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2024年05月31日
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テーマ: 日本の歴史(1072)
カテゴリ: 日本史
ロシアに勝利した日本ですが、ロシアをけん制するため、日本と同盟を結んだイギリス。
そして講和条約を斡旋したアメリカ。
この両国が、今度は強くなった日本に警戒を示し始めるのです。

【アメリカとの確執】
まず アメリカは、満州鉄道に関して共同経営を提案 してきます。(この時はまだ鉄道王ハリマンによる提案で、アメリカ国としての提案ではありません)
しかし、日露は満州を巡って多くの血を流したので、 ​共同してアメリカが入り込むのを阻止。これが第一次日露協約です。(1907年)​
南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲と日露で相互承認し合います。
​このあたりから、アメリカでの日本人移民排斥運動が激化してきます。​

1909年、今度は南満州鉄道中立化提案を、アメリカが国としておこないます。
これに対して、 ​第二次日露協約で排除。先の満州の勢力範囲の維持と、両国の鉄道権益確保の協力を確認します。1910年のことです。​

そして 1913年には、アメリカのカルフォルニアで排日土地法が定められ、日本人の土地所有を禁止してきます。
1921年~25年にかけて、他の州でも土地の所有・借地が禁じられていきます。
1922年には日本人の帰化を認めなくして、1924年排日移民法が定められ、日本人はアメリカから完全に受け入れを拒否された扱いとなりました。



【イギリスの警戒と日英同盟の破棄】
ロシアに勝利した立役者、イギリス。
イギリスとも歪が生じ、日本が警戒されます。

1914年に勃発した第一次世界大戦の時にそれが表れました。
イギリスは、日英同盟はヨーロッパの戦争には適応せず として、当初は参戦を拒否したのです。
ところがドイツの脅威を目の当たりにして、参戦を促してきたのです。
最初はドイツが占有していた中国の膠州湾(中国沿岸)だけ渋々認めたのですが、状況の厳しさから、ドイツが持っていた南洋諸島、更には地中海、ヨーロッパ大陸への派遣まで求めてきたのです。

日本は膠州湾は中国へ返還し、南洋諸島も占領などの領土欲は示しませんでした。
しかし、地中海への派遣要請に至り、見返りとして赤道以北の南洋諸島の領有を認められます。
さすがにヨーロッパ大陸への陸軍派遣は断りましたが、世界最強と云われた大英帝国のイギリスが、それだけ追い詰められていたということです。

それだけ日本が強くなっていました。


これに気に入らないアメリカが、南洋諸島の国連管理など、徹底的に日本の影響力排除を図りました。
これは却下されましたが、中国大陸での辛亥革命の混乱により管理が認められていた膠州湾は、最終的に返還させられることになるのです。
それだけでなく、日露戦争勝利の要因でもあった日英同盟の破棄までさせられます。
(代わりに四か国条約へ。日英米仏。しかし共同責任は無責任。この条約は機能せず、実質的な日英同盟の破棄になりました。)
 → 1921年11月から22年2月までのワシントン会議にて



世界で有数の列強国になった日本ですが、アメリカ・イギリス、のみならず大英帝国の一員であるカナダ・オーストラリアからも警戒され、大正天皇の御代には暗雲が漂ってきたのです。











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最終更新日  2024年05月31日 16時30分50秒
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