分に責めもあることだからと有沢を追い払い、檜垣を『飯島』から切り離そうとしたということか。「あいつはそのうちどこかで吐く、特に有沢さんには要注意、そういうことで太田さんを始末しようということになったみたいだけど」 俺は知らねえっす。「そういうのに『羽鳥』さんは下っ端を関わらせねえから」「『羽鳥』……『飯島』が『羽鳥』なのか」 のっそりと立ち上がった有沢に檜垣は薄笑いする。「そうっすよ。けど、あんたには手を出せない」 俺は犯罪を犯しちゃいない。『飯島』が『羽鳥』だという証拠もない。「ライターを盗ったじゃないか」「違いますって。受け取っただけ。出したのは太田さんすよ」 まあどっちでももう証明はできないっすけど。「部屋にライターを戻したのは」「ああ、あの時太田さんの下で働いていたヤツ……でももう警察辞めてクニ帰ってます」 だからさ、もう諦めて。「俺と一緒に真崎大輔の方、やりましょう、有沢さん」 檜垣がうっそりと顔を上げて笑った。「残った短い命、何かの結果を残しとかないと、意味ない………っぐ!」 有沢の一撃は檜垣の顔をまともに捉えた。椅子から檜垣が吹っ飛び、壁に叩きつけられ崩れ落ちる。「……伊吹さん…」 掠れた声が、殴られた檜垣を伊吹に見せまいとするように、背中を向けた有沢から響いた。「俺は今」 泣いていいのか、怒っていいのか、わかりません。「太田さんを信じる方が正しいのか、信じない方が正しいのか」 そもそも……正義なんて、この世界にあるのかどうか。「信頼、なんて、どこに、あるのか」 この世界は、ほんとに生きるに価するんですか。 滲んだ声が呻くように尋ねた。 檜垣の犯罪は立証されない。 『飯島』が『羽鳥』だということもまた。 静まり返った部屋の中で、有沢は無言で目を閉じている。 自分の体の中に広がる病巣と同じものが、自分の属する組織の中にも広がっていると理解した有沢は、流れ出た鼻血をハンカチで押さえつつ、居直ったように床に座り込んでいる檜垣に目もくれない。伊吹に問うて、その答えを求め切らないまま椅子に座り、そのまま小一時間が経過している。「……檜垣さん」 犯罪者にさん付けっすか、お優しいこったね、オカルト巫女さん。 檜垣は美並の声にくつくつ嗤った。「もう一つお尋ねしていいですか」「いいっすよ」 もう隠してることはねえし。「そうですか?」 美並は静かに続けた。「じゃあ教えて下さい。なぜ、あなたは警官になったんですか?」「え?」 一瞬瞳が揺らいだ。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.23
コメント(0)
****************「有沢さん、そうやって自分責めても」「自分を責めてるんじゃない」 ふいに有沢はきつい声で遮った。「違うんだ、檜垣」 俺は何かを見落としている。 厳しい顔で言い放ち、有沢はじっとライターを見つめ、ゆっくりと取り上げた。 指先で弾く。 チィンッ。 蓋は澄んだ高い音を響かせて開く。 もう一度。 チィンッ。「……」 ぴく、と有沢が体を震わせた。 もう一度、弾く。 チィンッ。「スターリング、シルバー」 ぼんやりと呟く。「そうか……この音だったんだ」「は?」「俺と話していた太田さんが、ふいに振り向いたのは、この音を聞きつけたんだ」 その音の先に誰かを探した。よく知っている、誰かを。「だからすぐに、あの雑踏の中で『飯島』が見つかったんだ……」 なのに、その瞬間、太田さんは、あ、と小さく声を上げた。「驚いた……一瞬、本当に驚いた」 なぜだ? 『飯島』が居るのは知っていた、『羽鳥』と組んでいるのを知っていたなら驚くことなんてない、振り向いた自分をごまかして、素知らぬ顔で別の場所に俺を誘導すればいい。「そんなことは簡単にできた」 俺はのぼせて粋がっていた甘ちゃんだったから。「別の方向を指差して、『飯島』が居る、そう言えばよかった」 なのに、俺が気づくまでごまかせなくて、しかも自分で追うとか言い出して。「なのに、俺を帰らせたのは、俺が一緒だとまずいと判断したからだ」 なぜ?「なぜ、あいつがここに……そう太田さんは驚いてる」 美並は静かにベルトを置いた。鮮烈な黄色、それはもう太田の色として感覚に刻んだ。その目で見れば、有沢の気配にその黄色は確かにある、そして。 ゆっくりと檜垣を振り返った。 じっとこちらを凝視してる檜垣の童顔、その瞳の奥に揺らめく赤い気配、だがそれよりも鮮やかに背中に踊る黄色の炎が何を意味するか、確かめたくて問いかける。「檜垣さん」「……」「あなたは太田さんを知っていますね?」「話は聞いてますよ」「檜垣は太田さんが亡くなってから入ってるんです」 取りなすような有沢の声に首を振る。「いえ、違います」 目を細めて相手を見つめた。「檜垣さんは太田さんと直接会ったことも…話したこともあるはずです」「え…?」「違いますか?」「……」 檜垣は応えないまま二人を眺めている。「太田さんはあの日もライターと記事の切り抜きを持っていたんじゃないですか?」「……」「誰かがそれを持ち去って、始めから持っていなかったように太田さんの部屋に戻した」 それができるのは警察官か、警察とパイプのある誰か。「誰がということももちろん大事ですが、どうしてかということがもっと大事ですよね」 なぜライターを戻さなくちゃならなかったか。「それが何かを連想させることを恐れたから、と考えてもいいんじゃないでしょうか」 ちょうど今の有沢さんのように。「煙草に火をつける道具としてではなく、ある音を合図として鳴らす楽器として使うことがあるだろうかと」 檜垣が目を細める。「それでも記事を持ち去ったことがよくわからない」 けれど、ライターを持ち去ったもう一つの理由があるとしたら、想像することもできます。「血で汚れるのを嫌ったからじゃないですか」 有沢が小さく息を引いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.03.22
コメント(0)
****************「…なんか予感があったとか」 檜垣が溜め息まじりに呟く。「覚悟があったとか。勘のいい人だったんでしょ?」「覚悟?」 有沢が訝しげに檜垣を振り向く。「何の覚悟だ?」 不満そうに続けた。「あの日、俺達はたまたま『飯島』達を見つけたんだぞ?」 第一、『飯島』を追っていたのは俺だけで、太田さんは引きずられる形だった。「だからそれは」 言いたかないけど、太田さんが誰かと通じてた、会う約束だったってことじゃないんすか。 檜垣が解説する。 有沢が不愉快そうな顔で応じた。「太田さんが警察を裏切ってて、誰かと、例えば、あそこに居た『羽鳥』と会う約束があった、としても」 なぜ、ライターはともかく、ひろみちゃんの記事まで置いていかなくちゃならない?「えーとだからそれは、その、ほら、犯罪の加害者側に立つようなことを自分がするから罪悪感でとか」 檜垣がしどろもどろになって有沢の突っ込みに口ごもる。「もう一つの可能性は」 美並は上着を置いて、蛇革のベルトを手に取った。本物ではなく、合成皮革系のしかもビニールじみた安っぽくてぺらぺらしたベルトだ。「それらが『置いていった』のではなく『持ち去られて戻された』ということは…っ」「え…っ」 ぎょっとしたように固まる男二人をよそに、ベルトを手にした瞬間、指先から走り上がった鮮烈な黄色のイメージにあやうくベルトを手放しそうになった。「持ち去られた?」 有沢が繰り返した。「伊吹さん、あなたは太田さん以外にあそこに『羽鳥』への内通者が居たというんですか」「ちょっとちょっと、やめましょうよ」 檜垣が慌てて割り込む。「そういうこと言い出したら味方なんていなくなっちまう」 何だろう、これは。 美並はベルトをしっかり握って目を閉じる。 稲妻のように閃く黄色。こんなものは見たことがない。「伊吹さん、太田さんはひょっとしたら、裏切ってたんじゃなくて、あ、でも、姫野さんに俺を引き戻す工作は依頼してるから」「だからさ、いいかげんこの女の言うことに振り回されんのは」「……驚愕、だ」「は?」「驚きですよ」 美並は目を開けた。「太田さん、凄く驚いたんです、きっと」「驚いた?」 有沢が顔を歪めた。「私が『羽鳥』を含んだ数人を追いかけようとしたからでしょう?」「たぶん、違います」 ベルトのぺたんとした薄っぺらい感触は視界を埋め尽くすような黄色の閃光で満たされている。「なぜここに」「え」「なぜここに……いや……なぜあいつが、そんな感じです」 そうだ、そういう種類の驚愕だ、と美並は確認した。 太田はなぜここに、あいつが、そう衝撃を受けている。それがこれには刻まれている。 それはひょっとすると、この後に絶命してしまったから、それ以上の感情を重ねることができなかったからかもしれない。 人が手にする物には、ひょっとすると、それを手放す瞬間の一番強い感情や想いが刻まれるのかもしれない。 美並は突然そう思った。「……確かに」 有沢が暗い声になった。「太田さんはそう言いましたよ、そう言って………そう、言って……?」 ふいにまた有沢が考え込む。「なぜ、そんなことを言ったんだろう……?」 あの時、俺は『飯島』には気づいていなかった。「俺は事件に納得できていなくて、『飯島』を追ってはいたけれど、あの時『飯島』を先に見つけたのは太田さんだったんだ……」 もし、太田さんが奴らに内通していて、俺の追跡を阻むつもりだったのなら、わざわざあそこで飯島の存在を知らせる必要なんかなかったはずですよね?「有沢さん、太田さんを庇いたいのはわかるんすけど」 檜垣が頭を掻きながら唸る。「太田さんが姫野に細工させたのは確かなんでしょ? 警察に『羽鳥』がらみの内通者が居て、それで俺達はいいように振り回された、それも確かだ。太田さんがその内通者だったかもしれなくて、そこでモメたか何かして太田さんは『羽鳥』のヤツらに殺された、そういうことじゃなかったんすか」 つまりは内輪もめってことじゃなかったんすか。「太田さんが殺されて、内通者は居なくなって、それで『羽鳥』も動きを潜めた。幸い、そっちは被害額もたいしたことない、コロシやブッコミで挙げるほども動けねえ、もうそれでいいじゃないすか。それが納得できねえってんなら、真崎大輔を締めて、そっちでワルいヤツをふん捕まえとく、そういう納得もアリでしょ?」「…待って…待ってくれ」 有沢が何かを思い出そうとするように頭を抱える。「あの時、俺はどうしてあいつらに気づかなかったんだ? なぜ太田さんはあいつらに気づいたんだ?」 ゲームセンターで、賑やかで騒がしくて、行き交う人も多かった、グループで流れていたのは何人も居た。「太田さんはなぜ、あいつらに気づいた…?」 **************** 今までの話は こちら
2026.03.21
コメント(0)
全5187件 (5187件中 1-50件目)
![]()
![]()
