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昨日(6月15日)、数人の仲間とともに標記の映画を視聴した。 ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー~ (2009):作品情報|シネマトゥデイ)予告編 視聴にあたって作成したメモと、感想を紹介したい。Q ジョン・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe)とは? ドイツ人商社員であり、シーメンス社の中国駐在員(のちに中国支社総責任者)として約30年にあたって中国に滞在。彼は日中戦争の「南京攻略戦」時に、民間人の保護活動に尽力した。Q 彼の行動は?1937年、日本軍による「南京攻略戦」の際、ジョン・ラーベは十数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会委員長となり、中国民間人の保護に努めた。彼は(映画の予告編にもあるように)自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、600人あまりの避難民(民間人)を戦禍から守ろうとした。〔すでに1936年に「日独防共協定」、1937年11月(「南京事件」直前)に「日独伊三国軍事同盟」成立〕。南京陥落後は、約20万人ともされる中国人避難民が殺到した安全区(南京城内の北西部に設置された外国人の施設や邸宅が多くある地区)の代表として、非人道的行為の防止に尽力。Q 彼の行動は(細部も含めて)なぜ明らかになったのか?帰国後、ラーベは日本軍の残虐行為を喧伝し、ヒトラーに上申書を提出。日本軍の行動を改善するよう働きかけたが相手にされず、ゲシュタポに逮捕されるなど苦境に立たされた。彼は失意の中で戦時中の日記を清書し、のちに孫のトーマス・ラーベおよびエルヴィン・ヴィッケルト(元ドイツ中国大使)によって出版された。2009年にはドイツ・フランス・中華人民共和国合作による映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』が公開され、彼の活動が映画化された。原作(日記)からは大幅に脚色されているものの、ラーベの人道的な行動が描かれている。朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)・・・1937年12月2日、上海派遣軍司令官となり、直後の「南京攻略戦」に参加、現地にいたこともあって、いわゆる南京事件の実際の責任者の一人として疑いが持たれている。1937年の「南京事件」後、日本軍内で「慰安所」の設置を要望する強い意見が出された。「慰安所」は、性病予防や占領地での日本兵による「女性への暴行事件」への対策、戦意の向上、軍の機密保持などを口実に設置されたが、現実には・・・。Q ラーベの日記から想起される南京事件、戦争の恐怖を映像で追体験できる「劇映画(フィクション)」にもかかわらず、なぜ劇場で上映できないか。(この部分は朝日新聞社「論座」の趣旨を要約)右翼などによる暴力的な抗議や上映妨害が、市場原理(集客困難)とリンクして、自主規制へ追い込むという現実がある。1997年、事件60周年を機に日本公開となった『南京1937』が右翼団体によってスクリーンを切られるなどの上映妨害が起こった。(同時期、東京裁判を批判する『プライド・運命の瞬間』は全国公開された)。日本政府も歴史的事実としては公式に認めているにもかかわらず、事実そのもの・加害を否定する側の言動はいまなお激しい。加害性にこだわる個人を攻撃するのに、マスメディアでも当たり前のように使われるようになってきたのが「反日」という言葉。特に『ジョン・ラーベ』の場合、香川照之演じる朝香宮鳩彦王(上海派遣軍司令官)が捕虜虐殺を暗に命じるシーンがあり、「南京」と「菊」の“ダブルタブー”に触れるため、最初から「上映は無理」との見方が映画関係者の間であったという。※杉原千畝(1939年、ナチスに迫害されてリトアニアに逃れてきたユダヤ人6000人のビザを日本政府の了承がないまま発給)は映画化・上映されているが・・・。〇日本での視聴について 劇場での上映はなされなかったが、2014年以降市民による自主上映会は複数回行われた。有名な俳優が数多く登場していることもあり上映権は高額になるが、家庭で視聴するためのDVDは現在、比較的容易に入手できる。〇象徴的な言葉や場面、感想(一部ネタバレ)・ラーべが人道的で勇敢な「英雄」ではなく「普通の人(普通のナチ党員)」という設定。冒頭リンクの作品情報には「全編に漂う緊張感」という言及があったが、私が強く印象づけられたのは「日々行われる捕虜と市民の殺害に対してどうしようもない(安全区メンバーの)無力感」だった。「安全でない安全区に何の意味があるのか」、あるいは「日々運び込まれる重傷患者に対して麻酔もなくまともな治療ができない」という圧倒的な無力感である。そして、ラーベとウィルソン医師(ナチ党員のラーベ嫌っていた)とが、そのような無力感と弱さを共有しつつ手を結んでいく場面が強く印象に残った。 さて、1937年の南京ほどではないにしても、私たち自身「変えようがないと思える現実」の前で圧倒的な無力感を覚えることがあるのではないか。その点では、この映画は極めて特殊な場面設定とはいえ、ある種の真実・人間にとっての普遍性を感じさせるものがある。 どうにも動かしがたい現実に圧倒され、無力感に押しひしがれる状況の中でも、われわれは「ささやかなつながり」を創りながらその現実に向き合うことができるのではないか、「たとえ小さくとも一歩を踏み出す勇気が大切なのではないか」、そのようなメッセージを私は「ジョン・ラーベ」から受け取れたように思う。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.06.16
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2015年 の11月に別ブログで公開した記事を再掲します。もともとリンクしていた動画がネット上からなくなっていたようですが、別の場に公開されていたことがわかりましたので。「傷つけられた子どもたちは今~ヘイトスピーチから6年」 去る10月30日、NHKかんさいで放映されました。 以下は私がNHKに送信した意見です。 上記番組をオンライン放送で視聴しました。ヘイトスピーチで傷つけられた子どもの視点から丁寧に作られた番組、日本の現状を問い直す問題提起としても素晴らしかったです。番組を作り放送にこぎつけた皆さんに心から敬意を表します。人権や民主主義を大切にするという視点をNHKがまだ失ってないということも確認することができました。 この間、安保法制などをめぐるNHKの報道は「政府の広報機関」に成り下がっていると判断し本気で受信料を拒否するつもりでしたが、もう少し考えることとします。 にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.06.03
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遠藤誉は記事「中国の威嚇的兵器ポスターと軍事演習 頼清徳総統就任演説を受け」で、24年5月20日における台湾の頼清徳総統の就任演説について詳しく言及しています。「緊張が高まっている台湾海峡」をめぐる情勢を冷静に把握するためにも、有力な記事であると考えますので、要点を紹介しておきます。 Q「理路整然として力強かった」という頼清徳総統の演説の内容は?A 彼は「独立」を越えて「国家主権」を主張し、「中華民国」台湾はれっきとした「主権」を持った「国家」であり、どこにも隷属していないと述べた。さらに、「中国(中華人民共和国)」と「中華民国(台湾)」は互いに主権を持った「国家」として、「対等に」話し合いをすべきであると主張。(「現状維持」といいつつも、かなり踏み込んだ演説。)Q この演説は現状において「国際社会」で受け入れられるのか?A その主張は、1971年の国連決議【第2758号】に違反しており、国際社会で容認されるためには、この決議を、国連で再採決して「否決」しなければならない。〔現在、「中華民国」を正式に国家として承認しているのは世界中で13カ国とローマ教皇庁のみ(米国も日本国も承認していない。「一つの中国」という立場):引用者補足〕Q 頼清徳の上記主張と、「中国は台湾を威嚇するのをやめよ」という発言に対する中国の反応は?A 中国は激怒、威嚇的なポスターおよび軍事演習で、激しい怒りを表している。 5月23日、<東部戦区発布“聯合利剣—2024A”軍事演習区域見取り図>なるものを発表。それによれば軍事演習区域は以下のとおり。 この軍事演習は5月23日と24日に行われたが、実弾を伴う演習ではなく、短期間で終わった。Q それはなぜか? A 総統が就任演説で主張したことが台湾の立法院で認められるわけではなく、台湾としてどのような決議を出すかは別問題。立法院は与党51議席に対して野党60議席であり、頼清徳の「国家主権」論の方向に動く可能性は非常に低い。 ⇒だから中国大陸側も「威嚇」だけは派手にするが、軍事演習も実弾を伴わない短期間のものしかしなかった。 〔紹介は以上〕 続いて公開された記事にも考えさせられました。 「台湾海峡の有事は日本の有事」といった「安倍元首相時代の発言」自体大きな問題がありますが、そのもとにある思い込み自体を問い直す必要がありそうです。 アメリカがやっと気づいた「中国は戦争をしなくても台湾統一ができる」という脅威(遠藤誉) - エキスパート - Yahoo!ニュースにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.05.26
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「マスコミによる報道は信用できない」、という発信がネット上にはかなり見られます。私自身も様々な報道内容に対して疑問を持ち、ここ数年間だけでも新聞社などのマスメディア(TVの場合は、主にNHKやTBS)に対して実名で意見を届けてきました。〔ハンドルネームですが、本ブログでもそのいくつかは紹介してきています。〕 しかし、それは新聞メディアなどの報道機関を「信用できないと軽く見る」からではなく、重視しているからです。(政治権力からの圧力を受けやすいのは、組織的取材を経た報道は影響力が無視できないほど大きいから)。仮に新聞などがほとんど廃刊になり、「取材と裏どり」を経ない「伝聞情報」ばかりがネット上に溢れ、大多数の人がそれを唯一の情報源とするような状況が生まれたら・・・、考えるだけでも恐ろしいことです。 もとNHK職員の池上彰が実例を示しながら、新聞の重要性について述べています。彼の特集番組の中には「自分の視点と違う」と感じられるものがあるにせよ、この発信については賛同できるところが大きかったので要点を紹介します。 ネットがあれば新聞不要と思う人に欠けた視点 「新聞離れ」が進んだアメリカはどうなったか | Q 新聞の存在意義は?A 取材新聞社は多くの記者を抱え、直接情報源に取材して記事にする。この第一報がなければ、ネットに記事が転載されることもない。長い時間と手間のかかる取材をする記者がいるからこそ、記事が出来上がる。(テレビ局では、NHKだけが多くの記者を抱えている。民放テレビにも報道部門があるが、記者の数は少ない)。もし本当に新聞がなくなったら、第一報がなくなり、ネットに新聞社から配信される記事もなくなる。ネット専業のニュースメディアで新鮮な視点の記事も配信されるが、「テレビのワイドショーでのタレントの発言が炎上した」という類のニュースも激増。ネットニュースのメディアは取材コストをかけるだけの経営的な余裕がない。 Q 新聞離れで先を行っているアメリカで起こっていることは?アメリカでは全国紙より地方紙が主流だが、経営難のため続々廃刊に。結果、選挙の投票率が激減。地元の選挙を報道する新聞がなくなったため、立候補者などの情報が有権者に行き渡らなくなったため。地域のニュースが報じられない⇒地元の政治への関心も失われ、新聞が廃刊になった市では不正や汚職が横行。不正を監視し、報道されることもなくなったから。日本でも同じことが起こりかねない。新聞があることで、人々は政治についての情報を得ることができ、権力者の不正に歯止めがかかる。新聞は民主主義を支えるインフラ。Q 社会を動かした例は?A1 1970年代、アメリカ史上最大の政治スキャンダル「ウォーターゲート事件」⇒リチャード・ニクソン大統領が辞任に追い込まれた。この事件を暴いたのはワシントン・ポストで地方版を担当する2人の若手記者。発端は1972年、ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党本部に不法侵入した人物をガードマンが見つけて通報、逮捕された侵入者の中には元CIA(中央情報局)の工作員がいた。これを知った2人の記者は「本当にただのコソ泥なのか?」と疑問を抱き、取材を始めた結果、大統領再選を目指す共和党系の人間が盗聴器を仕掛けようとしていたことが発覚。A2 ベトナム戦争を終結させた歴史的な大スクープ。 泥沼化していたベトナム戦争の真相を記した機密書類「ペンタゴン・ペーパーズ」をニューヨーク・タイムズが報道。報道機関と政府1 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)報道機関と政府2 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)Q 日本の場合は?A リクルート事件が有名川崎市役所の助役がリクルート社から未公開株を受け取っていた件を神奈川県警が内偵捜査を行ったが、時効のため事件にはならなかった出来事。しかし、朝日新聞横浜支局だけが独自の判断で取材⇒地道な報道を継続、時効であっても、企業のモラルが問われる問題だと捉えた⇒朝日新聞は「リクルート社、川崎市助役へ一億円利益供与疑惑」という特ダネを打った⇒その後、リクルート社が政財官界の多くの人々に未公開株をばらまいていたことが発覚。そこで、東京地検特捜部が捜査に乗り出し、日本の政財官を震撼させた「リクルート事件」へと発展。地方記者の執念の取材が、巨悪を暴いた。地道な取材と報道によって政治や社会が大きく動くこともある。 「信用できない」と切り捨てるのではなく、新聞等のマスメディアとネットメディア「双方の強みと弱み」を十分考慮したうえで判断し、対応していくことが大切。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.05.14
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多くの論評を加えることなく、「二つのニュース」を紹介します。中国やロシアは多くの問題を内包している国ですが、「日本や欧米諸国による一面的と思える報道」を相対化・検証するためにも大切なニュースであると思われます。 1,「アルジャジーラ」による、パレスチナ報道 会談日: ファタハとハマスの代表者は最近、中国で和解に向けた会談を行いました。北京の外務省が2024年4月30日にこの会談を確認しました。目的: 両グループは和解の可能性を探るため、深く率直な対話を行いました。具体的な問題について議論し、前向きな進展がありました。背景: ファタハとハマスは長年にわたって競合してきましたが、ガザ地区へのイスラエルの攻撃がさらなる和解の話し合いを促しました。2007年以降、ハマスはガザの事実上の支配者となっており、ファタハは占領された西岸で限られた自治権を持っています。中国の役割: 中国はパレスチナ問題に対して伝統的な友好的立場を取っており、イスラエル・パレスチナ紛争に対する二国家解決策を支持しています。中国はイスラエル・ガザ戦争が始まった時から即時の停戦を呼びかけており、中国の習近平主席は「国際平和会議」を開催して戦争を終わらせることを提案しています。〔comment〕 1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された「オスロ合意」(パレスチナ暫定自治政府を認め、「二国家共存」の方向性を宣言した合意)をイスラエルは事実上反故にしてパレスチナへの「軍事行動」を繰り返してきました。パレスチナが統一されていない(ハマスとファタハに分裂している)ことが「合意不履行」の口実になっていたことを考えると、このたびの会談は重要な一歩であると考えています。 2,国際司法裁判所による「ウクライナ問題」に関する判断 ICJ(国際司法裁判所)が、「ウクライナ側が告発したロシアの蛮行」に対する訴訟の多くを却下(一部認定)する判決を下しました。(2024年1月31日)国際司法裁判所、ロシアのテロ条約違反一部認定 訴えの大半退け - 日本経済新聞 (nikkei.com)ICJ(国際司法裁判所)の判決にみるウクライナ戦争 青山学院大学名誉教授・羽場久美子 | 長周新聞 (chosyu-journal.jp)NIDSコメンタリー 第265号 - 防衛省防衛研究所 (mod.go.jp) ・MH17撃墜事件に関する訴訟: 「ロシアが2014年7月のマレーシア航空機MH17便撃墜を含むドンバスでの“テロ”作戦を指揮した」として2017年にキエフがロシアに対して起こした訴訟について、ICJはこの告訴を却下した。(「証拠不十分」等が理由)。・クリミア併合後の人種差別に関する訴訟: 「ロシアはクリミア併合後、クリミア半島のウクライナ人やタタール人住民を人種差別した」とウクライナが告発した訴訟についても、ICJはこの告訴を却下した。クリミア併合後、ウクライナ人やタタール人の市民権に関してロシアの法制度に人種差別は存在しないと判断。〔一部認定したのは以下の点〕ICJはロシアがウクライナ人やタタール人を人種差別的に扱ったとされる訴えを一部認定し、ロシアがテロと反差別の条約に違反したとの判断も示した。具体的には、ロシアがクリミア併合後、ウクライナ語の教育を保護しなかったことが人種差別撤廃条約に違反すると指摘された。・ウクライナのジェノサイド告発に関する訴訟ロシアが「ウクライナ政府によるドンバスのロシア人(ロシア語話者)への大量虐殺」という虚偽の主張を利用して軍事行動を開始したとしてモスクワを(キエフが)告訴した件、さらにウクライナの主張(特別軍事作戦自体が、ジェノサイド条約に違反している)について、ICJはこれらの主張を退けた。〔comment〕 ウクライナ戦争に限らず①「(困難な対話も含めて)戦争を未然に防ぐこと」、②「不幸にも起こってしまった時は一刻も早く終わらせること」が大切だ、というのが私の立場です。欧米諸国がいずれにも本気で取り組んでいない(2022年3月、「ウクライナ戦争開始後の占領地からロシアは撤退し、ウクライナは中立化(NATOに加盟しない)」という方向でまとまりかけていた話〔-関連記事はウクライナ大統領「中立化可能」トルコで停戦対話へ - 日本経済新聞 (nikkei.com)〕を米・英を中心とする国々が「ロシアを悪魔化」することでつぶし、長期戦をあおった〕とみている私ですが、「一方的な悪魔化」が本当に妥当なのか、国際司法裁判所(ICJ)の上記判断は、検証の材料になると考えています。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.05.03
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「教育の窓」で紹介されていた実践部分(前半から中盤)を長文になりますが番号をつけて引用します。①受け持った当初、Aちゃんは、かなりパニックを起こしていた。 もう、大声でわめくし、あばれるし、手のつけようがなかった。授業中、休み時間、掃除の時間など、突然、そうなるのだった。わたしたちにとっては、何の前ぶれもなく、理由もなく・・・、ほんとうにそういう感じだった。 学級のみんなは遠巻きにしてそれを見ている。対処のしようもないといった感じ。また、そういうときは、『先生にお任せ。』といった気運もあった。そして、当然のように、保健室で休ませるという対応になった。②そうしたなかで、わたしは、心配そうに見つめる子、にやにや笑ってその事態を見ている子、我関せずの子などを、しっかり観察していた。 そして、心配そうに見つめているだけでも、関心をもとうとしていることは確かなので、そうした観点でほめるようにした。③そのうちだんだん、関心をもつ子がふえていく。なかには、Aちゃんがあばれるのを見て押さえようとする子も出てくるし、『どうしたの。ダメでしょう。』などと強く叱責する子も現れる。しかし、そんなことが何にも功を奏さないことも分かっていく。④だんだん、Aちゃんとのかかわり方に変化がみられるようになっていく。Bちゃんが言う。「toshi先生。Aちゃんは、~のようなとき、パニックを起こすのではないかなあ。」 もちろんこれは、例外があまりに多すぎるし、逆に、~のようなときいつも起こすというわけでもない。 しかし、『Aちゃんにかかわっていこう』『Aちゃんのことを心に留めよう』『Aちゃんとともにこのクラスをつくっていくのだ』、そういう態度であることは確かで、そうした観点で絶賛した。⑤授業中も、問題解決学習が定着するまでは、パニックを起こすことがあった。 そういうときは、授業はもちろん中断だ。 でも、子どもたちの成長とともに・・・、 これは、Cちゃんだ。 「ねえ。みんな。話が飛びすぎるよ。もう少し、整理して話すようにしようよ。『今、話し合っているのは、~です。』ってよく分かるようにしないと、Aちゃんはうまく話し合いに参加できないと思うよ。」 などという言葉も聞かれるようになる。 Aちゃんも自分で、『これはまずい。パニックを起こしそうだ。』と思うと、静かに自分で教室を出て行くようになった。わたしは、この判断力を、みんなの前で絶賛した。⑥そのうち、Dちゃんのように、「toshi先生。Aちゃんね。~が得意なんだって。だから、わたし、教わっちゃった。Aちゃんも、とってもうれしそうに教えてくれたよ」などという子も現れる。これももちろん、上記の観点からして、絶賛ものだ。⑦しかし、学級、子どもの成長は、右肩上がりではない。どうしても紆余曲折はある。 どのようなとき、Aちゃんはパニックを起こすか。それが分かるようになったころ、Eちゃんのように、わざと挑発してパニックを起こさせ、喜ぶという事件が起きた。 これはもうとんでもないことだが、 さいわい、わたしより早く、クラスのみんなが激怒してくれた。Eちゃんも、学級のけわしい雰囲気に、もう、反省せざるを得ない様子だ。わたしは(・・・)「悪気はなかったのだよね。Eちゃんは、ちょっとからかってみたくなっただけなのかな。でも、いいよ。今のEちゃんの態度は、『もう、これからは絶対しません。』そういう決意が現れているもの。怒ってくれたみんなも、ありがとう。わたしは、すごくうれしい。」そのような感じで済ませることができた。⑧子どもたちの問題解決学習も、Aちゃんの存在を意識したものになっていった。前述のCちゃんの言葉もそうだが、〇Aちゃんが黙って教室を抜けるようなことがあると、『ああ。今の議論は混乱していたな。』など、悔悟の表情を浮かべる子もいた。〇「先生。わたし、~の資料を作ってきたのだけれど、~のように工夫したよ。Aちゃんも、よく分かってくれるのではないかなあ。」のような言動もみられるようになった。 こうして、Aちゃんが在籍してくれていることによって、子どもたちの問題解決学習はきたえられていったのだ。〔前半から中盤までの引用は以上〕 紹介した部分だけでも実践の核心は伝わってきます。とりわけ私が「すごい」と感じたのは、「心配そうに見つめる子、にやにや笑ってその事態を見ている子、我関せずの子などを、しっかり観察していた」という部分です。VHSのカセットさえなくオープンリールの白黒映像を使っていた時代、「発達障害にかかわる研修など皆無でそれこそどうすればいいかわからなかった時代」に、清水さんは「一緒になってあわてふためく」のではなく、子どもたちの様子を観察し、「言葉かけ」をしていくわけです。 心配そうに見つめているだけでも、関心をもとうとしていることは確かなので、そうした観点でほめるようにした、という清水が「実際にかけた言葉」までは報告されていません。が、おそらく「あなたもわたしもAちゃんにどうしてあげればいいかわからないのだけど、友達のことを心配してくれているのだね」、「それが伝わってくるよ」、といった言葉かけでしょう。 清水は著書『子どもが伸びる言葉かけ』のなかで、子どもたちの様子をしっかり見取り、感心(感動)したことを言葉にする、という趣旨のことを述べていますが、そのような素直な気持ちは子どもたちにまっすぐ伝わっていきます。それ(言葉かけ)を積み上げていくことで「どうしたのだろうというAちゃんへの関心」が学級の中に広がっていくわけです。 ④で紹介されている場面も同様です。このような積み上げを通して「Aちゃんどうしたんだろう」→「このような時にパニックを起こすのではないか」→「Aちゃんとともに学級や学習をつくっていくためにはこうすればいいのではないか」、これを考え合うような方向へ子どもたち自身が成長していくわけです。 事実、清水はこのブログ記事の後半(結論部分)で以下のように述べています。 発達障害について、子どもたちは無知だったけれど、思いの根底には、『ぼくたち、わたしたちがとうていしないようなことを、友達のAちゃんは、なぜするのだろう』、そういう人間探求、友達探求の心があったのだと思います。 すると、『分かった。Aちゃんはこういうとき、パニックになるのだ』という気づきが必ずやってきます。そうして、『それなら、そういう行動をしないように気をつけよう』という気運が学級に醸成されるのです。 ここで強調されているのは「子どもたち自身の中にある友達探求の心」ですが、そこから目を離すことなく「評価・言葉かけ」を続けたことが、集団としてこの学級が成長できた決定的な要因でしょう。あえて前記事(教育評価の視点)と関連させるならば清水の言葉かけは「観察や対話による評価」によって学級が変容していく優れた実践例だと考えます。 さらに「特別支援」という観点からしても「発達障害のある子」ではなく「目の前にいる友達Aちゃん」への関心をふくらませていくところが素晴らしいと感じます。「研究をとおして得られる知識」がともすれば「分析・分類して発達障害の特性を浮かび上がらせる」方向へ片寄っていきがちであることを考えれば、このような実践の意義は強調されるべきでしょう。 上記⑥で紹介されているように、Aちゃんの好きなこと、得意なことを知り教えてもらう、ことで本人の興味関心を共にし面白さを共有する、その意味で「ともに生きる子どもたち」として集団が成長するわけです。「共生」という言葉もほとんど使われなかった時代の「清水実践」から私たちは多くを学べると感じています。 なお、理解のない周りとの関係で「二次障害」を根づかせた個人が「大事件」を起こすケースもあります。そのような生徒との関わりを学校づくりにつなげていった実践を高生研大会基調「生きづらさをかかえた生徒から学校を見直す ~「特別支援」からはじめる学級・学校づくり~」では紹介、分析していますのでよろしければご一読ください。(なお、生徒のプライバシーへの配慮から執筆者名などは仮名となっています。)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.04.21
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前回の拙ブログ記事に応答する形で執筆していただいた、教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説(3.30)教職員の高度専門職化 まずは学習評価と特別支援からに対して遅まきながらいくつかcommentをしておきます。 以下の指摘に関しては、基本的に賛成。異論があるわけではありません。>“しょう”さんが引用する中内敏夫の「評価もまた教育でなければならない」というのは、重要な指摘だ。(「指導と評価」は)まさに一体のものとして日々の教育活動に生かされなければなるまい。>「わが国で唯一の教育評価に関する専門誌」である『指導と評価』が、3月号から学習評価の全体像を解説する特集を始めたのだ(・・・)代表理事は、学習評価が実務上の困難に直面している原因の一部は「学習評価の基礎知識の不足によると思われる」と指摘。>何より学習評価は、そもそも専門職として必要な「基礎知識の不足」状態が放置されている。一刻も早く、全教員の研修体制を確立すべきだ。 一般的に「学習評価に対する基礎知識の不足」という指摘は当たっているだろうと考えています。「内地留学の積極的保障も含めた研修体制づくり」は急務だと私も考えます。〔私の場合「内地留学の目的・主な関心」は、学習集団(含:学びの共同体)の問題と生活指導をどのように統合していくかということだったのですが、指導教官が「生活指導論」だけでなく「教育評価」も専門的に研究している方だったこと、同大学の特別支援にかかわる複数の教官(指導者)が非常に優れた人たちだったこともあり、予定した以上に幅広い学びを得ることができたのは幸運でした。〕 この内留をとおして教育評価を含む「教育学」の奥深さを実感できたのですが、何といっても大切なのは具体的な評価の例(学習評価・教育評価の実践例)にできる限り触れ、自分なりに工夫していくことだと考えています。 前記事では客観テスト以外の評価の方法としてb 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を活用・総合する「課題」に挑戦させ、作品づくりや実演によって評価する)、d 観察や対話による評価、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や記録を蓄積して評価するポートフォリオ評価。 例えば、古代国家の学習の締めくくりに以下のような課題に取り組ませる。(まだは、最初から課題を提示したうえで授業や考察に向かわせる。)Q 世界の古代国家に関する展示を博物館で行います。古代の王墓の写真・模型もたくさん展示されます。さて、会場の中に「古代の大帝国と国王による支配」が一体どのように成立したのか、説明するコーナーを作ります。多くの人々を使って、ピラミッドや古墳を造らせた「古代専制国家」はどのようにして誕生したのでしょうか。そして、広い領土を支配する大きな権力をもった「王」はどのようにして誕生したのでしょうか。中学生にも理解できるようなパンフレットをつくりましょう。分かりやすく写真や図を用いること。 上記の課題への取り組みをとおして「知識・理解」だけでなく「こと・もの・ひとに向かう関心や態度」についても評価して返していく。例えばこのような取り組み・評価によって先に例示したb 自由記述式、c パフォーマンス評価、eポートフォリオ評価を組み合わせていくことができます。 ただし、現在「過重負担を避けながら、充分有効な評価ができているか」ということになると自信がないところもあります。上記のような方式以外には、授業中に説明を受けた中身を要約し、思考を深めるような「問い」をノートに記録するよう促し、定期的に評価する。授業中の発言に関しても、周りが思いつかなかった創造的な発想や全体の認識を深めていけるような質問をとりあげ(周囲の生徒にも確認しながら)評価する、など意識的に行ってはいるのですが・・・。 中内敏夫や渡辺敦司の主張=「評価もまた教育でなければならない」、「指導と評価」はまさに一体のものとして日々の教育活動に生かされなければならない、という観点からすると、「記録に残る評価」もさることながら、d に示した「観察や対話による評価(言葉による評価)」こそが重要ではないか、という思いもあるのです。>もう一つ放置されていることがある。特別支援教育だ。「特殊教育」から移行して20年近くになるというのに、いまだに現場は発達障害を含む困難を抱えた児童生徒の指導に自信を持てないでいる。技術もそうだが、そもそも「基礎知識の不足」が放置されたままだからだろう。>『教育と医学』3・4月号は「発達障害のグレーゾーンの子どもたち――その理解と支援」を特集しており、青木省三・川崎医科大学名誉教授は発達障害が「ある・なし」で分けられないばかりか「人は皆グレーゾーン」だと喝破している。 「学習評価・教育評価」の場合とは違って「特別支援」に関しては「基礎知識のないまま放置されてきた」とは考えていません。県内・そして全国各地で「研究会・研修会」は行われており、そこから学んでいない教職員はまれでしょう。そもそも「自閉症スペクトラム」という言葉自体、それが連続的で明確に分類できない「障害」であることを明らかにしています。 「自信がない」というのは、「知識不足」が原因なのではなく「すべてがケースバイケースでその生徒、その状況に応じた適切な向き合い方をしなければならない」という意味において「わかりやすい解答」など存在しないことが大きいと考えています。 だとすれば「特別支援」の場合、「学習評価・教育評価」以上に様々な実践に触れること、読むことが重要だと考えるのです。「基礎知識+実践を学ぶ」という副題をつけましたが、力点は「実践」にあります。そして、私が今なおお勧めしたいのが、「教育の窓 ある退職校長の想い」のブログ主である清水俊皓の実践です。 この取り組み(=授業・学級づくり)が行われたのは白黒映像の時代。実践者の清水には「特別支援」や「教育評価」に関する学問的な基礎知識は皆無といっていい状態でしたが、その真髄と思われる「思想」が貫かれている、と考えるのです。 発達障害児と問題解決学習と(清水俊皓のブログ記事より) ただし、ここまでのところでかなりの分量になってしまいました。実践の引用や私自身のcommentに関しては、次回の記事といたします。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.04.15
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「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」2月12日の記事ー改訂諮問の年に③「学習評価」の根源的な捉え直しを-は考えるべき重要な問題提起を含んでいると読みました。心身の余裕が乏しかったこともあり反応できていませんでしたが、このたびごく簡単にコメントし、「学習評価」・「教育評価」に関する過去の拙文を紹介します。> 1)学習評価は、何のためにするのか――。教育の専門家である教師に、そうした問いをするのは愚問だろうか。> 2)しかし定期テストの廃止すら世間を騒がせるだけでなく教育現場にも賛否両論を巻き起こす状況を見るにつけ、本当に評価の専門性が浸透しているのか疑わしく思っている。> 3)評価のための評価では、自分たちの首を絞めるだけの徒労でしかない。> 4)そのための形成的評価〔註〕と、授業評価こそ重視されなければならない。もしもその障害になるとするなら、見直されるべきは指導要録の制度や入学者選抜の方だ。> 5)世間にも、数値による評定信仰がまかり通っている。教育界自身もそうだろう。それを乗り越えなければ、本当の意味で誰一人取り残さない教育は実現しまい。〔註:教育目標に照らして、児童生徒の学習が成立しているかどうかを確認しながら学習指導を行うという意味での「教授・学習過程で行われる確認作業」を「形成的評価」と呼ぶ。〕 以上、引用した項目に番号を勝手につけました。いずれも全くもっともな指摘だと思います。私の場合(幸運にも)「内地留学」の期間(一年)を得たこともあり、教育評価を学ぶ機会に恵まれたのですが、そうでなければ「評価の根底的な問い直し」をめざした教育学の試みなど理解しないままここに至った可能性は大きいと考えます。(一般的にも「評価の専門性が浸透しているのか疑わしい」と感じられるのは当然のこと。) また、4)では「形成的評価」の重要性が指摘されていますが、全くそのとおりでしょう。さらに言うと「子どもは、学校卒業後も伸びていかなければならない存在」であるという意味においては、子ども自身に「形成的自己評価の力」(目標に照らして自らの学びと成長を確認しつつ、学びの在り方を自身で問い直していく力)をつけていくことが大切だと考えます。 以下の二つは「教育評価」「学習評価」を学び要約した内容と、それをもとにして書いた「論文」です。よろしければご一読ください。 2011.12.30 学力とは何か? ~中内敏夫『教室をひらく』~ 2012 年 4月 あるべき学校評価と教育実践評価 以下は「あるべき学校評価と教育実践評価」の抜粋・紹介です。 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。 しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」① そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。② このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕 従来用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」③として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。 1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる4)「教材精選」の目安が得られる など。 もちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。3、評価を行う力 ~教育実践評価の視点~ 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単にいうとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。⑦ 中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔a 客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、b 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、d 観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕⑧ このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「(評価をするための)鑑識眼」は洗練されていく。⑨このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて)〔以上抜粋、以下略、関連する註のみ転載〕①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁 戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁④中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁(※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。⑦中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁⑧田中耕治『教育評価』岩波書店 147~162頁⑨2024年3月付記 「洗練された鑑識眼」を身につけ、学習の成果を何らかの形で評価・表現し子どもたちに返していくことは、現状において容易ではないという実感はある。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.03.24
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前回、3.11東日本大震災(原発震災ともいわれる複合災害)=一丸となって向き合う必要があった緊急事態に直面して、野党自民党がとった対応のあまりに大きな問題点の「振り返り」をしました。当時の菅内閣への執拗な攻撃〔含む:菅首相が無理やりに原子炉への海水注入を停めさせたという「安倍晋三議員(当時)の発信したデマ」〕と「復興予算を人質にした駆け引き」(予算を通してほしければ民主党の看板政策を降ろせ)それ自体が許しがたいものだと考えています。 そのような攻撃と駆け引きは結局、永年「原発推進政策」をとってきた自民党の責任を民主党に転嫁するものでしかなかったのでは? しかも自民党は未曽有の原発事故に対して何の責任も取らなかっただけでなく、政権復帰後、脱「原発依存」の方針さえなし崩しにして(60年の稼働も可とするなど)あきれ果てた対応を積み上げています。しかし、現在も双葉町の85%が帰宅困難地域のまま(2024.3.9の報道特集)、甲状腺がんの原因を原発事故の影響として東電を相手どった裁判も行われている、にもかかわらず・・・。3.11を機に「未来」を考えていくためには、福島原発事故の徹底した検証が大切になってくると思われるのですが、そのような検証作業のすぐれた営みとして『検証・福島原発事故・官邸の100時間』(岩波書店)をあげることができます。〔読書メーターのレビュー〕この書籍に関する以前の拙ブログ記事を再掲しておきましょう。〔以下、2012.11.28の記事を再掲〕 これは、朝日新聞記者である木村英昭が、大震災と事故勃発の100時間(3月11日から15日までの5日間)首相官邸で何が起きていたかを、主要人物の証言や関係者への徹底的な取材をとおして再現したものです。 もちろん、各人の記憶には曖昧さがともなうわけですが、首相秘書官など関係する人たちがその場のやり取りについて多くのメモを残しており、それらのメモと複数の証言を照らし合わせてその内容を裏づけていくという、実に根気のいる取材と作業を積み上げています。 著者がそのような徹底した検証に取り組むことになった大きな動機は、原発事故に関するマスコミの報道が「大本営発表」と批判されたことです。そのような批判も意識しながら木村は次のように述べます。 例えば事故の検証は、政府や国会の事故調に任せるのではなく、ジャーナリズムの責任で検証していい(・・・)。何か公的なものによりかかって記事の信頼性を確保する手法こそが〈3.11〉を契機にして読者から投げかけられた批判だったはずだ。私たちが直接当事者にあたり、この事故はこうだったという結論を読者に提示すべきで、揺らいだジャーナリズムへの信頼感はそこにしか醸成されない。(300頁) 以下は、私自身の印象に強く残った部分ですが、いわゆる福島第一原発からの東電の撤退問題に関しても、実名のやりとりが以下のように記されています。 元警視総監の伊藤は応接室でのやりとりを鮮明に記憶している。 伊藤「第一原発から退避するというが、そんなことを言えば1号機から4号機はどうなるのか」 東電「放棄せざるを得ません」 伊藤「5号機と6号機は?」 東電「同じです。いずれコントロールできなくなりますから」 伊藤「第二原発はどうか」 東電「そちらもいずれ撤退ということになります」 その東電幹部は伊藤に「放棄」「撤退」と明言した。政府事故調の「中間報告書」は撤退問題を官邸の政治家側が勘違いしたかのように片づけている。国会事故調も「全員」か「一部」かという問題の立て方から出発している。この問題は全員撤退問題ではないのだ。(…) これは原発放棄事件なのだ。(233)(・・・) 菅に見せられた東電の稟議書の件名はこうだった。 《本部機能移転について(東電側の紙)》 東電は本部機能を福島第一原発に置くことを断念するつもりだった。本部機能といえば作業を指揮する最重要の部隊だ。それを福島第一原発から撤退させるというのだ。(249) 菅や枝野、海江田ら官邸中枢は「東電が撤退する」と聞き、その対応に追われた。(…) 東電は原発のコントロールを諦め、放棄しようとしていた――。これが取材を通じて浮かび上がる事実だ。重ねて言う。この原発放棄事件はこれからの原発の稼働を東電が担う資格があるかどうかを問う、極めて重要な論点だ。(254)(・・・) 原発事故対応の最高責任者は内閣総理大臣である。その首相の座にあった菅には、一切の責任を背負う義務がある。それは言を俟たない。(…) 最高責任者である菅の責任を問うてもなお、今回の事故では、その根底に対応に当たるべき、保安院、文科省、原子力安全委員会といった原子力関連の官僚組織の機能不全が横たわっていたことを見逃すわけにはいかない。そして専門家の責任だ。方針を決定すべき政治家に、適切で十分な情報を与えず、右往左往して口を噤んだのは、事故対応の中心的な役割を担うはずだった原子力に関係する官僚と専門家たちだった。(278) そして、原因企業である東電はどうだったか――。(…)東電社長の清水に会おうと広報課係長の長谷川和弘を通じて取材を申し入れたが、結局応じてもらえなかった。(…) 「俺は二度と過去のことを語ることはない」(清水発言) この事故により県内外へ避難している福島の人たちは今も16万人を超えている。 (279頁 引用は以上) 福島第一原発の事故とその後の経過を通して、電力会社、経済産業省を中心とする官僚、旧来の政治家、多くの「専門家」、そして電力会社からの広告収入をあてにしてきた報道機関が「原子力村」ともいうべき共同体を作ってきたことが明らかになりました。 『検証・福島原発事故・官邸の100時間』から浮かび上がってくるのは、原子力村の住人たちが適切な対応どころか事態の把握さえまともにできず、官邸に必要な情報を上げることも、助言をすることもできなかったという状況です。そして、事故そのものに全く責任をとらないどころか、原発の再稼動と「原発必要キャンペーン」には奔走する「原子力村」。 報道機関のなかから、上記のような「事故検証」(「原子力村」の実態を浮き彫りにする著書)が生み出されたのは注目すべきことです。報道機関や報道人について十把ひとからげに判断することはできないという例でしょう。〔再掲は以上、以下は2024.3.10に付記〕 引用した『検証・福島原発事故・官邸の100時間』によれば、菅首相は東京電力の役員に「撤退などありえない!」と通告したとのこと。また、このルポルタージュの作成者木村英昭は、詳細な検証をもとにこれは「東電による原発放棄事件だ」という結論を述べます。確かに、東京電力の撤退は首都圏に住む全員が避難するという事態=「首都圏機能の崩壊」に直結することを考えると、菅首相が「撤退などありえない」と言い切ったことも理解できるでしょう。 ただし、後で冷静に考えれば実際「撤退は一つの選択肢としてありえた」と思うのです。つまり、事故対応が収拾不可能で「まもなく致死量の放射線が出る」と判断すれば、「たとえ短時間で死ぬことがあっても第一原発に残れ」とは誰も命令できないでしょう。1号機・3号機に続いて2号機の爆発が迫る危機の中、あの吉田所長が「もうだめかもしれない」といったことを考えれば、東電が一時期本気で「撤退」を考えたこと自体を責めることはできない。 しかしながら、撤退を考えていたにもかかわらず、それを事故調査委員会の聴き取りの段階でごまかそうとしたことには大きな問題があります。私が東電を信用できないと考えている主な理由の一つです。なお、2号機の爆発が迫る緊迫した状況については『朝日新聞・吉田調書報道は誤報ではない』に詳しくまとめられています。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.03.09
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徹底抗戦の方針貫けなかった立憲民主、「腰砕け」の対応に (3.2 読売新聞) 上記リンク先にある読売新聞の記事は、民主党が「裏金問題追及のために徹底抗戦できなかった腰砕け」を揶揄(やゆ)する内容です。今朝ほど目に留まった「見出し」ですが、夕食後、ようやく確認して目を通しました。正直「この記事はいかがなものか」というのが私の感想です。結果「年度内の予算成立」が確実になり、民主党は「予算を人質にして与党と駆け引きする」道を手放したことになりますが、それはよくないことだったのでしょうか。能登半島地震による被災地の状況は今なお深刻で、迅速な対応・復興を進めていくためには、予算成立が4月にずれ込むことに害はあっても益はないでしょう。 もちろん「徹底抗戦しなかった理由」は(読売新聞が指摘するように)被災地への配慮だけではないしょうが、東日本大震災発生から13年目の3.11が近づく中、2011年前半の「自民党による悪夢のような対応」を鮮明に覚えている私としては、あの時の「野党自民党」がやったことと比べれば立憲民主党の対応は100倍ましだ!と言いたくなります。 被災者による怒りのブログ記事もご一読ください。 「私は絶対に忘れない」ー【東日本大震災の「国難」で、野党自民党は民主党の復興政策案の全てに反対し | 「山と土と樹を好きな漁師」ー21年目のブログ (ameblo.jp) 例えば当時の民主党が「コンクリートから人へ」の方針に沿って導入した制度に「子ども手当」(現在、自民党も少子化対策ということでそれを「復活」させようとしている)がありますが、当時の野党自民党はいったい何をしたのでしょうか。「復興のための補正予算成立を人質にして」、子ども手当など民主党の看板政策の撤回をしつこくしつこく求めたのです。 石破茂幹事長(当時)のもと、そのような駆け引きを繰り返したことを鮮明に覚えています。党利党略のため(「何もできない与党」、「看板政策を次々におろす民主党」というイメージ操作のために)復興予算を利用したのです。未曽有の震災と原発事故に苦しむ被災地への迅速な対応こそ政治の役割だったにもかかわらず。 確かに当時の民主党政権が大震災・津波・原発の大事故という複合災害に直面して、十分な対応ができなかったとはいえるでしょう。しかしながら、きわめて重要な対応の迅速な遂行を徹底して妨害したのが当時の「野党自民党」であったという事実を忘れてはならないと考えます。そしてまた、一丸となって復興に力を注ぐべき時に、「混乱をさらに拡大するような報道姿勢」がなかったのかどうか。(読売新聞だけではありませんが)真摯な振り返り・検証を求めるものです。 「東日本大震災時の菅直人首相の対応がひどすぎた」、というのが読売新聞(「原子力村」の一部?)をはじめ、いくつもの報道機関がひろめた情報ですが、本当にそうでしょうか。よろしければ、以下の記事もご一読ください。菅内閣の英断と、原発事故の「主犯」 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)原発と国家 頓挫した官僚の決起 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)菅首相は奮闘した?(週刊朝日) | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)劇場型民主主義、観客型民主主義から・・・ | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.03.03
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以前から私は、「日清戦争」に明確に反対した勝海舟(日清戦争のはるか以前、「征韓論」「江華島事件」「台湾出兵」の時点においても東アジアへの高圧的な政策に一貫して反対)を高く評価してきました。そして、松浦玲の『勝海舟』(筑摩書房)を重要な資料としつつ、日清戦争の授業実践にも活かしてきました。私が知る限り、勝海舟というのは日清戦争に明確に反対した「唯一の著名人」です。日露戦争であれば、それに反対した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三などは日本史の教科書にも明記されていますね。ただ、以前から腑に落ちなかったのは内村鑑三の態度でした。 彼は、日清戦争時点では戦争に賛成していたらしいがなぜだろうか。「キリスト教の人道主義の立場」からの非戦・反戦であれば、日清戦争に賛成する理由はないだろう。また、日清戦争に賛成、日露戦争に反対、という彼の態度が「キリスト教の人道主義」だけで説明できないとすれば、明確に非戦・反戦の立場にいたった決定的な要因は何なのか? 数か月前に読んだ『日本精神史 近代篇』(長谷川宏著)の第五章を読んで、「初めて腑に落ちた」、という感覚が得られました。関連する部分を引用することで理由を提示したいと思います。 〔以下、引用〕この時期(日清戦争勃発の時期:引用者)、ナショナリズムの嵐はそれほど強く、日本を席巻していたということだろうが、席巻のさまを伺うもう一つの事例として、明治の特異なキリスト者内村鑑三の『日清戦争の義』と題する論文がある。〔内村1〕「吾人(われわれ日本人が)朝鮮政治に干渉するは、彼女(朝鮮のこと)の独立いまや危殆(きたい)に迫りたればなり。世界の最大退歩国(中国のこと)が・・・彼女を抱懐し、文明の光輝すでに彼女の門前に達するにも関せず、・・・なお彼女を支配すればなり。・・・日本の勝利は東洋六億人の自由政治、自由宗教、自由教育、自由商業を意味し・・・。」福沢の場合(「日清の戦争は文野の戦争なり」)もそうだったが、内村のこの文でも日本が文明、自由、進歩の側にあり、中国が惨虐妄行(野蛮)、蟠屈(不自由)、退歩の側にあることはいささかも疑われていない。・・・ 日清戦争の始まるころに「日清戦争の義」を書いて日本の出兵を義戦として肯定した内村は、戦争の終わるころには日本の義に疑いを抱き、以後、一貫して戦争の非を説き続け、日露戦争においても・・・戦争否定の態度を貫いた。〔内村2「余が非戦論者となりし由来(三)」:由来の一が新約聖書の研究、由来の二が争闘を自制して心の平安を得たという個人的な体験〕「わたしをして非戦論者とならしめた第三の動力は、過去十年間の世界歴史であります。日清戦争の結果は、私につくづくと戦争の害あって利のないことを教えました。その目的たる朝鮮の独立は返って危うくせられ、戦勝国たる日本の道徳は非常に腐敗し、敵国を征服しても『足尾銅山(鉱毒事件を引き起こした:補)経営者』のごとき国内の荒乱者は少しもこれを制御することができなくなりました。これが私の見た戦争(戦勝)の結果であります。もしそれ、米国における米西戦争の結果を想いますれば、これよりもさらにはなはだしいものがあります。米西戦争によって米国の国是は全く一変しました。自由国の米国は、今や明白なる圧制国となりつつあります。現役兵二万で充分としてきた米国は、今や世界第一の武装国になろうと企てつつあります。そうして米国人をこの思想の変化に導いた社会の腐敗堕落というものは実に言語に堪えないほどであります。この堕落をもたらした直接なる原因はいうまでもなく米西戦争です。」 引用の前段では、朝鮮の独立を大義名分として日清戦争を戦った日本が、戦勝後に自ら朝鮮の独立を侵す政策を実行し、国内においても戦争のゆえにかえって道徳的な腐敗が進んでいることを指摘し、もって非戦論の論拠としている。そして後段では目をアメリカに転じ、1898年のアメリカスペイン戦争がアメリカ合衆国を自由国から圧制国と一変させ、帝国主義国家の一員としていたらしめた事実を指摘して、非戦論のもう一つの論拠としている。戦争が、とりわけ戦争に勝つことが人々の冷静な判断力を低下させ、道徳的な腐敗を招くという観察は鋭い。そこには高揚するナショナリズムに危うさを見て取る国の枠を超えた普遍的にして公正な目が働いている。また、後段でアメリカスペイン戦争を視野のもとにおいて自由国をも惑わす戦争の魔力に警鐘を鳴らす目配りの大きさは、日本の言論会にあって、内村を独自の思想家たらしめる特質だと言えよう。 〔引用は以上〕上記の長い引用に多くを付け加える必要はないでしょう。内村が非戦を自らの明確な立場とするに至った理由としては、確かに(通説の通り)新約聖書の研究をとおして獲得した「キリスト教的人道主義」があったわけですが、その視線は「神の思想」だけでなく「地上の現実」にしっかりと注がれています。「朝鮮の独立を大義名分として日清戦争を戦った日本が、戦勝後に自ら朝鮮の独立を侵す政策を実行し、国内においても戦争のゆえにかえって道徳的な腐敗が進んでいる」現実、「アメリカスペイン戦争がアメリカ合衆国を自由国から圧制国と一変させ、帝国主義国家の一員としていたらしめた事実」をしっかりととらえ、それに向き合いつつ非戦の立場を明確にしているのです。 『日本精神史 上・下』も素晴らしい内容でしたが、このたび読み始めた『日本精神史 近代篇』、「大きくうねる時代に呼応する思想・文学・美術・文化に現れる『精神』を描く」長谷川宏の力作です。とおり一遍の「教科書的知識」を超え、「時代の勢い」「ナショナリズムの嵐」に抗する強靭な精神をも明確に跡付けており、多くの人たちに読んでいただきたいとあらためて思いました。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.02.21
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 佐藤優「クロ現」テキスト 混迷する世界・新時代への思い 佐藤優インタビュー全文 佐藤優の貴重なインタビューを読ませていただきました。彼の主張は極めて妥当なものだと納得できる点がほとんどでした。もっとも(うかつでしたら)私自身はこのインタビューを知らず、下記の「批判記事」で知ることができたのですが。「佐藤優クロ現問題」でNHKに批判相次ぐ―世論分断工作に加担?批判記事の要約(志葉玲)によれば、佐藤優の主張は・ロシアを一方的に“悪魔化”するのではなく、その内在的論理(相手が物事を判断するにあたって何を重要視しているかという、価値観や信念の体系)を把握すべき。・ウクライナをめぐる問題は、同国東部に住む「ロシア語を話しアイデンティティーとしてロシア人の要素が強い」という人々の処遇をめぐるものであり、最初は地域紛争だった。・停戦はロシアが占領している地域を認めることにはならない。とにかく銃を置いて、そのあと、外交交渉で問題を解決していくべき。私自身は上記、妥当な見解だと考えますが、志葉玲による批判の要点は「ウクライナ東部のロシア人としての要素が強い人々の扱い」「ウクライナにおける問題は、最初は地域紛争だった」との部分は、ウクライナにおける客観的事実というより、ロシアの内在的論理であり、「ロシアが用いる侵略正当化の物語だ」というのです。確かに批判記事には「その根拠となる事実」(例えばゼレンスキー政権下のウクライナ人に対する世論調査)が提示してあります。しかしながら、佐藤優の見解を「侵略正当化のためのでっちあげ」とするためにはより多くの事実を確認・検証することが必要でしょう。例えば、ウクライナ東部に位置するドンバス地域で2014年2月以降何が起こったのか、その真実を自分の目、耳、全身で確かめるため、フランスの女性ジャーナリスト、アンヌ=ロール・ボネルが同地に赴き、取材・制作したdocumentがあります。その地域に住む人たちの証言という「一次情報」に基づいて編集された映画だと私は判断していますが、これを捏造映画だと強弁するのでしょうか。"ドンバス 2016"ドキュメンタリー映画【日本語字幕付き】("Donbass 2016" Documentary by Anne Laure Bonnel subtitles JAPANESE) - YouTubeまた、ゼレンスキーの国会演説に反対した「れいわ新選組」の山本太郎は国連難民高等弁務官事所などの「公的機関の報告」だけを用いて、「ロシアから見た風景(ロシアの内在的論理)」が多少なりとも理由のあるものなのか、問題提起しています。ウクライナ侵略に関する山本太郎の会見 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ また、「ウクライナ戦争」開始後のウクライナ軍の「国際人道法違反」についても、アムネスティ報告があります。市民を危険にさらすウクライナ軍 アムネスティ報告について | “しょう”のブログ こちらは、アムネスティ報告の信憑性を裏付けるような記事。マリウポリから脱出した市民 証言の検証 | “しょう”のブログ以下は「永世中立国スイス」のガンザー博士の見解ですが、そもそも「内戦もなく平和だったウクライナのヤヌーコヴィッチ政権」を転覆させたユーロマイダンクーデタに対して米国がどのように関与してきたのかは遠藤誉が「全米民主主義基金(NED)」のHPから資金の流れを確認する形で検証しています。<ガンザー博士が語るウクライナ紛争:真実の裏側> 志葉玲よりも佐藤優のほうがよほど丁寧な事実確認に基づいて発言しているのではないか。現時点における私の判断です。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.02.12
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松本人志さんの“罪”を考察したブログに反響広がる「ぐうの音も出ない」「完璧すぎる論破」という記事が本日(2024年2月3日)の午前中にはYahooのトップ画面に出ていたのですが、午後には消えていました。 ブログ記事へのリンクを貼っておきます。 パオロ・マッツァリーノ公式ブログ 松本人志さんの罪についての考察と提案 小見出しも下記にコピーしていますが、例えば「3,性犯罪に無関心なテレビ局」で述べられていることの趣旨(一部)だけでも、根本的な問題が指摘されています。紹介すると・・・ 「コロナ禍では感染症の専門家たちがテレビで解説し、地震の後には地震学者が解説。今回の件でもワイドショーなどが、性犯罪を研究している学者や、性犯罪被害の弁護に詳しい弁護士といった専門家を呼んで解説してもらうべき。」「日本の性犯罪認知件数が欧米に比べて少ないのは、犯罪が起きてないからではなく、そもそも警察が性犯罪被害の訴えを門前払いしてしまうから。裁判にまでこぎつけるのは被害全体の2%くらいしかないといった、法治国家とは思えない実態がある。そういったことも含め、単なる芸能スキャンダルではなく、社会問題として扱おうとする姿勢がテレビから全然伝わってこないのは非常に残念。」上記も含めて、実に理路整然としたまっとうな見解で、多くの読者が共感したのも納得できます。 ぜひご一読ください 1,まつもtoジャニー2,的外れな人情論と損失論3,性犯罪に無関心なテレビ局4,週刊誌という入れ物を叩く人たち5,女性側の主張の信憑性は?6,携帯を取りあげる異常性7,もうひとつの罪・松本さんのパワハラ8,芸人のみなさんは河原者に戻りたいのですか?9,合意の有無でなく、合意の中身こそが重要10,記者会見の提案にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.02.03
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 「ブラタモリ」(黒部ダムの建設をめぐる)前記事で、この難工事に多くの朝鮮人が動員され犠牲になったことに触れましたが、「1945年への道 そもそも徴用工って何?」では、日本側の資料に基づいてその実態が分かりやすく説明してありました。内容は全く妥当であると判断しています。 ぜひ、動画をご覧いただければと思いますが、主な内容を「文字化」してみましたので、ご一読いただければ幸いです。 Q そもそも徴用工とは?A 朝鮮半島から「動員」されて、大日本帝国内で労務にあたった(労働させられた)人々ここでは「朝鮮から日本への労務動員」に絞る。朝鮮から日本への労務動員とは、普通は国家総動員法に基づく労務動員実施計画で動員された約72万人の男性労務者のこと。(逃亡があったため実数67万人というデータも)Q この「動員」の時期は? A 1939年から45年。Q 主な動員先は? A炭鉱(それ以外は工事現場と鉱山)韓国では実態が強制だったものはすべて徴用と呼ぶ。日本政府は「徴用はわずかな期間だけ。あとは自由契約だ」と主張するが、募集も実質は強制だった。Q 問題点は?A 多くの人は強制的に動員された。(全員ではないが)最初は募集。最初の年だけは干ばつで、朝鮮でお米が不作だったため応募が殺到した。(だが、求人条件に嘘があったら自由な意思で契約したとは言えない。)Q 嫌なら辞めればいいのでは? A 強制労働とセットだからそうはいかない。動員が始まった半年後に「特高警察」がさまざまなトラブルをまとめている(求人条件と実態が違うとして起こった紛争も報告されている。)Q 募集による労務動員というタテマエだった頃から、既に実際は当局が強制的に動員したことを示す当時の文書がある。例:「実務は朝鮮官憲によって強制供出する手はずになっている、すなわち警察において、割当数を必ず集める。」(募集した企業がこういう認識だった。)1942年からは官斡旋と言って当局が正式に応募者を斡旋したが、年を追ってどんどん強烈な強制になった。1944年には朝鮮総督府の官報にこう書かれている。「労務に応じて希望の有無を無視し、各行政機関に供出を割り当て(強制供出)させていることは問題だと総督府のナンバーツーが説教した」ということだが、焼石に水。Q 実態は?A その三か月後に朝鮮を視察した東京の役人の出張報告によれば「出動は全く拉致同様、夜襲、誘い出し、その他の方策を講じて人質的掠奪・拉致の事例が多くなる。」(口が裂けても自由契約なんて言えないが、これが「官斡旋」。)そして44年9月からは正式に徴用開始。これは文句なしに強制。Q 2つ目の問題点は? A 強制労働。退職の自由がなかった。(縛りつけられていた)Q 縛った方法は?A1 日本に連れてこられた労務者は全員「協和会」という組織に加入させられた。協和会の会員証には職場がどこだと書いてある。会員証に書かれた職場と違うところにいたら捕まって連れ戻された。A2 宿舎を塀や鉄条網で囲って閉じ込めた多くの記録がある。Q 全部そうだったのか?A 監禁・軟禁は動員先によって違うが、強制貯金は全国共通。朝鮮総督府のマニュアルに生活費以外は貯金させろと書いてある。(貯金通帳を取り上げたら逃げにくい。)資料:業界団体が朝鮮人労務者の扱いのアンケートをまとめた冊子(日立鉱山の回答)「通帳は会社事務所が保管し、特別の事情がなければ、預金の払戻の取り扱いをしない。」Q 酷使虐待の実態は?A 場所によってさまざまだが、酷使は長時間労働休みなし。病気でも無理に出勤させる。朝鮮人労務者の大半は肉体重労働に回されたから長時間労働はなおさら危険。官報の統計によれば、一番きつい採炭夫に優先的に回されている。具合が悪いと申し出ただけで殴られたり蹴られたり、そんな暴力的酷使虐待が日常化していたことは、特高警察の月報にも残っている。殺した事例もある。※ 以上のような加害者側の記録が被害者の証言を裏づけている。Q 賃金不払いの実態は?賃金から寮費、食費を天引きし、それ以外は国元への送金と貯金。※国元への送金があまり届かなかった会社が一括送金する約束だったが、真面目に送金しなかった会社が多かったため。(国元の家族は働き手を取られ、お金も入らずめちゃくちゃになった。) Q 終戦で動員が終わった後は?A 貯金やら何やらきちんと清算しなかったところが多い。不払いの総額はわかっているだけで2億円近いとする政府の資料もある。(当時の金額)Q 戦後の対応は?A 終戦直後を除いて不払い賃金も賠償もいくつかの例外を除いて何も払ってないし、払うのをとことん拒んできた。なかったことにしようとする連中まで出てくる始末。これは朝鮮人労務者の慰霊碑を立てる事が出来た数少ない例(群馬県) 県庁がこれをどけろと言って裁判になっている。周りには強制連行は嘘だと言って史実を歪めようとしている連中がいる。史実が史実だと示すために今回は日本側の資料に絞って出した。が、実際の現場では生身の人間の血が流れた。その有様を知るには少しでもいいから被害者の証言を素直に読んでほしいと思う。ましてなかったことにさせてはいけない。 群馬県による撤去(代執行)に反対する声明 関連する東京新聞の記事 群馬・朝鮮人追悼碑の撤去、海外からも撤去反対の声 200人超署名 (msn.com)(社説)朝鮮人追悼碑 知事は撤去を中止せよ:朝日新聞デジタル (asahi.com) 2024年1月29日、ついに県による撤去作業が始まりました。遺憾というよりも恥ずかしいです。「戦後50年」の節目に来日したワイツゼッカー(もと西ドイツ大統領)が、「自らの非も含めて勇気をもって歴史と向き合う」ことを訴えていたことを思い出します。(1.29付記)群馬の森「朝鮮人追悼碑」代執行で撤去方針…それで「政治的な紛争」はなくなる? 抗議が止まらない理由とは:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp) 撤去直前の東京新聞の記事も上記に加えました。(2.4付記) 「戦後処理の問題」にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.01.28
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) ブラタモリは、私が好んでいるNHKの番組だ。 それぞれの地域の特徴を「ぶらぶら歩きながら、タモリが色々な問いかけ(地理的、地学的、歴史的問いかけ)に応え解き明かしていく」という視聴者の好奇心をかき立ててやまない番組。1月20日(土)に放送されたのは「秘境!黒部峡谷」の2回目だった。 前週は「絶景」を強調する回だったが、このたびは近々観光客にも開放される「黒部峡谷鉄道」に乗って、黒部ダム(とりわけ黒部第三ダム)の建設がいかに難工事だったのかを知らせ、考えさせる内容だった。 前回以上にわかりやすく素晴らしい内容だったともいえるが、「先人の膨大な労力によって戦後の発展も支えられた、すごいなあ」と無邪気に感動するだけで済ませてはならない問題が伏せられており、「いったい誰がその難工事に立ち向かったのか」を深める問いがなかったのは残念だった。 以下、紹介していきたい。 素晴らしい絶景のなかにある黒三発電所が完成したのは1940(昭和15)年。日本が戦争に向かっていく時代と説明されていたが、すでに「日中戦争のまっただなか」である。当然、軍需工場をフル稼働させるためにも膨大な電力が必要で、黒三の建設計画は重要な国策だったが、ダムの建設は困難を極めた。 難工事を実感させる当時の映像によれば、当初資材は断崖にかろうじて通れる幅の道をつくり、そこを歩いて人力で運ばれていた。地形があまりに急峻だったため、トロッコの線路を延長することができなかったわけだ。(当然、転落事故もあっただろう:引用者)。このように膨大な時間と労力(と人命)を費やす状況を打開するために、トロッコをそのまま高い位置へ引き上げるエレベーターがつくられたという。 大型の重機もない時代につくられた200メートル以上の巨大エレベーター。(それ自体が相当な難工事だったと考えられる。) 工事をさらに困難にしたのが「高熱隧道(すいどう)」だった。二つの地層の境目から湧きあがったマグマによって岩盤が熱せられた結果、60℃近い熱気の中、後ろから水をかけてもらいながら20分交代で24時間掘り続けられた。(番組では紹介されていないが、高熱のためにダイナマイトが自然発火して爆発する、という事故もあったという。) 番組で、第三発電所のダムについては大量の電力を供給することで軍需産業だけでなく戦後の復興期においても人々の暮らしや産業を支え続けた、とまとめられた。 しかしながら、番組の途中・終了後に私が気になったのは、この工事にたくさんの朝鮮人労働者が「動員」され、犠牲になった事実があったのではないか、ということである。日本人男性が次々に徴兵される時期の「国策事業」だけに、当然予想できることだ。博学のタモリのこと、おそらくそのような問いが発せられれば容易に思いいたったと考えられる。が、この番組においては最後までそのような問いが発せられることはなかった。NHKが関東大震災時における「朝鮮人虐殺」について、逃げることなく真っ向から扱っていたことを評価していただけに残念だった。 調べた結果、私が思ったとおり多くの朝鮮人労働者が動員され、たくさんの犠牲者を出していたことを中日新聞で確認できた。堀江節子によってまとめられ出版された「黒三ダムと朝鮮人労働者」、是非読んでみたい。 ⇒ 黒部ダムだけでなく、朝鮮人動員の史実にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.01.21
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「能登地震」現地を自分の目で見て、人々の話を聴いた上での提案(山本太郎による提案)の一部です。 当然の内容だと考えていますが、いかがでしょう。リンク先の全文もご一読下さい。 【提案◎ いつまでに出来るかの見通しを示せ】 今回、聴き取りを行った全ての被災者に、最後の質問として「政府が一つだけ何でもやってくれると言うなら何を望むか」と聞いた。 この災害で自宅全壊となった者でも国のお金で自宅を再建して欲しい、とは言わなかった。 出された要望は、「水」「食事」「トイレ」「お風呂」「電波」が最も多かった。 控えめで自立心旺盛、我慢強い能登の人々が望んだことは目の前のこと。 加えて、欲しいものは「見通し」であった。 元旦からお風呂に入っていない被災者たち。 いつお風呂に入れるか、見通しがわかれば待てる、という。 避難所で自前の灯油で暖をとる被災者。 いつ灯油が届くかの見通しがあれば、節約しながら何とか凌ぐという。 でもそのようなインフォメーションはない。 暗闇の中にいるようだと話されていた。被災者は無理なお願いを政府にしているのだろうか? 見通しを示してほしい。現実的で最低限のお願いではないだろうか。【提案◎ 現場を見ろ。安心させろ】 交通渋滞による物資の滞りを理由に総理が被災地入りを見合わせるとの報道があった。 国会議員の視察を含めて控えることを与野党でも合意されたと。 それについてどう思うかを被災者に聞いた。「意味がわからないんですけど」「どうしてですか?」「ヘリで来れば良いじゃないですか」との意見が相次いだ。 総理や政治家が役人からの報告やテキストだけでわかった気になり、被災地のことを決めていくことへの不安感ではないだろうか。 この極限状態を前に、現場を自分の眼で見ずに知らずに政治決定を行えるというなら、AIが代行すれば良いのではないか? AIなら裏金問題や一部の者だけへの忖度も、権力維持のことしか考えない振る舞いもしないだろう。 一方で、目の前で困っているのは血の通った人間で、この国に生きる大切な宝だ。 総理の被災地訪問の見合わせに対して、現場を直接見て、被災者の声を聞いて、しっかり取り組むと約束をして欲しい、との声が多かった。 心配するな。国がちゃんとやる、と能登半島で約束をして、不安の中にいる能登の人々を安心させていただきたい。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.01.08
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 以下は、番組の最後の言葉です。フランスの哲学者サルトルは世界大戦の脅威や格差の拡大、右派勢力の台頭など、世界の危機に触れ、こんな言葉を残しています。「世界は醜く不正で希望がないように見える。だが。私はこれに抵抗する。希望の未来を語らなければならない。」以下、番組後半の主だった内容・発言を抜粋・要約・紹介します。 フランシス・フクヤマ氏(米スタンフォード大学教授・国際政治学)「冷戦終結は非常にうれしかった。共産主義国が民主主義国に置き換わり広がることは、世界にとって非常にいい結果だと思った。しかし、多くのことが起きて、民主主義の後退を招いた。アメリカによる民主主義を根付かせようという試みはうまくいかなかった。中東諸国で広がった『アラブの春』が波及したリビアやシリアでは、内戦によって多くの難民が生み出されている。」今また増え続ける壁と国連の意義とは?【サンデーモーニング新春スペシャル】 | TBS NEWS DIG (1ページ) ヨーロッパでは流入する難民を阻止するためのフェンスが築かれ、人々の心に不寛容、排他主義という新たな「壁」が生みだされており、さらにいえば冷戦以来、かつてないほど核兵器が使用されるリスクが高まっている。国連安保理でこう訴えたのは国連事務次長(軍縮担当)、中満泉さん。・実際にロシアはウクライナ戦争に際し、(欧米諸国に対して)核による威嚇を行った。・イスラエルの閣僚はパレスチナに対する核兵器使用も選択肢の一つと述べた。しのびよる核戦争の危機。それを防ぐべくウクライナやガザでの停戦を求めた国連安全保障理事会において、ウクライナからのロシアの即時撤退を求める決議案は、ロシアの拒否権行使で否決。ガザの戦争の一時停止を求める決議案はアメリカの拒否権行使で否決。国連安保理が戦争を止められない事態。 ガザはもう2万人の犠牲者を超える状況に達している。私たちに(国連職員)にとっては非常に衝撃的なことでもある。非常に苦しいし、無力感もある。もっと何かできることがあるのでは?毎日考えながら仕事をしている。私たち国連の持っている「武器」というのは言葉・メッセージ。分断する世界で改めて国連の意義が問われている。 イスラエル 攻撃続ける背景は|au Webポータル国際ニュース (auone.jp) 国連安全保障理事会では常任理事国一か国でも拒否権を行使すれば否決される。他方、全ての加盟国が参加できる国連総会の決議には法的拘束力はないが、ロシアの反対するウクライナからの撤退、アメリカの反対するガザでの即時停戦の決議は、圧倒的多数で採択されている。法的拘束力のない総会の決議に大きな権限を与えるべきという声が加盟国で強まっている。〔以下、コメンテーターの発言〕安田:「ガザに対して核兵器を使用することも選択肢の一つ」という発言直後にお会いした長崎の被爆者の話。「ガザ起こっていることは、自分が体験したあの日の再来だ」。国連が機能不全といわれるが、この人を始め、被爆者の方々の努力もあり国連で核兵器禁止条約採択がされた。どんな社会の変化も人の声から生まれてくる。ガザ停戦についても世界を見渡せば大きなデモが起こっている。ここでは「〇〇陣営」ではなく、人権に基づく考え方によって壁を越えていくことが大切ではないか?今ほど核使用のリスクが高まったことはない。大国主義的なもの、ほかの国を従え動かそうとする大国のエゴ、国連での拒否権の使いかた、これは、ロシアもイスラエルを支持し続けるアメリカも同じ。大国のエゴに任せていたら世界が壊れてしまう。そこからの脱却が必要。核兵器禁止条約は、核兵器を持っている国が反対をしても国際法がつくれるというその証明になった。国連が機能不全だというだけではなく、できることをやっていかなければ。寺島:番組では、「民主主義対権威主義」という図式が提示されたが、日本人として自ら問いかけたい。日本は「民主主義」に立っている国だと言えるのか?本当の意味で民主主義を鍛えていこうという意志があるのか。他国の人と会話する中で指摘される。「日本くらい権威主義的な国はない。権威に弱い、国家に対する依存、国家に対する甘えも含めて。日本における民主主義を本当に成熟させる覚悟を持っているのか大いに疑問だ」と。世界は分断しようとするエネルギーに満ち溢れているが、分断してはいけないというエネルギーもある。例えば国連総会の議論。「グローバルサウス」の人たちは分断してくれるなというエネルギーを出しはじめている。そうした中で日本は分断のどちらかに立つということではなく、分断を乗り越える新しい理念を発信している国に加わっていくのかどうか。青木:僕らは足元を見なきゃいけない。冷戦が終わり、ベルリンの壁が崩れたしばらく後で、日本はバブル崩壊してその後も「失われた30年」という時代を過ごしてきた。社会そのものの持続可能性すら失われたといわれている。しかも軍事偏重であるとか「戦後の矜持」が失われて、「おめでとう」なんて言える状況じゃない年明けを迎えた。これまでの30年というのは決して良い時代じゃなかったが、今後の30年をどうして行くのか。我々は真剣に30年位を展望しながら今年を考えていくという点で、2024年というのは重要な年になるかもしれないし、重要な年になくちゃいけない。関口:今日は壁というものを中心に世界を見てまいりましたが、最後にこちらをご覧いただきたいと思います。終わらない戦争によって世界が大きく壊れつつある時代、立ちはだかる壁、そして見えざる壁がもたらす分断が対立と憎悪を生み、民主主義の希望も色あせたかに見えます。(ここで、冒頭の文章に続く)フランスの哲学者サルトルは世界大戦の脅威や格差の拡大、右派勢力の台頭など、世界の危機に触れ、こんな言葉を残しています。「世界は醜く不正で希望がないように見える。だが。私はこれに抵抗する。希望の未来を語らなければならない。」私たちは壊れようとする世界を救えるのか?〔comment〕 私は(もちろん)上記報道に対して全面的に賛同するわけではありません。とりわけバイデン米大統領が多用する「民主主義対専制主義」という図式には懐疑的で、「民主主義を装った米国による悪質な内政干渉」が紛争を誘発している例は極めて多いと判断しています。(例:ウクライナのマイダンクーデタ) しかしながら、番組の結論付近の主張のいくつか、コメンテーターの問題提起には一定の説得力があると考えています。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.01.08
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) このたびの記事はイスラエルの夫婦とサルトルの続きになります。イスラエルによる「パレスチナガザ地区占領の不当性を訴え民族の共存をめざす困難な取り組み」を進めるにあたって、なぜこの夫婦が「サルトル思想」を有効だと考えたのか。私は前記事でそれに触れましたが、「ガザ地区の占領を正当化するまっとうな人々」の論理を内側から理解するのに役立つだけではなく、私たち自身の中にあるかもしれない「恐ろしいもの」を自覚する機会にもなりうると考えています。以下、〇十年前に書いた卒業論文の一部を転載するとともに『実存と暴力』を援用することで、サルトルが執筆した『聖ジュネ』のごく概要を紹介します。〔内容紹介〕1952年になってサルトルは『聖ジュネ』を発表した。この著作によってわれわれは、それまで人間の主体性という一面を強調してきたサルトルが、人間の対象性(対象としての人間の姿〔=対他存在〕、人間の行動がとる客観的な意味)に対する認識を深化させていったことを知ることができる。『聖ジュネ』というのは、『花のノートルダム』や『泥棒日記』の作者であるジャン=ジュネの作品と生涯を、サルトル独自の「実存的精神分析」という方法を用いて、徹底的に解明したものである。だが、本稿ではとてもその詳しい内容にまで立ち入る余裕はない。ここでは『聖ジュネ』の最終章「ジュネ善用のための祈り」を中心に見ていくことにしよう。彼はそこで、人間は「自己にとっての主体であると同時に、他者にとっての客体(対象物)である」という事実を強調する。言い換えるならば、人間は何らかの目的を目指して行動する主体であると同時に、他者によって対象化され意味づけられる客体である、という事実を強調するのである。そして、主体としての私は、特に「羞恥」といった意識によって、他者によってまなざされ客体化した私の姿(=対他存在)を感じる。たとえば職業上の失敗や粗忽な失策、過ちややりそこないの際に私たちは羞恥、孤独という意識のさなかで他者によってまなざされた自己の客体制(対他存在)を感じるのである。「突然他人たちが私たちを見ており、私たちは対象物(客体)になり変わっている。私たちは自分が見つめられているのを感じ、自分が赤くなりまた青くなるのを感じる」そして、このように他者によって見られた対象(客体)としての私と、主体としての私との間には、常にいくばくかの分離が存在する。特に、わたしは主観的には善意でありながら、人々の目から見れば客観的には悪人である、という場合などがそうである。「孤独の体験」とは、このような「主観と客観との分離」によって生じる体験なのである。サルトルは言っている。「人間は過失を犯し、しかも同時に身に道理を持つときこそ孤独である。」「諸君は自分がもはや、すべての人々の目に、罪深い対象物(客体)に過ぎないものとなりはて、しかも一方、諸君の良心〔意識〕がどう考えてみても自己肯定をやめないことを身に味わい知るならば、孤独となるだろう。自らが主観的には純粋な善意によって行動しながら、同時に客観的には「有罪」である場合、人間はいかなる態度をとるべきなのであろうか。サルトルは、ジャン・ジュネとブハーリン(注)との二人がとった態度について述べている。(注:ロシアの政治家、トロツキストであるとしてスターリンの命令で銃殺された。)ジャン・ジュネは捨て子であった。彼は、ある農家に引き取られて、農村特有の保守的世界観(土地を持つ農民の嫡出子として存在することが善であり、この善なる存在だけが正当な権利を持って財を所有できる、という世界観)を素直に受け入れて育つ。だが、捨て子であるジュネは、誰の嫡出子でもないし、何一つ所有していない。ジュネは、このような不快な現実を子どもらしい仕方で解決しようとする。誰の嫡出子でもない彼は自分が神の嫡出子であると信じることによって自らを根拠づけ、何も所有していない彼は、家のものを盗んで所有することによって自らをその所有者たらしめた。要するに彼は、「神の嫡出子として正当な権利を持って財を所有する子どもを演じたのである。当時彼には自分が罪を犯しているという意識は全くなかった。ところがある日のこと、「財布の中の手がつかまえられた。誰かが部屋に入ってきて彼を眺めているのだ。(・・・)ひとつの声が公然と宣告する〈お前は泥棒だ〉と。ジュネは仰天して「そんな意図はないのだ」、と陳弁に努めるが彼には反駁できない巧弁によって圧倒される。彼は盗みを働いた。だから彼は泥棒である。捨て子であるジュネは、人々によって、本質的に泥棒である存在として意味づけられてしまう。従順で天涯孤独なジュネは、その意味づけを拒否することはできない。さらに、農村の人々はジュネを本質的な泥棒・悪人として農村社会から排除しようとする。彼らはジュネを悪人として追放することによって自分たちが善人であることを確認するのである。それはまさにジュネにとって絶望的な状況であった。しかし、「彼の峻厳にして荒涼たる魂は、恥辱を受けてもそれを超えて生きる意志と、打ち勝つ信念とを持っている。」そして「彼は生きることを選びすべての人に向かっていった。僕は泥棒になるぞ、と」。こうしてジュネは泥棒として、悪人として生きることを決意する。そして、これ以降彼は、泥棒として、悪人として生き抜くために、あらゆる状況に抗して様々な努力を試みるのである。以上が、自らの「客体性」に対してジュネの取った態度である。彼は、他者によって意味づけられた自己の客体性(=泥棒)を引き受け、泥棒として生き抜くことを決意する。この決意こそが、あの絶望的な状況において自らの自由(主体性)を回復するためにジュネの取りえた唯一の道なのである。さて、それではジュネを本質的な泥棒・悪人として農村社会から排除した人々(「真っ当な人々」)についてどのように考えるべきなのだろうか。サルトルはこう書いている。「平和のために社会は賢明にも職業的な悪人を創造したと私は思い切って言おう。善人が自分の自由を前にしていだいた恐怖から出たものである悪は根源的には投影でありカタルシスである。従って悪は常に客体だ、」と。つまり人間は自分を善人へと構成するためには、骨の髄まで悪の塊である「対象=悪」を自分の外側に投影的・投射的に産み落とさねばならない。なぜなら全ての諸悪がそこから由来するような「悪」という純粋存在が自分の外側に存在してこそ、われわれは自分をそのような「悪という他者」とは別の存在であるがゆえに、完璧に善人である存在、完全に正当である存在として自らを構成できるからだ。それは自分を是が非でも善人と思いたがっている我々にとって欠かすことのできない自己浄化の儀式なのだ。そして我々はこの悪を作り出すためには、我が「内なる悪の欲動」をあげてその上に投射し、そうすることで自分から遠ざけるための、いわば悪の依代(よりしろ)を必要とする。〔紹介は以上〕 記事冒頭で私は「ガザ地区の占領を正当化するまっとうな人々」の論理を内側から理解するのに役立つだけではなく、私たち自身の中にあるかもしれない「恐ろしいもの」を自覚する機会にもなりうると述べました。いかがでしょうか。例えば国際関係において、太平洋戦争時の「鬼畜米英」を持ちだすまでもなく、対立関係にある「敵国」の悪を一方的に強調することで、自らを正当化する場面が私たちのうちになかったでしょうか。 例えば、日韓関係や日中関係がこじれた場面をいくつか振り返ってみると、韓国語・あるいは中国語で発信された情報をきちんと検証するという過程を踏まないで「あいつらが悪いに決まっている」と最初から決めつけ「国家としての日本の対応を正当化する」ことがほとんどだったように感じます。しかも、「敵対する」国を一方的に悪者にし、「愚かだといってバカにする」記事が売れるので、報道機関もまともな検証をさぼっているのではないか。 日韓の軋轢をめぐる報道について 「処理水」放出に関する国際的な問題 「レーダー照射問題」に際して韓国の報道機関の記者たちが「日本ではこのように報道されている。韓国政府の主張と食い違っているが、実際はどうなのだ」と自国政府を追及していたのとは対照的です。「双方の主張が食い違っている」という一点が客観的な事実だったとすれば、「実際はどうなのかを検証・確認」するのが報道機関の役割(それを求めていくことが読者や視聴者の役割)と考えるのですが、いかがでしょう。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など(
2023.12.31
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 11月25日、立教大学で開催された『竹内芳郎 その思想と時代』合評会シンポジウムにおける登壇者の一人‐清眞人の著書に『実存と暴力』があります。第一章「サルトルは誰によって読まれたか」の冒頭でガザ地区に関連する著書が紹介されますので、その部分を要約・抜粋します。『サルトルと悪』‐闘争のためのガイドライン‐。著者は「ガザ地区でイスラエル人とパレスチナ人の共生の道を探り出すべくイスラエル政府の占領政策に反対し、パレスチナ人の人権擁護のために活動している夫婦のイスラエル知識人」である。その序文の一節にこうある。自分たちがサルトルの考察に取り組んだ主要な理由は、イスラエルと中東における自由と正義と平和を求める我々の限界の多い仕事において、また世界の他の多くの地域で悪が立ちあらわれる様を読み解く上で、我々はサルトルの著作が悪と戦うためのガイダンス(その常なる一源泉)であることを見出してきたからだ。 ここで著者たち(イスラエル人夫婦)が取り上げた悪についての注釈・定義が必要・・・。Q 悪をいかに定義するのか?もしそう問われるなら、サルトルは悪とはどんなものであれ、「個人の自由を意図的に破壊する試みのことだ」と言うだろう。この目標を達成するためには抑圧、搾取、奴隷化、あるいは殺害が必要となる。この定義のうちには、悪の成功者は彼がその自由を軽視し、尊重しない個人を客体(モノ)にするということが含まれている。著者たち(イスラエル知識人夫婦)の中では、この意味での悪との闘争が問題となっている。そしてサルトルの思想はこのような闘争のガイドラインを提供するというのだ。すなわち、この他者の自由を破壊する悪の暴力は、その自分の悪行をまさに善の遂行・実現のための正当なる行為として、他者の前にも自分の前にも描き出さねばならないということ。したがって、悪の暴力の立ち現われというのは、常に自己欺瞞とからくり仕掛けに満ちた動きを伴っている。彼らの本の比類ない特色はサルトルの著作のうち、従来は文学的ジャンルに配置され、取り扱われてきている『聖ジュネ』や『家のバカ息子』を、「悪に対する闘争のための特別なガイダンスを提供する書物」として、彼らの取り組む切実な「平和と人権のための闘争」とからむ実践的関心から徹底的に読み解こうとする点にある。 したがって、この書物には、彼ら自身の政治的実践とサルトルの洞察との突き合わせが随所にあらわれる。この点でそれはいわゆるアカデミックな哲学書と趣を異にしている。例を示そう。彼らは1989年から1990年にかけて。テルアビブの66人の教授に対して、パレスチナ人のインティファーダ(蜂起)に対して四つの質問を設定し、アンケート調査を行う。彼らはこう書いている。これらの質問に答えることに同意したのは、わずか41名のユダヤ人教授であった。我々を驚かせたのは、教授たちの80%以上が一貫して行っているのは、サルトルが「真っ当な人々」(自らをまっとうな人間と見なす人々:補)と呼んだ人間のそれにとどまっているということであった。イスラエルの粗野な政策の支持者も、非難者も共に本質的な点では団結していた。すなわち、イスラエル社会はもろもちろん小さな錯誤や解決を要するいくつかの実践的諸問題があるにせよ「善のおおもと」であり、他方パレスチナ人は「反乱をする叛徒」だという点で。つまり真っ当な人々として、彼らは「イスラエルが正義であるという一般的な合意」から離れようとはしなかったのである。彼らは占領地域に存在している抑圧や搾取の状況に対して、いかなる個人的な責任もとることを拒否した。 サルトルならば、こう言ったであろう。「彼らは存在の煩わされることなき充足に自分たちの身を任せることでリラックスすることを選んだのであろう」と。ヴィーゼルは、パレスチナ人のインティファーダに関する彼の声明や文書の中で、「イスラエルの政策によってパレスチナ人に加えられた恐るべき苦難」については一度も語らなかった。彼の根拠は常にこうである。ユダヤ人が過去において被ってきた受難(それは死のホロコーストを含む)をふまえれば、何人もイスラエルによる「自己防衛の行動」を非難する権利を持たない。ユダヤ人を裁く権利を持ついかなる人間の法廷もありえない。ヴィーゼルは手元で起きている事柄に対しては不能になることを選ぶのだ。すなわち、「自由のためのパレスチナ人の闘争」に関しては。このような問題、理解を導く悪との闘争のガイダンス、それこそ著者たち(イスラエルの知識人夫婦)がサルトルから引き出すものだ。 要約・紹介は以上です。イスラエル内部でガザ地区への暴力を容認せず「平和的共存」をめざすイスラエル人夫婦がサルトル思想に深く学ぼうとしていることについて個人的な関心は大きいのですが、そうでなくても『実存と暴力』をあらためて読み直すことには意義があると感じました。サルトルの『聖ジュネ』や『家のばか息子』についても、関心のある方は是非ご一読を、と考えています。※そうはいっても、例えば『聖ジュネ』の内容についてごく概略でも紹介すべきだろうと考えました。註としてPDFファイルへリンクを張るか、次回の記事で紹介することにします。(12.25付記)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など(
2023.12.24
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版)Q「グローバル難民フォーラム」とは?4年に一度開催される国際会合(難民支援の取り組みを共有する場)。政府機関、国際金融機関、民間企業、人道機関、開発機関、難民当事者、市民社会の代表が世界中から集まる。Q 開催の実績は?2019年に第1回が開催され、2023年12月13日から15日、第2回がスイス・ジュネーブで開催された。 第1回では、長期的支援に向けた770以上の「宣言」が提出され、雇用、子どもの就学、政策の変更、第三国定住などの解決策、インフラ、受け入れ国・地域に対する支援など、多岐にわたる分野におよんだ。 〔第2回の開催直前に報道された「時論公論」難民危機にどう対処するか 日本の役割は〕(上記番組を要約すると以下のような内容だった) ウクライナ戦争、ガザ地区へのイスラエル侵攻、気候変動や干ばつを背景とする内戦などによる難民が世界で益々増加しているなか、開かれるこの度の「難民フォーラム」。 日本の市民社会や企業からも約20件の支援策が表明される見通し。もっとも早く名乗りを上げた愛知県の高校はICTを活用して国内外の学校と対話し、難民問題の解決に向けた取り組みを学びながら、さまざまな支援活動に参加する計画。ウクライナやシリアなどの学生を受け入れてきた一般財団法人パスウェイズジャパンと国際基督教大学財団は、国内16の大学と九つの日本語学校の協力を得て、これまでの62人に加え新たに116人を受け入れる。 日本は他の先進国と比べ、難民の受け入れ数が極端に少なく、難民に閉鎖的だと批判されてきた。Q 前回の「グローバル難民フォーラム」以降の変化は?これまで二桁にとどまっていた難民認定者数は去年初めて200人を超え、避難先の国から別の国に難民を移す第三国定住制度による難民の受け入れも101世帯276人になった。三年前からは単身者も含めアジア各国に滞在する難民に対象を拡大。 とは言え、「日本は難民にとってはまだ狭き門」であることに変わりはない。Q 日本に難民として来ることができたとしても、発生している問題は?A 生計を立てるのが容易でなく、難民支援者の間ではウクライナ以外の人たちにもっと目を向けてほしいといった声が聞かれる。例)タリバン支配後のアフガニスタンからはおよそ800人が日本に避難し、そのうち日本大使館で働いていた現地職員と家族147人が去年難民認定され、今年はジャイカの職員と家族114人が認定された。しかし、認定された後も多くの人たちが困窮を訴えている。アフガニスタンからの逃れてきた難民の7割近くが大学院または大学卒で、現地では大学の副学部長や医師、大学教員などを勤めていたが、日本では6割がアルバイトや派遣の仕事。正規雇用されている人は1割にとどまる。2割が失業中。子ども4、5人抱えながらも半数以上の世帯が月収15万円以下。30代の元大使館職員は妻と子ども4人を抱え、昼間日本語学校で学んだ後、夜の7時から翌朝5時まで弁当を作る工場で働いているが、それでも毎月10万円以上の赤字だという。また日本の大学院で学んだ留学生の中には日本の将来に希望が持てず、ドイツやカナダ、イギリスなどに移り住む人も少なくない。高学歴でも思うような仕事に就けず、苦しい生活を余儀なくされている実態。 Q その最大の障害は? A 言葉の壁。難民の定住支援プログラムで、日本語の習得に572時間あてられているが、仕事に就くにはとても足りず、難民の多くはもっと日本語を学ぶ機会を与えてほしいと訴える。日本語が出来ないため安定した仕事に就けず、子どももアルバイトに追われる。勉強の時間が取れないという貧困と低学歴の負の連鎖が続いている。日本が難民を受け入れるには、国と自治体、地域社会の連携の強化が不可欠。また、省庁間の調整も充分ではない。難民たちが支援に頼り切るのではなく、自立し、責任ある社会の一員となるのは日本の利益でもある。そのためには、「迫害から逃れ、保護を求めている人たち」を誰一人取り残さず分け隔てなく、きめ細かな支援を社会全体で提供することが、今後ますます重要になってくる。 〔comment〕 報道からは、「人権後進国日本」の実態がわずかながらも変化しつつある様子が浮かび上がります。ウシュマさんの死亡の背景にある実態への強い批判、(難民認定の現状や、認定されない個人の処遇への批判)が報道特集なども含めて明確になされてきたこと、また、戦争や内戦から逃れてきた人たちへの処遇が「ウクライナと別の地域で差がありすぎることに対する批判」が背景にあると思われます。 しかしながら、「狭き門」の日本において「運よく」難民認定されたとしても、その後の大きな問題が解決されないままにきている、ということにも目を向けるべきことが番組を通してよく理解できました。「グローバル難民フォーラム」を機にそのような問題に目を向けること、地道ながら「持論公論」のような報道・発信に注目することはやはり大切であると考えます。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.12.16
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 実に説得力のある演説。 まったくその通りだと感じましたがいかがでしょうか。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.11.28
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『竹内芳郎 その思想と時代』の合評会シンポジウムが近づいてきました。〔11月15日、予定通り実施されました。:12月9日付記〕「執筆者を中心に論考の解題や相互批評を行い、竹内芳郎の業績・今日的意義を考える」会。 当日、登壇される6人も相当な方々で著書も多数。興味深い充実した会になりそうです。 以下、登壇者の名前と主な著書・論文・対談とリンクを貼っておきます。日時:2023年11月25日(土) 15 : 00 - 18 : 00(開場:14:00)第一部 「戦後日本でサルトルはいかに受容されたか」登壇者:永野潤、小林成彬、澤田直 司会・コメンテーター:竹本研史第二部 「竹内芳郎とともにマルクス(主義)を再考する」登壇者:北見秀司、清眞人、佐々木隆治 司会・コメンテーター:田崎英明場所:立教大学池袋キャンパス本館1階1104 教室(対面とオンラインによる開催)参加費:無料にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.11.12
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 以前、私が高く評価している思想家である竹内芳郎の著作集を宣伝しましたが、このたび彼の哲学・思想に関する論文集『竹内芳郎 その思想と時代』(閏月社 版元ドットコムでも公開)が発刊されることになりました。執筆者の多くはサルトル学会に所属する練達、あるいは気鋭の研究者。さらには、斎藤幸平(『人新世の資本論の著者』)の兄貴分のような存在である佐々木隆治も執筆者の一人です。 大まかな内容は上記HPで紹介されている「目次」や「まえがき」からもつかめます。〔以下、一部転載〕I鈴木道彦/竹内芳郎と私海老坂武/回想の中の竹内芳郎II澤田直 /サルトル受容者としての竹内芳郎永野潤 /竹内芳郎とサルトル──裸形の倫理小林成彬 /日本で哲学をすること──竹内芳郎の〈闘い〉佐々木隆治 /竹内芳郎のマルクス主義──日本的精神風土を打破するために清眞人 /竹内芳郎『言語・その解体と創造』の意義と問題性北見秀司 /変革主体をめぐって──竹内芳郎とマルクス、サルトル、民主主義池上聡一 /竹内文化論・宗教論をたどる──『文化の理論のために』、『意味への渇き』を中心に鈴木一郎 /人権の哲学的基礎付け──なぜ人を殺してはいけないのか?III福地俊夫 /討論塾の理念と実践德宮峻 /竹内さんと『討論』のころまえがき (・・・) ここではまず、竹内芳郎の思想的歩みについて、ごく概略ではあるが触れておきたい。 戦後、『サルトル哲学序説』、『実存的自由の冒険』(ともに『竹内芳郎著作集』第一巻、閏月社、二〇二一年所収)など、ニーチェ、ベルグソン、サルトルの「思想体験」から思索を始めた彼は、一九五〇年代後半から「マルクス主義」の理論とその歩みをとことん学び、教条化した旧マルクス主義を乗り越えるための論考(「唯物論のマルクス主義的形態」に始まる)を通して史的唯物論や近代科学の弱点である認識論を問い直し、その弁証法的再構成のために奮闘した。 そして竹内は、一九六〇年代後半の学生叛乱などへ真摯に応答する経験を積み重ね、「文化革命」(さらに直接民主主義的な変革)を展望しつつ、新たな思想形成に取り組む。六九年の『文化と革命』、七二年『言語・その解体と創造』、七五年の『国家と文明』、さらには「あらゆる文化現象を整除しうる一般記号学を建設し、〈文明転換〉の課題にしっかりした理論的基礎を提供する作業」に正面から挑んだ『文化の理論のために』の執筆がそれにあたる。 その後、竹内は、日本における集団同調的な思考・行動様式の底にある「天皇教=天皇制的心性」について解明するため『意味への渇き』を発刊する(八八年)。「人類の全宗教表象を整除しつつその中にこれ(天皇教)を的確に位置づけてその特性を浮き彫りにする」試み、そして「万人平等思想」と「人権思想」の根源に迫る労作である。 さて、本書(『竹内芳郎 その思想と時代』)は文字どおり、時代に正面から向き合い全力で応答していく彼自身の思想的営為を浮き彫りにすることをめざして編まれた。(後略) 関心のある方は、ぜひご一読ください。 「サルトル学会による合評会シンポジウム」も行われるとのこと。on-line参加もできるようです。関心のある方はHPから・・・。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.11.02
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) イスラエルによって実質的に封鎖されて(燃料・水・食料などが断たれて)いるガザ地区の人道危機がさし迫っています。 ガザ地区を実効支配してきた「ハマス」によるイスラエルへの攻撃と民間人の無差別殺戮、イスラエルの「報復(過剰防衛)」による無差別爆撃・無差別殺戮はいずれも容認できるはずはありませんが、現在の人道危機と「地上戦」による更なる民間人犠牲者の拡大は何としても回避しなければならない。これは、国連事務総長だけでなく、世界の一部(欧米諸国の支配層および欧米における一定数の市民)を除けば、国際社会(欧米諸国以外の国家・政府と多くの一般市民)の考えではないかと思われます。 ただし、このような人道危機が回避され、人々が生きのびればそれでいいというものではありません。 「ハマスによるイスラエル市民に対する襲撃も非難されなければならないし、あらゆる戦争犯罪が適切に裁かれなければならない。ただ、現在おこっていることを断片的に切りとるのではなく、背後にどんな構造的な暴力があって何を取り除いていかなければならないのか、という視点が必要だ。」「近年だけをとってもガザは周囲をぐるりと封鎖され『天井のない監獄』状態におかれていた。そのうえ今は電気も水も食料も断たれじわじわ尽きている中で、200万人の人々がどう考えても生きられないという状況。これを見ればわかるように、圧倒的な力の不均衡の中で、ガザ地区の人々の生殺与奪の権をイスラエルが握り続けてきた。まずは目先の危機をどう回避するか、ということが重要だが、『監獄の中で生きなければならない』といういびつな構造に切り込まない限り、問題の根本は変わらない。」(10.22 「サンデーモーニング」における安田菜津紀の発言) 適切に問題を見るためには長きにわたる歴史的文脈を認識・確認することは必要ですが、ここではごく最小限の事実を列挙しておきます。1,19~20世紀にかけて、特に欧米各地で迫害されたユダヤ人の国家建設を1947年、国連が認めた。国連は「パレスチナの地」を(ユダヤ教の)イスラエルと(イスラム教の)パレスチナの二つの国家に分けると決議(「パレスチナ分割決議」)。だがそれは、そこに住んでいたパレスチナ人を故郷から追い出すことだったため多くの問題を含んでいた。2,この問題ある決議もいまだ実行されていない。二つの国家に分割するはずが、パレスチナに住んでいた人たち(中東戦争を経てガザ地区やヨルダン川西岸に逃れた人たち)は、建国すら認められなかった。「オスロ合意」によって得られたはずの自治もないに等しく、生殺与奪の権をイスラエルが握り続けている。(その現状への対応として「武力抗争も辞さない」立場をとるのがハマス。)3,ガザ地区はいま、イスラエルによって壁で包囲され水道もガスも電気も断たれた状態でイスラエルからの陸海空による全面攻撃を受けようとしている。 この問題に関して遠藤誉が記事を公開しています。ガザ地区の現状と自らの体験(1947年に長春で中国共産党軍によって食糧封鎖され餓死体の上で野宿した経験)と重ね合わせながら、イスラエルがやっていること、やろうとしていることはジェノサイド以外の何ものでもないとしています。 実感のこもった説得力ある訴えとして受け止めました。ぜひご一読ください。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.10.22
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 教育委員会が発表している県立高等学校教育の在り方に関する基本方針案について、この8月に出した私見(パブリックコメント)の後半です。 1, 人口減少地域、中山間地域の高校「魅力化」の問題 表記の問題について島根県は早くから問題意識を持って取り組んでおり、本県においてもそれに学びつつ、「とっとり高校魅力化推進事業」として具体化されている。しかしながら、その「本気度」についてはもっと島根に学ぶことが大切だと思われる。①教職員定数の改善例えば隠岐島前高校の場合、標準法の改正について県や県教委が国への要望を続け「隠岐島前高等学校の魅力化と永遠の発展の会」とともに文部科学省、総務省や国土交通省、財務省にも働きかけ「標準法に地理的条件を反映させる方向での改正」を勝ち取っている。新魅力化構想(叩き台) (dozen.ed.jp) P.36 前例のない状態から法を動かした上記取り組みを考えれば、「反映されるべき地理的条件を拡大」すること(=中山間地域における学級定員、標準定数の改善)は決して不可能ではない。しかも現在、中山間地の高校存続の問題は本県のみならず全国的な課題であり、「地方創生」「人口減少への歯止め」とも深く関連する問題として注目されている。 https://www.dlri.co.jp/report/ld/200931.html など「教職員定数」や「学級定員」の改善は、教職員の「働き方改革」、「持続可能な教育改革」、さらには「地方・地域社会の持続可能性」にもつながっていく課題であり、各地の教育委員会としても「知事会」としても強く要求していくべき重要事項ではないか。②住環境の整備など島根県の場合、町と県が基金をつくってお金を負担しあい、「寮の運営に必要な職員」を確保するなど具体的な条件整備を行っているという報告を(視察した職員から)受けた。ところが、「とっとり高校魅力化推進事業」のページによれば、「県外生徒を受け入れるための住環境が不十分であることから地域にあった方法で、県外生徒の受入環境を整備していくことが必要」と触れているだけで、県が積極的に条件整備をしていくという姿勢が感じられない。該当校や地元自治体に事実上「お任せ」するような現状になっていないか。それでは話にならない。「基金の創設 ⇒ 寮の運営に必要な職員の確保」といった課題も含めて島根県の取り組みにもっと学ぶべきでだと考える。3,社会的共通資本(教育環境・施設)の維持・活用 農業学科を含む各専門科においてこれまで整備されてきた「教育環境・施設」は宇沢弘文のいう社会的共通資本である。確かに、生徒減やその時々の志願状況を無視することはできないが、それぞれ重要性を持った「財産(地域住民や日本に居住する人々の)」であることも忘れてはならない。例えば、工業科、農業科における施設は「モノづくり」や「命を育てる教育」に必要なものであり、たとえ就職先などの進路に直結しない場合でも様々な「体験と学び」の重要な条件である。(大きくは日本の製造業や農林水産業の持続可能性にもかかわる。)今後は、「特別な配慮や支援が必要」と考えられている生徒の「実習体験」などにも活用する方向で極力活かしていくべきだと考える。(例:特別支援学校の「分級」を専門高校内に設置 ⇒ 支援が必要と考えられている生徒が専門科で実習できるような条件整備をすると同時に、専門学科を存続させ教職員数も増やしていく。そのようなモデルを本県から発信してもいいのではないか。)専門高校もこれまでに定めた「基準」に照らして機械的に「学級減」の対象とするのではなく、いかにして共有財産を守り存続させていくか、別の角度も含めていかにしてこの財産を活用するか、ということにもっと注力する必要がありはしないか。4,結論(再度) 持続可能なかたちで教育の「質」を高めること、学校現場の健全な活力を膨らませ、創造的な教育を生み出していくことは確かに重要だと考える。ただ、そのためには国の標準定数法も含め「これまでの条件」を当たり前として受け入れ進めようとするのではなく、(地域の、さらにはこの国の)教育を創造していく立場からそれらを改善すべく最大限の努力を払っていくことが大切だと考える。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.10.09
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 教育委員会が発表している県立高等学校教育の在り方に関する基本方針案について、この8月、私見を提言しました(パブリックコメントの提出)。 2回に分けて公開します。 「基本方針案」における「高校教育改革の必要性」、「今後の県立高校が目指す姿」にまとめられた構想からは、確かに「めざしたい高校教育の在り方・改革」はある程度伝わってくる。現学習指導要領はもちろん各地で行われている「魅力化事業」の積み上げも活かされているように見える。だが、めざすものを実現していくための条件が根本的に問われていないように思われる。教育に関する基本方針を「上滑りの掛け声」にしてはならない。 1, 教職員定数の問題例えば「生産年齢人口の減少」のところで「適正な規模を維持しながら」とある。これは従来の学級減の方針(1学年3学級の場合、2年連続募集定員の3分の2を下回ったら2学級に減らす)を前提とした記述だと思われるが、私はこのような「基準」に基づく機械的な学級減には反対である。また、同記述は現行の標準定数が変わらないことを前提に書かれたもののようだが、TT担任制の推進・復活も含めて、これまでの教職員定数を増やすこと(定数改善)こそが現在求められている必須の条件ではないか。これは、学級数が「適正規模」を下回る郡部校だけでなく、適正規模に達している都市部の普通科高校や専門高校にも必要となる条件整備だと考える。現状のままでは地方の教育のみならず日本の教育自体が破綻しかねず、改善が必須だということを、現場の実情を知る県教育委員会・地方自治体こそが国に強く訴えるべきではないか。知事会なども強く動くべき。これまでのような、「教職員の善意と頑張り」に依拠した改革は持続不可能だということは声を大にして言いたい。(理由)・教職員定数を増やすことを抜きにして「改革」を実現することは極めて困難である。「基本方針案」は、教育の質の向上をうたい「新しい学び」の創造を強調している(学習指導要領にもほぼ同趣旨の内容が盛り込まれている)。結局、これまで教職員に求めてきた以上のものを要求していくということであるが、創造的な学びを構想し保障していくための時間的余裕は、小規模校であるなしを問わず今の学校現場に欠けている。・定数改善を抜きにした「教職員の働き方改革」は必然的に「掛け声だけ」となり、現状は全く改善されない。全国的に教職員の志願者は減少し、倍率も低下傾向にあるが、その背景にはあまりにも余裕のない学校の現状がある。 公立の教員採用倍率3.7倍 過去最低に 文科省調査 | NHK・このようなことで、「教育の質的向上」や「創造的な学びの保障」が達成され、あるいは持続するのか?条件整備を抜きに教職員への「要求」だけがますます高まり、IT対応なども含めて求められる指導が多岐にわたる中、産休・育休代員をはじめ「非正規職員の確保」等が困難になることは必然ではないか。 全国的に多くの教員が休職・離職する中、「求められる要求に応えきれず苦しむ個人」も含め「支えあいのためのゆとり・教育現場の体力」を生み出すことなしには、公教育自体が破綻しかねない。 後半: 人口減少地域、中山間地域の高校「魅力化」の問題 に続くブログ村、教育論ー教育問題の中で渡辺敦さんも定数改善を強く訴えておられますね。(10月4日 追記)「無理」を可能にする定数改善の展望を: 教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説 (cocolog-nifty.com)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版)教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.10.02
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 2023年9月1日、関東大震災から100年の節目にNHKが標記の問題提起を行いました。(「時論公論」)「福田村事件」をとりあげた「クロ現」もよかったですが、時論公論は現在おこっている問題と結びつけて、虐殺の歴史的事実から学ぶべきことを指摘していました。重要な視点だと受け止め以下に紹介します。〔番組の要旨〕 関東大震災から今年で百年。この震災の混乱の中、流言を信じた市民や軍警察によって、朝鮮半島出身の人たちが数多く殺害されるという事件がおこる。 この惨事がなぜ起きてしまったのかを振り返ると、「百年前のことだ」と切り捨てることはできない。現在の災害やコロナ禍での状況に通じる問題が見えてくる。Q 歴史的事件をどう見るか? その教訓とは? 1923年9月1日に発生した関東大震災は、激しい揺れに加え、大火災が東京東部や横浜の市街地の大半を焼き尽くし、死者10万5千人という未曾有の災害になった。その混乱の中、多くの朝鮮半島出身者が殺害された。きっかけは地震の直後から流れた流言、いわゆるデマだった。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「2000人の朝鮮人が武器をもって襲ってくる」など、根拠の無い嘘の情報は、市民・国・新聞の3者の間で増幅し、殺害行為をエスカレートさせた。(急速に広がった流言を国も公式に発信し、市民をたきつける結果になった。) 国の治安のトップ-内務省警法局長が「朝鮮人が各地で放火し、爆弾を持っている者もいるので、厳重に取り締まるように」と言う通知を全国に発信。新聞も流言を鵜呑みにし、非常に多くの嘘の記事を掲載。この流言を信じ、棍棒や日本刀・猟銃等で武装した市民による自警団や場所によっては軍警察が朝鮮半島出身者を殺傷。ほどなく国は流言に根拠がない事に気づいて否定にまわり、警察は、朝鮮半島出身者の保護に乗り出すが、保護された人たちを市民が襲って殺傷するなど、暴行はすぐには収まらなかった。殺害された正確な人数はわかっていないが、国の中央防災会議がまとめた報告書は千人から数千人にのぼると推定。この中には中国人や朝鮮半島出身者と間違えられた日本人も含まれている。Q なぜ市民は朝鮮半島出身者を襲ったのか?A 「報告書」は殺害の背景に、当時、植民地支配されている朝鮮人の抵抗運動に恐怖心があったこと、朝鮮人への無理解や差別意識があったとしている。Q 裁判はなされたのか?A 震災直後に朝鮮半島出身者233人を殺害した罪で367人が起訴されている。噂を信じて、朝鮮人が自分の村に来たら村の為に害を除こうと思ったという供述もあった。専門家は差別意識に加え、共同体のために役に立ちたいという気持ちが殺害に繋がった面もあると指摘。Q 大虐殺否定論は?A 近年、文筆家や活動家などから朝鮮人による暴動や破壊活動は起きていて、自警団の行為は正当防衛だったなどとする主張が出て、ネットなどで拡散。Q 歴史学者やジャーナリストによる反論、その根拠は?A1 震災後(当時)の司法省の報告書は「朝鮮人による一定の計画のもとに脈絡ある非行はなかった」と暴動などを否定。A2 神奈川の警察責任者(当時)は「朝鮮人が悪事をしたという流言を徹底的に調べたが、ことごとく事実無根だった」としている。A3 震災当時、犯罪で有罪になった朝鮮半島出身者は十数名いたが、罪は窃盗など軽いものだったこと、日本人による殺害の直接証言が非常に多くある一方、「朝鮮半島出身者による暴動や破壊活動を直接目撃したという証言はない」。〔結論(反論の)〕・長年の研究によって実証されている事実を捻じ曲げ、(虐殺を信じたくない人たちが)自分たちに都合の良い嘘の歴史を広めている。Q 百年前のこの事件は社会状況が全く違う今日では起こり得ないのか?A 残念ながら大災害の度に、ネットなどで多くの流言が流れている。東日本大震災の被災地では、「外国人窃盗グループが横行している」「遺体から金品を盗む外国人がいる」などのうわさが流れ、警察は避難所を回ってそのような事実はないとするチラシを配り、打ち消しに追われた。Q 災害時の流言は広がったのか?A 流言を多くの人が信じ、広げた。東北学院大学の教授が仙台市と東京都の944人を対象に行ったアンケート調査の結果。「外国人が被災地で犯罪をしているという噂を半数の人が聞いていた。」そしてその噂を信じたかたずねた所、「86%の人が信じたと答えた」。震災の混乱と強い不安の中、普段なら疑うであろう流言を信じてしまう心理状態が広がったことがうかがえる。Q コロナ禍では?A1 外国人などへの攻撃がネットなどで横行。横浜中華街には感染が広がり始めてから、中傷の電話や手紙、メール、落書きなどが相次いだ。「中国人は日本から出て行け」「ウイルスを広げるな」など、事実無根の攻撃が数十件に上った。さらにSNS上には数え切れない非難やデマが流れ、二年間にわたって続いた。中傷を受けた関係者は「人間を否定される一番強いヘイト攻撃でサンドバッグ状態にされ、いつ終わるのか分からない恐怖があった」と話す。 A2 コロナ禍によるうっぷんを外国人に向けた凶悪な事件もあった。一昨年8月、在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市のウトロ地区で倉庫が放火され、住宅など七棟が焼けた。逮捕された元病院職員の男は、ネット上でウトロ地区の人たちが土地を不法に占拠しているという誤った情報・流言を読んで一方的に不満を募らせ、わずか10日後に犯行に及んでいた。NHKの取材に対し。「朝鮮の人たちに直接話を聞いたり、関わったりしたことはないが、在日コリアンに嫌悪感があった」と述べた。 また、事件直前に新型コロナの影響で仕事を辞めざるをえなくなったこともきっかけの一つ、コロナ禍で支援を受けられなかった不満のはけ口・憂さ晴らしと答えた。Q 関東大震災(朝鮮人虐殺)の教訓とは?A 災害時、日頃からの差別意識を背景に、強い不安や恐怖、行き場のない怒りが外国人など少数者に向けられるという百年前の惨事と共通する弱さを私たちの社会が抱えていると言うこと。中央防災会議の報告書を執筆した東京大学の鈴木淳教授。「普段は常識の枠で抑えられているものが何かのきっかけで、地域に馴染みの薄い少数者に対して牙を向いてしまうことがありうると言うことを強く意識し、警戒し続けることが必要だ」。関東大震災における朝鮮半島出身者などの殺傷事件に向き合うことは、大きな痛みを伴うが、「何が起きたのか」「なぜ起きてしまったのか」を知ることが、現在もある弱者や少数者への差別や偏見に向き合い、解消する努力につながる。このことが関東大震災の最大の教訓のひとつ。 〔紹介は以上〕「災害や恐怖など、社会は強いストレスにさらされたときに試される」、というのも番組の指摘ですが、私も東日本大震災に先立つ「阪神淡路大震災」時(1995年)、「外国人労働者や朝鮮人がスーパーを襲っている」というデマが流れているということを聞いて「ドキッ」としたことを鮮明に覚えています。「これでは、関東大震災時と同じではないか」と思ったのです。 その時も兵庫県警が「そのような事実はない」と明確に否定したことでおさまったのですが、もし否定されなければ、どのような心理状態になっていったのか。恐ろしいものを感じます。 まさに、歴史の事実をしっかり受け止めながら、「われわれの社会の弱さ、われわれ自身の弱さ」に向き合うことが大切ではないでしょうか。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.09.24
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 9月17日のサンデーモーニングで特集された「人権後進国?日本」を紹介します。考えるべき点、本気で改善すべき点が示されていたように感じました。〔紹介〕ジャニー喜多川氏による性加害問題。新聞などで取り上げられるきっかけとなったのは、3月に放送されたイギリスBBCによるドキュメンタリー番組だった。被害者に対し、7月には国連の人権理事会が聴き取り調査。「外圧」でようやく大きな注目を集めた性加害問題の背景には人権が重視されていない日本社会の現状がある。例えば、LGBTなど性的少数者の権利については、2019年のOECDによる評価で、法整備の遅れから日本は加盟35カ国中34位。 また、2021年名古屋入管で収容されていたスリランカ人女性が施設内で亡くなった問題では不適切な対応が問題になったが、それから2年、今年6月に成立した「改正入管法」は認定のハードルがより高くなり、国連の人権理事会も収用などの面で国際的な人権基準を満たしていないと指摘。さらに6月に開かれたG7の女性活躍担当大臣の会合では、日本だけが男性。実際、日本は男女の格差状況を示すジェンダーギャップ指数で対象国146か国中125位。 「欧米だと、革命といったような形で市民が人権を勝ち取ってきた歴史があるわけだが、日本の場合、人権に関する意識・信念が弱く現状を変えていこうという動きがなかなか起きにくいという歴史的な背景がある(「有識者」)」さらに今回、ジャニー氏の性加害問題にかかわる番組を放送したイギリスBBCは、こうした状況が長い間続いてきた背景を次のように指摘。「恥と沈黙の文化」も要素となる。日本では性的暴力を受けたと女性が発言すれば、その女性が激しい非難と攻撃にさらされることがある。(BBCは伊藤詩織さんの性被害について「日本の秘められた恥」という番組にしたこともある。) こうした中、水曜日、アメリカのタイム誌は性被害を実名で訴えてきた元自衛官の五ノ井さんを今後活躍が期待される次世代の百人に選出。人権が改めて問われた形。「人権を主張するということについて、日本の社会のなかでは声を上げづらく、バッシングや、同調圧力のようなものがある。国内でしっかりと人権を守る政府から独立した機関をつくることが大切。また、われわれの意識についても、その大きな変化が今求められている。」〔紹介は以上〕 私としては、一人のコメンテーターによる以下の発言に賛同します。 「確かに、日本で革命は起こっていない。しかし、これまでの歴史の中で人権侵害と闘う運動はあったはず。(例:反公害運動、大阪空港夜間飛行差し止め訴訟、障害のある個人の学習権保障を求める運動、その他、国を相手どったいくつかの訴訟と支援、各種の解放運動:管理者提示) そのような運動に対して賛同・支援することはできるはずだ。「国から独立した機関」の創設もいいが、私たち自身が社会をつくる、という強い意識をもってできることをやっていきたい。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.09.18
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 福島第一原発「処理水」の海洋放出にかかわる報道について、複数の新聞社・放送局に以下の「ご意見」を送りました。 大切な視点が報道から抜け落ちているのは残念です。国際的な対立・緊張を激化させず緩和するために重要なことは「もし、逆の立場だったらどのように感じるだろうか」という想像力でしょう。仮に、原発事故を起こしたのが中国で、「処理水」を日本海に放出しようとしていたら、どうでしょうか。少なくとも、中国だけが決定していい問題ではなく「国際的な合意」が必要であると考えませんか。もし中国が日本を含む周辺諸国との「対話・合意」のプロセスを無視して「先送りできない」と放出を一方的に強行したらどのように感じるでしょうか。逆の立場を少し想像するだけでわかることがあるはずです。日本政府や東電が、中国や太平洋島しょ国との合意を経ないで放出を強行したという重要な問題点に触れないまま、いかにも「中国は悪」という報道をするのは筋が違うのではないか、と考えます。(以上)科学的な検証も含めて大きな疑問がいくつもあります。ただ、周辺諸国との「合意」もなく(「理解」もなく)一方的に放出する、というのは様々な検証以前の大問題でしょう。(確かに、宿泊施設等に対する「抗議・いやがらせ」はお門違いではありますが・・・。日本政府や東京電力への抗議はむしろ当然です。) また、そもそも「処理水」の海洋放出に反対しているのは中国や太平洋島しょ国だけではない、ということは確認しておきましょう。たとえば、ドイツの環境大臣は、米国(多くの人たちは「処理水問題」そのものを知らない)のブリンケンとは全く異なる見解を発信しています。ドイツ連邦環境省の公式ツイッター(X)アカウントが、環境大臣 Steffi Lemke名義で投稿、日本の福島第1原発のAPLS処理水の海洋放出を強く批判した。 https://twitter.com/BMUV/status/1694717897271279716以下、翻訳。「環境大臣として、放射能の海への追加放出には極めて批判的だ。このような放射性物質の海洋放出は、他のすべての道が閉ざされた場合の最後の選択肢としてのみ可能である」にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.09.03
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 「処理水」海洋放出にかかわる根本的な問題は、日本政府や東京電力が太平洋島しょ国や日本全国に在住する地域住民を含む「すべての関係者」に充分信用されていないことだと私は考えています。それでは、信頼を得るためにはどうすればよかったのでしょうか。 8月26日の「報道特集」で「福島原発事故によって生じた処理水」の問題が特集されていました。その中で米国における「スリーマイル島原発事故後の双方向の対話」が紹介されていましたが、学ぶべき取り組みだと感じました。そもそも、「起こらないと説明してきた重大事故」が起こって信頼を失ったわけですから、それを回復するためには「本当の対話」が必要でしょう。 〔取り組みの概略〕スリーマイル島原発の事故処理にあたって、当初の計画としては「処理水」の濃度を基準値以下にして川に流す方針だったが、住民たちから反対の声が上がった。それをうけ、しっかり対話・協議をおこなうことで合意をつくり上げていった、というもの。廃炉作業を指揮したレイク・バレット氏 東京電力が改善しなければならないのは国民や世界とのコミュニケーションだ。スリーマイル島では住民たちとのコミュニケーションを改善するため、「助言委員会」と呼ばれる組織を立ち上げた。それは12人からなる反原発の科学者、大学関係者、主婦などによる委員会だ。お互いに何かを主張し合うだけではなく、かみ合った話し合いで、双方にとって最善の解決策を見出そうとするもの。話し合いの様子はテレビでも放送され、市民を巻き込んだ議論が十年にわたって行われた。そして最終的に処理水は蒸気として大気中に放出された。助言委員会と市民らは議論し、悪影響を最低限にできる措置が何なのか考えた。福島の場合、スリーマイル島よりも処理水の量が遥かに多いので単純に比較することはできないが、共通して重要なのは対話なのだ。日本政府や東京電力は公聴会や委員会を開き、いろんな形で国民に伝えようとしたが、双方向のやり取りが無いように見える。我々は他のやり方を探しもとめたし、対話をほかの人たちの目にも届くようにしたことで、安心感を広げていくことができた。〔スリーマイル島における取り組みは以上〕 「助言委員会」を立ち上げて双方向の対話をつくりだす取り組み、非常に素晴らしいと思います。対して、わが国の対応はどうでしょうか。「双方向のやり取りが無いように見える」、というバレット氏の見解をどう受け止めるべきか。この見解は、不十分ながらも報道されている地元住民の声(「どうすればいいか一緒に考えるというならわかるが海洋放出を決定してから話し合いましょう、というのは順序が逆だ」、「海洋放出ありきで、いくら意見を言ってもていねいに説明するというだけ、まともな応答がなかった」という声)とも一致します。科学的安全性などについては政府・東京電力と地元住民・漁業従事者との間では圧倒的に「情報の非対称性」があるわけですから、その問題を解消していくためにも政府は「助言委員会」を立ち上げ「本当の話し合い」を積み上げるべきだったでしょう。(2013年時点でバレット氏は日本政府と東京電力に対してそのような「助言」をしています。)海洋放出という「決定」を先行させて事実上「一方的に説明を繰り返し、関係者の意見を聴かない」ような形だけの対話では全く意味がないわけです。 環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也が、「処理水放出は安全で問題ない派」と「汚染水放出は危険・問題派」それぞれの論点を整理しています。末尾に紹介しますので参考にしていただければと思います。もちろん私は「汚染水放出は危険・問題」という立場ですが、両者の間で本当の対話が全くなされない状態にあることが一番の問題でしょう。政府・東京電力がスリーマイル島の貴重な経験に学ぼうとしなかったことが残念でなりません。また、海は共有財産であり、広くつながっていることを考えると住民や「国民」との対話のみならず海洋放出を憂慮する周辺諸国(太平洋島しょ国や中国など)の理解がなければならないことも当然なのです。 〔オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニアなどの太平洋島しょ国が加盟する『太平洋諸島フォーラム(PIF)』は、6月26日、プナ事務局長が「放射性廃棄物その他の放射性物質」の海洋投棄は「太平洋島しょ国にとって、大きな影響と長期的な憂慮をもたらす」ため、「代替案を含む新たなアプローチが必要であり責任ある前進の道である」と、海洋放出に反対する態度を表明した。〕 〔飯田哲也の整理〕・「処理水放出は安全で問題ない派」を「処理水派」(処)と呼ぶ。・「汚染水放出は危険・問題派」を「汚染水派」(汚)と呼ぶ。▪️主要論点と双方の食い違い(1)廃炉に必要?(処)福島第一原発の「廃炉」には避けて通れない(汚) 「廃炉」には無関係、むしろ優先度の高いことが数多くある(地下水流入の防止や水冷却から空気冷却への転換など)・デブリ取り出しが可能か、可能だとしてそれが「廃炉」か? そもそも「廃炉」の定義もなく、「廃炉の在り方」から再検討が必要(2)代替案(処)他にスペースもなく、放水が最も低コスト(汚)すでに放出案は風評被害対策評価を考慮すると高コスト。水蒸気放出、コンクリート化、巨大タンク化など多くの代替案がある。(3)安全論(処)トリチウムは安全、濃度も告示限度以下に抑えている・IAEAも安全と評価している(汚)トリチウム以外の多種多様な放射性物質核分裂生成物(約200種)が含まれており、多くは計測すらされていない・トリチウムも有機結合型トリチウムは生物濃縮を起こす可能性がある・告示限度は敷地境界1mSv/年以下に過ぎないが、こうした一般環境への放出には、長期かつ集団被曝の確率的な影響を考えて少なくとも100倍の安全裕度が必要・IAEAは日本政府と東電の出したデータと評価を承認しただけ、そもそも原子力推進機関で、チェルノブイリ事故後にも被害を大きく過小評価した前科がある。・人類が過去半世紀以上の公害、オゾン層破壊、気候変動などを引き起こす中で学んだ予防原則に立てば、未知・不可知のリスクを恐れるべき(4)他もやっている(処)中国、韓国の原発からもトリチウムは大量に出ている(汚)原発から必然的に出るトリチウムと、メルトダウンデブリの核汚染水とは根本的に違う。・排水口から「出てしまう」トリチウムと、いったん地上で保管している「核汚染水」をわざわざ放出する行為は、意味合いが全く違う。・再処理工場の排水は、トリチウム以外の汚染も懸念されるが、そもそも破綻した核燃料サイクルも再処理工場も止めることがベスト。(5)呼称(処)処理済みであり「処理水」と呼ぶことが妥当・汚染水と呼ぶと風評被害を招く(汚)処理しても、なお汚染しており、正しく呼ぶことが重要・風評被害以前に実害リスクも考慮すべき・国がメディアに「処理水」と呼ばせる言論ファシズムの気配がある・海外メディアは汚染水(Radioactive contaminated water) と呼んでいる(6)風評被害(処)汚染水と呼ぶことや被曝リスクの主張をすることは風評被害を招く(汚)「風評被害」という言葉でリスクの問題定義を封じ込めることは実害リスクの隠蔽に繋がる・汚染水放出そのものがすでに中国や香港など海外による輸入規制など経済的実害を生んでいるブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など。
2023.08.27
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 拙ブログの前記事「処理水(汚染水)」海洋放出の問題点(08.05)において自分なりに簡単な検討を行いましたが、すでにFoE Japan が科学的な検討を行うとともに「海洋放出への明確な対案」も提出していました。 ぜひご一読ください。このような検討結果が公開されている以上、東電も政府も応答していくことは当然です。報道機関としても以下の「検証と対案」が存在するという事実を視聴者・読者に知らせるとともに、それについて政府が応答していくことを強く求めていくべきでしょう。〔以下、引用〕FoE Japan(Friends of the EarthInternational に所属するNGO)原発/【Q&A】ALPS処理汚染水、押さえておきたい14のポイントQ1:「処理水」? 「汚染水」?Q2:何が含まれている?Q3:東電はすべてのタンクについて放射性物質を測っている?Q4:トリチウムって何?Q5:トリチウムは安全?Q6:トリチウムは世界中の原発から排出されているから問題ないのでは?Q7:トリチウム濃度を排出濃度基準の『40分の1』に希釈する?Q8:海に流すしかないのでは?Q9:「大型タンク貯蔵案」と「モルタル固化案」は検討された?Q10:敷地は本当に足りないの?Q11:「関係者の理解」って何? 「関係者の理解」は得られるの?Q12:福島県内の自治体の意見は? 近隣県は? Q13:公聴会は開かれたの?Q14:汚染水を増やさない対策は?Q15:IAEA(国際原子力機関)の「お墨付き」をどう考える?〔上記はHPに掲載されている質問項目。ただし、番号は引用者〕 私が検討した内容と重なる部分は当然ありますが、例えばQ9~Q10など、「実現可能な対案」をきちんと示しています。また、Q15ではIAEAの「お墨付き」が極めて不充分な理由も明確に述べられています。 政府や東電が上記のような「公開されている声明」を黙殺し、「判断材料」をきちんと提示しないまま、一方的に「大丈夫だ」と繰り返し、海洋放出を進めようとしていることは、重大な問題を含んでいます。 さて、今年も8月に入ってから「戦争」にかかわる様々な番組が放送され、当時の報道の問題点等も検証されていますが、そのような検証を「処理水海洋放出」の問題にも生かすべきだと考えます。いったん放出を始めてしまえば「軌道修正」は極めて困難だと言わなければなりません。この点についても、まさに「戦争」時の教訓を生かすべきではないでしょうか。ブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など。
2023.08.16
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 福島第一原発のタンクに保管されている「処理水(7割は基準に照らしても汚染水)」を八月中にも海洋放出という予定・方針を東電も政府も変更していませんが、どのような問題があるでしょうか。おもに、『BUSINESS INSIDER』に掲載された岡田充の記事を参考にまとめておきます。まず、反対しているのは地元の漁協や「反原発」の立場の人々、中国などだけではない言うことを確認しておきましょう。上記記事によると、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニアなどの太平洋島しょ国が加盟する『太平洋諸島フォーラム(PIF)』は、IAEAが報告書を公表する直前の6月26日、プナ事務局長が以下の声明を発表した」ということです。「放射性廃棄物その他の放射性物質」の海洋投棄は「太平洋島しょ国にとって、大きな影響と長期的な憂慮をもたらす」ため、「代替案を含む新たなアプローチが必要であり責任ある前進の道である」と、プナ事務局長は海洋放出に反対する態度を表明した。 また、中国外務省は七月四日、以下の見解を明らかにしています。 1,日本側は周辺近隣国など利害関係者と協議せず、(海洋放出を)一方的に決定したが、原発事故で生じた汚染水を海に放出した前例はない。(「各国も原発から汚染水を排出している」と日本政府は主張するが、「排出しているのは冷却水であり、事故で溶けた炉心に接触した汚染水ではない」。)2,発生源が異なり、含まれる放射性核種が異なり、処理の難度が異なり、比較にならない。3,IAEAは日本の浄化設備の有効性と長期的信頼性を評価しておらず、今後30年間、すべての放射能汚染水が処理基準をクリアすることを保証することはできない。などの根拠をあげ、「日本が原発の正常運転による排水を持ち出し、海洋放出の誤った決定を“白”としようとするのは、科学の看板を掲げて国際社会をミスリードするものだ」としているのです。 中国の上記見解は簡潔なもので、それについてのコメントは、容易にできます。 まず、1については紛れもない事実です。したがって、2「含まれる放射性核種が異なり処理の難度が異なる」という見解も全く妥当です。 福島第一原発の大事故から12年経過した今日も、汚染水(直接核燃料デブリに接触した高濃度の放射能汚染水)の発生は1日当り100トンに達しています。東電は、この汚染水を多核種除去設備=ALPS(アルプス)に送り、沈殿処理や活性炭などの吸着により放射性物質をとり除くとしていますが、実際はどうなのでしょう。 タンクに溜まった「処理水」の7割はトリチウム以外の62の放射線核種が全体として濃度基準をこえ、最大で1万9909倍になっていることがメディアのスクープで明らかになりました。残っている核種は主に、ストロンチウム90、セシウム137、セシウム134、コバルト60、アンチモン125、ルテニウム90、ヨウ素129などです。 東電はそれまで、トリチウム以外の核種はALPSにより除去できているとのデータのみを示していましたが、上記報道後、東電も日本政府もトリチウム以外の放射性物質を含んだ原発汚染水がタンクに貯蔵されていることを認めざるをえなくなりました。 そもそも「報道されてからようやく『処理水』とされてきたものの70%以上が基準濃度を超えていたことを認める」という現状こそが危険ではないでしょうか。 東電と政府は「事故発生からしばらくの間、貯蔵されている水が原発敷地外に与える影響を急いで下げるため、処理量を優先して実施したため」と言い訳を述べていますが、現在も日々100トン以上の汚染水が出続けてその処理が必要とされている中、タンクに溜められている70%以上の汚染水を「急がずにしっかりと再浄化する」ことが本当に可能なのでしょうか。 そして、中国の指摘=「IAEAは日本の浄化設備の有効性と長期的信頼性を評価しておらず、今後30年間、すべての放射能汚染水が処理基準をクリアすることを保証することはできない」は全く妥当でしょう。IAEAの報告書(日本政府と東電が海洋放出の根拠になると主張している報告書)が、わざわざ海洋放出の方針を「推奨するものでも承認するものでもない」と記載していることがその正しさを証明しているように見えます。 海洋放出を実施した場合、増え続ける汚染水と放射性物質の総量がどこまで膨れ上がるのか、環境への負荷が許容範囲に収まるか、という点についてもIAEAは保証できないのです。(汚染水の原因である)核燃料デブリを取り出す見通しなど全くたっていないわけですから。 そもそも、環境汚染に関する規制がなぜ「濃度規制から総量規制に変わっていったのか(例えば水と混ぜれば濃度は薄まるが、環境への負荷は汚染物質の総量によって決まる)」というのは公害・環境問題の基本です。自民党の茂木敏充幹事長は7月25日の記者会見で、海洋放出を批判する中国に対して「科学的根拠に基づいた議論を行うよう強く求めたい」と述べたそうですが、それは日本政府や東京電力にブーメランとして返ってくる言葉でしょう。〔それにしても、「処理水問題」に関する報道の多くは「日本政府の発表・主張」の垂れ流しが多く、上記の事実(例えば中国外務省の見解)さえまともに確認しているのか疑わしいのは遺憾です。:8月9日追記〕ブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など。
2023.08.05
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 遠藤誉の著書『習近平が起こす地殻変動 「米一極」から「多極化」へ』を入手しました。(私自身、日本の今後進むべき方向等について、この著者と見解を異にする部分はいくつかありますが、明確な事実を根拠として現状分析をしているという点では、読むべき価値が大いにあると考えています。) 上記書籍で注目できるのは、第二のCIAといわれるNED(全米民主主義基金)のホームページを当たり、多くのファクトを拾い上げてつくられたリストです。遠藤は驚いたと述べていますが、「世界の紛争のほとんどは1983年まではCIAが創り上げていて、1983年にNEDが創設されてからはNEDが創り上げていること」がわかったということです。 世界のどこかに内紛があると、必ずそこに潜り込んで既存の政府を転覆させ、親米政権を樹立させるということをくり返してきたことが、リストから歴然としてくる。NED=「第二のCIA」が「ウクライナ戦争の原因」をつくり「台湾有事」という「神話」を創りあげている、というわけです。 〔ところで、ウクライナ戦争は、開戦から一か月経たないうちにトルコの仲介で停戦が実現しそうだったのですが、頓挫したのちにトルコの外相は以下のように述べました。「いくつかのNATOメンバー国は、戦争が長引くことを望んでおり、戦争を長引かせることによってロシアを弱体化させようとしている」と。いくつかの国の中心が米国であることは明らかでしょう。:補足〕 世界各地で紛争をあおる「謀略」・「暗躍」の証拠をわざわざ残すのか、という疑問は当然わいてきますが、NEDは非政府組織を装いながらも現実には米国の国家予算で運営されているため、お金のどのような活動に使ったのか(少なくとも一時的には)公開しなければならないわけです。だからこそ、2014年に「ウクライナの親ロ政権」(軍事的には中立政策をとっていた)を崩壊させた「ユーロマイダンクーデタ」に米国が関与していたことをオバマもバイデンも認めたのでしょう。 しかしながら、なぜ米国はこのように戦争や紛争をあおり続けるのでしょうか。池上彰が特番(「なぜ世界から戦争がなくならないのか」)で示した以下の資料(一部)からも明らかでしょう。それにしても、自国の軍需産業を潤すために世界各地で戦争や紛争をあおり続けるようなことが許されることなのか。日本政府が’(ベトナム戦争やイラク戦争を全面的に支持するなど)米国の政策に追随することは極めて犯罪的であると考えるものです。〔米国が引き起こした戦争や紛争の犠牲者数についても遠藤誉は資料に基づいて試算していますが、それが正しければ第一次世界大戦の犠牲者数を超えています!〕沖縄と連帯するとっとりの会 にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.07.23
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 7月に行われたNATO首脳会議を注視した台湾の人たち。野党の「疑米派」が勢いづいたのではないかと遠藤誉は分析しています。その内容を要約・紹介しますが、米国の姿勢をどう見るかはまさに「他人事でない重要問題」です。〔以下に紹介〕 7月12日に閉幕したNATO首脳会議では、ウクライナのNATO加盟に関し具体的な時期は示されず、特にバイデン大統領の躊躇が目立った。◆結局は躊躇したバイデン大統領リトアニアで開かれていたNATO首脳会議において、ウクライナのNATO加盟については結局、具体的な時期は示せなかった。加盟手続きに必要なプロセスが短縮されることになったものの、加盟の条件は「NATO加盟国全員が同意すること」。その日が来るのか否かは誰にもわからない。 バイデン大統領は直前にCNNの単独取材を受けて「ウクライナのNATO加盟検討には戦争終結が必要」と語っていたことが7月10日の報道で明らかになった。バイデンは以下のようにも語っている。●私はウクライナをNATOに加えるかどうかについて、現時点で戦争のさなかに、NATO内で意見が一致しているとは思わない。●ウクライナがNATOに加盟した場合、NATOは加盟国の領土を隅々まで守るので、戦争が行われている場合には、NATO加盟国全てがロシアと戦争状態になる。●ゼレンスキー(大統領)と長時間にわたって電話で話したが、彼には「手続きが継続する間、アメリカやNATOはウクライナに安全保障と武器を供与し続ける」と伝えた。(取材の概略は以上)ウクライナの次に関心をもってNATOの会合を注視していたのは台湾だが、上記のようなバイデンの姿勢は来年1月の台湾の総統選に影響をもたらし、野党連合を活気づけるのではないか。与党の民進党は「台湾独立」傾向が強く、親米。野党は、必ずしも「親中」ではないが、独立を叫ぶことはない。独立を叫べば、中国大陸側が「反国家分裂法」により、台湾を武力攻撃する可能性が高まる。Q 台湾の野党は米国をどう見ているか? 将来的に経済力で中国に勝てそうにない米国は、習近平に台湾を武力攻撃させ、台湾を第二のウクライナへと追いやろうとしていると、野党の多くはみなしている。だから、平和裏に経済的提携をしていこうという人たちが多い。 ウクライナ戦争が始まって以来、米国が自国兵士を一人たりともウクライナの戦場に送ることなく、ひたすら武器の供与(売却?)のみを続けているのを実感し、台湾が戦場になっても同じことをするだろうという「疑米論」が広がっている。(「反米」というよりも)〔遠藤の「追記」から補足〕そもそもバイデンは副大統領だった2009年7月にウクライナを訪問して、「ウクライナのNATO加盟を強く支持する」と発言。誰も相手にしなかったが、2013年末から2014年初頭にかけてマイダン革命を起こさせてウクライナの「親露派政権」を転覆させ、新しく誕生させた親米政権に対して「NATO加盟を首相の努力義務とする」という文言をウクライナ憲法に盛り込ませた。他国への干渉という国際法違反までしてウクライナ戦争勃発を誘導しておきながら、戦争が始まったら「ウクライナはNATO加盟国ではないのでアメリカは参戦しない」と言い、今度は「戦争中なのでウクライナのNATO加盟はない」と主張するなど、やりたい放題だ。台湾がアメリカを信用するはずがないだろう。命がかかっているのだから。日本人の命もかかっていることを忘れないでほしい。ウクライナも台湾も日本も、バイデン・米国にとっては「駒の一つ」に過ぎない。〔関連記事:「台湾有事」はCIAがつくり上げた?〕Q 中国が台湾を武力攻撃しないための条件は? 独立を叫びさえしなければ、中国大陸側は台湾を武力攻撃しない。 習近平としては、国連で「一つの中国」が認められている以上、独立を叫ばなければ、台湾を武力攻撃などする理由は皆無だ。 Q 1960~70年代の米国の対中国外交は? 米国が積極的に中国(中華人民共和国)を国連に加盟させ、同時に「一つの中国」を承認したために、「中華民国」としては国連を脱退するところに追い込まれた。米中国交が正常化した日に、アメリカは「中華民国」と国交断絶もしている。従って台湾は、ウクライナのように「一国家として(NATOのような)集団的自衛権が確保される軍事同盟」に入る資格がそもそもない。ただし、「台湾関係法」により、米国は台湾に武器を売却する・・・。 が、ウクライナと同じように、アメリカ軍が一人でも台湾の戦場に来て戦ってくれるという可能性はないだろうと、台湾の多くの人たちは考えている。戦うのは台湾人でしかない(日本には世界で最大のアメリカ軍基地があるので、命を捨てて戦うのは台湾人と日本人だけかもしれない)。 となれば、台湾の選挙民は「戦争にならない道」を選択するだろう。 それはすなわち、中国大陸と仲良くし、経済繁栄だけを追求していく選択となる。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など。
2023.07.15
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 福島第一原発の「処理水海洋放出」の問題についてIAEAが「無視できる程度」という報告を出し、日本政府・岸田首相は「国際機関のお墨付き」を追い風に「予定通りの海洋放出」を進める意向のようです。 上記IAEA報告に「科学的な間違い・問題」があるかどうか、については報告書そのものを詳細に検討することが必要なので断定は控えますが、「報告そのものがあまり信用できない」、「報告書以前の問題として岸田政権の原発政策は支持できない」と考えている人は少なくないでしょう。それには決して理由がないわけではありません。列挙しておきましょう。 1,そもそもIAEAというのは「原子力の平和利用」、「原子力発電を推進していくため」につくられた国際機関であるということ。〔推進にとって「不都合な真実」は、あまり公表したがらない強い傾向がうかがえること。例えば、IAEA の国際諮問委員会はチェルノブイリ原発事故(1986)の影響を一年近く(1990~91)調査したが、事故直後の対応にあたった作業員の急性放射線障害以外には(小児甲状腺がんの増加などの)影響は認められない、という報告を出した。当時においても、「記述は楽観的過ぎる」といった批判がなされている。また、その後、明らかな小児甲状腺がんの増加は、国際的に確認された。〕 2,日本においては「重大事故」は決して起こらないと主張しつつ、原発を長年推進してきた自民党政権が「福島の大事故」に対してまともに責任を取らないまま、推進政策に舞い戻っていること。被ばくによる健康被害や不安の訴えをまともに受け止め・検証しようとする姿勢が全く感じられないこと。 私自身、現政権の原発推進政策には強い不信感を抱いています。過去記事のlinkを貼り付けておきますので、ぜひご一読いただければ幸いです。2013.09.29 被曝による健康被害を防ぐには〔上記記事のPDF版〕2019.04.20 「美味しんぼ」の雁屋哲さんの発言〔HP版 美味しんぼ 雁屋哲 (shchan-3.punyu.jp)〕2022.02.05 「多くの子どもたちが甲状腺がんに苦しみ」批判への反論2022.02.11 原発事故と公害裁判〔上記二つの記事のPDF版〕2022.09.01 突然の原発推進!?〔突然の原発推進!?のPDF版〕にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.07.08
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 国際的な燃料価格の高騰を背景に、電力料金も高どまり状態ですが、せっかく発電できる「安価な再エネ電力の多くが捨てられている実態」についてご存じでしょうか。1か月あまり前ですが、NHKの「時論公論」でその問題が取り上げられていましたので要約・紹介します。〔紹介〕 この夏、またまた電気が足りなくなる恐れがあるとして政府は、東京電力管内に節電要請する方針。だが、他方で太陽光など再生可能エネルギーが使い切れず発電が停められている。(「出力制御」によって)出力制御はこの春以降、電力需要が多い大都市圏にも広がった。燃料価格の高騰で電気代が値上げされる中、燃料費タダで発電できるのに、社会的な損失と言える。Q1 春以降、広がった出力制御の実態とその理由は?Q2 再エネがどれだけ止められているか?Q3 再エネを最大限活かすには? 以上三点を考える。Q「再エネ出力制御」の実態は?A 5月4日、関西電力が初めて再エネの出力を制御。日中の4時間半、太陽光と風力の一部の発電を止めて受け入れを停止。また、中部電力も4月~5月4日までに合わせて10日間、一部の太陽光と風力を止めた。さらに、北陸電力も。Q 発電できるのに、なぜ止めなければならないのか?A 広域停電を防ぐため。電気は使う量と発電量のバランスが崩れると、広域停電となる。電気が余ってもバランスが崩れて停電するため再エネを止めた。Q 電気が余る最大の原因は?A 太陽光発電の急増。東日本大震災後、再エネの電気を大手電力が高く買い取る制度が始まり、太陽光が急拡大した。Q 太陽光発電拡大の規模は?A 関西電力管内では震災から十年余りで12倍。中部電力管内でも15倍。しかし、この季節(4~5月)冷房需要が多くない。多くの工場の操業が止まる休日の昼間に晴れると、太陽光による発電を使いきれなくなった。Qこうした場合における、国のルールは?1)まず出力調整が容易で、二酸化炭素の排出が多い火力発電の出力を抑える。2)余った電気で揚水発電所の水をくみ上げる。必要な時に水を流せば発電できる「巨大な蓄電池」で、ここに余った電気をためる。3)隣接の電力管内に送電線で電気を送る電力融通を行なう。4)それでも電気が余れば太陽光や風力などを停止する。停止は九州電力管内から広がり、東京電力を除く九つの電力管内まで拡大。九州電力管内でも太陽光は増え続け、今では平日も含め一年をとおして出力制御が当たり前になる⇒昨年度は4億5000万kWアワー。一般家庭9万世帯分の電力が止められている。また、全国では昨年度6億kWアワー。十万世帯分の発電が止められた。停電を防ぐためとは言え、太陽光や風力は二酸化炭素排出ゼロの脱炭素電源で燃料費もタダ。資源価格高騰の中、止めてしまうのは勿体なく社会的に大きな損失。政府は脱炭素に向けて再エネを主力電源と位置づけ、2030年には現状の倍近い最大38%導入する目標を掲げている。(広島のG7サミットでも太陽光を現在の3倍以上増やす目標が掲げられた。)Q そのためにも出力制御をいかに減らしていくか? どうすれば良いのか?A1 供給側の対策余った電気を蓄電池に貯めること。ただ、蓄電池がコストが高く、今すぐ大規模にはできないので、政府は蓄電池のコスト低減の研究開発を急ぐ必要がある。(政府は先週すぐにできる供給側の対策として、火力発電の出力をさらに落として再エネを生かす方針を決めた。)Q これまでは?火力発電は出力を下げすぎると窒素酸化物が増えるなどの問題もあり、出力制限は50%が目安だった。ただ、最新の火力はもっと下げても問題なく運転できることから、新設する火力について30%以下に落とすことを求める。加えて、出力を落とす火力の対象を近隣の電力管内まで広げる⇒余った再エネの電力をさらに多く近隣エリアへ送ることができる。A2 需要側の対応。電力を使う側が電力がある時間帯に合わせてうまく利用する。例1)鉄鋼大手の東京製鉄の九州工場。(鉄のスクラップを電気炉で溶かして鉄鋼製品を作っている。)工場では九州電力から太陽光が余りそうな時に事前に連絡を受け、安い電力の供給を受け多くの電炉を稼働させている⇒2021年には止められるはずだった太陽光の540万kWアワーの電力を利用。電気料金が安い夜間に集中的に創業した時と比べても、コストを大幅に削減できた。例2)一般家庭において去年広がったポイント制度による節電の仕組みを逆に利用し、電力が余る時に電力会社からアプリで連絡を受け利用。その時間帯に掃除や洗濯などを行えば、出力制御の抑制に貢献できる。例3)今後の対応として注目されるのが消費量が大きいEV=電気自動車への充電。政府2035年までに全新車販売を電動車に転換する方針で、今後確実に増える。その充電器に通信機能を持たせ、電力が多い時に自動的に充電できるようにする。(すでにイギリスでは、こうした充電器が義務化されている。日本でも充電器メーカーに通信機能を持たせるよう働きかけ広げていく必要がある。)Q 再エネ活用の重要性は?A 脱炭素電源で燃料費がタダ。純国産の電源でエネルギー安全保障の観点からも重要。出力制御が大都市圏にも拡大した今こそ、再エネを無駄にすることなく、主力電源化を急ぐ必要がある。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.06.25
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 5月7日のNHK日曜討論「いま話し合おう 子ども・若者とお金」(小倉こども政策担当大臣と、大学教授やNPOの関係者などが、少子化対策について議論)における大学院生の発言について、色々な動画が配信されており、今野晴貴による記事も配信されています。 討論における岩本菜々さん(NPO法人POSSEで奨学金問題など若者の貧困問題に取り組む、一橋大学院生)の発言については、すでにSNS上で大きな注目が集まっているようですが、上記動画と今野晴貴の文章をもとに、内容を簡単にまとめておきます。過日、私は『ヒーローを待っていても世の中は変わらない』における(湯浅誠)の考えを紹介しましたが、通じ合う点が数多くあります。〔討論・発言の内容〕・若者の貧困対策について 小倉大臣は、「異次元の少子化対策」と銘打つ少子化対策のたたき台について「将来を考えると子どもを持つこともできないという社会構造を変えて対応していく」と、自身の政策をアピール。 それに対し、岩本さんは「全く『異次元』の少子化対策とは思えない。若者は貧困によってあらゆる機会を奪われているが、そこに対する対応が全くなされてない」と指摘。数千件の奨学金返済者の声を聞いてきた立場から、奨学金返済の過酷な実態を指摘した。まず、学生の3人に1人が平均およそ300万円の奨学金を背負い、3割の人が低収入による延滞を経験しているにもかかわらず、今回の少子化対策では「月々の返済額を減額することで、債務の返済を先送りにする」措置の拡充など、その場しのぎの対策しか行われていないことを批判。 これに対し、小倉大臣は給付型奨学金の拡充もプランに入っていると反論。 しかし、岩本さんは、「それってこれから借りる人に対する対策ですよね。いま現在まさに奨学金を借りて、その債務が返せなくて困っている人への対策が求められていると思うのです。・・・400万円の奨学金を借りてなんとか子どもを育てながら働いて返えそうと思っていたんだけれども、生まれた子どもが24時間医療的ケアを必要とする子どもで、仕事を辞めざるを得なくなって、債務だけが残されてしまった。『この先どう生きていったらいいかわからない』という、そういう人たちの声も沢山聞いているんです。これからの世代の給付型の拡充はもちろんのことですけども、いままさに奨学金を返せなくて困っている人に対する奨学金の『免除』や『減額』などの対応が求められていると思います」、と応じた。・社会保障の財源について 次に、番組では「少子化対策を実行するためには数兆円規模の財源が必要になる」との試算が紹介され、税・社会保険・国債のどこを増やして予算を確保するのかが議論となった。 これに対し岩本さんは、「今の予算の優先順位」の話が一切されていないことを痛烈に批判した。「少子化対策のみならず、生活保護とか、社会保障の話になった途端、いつも財源の話から入るなって思うんです。「財源がないから難しい」とか『やるなら財源をどこかから取らなければ無理だ』という話になって、いつも社会保障の要求が封じ込められていくと思うんですよね。その一方で、『オリンピック開催します』とか『防衛費増額します』ってなった時って、財源の話って最初にあったっけ? と。それは開催ありき、増額ありきだったわけじゃないですか。結局「どこに予算を配分するか、という優先順位が、そもそも少子化だったり社会保障はすごく低く見積もられてるんじゃないかなと思います。」・高齢者と若者の対立について 「予算」の問題と関連し、若者と高齢者の「給付と負担のバランス」についても話題となった。番組では、高齢者関係の給付が増え続けている一方で、児童・家族関係の給付は少ないというグラフが示された。 他の出演者が「高齢者の医療や介護では無駄なところにお金が使われているため効率化をすべき」などと論じる中、岩本さんは「予算を高齢者に振り向けるのか、若者に振り向けるのかという二者択一を迫ること自体が『罠』だと思います」と述べ、「高齢者の介護や年金も全く十分でない」ことを指摘。高齢ワーキングプアが増え、労働相談の現場でも生活できるだけの年金をもらえず80歳になっても働いている人から相談が寄せられている実態を訴え、「若者か高齢者かの二者択一ではない」と述べて「対立を煽る論調」に警鐘を鳴らした。・最後に「選挙に行くっていうことしか自分の声を届ける選択肢がないっていうふうに思っている人が多いと思う。(しかし)四年に一度の選挙待ってられませんよね。そういう中で、もっと声を上げて、実際その状況を変えてくっていう手段ってあるんだよっていうことを、もっと示していきたいなというふうに思うんですね。(例えば)労働組合に入って職場で声を上げるなど、身近なところで立ち上がる人を増やしたいなって思います。」 以下は、放送後の反響を受けて、今野が岩本さん本人に聞き取った内容(一部)。Q討論全体を振り返って、どうだったか? 誰も真剣に若者の貧困問題に向き合っていない、と感じた。まるで言葉遊びのようなテーマの中で空中戦が繰り広げられる様子には、正直憤りを覚えた。 現場に立っている者として強調したいのは、貧困問題は「ディベートのお題」ではなく、現実の問題だということ。いま現実に貧困によって人生を奪われている人がいる。そこを蔑ろにした議論には何の価値もない。そこに切り込みたくて、現場で出会った一つひとつの相談を頭に思い浮かべながら問題提起をした。 Q 政治を変えてくれる「新しい政治家」として期待を寄せる声もあるがどうか。 自分の代わりに不満を「代弁」してくれる人、政治家として社会を変えてくれる人、として期待され、「応援」されることには違和感もある。一人がいくら「正しいこと」を言ったからといって、それで社会が変わるわけではないから。 一人ひとりが自分の学校や職場で声をあげ、社会運動のうねりを広げていくことでしか、状況は良くならない。私は討論の最後に「労働組合に入って職場で声を上げるなど、身近なところで立ち上がる人を増やしたい」とコメントした。 私が日曜討論で最も伝えたかったのは、この最後の一言だった。私たち皆が、自分たち自身で不当な状況と対決し、変えていく。そういう実践が今の社会にはあまりにも欠如しており、それが閉塞感につながっていると思う。Q自分自身で声をあげるとは、具体的にはどういうことか? 例えば、職場で賃上げを求めて声を上げるといったこと。今年の2月、ABCマートでパートで働く一人の40代女性が時給を20円「賃下げ」されたことをきっかけに、ユニオンに加入して立ち上がり、会社に賃下げの撤回と、インフレの中で生活できない状況を鑑みた賃上げを求めて交渉を申し入れた。 会社は当初賃上げを拒否し、同僚の多くも「どうせ変わらない」と女性を冷めた目線で見ていたが、女性は闘うユニオンの仲間たちの支援を受けながらストライキを決行。こうした闘いの結果、彼女はABCマートで働く5000人の非正規労働者全員の、6%賃上げを勝ち取った こうした直接的な行動により、政治が変えてくれるのを待つまでもなく、自分たちの貧困に対して声を上げることができるし、実際に変化を勝ち取ることができた。 世界(例えば英米)では、「ヒーロー」のような政治家や頭の良い専門家が変化を牽引しているのではなく、むしろ最も弱い立場にあると思われていた人々ー電気代すら払えない困窮者たちや、学生ローンという多額の債務に苦しむ若者たちーの直接行動が、政治の変化や社会の変化を引き出している。 私は、日本でも世界の動きに学びながら、「奨学金帳消しプロジェクト」や「ブラックバイトユニオン」などに加わる若者を増やし、自分たちで立ち上がって不公正な状況を変えていくという動きを広げていきたい。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.31
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教育をつくりかえる道すじ 教育評価3 の続きです ところで、「教育評価」に関連する力(「鑑識眼」)については、前掲論文の別の場所で三木裕和が述べていることが示唆に富んでいる。「重症児学校の朝の会。(・・・)『○○ちゃん、○○ちゃんはどこですか?』と問いかけ、返事を待つ。子どもは教師と視線を合わせることもしないし、手を動かすこともしない。(・・・)しかし、よく見ていると、自分の順番が終わり、隣の子どもの番になった頃に表情が和らぎ、ため息をついたり、時には微かな声が出る、手がわずかに動くなどの変化を見ることがある。(・・・)自分の挨拶のときに、それを理解できているからこそ行動に表れないという逆説を良く踏まえて臨まなければ、障害のある子どもを理解することはできない。」「大人との相互交流や、それに基づく自我の拡大に意味を見出す段階においては、あらかじめ評価基準を行動的用語として設定することはさらに困難となる。子どもの活動は、『評価されることを前提としたひとまとまりのもの』(終止形)ではなく、『次の目標を再生産する過程として意味を持つもの』(継続形)だからである。」⑫三木による上記の指摘は障害児に限らずすべての子どもたちの学習や成長を評価する際の重要で普遍的な視点を含んでいるように思われる。というのは、定型発達児においても児童期・前思春期から青年期にかけて、「教職員の期待したとおりの活動をしない、できない」場面は無数にあるからだ。自我の発達段階に違いがあるとはいえ、彼らの言動や態度・表情の中に「期待された行動としては表現されない葛藤・反発やもがき」という「成長過程」を読み取る力は当然にして求められるのではないか。 さらに、三木は次のように述べる、「相互交流の過程で起きた教師の内面の変化も子どもによって引き起こされたものと見ることができることから、指導者の主観さえ、子どもの活動の結果と結びつけて重視しなければならない。教師の主観も含めた諸事実から、子どもの教育評価が成り立つといえる。」⑫ ここで、子どもとの相互交流によって変化させられた指導者の主観に注目し、それをも含めた諸事実を大切にする、という発想が提示されているが、教育評価以前の教育の原点がそこに示されているように思われる。大切なのは、教職員が子どもたちの表情・態度・発言・行動の中に成長の兆しを見出す、といった意味における評価の力量(冒頭の引用文中で中内が述べている「有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取って」いくという意味での力)を高めていくことであり、かつ、子どもによって引き起こされた自分自身の変化をも意識化していく力であろう。実は、すでに教育評価はそのような力(少なくともその一部)の必要性を理論化しており、具体的方法で挙げた「d 観察や対話による評価」(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)がそれに当たると考えられる。要するに、「誰にでも客観的に評価できる行動目標の設定」(ましてや数値目標)にとらわれ、「工場モデル」に代表されるような狭い視野で教育評価の全体を理解・実践することは妥当でない。その結果は、「個人の願いや発達要求」の軽視や、「喜びや変革を生み出す実践的・創造的な力と無関係な画一的目標設定」につながる可能性が高い。それは、教育評価の持っている豊かな可能性を狭めることにしかならないであろう。以上、自らを省みることも含め、「教育評価」の力量を高めていくことの重要性を強調してきたが、そのような意味における「力」を鍛える方法については、これまでの様々な営みが示唆を与えてくれる。例えば、「学びの共同体」における授業後の研究協議では、授業者が見逃してしまいそうな子どもの発言・態度・相互交流を出し合い「子どもの学びの事実」を中心に議論する。その議論が適切に深められていけば、「評価の力」を相互に高めていく有力な方法となるであろう。一般的な研究授業と研究協議会の取り組みも、教職員の指導性に関わる議論も含めて同様の意義を持たせることが可能である。さらには、授業参観における保護者の感想にハッとさせられ、子どもたちの成長に関わる新しい視点を獲得することもあるだろう。そしてまた、このような評価の力は、日本における「生活指導運動」が特に重視してきた「実践分析の力」と重なり合う面が大きいのではないだろうか。実践記録の報告に基づいて、参加者は様々な質問をしながらその実践を読み取り、意見交換する中で分析を深めていく。このような営みを通して、子どもたちの活動や成長を評価していく力を高め、実践の優れた点と課題、それを次の実践にどのように活かしていけるのかという展望を見出していけるのである。 絹村俊明は「教員評価」に対置して、「『同僚性』に深く根ざした実践的教師集団づくり」を提起し、その具体的方法として「教育実践評価」を提起している。⑬教職員が同僚として力を高めあうことの大切さはいうまでもないが、教育の成果を適切に評価し「教育をよりよいものにしていく」ためには、子どもたちの成長や教育実践についてしっかり分析・評価していく「力量」、さらにはより適切な指導を見出していく「力量」が必要であり、そのためにも上記の「実践分析」⇒「教育実践評価」という視点は重要であろう。 4、結論 ~「学校評価」の組み換えと教育の改善~これまでの多岐にわたる叙述を簡単にまとめ、問題提起としたい。1)「学校評価」を「教育評価」本来の筋に沿って組みかえていくこと。この趣旨は、学校評価と教職員評価~その現状と問題点~ で述べたとおりである。2)その評価には、学習の主体(第一の「利害関係者」)である生徒の参加も検討されるべきこと。例えば日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価するというポートフォリオ評価。作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む実践が注目に値する。3)「教育評価」の力量を相互に高めていくためにも、「学校評価」の中に「教育実践評価」(授業検討会や教育実践の報告と分析の場、子どもたちに関わる情報交換をしながら「評価」や「実践」について検討する場)をきちんと位置づけ組み込んでいくこと。 大切なことは、1)「学校評価」を「教育評価」本来の筋に沿って組みかえていくことにつきると言ってもいいだろう。「教職員評価」に関して、教育評価の筋で考えると、「自己評価⇒指導方法や教育環境・条件の改善」に力点が置かれる。(利害関係者や外部の評価は、それを補ったり修正する役割を果たす)。②評定の筋でいくと、「管理者が評価して処遇に差をつける」、という発想につながるが、多くの教職員が直感しているように(そして、米国の失敗が明らかにしたように)、これはむしろ教職員の士気を低下させ、学校の教育力を弱めていくことになるであろう。 上記の二つ(「教育評価」と「評定」)をきちんと区別しないまま「学校評価」、「教職員評価」が論じられていることこそが大きな問題なのである。 なお、付け加えていえば、教育基本条例が提案された背景には現状の教育委員会制度の問題(教育委員会が事実上文科省の上位下達機関の役割を果たし、官僚統制の象徴となっている面がないか、といった問題)がある。しかし、このような問題に関しては、政治家による教育への介入を正当化するのではなく、教育委員の公選制の復活、学校(学校長)の権限を強め教育の分権化を進める(PISAで高得点をあげたフィンランドの成功の大きな要因は教育の分権化だった⑭)、といった方向で議論していくべきではないだろうか。 〔註〕 しょうのページ(HP)の教育問題はこちら ⑫三木裕和「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」〔地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)第8巻 第3号 205・6頁〕⑬絹村俊明「『同僚性』に深く根ざした実践的教師集団づくりを」『高校生活指導』176号、2008年、青木書店⑭『格差をなくせば子どもの学力は伸びる 驚きのフィンランドの教育』 亜紀書房 43頁OECD教育局のシュライヒャー氏はPISAの結果を分析してことを重要な指摘している。「フィンランドをみてみると、権限と責任はすべて学校に与えられていて、学校がありとあらゆることを決めることができるようになっています。それによって成績レベルを全体に底上げすることができると考えられます。・・・・トップダウン方式ではなくて、学校にやる気を起こさせることによって、成績を上げられるような環境にあるということです。PISA調査の結果から、学校が自分の判断でアイディアを考え出し、それを試してみることによってよい成績を得られることが可能となることがわかりましたが、その好例がフィンランドでした。学校にやる気を起こさせる環境を作ること、これが重要だったのです。」◎以上、「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.28
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この間の主な記事のPDF版 教育をつくりかえる道すじ 教育評価2 の続きです。 3、評価を行う力 ~教育実践評価の視点~ 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単に述べるとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。⑦ 中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔a 客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、b 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、 d 観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕。⑧ このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。 実をいうと、これらの実践は「目標準拠評価」(とりわけ「行動目標」の設定と機械的な評価)へのさまざまな角度からの批判に応えて生み出されたものでもある。というのは、教育評価が当初「工学的アプローチ」と呼ばれたことからもうかがえるが、いわば「自動車の組立工程のように、下位目標を効率的に組み立てて画一的な最終目標に到達させる」ものとして理解され、このような「教育の工場モデル」を成り立たせるために「行動目標」が存在する、と解釈されていた⑨からである。〔行動目標…例えば、高校生が中国の封建体制について説明できる、障害を持った子どもが「ちょうだい」と意思表示して仲間とやりとりできる〕 確かに行動目標が明確に設定されれば、客観的な「教育評価」を行いやすい面はある。しかしながら、一つ間違えば「誰もが同じように評価できる客観的な目標設定」を強調するあまり、設定される目標そのものが妥当性を欠くものになる危険性や、子どもたち一人ひとりの発達要求や願い、感情や喜びなど、個々の主体にとって切実な問題(それは教育にとって大切な問題でもある)を視野の外におきかねない、という危険性をはらんでいる。 事実、三木裕和は、「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」 ―重症心身障害児を中心に― の中で、「評価目標を行動的用語で表現する」ことに実践がとらわれるあまり、知的障害のある子どもへの教育において以下のような問題が生じていることを指摘している。⑩ 1)知的能力、活動の軽視、ないし無視2)情意的能力・活動の軽視、ないし無視3)行動変化のタイムラグの軽視ないし無視4)行動変化の個性差の軽視、ないし無視5)評価されにくい人格的変容の軽視、ないし無視 これが障害児教育において一つの流れになっているとすれば、大きな問題であるが、定型発達児の教育においても1)を除けば同様の危険性をはらんでいるといえよう。 実は、当初の「目標準拠評価」がはらんでいた問題点(「教育の工場モデル」を成り立たせるために「行動目標」が存在するものとして実践される)については、米国においても異なる角度から批判がなされていたのである。 例えば、ブルームの提唱した「教育評価(目標準拠評価)」に対して、芸術教育で活躍してきたアイスナーは、「目標の規準性」に回収できない教育実践の創造性、教育・学習活動の「質」に注目し、「質」を判断する力(「鑑識眼」と「教育批評」)が大切だと主張した。(「鑑識眼」とは、対象の性格や質を把握する力。「教育批評」は公開され公共性を持った「教育・学習の性格や質を把握する」行為。)⑪ そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「鑑識眼」は洗練されていく。このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて) しょうのページ(HP)の教育問題はこちら〔註〕⑦中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁⑧田中耕治『教育評価』岩波書店 147~162頁⑨田中耕治『教育評価』岩波書店 59~62頁⑩三木裕和「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」〔地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)第8巻 第3号 204頁〕⑪田中耕治『教育評価』岩波書店 61~62頁 続くにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.21
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この間の主な記事のPDF版 ヒーローを待っていても世の中は変わらない2の続きです。 表記書籍の中で湯浅誠は、「自身の体験」などを豊富に例示しながら、民主主義にとって大切なことは何かを私たちに投げかけ、「深刻な事態を誰かに何とかしてほしい」という焦りに向き合いながら「民主主義の面倒くささ」を引き受けるしかない、ということを訴えます。これを読むことで、私自身が「自らの焦り」と向き合う機会になったのですが、皆さんはいかがでしょう。ぜひ、私の要約・紹介ではなく「そのもの」を読んでいただきたいと思います。 Q 最善を求めつつ最悪を回避するとは? 一、ともすれば「取るに足りない問題」、と片付けられがちなこの課題を、実態に見合った大きさで理解してもらい、向き合ってもらうために。より多くの人たちに、働きかけていくこと。一対九を二対八、三対七、に転換していくこと。二、当面たとえ一対九だとしても一割分、あわよくば二割分、二対八だとしても、可能なら三割分というように、現実の調整過程にコミットして、一歩でも半歩でも実態に追いつくように政策を実現させていくこと。三、八割、九割の世論をバックに「望ましくないと感じられる政策が進もうとしている時」に「政府が悪いことをしている」で済まさないこと。その八割・九割の世論に働きかけるとともに、それが容易に変わらない時には一割でも二割でも、自分たちの意見を残すように調整過程にコミットすること。 最悪を回避するために、わずかでも自分たちの主張を滑り込ませるイメージ。自分と異なる意見を持っている人のほうがはるかに多いと言うことを前提に、最善を求めつつ同じくらいの熱心さで最悪を回避する努力をすることが必要。Q 民間の活動が持つ傾向と問題は? 同じような意見を持つ百人の仲間を二百人に増やすというように、内側から広げる志向を持つ。自分たちと近いところに居る人達を強く意識し、仲間に迎え入れることに努める。自分の考えを変える必要はないので、発想がどうしても内向きになりがち。Q 公的にやる時の困難は? 反対意見を無視できないわけだから、それとの綱引きの結果次第では自分にとって最悪の結論にもなり得ることを常に想定しないといけない。その場合は一番遠くにいる人たちを意識し、その人達の強硬な反対が少しでも和らぐよう外側の理屈との橋渡しに心を砕くことになる。Q そのような努力を放棄したら? 仮に百人が二百人になったとしても、それが一億二千万分の二百であれば、やはり政策は動かないし、逆ベクトルの政策がとられる可能性も高い。最善を求めつつ最悪を回避するというのは、近くから広げ遠くと橋渡しをするということ。 これは本当に難しい。ともすると、いうことが分裂する。しかし、その困難さと真剣に向き合えなければ、物事は進んでいかないだろう。 単にお金がなくて仕事と生活に追われているというだけでなく、多少のお金があっても、効率的に生きることに精一杯で、物理的にか精神的にかまたその両方かで時間がない。社会に「溜め」がないとはそういうことで、格差貧困が広がる社会は底辺の人たちだけでなく、「勝ち組」と言われる人たちからも余裕を奪っていく。 単純に言って、朝から晩まで働いてへとへとになって、9時10時に帰ってきて、翌朝7時にはまた出勤しなければならない人には「社会保障と税のあり方」について一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間がない。 子育てと親の介護をしながらパートで働いて、クタクタになって一日の家事を終えた人には、それから「日中関係の今後の展望」について、日本政治と中国政治を勉強しながら、かつ日中関係の歴史的経緯を紐解きながら、一つひとつの外交テーマを検討する気持ちと時間はあない。 だから私は最近こう考えるようになった。「民主主義」とは高尚な理念の問題というよりも、むしろ物理的な問題であり、その深まり具合は時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、という極めて即物的な事に比例するのではないか。 Q 時間と空間が参加可能にするとは? 時間と空間の問題は、言い換えれば参加の問題。世界的政治的参加のための空間がなければ、そもそも参加が成り立たないし「場」空間があっても時間が無ければやはり参加できない。 例えば、誰かがデモ行進を申請しなければ、デモ行進を行う空間は確保されない。そして、そこに意味を見出して時間を切り出してくれる人たちがいなければ、主催者だけの寂しいデモ行進になる。 多くの人たちが「決めてくれ、ただし、自分の思いどおりに」、と個人的願望の代行を、水戸黄門型ヒーローに求めるのではなく「自分たちで決める。そのために、自分たちで意見調整する」と調整コストを引き受ける。民主主義に転換して行くためには、さまざまな人たちと意見交換するための社会参加、政治参加が必要。そして時間と空間はそのためのもっとも基礎的・物理的条件になる。(・・・) 従来の「血縁、地縁、社縁」も活用しながら、かつそれだけに閉じこもることなく、他との交流を多様に進めていくこと、その時に必要になるのが「人と人とを結びつける工夫と仕掛け」で、それが異なる文化、異なる作法を持つ者同士の信頼関係づくりを可能にする。 だから「誰が決めてくれよ、ただし自分の思いどおりに」という人を見たら、ヒーローを求める気持ちの奥にある「焦りや苛立ち」にこそ寄り添い、それに向きあって一緒に解決して行くことこそ自分へのチャレンジだと感じるようになる。「誰の責任だ」と目を血走らせることより、課題を自分のものとして引き受け、自分にできることを考えるようになる。 「決められる」とか「決められない」とかではなく、「自分たちで決める」のが常識になる。そのとき、議会政治と政党政治、民主主義の危機は回避され、「切り込み隊長」としてのヒーローを待ち望んだ歴史は過去のものとなる。「ヒーローを待っていても世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは世界が良くならない。」 ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。私たちにできることはたくさんあります。それをやろう。その積み重ねだけが社会を豊かにする。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.19
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 遠藤誉が、「台湾有事」はCIAが創り上げたのか?! という記事をあげていました。今後における「日本の防衛政策」などを考えていくうえで、十分考慮すべき事実がまとめられています。 日本政府は「米国に追随する以外の選択肢がない」かのように防衛力拡大につき進んでいますが、それは妥当なのか?「台湾有事は日本の有事」とみて自衛隊をその事態に向け「大規模に再編成」したり、「反撃能力」のために西南諸島にミサイルを設置することが人々のためにプラスになるのか。 しっかり考えていく素材として、内容を紹介します。〔要約・紹介〕 5月4日、米国家情報長官(ヘイズ長官)は台湾有事で世界経済は年間134兆円の打撃を受けると警告した。しかし台湾を自国領土と位置付ける中国には台湾を武力攻撃する理由はない。武力攻撃させるため台湾の独立派を応援しているのは日米ではないのか。◆台湾有事で年間134兆円の打撃を受けると米国家情報長官 5月5日、「ワシントン共同」は<台湾有事で130兆円打撃 米長官、半導体生産停止>と報道。それによれば、アヴリル・ヘインズ米国家情報長官(元CIA副長官)は4日、中国による武力侵攻で台湾の半導体生産が停止すれば「世界経済は甚大な影響を受ける」と指摘した。◆中国大陸から見たら、台湾問題は内政干渉Q 米国が「一つの中国」を認めた経緯は?1971年7月9日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領(当時)は、国家安全保障担当大統領補佐官(のちに国務長官)を務めていたヘンリー・キッシンジャーを、極秘裏に訪中させた(忍者外交)。キッシンジャーは当時の中国の周恩来と会談し、米中国交樹立の用意があることを告げた。Q そこで中国が要求した条件は? 中国側としては「一つの中国」原則を断固として要求した。 すなわち、「中国という国家を代表するのは中華人民共和国のみである」という大原則で、もし「中華人民共和国」と国交を樹立したければ、その絶対的な前提条件として、「中華民国」台湾とは国交を断絶しなければならないということ。Q 国連はこの問題に対してどのように対処したのか?1971年10月25日、第26回国連総会で、中華人民共和国(中国)が「中国を代表する唯一の合法的な国家」として国連に加盟。同時に「中華民国」台湾は国連脱退へと追い込まれた。⇒こうしてアメリカは1979年1月1日、正式に米中国交正常化を成し遂げ、同時に「中華民国」台湾との国交を断絶。(日本の場合は1972年9月29日に日中国交正常化共同声明を発表。「中華民国」台湾と国交を断絶して、日華平和友好条約を破棄。)Q「一つの中国」の原則を覆すには? 国連で法的に整然とした経緯を経ているので、これを覆したければ国連で決議すべきだ。それができないのなら、中国が台湾を自国の領土と主張するのには正当性があることになる。その統一をどのような形で実現するかは、中国国内の「内政」になる。Q 基本的に中国は「統一問題」をどのように考えてきたのか?(内政問題である以上)、「平和統一」以外に考えていない。 武力統一の可能性が出てきたのは2005年。陳水扁総統(当時)が台湾独立を叫び始めたために「反国家分裂法」を制定し、もし台湾が国家として独立しようとしたならば、「国連で認められた『一つの中国』を分裂させる政府転覆罪として処罰するために武力攻撃する可能性を否定しない」ことになった。 その後、親中の馬英九政権が誕生したので、中国は台湾周辺での軍事演習をその間は一度もやっていない。 全米民主主義基金(NED)は2003年にNEDと同じ機能を持つ「台湾民主基金会」を台湾に設立させている。これは中国を国連に加盟させた時の日米側の中国に対する誓いとは完全に逆行した「内政干渉だ」と、中国側には映るだろう。◆中国にとって台湾武力攻撃のメリットはゼロ! そもそも武力攻撃などしたら大きな損失を中国がこうむるだけだ。列挙してみよう。1.台湾を武力攻撃したらアメリカが台湾を支援することは歴然としているため、中国は勝てない。そうなれば、中国共産党による一党支配体制は崩壊するので、自分の方から戦争をしかけるようなことはしたくない。2.台湾には半導体産業があって、それをそのまま頂きたいと思っているため、武力攻撃などするつもりはない。武力攻撃などして、万一にも半導体産業が破壊されたら、統一後に中国が非常に大きな損をする。3.武力攻撃などで台湾を統一したら、台湾の人々が中国共産党政権に対して強い反感と怨みを持つようになり、統一後に一党支配体制が崩壊する可能性が大きくなる。4.特にウクライナ戦争におけるロシアに対する西側諸国の制裁の仕方を十分に知っているので、ここで武力攻撃に出るほど、中国が無策であるということは考えにくい。◆中国が台湾を平和統一したら、困るのはアメリカQ なぜ、アメリカはかくも激しく「中国が台湾を武力攻撃する」と叫び続けるのか? 中国が平和統一などしたら、経済的にも軍事力的にも中国の方がアメリカを凌駕するので、アメリカとしては何としても、そのような絶望的未来が到来するのを阻止したいから。 だから、何としても、中国には台湾を武力攻撃してほしいのである。Q そのために米国は何をしてきたか? 頻繁に米政府高官に台湾を訪問させ、独立を支援している。そうすれば中国が怒って、台湾周辺で激しい軍事演習をしてくれるので、「ほらね、中国はやっぱり台湾を武力攻撃しようとしてるでしょ?」と台湾の人々に言って聞かせ、来年1月の「中華民国」台湾の総統選で、親中派の国民党候補に投票せず、親米で独立志向の強い民進党に投票すれば、親米政権が台湾で継続され、中国を追い詰めることに成功する可能性が高くなってくる。したがって今年は来年1月の総統選まで、アメリカによる「中国が台湾を武力攻撃する」という喧伝あるいは扇動は、加速的に強まっていくと判断される。 アメリカは米中覇権において、それでいいかもしれないが、追い詰められた中国が本気で武力攻撃をしたときに、最前線で戦うのは台湾と日本だ。 日本の政治家は、アメリカに追随して台湾を訪問することを重視するのか、それとも日本国民の命を重視して現実を直視するのか、真剣に考えろと言いたい。 筆者自身は、NEDのホームページを当たり、多くのファクトを拾い上げてリストアップした。そのリストを作成して驚いたが、世界の紛争のほとんどは1983年まではCIAが創り上げていて、1983年にNEDが創設されてからはNEDが創り上げていることがわかった。世界のどこかに内紛があると、必ずそこに潜り込んで既存の政府を転覆させ、親米政権を樹立させるということをくり返してきたことが、リストから歴然としてくる。NEDはその創設者が語った言葉から、「第二のCIA」と呼ばれているが、この「第二のCIA」が「台湾有事」という「神話」を創りあげているとしか言いようがない。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.14
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この間の主な記事のPDF版教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 1 (2012年3月執筆)の続き2、学校評価と教職員評価 ~その現状と問題点~現在の「学校評価」や「教職員評価」が強調されるようになったのはいつからだろうか。田中耕治(『教育評価』)によれば、第16期中央教育審議会答申(1998年)以来、学校の経営責任の明確化、各学校の教育目標を効果的に達成することを目指して、学校評価が意識的に取り組まれるようになってきた。学校評議員制度もこの学校評価を支えることを一つの目的として導入されたものである。 「教育改革国民会議」(2000年)で「教師の意欲や努力が報われ評価される体制」の構築が提案される一方、「指導力不足教員」の問題、他方では「教員の専門力向上」の問題をにらみながら、人事考課、勤務評定としての「教育評価」の取り組みが強まっている。⑤ ここでは概略、次のような点が指摘される。・学校評価において、自己評価と外部評価をどのように関係づけるのか。・教師の教育専門家としての成長と、処遇への反映の関係をどのように考えるのか。・競争的な報奨制度が共同的な教育活動を阻害することになったアメリカでの失敗例を念頭において、教師の努力や意欲が報われ評価される体制をどう構築していくのか。 田中耕治の記述はいくつかの問いで終わっているが、彼が「教育評価」と鍵括弧つきで表現した上記の取り組みの中には、本来の教育評価を捻じ曲げる要素が数多く入り込んでいるのではないだろうか。「学校評価」・「教職員評価」導入の意図が、「教育評価」を前進させるという純粋な観点だけでないところに問題がある。いくつかの側面から整理しておこう。1)「学校評価」の主体は本来誰か冒頭の引用文で中内(『教室をひらく』)も記述しているように、教育評価の筋で考えれば教職員こそが評価の主体である。「教科の学習や特別活動の成果」、「学習や活動によって生じた変化(あるいは変化が生じていないように見える理由)」を適切に評価し、「教育を(学校を)よりよいものにつくり変えていく力」こそが、教職員の専門性だと考えられる。このような意味における「教育の成果や教育実践そのものを評価していく教職員の力」を高めることなしに、豊かな教育は成り立たないであろう。あくまでこれが基本であり、教職員自身による「教育評価」を補うために「利害関係者」(具体的には同僚、保護者、地域住民、教育行政機関、第三者機関)の評価、そして学習の主体である子どもたちの評価を取り入れるのである。例えば研究授業や参観授業で同僚・保護者が感想・意見を述べる等、教授・学習過程に関係する人たちが評価に参加することは、「教室に閉ざされた評価」を開いていくことになる。そして同時に、教職員は出された意見を受け止めつつ検討することで「教育評価」の力を高めていくことができるであろう。2)教育評価と評定の区別 評価については、教育評価(エヴァリエーション)と評定(ヴァリエーション)を区別することが必要であるが、現状においてはきちんと区別されていない。現在の学校評価、教職員評価は純粋に「教育評価」の観点から拡大しているわけでないところに問題がある。「教育評価」と言うよりも、「評定」が強調される傾向があまりに強いのである。(例えば、教職員をA、B、Cにランクづけする等。)確かに、現行の「学校評価」の中には教育評価的な性格が取り入れられている部分もあり、それをも含めて全面否定することは問題があるだろう。しかし、それ以上に「民間企業の目標管理システム」をモデルにしていると見える側面が強い。後者のモデルは目に見える数値目標を重視するが、それにとらわれることで「教育の目標設定」そのものをゆがめてしまう可能性は大きい。 さらに、数値目標が一人歩きしていくことは教育の市場化・商品化を加速させていくと考えられるが、米国において完全に失敗していった「教育改革の現状・結果」⑥から、しっかりと学ぶ必要があるのではないか。また、ランクづけ(さらには賃金格差の導入)が「教職員集団で行き届いた教育を創造する」上で大きなマイナスになることについては、多くの論者が指摘するとおりであろう。3)評価に関わる「利害関係者の利害」とは?確かに、学校教育において「利害関係者」が「教育評価」に適切な形で参加することは有意義である。適切な形での参加というのは、教職員による「子どもたちの学びの現状の評価」を色々な角度からの意見によって補ったり修正していくことである。その結果、どの学校においても指導や教育条件が行き届いたものになるよう関わっていくことである。 しかしながら、「参加」の問題が「俺にも文句言わせろ」と言う形で「評定(例えば標準テストの平均点)を上げるための圧力」になってしまうとすれば、結局、子どもたちを際限のない「排他的競争」に駆り立てるだけで、権利としての行き届いた教育保障に逆行するものではないか。確かに教育目標を再検討していくことは大切である。しかし、例えば学習指導要領の内容が、政治家や経済学者やマスコミによる「学力低下キャンペーン」によって右往左往するようなことには大きな問題がある。あくまで、目標の再検討は、現場における「教育評価」を土台にしてなされるべきであろう。(※)また、教職員をランクづけし「最低ランクの○○はやめさせろ」、「担任替えろ」といった要求を出すことが、しっかりとした「教育評価」をもとに、落ち着いて指導内容の改善や教育条件の整備を進めていく上でマイナスに働くことは容易に想像できる。橋下維新の会による「教育基本条例」は、そのような性急な要求を公的機関が押し出すことで「米国の失敗」を現実のものにする危険性が大である。 〔註〕⑤田中耕治『教育評価』岩波書店 87頁⑥堤 未果『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書 2011) によれば、米国における「教育の市場化・商品化」の現状・結果は以下のようなものである。(概略)アメリカでは2002年春、ブッシュ政権によって市場原理中心の教育政策である「落ちこぼれゼロ法」が施行された。その結果、全国一斉学力テストの実施が義務づけられるとともに、学力ノルマ基準を満たせず「落第」とされた場合、責任と非難は現場の教師一人ひとりに集中し、減給や解雇が行なわれる。公立学校も、国からの予算カット、廃校、民営化に追い込まれる。さらに、公立学校の教員の多くが、国から要求される子どもたちの学力ノルマ達成と生活に余裕を失った保護者からの大量の無理難題要求に追い詰められていく。その結果、バーンアウト(燃え尽き)していく事態が急速に進行。2014年までに全米の公立高校の九割近くが「落第」になる見通しで、この政策は、教育現場を極度に荒廃させただけに終わっている。なお、米国で失敗した「落ちこぼれゼロ法」と「教育基本条例」が酷似していることを指摘した番組をとりあげたブログ記事はこちら 。◎「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは一応理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。 2023年5月10日付記 (※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。 続き にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.09
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この間の主な記事のPDF版 表記書籍の中で湯浅誠は「ヒーローを待ち望む心理」の危険性と同時に、現状を改善したいという「活動的な市民が持つ焦り」の問題点を、体験に基づいて指摘します。ウクライナ戦争が続いている今、当時と共通する点と異なる問題があるわけですが、「現実と向き合う向き合い方」について示唆に富んでいるように思います。〔以下、内容紹介の続き〕 「強いリーダーシップ」をもったヒーローを待ち待ち望む心理は、「極めて面倒で、疲れる民主主義というシステム」を、私たちが引き受けきれなくなっている証ではないか。Q その心理の問題点は?A1「気づいたら自分がバッサリ切られていた」という形で、私たち自身の、ひいては社会の利益に反すること。A2 多くの人が大切にしたいと思っている民主主義の空洞化、形骸化の表れであり、またそれを進めてしまうという点。両者を結びつけているものが格差貧困問題の深まり。 Q「溜め」のない社会とは? そもそも論として、仕事と生活に追われて疲れている人は、こんな本を読む暇も気力もでてこない。かつて私はそのことを「溜め」という言葉を使って表現した。 少なからぬ人たちの「溜め」を奪い続ける社会は、自身の溜めをも失った社会である。アルバイトや派遣社員を「気楽でいいよな」と蔑視する正社員は、厳しく成果を問われ、長時間労働を強いられている。正社員を「既得権益の上にあぐらをかいている」と非難する非正規社員は、低賃金不安定労働を強いられている。人員配置に余裕のない福祉事務所職員や、お金に余裕のない生活保護受給者が、お互いを税金泥棒と非難し合う。膨大な報告書類作成を重ねて目配りの余裕を失った学校教師が、子どものいじめを見逃す。財政難だからと弱者切り捨てを進めてきた政府が主権者の支持を失う。これらすべて、組織や社会自体に溜めが失われていることの帰結であり、組織の貧困、社会の貧困の現われに他ならない。 『反貧困』より 溜めのない人が増えていくことで「さっさと決めてくれ。ただし、自分の思いどおりに」と強いリーダーシップを発揮するヒーローを待ち望む心理が高まっていく。格差貧困問題の広がりと民主主義の空洞化・形骸化は、このような現象として、私の中で不可分な形で結びついている。Q この本を書くきっかけとなった体験は? ホームレスの問題から始める中で、貧困問題に気づき、そこでもがく中で民主主義の問題に思い至った。渋谷でホームレス支援をやっていたのが「もやい」という団体を作って生活相談を受け始めてみると、若い非正規労働者などアパートのある人が相談に来るようになり、単なるホームレス問題ではくくれなくなった。「貧困問題」という言葉に行き着いたのが、2006年のこと。 そして、2007年に「反貧困ネットワーク」という活動をはじめ、2008年に「派遣村」を開催。その後、2009年に内閣府参与として政権に入り、格差貧困問題の改善をめざして働いた。生活就労一体型支援や、対象を限定しない電話相談の実施などやれたこともたくさんあったが、課題も多くあり壁にぶつかった。では、その壁って一体何なのか、と考えたら民主主義の問題に突き当たった。Qどのような問題か? 民間の活動と行政の公的な政策づくりは質的に違う。仲間うちで自主的に行う民間の活動の手法だけでは実際には政策は進まない。 生活に困った人の相談を受ける生活支援の現場は狭い世界。いつもそうした状態に追い込まれた人たちとつきあうので、その現実については詳しくなっていくが、それに携わっていない人たちとの交流・意見交換の場は少ない。仲間内では前提とされるものがどんどん増えていって、言わなくても分かる雰囲気が作られていく。Qそれ以外の人たちと接することでぶつかった困難は?当たり前と思っていた前提が外の人たちには全然通じない場合がある。狭い世界の仲間内で、たくさんのことを共有した頭で外の世界に働きかけても、なかなか外の人たちに通じる言葉が見つからず、空回りしてしまう。 えてして「外の世界は無理解だ、ひどい」となるが、原因はこちら側にあることも少なくない。自分たちが前提としているものを共有していない人たちと話し合うための言葉を見つけられないという問題。いわゆる「蛸壺化」、「ガラパゴス化」の問題。 私は出演したテレビ番組でそうした場面にしばしば出くわした。大抵討論形式だったから、私の反対側には、私と相いれない意見を持っている方が座る。その方たちは極めて真剣に私と真っ向から反対する意見を述べてこられる。反論を試みても、私は何度も「この人は人生何10年を生きてきて、その実感からこうした意見に達しているという重みと、その意見の堅さ」を感じた。 自分の言いたいことを言うだけでは、決してこの人たちには通じない。また、私にはいつもこうした人たちの方が世の中では多数派なんだろう、という感覚もあった。自分の方が少数派だとすれば、その人たちを「わからず屋め!」と切り捨てても何も変わらない。 Q 国の政策に直接関わって痛感したことは?上記のような体験の延長線上にあることだった。 民間の「濃く、だけど狭く」と行政の「広くだけど、薄く」は対照的であり、またどちらにも一長一短があり、一概にどちらが優れているとはいえない。 政府の「やる気」や「意欲」の問題にするのは、安直で見せかけの回答に過ぎないと。それはちょうど生活に苦しんでいる人たちの苦しみを、やる気や意欲の問題にして、やらないのは本人にやる気がないからと言っているのと同じ。 大切なのはやるための条件をいかに整えるか。誰が整えるのかと言えば、言うまでもなく私たちだ。なぜなら、私たちが主権者だから。ここで誰が調整責任を負うべきなのかという問題と絡んで、民主主義の問題が出てくる。 世の中の九割の人が反対していることを、いくら私たちがやるべきだと言っても、そう主張する人が一割しかいなければ、一割の側につく政治家はほとんどいない。当然、九割を取る。そうでないと次の選挙に受からないし、そこで一割を取るような人は、そもそも議員に当選していない。(やるべきではないというのが「民意」)。それを「けしからん」「やらない政治が悪い」と言ったところで、一対九の構造を変えられなかったら、政治家は九を取り続ける。 それを二対八、三対七、四対六に変えて行くのが、主権者である私たち(主権者として譲れない意見を持っている私たち)のやるべき事で「やらない政治が悪い」、ですますのはほとんど「俺の言うことを聞かないお前はけしからん」と言っているのと同じだ。Q 最善を求めつつ最悪を回避するとは? に続くにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力)
2023.05.06
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この間の主な記事のPDF版 PDF版 「誰のための司法か」 「教育をつくりかえる道筋」について私たちはどう考えていけばいいのでしょうか。 「大阪維新」が橋下知事の時代に制定した「教育基本条例」を意識しつつ私なりにまとめた「論文」(中内敏夫、田中耕治らの理論・考察を学ぶ機会を得て主に2012年3月に執筆したもの)を何回かに分けて公開します。 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 大阪の橋下維新の会が提出・成立させた「教育基本条例案」。大阪の世論調査では、支持する人たちは多数のようだが、なぜこの条例案は多くの人に支持されるのか。様々な人たちがその問題点を指摘するものの、結局、われわれ自身「教育をより良いものにつくり変えていく道筋を充分示せていない」ということが背景にあるのではないだろうか。いまこそ、そのような道筋を積極的に示していく必要があると思われるが、実を言うと、すでに実践可能な理論は構築されているのである。それは何か。「教育評価」の取り組み(=教育の成果を子どもたちの実態に即して丁寧に評価し、授業改善や学校改革、教育条件整備につなげていくという発想・取り組み)である。教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。 「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」① そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。② このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕 ながいあいだ用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」③として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。そのことは、小学校、中学校の評定において相対評価が廃止され、目標準拠評価が採用されるに至ったことからも、確認することができる。さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる4)「教材精選」の目安が得られる5)学習における相互協力が子どもにとって(義務ではなく)必然になるもちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。 そしてまた、学力が目標に達しているかどうかを判断する材料として、「テスト」を偏重する思考からの脱却も要請される。テストは「評価のひとつの科学・技術」として編み出されたものであるが、「近代の市民社会における教育的人づくりにとっての妥当性」という基準でそれは検討される必要がある。その結果、客観テストは相対化されていくことになるだろう。つまり、教室内での質問による確認、子どもたちの作品や発表内容等も含め「評価のてがかり」はさまざまに存在するわけで、「テスト」はあくまでも「評価の一手段」なのである。〔註〕①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁④中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁◎「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは一応理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。 2023年5月10日付記教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 2 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ(rakuten.co.jp)へ続くにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.01
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この間の主な記事のPDF版 PDF版 「誰のための司法か」 『知事の真贋』の中で片山善博は、「パフォーマンスの上手な知事」に対してやや否定的に(少なくとも慎重に)その実力を見極めるべきことを主張しています。東京の小池知事や大阪の吉村知事などが念頭にあることは明らかでしょう。しかしながら、2023年春の「統一地方選挙」の結果(日本維新の会の「躍進」)を見る限り、「パフォーマンス上手な知事(党の顔ともいうべき吉村知事)」がもたらす影響力は無視できない大きなものがあると感じられます。私たちは、少し落ち着いて現状について考えていくことが必要なのではないでしょうか。この問題について考えていく良い材料として、「橋下知事」の時代に湯浅誠が著した『ヒーローを待っていても世界は変わらない』があります。その時点で湯浅誠が「危惧していた問題」は現在にも当てはまる部分が大きいように思われるのです。 以下、複数回にわたって、その内容を紹介します。 Q「ヒーロー」を待望する人々の気持ちと帰結は? 難しいことはよくわからないけど、自分が正当に報われていないという実感は確実なものとしてある。その時「世の中にこういう既得権益があります」と言われると、自分の日々の努力を踏みにじられたような気分になり、日日に余裕がない、ゆえになおさらそれを許せなく感じるという状態。 「状況を規定してしまうカリスマ性、反対意見を考慮しない大胆」を持ったヒーローや政党は、よく言えば突破力がある、悪く言えば独善的。私が気になっているのは、なぜこのような人格が待望されるのか、それを待ち望む人たちの心理、それがもたらす帰結だ。 仕事と生活に追いつめられて余裕を失う人たちが増える中。溜まりに溜まったフラストレーションがそのような、切り込み隊長を待ち望むようになるその心理が分かるような気がする。しかし、他方、私はそれが待ち望んでいる人たちに最終的に望ましい帰結をもたらすとはどうしても思えない。 どんな政策でもそれに賛成する人と反対する人は必ず出てくる。政策は基本的に全員を巻き込むもので「巻き込まれる一人ひとりに必死の生活とそこから出てくるニーズがある」以上、それは自然なこと。 Qそのときヒーローはどう振る舞うか?自分が進めたい事柄については反対する人たちを、「既得権益の為に反対しているだけだ」といい、反対意見を無視し、即断即決で物事を進めていく。それは既得権益に屈しないと表現されるものの同時に、ひとりひとりの必死の生活とそこから出てくるニーズが切り捨てられるという面も持っている。ヒーロー待望論は後者の側面を見えにくくする。Q 誰しも自分自身の必死の生活と、そこから来るニーズは尊重されるべきと思っているが、尊重されるべきものがされていないという不正義があるらしい。なぜだろうか?自分のことしか考えず、自己利益のために正義を踏みにじる「既得権益」が世の中にあるからだ。だから「切り込み隊長」頼むよ、と言うことで、ばっさばっさとやってもらうことが正義にかなうと感じられる。が、複雑な利害関係がある中でばっさばっさとやることで気がついてみたら自分が切られていたということもあり得る。 何しろ今は、生活保護受給者さえ、国会で「既得権益」と言われる時代。最低限度の生活しか保障されていないはずの生活保護が「既得権益」と呼ばれること自体、数年前までは考えられない話だった。 仮に、そのように考える人が増え、例えば(障害のある)兄から雇用先や障害年金が奪われたとすると、その決断をした政治家に対して「強い抵抗にあいながらも既得権益に切り込んだ」と喝采を浴びせる人は居るだろうが、それがどのような結果をもたらすかは、もう少し先まで考えてみる必要がある。 アメリカの批評家ノームチョムスキーは、公民権運動のヒロインだったローザ・パークスについて「ローザ・パークスは傑出した人物だが、私たちにとって重要なのは、第二のローザを探すことではなくローザを生み出した土壌を作ること」だといった趣旨のことを発言し、「魔法のボタンは存在しない」という一文で結んだ。Q 国会や政党に積極的な意味はあるのか? 周りを見回してみると、今や国会や政党は多くの人にとって嘲笑の対象でしかないことに改めて気づく。しかし、そうやって議会政治はダメだ、政党政治はもうダメと壊して行った時に、それよりマシなものが出てきたことがないというのも歴史的な事実。「壊す時には壊す前にその建物がなぜ建てられたか考えてみよ」、という格言がヨーロッパにある。 十全に機能していないから一気に取り換えてしまおう、バッサリやってしまおう、という心理には焦りを感じる。それは一つひとつ積み上げながら改善して行くことを待っていられないという焦り。その飛躍と焦りに、人類が蓄積した、してきたものに対する冒とくに似た危険性を感じ取ってしまう。〔comment〕 「早急に改善したい問題」、「切実な要求・願い」があるにも関わらず、どうにもならないと感じたとき、「強力なleader」が登場して迅速に改革を進めてほしい、という気持ちになりがちですが、それは同時に危険な面を含んでいます。「粘り強く意思表示する」、「情報も集めながら時間をかけて話し合い、合意を形成していく」という面倒な過程が「民主主義の営み」なのですが、その面倒くささを引き受けていけるような「時間と空間」をどのように生み出し保障するのか。湯浅誠とともに、それを考えていく必要があると思います。が、湯浅はまず、「とても待っていられないというあせり」の背景には何があるのか考察します。 続きは「焦りの背後にある格差貧困問題」にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力
2023.04.30
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この間の主な記事のPDF版 PDF版 「誰のための司法か」 NHKに対して次のような「視聴者の意見」を届けました。〔意見〕 NHKについては、2023年に入ってからの三つの番組が印象に残っています。1月15日の日曜討論。ウクライナ戦争をめぐって「軍事評論家」を登場させる番組が多い中で、薮中さんと多くの女性参加者が「軍事的支援」とは別の観点から様々な発言をしていたのがよかった(特サヘル・ローズさんは素晴らしかった)です。 3月20日の「イラク戦争から20年」で真っ向から取り扱った劣化ウラン弾の問題。米国の戦争犯罪にもしっかり向き合い検証する姿勢が伝わってきました。 さらに、4月15日に放送されたETV特集「誰のための司法か〜團藤重光最高裁・事件ノート」。日本の司法のあり方を深く考えさせられるいい番組でした。 引き続き、しっかりとした調査報道(例えば放送法の問題などを主題にした番組など)も含めた番組づくりを期待したいものです。 〔以上〕〔自分なりに(上記)NHKの果たしている役割に目を向けようと努めてはいますが、ニュース番組の現状(難民などの強制送還をさらに容易にする入管法改正案の委員会可決をまともに報じないことなど)には強い不満を表明せざるを得ません。 4月30日付記〕 さて、4月15日に放送されたETV特集、「誰のための司法か〜團藤重光最高裁・事件ノート」について、やや詳しく内容を紹介します。 元最高裁判事。團藤重光。残された資料の中に最高裁の審議の過程をしめすノートが現れた。大阪空港訴訟に関するメモである。大阪空港で騒音に苦しむ住民が、夜間の飛行の差し止めを求めて国を提訴。 最高裁は判決で「差止めに関しては住民の請求を却下」した。 (騒音被害者・原告)「住民の健康を守ってこそ国家がある、」「なぜ認められなかったのかとても悔しい、」最高裁は判決の直前、二度にわたって審理のやり直しを行ない、そのことで結論が覆った。 引き伸ばし作戦。この種の介入はけしからぬことだ。 (團藤)これ(團藤ノート)は、司法と国民の権利のあり方について考える材料になる。本来的には團藤さんの雑記帳ではなく、ちゃんと文書として残し、裁判についての批判があれば国民の批判を受けるのが正しい最高裁のあり方だ。 (福島至 龍谷大学名誉教授) 團藤重光 1913年生まれ。東京帝国大学法学部入学。23歳で東大の助教授に就任。刑法学の第一人者となった。1974年。最高裁判事に就任。最高裁の判事の中で唯一学者出身だった。團藤が書き残した大阪空港事件に関する裁判記録のノートは38冊。 万国博以降、空港の騒音被害が深刻化し、住民は救済を求めた。一家が揃う夜の時間帯には3分半に1回、飛行機が通過する。求めたのは夜9時から翌日7時までの飛行差し止め。 運輸省が裁判の矢面に立った。 第一審、夜10時以降の飛行差し止めを認めたが、さらに大阪高裁判決では、夜9時から翌朝7時の飛行差し止めを認めた。理由として挙げたのは、人格権の侵害だった。 これを受けて夜9時以降の離着陸を停止されたが、国は逆転判決を期待し、最高裁に上告したのである。当時、福岡空港や厚木基地、横田基地でも騒音に関する公害訴訟が起った。成田空港反対運動も激化していた。 三権分立の一角である司法。最高裁は三つの独立した小法廷がある。一ページ目に、第一小法廷の結論が書かれている。結論としては差止が中心。事実上、9時から7時まで飛行を禁止している。このような事実関係から考えると原判決を是認していいのではないか? 差し止めを認める第一小法廷の判決が下されていれば、その後の公害裁判に対するインパクトは非常に大きなものがある。公害裁判の流れは、その後に実際にあったものとは、大きく違ったものになったのではないか。 飛行差し止めを認める根拠について團藤たちは次のように判断した。人格権で行くほかあるまい。人格権は生命、身体生活を他人から侵害されない権利。高裁で認められたが、最高裁で認められた判例はなかった。 團藤のメモ。小学校の授業は防音装置があっても中断。汽車の接近に気づかないで、子どもがひかれて死亡した事故あり。このような中、法律が果たすべき役割とは何か? 最高裁、5月22日結審。第一小法廷は騒音訴訟「和解」での決着を探っていた。 裁判所が和解の仲介をするのであれば、内容によっては検討する(国側)。和解協議の内容もノートに詳しく記してある。 第一小法廷としては国の側に助け船を出したという感覚はおそらくあった。 しかし、和解協議の2回目、法務省の態度が硬化する。和解協議は行き詰った。 6月28日、和解協議打ち切り。第一小法廷は、すでに固めていた判決を下す方向で調整に入った。ところが。判決直前、事態は大きく動く。 判決目前の9月1日。最高裁大法廷に回付するという決定がくだされた。 判決直前になって、小法廷から大法廷に回すということは通常はまずない。 大法廷に回付するのは1,憲法判断をする場合、2,判例を変更する場合、3,小法廷で意見が二つ同数になった場合。4,小法廷が相当と認めた場合。そのような場合に置いても小法廷が主体となって判断する。一体何が起こったのか? 判決の準備をしていた時、7月18日付けで国の方から本件を大法廷にまわすことが妥当であるという上申書が出た。文書を提出したのは、和解協議に来た法務省の担当者。 團藤のメモはある人物を記している。7月18日づけで本件を大法廷に回すよう上申書がでた。打ち合わせ中にかかった電話の相手は村上大和元長官だった。法務省側の意を受けた村上氏は大法廷回付の要望を私に告げた。 元最高裁長官村上大和。法務省の官僚を長く続けてきた経歴を持つ。この電話の話を聞いた時、團藤は考えた。この種の介入はけしからぬことだ。検察が要望を出すことはしばしばあるが、本来裁判当事者でなく中立であるべき元長官がこのような介入するとはどういうことなのか? 今になって上申書とは? 和解の進め方を不利とみて、この挙に出たのだろう。実質的には忌避の感じさえする。(コメント:電話すること自体がケシカラン。普通はやらないですよ。) 加茂喜久雄 元最高裁調査官。こういうことがあったとすれば、そのこと自体は明朗な話ではない。團藤さんがこういう感想を持つのは、それはごく自然なことだと思う。憲法76条三項。すべて裁判官はその良心に従い、独立してその職権を行ない。この憲法及び法律にのみ拘束される。 大法廷での審理が始まり、新しい長官の指名に基づき、服部裁判長がついた。 大法廷では飛行差し止めについて意見が拮抗した。1979年11月大法廷結審。 服部長官は、審理やり直しを表明。定年によって、最高裁の裁判官が交替。 最高裁の長官の指名にもとづいて内閣が任命する。新たに任命された裁判長裁判官は、飛行差し止め否認に回った。判決は「人格権」には触れず。民事訴訟で飛行差し止めを求める事は出来ないという結論を出した。 三権分立と言うけど、結局は行政の思うようにされてしまう最高裁。 判決のインパクトは大きかった。以後、公害については差し止め請求を裁判所で求めても、それは認められないという流れが定着してしまった。 司法は司法として正しいことを貫くべき。民衆の側に立つのだ、という裁判官がいたということは重要。多数者の利益は、立法機関、国会で実現できる。少数者の利益は国会では実現できない。そこに司法が果たすべき役割がある。團藤さんのような考えの裁判官がいるということは司法本来の役割に沿う。(福島至 龍谷大学名誉教授)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.04.25
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PDF版1,学術法改正法案の見送り2,気候変動対策 迫るタイムリミット3,観測史上最も早い開花4,イラク戦争20年 劣化ウラン弾5,放送法をめぐる根本問題6,日本学術会議問題について 政府は20日、当初目指していた日本学術会議法改正案の今国会の提出を見送る方針を固めた。政府関係者が明らかにした。 改正案は、会員選考に第三者が意見を述べる「選考諮問委員会」を設けることなどが柱。しかし、第三者の介入を招き独立性を損ねるなどとして、学術会議側が反発。野党からも批判が出ていた。 毎日新聞 2023/4/20 14:34 過去記事でも、学術会議改正法案に関する問題点・疑問点の報道を紹介しましたが、とりあえずよかったと思います。 ところが、自民党の世耕弘成参院幹事長は21日の記者会見で、日本学術会議の運営を巡り「公費が出ている以上、メンバーの人選は透明でなければならない」、「どうしても自分たちだけで人事を決めたいなら、例えば民間的な組織として自由にしていただく選択肢もある」と述べたとのこと。 はっきりいってこの発言は「政府の法案に従わなければ金を出さない」という脅しではないかと考えられます。そもそもこの人は「税金を自らのポケットマネーであるかのように考えていないか」、という疑問を感じないではいられません。 学術会議(欧米のアカデミー)は、政府と「問題意識や時間軸が異なる視点(例えば科学的な視点)から提言を行う」ところに価値があり、だからこそ公費で支えていくことが社会全体にとって有意義なのだ、と考えています。 このような組織に対して、「国とは別の組織にすれば良いのでは?」という声があることは事実ですが、前記事(時論公論)が指摘するように、「例えば独立行政法人のトップは所管する大臣が決めるため、政府から独立させることで、逆に独立性が低下する懸念、寄付文化の乏しい日本で資金をどこから得るかによっては中立性が損なわれる恐れもある」わけです。 「中立的・長期的な視点を提示するアカデミー(学術会議)」がその本来の役割を今後も果たしていくためには、世耕幹事長のような「脅し」や「自分たち(与党政治家)が金を出してやっている」といった「勘違い」は、極めて有害であるといわなければなりません。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.04.21
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) NHKの持論公論(3月30日、IPCC第六次報告の直後)の内容をまとめて紹介します。国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が最新の報告書を公表直ちに大幅な対策強化が必要であることを示した。気候変動問題の緊急性と、日本の課題を三つのpointから考える。1,この10年の選択が数1000年先まで影響する。2,求められる削減ペース。3,日本の対策は間に合うのか。IPCCの報告書は、世界中の科学的知見を基に、各国政府代表が一行一行議論し、承認したもの。いわば世界が合意した科学的事実。第6次報告書は、三つの作業部会が出した現状や対策についての報告を統合したもの。深刻な被害を抑えられるタイムリミットが迫っている事実を突きつけた。人間活動による気候変動で世界の気温は産業革命前に比べてすでに1.1°上昇。 去年のパキスタン大洪水や各地の森林火災等、損失と損害がさまざまな分野で発生。 ・各国は(パリ協定で)気温上昇を1.5°までに抑える努力をすると合意。が、このままではあと10年で1.5°に達する見込み。今世紀末には3.2°も上昇。Q 予想される被害はどうなのか?A1 気温上昇を1.5°に抑えた場合に比べに2.0℃、わずか0.5°高くなっただけで世界の洪水による損害は最大二倍に増える。A2 ひとたび南極などの大規模な氷床が溶け始めるととめることは困難になり、今後数1000年にわたって海面が上がり続ける。(今世紀末で2m近く、西暦2300年には15m以上海面が上昇するリスクも)。報告書は、この数年で行う選択が数1000年先まで影響を及ぼすと強調。取り返しがつかなくなる前に直ちに大幅な削減強化が必要だとした。Q 削減強化のリミットは?A 現在稼働中の火力発電所などを使い続けるだけで、2030年には1.5°に抑えることが実質的に不可能になる。が、世界の排出量は増え続けており、去年も過去最多を更新した。国連グテーレス事務総長は気候の時限爆弾の時計は刻々と進んでいると危機感を訴えた。Q 具体的にいつどれだけのペースで削減が必要なのか?A 報告書では気温の上昇を食い止めるには、2025年までに世界の温室効果ガス排出を減少に転じさせ、2030年にはコロナ前の2019年に比べて43%削減、2035年には60%削減し、その後も実質0に向けて減らし続けることが求められる。Q 削減は可能なのか?A きわめて困難な道のりだが、報告書によれば、今すぐ大幅に対策を強化すれば、1.5度目標の達成も可能。しかもそのために必要な技術は既に存在しており、再生可能エネルギーなどへの転換を加速することで達成できる。※報告書では北欧諸国の炭素税の額に近い一トン百ドル以下の対策だけで、2030年までに世界の排出量を半減できるとしている。Q こうした変革に必要なものは?A 脱炭素への投資の大幅な拡大や、炭素税などを含む法整備といった各国の政策。Q 日本ではgreen transformation(GXの推進法案)が3月30日、衆議院本会議で可決された。官民合わせて百50兆円の投資で、脱炭素と産業競争力強化を両立させる法案。Q その内容は世界的に求められる対策(規模・ペース)に見合ったものか?A そうとは言えない。(例)すでに中・韓国も含め世界で導入が進んでいるカーボンプライシングについてGX推進法案では有償化されるのが2033年度から。決定的に重要なこの10年には間に合わない。 日本は脱炭素化を先延ばしにしていると、国内外から批判も受けている。Q 自治体が独自に再エネを短期間で増やす施策を導入し始めた例は?A 川崎市が東京都に続いて、2025年度から新築建築物への太陽光パネル設置などの義務化を条例で定めた。(住宅の屋根を活用 ⇒ 送電網への負担が少なく、災害時にも電気を使える) メリットが多く、欧米の一部自治体で導入されているが、エネルギー危機を受けて去年5月、欧州委員会がEU全域での導入を提案。実は日本でも2021三つの省(経産省、国交省、環境省)が合同で住宅太陽光義務化を検討したもののまとまらず、導入を見送った。改めて検討する価値があるのではないか。5月には広島でG7サミットが開かれ、総理は気候変動問題でも議長国として議論を主導するとしている。しかし、欧州各国やカナダもenergy危機の中でも2030年代までに石炭火力を廃止する目標を掲げているのに対し、日本は時期を示してもおらず、もはや決断は待ったなし。 深刻な被害を食い止める時間が刻々と失われる中、日本を含む各国が決定的に重要とされるこの10年にどんな選択をするのか?次の世代に説明できる行動が求められる。(comment) グレタ・トーゥンベリが現状について「家が火事になって燃えはじめているのに大人たちはのんびりしている」と批判していましたが、さし迫った危機の渦中で「多分大丈夫だろう」と思ってしまうのは、最悪の「正常性バイアス」ではないでしょうか。 北欧並みの「炭素税」の実現など、極めて深刻な事態を回避するためにも実現を急がなくてはなりません。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.04.09
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〔2023年4月8日付記〕 一部、要望がありましたので、最近時の記事についてPDF版へのリンクをつけておきます。 1,観測史上最も早い開花 2,イラク戦争20年 劣化ウラン弾 3,放送法をめぐる根本問題 〔以下、4月2日の本文〕 2023年4月2日のサンデーモーニング「風を読む」のpointを紹介します。 福島県三春町(3月27日) 平年であれば4月上旬頃に開花するが、今年は観測開始以来、最も早い3月下旬の開花。 長野県小諸市のでも3月29日、新潟市でも3月27日にと、いずれも観測史上最も早く開花。 東京でも3月14日に観測史上1位タイで開花し、すでに22日には満開。 各地で相次ぐ、観測史上最も早い桜の開花。異常は2023年に入って植物だけでなく動物たちにも見られる。海でも異変が・・・ 北海道では、サケ漁の際に温帯性のブリが網にかかるケースが出ており、2007年と比べ、ブリの漁獲量が6倍に急増。 片やサバは例年に比べ記録的な不漁。サンマも極端な不漁が続いており、水揚げ量は4年連続で過去最低を更新。異変の原因に…「海洋熱波」 こうした原因の一つとして指摘されるのが、数日から数年に渡り、海水温が急激に上昇する「マリン・ヒートウェイブ=海洋熱波」という現象。アメリカ海洋大気局エリン・フィドゥワ研究員 「2018年から2019年にかけての調査で100億匹のズワイガニがいなくなったことがわかった。『海洋熱波』が影響している。」「気候変動の時限爆弾」 さらに、海水温だけでなく世界的な気候変動の影響について、3月20日、国連のグテーレス事務総長は、改めて地球温暖化に警鐘を鳴らした。「過去200年間の地球温暖化の原因は、ほぼすべて人類にある。二酸化炭素の濃度は、少なくとも過去200万年で最も高くなっている。気候の“時限爆弾”は針を進めている」 生息地が失われ… 世界各地で、刻々と深刻さを増す気候変動…。 例えば、オーストラリア北部を3月、大雨が襲い町全体が冠水。2022年も、東部を「1000年に一度」と言われる豪雨が襲い、河川の氾濫で、多くの建物が水没。 こうした洪水や干ばつ、大規模な森林火災で生息地を失った野生のコアラの数は、2018年からの3年間でおよそ30%減少。今世紀末には3.4度上昇? 3月20日、国連の「IPCC=気候変動に関する政府間パネル」は最新の報告書を公表。その中で、今後対策を強化しなければ、今世紀末には産業革命前に比べ、最大3.4度の気温上昇になると警告した。江守正多教授・東京大学未来ビジョン研究センター 「3度上昇するというのは、極端な暑さとか、極端な大雨、極端に強い台風というのが段々その確率が上がって行く。南極の氷床が不安定化して、崩れていって海面上昇が加速するとか、アマゾンの熱帯雨林が勝手に枯れ始めていって(二酸化炭素の吸収力を失うとか)。そういうことが始まるポイントを超えてしまうんじゃないかと。その結果、やはり水とか食料が世界的に不足して、水・食糧資源の奪い合いになる…」 相次ぐ、観測史上最も早い桜の開花。その裏で気候変動は確実に進行している。(comment) 番組の中で田中優子が述べていたように「戦争なんてやっている場合じゃない」と考えます。いったん始まった戦争を停めることは大きな困難が伴うわけですが、先日の(何時間もの)中露会談で「軍事的脅威の不拡大、国連憲章に沿った解決」を習近平がプーチンにも認めさせた意義は、日本や欧米における否定的な報道にもかかわらず、無視できない重みをもっていると考えます。 なぜなら、上記原則に沿った解決とは理論的に「ウクライナの軍事的中立と、占領地域からのロシア軍撤退」しかないと思われるからです。遠藤誉が一連の記事でまとめていますので、ぜひご一読ください。にほんブログ村 ←よろしければ一押しお願いします(一日一回が有効)
2023.04.02
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) ウクライナ戦争にかかわる拙ブログ記事において、「湾岸戦争時」「イラク戦争時」には、攻撃・侵攻する国の側の視点で報道がなされていたことを繰り返し指摘しました。 事実、イラク戦争の当時は、NHKなども米国・英国の軍事行動に対して直接批判的な報道はできていなかった記憶があります。〔ただし、「その時歴史が動いた~ジャーナリストのベトナム戦争~」では、ベトナム戦争(および湾岸戦争)の「検証報道」を通じて間接的にイラク戦争批判を行っていましたが・・・。〕 このたび、「イラク戦争から20年」の特集で劣化ウラン弾とイラクのがんの多発が大きく報道されました。「アメリカは少なくとも2000トンの劣化ウラン弾を使用し、イラクではがんが多発している」と。 NHKがここまで明確にイラク戦争への批判的報道をするのを見たのは初めてです。 NHK+(20日、月曜放送分)でまだ放送しているはずですから、ぜひご覧ください。(2023年、3月21日現在) 野球(WBC)や、習近平主席のロシア訪問、岸田首相のキーウ訪問などに埋らせてはてはならない貴重な報道の一つだと思います。 もう一つ、目をそらすわけにはいかない報道を以下に貼り付けておきます。(CNN) 世界は壊滅的な規模の温暖化に刻々と近づきつつあり、直ちに抜本的な行動に出なければ、国際社会が目指す温暖化対策目標は手の届かないものになる――。 国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が20日に公表した報告書で強い危機感を示した。「気候時限爆弾が刻々と時を刻んでいる」。国連のアントニオ・グテーレス事務総長はそうコメントしている。「人類は薄い氷の上にいる。そしてその氷は急速に解けつつある」同報告書は専門家数百人の見解をもとに、気候危機の進展について包括的に評価した。 地球温暖化汚染の影響は既に予想以上に深刻化し、人類はますます危険かつ取り返しのつかない結末へと向かいつつあると報告書は指摘。産業革命前からの気温上昇を1.5度に抑えるという目標は今も達成可能だが、昨年の温室効果ガス排出量が1%近く上昇する中で、目標達成に向けた道は急速に狭まりつつあるとした。 大気中の炭素汚染濃度はこの200万年あまりで最も高い水準にあり、過去50年の気温上昇ペースはこの2000年で最も高い。 気候危機は、その原因を作り出すことが最も少ない貧困国や脆弱(ぜいじゃく)国に、最も過酷な影響を及ぼしている。 気候を脅かす最大の要因は、世界が化石燃料の燃焼に依存し続けていることにある。化石燃料は今も世界のエネルギーの80%以上を占め、人間が発生させる地球温暖化汚染の75%を占める。 気候危機の最悪の影響を食い止めるためには、経済と社会のあらゆる分野で抜本的な転換が求められると報告書は述べ、化石燃料からの脱却と再生可能エネルギーへの投資によって、地球温暖化汚染を大幅に削減するよう促した。気温上昇を1.5度に抑えるためには、2035年までに世界の地球温暖化汚染レベルを19年比で60%減少させる必要があるとしている。にほんブログ村 にほんブログ村 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2023.03.21
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