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そういえば、先日、また小学校の授業参観にいってきた。
科目は道徳。
内容は「声かけ」。ある場面での声かけが「ナイスフォロー」(って何やねん?そもそも何で英語やねん) or 「おせっかい」に始まり、場面設定をしてこういう時はどんな声かけをするか、ということをしていた。
長女の様子を見ていたが、答えをだすのに、かなり困っていた。
帰宅後、そのあたりを聞いてみると、設定された場面がいろいろに想像できるから、答えることができなかった、とのことだった。
それを聞いて、ホッとした。
親ばか、と言われるかもしれないが、かの授業に対する素直な反応だ、と感じたからである。
私のかの授業に対する感想は、一体何をしてんねん(怒)、だ。
というのが、テーマの「声かけ」というものをまるで深く掘り下げることなく、取り扱おうとしているからだ。
授業で扱われた場面を例にとれば、クラスの子が転んで、「痛いよう」と泣いていた、とする(現実的にはまず「痛いよう」と泣いている人に出会うことは無いだろうが)。
この時、咄嗟に出てくるもの(声に限らず行動)こそ、相手に伝わるのであって、考えて出すものは、相手には伝わらない。もちろん、音として相手の耳には入るかもしれないが、それは生命体にとって不快なものである。形式的、義務的なコンビニ店員の挨拶よろしく、だ。
この時、咄嗟に…、は、相手やその場の状況、今を無意識的に感じ取って無意識的に行っている。
当然のことながら、それは意識的に教えられてできるようになるものではないのだ。
かの授業の如き非現実的なケーススタディは、むしろ咄嗟の行動を邪魔する弊害を生む。
なぜなら、この時はこういうように、という短絡的な思考を植えつけるとともに、何かの状況に直面した時、咄嗟に…、ではなく、考えさせる、という行動パターンを刷り込んでいるからだ。その結果として、応用のききにくい、適応力の低い人、更にはロボットのような人が育っていくことになる。
現実の社会は決して単純ではない。その複雑さは時代とともに極まっていく観すらある。子どもはこれから、そのあくまで現実の社会を生きてゆくのだ。
教育は、現実に生きていけるようにあるものではないか。
決して、家畜の如く、搾取されるため、生かされるためにあるものではない。
どこぞのボケが考えた、非現実を刷り込んでいる暇は無い。
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