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アメリカとの戦争に敗れてしまった日本。しかし、日本が戦ったことによって、世界史を塗り替える大偉業を果たしたのです。【アジアの独立】日本は大戦中、東亜の独立を謳いました。当時、世界は欧米列強の植民地施策真っ只中で、日本以外ではタイがかろうじて独立を保っているにすぎませんでした。(支那は内戦で分断状態です。タイも、イギリス領のビルマ、フランス領のインドシナに挟まれる緩衝地帯として生かされていたにすぎません。)人種差別撤廃を提案した日本は、アジアの真の独立を願いました。勿論、一番は自存自衛の戦争でしたが、欧米列強の世界を変えるため、アジアの独立を後押しして欧米の力を削ごうとしました。敗戦後も、舞い戻って再度支配しようとした欧米を追い払い、完全独立のため、現地に残って戦い続けた日本兵も多くいました。結果、敗戦後、アジアは次々と独立。1945年インドネシア1946年フィリピン1947年インド、パキスタン1948年ビルマ、セイロン、マラヤ連邦1950年ベトナム、ラオス、カンボジアアジアの指導者たちの言葉を見ればそれが分かるというものです。日本は世界史を塗り替える程の業績を残したのです。・明治維新という近代化の成功・日露戦争による勝利・大東亜戦争を通じてのアジアの独立これらは世界に誇るべき奇跡です。【日本が防ぎたかった共産主義が世界で蔓延】日本は自存自衛のために米英と戦ったわけですが、共産主義とも戦っていました。この戦いは、ロシア帝国滅亡後に誕生したソ連におけるシベリア出兵より始まります。何と言っても皇帝を殺した共産主義は、天皇制を頂く日本には真逆の考え方でした。このため、ソ連を仮想敵国とし、共産化した横暴が目に余る支那とは戦いをしていかざるを得ませんでした。しかし、敗戦により、結果的に共産主義が世界に蔓延することになります。支那では、勝者であるはずの蒋介石が、共産党の毛沢東に追われます。毛沢東は日本が引き上げた後、真っ先に満州を狙います。日本が多大な投資をして発展したこの地域が欲しかったわけです。満州を抑えた毛沢東は、蒋介石を台湾へ追いやり、1949年、共産党による中華人民共和国が誕生してしまうのです。そして今現在も、変わらず約束を守らない横暴国家のままです。ただ当時と違うのが、核も持ち、アメリカに次ぐ軍事国家となってしまっているので、昔以上にたちが悪いでしょう。朝鮮も南北に国家が分かれることになりました。北は共産国家で、国民生活を顧みないまま、ミサイルをどんどんぶっぱなしています。南は北よりは割と会話が成り立つのかもしれませんが、恥を知らない国家です。戦前は日本人として戦ったくせに、敗戦後は手のひら返しの被害者面。口を開けば、賠償しろ!謝れ!困ったら「日本助けて~」の国です。そして共産国家バリバリのソ連。この国は崩壊しましたが、新たにできたロシア連邦も世界の嫌われ者です。というより国が変わっても、中身は変わらないのです。8/6、日本が原爆を広島に落とされてから、8/8に日ソ中立条約を破って満州や千島列島に侵攻します。8/15のポツダム宣言受諾以降に北方領土を侵略し、調印日の9/2以降も侵攻。4島を占領。今に至る・・・この侵略の際、多くの日本人を捕虜・奴隷としてシベリア抑留させます。弱いと見るや軽々と侵攻してくるのは、ウクライナのクリミア半島を見ていたらよく分かります。そして北方領土には住民を住まわせ、自国の既成事実を作る。領空・領海の侵犯を繰り返し、自国領という既成事実を作るどこかの国と同じですね。ロシア帝国もソ連もロシアも同じなのです。日本がロシアを恐れて、倒幕・明治維新を起こしてまで近代化を図ろうとしたのがよく分かるというものです。中国・朝鮮・ロシア。防共のため日本が戦ってきたわけですが、その日本を倒した後、防共の矢面に立ったのがアメリカです。アメリカは何のために日本を潰したんでしょうか。。。もう二度と戦争はしません!という憲法を作らせておいて、朝鮮戦争が起こるや警察予備隊→保安隊→自衛隊 を作らせています。その後、世界は 資本主義のアメリカ VS 共産主義のソ連 という冷戦を迎えることになるのです。日本を潰したことで、結果的に世界で共産主義が蔓延しました。歴史は後世が評価をする と考えた時、アジアの独立を果たしたこと、敗戦後に共産主義が蔓延したこと敗北を恥じることなく、むしろ日本人の誇りを取り戻さなくてはなりません。(アメリカの占領軍最高司令官:マッカーサーは、後の朝鮮分裂を目のあたりにして、あの時の日本は自存自衛のために戦ったと、日本の正当性を認めました。)【歴史上の為政者とは違う昭和天皇】古今東西、為政者は自分の身に何かあった時の保身だけはしっかりしています。捕まった時でも、自分だけは悪くない と言うものです。しかし、神代の御代より続く天皇、第124代昭和天皇は違いました。「戦争の遂行にあたっての全ての決定と行動に対する全責任を負う」と、マッカーサーとの会談で述べたと云います。開戦の責任は内閣にあります。昭和天皇は戦争に反対でしたし、いつも平和主義者でした。日本政府も開戦は避けたかったのですが、外交の失敗と、アメリカの嫌がらせ、支那の横暴、ソ連の暗躍、ドイツに振り回され、開戦やむなきに至り嵌められました。それを全て飲み込んで、自分が全責任を取ると仰せになったのです。【戦後、日本国民の傍にいた昭和天皇】日本国民に対しても誠実に向き合いました。焼野原となり何もかもが無くなってしまった日本国民を元気づけるため、1946年2月~1954年8月の8年半をかけて全国を行幸し、国民に勇気を与え続けました(アメリカの統治下であった沖縄県を除く。沖縄行幸は次の第125代平成天皇がなされました)。日本国民にとって、天皇とは「偉い雲の上の権力者」ではなく、寄り添う日本国民の父のような存在なのです。天皇は太古の御代より、日本国民の安寧を願う存在なのです。そして1955年より高度経済成長に入り、1960年代後半にはアメリカに次ぐ世界2位の経済大国になります。焼野原の敗戦からわずか20年程のことです。まさに日本は奇跡の復興を遂げるのです。勿論、日本国民の頑張りの賜物ですが、その背景に天皇の存在があります。幕末、欧米列強による外圧がありながらも、奇跡の近代化を成し遂げたのも、天皇の存在がありました。日本にとって、天皇制は宝なのです。天皇を中心に日本人を日本人たらしめ、一つにまとまってきたのです。このことをマッカーサーは、占領期から感じていました。だから天皇を潰しては日本がかえって大混乱になると判断したのです。更に、昭和天皇との会談での姿勢に感銘を受けたことが、天皇制廃止に動かなかった要因でしょう。昭和天皇は、戦争末期、内閣が機能不全に陥り、もはや戦争を終わらせることすらできなくなった時も、終戦をご決断されました。そしてまた、敗戦後のボロボロになった日本を立て直されました。124代の歴史の中でも非常に波乱に満ち・偉大な天皇であったと思うのです。
2024年08月28日
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支那問題の解決は困難を極め、国際孤立が進み、いよいよ米英との戦争も余儀なくされます。1941年12月、真珠湾攻撃により遂に開戦となるのですが、開戦に至るには様々な要因がありましたので、見ていきたいと思います。【ドイツに振り回される日本】第一次世界大戦で敗戦国となったドイツ。立て直しのため、支那への軍事支援を始めます。特に蒋介石が上海クーデターで、共産党と手切れをした翌年の1928年から、ドイツとの結びつきが強くなります。軍事顧問団の派遣、武器輸出、陣地構築などの支援が行われ、特に満州事変以降、本格化します。日本政府はこのことに何度も抗議をしていますが、ドイツはやめる姿勢を見せません。ちょうど共産化の波はドイツにも押し寄せていました。そこで日本は防共協定を結ぶ形で、ドイツと支那の間を絶とうとします。1936年11月締結に至ります。内容としては●日独でコミンテルンの破壊に協力して防衛●一方がソ連から攻撃を受けたら、ソ連の負担を軽くするようなことはしない●他国も誘う→イタリアが加わり日独伊防共協定に(1937年11月)しかし、これも効果がありませんでした。そうこうする内に支那事変が勃発。この時の第二次上海事変では、ドイツ援助の元作られた防衛陣地に、日本は大いに苦しめられることになるのです。ここでも外交で何とか断ち切ろうとするものらりくらりとかわすドイツ。そんな折、1938年3月にドイツが第一次世界大戦を経て結ばれたヴェルサイユ条約の破棄を通告。翌月にオーストリアを併合。いよいよドイツが再び欧州戦線の準備を進めていきます。1938年6月、ようやく対中輸出禁止を決め、駐華大使の引き上げを命じます。日本の願いをやっと聞き届けた・・・というよりは、欧州戦に備えて日本を敵に回したくないという自己都合です。こんな国を信じて、日独伊三国同盟を締結して(1940年9月27日)、英米との戦いを始めたのですから、その意味でも外交の失敗でしょう。実際、大東亜戦争が始まり、ドイツが日本のためにしてくれたことはありませんでした。【ソ連の暗躍】ソ連は日本を恐れていました。満州事変が勃発すると、翌年にはフランス・ポーランド・エストニア・ラトビア・フィンランドと不可侵条約を結び、西方を安定させた上で東方の日本の動きに備えます。更に支那事変が起こると、ソ連の指導者:スターリンは南京政府(蔣介石政府)と不可侵条約を結び、蒋介石に武器を提供し始めます。支援が途絶えたドイツに代わり、今度はソ連が支援を開始したのです。これは1941年6月の独ソ戦開始まで続きます。とにかく日本が怖かったのです。ノモンハン事件(1939年5月~9月)で、よく日本がソ連に敗れたと云われますが、ソ連も実はかなりやられています。(実際、日本の終戦直前までソ連は日本を攻めてくることができませんでした。)そんな折、ドイツはソ連と結びます。独ソ不可侵条約です(1939年8月)。ドイツとは防共協定で協力していました(1936年11月締結)。敵という共通認識である共産勢力と結んだのです。このことからもドイツを信じてはいけませんでした。この不可侵条約には日本政府も驚き、時の平沼騏一郎内閣は総辞職に至ります。しかし、1940年9月、快進撃を続けるドイツに幻想を抱き、日独伊三国同盟締結をしてしまうのです。更に近衛内閣の松岡洋右外相は、ドイツが不可侵条約を結んだソ連も加えた日独伊ソ四国同盟を狙いますが、これは早くも独ソ開戦で破談になるのです(1941年6月)。勿論、国際情勢を見誤った松岡洋右にも非はありますが、迷惑な国々です。共産化が進む支那の恐ろしさを知っていた日本が何故、共産主義の大元:ソ連など信じてしまったのか。。。コミンテルンの暗躍により、戦争へズルズルと引き込まれたわけですし、最後の最後に攻めてきましたしね。そんな国を当てにして、終戦直前、アメリカとの仲介を頼もうとするわけですから、どうしようもないです。ただ、そんな国を当てにしないといけないくらい、アメリカが日本を追い詰めてきたわけです。【アメリカの嫌がらせ】<アメリカの人種差別と日本抑圧政策>アメリカは、日露戦争、第一次世界大戦に勝利した日本の力を恐れ、排除の動きをしていきます。・1913年排日土地法・1921年四か国条約(日露戦争勝利の要因:日英同盟を破棄させられる)・1922年九か国条約(支那の領土保全・門戸開放=要は支那に関して抜け駆けするなという遅れて参入したアメリカのわがまま)・1922年ワシントン海軍軍縮会議・1924年排日移民法・1930年ロンドン海軍軍縮会議日本に対する恐れもありましたが、根強い人種差別がありました。「黄色人種ごとき奴らに、我々白人が・・・」というものです。日本は、第一次世界大戦後、パリ講和会議にて、「人種差別撤廃」を提案しますが、アメリカが却下。その後、アメリカが形式上、人種差別撤廃を導入したのは、1964年の公民権法まで待たなければなりません。日本は45年も早い、1919年の時点で既に人種差別をするなと提案。このことは我々日本人は誇ってよいことなのです。日本人の民度の高さが伺えます。大東亜戦争への道を考えた時に、支那の横暴、ロシアの崩壊・共産化(ソ連誕生)が大きいのですが、アメリカの日本に対する差別があったことも忘れてはなりません。そして、九か国条約によって、支那問題はこじれにこじれました。支那による横暴で日本が被害を受けた時、日本が何かするたびに「九か国条約違反だ!」とアメリカと支那が騒ぎ、支那の横暴は益々エスカレートしていくのです。その意味ではやはり、陰りが見えていましたが、当時世界最強と云われたイギリスとの同盟を破棄させられたこと、九か国条約を結んでしまったことは、日本にとっては痛恨でした。それでも、英米が協調して支那を叩こうと誘ってきた1927年の南京事件あたりまでは、希望があったのかもしれませんが、それ以降はいずれ戦いは避けられないという方向でした。アメリカが敵視してくるのですから。だから、石原莞爾は対米戦を見据えて満州国建国に走ったのです。しかし、満州建国を巡って日本は国際連盟を脱退。国際孤立が進んでしまいます。<大東亜戦争への道>さて、こじれた支那問題の帰結が、支那事変ですが、これでもアメリカはヘソを曲げ、蒋介石への支援を本格化させます。しかし、支那の横暴が止まず、日本としても引くことができなくなり、支那事変がどんどん拡大。ついに1939年7月、アメリカは「日米通商航海条約の破棄を通告」。半年後の1940年1月に破棄されます。これで日本の貿易は打撃を受け、支那との戦いに影響をきたすことになります。これを受け、フランス領であった北部インドシナ半島へ進駐します(資源が豊富なので)。当時、フランスはドイツの快進撃にあい、パリが陥落します(1940年6月)。ドイツに従属的なヴィシー政権ができるのですが、日本はこのヴィシー政権と話し合いの上、合法的に進駐の協定を締結します(1940年8月)。アメリカはこれに対して、石油製品・ガソリン(主に航空機燃料)・鉄・屑鉄の輸出許可制を敷き、日本を更に締め付けます。翌月、日独伊三国同盟が締結され、アメリカはより態度を硬化、屑鉄は全面禁輸となります。12月には航空機潤滑油製造装置など16品目の輸出許可制を敷いてきます。このようなアメリカの動きに対処するため、よい方法ではありませんが、ソ連を巻き込んで日独伊ソ四国同盟を模索しますが、ドイツがソ連と戦争を始めてしまい、構想は破談します。更に締め付けが厳しくなり、1941年6月に南部インドシナ半島へも進駐を決断します。(これも合法的に協定を結んでの進駐です)南部仏印は軍事物資である生ゴムの世界生産の9割、錫の世界生産の6割を占めており、アメリカが締め付ける以上、アメリカよりも早く抑える必要がありました。だが、アメリカは在米資産の凍結。イギリスも日英通商航海条約を破棄。そして8月には石油が全面禁輸。いよいよ船や飛行機が動かせなくなるので、開戦やむなきに至ったのです。それでも、第124代昭和天皇は何とか戦争を回避させようと、交渉を白紙に戻して一から和平の話し合いを求め、尊皇思想の強い東条英機を首相へ指名します。しかし、アメリカはもはや日本と戦争する気満々でした。舐め腐ったハルノートを突きつけ、ついに開戦へと至るのです。(インドのパル判事は、後にこんなものを突き付けられたら、モナコやルクセンブルク(のような小国)でも戦争で訴えただろうと言ったとされます)真珠湾攻撃の日、対米開戦を知った日本国民は胸のすく思いであったといいます。そのくらい、アメリカの嫌がらせに対してうっぷんが溜まっていたということです。それはそうです。横暴極まりない支那の味方をし、進駐は駄目といいながら自分は進駐して、経済制裁してくるんですから。日本が悲惨な戦争へ進んだのは、日本が侵略国だからではないのです。●支那の横暴●アメリカの日本人差別(排日移民法)、経済的締め付けつまり自存自衛のためと言えるでしょう。これが大きいです。昭和天皇も後に、アメリカとの開戦の原因として「遠因に排日移民法、直接的原因に石油禁輸」と分析されていたそうです。アメリカは、日本を徹底的に叩くため、不正義を働く支那の横暴には目をつむったのです。その結果、今現在、大きくなってしまった中国に、アメリカ自身困ってるじゃないですか。しかし、残念ながら、支那問題を国際協調により解決できず、ドイツ・ソ連に頼ろうとしているような日本政府に、大国アメリカと戦って勝てる道理もなく、敗戦となってしまうのでした。(現場の軍人は世界最高峰でしたが、如何せん政府の力量に差がありました。。。現場で優秀でも外交がダメだと話になりません。現在の政治家にもこのことは認識して欲しいものです。)日本に嫌がらせをして追い詰めた国は、原爆を2度も落とします。更には全国各地で空襲をおこない、非戦闘員である市民に対して非人道的行為をおこないながら、今現在も世界警察気取りです。しかし、そんなアメリカに対して敗戦後も戦い続けたのが、昭和天皇でした。
2024年08月15日
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満州事変は単なる関東軍の暴走ではありません。まず背景に、①約束を守らない支那があります。そして、②それに対して有効な手立てを打てない日本政府がいます。ここに経済不況も重なり、③これに対しても有効策が打てない日本政府。国民も不満が高まります。そこに、ガツンとかました関東軍。メディアが乗っかり褒めそやして民意が同調します。そのため日本政府も関東軍を強く抑えられなくなります。④支那の横暴は止まらず、軍を抑えられない日本政府が更に国際孤立、、、となります。【①約束を守らない支那の横暴】支那は約束を守りません。今も。蒋介石が北伐を進めて支那の領土が増えていき、かつ、赤化が進むにつれて横暴が更に際立っていきます。日本とは3000件といわれるほどの懸案事項があがってしまっていました。日本だけではありません。欧米列強とも様々な懸案があったのです。関税自主権の回復、治外法権の撤廃、これらは日本の場合、富国強兵することで勝ち取りました。しかし、支那は違います。暴力により無理やり承認させたのです。欧米はあまりの横暴さに手を焼きます。1927年の南京事件で、日英米の居留民は恥辱凌辱を受け、英米は軍艦から艦砲射撃をして支那に報復しましたが、日本は不干渉を貫きました(幣原外交)。英米が一緒にやろうと誘ったのにです。特に第一次世界大戦後、米は日本を警戒して事あるごとに反日姿勢を示していましたが、この時は協調を誘ったのです。これを拒否して、またも心証を悪くしてしまいます。日本としては、米英が理解を示してくれていたこの時に協力して支那を叩き、約束を守らせるチャンスでした。(3か国で叩いても守らなかった可能性も高いですが・・・)しかし、米英は1928年、関税自主権の回復を認めます。もう諦めたのでしょう。。。むしろ、協力をしなかった日本を敵視するようになります。1929年11月、ソ連も満州へ侵攻します。張学良政権の易幟により、蔣介石の国民党軍に降伏してから排外運動がより激化。東清鉄道の通信機器を実力回収に踏み切った結果、ソ連が侵攻したのです。ところが、この時アメリカはソ連を批判していません。日本の満州事変には激しく非難したのにも関わらずです。ここもアメリカの日本敵視政策が見えてきます。【②有効な手が打てない日本政府。そして国際孤立へ】3000件とも云われる程の事項があがっていながら、解決策が打てない日本政府。ズルズルと支那の横暴に引きずられ、更には南京事件の協調タイミングを逸して米英からも疎外され。。。当然、世論も「政府何やってんだよ!国民の生命財産守れよ!」となります。この帰結が満州事変です。9月18日の柳条湖事件より始まった満州事変ですが、日本政府は9月24日に不拡大方針を発表。一方で国連には、この問題解決のための中華民国政府との交渉にあげるものとして・両国は相互不可侵・中華民国の領土保全の尊重・中華民国は国内の反日ボイコット・反日宣伝を取り締まる・中華民国は満州の日本人の生命、財産を守る・中華民国は条約を尊重日本の思いは上記の主張に集約されています。逆に、中華民国がやってきたことが分かるというものです。しかし、政府の不拡大方針に反して、支那の挑発も更にエスカレートするのと、関東軍はもはや中華民国と別の国にしないと3000件の案件も解決しないと思っているので、どんどん戦火を広げていきます。国連はリットン調査団を派遣して満州の実態調査をおこないます。日本は受け入れる条件として、満州での匪賊討伐権を認めさせます。このことからも匪賊だらけの国で、約束を守るも何もない国というのが分かります。(満州建国の1932年2月時点で、匪賊は20万もいたとされますが、1933年2月には掃討しました。そのため、満州は人口も増えて栄えていくのです。日本のおかげで)調査報告は事件の翌年1932年10月に公表。□支那における反日ボイコットは多少なりと中華民国に責任がある□中華民国は、1931年9月(満州事変勃発)時点での条約は守れ□日本が撤退するための準備として、満州の平和を維持するため、有能な憲兵隊が組織されないとダメなんと、中華民国の非を認めた内容なのです!やはり列強も分かっていたのです。蒋介石は屈辱的な内容であると言ったそうです。ただし、支那の横暴が続くので、関東軍は進撃を止めません。このため、「日本の満州に対する権益は認めるが、満州国は認めない」ということになり、世論は激高、これに引きずられるように国連脱退に至ってしまったのです。日本政府の動き、どうでしょう??満州での支那の横暴を解決できず、事態は悪化の一途。かといって、満州国を作ろうなどとは考えてもおらず、満州をまとめられる政権を支持するという姿勢でした(1927年東方会議)。だから現地の関東軍が満州事変を起こすと、「これ以上騒ぎを大きくするなー」と不拡大方針を出します。そのくせ、リットン報告書で、満州国建国は認めないと云われると、国連を脱退してしまうのです。。。この一貫性の無さが、日本政府の問題点でもありました。勿論、満州事変を受けて若槻内閣が総辞職したり、その後の犬養内閣も、五・一五事件で犬養首相が暗殺され総辞職したり、など、内閣がコロコロ変わっていたというのもありますが、あまりにお粗末でしょう。【③不況に対しても手が打てない日本政府】タイミングの悪いことに経済不況も日本を襲います。これに対しても有効策が打つことができません。支那の案件も相まって、国民は政府に不満を募らせます。1931年濱口雄幸首相銃撃、1932年の血盟団事件、五・一五事件は、首相などを狙った事件です。血盟団事件は実際には首相は殺害されませんでしたが、五・一五事件では犬養首相が暗殺されます。(濱口首相はその後、銃撃の傷が元で死亡)そして、1936年の二・二六事件も政府中枢を狙ったテロです。陸軍内の派閥争いなどの要素もありましたが、背景に貧困・格差があり、これに対して有効な手立てを打てなかった政府に対しての不満があります。そして、血盟団事件、五・一五事件に関しては首謀者に甘い判決が下りました。同情的な民意もあったからでしょう。(民意が裁判に反映するなどあってはならないのですが・・・)そのくらい国民も、支那問題への無策ぶりと、貧困・格差問題に対しての政府への不満があったのでしょう。軍部も政府へ不満がありました。それは第一次世界大戦後の、ワシントン海軍軍縮会議です。もう戦争は嫌だ!軍縮を決めようという列強の話合いの中で、海軍力を抑え込まれることになったのです。続く1930年ロンドン海軍軍縮会議でも米英に対して抑え込まれます。国民、軍部、共に現政府に対して不満がありました。そして、軍部によるクーデター・テロは、政府を更に委縮させ、軍を抑えることが出来なくなっていき、国際孤立が進み、支那問題解決をより困難にしていくのでした。【④続く支那の横暴、そして支那事変へ!】手が打てない日本政府を嘲笑うかのように、支那の横暴は続きます。その度に協定を結ぶのですが、破り続けるという満州事変に至る道と同じ道を辿ります。この帰結が1937年7月7日の支那事変です。満州事変以降も、こんな感じで案件が沢山起きています。※蒋介石が共産党勢力に捉えられ、再度手を組まされたのは日本にとって不幸でした。いよいよ中華民国政府が、赤化共産党と一つになって、日本に嫌がらせを最大限エスカレートしていきます。満州事変は支那の横暴に対して、現地人や日本の権益を守る為に一部の関東軍が計画的に引き起こしたものでした。しかし支那事変は違います。数々の支那の挑発(盧溝橋事件)によりズルズルと引き込まれるように引き起こされたのでした。(支那側の発砲ということは分かっています。)やはりこの時も、日本政府は不拡大方針を出しますが、世にも恐ろしい通州事件が起こります(7/29)。これはシベリア出兵の時の尼港事件と同じ共産勢力による惨殺事件です。これで日本世論は激高。いよいよ支那との全面衝突が避けられないかとなりますが、それでも中華民国政府と関係の深い船津辰一郎氏を派遣して、和平工作を試みます。この内容としては、満州事変以降に得た権益を全て返すという非常に寛大なものでした。しかし、やっぱり徴発・虐殺が続き、これも破談します。特に8月13日より勃発した第二次上海事変はひどいものでした。蒋介石軍は日本軍のみならず、米英仏など外国人をも攻撃し、これを日本軍の仕業と触れ回り、外国を干渉させます。支那のあまりの横暴ぶりに、欧米の仲裁を日本は丁重に辞退し、上海を制圧しました。これを受け、再度、和平交渉をしますが(第一次トラウトマン工作)、同じ結果でした。徴発・虐殺が続くのです。そうこうする内に、戦火は拡大し、日本軍は南京まで占領することになり(1937年12月)、和平の条件が上がらざるを得なくなり、再再度の和平交渉も実らず(第二次トラウトマン工作)、ついに時の近衛首相は「蒋介石政府を相手とせず」・・・と話し合い放棄になってしまうのです。(近衛声明)またも、リットン調査団の時と同じ、最後は切れてしまうのです。最終的に切れるなら、最初から米英と手を組んで叩いておくべきだったのです。それが、「いいよ、いいよ」で支那が付けあがり、寛大な処置に対して虐殺・惨殺の返礼を受け、関東軍が反撃をすると不拡大方針を出すのに、抑えられなくなって最後は切れる・・・日本だけで切れてしまうから、米英から不信感を抱かれ国際孤立していくのです。米英と上手く足並みを揃えて対処できなかった外交の失敗と、国内テロを恐れ軍を強く抑えられなかったことが、日本をズルズルと戦火の渦の中に巻き込んでいくことになるのです。そして、米英との戦争にも引きずり込まれていくのです。ただ、日本は悲惨な戦争に引きずり込まれた大本の原因として、支那の横暴があったことは絶対に忘れてはならないです。<補足:南京大虐殺というプロパガンダ>日本は敗戦国になってしまった故、この時の南京占領で大虐殺をしたと言われっ放しで、情けないことに日本国民でそれを信じている者もいますが、上記のようにそれはありません!以上!
2024年08月05日
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