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1,殺傷兵器の輸出解禁について これほど重要なことが、ごく一部の「権力者」によって決定されるということは大きな問題だろう。歴史に学びつつ「方針の維持も含めてどのような選択を行うべきか」幅広い議論をすっ飛ばすべきではない。東京新聞の記事で青井未帆が述べているとおりだと考える。殺傷兵器輸出解禁「おかしいと言える正気を保っていけるか」 青井未帆教授が憂慮する「国民の議論飛ばし」:東京新聞デジタル〔ポイント〕 日本は長らく、防衛装備品の輸出をほぼ全面的に禁じてきた。Q なぜか? 大切なことは?A 背景には、かつて朝鮮戦争やベトナム戦争に日本製の武器が使われ、多くの人が亡くなった歴史がある。国民に共有された「それでいいのか」といった倫理的な問題意識が背景となって「武器輸出三原則」が打ち出され、定着した。重要な国是ともいえる方針の変更に際して「国民の議論飛ばし」は問題である。現状について「おかしいと言える正気を保っていけるか」が大切だ。〔紹介するポイントは以上〕Q 日本政府の言い分は?A 端的に言えば、国内「防衛産業」育成のための市場拡大が目的Q 問題点は?A そもそも「防衛産業(軍需産業)」は戦争や紛争、深刻な国際緊張によって潤う部門であること。事実、これまでも巨大な軍需産業は国家(政府)と結びついて莫大な「軍事費・防衛費」を獲得してきた。戦時中の「財閥」もいい例だ。〔近年の例〕ウクライナ危機に色めき立つ世界の巨大軍需産業 戦況長期化で利益を得るものは誰か | 長周新聞ウクライナ侵略で潤う米欧軍需産業、ロシアの脅威で「戦後」も好況か- CNN 実際、第二次大戦後においても軍需企業は国際緊張や紛争を助長してきたのではないか。具体例として、軍需産業を重要な基盤とする米国は、第二次大戦後に海外で戦争・紛争を引き起こすことで他のいかなる国よりも多くの人々を殺傷しているが、その背景に存在する「軍産複合体」についてアイゼンハワーなども警告してきた。(参考;池上彰特番の資料一部(および書籍)) 戦争のみならず、「内政干渉」目的に莫大な資金を投じて世界各地の紛争と混乱を引き起こしている。(遠藤誉作成の一覧表を参照) 以上の米国の例はきわめてわかりやすいが、まさにその米国と深く軍事的に結びつくことで「殺傷兵器の輸出を解禁された日本の防衛産業(軍需産業)」はどのような役割を果たすだろうか。歴史に照らしても明らかだと思われる。「軍民両用品」開発を援助するために一兆円以上の税金を使うなど、言語道断であろう。 軍民両用品を国が試験導入へ枠組み創設方針、新興企業育成…ドローンやAIに1兆円規模 PDF〔仮に、巨大な軍需企業(および軍産複合体)がなければ、冷戦終結後にNATOを含む軍事同盟は解体していただろうと私は考えている。〕2,エネルギー補助政策について これについては『東洋経済』の記事(一部)をそのまま紹介しておきたい。 ホルムズ海峡封鎖下の日本経済、高市内閣がこの夏以降も「エネルギー補助金」を続けるとどうなるだろうか | 政治・経済・投資 | 東洋経済オンライン 高市内閣は70年代の欧米と同じ轍を踏んではいけない ここで思い出すべきは、70年代の石油ショックの経験である。エネルギー危機の際は、価格メカニズムを活かすことが重要だ。値段が高くなれば需要は抑制され、供給は伸びる。つまり足りないものは大切に使うし、代替品も出てくるというわけだ。70年代の2度の石油ショックの際、日本はエネルギー価格の上昇を容認し、結果的に省エネ技術が進化した。そして80年代には、「燃費のいい日本車」が世界を席巻したのである。 逆に当時の欧米は、消費者保護のために補助金を出すなどしてエネルギー価格を抑制した。その結果、財政赤字が拡大し、高金利の下でインフレが止まらなくなった。それを克服するためには、アメリカのポール・ボルカー議長(任期79〜87年)の下での荒療治が必要であった。 今の高市内閣も、確実に当時の欧米の方向に進んでいる。〔紹介は以上〕 上記は全く妥当な主張だと考えるが、どう思われるだろうか。(なお、池上特番の前後の記述については4月27日時点で加筆・修正した。)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2026.04.25
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「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」2月12日の記事ー改訂諮問の年に③「学習評価」の根源的な捉え直しを-は考えるべき重要な問題提起を含んでいると読みました。心身の余裕が乏しかったこともあり反応できていませんでしたが、このたびごく簡単にコメントし、「学習評価」・「教育評価」に関する過去の拙文を紹介します。> 1)学習評価は、何のためにするのか――。教育の専門家である教師に、そうした問いをするのは愚問だろうか。> 2)しかし定期テストの廃止すら世間を騒がせるだけでなく教育現場にも賛否両論を巻き起こす状況を見るにつけ、本当に評価の専門性が浸透しているのか疑わしく思っている。> 3)評価のための評価では、自分たちの首を絞めるだけの徒労でしかない。> 4)そのための形成的評価〔註〕と、授業評価こそ重視されなければならない。もしもその障害になるとするなら、見直されるべきは指導要録の制度や入学者選抜の方だ。> 5)世間にも、数値による評定信仰がまかり通っている。教育界自身もそうだろう。それを乗り越えなければ、本当の意味で誰一人取り残さない教育は実現しまい。〔註:教育目標に照らして、児童生徒の学習が成立しているかどうかを確認しながら学習指導を行うという意味での「教授・学習過程で行われる確認作業」を「形成的評価」と呼ぶ。〕 以上、引用した項目に番号を勝手につけました。いずれも全くもっともな指摘だと思います。私の場合(幸運にも)「内地留学」の期間(一年)を得たこともあり、教育評価を学ぶ機会に恵まれたのですが、そうでなければ「評価の根底的な問い直し」をめざした教育学の試みなど理解しないままここに至った可能性は大きいと考えます。(一般的にも「評価の専門性が浸透しているのか疑わしい」と感じられるのは当然のこと。) また、4)では「形成的評価」の重要性が指摘されていますが、全くそのとおりでしょう。さらに言うと「子どもは、学校卒業後も伸びていかなければならない存在」であるという意味においては、子ども自身に「形成的自己評価の力」(目標に照らして自らの学びと成長を確認しつつ、学びの在り方を自身で問い直していく力)をつけていくことが大切だと考えます。 以下の二つは「教育評価」「学習評価」を学び要約した内容と、それをもとにして書いた「論文」です。よろしければご一読ください。 2011.12.30 学力とは何か? ~中内敏夫『教室をひらく』~ 2012 年 4月 あるべき学校評価と教育実践評価 以下は「あるべき学校評価と教育実践評価」の抜粋・紹介です。 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。 しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」① そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。② このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕 従来用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」③として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。 1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる4)「教材精選」の目安が得られる など。 もちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。3、評価を行う力 ~教育実践評価の視点~ 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単にいうとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。⑦ 中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔a 客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、b 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、d 観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕⑧ このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「(評価をするための)鑑識眼」は洗練されていく。⑨このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて)〔以上抜粋、以下略、関連する註のみ転載〕①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁 戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁④中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁(※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。⑦中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁⑧田中耕治『教育評価』岩波書店 147~162頁⑨2024年3月付記 「洗練された鑑識眼」を身につけ、学習の成果を何らかの形で評価・表現し子どもたちに返していくことは、現状において容易ではないという実感はある。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.03.24
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『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』(亜紀書房 福田誠治著)の紹介記事を書いてみたいと思います。〔なお、福田誠治氏は『競争しても学力行き止まり』(朝日新聞社)の著者でもあります。この本についての紹介記事は以前、本ブログで連載いたしました。〕 さて、『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』には様々なデータや授業風景の写真が掲載されていますが、最初に私が興味深いと思った図表と関連する記述を紹介いたします。〔『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』37頁より〕 表1-2『PISA2003における得点格差と平均得点の国際比較』で見ると、フィンランドは、どの分野でも得点の散らばり、つまり国内の学力格差が小さい。まったく逆に、日本はどの分野でも得点の散らばり、つまり国内の学力格差が大きい。(・・・)〔同 37頁〕 OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長は、PISA調査から次のことが言えるとしている。 「OECD地域の生徒の社会的背景と成績の間には強い関係があるということ。これにはがっかりさせられます。というのも、私たちは理想的には、その社会的背景にかかわらず、すべての生徒に平等の機会を与えることを保障したいと考えて努力してきたわけです。しかし、実際には(・・・)どのような家庭の下に生まれたかが大きく問題になり、それが学校での成績に大きな影響を持っているのです」 「フィンランドは、全体的な成績が非常に良いのですが、もっと重要なことは、他の多くのOECD諸国に比べ、社会的背景の影響がずっと小さいということです。教育制度がすべての生徒に均等の機会を与えることに成功しているわけです」〔同 38頁〕 習熟度別のクラス編成も、フィンランドでは1985年から廃止されている。したがって、学校や学級はさまざまな学力の子どもたちが混じり合う「統合」というやり方である。 フィンランドでは、統合学級で平等な均一・一斉授業が展開されたわけではない。ましてや、個別に対応するために習熟度別編成を選んだわけでもない。フィンランドでは、「統合」でありながら「個別」に指導するという教育方法で対処することにした。平等と個別のニーズとの微妙なバランスが、専門家としての教育者が編み出す教育方法という知恵(専門性)によって解決されている。〔同 42頁〕〔コメント〕 学力テストの結果を見るときに、わたしたちは「平均点がどうか」ということにとらわれがちです。しかし、社会的に排除される個人を生み出さない(参考:イギリスのニューディール政策)、という観点を重視すれば「日常生活に必要な“学力”を獲得できない生徒が何%存在するか」ということの方がより重要なのではないでしょうか。 その点、いわゆるPISA(OECDが実施する国際学力調査)の結果、学力世界一といわれるフィンランドの教育についても、平均点の高さ以上に「学力格差が小さい」ということが注目できます。言い換えるならば、フィンランドでは「高学力と教育における平等が両立」している点が素晴らしいと思うのです。〔PISA:OECDが実施する国際学力調査で「これまで何を学んだかではなく、これから何ができるかを測ろうとした」ものだといわれる。つまり、「学んだ知識や技能を使って自分が社会で直面する諸課題を解いていく力」を測定しようとしたもの〕 PISAで高得点のフィンランドの子どもたちは「社会の中で生きていくための実践的応用力、思考力、表現力」において優れた力を蓄えている、ということになるわけですが、高得点をあげることができた理由は何でしょうか。しかも、なおかつ学校間格差がほとんどない、国全体の学力格差が極めて小さい、という「教育本来の目的からしても奇跡的に好ましい結果」を出すことができているのはなぜでしょうか。 上記引用部分からは「“統合”でありながら“個別”に指導する教育方法」が重要なポイントであることが読み取れます。しかし、「学力世界一」「学校間格差がほとんどない」という「結果」(高学力と平等の両立)を生み出したような教育方法、はいかにして構築され共有されているのでしょうか。 フィンランドの教育制度を中心に次回はその問に答えてみたいと思います。2に続く 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2009.02.01
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伊藤詩織さんの映画をめぐる紛糾にドキュメンタリー制作者たちが緊急提言! ヤフーニュース(上記)で公開されましたが、弁護士の観点とは異なる角度から、重要な議論がなされていました。 参加者は、『国葬の日』などの監督作品で知られる大島新、東海テレビで長年『ヤクザと憲法』や名張毒ぶどう酒事件を追った一連の映画を作ってきた阿武野勝彦、『i-新聞記者ドキュメント』や『福田村事件』などの監督・森達也、そして『Little Birds-イラク戦火の家族たち-』などで知られる綿井健陽。座談会の記録は、『創』誌面で16頁に及ぶ長いもの(Yahoo!newsもかなり長い)ですが、さらに要約して紹介します。〔以下、紹介〕伊藤詩織さんの映画『Black Box Diaries』は、米アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に日本人の監督作品として初めてノミネートされ、海外では数々の賞を受賞し、上映・配信もされているにもかかわらず、日本では公開の目途も立っていない。 2024年10月、2025年2月20日に外国特派員協会で、伊藤さんと一緒に裁判を闘ってきた旧弁護団がこのままでの映画公開は人権侵害にあたるという、これまた異例の記者会見を行った。一連の経緯や問題とされている事柄は、ドキュメンタリー映画の本質に関わる、深刻で重要な意味を持っている。⇒ 急きょ、ドキュメンタリー映画監督やプロデューサーで議論し、提言を出そう⇒ 都合のついたメンバーで2月23日朝にオンラインで緊急討論を行った。 参加した全員が映画『Black Box Diaries』の海外版を観て2時間に及ぶ議論を行う。3月7日発売の月刊『創』(つくる)4月号に掲載。このヤフーニュースでの公開は、少しでも早く多くの人に議論の素材を提供することが目的。 一連の問題は法律に関わる面もあるが、ドキュメンタリーの本質に関わる事柄だけに、制作・表現の現場を踏まえた意見表明や議論が大切だと思う。以下、ドキュメンタリー制作者らによる議論と提言。※ 伊藤さんの映画がすぐれた内容であることは全員の意見が一致当事者同士の話し合いや必要な対応を経て、問題がクリアされたうえで、日本での公開が早急になされることを望みたい。Q この映画をめぐって何が問題となっており、それについてどう考えるべきなのか。以下の議論をぜひ参考にしてほしい。「欧米スタイルのとてもよくできた作品」――伊藤詩織さんの映画『Black Box Diaries』とそれをめぐる大きな議論は、ドキュメンタリー映画にとってとても深刻で大事な問題を提起している。大島 『Black Box Diaries』は、制作チームの力がとても大きい。エモーショナルかつドラマティックな構成で、観る人の感情に訴えかけるような作り。ジェンダーの時代に世に問うべき映画だ阿武野 性被害者が監督として自分を描いていくドキュメンタリーは初めて観る。世に問うべきもので、映画として生まれてほしい。この間の様々なやりとりや記者会見にも「人間とは、社会とは」を問うドキュメンタリーの要素が満載だった。「ジャーナリズムとドキュメンタリーの混在」森 今の騒動については、一言で言えば「ジャーナリズムとドキュメンタリーのロジックが混在してしまっていること」が大きな問題。ジャーナリズムとドキュメンタリーの最大の違いは優先順位。公益性や社会正義を優先するのがジャーナリズム。キュメンタリーは自分の主観、思いや感覚を優先する「作品」。 捜査官の話、ホテルの映像、タクシー運転手…。タクシー運転手の映像はどう見ても撮られることを承諾しているが、その後に連絡が取れなくなったらしい。 伊藤さんが無断で西廣さんの映像や音声を映画に使っていたというのも、そのぐらいはやるだろうと思っている。「人としてどうか」という議論と、作品としてどうか、ドキュメンタリストとしてどうかというのは別だ。僕だって作品だけで言えば「人としてどうか」なんていくらでもある。望月衣塑子さんを撮ったドキュメンタリー映画の中では、法廷の廊下を隠しカメラで撮り、金平茂紀さんとか神保哲生さんとかも承諾なしで撮っている。電話の会話もそのまま使っている。(信頼関係って言葉は好きじゃないけど、多分彼らは抗議しない。)ケースバイケース。しっかりとラインで分かれているわけじゃなくてグレーゾーン。 今回の伊藤さんの「間違い」について、いいか悪いかでいえば良くない。人としてもあるいはジャーナリズムとしても全然これは良くないが、森は使うかと言われたら、問題とされている映像については、全部使う。ただ使い方はもう少し考える。あまりにもそこは無防備すぎた。僕らドキュメンタリストはしょっちゅう自分たちを「鬼畜」と表現、自嘲するように、時には人を傷つけることを承知で作品を優先する瞬間がある。阿武野 ホテルの映像、捜査官A、タクシー運転手。実は僕も全部使うだろう。なぜならいずれも欠かせない映像だと思うから。そして、使えるようにしていくプロセスはおそらくある。「プロデューサーやスタッフとの連携が…」森 ジャーナリズムや法の論理から言ったら、伊藤さんの編集は一方的でアンフェアだと西廣さんが感じることは当然だが、自分が感じたことを様々な素材を援用しながら再構成するとドキュメンタリーを定義するならば、自分だってやったかもしれない。綿井 この映画に限らず、ドキュメンタリーは、塀の上を歩いていて、塀の外と内のどちらに落ちるか、無事渡り切れるだろうかみたいな緊張感が常にある。大胆な撮影も時にするが、落ちないように渡れるように最大限の慎重さも保つ。そうした意識が今回は残念ながら薄いように見える。森 塀の上という意味では、ジャーナリズムにもその要素はある。例えば沖縄密約問題における西山記者のように、ペンタゴンペーパーズにおけるニューヨークタイムズやワシントンポストの姿勢のように、権力監視という機能を果たすためには、時にはその権力側が作ったルールや規制を踏み越えなくてはならない。ジャーナリズムの場合は、そうした逸脱の内在論理として、できる限りを社会正義の実現や公権力の看視や公益性の方向に尽力すべきと思うけど、ドキュメンタリーはだいぶ違う。「ホテルの映像使用をどう考えるか」森 ホテルの映像使用について、ホテル側が恐れているのは、客のプライバシーを撮った映像を求めがあったら「はいどうぞ」と渡してしまうと思われるのがダメージだということ。西廣さんからしたら、彼女も裁判以外には使わないという誓約書に連名でサインしているから弁護士としては絶対に看過できない。阿武野 ただ、ホテルの映像は、この映画の中で欠かすことのできないものだ。映画の成立不成立の鍵。そこまで考えてくると、相当根深い対立になっている。 もう少しいうと、ホテルのロビーは、パブリックなスペース。そこに防犯ビデオがあるというのは、犯罪を防止するため。犯罪に繋がっていく様子がそこに明確に映っているから裁判の証拠として採用されたわけで、映画の中で最も欠かせない映像素材の一つ。防犯目的であれば犯罪行為があった場合、映像はニュースや映画等で使われる可能性がある。むしろ犯罪防止の面で監視が徹底しており、安心安全誠実なホテルだと示せる。綿井 ホテルの映像を修正版で全部削除するというのはあり得ない。ニュース番組のディレクターたちに防犯カメラの事情を聞いたところ、殺人事件が起きたら防犯カメラの映像は、どのテレビ局もニュースで放送することが多い。阿武野 コンビニ強盗などは防犯ビデオ映像が出てくる。犯人逮捕に向けて警察が情報提供を促すために広報する、そういうことが日常的に起こっている。綿井 刑事事件は不起訴だが、民事では伊藤さんが勝訴で確定している。ホテル入口という極めて公共性が高い場所で起きた行為であって、訴訟でも確定していて本人が映っているような今回の場合、ホテル側は映像使用を例外的に認めるべき事例だと思う。「曖昧な部分がドキュメンタリーの本質」森 映像の了解を得るために事前に見せるべきと主張する人もたくさんいる、僕は基本的に見せない。特に被写体に見せていたらドキュメンタリーは成り立たなくなる。それは僕のドキュメンタリーの定義。今回こういう議論になって、その辺りの曖昧な部分をクリアにすることは悪いことじゃないが、その曖昧な部分がドキュメンタリーの本質そのものでもあるので、その領域に強引に線を引かれてしまうことにすごく危機感を持っている。この場合にはこうすべきだみたいなことがルール化されてしまうと、ドキュメンタリーは窒息してしまう。綿井 外国特派員協会の会見の時もそうだが、海外メディアは、「なぜこの映画が日本で公開されないんだ?」「元弁護人が妨害してるのでは?」「伊藤さんは何か法に触れる行為をしたのか?」といった疑問を投げかけている。彼らは基本的に、この映画の中では防犯カメラを出すのは当然だし、早く日本で上映すべきという捉え方。「公開すべき映画だし重要な作品」森 公開すべきだと思う。重要な作品だ。綿井 これまで海外映画祭で上映やネット有料配信されている版については、当然契約書も交わして、販売売上も発生している。それを今から封印や販売停止するのか、できるのか。伊藤さんや現在の弁護人は、「修正版」ではなく、「最新バージョン」という言葉を2月20日付の声明では使っている。森 そう考えたらもう修正には意味がない。だからグレーゾーンのままでいてほしい。ドキュメンタリーの現場にいる者としてこの騒動は、早く終わってほしい、が本音。「伊藤さんと旧弁護団の関係修復を」阿武野 2月20日の弁護団の会見の中で、このまま上映された場合に何か実害があるかという質問に、「実害がある、人権侵害だ」と弁護団は応えている。綿井 この映画が日本でどう公開されるか。そこには、伊藤さんの今後のジャーナリスト生命もかかってくる。映画の修正版の制作・公開はもちろんだが、自身の言葉と行動で説明する機会を自ら改めて設けて、答えなければならない。 (進行役) これだけ大きな問題になってしまったから、この映画についてどういう落としどころにするかは大事。ドキュメンタリー映画をめぐって将来、マイナスにならないような解決にしないといけない。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2025.03.09
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6月1日のサンデーモーニングで「国家情報局」と「国家情報会議」(今国会で法案が成立)に関わる問題点(懸念される点)がわかりやすく報道されていた。コメンテーターである荻上チキの発言、および国会における伊勢崎賢治の発言を中心に(前半Q&A方式で)要約・紹介したい。 政府によると「国家情報局」「国家情報会議」新設の提案理由は「日本政府の情報力強化」であり「外国勢力からの偽情報の拡散に対抗」し、「友好国との機密情報の共有など」をはかるためであるという。Q これまで日本には情報機関や諜報機関がないと言われてきたが本当か?A 「市民の監視」を含めた 情報収集は行われてきている。 政府は市民によるデモの監視・ 個人の監視につながることはない、と主張するが、これは事実誤認。 (例):公安警察・公安調査庁は従来からデモの(取材する人も含めて)監視をしてきた。Q 野党から出された危惧や提案内容は?A 情報を一元管理するために新設された「国家情報局」で(現実に収集されてきた情報を)どのように使うかについて、監視をする仕組みはどのように担保されるのか?(「権力の乱用、情報の恣意的な利用にブレーキかける制度設計を!」という提案)Q 政府(総理)の応答は?A そのような市民の監視は想定されていない、と返すばかり。* これは全く答弁になっていない。「市民の監視を想定しているかどうか」を問いかけているのではなく「情報悪用の歯止めをどうするのか」、という点を問題にしているのだ。全く質問に回答せず、議論をかみ合わせていないが、そのような実態が放置されたまま法案が通り、その先の対外情報局(日本版CIA)創設やスパイ防止法制定に進もうとしている。 Q スパイの監視が主要な目的で国民監視をするものではないという政府の主張は?A これも不十分だ。そもそも外国の「スパイ」だけを監視することはできず、(当局が)スパイにつながっているのではないかと疑っている個人も監視されることになる。(疑わしい個人を当局が勝手にリストアップして監視することになる。これにブレーキをかけるためには何らかの制度設計・法整備が必要である。)Q 国家情報局が、望ましい形で働く方向性とは?A 政府(政権中枢)にとって不都合な情報も調べ上げ、報告すること* 「仮に総理大臣にとって不都合な情報を国家情報局がつかんだ場合、その情報は報告されるのか秘匿されるのか」という伊勢崎賢治議員の質問に対して、高市総理の答弁は「忖度すべきではなく、報告すべきだ」ということ。 その後の、伊勢崎議員の発言は以下の画像の通り。 「政府に批判的な国民への監視を恒常化・拡大する組織」にしてしまうのか、それとも「権力中枢の病理をも監視する組織」にしていくのかは、大きな問題である。国会でのかみ合わない議論の本質を理解・注視しながら国民・市民が直接意思表示していくことが大切だろう。5月29日に全国各地で行われたデモの参加者からも、関連する発言がなされているようだ。「戦争反対訴え、市民が集う 国会前などでデモ、全国各地150か所で」 PDFにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2026.06.05
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