風雲 いざなみ日記

2005年10月17日
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「ニュールンベルグ法」 を制定します。 ニュールンベルグ法とは、たとえユダヤ教徒でなくても祖父母4人のうち3人がユダヤ人であった場合、ユダヤ人とみなし、ほぼ例外なく市民権を剥奪され、生活に制限が加えられるというものでした。 


1938年11月、これに反発するポーランド系ユダヤ人の過激派の青年が、ドイツ大使館員を襲撃する事件がパリで発生。 この事件によって、更にドイツはユダヤ人への人種迫害をエスカレートさせ、ユダヤ人難民が大量に出るのでした。 当時のヨーロッパの多くは、このドイツの非人道的行為を非難しつつも、迫害を受けるユダヤ人に救いの手を差し延べる国は無いに等しく、ユダヤ人に同情的だったイギリスやアメリカでさえも、自国へのユダヤ人の入国を厳しく制限し、いわば見て見ぬ振りを決め込んだのです。


ユダヤ難民のドイツ脱出が続発した1939年、ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号が、英国への入港を拒否され、次いでアメリカでも沿岸警備隊の武力行使により受け入れを阻まれる事件が起こります。 セントルイス号のユダヤ難民たちは、ドイツに引き返すしかなく、結局は強制収容所で残酷な運命を辿ったのでした。


こうした世界情勢の中で、日本政府はユダヤ人難民に対する方針を打ち出すにあたり、「語族協和」の精神に則した樋口将軍ら陸軍高級将校らの実例を検討し、昭和14年1939年12月、5相会議で「ユダヤ人対策要綱」が策定されます。


実際に、この要綱はアメリカとの開戦まで適用され、日本占領下の上海が、世界で唯一のビザなしの渡航者を受け入れる都市として機能し、シベリア鉄道で満州のハルピンを経由して陸路を上海に向かうか、ハルピンで日本通過ビザを取得し、神戸を経由して多くのユダヤ人難民が上海を目指しました。 彼らにとっては、唯一の合法的「命の道」だったのです。


残念なことに、1942年、この「ユダヤ人対策要綱」は日米の開戦後によって事実上運用が不可能となったために廃止されました。 


上海には、常時3万人近いユダヤ人が滞在しており、1942年には、ドイツのゲシュタポが上海で調査をしてこの事実を知り、日本政府に対してユダヤ人強制施設を建設する働きかけをしたともいわれています。 これに対する日本側の対応はユダヤ人居住区の監視でしたが、身分証明書を示せばユダヤ人は自由に出入り出来るという”雰囲気と体裁だけの対応”で、上海のユダヤ人難民は、戦後無事にアメリカやイスラエルに移住しています。 





母の幼い記憶によると、祖父はユダヤ難民に食事をご馳走していたそうです。 明日は、そんな祖父の命日を迎えます。



現在の日本政府なら、そして現在の在外勤務の公務員たちならば、どんな対応が出来たのでしょうか・・・





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最終更新日  2005年10月17日 01時09分03秒
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