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「男性ストーカー」被害。ヤフーにも公開されているのを見つけました。どうするか、迷ったのですが、私の関係者(元の家内、子供、母親など)を守るためには、ある程度、認知してもらったほうがいいのでは、と考え、ここに公開します。改めて、ですが、これが誰、とか、私に関することだ、とか、はコメントしません。読んでもらい、リンク先のabemaTVで聞いてくださった方が、判断してくださればいいのです。6月4日にネット公開された、FRIDAYデジタルさんの私への温かい原稿と3月25日に出た大阪高裁での判決、そしてこのァべマの「男性ストーカー被害」の記事(これが私のこととは、私はここでは書きません。推測してください)で、2018年5月末からの、私への誹謗中傷の全貌の8割が明らかになると思います。書いていて、手に汗がにじみますが、認知は要る気がします。日本維新の会の関係者で聞かれた方は、よく考えてほしいです。なぜ、僕が除名になっているのか、訳が分からないのです。この3年間、お世話になり続けている、ストーカー被害救済の一人者・小早川明子さんには、この場を借りて、感謝を述べさせてください。彼女が、僕を守ってくださった部分の大きさは、はかり知れません。(下の画像をクリックしていただくと、リンク先に飛びます。そこで、「ストーカー加害者の生の、脅かしの声が聴けます。個人特定を避けるための修正は入ってますが)
2021年06月24日
6月12日。6月4日に、講談社のフライデーネット版、「FRIDAYデジタル」さんに、私のこの3年間の流れ、苦闘を書いてくださった記事が掲載されました。その中での、私のコメントです。「私は政務活動業務と非政務活動業務をしっかり分けて考えていましたし、事務員の方と共通認識を持てていたという自信はありました。判決で私の政務活動費の使用に関して間違いがなかった、ということを司法がきちんと認めてくださったことはすごくうれしいです。2018年5月末に、今回の公金横領の疑いに加えて、不倫、DV疑惑があるという内容の報道が出て以来、あたかもそれが事実であることを前提に物事が動いてしまい、私が『事実と違う』と訴えても通じませんでした。あったことを証明することは簡単ですが、なかったことを『ない』と証明することがどれほど難しかったか」このコメントを核として、3年間のことを記してくださいました。ネット被害、メディア被害に興味のあられる方は、読んで下されば幸いです。市民団体も巻き込んでの、「悪い」世論作り。昔のことではありません。今も、私にとっては続いていますし、発端もわずか3年です。媒体として、「新潮社」「ABC朝日放送」「関西テレビ」「京都新聞」「産経新聞」「NHK」などが、スクラムを組む形で、真偽をほぼ精査することなく、実名で、「汚名」を報道しました。裏に、ストーカー被害がある、特定政党、特定政治家の思惑がある、と訴えても誰も相手にしてくれず、翌年の1月にダメ押しの、「悪評」報道がされて、政治家としての生命、そして社会的生命も断たれて今に至っています。ネット被害、報道被害は、やはり、さらなる法整備が必要です。表現の自由が、人間の抹殺になってはいけないのです。その人には、家族も親族も、友人もいたでしょう。すべてが、分断されます。(写真をクリックしていただくと、YAHOOに転載された記事に飛びます)
2021年06月12日
令和3年3月25日。昨年、私の京都府議会議員時代の政務活動費に関する「返還請求措置」の控訴審が、大阪高等裁判所で行われ、京都府側、つまり、私の側が逆転勝訴しました。これにより、私の政務活動費で百万円近く返還請求をされていたものが、なくなりました。4月2日に別途で記者会見を開き、今回の裁判、そして事件の奥行きを説明させていただく予定にしております。冤罪の怖さ、メディアのイメ―ジ操作の怖さ。初めて、裁判で「勝訴」したことで、訴えていく正式な権利を得た、と考えています。そして、ストーカーがなにを生み出し、相手の生き方を変え、すべてを支配していくか、も伝えていきたいと思っています。私は、ストーカー被害者でした。それが、この事件のすべて、です。一審は、相手の嘘をかなり認めていましたが、今回は、ほぼすべて覆りました。メディア、頼むよ。議員として、活動もできなくなり、ネットでの中傷や、この裁判の報道で、仕事も得られなくなっていたのが私です。今後、どうなっていくのか分かりませんが、この高裁の判決で、これまで「黒」だといわれていたものが、実は「白」とされたのは事実です。もう、風評はやめようよ。中傷はやめようよ。
2021年03月25日
まあ、ともかく、原稿、読んでみてね!https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200327-00010000-senkyocom-pol
2020年03月27日
【谷川俊規(しゅんき)【京都府議会議員への関西テレビ放送の謝罪(2019年3月19日・報道ランナー】19日の関西テレビ放送。夕方のニュース番組「報道ランナー」で、私に対する報道へのお詫びと訂正が行われました。1月25日に放送された、私に対するニュース。主要な部分が、すべて間違えていた上に、確認を怠ったり、取材が出来てなかったり、取材に来てなかったり、と無茶苦茶だった上に、私を貶める内容でした。結果的に、当日、4月7日の統一地方選挙出馬の意向をはっきりさせる予定だったものが、偏向報道(もう一局、朝日放送もあります)のために出来なくなりました。「出馬の意向」と当日、記者団の前では言ったものの、あの偏向報道で出馬するほど、私は恥知らずではないです。テレビ局がニュース番組の中で、アナウンサーに頭を下げさせてのお詫びをした上での、訂正報道。ありがたかったです。やっと、一連の報道の中で、『間違い』に関して、小さいながらも認め、謝罪が出たのですから。これで流れが変わってほしい。深層、真相を報道するところまではいかないまでも、行き過ぎた偏向報道だったことを、ほかにも認めて関西テレビのように分かる形で伝えてほしいです。 関西テレビさんとの協議の中で、こちらが訴えた事件の核心部分に関しては、報道に馴染まない旨の話がありました。その点は、京都新聞をはじめ、新聞系のメディアからも同じ話を頂いてます。つまり、現状で事件の奥行きを新聞と放送メディアは、報じきれない、ということです。そのため、ここを読まれている方は、関西テレビさんが、公共の電波でお詫びしてくださった理由は、分かりにくいと、思いますが、人権に関する重要な報道ミスが今も起こっている。と考えていただければ、ありがたいです。 選挙に間に合うのがベストですが、間に合わなくても、犯罪を犯していない者に対する人権と名誉。戻してほしいです。仲の良かった家族もこの騒動の影響で、「いじめ」の問題などが起こっていることで離散が確定しているのですから。(いくらでもシェアしていただければ助かります。少しでも、広まってもらうぐらいしか、やれることもないですので。「日本維新の会」の馬場幹事長をはじめ関係者にも、再考を求めていきます。)
2019年03月21日
15日。久しぶりに病院の許可をもらって西京区へ戻った後、大阪で関西テレビ放送と先日の放送についての協議。今日の写真に象徴される昨年春から今も終わっていない、犯罪者ではない私に対する社会的な制裁と排除。それに対して、抗議とかいったものでなく、はっきり刑事、そして司法で戦うことは前回のFBでも記した通りです。西京区へは、消防団の方との話し合いでした。紆余曲折ありましたが、おそらく事件の深層、裏側、首謀者(私が推測するだけで、ここは明らかにまだなっていません)などを2時間半ほど話し合いさせていただいて、おそらくいい方向で解決に向かうことになった、と確信しています。関西テレビとの話し合いも、同様でした。1時間半弱の話し合いで、おそらく事件の奥行きを関西テレビ側は、理解されたはずです。それが、1月25日の放映日よりも早かったら、今回の件は、起こらなかった可能性もあると思うと残念ではあります。基本は、現在、僕は犯罪者ではない、ということです。犯罪者でないものが、社会的に抹殺され、家族にも被害が及ぶ世界を、この日の2つの話し合いでは、まだ「よし」としていない人が、日本でも多いのは分かりました。それなら、もっと慎重に最初から対応してよ、と思いますが、それが風評の、メディアが作った事件の怖さなのです。僕の政務活動費のことも、ここの写真にも登場する、いまだに記者会見もせず、合理性のある説明が出きた、とのお墨付きを、いただいた、とどこからも聞かされていない、同じ西京区選出の森川央市議会議員のケースを例に出しての説明もさせていただきました。僕は12月3日に、議会運営委員会で、政務活動費の返還の説明を会派代表議員のまえで行った上に、記者の質問にも自分の控室で応じました。翌日の新聞各紙に載った通りで、「記者会見」と明記されていた社もありました。病院の主治医には、健康上の問題で、記者対応は止められていましたが、やっています。その上で、12月議会に復帰させていただいていたのです。議会・議員から「辞職勧告決議案」でなく、「なんとか頑張れよ」の声をいただけたのは、説明が議会・議員の方の納得いくものであった、という証拠ではないのですか?その奥行きを、報じなかったのはメディア側の課題であって、僕の責任ではないと思います。メディアも、僕の説明で、完全かどうかは知りませんが、納得し、単純に報道できない、と解釈された、と、僕は思っています。その状態で起こったテレビ局2社の1月25日の、誤報。これは許せないです。そして、当日、伝えたかったことは、この提示した写真の中にあります。この誤報、というか虚報がなければ、今、丁寧に続けている社会復帰の道付けはもっと早く開いていた気がします。そして、西京区選出の無所属、森川央京都市会議員!あなたに、私は資金提供など受けていません。あらたな、事件にならないためにも、早急に説明ください。名誉の問題だけで、お金のことはすみません。返答が統一地方選挙公示までにないようでしたらしかるべき措置をこれまでの分に加えて、新たに取らせていただきます。それと「谷川氏なる」って、なんですのん。直接、いいなさいよ。それが政令都市の京都市の市議会議員の、市民に対する言葉づかいか。情けない。西京区民は、よく人を見ないといけないと思います。僕のことを、区民の多くで排除されたように。西京区民の良識が問われていると思います。私と私の家族に対する人権のことも含めて。(「日本維新の会」の馬場伸幸幹事長には、名前を使われているだけなのか、本当に関与しているのか、明らかにしていただきたいです。人権にかかわっている問題ですので)付記①3月17日現在、12日の森川央京都市議会議員のツイッターで、資金に関する説明が載っているそうですが、資金は資金です。資金など頂いていません。→「誤解を招くので訂正。"若干の資金"→"物心"ですね。ポスター製作や百箇所を超える掲示。選挙事務所の仲介、何十箇所にわたる地元行事へ私の車に乗せ送迎案内。私の支援者の応援…とまあ金銭では得難い支援をしてきました。女性問題の仲立ちまで笑。」(森川央京都市会議員のツイッターから引用。私は現在、ツイッターをやっていませんので、誰にでも見える検索からです)。この文章自体、名誉棄損の可能性が高い上に、自ら自分の選挙区(西京区)の住民への利益供与を示しているように思います。どういう状況で、なにが行われたのか、は、こちらと森川議員の話では、大きく食い違います。あとは、出来るだけ、法の番人の方々に、お任せしたいです。有権者に、なにかを与えたようなことを匂わす議員って、おかしいと私は断定します。森川議員には、引き続き、資金のところで、追及させていただきます。直接の、謝罪もないですから。私は、森川議員から、資金は戴いておりません。物心、というのも理解できません。ほどこし?ですか。そんなことを、市議会議員がやられていいのですか?有権者に。私も、前回選挙で、西京区の市議会議員選に投票している人なのですよ。こんな議員、どうなんやろ?付記②付け加えですが、森川議員の言っていることは中傷です。理由は、エビデンスが全くないことです。私は、必ずエビデンスを提示してきています。公人の名誉棄損が成立しにくい理由。→①公共の利害に関する事実であって、②公益を図る目的で、③真実である又は真実であると信じるにつき相当の理由がある事実、を摘示した場合には不可罰とされます(刑法230条の2) 森川議員のツイッターは、本人の主張であり、「事実」となる客観的証拠が全く示されていませんので、中傷もしくは侮辱です。付記③これも。主に西京区の方に注目していただきたいのは、目線です。これが、上からの目線であることは分かると思います。相手に「してやってる」という意識。怖いと思います。→「私もお人好しなもので、以降、なだめたり仲立ちしたり…あるいは維新にガバナンス発揮を再三求めましたが私の苦労など知らず他人事。ズルズルそんなこんなで除名。結果的にガバナンス欠落で追い出されたともいえる。関係者は今何を思うのか。」(森川央京都市議会議員のツイートから引用)。「お人好し」のひとことに、集約されています。市民や区民のためにやることが、「お人好し」でやられたら、困ると思います。思うのは自由ですから。付記④もうひとつ。森川央市会議員が何を指してるのか分かりません。女性問題の仲立ち、です。そんなものは、してもらう以前に相談もしていない。ストーカー案件に関しては伝えてます。それだけです。証拠を、示さない限り、これも重要な名誉毀損案件です。笑 で、すむか!
2019年03月17日
13日。2月定例会最終日。そして、4年間の任期の最後の本議会でした。閉会後のあいさつに見えられた西脇知事、山内副知事らと私のただひとり、「無所属」の議員に与えられた控室で、今任期最後の記念写真も撮らせていただきました。任期の初めから4年目の最初までは、地元(京都市西京区)のためを考え主に「スポーツ」「まちづくり」「福祉」の分野で、府や市に様々な提言を、少数会派(「日本維新の会」→「無所属」)なりに、知恵を絞ってやらせていただきました。先日、ここにも記したように、府の政策に「スポーツコミッション」推進が明文化されたり、京都市西京区で行政側主導での「プレーパーク」が実現の運びとなったり、阪急高架下事業の実現の仕方が、こちらが提言したものと同じような形のものとなったり、と、初の議員生活として考えたら、成果が出たのではないか、と思っています。しかし、心残りは最後の1年弱です。メディア。なんで、きちんと奥行きや全体像を取材せず(取材しても自分の先入観で作ったストーリーにあてはめて)に、報道するのだろう。私がやってきたことは「カネ・暴力・オンナ」とされてしまった。イメージがすでに出来上がっており、街(西京区)を歩くことは、まともには出来なくなりました。街に入れない議員など、必要ない、と私も思います。一生懸命、入院先で、府政にかかわる部分を洗い出し、最終的には、警察へのストーカー対策など、他の議員の誰もが出来ない提言と、聞かれていた方には、おそらくスリリングに見えたに違いない、当局側とのやり取りも出来ました。でも、次にはつながらないでしょう。まだ、立候補を断念したわけではないですが、今のままでは、ただの「カネと女に汚くだらしない、弱いものに暴力をふるう」議員です。ありえへん。でも、それが世間の風評です。分かってます。僕が、普通の有権者でも、そんなイメージの議員に投票などしません。ただ、これが事実なら、どこかで警察のお世話(逮捕・起訴)になってます。そうなっていない上に、議会からも「議員辞職勧告決議案」など、出されることもなく終わったことに、真実があることをメディア、そして顔の見えない世間の方には理解していただきたいのです。間違えたイメージ払しょくに、メディアには抗議と訂正なりを全力で今、お願いしています。13日も、京都新聞の府政担当の小川記者に「あなたの取材と記事の中にも、取材不足と奥行きに対する認識のなさがある。悪意のある予断も存在した」という意味のことを、1対1の話で指摘させていただきました。違う、というなら、小川記者は、ペンを持っているのですから、反論すればいい。奥(全体像)が表現できていない状態での原稿は、必ず、誰かを傷つけ、破綻します。僕は26年間のメディア生活で、それに本当に気を付けた。もちろん、それでも失敗してますが、奥行き、に注意するだけで、間違いなく、人を傷つけることが少なくなったのは自負しています。今週中には、テレビ局2社とも話し合いを持ちます。すでに、刑事事件として提訴もしてますし、BPOへの提訴も行っていますが、訂正できるものは訂正してもらいたいですから。僕には家族がいるのです。妻、子ども2人、そして老いた母。いじめ、のことをよく、多くのメディアや議員、一般の風評を信じる人が言えるなあ、と僕は今、思っています。自分たちが、「いじめ」の原因を作っているじゃないか、と思います。犯罪者でもない僕を、犯罪者よりもひどい存在として貶めて、2次被害は家族です。そりゃあ、そうだわ。「おまえのとこのパパ、犯人なんやな」と、小学校3年生の児童なら、平気で言います。それで、いじめの要素、完成です。誰が、引き起こしているのか。分かってんのか、ほんまに。13日に、京都地方検察庁へ、「ストーカー規制法」違反の疑いで罰してほしい、という提訴と、府議会議員候補に対する「名誉棄損」(刑法230条)の疑いでの提訴を行いました。この府議会議員候補へは、1月23日にも「著作権法」違反の疑いで刑事罰をという提訴も行っています。もうひとりの京都市議会議員への「名誉棄損」(刑法230条)の疑いでの提訴も、その1月23日にすでに行っています。そのほかにも、刑事告訴の準備をしているものが、少なくとも5つあります。順にやるだけです。許しません。民事でなく、刑事で徹底してやります。人を陥れる者は、正しく罰せられるのが法治国家の日本だと信じてやります。4月の府議会議員の選挙に間に合ってくれるのが一番いいのですが、間に合わなくても、戦い続けるしかない。失われた名誉は帰ってこないでしょうが、それでも、人として生きる尊厳と、家族が世の中に住みにくい、一生後ろ指をさされる、だけは避けなければ。私は、犯罪者ではないです。強く言いたい。疑われたら罰する社会、と日本の社会を改めて知りましたが、それでいいのですか?私には、不思議な世界に思えます。府議会議員の選挙公示日は今月29日。どこまで粘れるか、分かりませんが、粘ります。(13日の写真。他の議員と京都府議会議場にいるのはおそらく最後です)
2019年03月14日
4月の選挙に関して、知ってる人の名前が取りざたされて、同時に「遠くまで来たな」と改めて思っています。辰巳拓郎さんがその人。 大阪の知事選出馬を打診された(断ったそうです)が報じられてました。辰巳さんは、京大から発した劇団「そとばこまち」におられたのですが、私と接点があった1983年夏ごろは「つみつくろう」と名乗られてました。私は、当時、作家の沢木耕太郎氏に強く影響を受け「ルポライターになるんだ」と、意気込んでいた大学生でした。そして、のちに「リング」などを発表し、日本の映画プロデューサーの一人者となる一瀬隆重氏製作、植岡喜晴監督の自主映画「夢で逢いましょう」の撮影に、取材も兼ねて「手伝わせてほしい」とお願いしたのです。いろいろ、ありましたが、結果はルポは書けず。ただ、ずっと手伝っていたため、車両係として今も映画にクレジットは残っています。同時に、「(背丈以外)辰巳拓郎さんに似ている」とのことで、数カット、辰巳さんがおられなかったシーンで、代役を務めました。そして今。当時、辰巳さんや手塚治虫さんの息子さんである手塚眞さんらのいた撮影現場で、「越えられない壁」を実感したのも確かで。恵まれた環境の人に、そうでない一般人が対抗できるのは、簡単には無理だ、というもの。才能を含め僕ら、一般人は、やはり、一般人だ、という劣等感でした。同時に、コツコツの積み重ねの努力しか僕にはない、と実感しました。さて。 それから35年を経て。幸運にも、自信があった「ペン」を生かせて、スポーツ新聞社からスタートして、通信社の編集委員や作家の端くれ、そして政治家もやった今の僕の状況。コツコツと積み上げた人生の決算になるような年齢になってみて。辰巳さん、手塚さんらは当然として、プロデューサーとして紆余曲折のあった一瀬氏、らと比してみても、検索してみると、情けないを通り越して。何がいやか、といって、起訴されたことも、有罪判決を受けたこともないのに、犯罪者扱いされいることです。僕は「犯罪者」ではないです。街のため、人のために頑張ってやってきただけですよ。特に、京都市西京区の方は、身近でしたから、よくわかってるはずです。メディアが、作った事件です。はっきり、明言します。メディアを、利用した人らももちろんですが、マスコミが、しっかり対応してれば、起こらなかった。 なんやねん、これ。絶対に、報道を許さないし、ネットに流した連中も、順番に出来るだけ刑事罰に問うていく。それしか、出来ないです。政務活動費のことも、チェックミスと報じられたことの裏側、理解している報道関係者も多いはずです。ロス疑惑の亡くなった三浦氏が、報道被害の名誉毀損で勝ち続けた理由。僕は刑事事件で証明していきます。一度出てる限り、名誉は返ってこないし、信用も戻らない。それでもやらないと。悔しいです。35年前。それこそ、夢をもって、映画の撮影現場に立ち会った、僕の今の終結点。ほんまに、「犯罪者」より、悪いんやろな、マスコミさん。証明してみろよ。事件の本質をきちんと、取材して報じてください。と、心の中で、叫ぶのは許していただきたいです。(1月25日の報道被害(朝日放送および関西テレビの偏向報道)での名誉棄損(京都地検、およびBPO=放送倫理・番組向上機構=に提訴済み)に関して、テレビ局2局と協議を続けており、こちらにいい方向で解決次第、改めて姿勢を表明する予定でおります。写真の多くは、今回の事件の深層です。おびただしい数の留守番電話がすべてを語っています。これをきちんと取材出来るメディアが現在までいなかった、のがすべて。私が、あれだけの騒ぎになりながら、議会から「辞職勧告決議案」など出されなかったのは、ギリギリのところで、議会や多くの議員さん、議会事務局の方が気づいたからです。ほんとうに、ギリギリでした。そういう意味で、気が付いた多くの方に感謝しています。ほんとうに、本心から)
2019年03月11日
今回の一連の出来事ですが、メディア=マスコミの方々は、現場レベルで、まだ偏見に捉われている方が残っている可能性はありますが、報道の俎上に乗るレベルでは、ほぼ解決、そして収束したと思っています。あとは、報道などで作られたネガティブなイメージからの名誉回復に向けた情報拡散に、メディアも含めた協力してくださる方がどれぐらい現れてくれるか、に掛かります。ストーカー行為、そして傷害、名誉棄損、これらは刑法違反の犯罪です。今、これらを検察庁に告訴、あるいは警察・弁護士と協議しながら、ひとつひとつ片づけている状況です。これを書くことで、当該の関係者から、2次被害と言っていい攻撃を浴びるかもしれませんが、メディアの大半、そして京都府議会および京都府議会事務局、医学に携わる方が、ことの本質について理解を示してくれている限り、正義がどちらにあるかは、明らかで、安心しています。5月31日の週刊誌報道から9か月も掛かりましたが、きちんと証拠を整えるまで、それだけかかりました。そして、PTSDの怖さも退院が許可されない、ということで改めて思い知りました(当該の5月31日の記事に関しても、法的手段、順を追って取ります。時間がかかっているのは、時系列でなく、こちらが「シロ」、相手方が「クロ」とはっきり判断されるものから、片づけているためです)。西京区。特に、桂駅に立って、挨拶したいです。笑顔で。選挙のお願いなどではなく、人と人として、区民の方との信頼関係を早く、取り戻したい。今後、テレビメディアを中心にして、方策を考えていくことになると思います。今後の私の人生、そして私の子ども、家族のことも含め、刑事罰を受けるようなことを現在、警察も地検も私に認定していない以上、私は京都府議会議員である前に「善良な一国民」以上でも以下でもありません。(リンクは、本来は、もっと広く広報される予定だった、「西京スタイル」の私へのインタビュー。この内容が、私の本来の姿、と自分で言い切ります)http://nishigyoku-style.info/interview?fbclid=IwAR0alY5uElSkVk-v3WTtpmCT0z8Qi676EQZeJINa-MrsCOz5h6dkOKWokb0
2019年03月02日
注・タイトルは思いついたことを書いただけです。 以下の文章とは関係ありません。☆森川央京都市会議員(西京区選出・無所属) 「(希望の党から)立候補する決意を固めました」(2017年9月27日、衆議院選挙直前の私宛のメッセンジャー) ↓ 2週間後 「森さん(現衆議院議員)が落ちれば私が(京都維新に)入党し代表になります」(私宛のメッセンジャー)☆畑本久仁枝府政対策委員(元日本維新の会衆議院候補者) 「私は西京区府会には出ませんよ。(中略)たとえ政治活動を続けるとしても西京区からは出ません」(2018年1月22日、ツイッター)↓ 現在、西京区内で府議会議員選挙(2019年4月)に備えて、森川氏との2連ポスター掲載中。「まさか私が畑本さんとつるんでいると思われますか?」(2017年10月、森川議員からの私宛のメッセンジャー)2019年2月19日現在、森川央京都市議、畑本久仁枝府政対策委員は、ともに無所属。どこの政党にも、属されていません。以下に提示している写真をご覧くだされば幸いです森川央京都市議!あなたは私のような弱い立場の京都市西京区の区民にとって、必要な議員です。2017年9月27日の、私宛のメッセンジャーに「あとの私の地盤を、何とか守ってください!」とあるのですが、お気持ち、ありがとうございます。しかしあの当時、私は日本維新の会の京都府議として、必死に活動していました。森川市議が衆議院立候補の意思を固められていた「希望の党」と距離を置いてすみませんでした。今の私の立場では、地盤を守れないのが残念ですが、気持ちは感謝しております。ほんとうに。心の底から。追記・私の主治医が、今年1月16日に出された私に対する診断書に書かれた「谷川氏に対する私怨を抱く特定個人」あるいは、その親族の方が、森川央京都市会議員によって、少なくとも2017年11月から2018年3月まで、主に税金が原資の「政務活動費」を使って、森川京都市議に雇用されていたことも判明しております。また、後で追加した森川市議会議員に関する「京都新聞」の記事ですが、2017年10月31日付けのものです。時期に関して、チェックしてもらうのも、今日の私の原稿の楽しみ方のひとつかもしれません。(写真は、森川央京都市議や畑本久仁枝氏に関するメッセンジャー、ツイッターなど。現地の写真は、ここ2か月の間ものです)
2019年02月26日
これから私が記すことが、世間に全く流布されていない上で、現在の私の風評が作られています。ここを読まれる方には、ここに示した新しい事実をもって、今後、公平に判断していただけることを私としては期待し、この事実が広く世間に知られ拡散させることを強く望んでいます。↓【私が被害者のストーカー行為と傷害事件、その後のPTSD入院】について 私の身に今、起こっていることの発端ですが、2018年6月29日から現在に及ぶ8か月目に入った入院で、病名、病状、原因がはっきりしてきました。2018年7月6日に、今の主治医の方が、入院一週間でまず、「意見書」を出されました。13枚に及ぶ意見書は「谷川しゅんき氏に対する〇〇〇〇氏によるストーカー行為に関する意見書」と題されています。それまで、全く面識のなかった京都市の精神医学の権威者である方が主治医となってくださったのですが、入院直後に提出した資料(473個ある相手方の録音音声の一部、メールなど)から、「これは明らかだ」と、医学的に「ストーカー」行為の被害者として私を認定しました。時期は2015年途中から現在まで、です。入院に繋がっている症状ですが、主治医の方は、病状に関してすぐに「ストーカー」のため、とか判断を下さず、半年間、血圧などの測定も含めた診察を行い、ようやく2019年1月16日、診断書を書かれました。それによると『(私への「ストーカー」加害者と同一である)特定個人からの暴行による「心的外傷による不安抑うつ状態」』と診断されています。「谷川氏に対して私怨を抱く特定の個人から、過去に激しい暴行を受けたことによる著しい恐怖心が心的外傷となっている。最近では、その特定個人のみならず、全般的な対人恐怖症の症状も認められ、外出にも不安や恐怖を感じるようになり、現在、不安・抑うつ状態にて入院加療中である」と記されています。メディア公表もしているのですが、この部分は扱ってもらえておらず、結局「切り取り」の形で、報道がなされているのが、現在の私の苦境を形作っています。フェアでない、と私個人は強く思っています。写真をご覧ください。特定の個人から暴行を受けた2017年7月20日から、まさに無意識だったのですが、壊された携帯電話からかえた新しいスマホではすべての留守番電話が永久に録音できる仕組みになってました。同年の9月3日一日だけて60回の留守番電話を受けたのをはじめ、翌年の5月13日まで、473件の音声が入っています。内容は、ここでは控えますが、2017年12月1日の41件など、残されています。警察に届け出れば?と、思われると思いますが、もちろん届けています。その上で、退院できるための状況作りを今、やっています。「身の安全を保障できないから、退院させられない」が主治医。「住む場所の変更なども含め、(私への)犠牲をお願いするするかもしれない」が警察。何が起こっているのか、自分で完全に把握できないまま、メディアに取り上げられ、バッシングを浴びました。政務活動費のチェックミスなど、私のミスがあったのも事実です。ただし、その根底に、私が被害者である「ストーカー行為」が存在していた、のです。昨年八月末から毎月、主治医には退院をお願いしているのですが、身の安全などの理由で認められていません。今月には、なんとか退院、と今も思っています。それが、昨年8月以後、毎月、主治医に私が訴えていることです。今後、司法に舞台を移して、「ストーカー行為」と、それがもたらした弊害については、争っていくことになると思います。ただ、医師が「身に何が起こるか保証できないので、病院にいてください」という状況がどういうことなのか、理解くだされば幸いです。なお、私の入院している病室の一日当たりの部屋代は1080円です。精神的なことなどでの避難回避が必要な者の場所、と入院の際に説明を受けました(写真参照)。森川央京都市会議員の2018年8月2日付けのFBに「さる方もいまだに入院とか。病院をなんだと思っているのか?」とあります。同市議の2019年2月8日付けツイッターには「精神障害をおった方やホームレスの方などへの、文字通り教護から自立促進社会復帰をまで図る、無くてはならない施設」と、京都市の教護施設のことを書いてられたりもします。私はまだ、退院できていません。ここでも、政治家って何だろうか、と深く考えさせられます。(京都府議会には、各種の手続きを踏んだうえ、2018年12月3日から復帰させていただいております。また、1月25日に、誤った報道をされた「関西テレビ」に関しては、すでに刑事告訴を行いました。ABC朝日放送に対しても、同様の措置を早急に行うための訴状を作成中です。)
2019年02月11日
日本ボクシングコミッション(JBC)と、平成24年9月から大阪地方裁判所で行ってきた民事裁判について、平成26年8月19日付けで、和解が成立しましたので報告させて頂きます。JBCの方から発表(JBCホームページのトップページに掲載済み)通りの文章をここにも表示しておきます。「JBCは、平成24年6月16日付けで、関西事務局員であった谷川俊規氏に対して懲戒解雇処分を行いました。上記処分に関しては、今般、大阪地方裁判所において、谷川氏との間で和解が成立し、JBCが上記処分を徹回した上で、同氏は平成24年6月16日付けでJBCを円満退職されることになりましたので、その旨報告いたします。 以上」処分などは、最初からなかった、ということで和解です。今後、私自身、親族、関係者された方のためにも、処分に関して、残されているインターネット上の文章、書かれた文書、出版物などに対しては、刑事・民事の応も含め処置を検討させていただきたい、と思っております。JBC様に於きましては、益々の発展を心から願っている次第であります。http://www.jbc.or.jp/rls/2014/0826.pdf
2014年08月29日
19日。午前中、こういうものをFBの友人の文章に見つけた。前後をシェアするのは、はばかられるので、そこだけ抜書きする。↓『人の評判よりも自分の品性を磨く』評判は、「あなたのあるべき姿」であり、 品性は、「あるがままのあなた」である。 評判は、写真である。 品性は、顔である。 評判は、外側からやってくるが、 品性は、内側から生まれてくる。 評判は、新しい仲間の一員となる時にものを言い、 品性は、そこを立ち去る時にあなたについてくる。 評判は、一瞬で出来上がるが、 品性は、一生をかけてつくり上げる。 評判は、一時間もあれば明らかになるが、 品性は、一年経ってもわからない。 評判は、キノコのように生えてくるが、 品性は、生涯続く。 評判によって、金持ちか、貧乏かが決まるが、 品性によって、幸福か、不幸かが決まる。 評判は、あなたの墓石に刻まれる言葉だが、 品 性は、あなたが神の前にひれ伏す時、 天使の口から出る言葉である。 (ウィリアム・ハーシー・デービス)=新約聖書解釈の第一人者この文章を引用したのには、意味がある。 今日、神戸市長田区のJR新長田駅の、南口改札を出たところで、 私は何人かの友人といえるかどうかも怪しい、しかし、志を同じにする数人の仲間と、ある民間人だけが支える市長候補のサポートに入り機関誌を配った。そして、同じ場所で、他の候補が演説を始めようと準備を始めたのを見て、撤収の準備に入り、同時に、その組織に支持された候補がなにを話すのか、聞こうとその場にいた。そこに、突然、わが街の市長が現れた。そして、開口一番「仁義というものを知らんのか!」と怒鳴った。怒鳴り声にしか、聞こえなかった。理由の説明もない。あっけに取られていた我々、神戸市民に「あほか!」と続けて彼は言い放った。我々の中の一人は、「神戸の市長が、市民にいう言葉ですか」という趣旨のことを言った。それに対して、私の耳には「私も市民だ!」という怒鳴り声だけが聞こえてきた。11月に3期12年の任期を終えて、退任するわが街・神戸の市長。これで、いいんですか?先に引用した、ウイィアム・ハーシー・デービス、の言葉は、だから意味がある。73歳で、神戸市を牽引してきたはずの人の品位。そんなもの、なんで問わないといけないのか?もうひとつ、付け加えると、この陣営の方々は、その様子を写真に取り続け、挙句は「今、あほか、といいましたね!」と、我々に、食って掛かってきた。文字通り、ほんとに、なぐりかからんばかりだった。「あほか、といったのは市長や。それも、一般市民の私らに」と私は、黄緑の服を着た陣営の一人に、かなりきつい口調で言い返した。市長、私は、長い間、収入が良かったこともあって、 高額の市税を払い続けました。市長が任期中は、職を辞してからの最後の一年(つまり一年遅れになるので今年)だけは、安くて ごめんなさい、の額になっているが、本当に、きちんと市民税を収め続けた人なのだ。 「あほか!」 一生、忘れはしないさ。権力を手にすると、こうなってしまうのか。なぜか、私の頭には、この夏の初頭に解体の憂き目にあった中央区メリケンパークにあった帆船「サンタ・マリア」号が浮かんだ。なにも大切にしない。心も通わない。その方に、後継者として指名されたある候補。そんな方が、本命で、神戸は大丈夫なのか。当たり前の問いが、市民感覚としての問いが、私の頭には渦巻いている。ちなみに、民間の支援を受けている候補は、この日、再度、同じ場所のそばで、「決起集会」を開いている。その予定は、相手の候補も知っていたはずだ。だから、私たちが、演説と関係なく、その場に残るのは何の不思議もないことなのは、分かっていたはずだ。52歳にして、はじめて、政治の怖さを知った日。それが2013年10月19日。25年前に、川崎球場で野球の矛盾を知ったプロ野球・近鉄ナインのことを思い、絶対 忘れない日、と私はこの日を位置づけていたが、 思わぬ形で忘れられないことが加わってしまった。 (写真は、民間人支援候補が演説している時のもの=注・相手方の黄緑の のぼりがうかがえることに注意。民間人候補演説の横を通り過ぎる神戸市市長。市民に指差し抗議する神戸市長。同所横で夕方に行われた決起集会での市民サポーター、民間人に支援される候補者) (写真5枚)
2013年10月20日
昨夜は、長田区の丸五市場へ子供も連れて出掛けた。 長男の好きな、「かしのたかひと」さんが来るという噂を聞いていたこともあるが、それよりも、いくつかの店に神戸市市長選挙の投票を呼びかけるポスターを貼る協力を、お願いするのが主の目的だった。それにしても。 今年最後の「丸五アジア横丁ナイト屋台」。 活気があった。この活気が、日常でもあれば、新長田は大丈夫、と はっきり言い切れるものが。だから、まだ、やり方はある。 「市長の選挙?ああ、本命以外に何人かでてるなあ」と言われているという声を、昨日も、この場所で聞いた。この、噂の流布、が、神戸市をこんな、世間(他都市)に誇ること が難しい街にしてしまったんじゃないか。 本命、の名前を、おそらく自治会、あるいは、各所の神戸市が絡んでいる まちづくり会社から聞き「あの人が本命で、ほかの人はどうでもええから」と伝えられる。それがまとまっての、組織。労働組合関係は、おそらく もっとしっかりと、本命とそれ以外、で関係者に伝えている。 街の中をみてほしい。 候補者に関する情報を、一生懸命に渡している人や、伝えている人の姿を。本命といわれる人の周りに、一般市民はどれぐらいいるのか。ほとんど、公人、つまりは一般人ではない人ばかりじゃないのか。 庶民(僕も含め)は、よく目をひらいてみるべきだと思う。 公人の公人による公人のための政治。そんなことをされた日には。のはずなのに、神戸市は半世紀以上、その状態が続いている。うまく機能した時代があるからって、それでいい、はない。みんな、とりあえず、目を開けようよ。それで、やっぱり、「本命のあの人」、となったら それもよし。ただし、私は、民間企業出身の あの人が「本命」とみるから、考え方の違いも でるかもしれない。ともかく、選挙へ行こうよ。ということで、昨日は、ニーナ、わるタン、一枚ずつ丸五市場で貼ってきました。
2013年10月19日
まあ、こういうことは誰を支持しているということ関係なく知ってもらった方がいいと思いますので、ここに書きます。 10月16日、夕方、JR神戸駅に約2時間立ちました。 街宣車が入った中央口北側ではなく、ビエラ神戸口の北側で。ここは、微妙に通路が狭くなっているところが、兵庫区側に向かっていくところにあって、「かしの通信」を渡し易い場所と して私は重宝しています。8月の終わりごろから、五月雨式に一人朝立ちを始め、9月半ばぐらいからは3日に2日は短い時間でもここに立つ感じになっていたのですが。 今日、3人の方に本当に、嬉しくなる声を掛けていただきました。2時間弱で、ひとりで150枚は配れた「かしの通信」のことも嬉しかったの ですが、それ以上に本当に涙が出そうになったことが。まずは、30代後半ぐらいの女性で「(期日前投票で)ちゃんと入れてきたよ。いつもご苦労さん」と言ってくださった方。その次が、私と同じ年齢ぐらいの男性で「あんた、毎日立ってるよなあ。えらいなあ。きのう、入れてきたで。あんたが毎日立ってるから」と言って下さった方。そして最後の方は年配の方で男性。私の肩を突然抱くようにして、小声で「入れてきたで。大丈夫や。頑張れよ」と一言。 私がそこに立っていなくても、3人の方は、私の支持する候補・かしのたかひと、に入れてくださったかもしれません。ただ、きちんと顔を覚えてくれて、おそらく私にそのことを伝えたくて、ウズウズされていた方が3人も一辺に現れるという、私にとっては奇跡のような出来事。まだ、選挙は終わってない、どころかこれからなのですが、 《報われたなあ》と思って、幸せな気分になったのは事実なのです。あしたは、違うところに朝、立ちますが、まだまだ頑張ろう、と思ったJR神戸での夕暮れ以後でした。 (JR神戸駅ビエラ口、市役所からの虹=分かりにくいねえ=、かつてファッション都市だった神戸を示すポスター)
2013年10月18日
朝から“え?”の連続だった一日。もうあと、数十分で終わろうとしている。それにしても。今年一月から、いろんな面で参加を続けている神戸市長選挙の告示日だった今日。兵庫区の湊川公園で、私が支持する候補・樫野孝人氏の公示用ポスターを貼ることからスタートだったが、まだ、この世で知らないことがありすぎることも確認した。昨年、某国政選挙に出ることを考えるまで、ポスターを貼る人がボランティアなんて間違えても思わなかった。当然、アルバイト、と思い込んでいた。複雑な公選挙法の影響下、時間との戦いや見栄えと戦いながら、金銭的に得るものはゼロ。よほど、酔狂か、その候補を支持していないと出来ることではない。私が今日、貼ったのはわずか21枚。手分けしていた関係上、兵庫区内のほんの一部だけだった。それでも、歩いた距離は、どれぐらいになるだろう。途中で、出会った他の陣営の人は「どうせ、同じところに貼るんだから、一緒にやろう」と、車でなく徒歩で張り続ける私の労を考えてか、親切な提案さえしてくれた。しかし。こうやって、歩くことで、街の広さ、地形は自分のモノになっていく。兵庫区の地形を自分のモノにして、何になるか、とかは今、考えない。体に沁みこんだ地図が出来ることは悪いことではないのを、私は知っている。ルワンダのキガリや南アフリカのケープタウン、インドネシアのバリ(ウブド)。 中国の北京、上海、ギリシアのアテネ。カナダのモントリオール。いつも、私は、一人で歩いて、地図を頭に作り続けてきた。たぶん、それは、もう使われることなく、私が亡き者になるまで私の頭に格納されて置かれるだけのことだ。それでも。そういう地図が私の心の財産になっているのも、また事実だ。私は今、自分の足元をもう一度、見直している。そして、わが街・神戸の完璧な地図を自分の足で作り上げることを夢見ている。そういう楽しみが、ひとつぐらいあってもいいに違いないのだ。(FBからの一部訂正転載です。写真はポスター貼りと、告示日の樫野陣営の様子)
2013年10月14日
久しぶりに更新します。メリケンパーク。神戸市中央区にあるポートタワーの東側の、この場所は私のとってはいろんな意味で若き日の思い出となっている。完成は1987年。その夏に、当時の彼女とここを訪れた際の記憶は今も鮮明だ。相手の顔も正確には思い出せないのに、状況だけは覚えている。村上春樹さんの原作を神戸を主な舞台に映画化した大森一樹監督の「風の歌を聴け」(1981年)で、小林薫さんと真行寺君枝さんが、船の汽笛を聞きながら語り合うシーン。その時は、まだメリケンパークがなく、神戸港の中突堤の海に近い端に座って、だったが、あのシーンが当時20歳を越えたばかりの僕にとって、どれほど「大切な関係」=「神戸港」、のイメージを作ってくれたか。そして、私にとって、1987年以後、小林薫さんと真行寺君枝さんが座っていた場所(現在はメリケンパーク・オリエンタルホテルが取って代わっている)の代わりとなったのは、メリケンパークの海側一番端に作られていた横に長い階段だった。おそらく、私たちだけでなく、そこに座って神戸港を眺めた多くのカップルにとっても、あの場所は、そうだったに違いない。まだ、モザイクも出来ていなかった時代の話だ。「風の歌を聴け」もそうだし、「メリケンパーク」もそうで、ともかく、垢抜けしていた。あの場所は、ある意味、ファッションの象徴でもあった。80年代。実は、メリケンパークが神戸のファッションをリードしていた時があった、といまも私は思っている。さて。昨日、ある報告会でそのメリケンパークに展示されている復元サンタ・マリア号が解体の憂き目に合う運命から逃れることが非常に困難になっていることを改めて聞かされた。サンタ・マリア号に、特別、僕が思い入れがあるわけでない。ただ、聞かされた後、どうなっているのか実際に足を運んでメリケンパークで見た光景。想像もしていなかったものを見る形となった。柵で囲われ、サンタマリア号に近づけないだけでなく、海側の端には全く足を踏み入れることが出来ない。クレーン車の姿が覗き、工事現場以外の何ものでもその場所一体はなくなっていた。『中突堤ポンプ場放流の渠築工事』、簡単にいうと浸水対策のための雨水管を作っている、という説明表示があり、期間は平成24年11月7日から平成26年3月31日まで、だった。サンタマリア号も、その工事の作業場に一体化されてしまっているようにしか私には見えなかった。そして、その光景は、あのファッションの場でもあったメリケンパークにおよそ、似つかわしくない、と私には思えた。昨日が特別だったのかもしれない。ただ、1987年に出来たフィッシュダンスと並んで、1996年にそこに置かれて以来、あるのが当たり前だったサンタマリア号を工事現場と一体とさせて放り投げているように見せてしまう感覚。同時に、カップルの憩いの場でもあった突堤の端を簡単に閉鎖してしまう感覚。メリケンパークは少なくとも1980年代に20代を送ったものにとって、ファッションの街神戸を代表する場所だった。1995年の震災の際、液状化現象が起こったのも私は取材者として目の当たりにした。私たちが座って海を眺めた階段も無惨に崩壊して海に沈んだ。しかし、あの年(1995年)を境に、メリケンパークがファッションだけでなく、復興のシンボルともなったのを神戸市民として、そしてメリケンパークに若き時代の思い出が詰まった者として少なくとも私は誇りに思ってきた。それだけに。サンタマリア号の行く末を案じるのは、市民の方の今後の動き、行政やマスコミ、政治家の方々の行動にお任せするしかない。ただ、あの光景だけは…。(写真は2013年5月18日の、メリケンパーク、およびメリケンパーク付近にあった看板の地図、この地図ではサンタ・マリア号が一番の象徴のようにみえる)
2013年05月19日
どうしても気になって、買って読んだ本。 これが、本当に「ストン」と自分の心、胸に響く 本だった。私の心の支えとなってきたアルベール・カミュや 沢木耕太郎さんの書いたものではない。もっと、 身近に感じられ、立場も身分も違うのに、 ああ、そうだよな、そうあるべきだよな、と 今後の自分の指針に出来る、と確信できる 本。いや、もっと端的に言えば、こういう実用書とも 言えるものは、自分で書いてないだろ、と いうものが結構多いのだが、これは絶対、 違う。自分の言葉で、著者が誠実に思いを書いているのが 伝わってくる。政治、選挙の話はうさんくさい、を 見事に打破してると私には思えた書。 曰く「幸せそうな笑顔が見たい。そういう環境を作りたい、あっと驚く感動を与えたい・・・。そんなシンプルな感情に突き動かされて仕事に打ち込んできました」 「政治はルールを創る仕事です。」 「覇気がなくなっていた一番の原因は睡眠不足だったと思っています。何を伝えるかも重要ですが、どう伝わるかがもっと重要だと思います。そういう意味で私は、選挙中は元気な状態を保つことが最優先だと気付きました」 (すべて、樫野孝人著『無所属新人』=カナリア書房=から抜粋) 哲学でも、文学でもなく、ただ分かりやすい 文章で、一生懸命伝えたいことを書くと きちんと伝わる。当たり前のことを、久しぶりに 思い出させてくれた書。 これからの自分を考える時、また新しい指針となる ものを手に入れた、そんな気分にさせられました。 (写真は「無所属新人」~上場企業社長の選挙ものがたり~ ソフトカバー1200円プラス税、と普段なら買わないし、 高い、と思うものが安かった=笑=)【送料無料】無所属新人 [ 樫野孝人 ]
2013年04月02日
今日は、先週に引き続いて須磨探索の日でした。 桜。 いたるところで、出会うのは桜。 ただ、須磨の潮見台町に住んでいた10年近く、 毎年、《綺麗だなあ》と思って眺めていた 高倉町と関守町をつなぐ桜道が思ったほど でなかったのが意外でした。 桜で思い出すのは、2000年の今頃、はじめて 文学界の新人賞に小説を応募しようと思って 書いた「アリゾナ」という小説。枚数自体、4百字詰めで 70枚程度と、短かった上に、まあ、ひとりよがり(笑)。 一次も通らなかったものでしたが、曲がりなりにも 応募処女作。 その小説のラストに、20代の半ばごろにある女性から 頂いた手紙の、桜について書いていた 印象的だった部分を十数年ぶりに連絡して、使わせて いただいた記憶も今、蘇ってきました。 桜を日本、故郷、帰るところの象徴として、米国・アリゾナの 片隅で、どん詰まりに陥った青年の心境を書いた、と いえば、それなりに紹介文としては様になる感じが するから面白い。 で、その小説「アリゾナ」、探したけどない(笑)。 古いパソコンのHDの中に眠っているのだと思います。 過去は振り返らない。いや、今、少し振り返りましたが(笑)。 それにしても、なぜ桜の花が美しく思えるのか? もちろん、そう思わない人もいるのでしょうが、それは ごく少数派のはず。説明できそうで、できないのが、 この「美」の部分です。 まあ、なんでもいいか。 何時間も一人で、桜の花がいたるところにあるところを 歩き続けると、まあ、いろんなことを考えるものです。 今の現実と違った空間にはまったような感覚 ですよね。 (写真は今日見た住宅街に咲く桜たちと、散策を終えて最後に入ろうとして、人がいっぱいで 入れなかったお洒落なお店=笑=)
2013年03月30日
昨日、ある用事のために神戸市は須磨区の山間部を歩くことになりました。といっても、奥深くではありませんが。場所は一ノ谷。源平合戦で、あの有名な源義経らの崖からの奇襲攻撃。一ノ谷なのか、鵯越なのかは実ははっきりしていないそうなのですが、今回、私が出向いたのは一ノ谷の方。ここで、上から奇襲されて船で命からがら、瀬戸内海へ逃げた平家。その時の、敗残兵なのかどうかは知りませんが、実は私の母方の先祖は、淡路島へ逃げた平氏だそうです。その時だとしたら、今から830年ほど前に私の先祖は居住地を淡路と決めたことになります。そして、第2次大戦中、戦地から帰って、神戸市役所の役人(私の母に聞いた話では、防衛局《たぶん間違えてます。どこにもそんな局が出てこない》の局長を務めていたということです)をしていた祖父は、先祖の仇を討つべく、神戸で大成を望んでいたそうですが、これは戦争末期の神戸大空襲を避けるため、淡路へ戻ったことでご破算となった、という次第です。と、そんな私の先祖の話はどうでもいいのですが、山、坂、海。本当に、神戸には有り余るほどに、それらがあります。以前にも書きましたが、眺望に直結するそれらの自然は、私たちの足腰も見事に鍛えてくれます(笑)。と、同時に、そういう場所へ行っても、きちんと家が並んでいたりするのを見ると、神戸を愛する人って、そうなんだよな、とも思ってしまうのです。一ノ谷の上の方は、本当に、交通の便も含め、JRの須磨駅から徒歩30分ぐらいと、周りに恵まれた自然があるとはいえ、食材などの買い物を考えても決して利便性の高いところではない。まあ、そういう土地でなければ、源義経らの活躍も言い伝えられなかったわけで。そんな場所から、人や馬が降りてくる、ということが考えられなかった訳ですから。ともかく、家のある一番上まで行って見ると、そこにまっていたのは…。見渡す限りの竹林。花粉症の私は、杉林だけはごめんこうむりますが、竹に関しては、何を言えばいいのか。ただ、風景が涼しい、とは思いました。緑。竹のすくっと立った細い茎の集まりが、涼しい風景を作っている、と改めて感じました。こういう風景の前では、争いごとなど、遠い世界になる。しかし、ここは、歴史上、大きな戦いがあった場所でもある…。そういったことを、ああでもない、と考えて過ごした約4時間の歩行。たまには、そんな日があってもいいのかもしれません。(神戸市須磨区一ノ谷町の3景。海、山、そして公園、竹林も)
2013年03月24日
花粉症で気分が晴れず、頭もいつも以上に働かない、という日が続いてます。春先は毎年、こうですね。でも、昨年の春からは、選抜高校野球の取材、というやつから卒業している分、楽にはなってます。甲子園。記者席がプロ野球のフランチャイズ球場として、唯一、屋外(開閉式を含むドーム球場は基本屋内)にあるのがここ。まあ、センバツ高校野球の取材を記者席で経験したことのある方々なら、あの厳しさはよく分かってくださると思います(笑)。でも、そういう話では今日はありません。なんであれ、ジャーナリストを名乗れた頃は自由にやれてことが、今はやれない、という話をひとつ、するだけです。今日。勤め帰りに、家あるマンションと同ブロックにある建物の4階へ行ってみました。いや、この間から、そこへは、同じフロアにある別会社とダンスのNPO法人が気になってパンフをもらいにいったりはしていたのですが、今日は違う気分で。しかし。2年前の私と今の私とは違うのでした。「時事通信・編集委員」の肩書きは、やはり便利なものでした。この名刺ひとつで、本当にいろんな人とお会いすることが可能だったと思います。お会いするだけでなく、お話を伺うことも、それまでの経緯でこちらがよほど失礼なことをしていない限り、出来ていたように思います。それが出来ない、のが今の私。名刺の効用、というものもそうですが、根本的に頭の中身はジャーナリストに近くても、現実にはそういう職種に就いていない、というのは決定的です。身分を明かさず、聞く、ということも方法論としてはあるでしょうが、これは、何かの都合で身分が相手に分かった時、思わぬトラブルに発展しかねない。だからダメ。唯一、今、私が出来る、人に聞く方法は、普通の人間ならではの、単純に知り合いになる、紹介してもらう、というのが二大王道ということになるのでしょうが、どちらもそう簡単にはいきません。と、いうわけで。今日は、何もしてません(笑)。最初から、何もする気はなかったのですが、それでも何か行くと期待してしまうのが人の常。ひとついえることは、7時過ぎまで間違いなく働いている人がいた、ということで。それが意味することは、もちろん分かりません(笑)。まあ、だから、今日の写真に示すとおりで、→の向こうにあるものについて、私は何も直接、知りません。こういう報告を、26年を超えたジャーナリスト時代に上司に告げていれば…。まあ、怒られるのには、この歳になると耐性が、と言いたいけど、ないのよねえ、実際は。あきません。(写真は、行って撮ってきた唯一の写真、それに今日、戸棚をいじっていたら 突然出てきた、1986年2月の「阪急ブレーブス」の広報誌。なんで残してあったのかは、裏をめくってみたら分かった。24歳のスポーツ紙記者だった私の名が)
2013年03月18日
なかなか、更新できません。とりあえず。神戸市の須磨、長田に関するエスカレーターのことを書こうと考えていたのですが、今日、昼間、新長田の街角で見た、経験したことを先に記すべきだと思いましたので、書きます。白い腕章の方々が、新長田の大正筋や新長田一番街商店街に何人かいて、通りを歩いている人に声を掛けて、アンケートのようなものを行っているのが目に入って来た訳です。普段なら、気にもせずに通り過ぎたのでしょうが、腕章にあるマークに私の目は釘付けになりました。市役所内が勤務先になっている私には、それがいつも見慣れているマーク=神戸市のシンボルマークだと、気がついたのです。意識調査かなにか。というより、ここは新長田です。もう、あれしかない。新長田駅の南、再開発地区の現地調査。日曜日の昼間に、わざわざやっているということは、一番にぎわっている時間帯にどんな感じか、調べるようとしているんだろうな、と私は思いました。しばらく、彼らが(私が見たのは男性1人、女性2人)どんな方にアンケートしているのか、私は観察してみました。そして、その合間に、四つ角のいくつかで、歩行者の数をカウントするために人が配置されているのにも気付きました。なんとなく、お年寄りの方にアンケートが集中しているなあ、と20分ほどぶらぶらしながら、私は感じました。それなら、オレも参加してやろう、協力してやろう、とも思いました。歩いている人に声を掛けて、アンケートをお願いする、言葉でいうのは簡単ですが、なかなか記入してくれる人がいないのは、言うまでもありません。市職員であろう(アルバイトだったのかもしれませんが、このご時勢、やはり市の職員の方でしょうね)方の苦労、いや、これは皮肉でなく、本当にそう思いました。『オレが答えれば、アンケートの年齢層下げるのに貢献できる』、50代の私が思うのは全く見当違いなのですが、そうも思いました。で。アスタ3番街の角、ケーズ電気の前あたりにいた女性調査員に自分から声を掛けてみました。『何を聞いてられるのですか』私の声にはっと、されたように彼女は応じて下さいました。「アンケートをお願いしてます」と差し出された紙は、まさに私の予想通り。新長田再開発地区に関するアンケート(こんな感じの題目だったと思います。記憶にたよると)というものでした。産業振興局の名前もあったように思うのですが、本当に最近の私はもの覚えが悪い(笑)。いくつか項目はあったのですが、私が引っかかったのは「2008年以後、それ以前と比べてこの街の賑わいをどう思いますか」という感じの質問でした。これはトリッキーで、鉄人28号のモニュメントが出来た2009年秋からしばらくは街に活気が戻ってきた、という事実がある以上、「以前よりにぎわいがある」に、◎をしてしまいそうになる設問でした。現実には、今年になってからの大丸撤退、琉球ワールドの閉鎖など、目に見える部分でもXが付くのが当然の街の様子なのですが、2008年以後、と書かれただけで、違う印象になる。ああ、ずるいな、と思いました。だから。私は、女性調査員に「この設問、おかしいよ」と言ってしまいました。「2008年以後となると、にぎわった時期があるのをみんな知っている。それ以前の状態に今は戻ってるか、それ以下かもしれないのに、2009年、2010年のイメージで付けてしまうよ」と、大人げないかもしれないけど、言ってしまいました。そして、3択だった回答に、「4つ目になるよ。にぎわったけど、前に戻った、というやつ」と、自分で付け加えてしまいました。あきません。大人になれてない。彼女のせいではないだけにね。アンケートを書き終えると、粗品までいただく形になりました。ありがたいことで。でも、それほど、アンケートの項目といい、街のイメージ全体に係わる、一歩間違えると「なんでこんなん、今頃調べるの?」と言われてしまいそうな、際どいものに思えました、少なくともこの場所では。そりゃあ、年配の方に声を掛けたくもなるわなあ、ともなぜか思いました。で。大正筋でアンケートを書き終え、その後、新長田一番街を通って鉄人広場へ出てみると。やはりいます。記念撮影している人、子供。日曜日の昼間に、ここへ行って、そういう光景を見ないことはない。鉄人モニュメントに集客能力があることは、だから間違いないのです。完成して3年以上を経てもこの状態なのですから。それを生かせば、人は呼び込める。賑わいは取り戻せる。いや、取り戻す、というより、生み出せる。私はそう思っています。案はあるのか、って?いくつか、頭の中には持ってます。ひとつを披露すると、鉄人28号の最大のライバル=敵、だったブラックオックスの模型(決して大きい必要はない)駒ヶ林駅に設置するなど、新長田ー駒ヶ林の地下を、鉄人ストリートとする。三国志があるのは、あるでいいじゃないですか、それは放っておいて。超人間ケリーとか、ライバルをその間に、配置していく。これだけで、子供は食いついてくる、と僕は思います。それに派生して、考えることもいくつか、ありますが。利権や、今、再開発地区に入っている管理会社などの問題とか、いろいろそれは聞きます。そういう問題が片付かなくて、何が賑わいか、というのも理屈として分かります。それでも。通りの端、もしくは最初に鉄人モニュメントがそれだけある、というのは、鉄人のバリューを考えると実にもったいないし、どうかなあ、と。鉄人が泣いている、本当に僕はそう思ってます。(写真は、人通りをカウントしている調査員、鉄人広場で記念撮影の子供ら、 アンケート協力でいただいた品物)
2013年03月03日
久しぶりに更新します。新しい職場で、なかなか仕事がはかどらず、じっと手を見る(暇もないか)という状態です。元々、要領はよくないので自分では予測していた事態ですが、ブログや近況のアップもままならない、のは困ったもんです。それはそれとして。昨日(1日)は、誕生日でした。もう年齢を数えるのもいやなぐらいなので、いくつになったのかは書きませんが、「惑わず」なんて、とっくに越えて干支が一回りという年齢なんですよね。それにしても。で、昨日。この間、このブログでも書いた毎日新聞の小倉孝保さんがミズノスポーツ振興財団の「スポーツライター賞」の最優秀賞を受賞した、というニュースが、毎日新聞の社会面に出てました。現在、欧州総局長であることが確認出来たのと、ロンドン五輪の取材に携わってたんだな、ということが分かりました。なんか、改めて『遠くへ来たもんだなあ』と思いましたね。毎日新聞へ入った後、海外特派員になるために、彼が日常の仕事をこなしながら、社内テストをクリアするのに努力を続けていることを20年ぐらい前に本人から聞かされたことがあります。普通のことをしていては、やはり、人より優ることはできない。人生の早い時期に気がついた彼は、やはり優秀な人材だった、ということだと思います。それにしても、僕の分野でもあった「スポーツ」の部分でこういう賞を取られてしまうと、素直に「すごいな」と思うと同時に、自分がその分野で努力足らずだったことを実感するばかりで。で、「みんなの党神戸市議団」の市役所の控え室を出て、帰路に着いたとき、とりあえず、40歳を越えたあたりで、明確に意識し、今もそれが唯一の心の支えとなっているかもしれない、「地図を燃やす」というフレーズが頭にリフレインし続けることになりました。そう。40歳直前で、小説を書こうと思い立った時も、だらだら、興味を失った仕事にしがみついても、と目の前の「地図を燃やそう」と決意したのが大きかった。結局、5年ほど書き続けて中座したのは、「めっちゃピンぼけ」を書き上げた時に、『これを書かないと』というテーマが喪失した、というのを意識したためでした。体罰と不条理が、自分なりに書けた、という満足感。これでは職業作家にはなれない。本当の作家に完成などないですから。スポーツライターとしても、念願だった五輪取材が実現した時点(2008年)で目標達成(笑)。某通信社の編集委員とかいう肩書きも手に入れましたが、そんなものにしがみつく気もなかった。先が読める、そのまま進めば安全、という道は取れないのが僕の性格です。先に地図が見えると、燃やしたくなる。いや、燃やさないといられなくなる。要は、絶えず変革を求める生き方をしてきたつもりです。「地図を燃やす」-かっこ良く、言ってますが、もちろん、他の人からの受け売りです。大学時代、1983年だったと思いますが、作家の沢木耕太郎氏のルポ、エッセイ、などがぎっしり詰まった「路上の視野」(文藝春秋社)を手にした時に、“かっこいいな”と思ったフレーズがこれでした。若かったこともあって、地図が見えたら燃やしてやるぞ、と意気込んでいたのも事実。帰路。久しぶりに、本屋へ行き沢木耕太郎さんの新著を手にしました。「キャパの十字架」。沢木さんの、これまでの軌跡を考えるとこれを書かないではいられないだろうな、という書。私に関係がないのか、といえばおそろしく離れた位置で関係している。だって、ロバート・キャパに憧れて戦場カメラマンになった宮嶋茂樹(不肖宮嶋)の軌跡をモデルにしたのが「めっちゃピンぼけ」なんですから。題名自体、キャパの名著「ちょっとピンぼけ」からのパクリなんだし(笑)。50歳を2つ越えたことになった日。小倉さんの受賞の報を目にし、沢木さんの新作を手に取った日。今年の誕生日は、改めて地図は燃やすためにある、ことを頭の中で確認した日にもなりました。ただ、私も人間、つまりは生き物。寿命からは逃れられない。だから、残りの日々を平均寿命に合わせて出来ること、出来ないこと、を的確に見極めながらせっせと、地図を燃やしたい、今はそう考えて前だけを見ることに専念します。【送料無料】キャパの十字架 [ 沢木耕太郎 ]
2013年03月01日
久しぶりの更新です。やはり、新しい仕事を完全に自分のものにするにはそれなりの時間、体力が必要です。ブログのことまで考える余裕がなかった、という感じですね。で、本当なら2月17日に書いておくべき日記を今日書きます。開港7年を迎えた「神戸空港」について、で。政治的な議論は、議員となられている政治家の方々にお任せします。私が書くのは、恐ろしいほど私的なことです。2006年2月16日。神戸空港の開港の日。私は、東京・羽田から神戸行きのスカイマークで、出張先の東京から神戸に夕方、帰って来ました。雨の日で。兵庫県のマスコット「はばたん」のワッペンとか入った記念品入りの袋を空港で受け取ってポートライナーで三宮まで帰ったのですが、その時の第一印象が今も私の中での神戸空港に対する印象となっています。『ああ、便利だなあ』本当にそう思いました。しかも、新幹線で新神戸から品川、あるいは東京に出るより、時間も短くお金も掛からない。空港を利用するまで、反対派の急先鋒みたいだった私は、開港の日から180度方向を変えて空港のファンとなったのでした。で、その空港がなければ、今の私の家族もおそらくいなかった、と思います。2007年3月。家内と付き合い始めた時、私は神戸市須磨区、彼女は東京都練馬区に在住でした。いわゆる遠距離恋愛でした。なれそめまで説明すると長くなるので、やめときますが、ここで神戸空港の存在が見事に2人の橋渡しをしてくれました。割引を使うケースも加えて片道8千円から1万円が当時のスカイマークの東京-羽田の料金。しかも、便数が今より片道2便ぐらいは多かった。これが使えました。うまくつなげば、須磨のマンションから練馬区の彼女の住むアパートまで2時間掛からずに行けましたから。これだと、遠距離という感じさえなく付き合えた。約1年間の交際。神戸と東京を月に2度はお互いが行き来する形。もし、神戸空港がなければ、こういう付き合い方は無理だっただろうな、と思います。ということは、1歳と3歳の2人の子供もこの世にいなかったことになる。だから、神戸空港の方向には、足を向けて寝られない、というのは事実なのです。神戸空港のあり方が取り沙汰されるのを聞くたび、『なんとかならないかなあ』と、だから、私は思います。今の私にとって、家族はかけがいのない存在です。家で仕事をしようとすると、1歳児、あるいは3歳児はそうは問屋が卸さない、とばかり待ち構えていますし、現実に、仕事なんか出来ません(笑)。ブログの更新さえもですから。1995年、時事通信の運動部記者としてオリックスの担当になった時、グリーンスタジアム神戸のバックスクリーン上ビジョンによく映し出されていた「神戸空港が出来れば・・・」の、市の広告に、『ケッ』と思っていた私。その私が今は…。東京と神戸をつなぐ、ということだけ考えると、あんな便利なものはなかった。過去形で悪いのですが、確かに5、6年前は神戸空港の常連客だった私は、実感として思います。問題が多いのは分かってますし、私の個人的な思いはむしろ少数派かもしれない、とも思ってます。それでも。うまく、空港が活用される道、誰かがきちんとつけてくだされば。あくまで、個人的な願いですが。(写真は開港の日の神戸空港、昨年7月に訪れた際の長男、今年 2月17日に開港7周年記念でやってきたウルトラセブンに 会ったわが息子2人、最後のだけは家内の撮影で見事なピンぼけです)
2013年02月23日
久しぶりの更新になります。本来は、14日のバレンタインデーに更新しようとして、いろいろ準備したのですが。思わぬことがあって、今日になりました。で、その思わぬことは、あしたにでも記します。14日。仕事が終わったあと、今の仕事を始めてから使っている神戸地下鉄・海岸線の4つの駅を見たり、歩いたりしてみました。まず、私は神戸市民ですが、三宮・花時計前駅から旧居留地・大丸前まで、地下道が完全に通じているのを知っていませんでした。いや、本当に。灯台下暗し、というかまあ、情けない話ですが。それで、この日は、そこを歩いてみました。通路の両サイド。広告の掲示板が続いているのですが、そこで目だったのは震災前から最近までの、神戸の街の宣伝ポスター。神戸の魅力を、キャッチコピー、写真あるいは絵、で一発に表現するお洒落なポスターがずらっと並んでいて、初めてそこを歩く私はの目は釘付けとなりました。キャッチコピー曰く「君たちは、この街のことをまだ知らない。」「課長のことも、アイツのこともすっかり忘れて 神戸でボケーションやってるよ」「見たこともない神戸であそぼ。神戸ヌーヴォー 六甲アイランド」どれもこれも、本当に、さずがプロの作品(だと思います)、と思わせる素晴らしいポスターで。しかし、ここで、ハテ?と私は思いました。本来は、このポスターのある空間は、商業ポスターがあるべきではないのか、ということです。何か規定があって出来ないのかもしれない(不勉強ですみません)のですが、それにしても、ポスターを見ながら歩いたせいもあるとはいえ、徒歩で10分以上の距離、ほとんど市の広告(?)なのはどうなのかな、と。もし、この通路が、通称・さんちかの三宮駅周辺の地下と同じぐらい認知されていたら、というか、人の行き来があるなら、こういう使い方はしなかったのでは、という疑問です。海岸線では新長田と駒ヶ林も地下道でつながっています。少なくとも、上り下りの始発となる新長田、三宮・花時計前の両駅は次の駅と地下道でつながっていることになる。これが、どういう意味合いを持つのか、は素人の私には正確には分かりません。ただ、歩ける距離に駅が2つある、という事実は間違いないでしょう。ということは、この2駅間(三宮から大丸、新長田から駒ヶ林)の区間だけを地下鉄に乗る人はほとんどいないのでは、と思います。これは単純に、ですが。ちなみに、地下鉄の一区間だけの運賃は200円。JRで三ノ宮から元町までが120円。これはあかんわな、と思います。まあ、こんなことは僕が言わなくても、すでに多くの人が言ってることだと思います。ちなみに、この日は、旧居留地・大丸前を上がって、次のみなと元町までも歩いてみました。これは、バレンタイン仕様のポートタワーを見るためでしたが。春節祭でにぎわう南京街を横目に通過して、目指す駅にはついたのですが、ちょっと、風景が以前と違う。そう、タワーロードから、ポートタワーが見えなくなっていたわけです。いや、たまたま僕の見方が悪くて、まだ十分見えるのかもしれません。あるいは、記憶が錯綜していて、前から見えなかったのかもしれません。ただこの日は、ビルの谷間の隙間からかろうじて見える以外、見ることが出来ませんでした。仕方なく、2号線まで海側に下って撮る形になりました。あんなんだったっけ?マンションが出来て、見えなくなってるんじゃないかなあ、と思ったけど、真相は今の僕には分かりません。で、みなと元町駅で帰るために改札に向かったのですが。ここでも、広告掲載の大きなスペースがいきなり、3箇所、何も入れられていないのが目に入ってきて。『ああ、あかん』ほんまに、こう思いました。なにがあかんのか、は説明出来ないのですが、大丈夫?といった次元を越えている気が僕にはしました。神戸の地下鉄海岸線。今の僕は通勤に重宝してます。しかし、朝、通勤時間帯であるべき8時半頃に駒ヶ林駅から乗る人、3人、とかいう世界がまともな訳がない。行政の責任、とかいうのは簡単なのですが、そんなことは言いません。今の私にとって、愛すべき、この海岸線、少しでも長く、そして場合によっては、『そこまで使われるようになるとは』と、過去を知る人が驚くような線にする手はないか。私なりに考えてみます。プロや学者が考えても難しい、ことをお前が、と言われても、考えるのは自由ですから。(写真*三宮・花時計前から旧居留地までの地下道、元町・春節祭、ポートタワー、みなと元町駅の改札までの通路)
2013年02月17日
今日(13日)から、「みんなの党」神戸市会議員団の政務調査員として、働けることになりました。神戸市役所が勤務先となります。とりあえずは、試用期間が2ヶ月。この間に、大きな失敗をやらかせば正規採用はなくなる契約ですから、気分的にはかなりプレッシャーが掛かってます。まあ、それでも、後がない、という気持ちでいますから、大丈夫じゃないか、とも。気力充実の時に、大きな失敗をしないのも自分の持ち味だと思ってますから。28年前の1985年。神戸市役所がある神戸・三ノ宮にあった新聞会館の2階。デイリースポーツ社で働き始めたのが私の社会人としての一歩でした。それから、約28年を経て、仕事場として神戸にようやく戻ってきた、という感じです。で、今日。「みんなの党」神戸市会議員団の政調会長である、かわなみ忠一市会議員に、政調員としての仕事として、主な新聞の記事のチェックを言われたとき。あるページで、『ああ、やはりどこか縁があるんだな』と思う出来事に出会いました。仕事の初日である今日、だったことに不思議さを感じたといえば良いのか。それは毎日新聞の7面、オピニオン欄でした。発信箱、と書かれたコーナーに写真入りで、ある記者の名を発見したわけです。名前は、小倉孝保さん。欧州総局が所属となっていました。おそらく、総局長か、論説委員のような肩書きなんだろうな、とは思いましたが。「英国の学校では体罰は犯罪だ」で始まる文章は、231対230、というわずか一票の差で1986年7月に英国下院で体罰禁止法案が成立、以後、体罰が法律上、禁止となった英国の体罰に関する現状を、きちんと分かりやすい事実だけで、小倉さんは繋いでいます。『さすがやなあ』と思いましたが、同時に、遠くまできたなあ、とも私は思いました。小倉さんは、私の大学のサークルの後輩。しかも、1985年から私がデイリースポーツで働き始めたのをみて、『あの人が出来るならオレでも出来る』と思ったに違いなく、記者志望を私に伝えてきました。その時、彼は関学大の2年生。その後、何度か、彼の作文とかを私が読む機会がありました。今の彼の立場を考えると恐れ多いのですが、「こうやった方が」とか言っていたわけです。だから、彼は就職の際、まっさきにデイリースポーツを受け内定を得ました。彼の力なら当たり前なのですが。その後、毎日新聞のテストを受け、結局はそちらに入られたのですが、その後は、中東やアメリカなど外信部で華々しい活躍を続けられ、雲の上の人(というのは彼に失礼かも。時々なりに連絡はありましたから)に。こちらが、時事通信をやめるあたりからは、音信不通になってました。それが。よりによって、この日に居場所が分かったわけで。「みんなの党」の政務調査員に試用とはいえ、雇われてなければ、そしてかわなみ議員が新聞のチェック(全ての面を見る必要はあると思います)を言ってくれてなければ、おそらく気が付いていない。そして。体罰を扱った原稿だったことにも縁を感じました。ある意味、体罰は私が30代後半から40代半ばにかけて書いた10を越える中・長編小説のテーマとして存在したものだったのですから。唯一、書籍になった「めっちゃピンぼけ」にしても、もちろん、このテーマからは離れていませんし。『遠くまで来たなあ』、今更のように小倉さんの原稿を眺めながら私は思いました。そして、そう思いながらも、またスタートラインに立てている自分の幸運さも思わずにはいられません。マスメディアを卒業、と2年前に決めた以上、前を向いて進むのみ。自分の仕事が、議員の方々のうまい助けとなり、神戸を、日本をより良く出来る方向に力添えしたと実感できる日がくれば。『遠くまで来た』ことも、感慨、とかいうセンチメンタルなものでなく、もっと力強いものとして感じられるようになるに違いありません。(写真は、毎日新聞のページ、サークルでの記念撮影=1984年=に残る 私=前、と小倉さん=後ろ)
2013年02月13日
毎度のことながら、変な時間に更新です。今日は、12日に神戸市須磨区の須磨海浜水族園で受けた「須磨ドルフィンコースト」プロジェクトの説明会から。ネットや新聞で概要とかは書かれてると思うので、私が書くのはあくまで私的な感想ということになります。須磨水族園のイルカライブショー。昨夏は、午後5時以後、9月2日まで何度でも入館できる「クールスポットパスポート」のおかげで、夕涼みがてら、子供2人(当時は3歳と0歳)を連れて何度(写真で見る限り4度は行ってます)も、最後の回を見させていただきました。おかげで、夏=イルカ、という構図が改めて私の頭の中には出来てしまったのですが、今回のプロジェクトはそのイルカのうち2頭を、須磨の海に夏の間(今年6月上旬から7月下旬にかけての間)放とう、というもの。ヨットハーバーの西の海域、と聞いて、『ああ、あそこか』と思いました。微妙に、海の家が切れた水域、地域。壁があって、それこそ、10年ほど前、「夏の支配者」という出版とかの形で発表されることがなかった初の中篇小説を、『実際に汗かきながら書かな分からへん』とか、変な理由を付けて、6月後半から7月半ばまで、雨の降らない日、プロ野球のナイター取材のある日の昼間、2、3時間書いていた場所です。今、考えるとただのアホですが。熱中症にならなかったのは奇跡ですよね。あの場所で、海にイルカが浮かんでいるのを見ながら何か書くとすると。違った発想が浮かんでくるように思えるから不思議です。絶対、そんなことはないのに、実際の気温より、涼しく感じられる気がしてならないのです。海で泳ぐイルカが、自分の生まれ故郷でもある須磨の町の活性化につながるならこんな嬉しいことはない。夏の須磨の海=ビーチバレー、という構図も最近、あまり聞かなくなった気がしますし。イルカが呼び水になって、須磨の海岸がいろんな形で注目を集めるようになってくれればいい。ベタかもしれないですが、単純にそう思います。海水浴→水族園、あるいは水族園→海水浴。元々、海岸を上がれば水族園はそこ、の立地ですから。海水浴を夕涼みに置き換えてもいいですよね。海に浮かぶイルカと夕日の写真とか、撮るのも見るのも楽しそうですし。と、本当にとりとめにない感想を書いた日記になりましたが、須磨の海が注目されるかもしれないことに『ああ、良かった』と思っていることだけは間違いありません。(写真は、昨年の須磨水族園関係のもの。活躍したクールスポットパスポート、夕暮れのドルフィンライブ、水族園からの夕闇)
2013年02月12日
3連休もあっという間に終わりましたね。先週、4日から8日まで「みんなの党」神戸市会議員団団長の大石よしのり市会議員のインターンとして勉強させて頂きました。これまで、デイリースポーツ社、時事通信社、日本ボクシングコミッションと3つの組織で27年間社会人として働かせてもらってきてましたが、その中で身に染み付いたことが生きたり、邪魔になったり、という5日間でした。まあ、簡単にいうと経験はやはりプラスとなり、慣れはマイナスになる、という当たり前のことを確認した、というだけのことですが。政治の世界は、国家を成り立たせる「司法」「立法」「行政」の3権が見事なほど入り組んでいます。それに加えて、組織のある地域、そしてそこに住む人々との係わりがあります。「何を当たり前のことを」と言われると、まさに、その通り。しかし、たった5日間に、大石議員に任された仕事、お供させて頂いた場所、お会いさせていただいた人、その全てが実態を伴ってその通りでした。この間、朝のビラ配りとか、戸別訪問(まだ未経験です)とかはありませんでしたが、政治家が自分の時間を確保する、というのも、真面目に取り組めば取り組むほど難しい、ということも確認させて頂きました。2月6日に傍聴させていただいた、「都市防災委員会」。午前、午後で合わせて4時間に及ぶ委員会でしたが、ここでは市の都市計画総局が資料として提出していた『民主党、自由民主党、公明党、自民党神戸の4会派から、改めて(中略)、配慮を求める要望書をいただいた。これを受けて(中略)開催することとした』と書かれた陳情に対する神戸市の考え方に噛み付いた(表現的にふさわしくないかもしれません)ベテラン議員の声が、会派を越えて印象的でした。曰く「(市会議員総数の)69名のうち、35名、というような要望書を書いて行ったら(要望をなんでも)聞いてくれるのか?」議会政治は、多数決で成り立つのが基本とはいえ、露骨に議員内の与党と野党を分けて、その上で与党の声しか聞かない、と取られても仕方ない神戸市の出した資料。陳情の趣旨とは関係ないことではあるのですが、『なんだかなあ』と、私も思ったのは事実です。他にも、いくつも気がついたことはあるのですが、今後、政治にこのまま携わっていく形になるようでしたら、またおいおい書かせていただきたいと思います。で、最初に書いた「経験はプラスになり、慣れはマイナスになる」ですが、はっきり書いてしまうと、調べたり分析したりは記者時代の経験そのままですから政治でも圧倒的にプラスに作用する、と実感しました。しかし、人と接する際の「挨拶」など基本を、あまり細かいことを言わない、言われない世界で長く仕事してきた私は、身に付けたのかどうかさえ、怪しいことになっています。政治の世界では、私はまだデビュー前の4回戦ボーイでさえありません。前職のJBCの前事務局長だった安河内剛さんは、「私はリングに立つボクサーを限りなくレスペクトしています」と公私、どこででも言っていましたが、これは彼がプロボクサーのライセンス(C級)を取りながら、リングに上がって戦った経験のないペーパーボクサーとして終わったことにもよります。同じことは私にも言えます。政治の世界で、某党に国政選挙の公認をもらったことはボクサーに例えればライセンスを交付されたのと同じだったと思います。しかし、リングに上がる前にやめてますから話にならない。やり切った方々に、敬意を払うのは当たり前です。長くなりましたが、ともかく、学ぶことばかり。幾つになっても学べる喜び、は十分実感してます。今後も、こんな日が続く環境に身を置けるようになれればいいな、と思えることが幸せかも。(写真は、神戸市役所の「みんなの党」の部屋のある階からの眺め、 全く関係ないけど11日に長男と家内がウォークラリーに行った高取山からの風景、 その間、私がお守りしていた1歳1ヶ月の次男)
2013年02月11日
久しぶりに、ブログを更新します。4日から8日まで、神戸市会議員でみんなの党神戸市会議員団団長の大石よしのりさんのインターンとして神戸市役所を中心に学ばせていただいたのですが、私なりに気を張る形となりまして(笑)。帰ると、もう夢の国、みたいな日が何日か、になってしまってました。5日間のことは、あした(9日)からの休日の間に書きますね。で、今日。神戸市は長田区の、神戸地下鉄海岸線の駒ヶ林駅付近で感じたことを書きます。今日書かないと、書かない気がするので。私の住まい(新長田再開発地区にあるマンションの一室です)は、地下鉄・新長田駅から徒歩約7分、駒ヶ林駅からは同約6分の距離にあります。なんで細かい数字を書くか、というと、神戸市役所内の「みんなの党」の部屋へ向かうのに、朝の1分間が非常に貴重な形になるためで(笑)。1分でも長く寝ていたい、という私の切なる願い実現のためにも、新長田駅より、ほんの少し近くにある駒ヶ林駅の存在はありがたい。しかも、こちらの方が三宮に近いので、電車の到着時間も1分間、新長田より遅くなる。都合、朝の貴重な2分間を、新長田駅へ行かず駒ヶ林駅へ向かうことで私は得ることが出来ていた訳です。まあ、そんなことはいいのですが、駒ヶ林駅で乗り降りするようになって突然、意識したのは音、音楽でした。新長田駅は、鉄人モニュメントの最寄駅とあって、おなじみの鉄人の曲が流れてきても、当たり前、のこととして気にもせずに構内を歩いていたのですが、駒ヶ林駅で鉄人のテーマ曲が流れていることにものすごい違和感を感じてしまった訳です。理由は、今日、突然気付きました。駅の壁画との兼ね合い。新長田駅の壁に描かれているのは鉄人28号で、駒ヶ林駅の壁に描かれているのは三国志。鉄人の画をバックあるいは、横に見ながら、鉄人のテーマ曲を聴かされるのは、違和感がない、どころか、勇気をもらったような気分になる。ところが、三国志の画を横目で見ながら、鉄人のテーマ曲を聴かされると、これはもう、で。まさに『違う』の世界だと気付いた訳です。人間の五感の中で、聴覚と視覚、この2つを同時に刺激する形で効果を挙げているのが新長田駅なら、ミスマッチで「?」という効果になっているのが駒ヶ林駅。そして、決定的なのは壁に描かれた三国志には、鉄人のような誰でも知っているテーマ曲が存在しない、ということだ、という結論に私は達しました。音の効用。駒ヶ林は「三国志」の街を売りにしてます。私はそう認識してます。その「三国志」に決定的に欠けているもの、それは「音=音楽」ではないのか、と。3歳のわが息子は、新長田駅から一番街商店街にかけて鉄人のテーマが流れていると、その曲に合わせて「ビルのまちをガオー」と歌うのが習慣になっています。もちろん、私はその曲が出来たリアルタイムの頃から知っている(笑)。もう50年近く生きている曲という訳です。駒ヶ林駅、そして周辺の寂しいとしか言い様のない光景を見る時、ここに「画」と合った誰でも知っている音楽があったら、違う光景もあったのかもしれない、と思います。同じ横山光輝さんなら、「魔法使いサリー」や「仮面の忍者赤影」など、最低、私たちの世代には確実になじみのある「曲」を持ったキャラクターもあったのに。街のにぎわい、を音の観点から考えた時、駒ヶ林にとって痛恨(失礼)だったのは、誰でも知っているテーマ曲を持たないキャラクターをシンボルに選んだことにもあったのでは?そう考えてる最中にも、鉄人28号のテーマが私の頭の中には流れているのですが(笑)。(写真は昨年の「三国志祭」、新長田駅の鉄人28号画、駒ヶ林駅付近)
2013年02月08日
神戸市長田区の、長田神社で行われた「古式追儺式」を初めて見に行かせていただきました。節分といえば、豆まき、の発想しかなかった私にとって、室町時代から約650年間続いている、という、重要無形文化財にも指定されている神事は、興味の的だったのですが、今日は家族(家内、子供2人)が一緒だったこともあって、ずっと見ている、というのは残念ながら出来ませんでした。大体、1歳、3歳の子供に合わせると、スタートから「もうほんまに」という感じで。1時に現地にいるつもりが、3時半着ということになってしまいましたし。でも、追儺式の魅力は十分に味わえました。長男を、よく見せてやろう、と肩車して前で見せたら、あまりの迫力もあって「怖い」と、後ろ向きに。以後、前の方で見ることは出来ませんでしたが。中抜けもありましたが、大体6時半の、最大の見せ場という「餅割りの儀」まで、自分の住んでいる場所の近くでこういう、格式のある儀式が見れる、ということに感謝。厄除けのうどんは、すでに完売で食べられませんでしたが、厄除けの餅はしっかりといただいて参りました。それと、厄除けの割り符。3度息を吹きかけて、真ん中からバキっと割るのですが、これ気持ちいいのよね。ということで、今年は家の中での豆まきはなし(笑)。あしたからは某所で、今後の生き方に大きく作用すると思われる実習に入ります。厄除け、が生きることを祈るばかり。(写真は、追儺式、食べられなかった厄除けうどんの掲示、 途中で抜けた時に街中で見つけた儀式の紹介写真、厄除け割り符)
2013年02月03日
夜中ですが更新します。 先にどこに向けて発信してるのか、神戸市の広報への疑問に関するシェアをしましたが、私もひとつ。 手元にある、フリーペーパー。名前を「2011SHIN-NAGATA STREET BOOK」(新長田ストリートブック)といいますが、1年半ほど前、須磨から新長田へ転居を考えた時に、新長田再開発地区にあったモデルルームでもらったものです。16ページの中に、長田の由来から始まって、祭り、鉄人、三国志の横山光輝の世界、靴、映画、グルメ、商店街、などなど、ほぼ新長田の再開発地区の文化、衣食を網羅している我が家にとって掘り出し物のタウンガイドとなっています(家のまん前にある菊水温泉も紹介されてる)。 で、このフリーペーパー、どこを見ても、編集、発行人の名前がない。裏表紙にあるマンションの広告に、神戸市、名鉄不動産、長谷工コーポレーションの名前があるので、そのどこかか、全てが作ったという想像は出来るのですが、実際には分かりません。 手に入れてから1年半を経た今も、我が家にある新長田地区限定のガイドブックはこれだけ。というか、本当に重宝していてこれしかいらない、と言っていいぐらいですね。 我が家大推薦のこのフリーペーパー(ガイドブック)、発行人が分からない以上、新しいものがあるのかどうかも分からない。まあ、その気になれば長谷工コーポレーションとかに聞くでしょうが、今は必要ない。ただ、おススメショッピングとして載せられている琉球ワールド沖縄宝島と大丸新長田店が無くなるなど、やはり状況は変わってますから、新しいものがあるなら手に入れた方が便利なのは確か。 で、こういうものを神戸市が「再開発」を謳うのであれば、きちんと毎年作って、JR新長田駅や地下鉄の駒ケ林駅に置くだけで、訪れた人への大サービスになるのは間違いないと思います。少なくとも、私と感性が近い人には大いなる助けになります。 街に住んでいる人、あるいは訪れた人向けならこういうフリーペーパーの活用が実は、非常に効果があると私は思います。駅ごとに、「街の魅力発見」(新長田ストリートブックの表紙にある文句、そのまま)を謳うしっかりしたものがあれば、立派な広報になる。実際には、私が知らないだけで、とっくにやってるのかもしれません。ただ、新長田に限ると、引っ越してきた昨年9月から今まで、そういうまとまった無料配布のタウンガイド、にはあたっていない(MAPなどはありますが)。 観光も含め、神戸市が街の魅力を売りにする、というならこれぐらいまとまったタウンガイドを街ごとにフリーで配布するのも手として悪くないのでは? すでにやっていて、私が知らないだけの可能性はあります。もし、そうでしたら、先に謝っておきます。すみません。まあ、とりあえずジャーナリストの看板は降ろしてるので許してください(笑)。 (写真は全て「新長田ストリートブック」から)
2013年02月02日
今日も、やわらかい話題です。昨夜は、神戸市須磨区の「創作DINING NENGOROYA」で行われた「日本酒を文化として語り味わい学ぶ会」に参加させていただきました。昨年12月末まで、私自身、約5年間、禁酒していたのですが、なんだかふとした気の迷い(笑)、である人と一緒の時だけは禁酒を解くことを決めました。その、ある人も参加されていたので、この会ではめでたくお酒OKで。日本酒自体は、正月のお屠蘇も含めて2008年以来、飲む形になりましたが。店の雰囲気、入れるもの(グラスか、お猪口か)、一緒に飲むメンバーで味の感じ方が見事に変わることを改めて確認しました。というか、グラス系のものに日本酒を注ぐ、ということ自体、初体験だったのですが、これ、本当に味がワイン風に思えてしまうから不思議で。お店が、場所的にも隠れ家といえる、洒落た内装を持ったところだったのもお店が、場所的にも隠れ家といえる、洒落た内装を持ったところだったのも“ほんとならデートスポットなのにな”と、私に思わせるに十分でした。12種類の日本酒がテーブルに出される形だったのですが、帰りに一緒に参加した方々に迷惑をかけるのが嫌だったこともあって、8種類目を飲んだあたりで、新しいものを口にすることを私は断念。だから、飲み比べ、は出来てません(笑)。適度に酔って、気持ちよく話して。飲み会って、こうだったよな、と久しぶりに昔を思い出した夜。少し遅れた報告になりましたが、楽しい今年一月の最後の夜でした。(写真は出された日本酒のボトルとお店の中。とても日本酒と思えないラベルを持ったお酒もありました)
2013年02月01日
今日もゆるやかな話題です。 「みんなの党」、神戸市会長田区支部長の杉原秀幸さんの招待で「神戸オフィスフェア」 (神戸サンボーホール)へ行ってきました。 ひとりで、オフィス用品を見に行ってどうすんねん、と思っておっかなびっくりで行ったのですが、これが意外に楽しめました。新商品の見本市、みたいなものでしたので、 気に入ったものがあったからといってそこで買える、と いうわけではなかったのですが、どうしても欲しい、と思ってしまったものもありました。 プラス(株)の、デコレーションローラー、デコルノ。 元々は、個人情報の保護で、ローラー式スタンプと して情報削除用だったものを、デコレーションスタンプに転用した商品だそうで、係りの人は「人気商品になってます」と胸張ってましたが、そうだろうなあ、と。 近くの文具店で買ってください、と言われた ので近日中に、スギハラ文具で購入する予定(笑)、にしましたが、この一個数百円の ものを、あるプレゼントにしようと考えた私も、私。いや、オレンジ色のケーキが3種類、次々に印刷されるのかわいくて。 で、何のプレゼントにしようとしたのか、といえば、1月31日は5回目の結婚記念日。今の家の状態では、出来れば子供(1歳と3歳)が遊べるものがいいに決まってる。 需要と供給のバランスが取れてると思った のですが残念(笑)。 まあ、長男はサンプル品でもらった、トムとジェリーの算数学習ノートが訳もわからんやろうに、お気に入り みたいだし、1000円で置いてあった福袋はびっくり するぐらい中身が充実していて、チャリティーしてもらった のはどっちだ、というぐらいいい気分になりました。 なんだか、柔らかすぎる話題ですね。こういう日もある、ということで お許しを。 (写真は会場外、手に入れそびれたデコルノ、ノートと戯れる わが長男)
2013年01月30日
29日。神戸市中央区での川崎重工神戸造船所 進水式に来させていただきました。 パナマ籍の「EASTER K」。 全長約197メートル、幅約32、2メートル。 総トン数 3万3千5百トン。 イベントにお誘いいただいた(私は直接は大石よしのり神戸市会議員さん からでしたが)方の説明のおかげもあって 単純に「見ました」という形にならなかった のも嬉しかったです。 小さい頃から、父方の祖父、父、と三菱重工業神戸造船所 で働いていたこともあって、神戸は造船、のイメージは強かった のですが、現実に、船がはじめて海に浮かぶ瞬間 など見たことがありませんでした。 それだけに、こんな機会をもてた ことはありがたかった。 あっと言う間で、静かでした。 セレモニーの音はありますが、肝心の船は、滑らかに 地上から水面に降りていく感じで。 あっけない、といっていいぐらい。 この大きな、重い船が、という感じでした。 ともかく、写真は載せておきます。 パナマ船らしく、パナマ運河に合わせた 幅(32.26メートル)という説明も聞きましたが、 なぜかそれが私には一番「そうか」と思えました。 幅が大事、ってあまり考えてなかった ことでしたので。 (写真は上から船名が隠れていたのが外されて、進水です)
2013年01月29日
また、夜遅くなりました。今日は、唯一の趣味といっていい映画の話をさせてください。26日の夜、先の衆議院議員選挙で兵庫2区から無所属で出馬した五島大亮さんのお疲れ様会新年会に顔を出しました。最後まで戦わず、途中で降りた私と違い、不利を承知で戦い切っただけに、ほんとうにさっぱりしたいい顔してられました。単純に、いいなあ、と思いました。五島さんのお疲れ会から帰って、衆議院議員選挙を振り返った時、かつて見たあるフランス映画のことが頭をよぎりました。タイトルを「ルシアンの青春」といいます。今は亡きルイ・マル監督の1973年の作品。これを初めて見たのは1976年の暮れ。なくなって35年になろうとする神戸元町(ジェムビルのところ)にあった、元町映劇で、でした。当時の私は15歳。主人公で17歳のルシアンよりも若かったのですが、見終わったあと衝撃で椅子からしばらく立てなかったのを覚えています。ルイ・マル監督の映画は、これを含めて再三、椅子から立てない感覚を与えられましたが(高名な老境に差し掛かる政治家が若い女性に溺れてとてつもない結末を迎える「ダメージ」を1993年にアメリカのアリゾナ州フェニックスで見た時は、ショックのあまりパスポート入りのポーチを席に忘れて帰ってエライ目に合い掛けた)、今、思い返してもこの映画の衝撃が、マル監督作品の中で私にとっては最も大きかったのではないか、と考えます。第2次大戦末期のフランスが舞台。レジスタンスに入るのを、年齢が若いと拒否された少年が偶然の産物でゲシュタポの手先となり、フランスと言う名前のユダヤ人少女を気に入るが…、というお話。時代背景を考えても悲劇的な結末は目に見えている映画でした。なぜ、この映画が先の衆議院選挙とだぶるのか、というと“なんの情報もなく善悪が判断できなかった”17歳のルシアン青年の状況が、悲しいかな51歳の私の状況とあんまり変わりなかったな、と思ったからで。もちろん、51も歳を取って「善悪の判断が出来ない」は通用しません。だから、ルシアンが肯定的に見られるのとは違い、私の方は逃げる余地はありません。情けない話、というだけです。ただ、偶然で思わぬ方向に転ぶ、という点でルシアン青年と自分も同じだったなあ、と思うわけです。政党の意味、選挙区の意味、日ごろの政治家の活動。何も分かってなかった。ルシアン青年、というかルシアンとかかわった者も含めて「ルシアンの青春」という映画には救いは用意されていません。年齢に係わらず、「善悪の判断ができていなかった」ことで、時代はもっとも厳しい処遇を彼らに与えます。ルシアンを演じたピエール・ブレーズという俳優はこの映画の2年後、交通事故で亡くなっています。つまり、僕がこの映画をはじめて見た時にはすでにこの世にいなかったということになります。この映画に出るまでは、木こりだったというこの俳優さんにとっては、この映画だけが俳優としての証となったことになります。ルシアンに与えられた状況との相違。幸いなことに、私の場合、戦争下での判断ではありません。だから命を取られることはなく済んでいる。これは、幸運なことだと思ってます。しかし考えたくないことですが、ブレーズという俳優と同じく、交通事故にあったりして不慮の死を突然、迎える可能性はあるでしょう。それだけに、一日でも早く「善悪」が完全に把握できる状況に自分をもっていきたい。それは間違えても、机上でやることでない。自分の足でしっかり地面を踏みしめながら、人と顔を合わせながら理解していく。そうやっていけば、いずれこの世界でも無知ではなくなると思います。先の衆議院議員選挙の顛末、とかいうものを語ることすら必要なくなる日。その日が来れば、それは、生きている幸運を生かした証になると今は信じて。
2013年01月27日
また、更新、遅れて済みません。今日は、海の向こうタンザニアに赴任されているJICAの友成晋也さんのFACEBOOKを覗いた時に、目に飛び込んできた嬉しいニュースの話。アフリカのガーナに本格的な野球場が、日本政府の支援により整備されることが正式に決定された、というニュース。体の中の血がすっと引いたり、上がったり、という状態に読んだ瞬間、私もなりました。すごいものを見たり、聞いたりした時に起こる生理現象が起こったわけです。NPO法人「アフリカ野球友の会」の代表理事でもある友成さんは1997年にガーナナショナルチームの監督となってから、シドニー五輪予選で同チームを奮闘させる(その過程は友成さん自身の書かれた「アフリカと白球」=文芸社=、に詳しい)など、アフリカでの野球普及に尽力を続けておられます。2004年、プロ野球の広島カープがガーナ代表チームに支援を行ったことを知って以来、私もそこから数年間、活動をあくまで取材者としてみさせて頂く機会がありました。野球の国際的普及。私もそれに少しでも貢献できれば、と夢描いてました。1990年から細々、なりに心に秘め、時には行動し、で。オリンピックに野球を残すため、2004年は各所に飛びました。南アフリカ、台湾、中国。報道する側で、オリンピックでの野球存続に関して継続的に興味を示していた人が、フリーランスの記者を除けば本当に少なかった。危機感がなかった、というべきか。有給休暇を使って行った取材先のどこでも、日本人記者はほぼ私ひとりでしたから。「アフリカ野球友の会」と友成さんのことを知ったのも、南アフリカで野球を教えていた日本人青年に出会ったからでした(彼とは不思議な縁があり、昨年、衆議院議員出馬を考えた時に、選挙区の徳島に偶然にも彼はいて少なからぬ協力をくれました)。私の野球の国際的普及への熱は、2005年7月に昨年開かれたロンドン五輪から野球が外された時に、残念ながら冷めてしまったような気がします。そして2006年5月に、五輪をはじめ、野球の国際的普及に人生を捧げたといわざるを得ない山本英一郎全日本アマチュア野球連盟副会長が亡くなって決定的になりました。山本副会長が存命の時、私に口すっぱく言っていたのは「アフリカと中近東に野球を普及させることが五輪に競技を残すための重要課題」(自分の書いた、2004年9月の「世界週報」特集“ウガンダの少年”、戦場カメラマンの下村靖樹さんと共述、から抜粋)というものでした。にもかかわらず。2006年12月、中東のカタール・ドーハで行われたアジア競技選手権大会で、野球の全日本チームが雨の中、台湾に負けて準優勝となった時に、亡くなっていた山本英一郎さんに贈る文章(自分で思っただけですが)=神戸新聞が使っていましたので、たぶん兵庫県の図書館ではまだ読めると思います=を書き上げて、全てが終わった気になってしまった。友成さんが山本さんと係わったのはほんの一瞬だったのを、私はよく知ってます。だから、友成さんは山本さんの遺志を継いでいるわけではない(断定は出来ないですが、違うはずです)。友成さんの心の奥にある、野球という競技に対する情熱が原動力だと思います。野球が五輪に戻る日が来るのか、どうかは知りません。ただ、私のような怠慢な取材者は熱が醒めた、といって舞台から引くことが出来る。それに比べて…。友成さんは、最初に述べたように私のFACEBOOK友人としてまだいて下さってます。アフリカ野球友の会、のFACEBOOK上のページがあるのも、恥ずかしながら今日知りました。アフリカの「フィールド・オブ・ドリームス」を実現させたのは、映画じゃないんだから、友成さんらの地道な行動以外にない。もっと、伝えたいことはいろいろあるのですが、このあたりで一区切りにします。(写真は、南アフリカでの野球風景。こういう草野球の ような風景がアフリカの野球事情と考えていただいて いいのではないか、と思います=ケープタウン・テーブル マウンテンがバック)
2013年01月25日
深夜になりましたが、更新はしておきたい、と思います。今日は、自分の住んでいる周辺のことで気になったことを記します。神戸市の須磨区から長田区に移り住んで約5ヶ月。最初は、利便性の良さ、物価の安さなどいいところばかり、目に付いてましたが、ここへ来て「あれ?」と思ってしまうことがチラホラ目に付き始めました。その最たるものが、店の閉店。それも、街(新長田)のシンボルともいえる店の閉店が相次ぐことです。昨年の晩秋に、ジョイプラザ=大丸の閉店を初めて聞いた時、「街(新長田)の玄関なのに」と残念とかを通り越して、びっくりしたのに続いて、今度はその近くにある「琉球ワールド」が閉店になる、とのことで。時事通信時代、転勤先の広島から神戸に戻ったのが2005年。その年あたりだったと思いますが、新長田に琉球ワールドが出来た、と聞いた時は本当に嬉しくなりました。プロ野球のキャンプ取材で、1988年以後、ほぼ毎年のように2月に訪れていた沖縄。いやでも、親しみはあったわけで。何で神戸に、とか理屈はどうでもよくって、ここへ行けば沖縄が味わえる、というのが僕の楽しみのひとつにもなってました。須磨から新長田へ越してきたことで、親しみはもっと深いものになっていたのですが、それがなくなる、と聞くと、正直に「もったいない」という言葉が心に浮かびました。琉球祭もそうなのですが、沖縄県自体を除いて、日本で最大規模の沖縄物産専門店だった「琉球ワールド宝島」もなくなるわけなので。中にある「空」という食堂でのライブ、とか、ここでしか味わえない、というものも全てなくなってしまうと思うと、これは、という感じで。神戸にいながら沖縄が味わえる、というのが定着してたのに、と思うと残念を通り越した思いにかられます。鉄人広場で夏場やってたイベントもどうなるんだろう?いや、新長田だけでなく、神戸の売りになってたんじゃないか、と僕は思います。いろんな事情はあったのでしょうが、街の象徴、といえるものになっていただけに、それでいいのか、と今も思ってます。大丸と琉球ワールドが消えることで、“どうなるんだろう”と新長田という街のことが今、心配でなりません。おそらく、私と私の家族は、今後、よほどのことがない限り、この地を離れることはない。これがあるからここはいいところだ、と勝手に思っていたものが、ほぼ時期を同じくして2つも消えるとは。詳しい事情は、新聞記者でもうない私には分かりません。ただ、こうなった流れと、今後、街をどうしていくつもりなのかは知りたい、と思います。街のシンボルというべきものが、災害が起こったわけでもなく2つもほぼ同時に消えるのは尋常ではない。長田で最も全国に通じるシンボル、鉄人モニュメント、が、この2つが消えることで“丸裸になったなあ”と思ったり。自分の今住む街が、元気、と逆方向に向かってるんじゃないか、と心配になるのはおかしなことではない、と思います。さて、どうするか。今の私の立場では見るだけしか出来ないのかもしれません。しれませんが、ともかく状況を正確に把握はしたいです。それが出来るか?まあ、やってみないと分かりませんしね。(写真は、昨年の琉球祭、それに、ブログ初公開の3歳のわが息子=長男=が、 大丸<ジョイプラザ>と鉄人をバックに、イベントでもらったお好み焼きを 食べてるもの、と「琉球ワールド」閉店の告知)
2013年01月24日
昨日は、「みんなの党」、神戸市会議員の大石よしのりさんのサポートで、神戸地下鉄の名谷駅に立ちました。昨夜、更新しようと思ったのですが、そのまま机で眠ってしまいました。まあ、そんな日もあります。大石さんを含む、一緒に立たれた3人の方には特に失礼しました。「みんなの党」の大石さん、杉原さん、それに神戸市長選で前回惜敗された樫野さんと政治家3人の方の駅立ち、ビラ配り、ポスティングなどを、こ22日間で、12日間行ったのですが、何事もやってみれば感じることがあり、考えることがある、でした。たとえば、ビラを配れば。JRの「須磨海浜公園」駅は南北に駅からの昇降口がありますが、ともかく取って頂ける。ターミナルになっている大きな駅(地下鉄とバスの「名谷」、地下鉄・JRの「新長田」など)では、どっと同じ時間帯に人の波は来るのですが、朝。出勤時の慌て方は、いつも時間ぎりぎりの私などもよく分かるところで。チラシ配りの人のことなど見てないのは当たり前といえば当たり前なのです。だから、人の波が大きいほうが、ビラ配りは難しい、と思います。でも、取ってくださる方は必ずいますから、効果がないのか、といえばそんなことはないのですけどね。あと、「立つこと」でいえば声ですね。14日の成人式にヴィッセル神戸の本拠地、ホームズスタジアム前に立った時に思いました。雨で予定していたチラシ配布が中止になったのですが、その代わりに樫野さんのポスターを掲げ、声を張り上げたのですが、これ、反応あったように思いました。新成人の何人かの方とは、まさにアイコンタクト、あるいは会釈で「人と人」としてのつながりが生まれていたような気がします。彼らのどの程度が、実際の選挙に来てくださるのかは分かりませんが、「あんなのもあったな」と思い出して下さることは、ある、と思います。やはり、成人式って一生に一度の日ですから。樫野さんもあとで「手ごたえがあった気がする」と、私が思ったのと同じ感想を言ってましたので、間違いなかったのかな、と。余談ですが、この応用を、21日に妙法寺に立った時にやってみました。この日は雨で、まずチラシは取ってもらえない、なら声。これも、効果があった気がしました。私を市議会議員と間違えて「ようやってるなあ。君らのような、若いもんに期待してるで」と、少し年配の方に声を掛けられたのもこの日でした。町の様子に関してももちろんなのですが、これについてはこれまでも書いてきてますし、今後も続けて記します。長くなりそうなので、このあたりで。あと、報告をいくつか。「みんなの党」の一般党員になったことは先日、写真で記したとおりです。それと、12月半ばから、職業トレーニングを有り余る時間を使ってやっていたのですが、それが逆に時間を圧迫してきたので、途中ながら見切りをつけることにしました。それと、衆議院議員選挙の出馬をやめる直接の理由となったネットの中傷の件ですが、今年に入ってから警察の方の協力もあっていくつか解決しました。「名誉毀損」に関しては、すでに告訴を警察が受理してくださっているものも含め、現在、捜査などが進行しているものと思います。刑事さんの動きまでは私には分かりませんが、ネット上で起こっていることをみれば、私にとってはありがたい方向になっているのではないか、と考えています。いずれにしても、民事でなく刑事の世界です。警察の方が、私の言い分を全部でないにせよ、かなり認めてくださった結果だと思ってます。事実無根の中傷、が証明される日はそう遠くないと信じてます。現在、警察に扱ったもらっているものは名誉毀損がひとつ(受理済み)、公職選挙法と名誉毀損で保留(こちらが提出すれば受理が決まっているもの)がひとつずつ、それ以外にもあるのですが書けるのはここまでです。捜査に入っているものもあり、事情を聞かれた方もおられると思います。しばらくは迷惑、お掛けします。以上です。本当に、長くなった。昨日、更新できなくてすみませんでした。(写真は22日早朝の名谷駅)
2013年01月24日
今朝は神戸地下鉄の「妙法寺」駅に立ちました。 「みんなの党」、神戸市会議員の大石よしのりさんの サポート。雨でビラを取ってもらおうにも、取ってくれる側 も両手が塞がって、という状態でしたから。 で、今日は、ともかく、声を出しました。発声練習よろしくで。 「みんなの党」となんど言ったか、でした(笑)。 昨夜の「関西運動記者クラブ」総会。 これも顔出して正解でした。やはり、昨年末の選挙の ことがありましたので、行くのはどうかな?と 思っていたのですが、少なくとも顔の見える 位置ではみなさん、暖かく迎えてくださって いたように思いました。持つべきものは、仕事仲間。 BINGOゲームもあったのですが、真ん中が フリースペーズというのを忘れてました。 記者クラブ幹事の、産経新聞の中野君が なぜか僕の手伝いをしてくれて、空けてくれてたのに、 真ん中に注意がいかず、トリプルリーチと なっていたことに気付いてませんでした。 当たっていたのかもしれませんが、なんとなく 当たらないほうが縁起がいいな、と思って たのでこれでよし、と。 今日は、全くとりとめもない日記ですが、 今日一番嬉しかったのは、バッジが届いたこと。 何のバッジか、って? 写真、お見せします(笑)。 (写真は妙法寺駅、ビンゴカード、バッジ)
2013年01月22日
遅くなりましたが昨夜(19日)、お邪魔した、神戸は三宮郊外で行われた風変わりな「コンサート」のことを書きます。タイトルは「gracias a la vida」(生きてることに感謝して)というものでした。FACEBOOK友だちの歌手、山崎小夜子さんにFACEBOOK上で招待されて行ったのですが、時期的に勝手に“震災復興のためのものなんだろうな”と思いこんでいました。たぶん、これは違いましたね。どういえばいいのか分からないのですが、アットホームな音楽会、気持ちを暖かくしてくれる会といえばいいのか。観客と一体、という謳い文句のコンサートはなんども経験してますが、今回ほどそれを感じさせてくれた会はありませんでした。そう。一体感。演じる側も、見る側も、同じ空間にいて同じ時間を過ごしている、というのをずっと感じさせてもらった2時間でした。最初のピエロの縁起の際に、2歳に達していないであろう男の子がステージ近くに登場した時に、それは予見できました。“この男の子の母親はどこにいるんだろう?なぜ、こんなにこの子はおとなしいんだろう”と、ステージとともに、観客席の最前列に気を取られた瞬間から、それは始まっていたといって良かったと思います。学校の教室のような会場に、50人もいなかったであろう観客。でも、その規模がほんとうに心地よかった。男の子の母親が登場し、アコーディオンを演奏し、男の子もステージで小さなアコーディオンを握る。そこまでの流れで、もう私など完全に一体化させられていたといってもいい。途中。場内で販売されていたおでんを食べれる時間も、またなんとも言えなくて。まさか、コンサートの途中で、須磨区の板宿産のおでんがあれだけ食べられるとは(笑)、でした。私を誘ってくださっていたトリに登場の山崎さんの声も素晴らしかった。ピアフとセルダン(ボクシング通には泣ける名前。「レイジング・ブル」との絡みを考えても)の一筋縄ではいかなかった男女関係をきちんと自分なりに考えて、アレンジされた、というのは凄いな、と。だって「愛の賛歌」って、日本では普通、タイトル通りに愛を歌い上げた歌って思われてますから。違うのに。震災復興、というのはいろんな意味合いを含んでいると思います。タイトルにそううたってなくても、人の心を暖かくさせてくれたり、優しい気分にさせてくれるならば、それは十分、聞きに来たその人の心にとっての復興となります。昨夜、私はそれを十分に与えて頂きました。その気持ちが、どれだけ持続できるのか、それは私の心の持ちようだと思っています。(写真はステージ前で待つ男の子を捉えたものと、山崎さんのもの)
2013年01月20日
20日の早朝、3時、というか、19日の深夜という方が正しいですね。なんだか、時間が経つのが早くて寝れてません。19日は昼過ぎから、前回の神戸市長選挙で惜敗された、樫野孝人さんの「神戸リメイクプロジェクト」のサポート。神戸市長田区の房王寺町等で少し動きました。神戸市の魅力に眺望があるのは、私が語るまでもないのですが、それを生み出しているのは、いつか語った須磨区の潮見台町と同じくで、海と山が極度に接近した地形が生み出した産物といっていいと思います。しかし、それに伴ってというか、高台に行くと突然、鉄道を中心に利便性がなくなってしまいます。19日に回った辺りより、北の鵯越(兵庫区)に住むことを検討したことも私はあるのですが、断念した一番の理由は、交通の便でした。1994年の頭、垂水区の名谷との比較をしたのですが、決め手となったのは夜の電車の接続。1994年はプロ野球の阪神の取材がメインとなることが決まっていました。ナイターが終わって、プロ野球でも人気球団である阪神タイガースを取材し原稿を書く。早くても、西宮にある甲子園を出るのが夜の10時半ぐらい。これだと、阪神・甲子園から新開地まで来て、神戸電鉄への乗り換えの最終(当時、10時半ぐらいでした)に間に合わなかったわけで。いかに、夜景が綺麗に見えるマンションでも、帰りが毎日タクシーというのはありえない世界。なので、住むのは断念しました。名谷は、神戸地下鉄のおかげで、三宮に12時近くに居さえすれば電車で帰れましたし、遅れてもJRの垂水駅まで出ればなんとかなる、という感じでした。いや、だから、代わりのバスを同じ時間(午前零時ぐらいまで)走らせてくれればいいのですが、それが今の状態で難しいのは私にも分かります。分かるのですが、もう少しどうにかならないのか、と思い続けているのも事実なのです。六甲に限らず、神戸のちょっとした坂、山の上からの眺望はかなりのものがあります。住まわれている人以外、ほとんど知らないような場所でも、実は見事な風景がゴロゴロしてます。交通の利便性をもう少しなんとかすれば、眺望を売りに出来る場所が、まだまだ神戸市内にはいくつもある。たぶん。今日、約2時間半をかけて、神戸電鉄の長田駅から地下鉄の上沢駅までずっと続く坂道を降りながら考えたことがこれでした。(写真・神戸市長田区の大丸山公園からの眺め遠景と近景のバランスの悪さがすべてかな?実際には、もっと突き抜けた綺麗な風景に見えます=ケロヨンはおまけ=笑)
2013年01月19日
昨日は、いつの間にか眠ってしまい朝。出来る限り毎日、更新しようとしてるブログですが、難しいですね。で、昨日も朝は「みんなの党」、大石よしのり神戸市会議員のサポートで神戸市は地下鉄「妙法寺」の駅に立ちました。まあ、寒いんですが、寒いのはこの時期、当たり前。それより、配っている「市政報告」のビラ、どれだけ取ってもらえるか、の方に気がいきますね。それにしても、昨日は、一挙にいろんな問題が解決に向かいました。来週のどこかでこのブログなどで報告するつもりですが、いいのか、悪いのか、玉虫色も仕方ない、と自分でも思えるものもいくつもありました。役所や警察通いも、まあひと段落つくと思います。で、朝の6時前から動いた日のひと段落した時間が夜の9時少し前。ここで、家の近くにある、ある「BAR」のマスター(この表現でいいのか)がネットのあるページに「アンニュイな気分」と書き込まれていて。“ああ、今日はお客さん、来ないな”とJRの新長田駅のホームで思った私は、なぜか店に行こう、と思ってしまいました。お酒を、限られた人と(本当に信頼しているひとりの方がおられる場以外では、飲まない、と今、決めてます)しか、飲まない、という自分との約束を守っている私は、当然、ひとりでは飲みません。だから「BAR」などへ行っても、本来は迷惑な客です。でも、行きたくなってしまって。行ってみると、お客さんは予想通りで、私だけ、という時間が約2時間。もちろん、ノンアルコール(笑)。でも、マスターには迷惑だったのかもしれませんが、楽しかった。なんだかんだ、一昨年の4月からゴタゴタに巻き込まれて、ゴタゴタはどんどん膨らんで「なんやねんこれ」と思っていた私には、考えたら家以外の居場所はなくなっていた気がします。そういう意味で、家以外の居場所がひとつぐらい、の甘えが私の心に芽生えていたということかもしれません。今後のことは、何も分かりません。50歳を越えて、そういう状態になれる、というのはある意味、自分ではいいことだと思ってます。沢木耕太郎さんの、私が20代前半に読んだエッセイにあった「地図を燃やす」という言葉。目の前にはっきりと見えていた地図を、一昨年、確かに私は燃やしました。おかげで。いつも明晰に。そして、目の前には「どちらか」の選択がいつも今、並んでいる。こんな楽しい人生、ありますかいな。ひとついえる事は、振り返っている暇なんか、ほんまにありません。それでも、まあ。居場所のひとつぐらい、あっても罰は当たらない、と思ってます。(写真は、朝の「妙法寺」駅。近くに住んでいたのに、降りたのは この日が初めてでした)
2013年01月19日
今朝は、11日に続いて、板宿に立ちました。「みんなの党」、神戸市議会議員の大石よしのりさんのサポート。その大石さんですが、「1・17」に関して、大石さんは「震災の日」と簡潔に表記されてます。僕は、これは正解だと、心底思ってます。「記念日」とか、メモリアルなんとか、というのは馴染まない。2004年に、ルワンダへ行った際、虐殺された方々の遺骨を並べてある場所を「虐殺記念館」と日本語で表記するしかない英語(いわゆるメモリアルです)表記だったことに違和感を覚えたのと同じです。災害、人災は「記念」するべきもんじゃないですから。で、今日。何ヶ所か、時間がある限り足を運んでみました。というかまずは自分の家。マンションのある神戸市長田区の久保町は、18年前に地震後の火災の影響で、焼け野原になった地域です。当然、私の今の住まいも、そこから復興して建てられたものです。今日、近所の大正筋商店街で行われた「豚汁」の炊き出しサービスに行った際、そこに展示されていた写真に、焼けただれて崩壊した今、自分が住んでいるところにあったマンションなどの姿も確認しました。だから、どう、ではないのですが、今の区画整理が出来て、綺麗になっている久保町からは想像出来ない姿でした。“震災があった”と聞かなければまず、今の街の様子では分からない。まあ、自分なりに今日は考えてみようと思って元町の旧居留地へも行きました。震災当時、ここにある、商船三井ビルディングに、時事通信社の神戸支局はありました。スポーツ畑の私も、当たり前ですが、普通の社会部の記者に交じって取材にあたりました。商船三井ビルは、知る人ぞ知る、歴史的建築物ですが、あの当時、ともかく、窓ガラスが破れていて、ふきっさらしの状態。支局は2階にあったのですが、暖房などもちろんなし。でも、本当に、寒かったと思った記憶がありません。やはり、精神状態も含め、臨戦態勢だったのだと思います。1月20日あたりから、プロ野球・オリックスのキャンプ取材に入るまでの間、ここが仕事の拠点となりました。トイレもまともに使えなかった。何日かしてから、ビルの元町よりの対面に簡易トイレが置かれて、ほっとしたのも覚えています。街中、ゴミ箱みたいな状態だったけど、公衆道徳はボクに限らず、会社近辺の方々はきちんと守っていたのが記憶に残ってます。いや、水で苦労したの、今思い出した。よぶんな水、飲めなかったし、使えなかったですよね。で、長くなりましたが、今は大丸のインテリア館に使われているそのビルディングへ。瓦礫がごろごろで。「これだけの人が亡くなる災害取材に君がかかわることはもうないと思うけど、よく見て覚えとけよな」と、東京から来ていた社会部のデスクに、いったん、取材から離れることになる日、ビルの前の瓦礫の山の中で言われたのも鮮明に覚えていて。不謹慎かどうかは分かりませんが“戦争映画の一コマみたいだな”と思ったのも思い出しました。当時の取材に関してのことは記しません。いろんなものを見、聞き、したのは当たり前です。私も広義では罹災者になると思いますが、そんなもの言ったら笑われる、の世界。心が痛む、とかいう表現を簡単に使ってはいけない、と思ったのは記します。そして、それは、記者を卒業した今も変わっていません。永久に変わらないでしょう。今日の最後は、新長田の駅前。ここは、夕方からキャンドルに火がつけられ並べられてました。時間が経つにつれて、風が強くなり、点けたもの点けたもの消えていく状態になってましたが、ボランティアの方々が辛抱強く点けているのを見てると、突然、人のつながり、って、と思ってしまいました。東北地方の「3・11」も係わったかたにとってはそうだと思いますが、神戸(阪神・淡路)の「1・17」も。生きている間、私が意識せずにこの街(神戸)で生活していくことなど不可能です。それを前提として、街がよりよくなるように、携わっていくことを残りのライフワークにすることだけはここに記します。(写真は、新長田・大正筋商店街の「豚汁の炊き出し」、簡易トイレのあった 位置から見た商船三井ビルディング、新長田のキャンドル)
2013年01月17日
今朝は、「みんなの党」の神戸市議会議員大石よしのりさんのサポートで神戸は須磨区中落合にある、地下鉄「名谷駅」に立ちました。朝。予定よりも約30分早く着くエクセレントな状態だった私は、久しぶりに「名谷駅」近辺を散策。1994年から2001年まで、隣の「総合運動公園」駅から徒歩10分のところに住んでいた私にとっては、懐かしい風景って感じで。しかし今朝、一番、心の奥底から「あの時は」と思ったのは、須磨パティオに入るまでのところに建っているユニバーシアード神戸大会の記念モニュメントでした。名谷地区を中心に行われた27年4、5ヶ月前の国際大会。ああ、そうだった、という感覚。1985年。社会人として一年目の24歳。デイリースポーツ社の記者だった私は、担当させられていたプロ野球よりも、一般スポーツ、五輪につながる競技に興味がありました。今、考えると、実に大胆なのですが、1985年に行われたユニバーシアード神戸大会に「どうしても取材させて欲しい」と、再三、デスクと掛け合った記憶があります。プロ野球で使いものにならない、と思われかけていた私に当時のデスクは何度か、ユニバーシアードの取材の機会を与えてくれました。あとで、そのデスクに聞いた話では「どうせ、記者としては使いものにならないから、整理部か校閲部へ行かせる前になんかやらせといたろ」の感覚だったそうですが(笑)。そんな裏事情はどうでもよく、私は何度か与えられたユニバーシアード神戸大会の取材の機会、本当に宝物を与えられたかのごとく、嬉々として取材し、原稿を書いた覚えがあります。男女同時スタートのマラソンで、女子優勝者の深尾真美さんに神戸大橋の付近で抜かされた当時の男子マラソン、日本のホープのこととか、鮮明とまでは言わないけど、きちんと記憶にあります。そんな中で、ボクが自分でもいまだに、書いた原稿の中で臨場感、という意味で一番だったのではないか、と思うのが、ユニバーシアード最終日、ユニバー競技場での走り高跳び。ソビエトのイゴール・パクリン選手の2メートル41の世界新記録(今もこの記録自体覚えています)樹立のことを書いた原稿は、もう二度と書けない、と自分でも思ってます。変な言い方ですが、陸上競技経験者の私は、パクリンの世界記録樹立の瞬間を追体験しているかのような感覚で原稿を書き上げました。デスクに送る前から、“これはもう書けないな”と思った記憶があります。現物は手元にないのですが、私の感覚が正しかったのはその後の、この原稿の評判で分かりました。読まれたデスク、先輩記者も含め「谷川、あれ凄かったな」と何人もに言われたのですから。デイリースポーツ入社後、初めてほめられた瞬間だったような気がします。パクリン選手に関しては、当然のようにその後、私なりに注目してました。大学生で世界記録樹立ですから、どれだけ凄い選手になるのか、と思いながら。しかし、パクリンの最高の輝きも、あの9月の神戸だったのです。彼は、2年後に世界記録を塗り替えられ、3年後のソウル五輪では7位に終わってしまいます。その3年後の東京で行われた世界陸上でもどうでもいい(失礼)ような記録で終わり名前を聞かなくなってしまいました。朝、まだ明け切らない空をバックにそびえているユニバーシアードのモニュメントを眺めながら、走馬灯のように私の頭の中を過ぎ去った27年4ヶ月前の記憶。ある意味、初心に帰れ、と天にいるかもしれない方に告げられたのかもしれない。まあ、早起きすればいろいろ考えることはあります。
2013年01月16日
久しぶりに、のんびりの土曜日。マンションのリビングには昼の光が溢れて、おだやかなムードなのですが。私の心はおだやかではありません。昨夜、ここに書こうとして、頭の整理が付かなかった、大きな問題があります。一枚のチラシ。賃貸マンションのチラシだったのですが、それが心を乱しました。「UR賃貸住宅」のもので、場所は神戸市兵庫区。マンション名は「キャナル タウン ウエスト」です。“港町の歴史をモチーフに、赤レンガを効果的に使ったリズム良く並ぶ住棟。豊かな表情を魅せ、街の個性と統一感をつくっています”が、キャッチコピー。20枚を越える清潔で、きれいに見える写真が配置され、このチラシを見ると「新築物件」としか見えないのではないか、と思うほどです。私も最初、見た瞬間はそう思ったのですが、マンション名を見て「?」となりました。“これって、JRの車両から新長田と兵庫駅の間でいつも見ているマンションじゃないか”と。慌てて、概要のところを見てみると、間違いない。平成8年1月に管理が開始されている築15年を越えているマンションでした。それが家賃7万2千8百円から15万6千3百円の間で、借主を募集している。総戸数1200、ってただ事じゃないな、と。答えは、10日の夕刊(私が読んだのは毎日新聞)に出てました。阪神大震災の被災者の方に向けた復興住宅。「キャナル タウン ウエスト」はまさに、それだったわけで。URは都市再生機構のことですから、神戸市が復興住宅として20年期限で借り上げた住まいのひとつだったということでしょう。そして、それを貸主に返却する期限が迫ってきている、ということで。実際に、転居された方もかなりおられるから、改めて「貸し出し」の広告をURが新聞折込として配布してきているのは間違いない。しかし…。市政に内側から係わってない私には、正確なことは分かりませんが、問題点がいろいろと潜んでいる気がするのです。築15年を越えたマンションが新築よろしく(あくまで私見ですが、値段も優しいものには思えないです)のチラシで広告される違和感。貸し手の言い分もあるのは分かるのですが、どうしても??、という気分になってしまいます。そして、報道も。事実だけを伝えて、解決策は記者の私案としても書かれていない。これは、マスコミ出身の私には理由も分かります。なら、誰が解決するか。今なら、私にも分かるような気がします。(一部、最初にアップしたものと差し替えました)
2013年01月12日
突然、アルベール・カミュについて考えた。 大学時代、当時、ルポライターと表記されていた沢木耕太郎さんの影響もあり、行動の指針とさえした作家。考えたら、僕は1961年生まれだから、すでにカミュは亡くなっていたことになる。あまりこれまで考えなかったが。 「ぼくは受け入れるというこの言葉を嫌悪する。ぼくの 欲するのは、いっさいか、しからずんば無かだ。」 「郵便局の臨時雇いも征服者に拮抗しうるーもし両者とも 意識的な姿勢で生きているならば。こういう点では、あらゆる 経験は無差別である」 「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたす のに十分たりるのだ」 (すべて「シーシュポスの神話」(新潮文庫版、清水徹訳より 抜粋) 車の事故で亡くなったのが47歳。それより、長く生き続けていることを私は幸福と思うべきなのだろう。 明晰に、そして、頂上を目がける闘争だけで、心を満たしていける時間がまだ私にはある。この文章を書き終わった後に、生きている、というだけで。 難しいことをいう必要はないわな。要は、「あしたのジョー」じゃないか。充実感がない、いや充実感を求めない人生なんて。 つまらないことを考えている場合じゃないよな。10日もがんばろ。充実出来ればいいなあ。
2013年01月09日
須磨区の話を連日書いてます。今日も、少しだけ被ります。ともかく、しばらくの間は神戸の話が基本になると思ってください。それも、自分が住んでいた、あるいは住んでいる辺りに限定されるごく私的な神戸観(感の方が正しいかも)です。時事通信社勤務時代の1994年3月、東京から大阪へ転勤を言われて、住まいとして選んだのは神戸は垂水区の名谷、地下鉄西神線沿線となる「総合運動公園」駅から徒歩約10分のマンションでした。ここも須磨区潮見台町のマンションと同じく、アップダウンの厳しい坂の斜面に立てられていました。当然、前にはさえぎるものもないですから、開放感は抜群で。景色は、ここでは海ではなく、山でした。住んでから数年は遠い先に、垂水の海も見えてましたが、遠景の先に高層マンションが建って海は見えなくなりました。しかし、四季の移り変わりが前の山を見るだけで分かるという眺望は僕には本当に心地良かった。難点は、後述するものを除くと昨日記載のマンションと同じく、ともかく坂がきつかったこと。それと「総合運動公園」の駅の周りには、いまでこそローソンがひとつ出来てますが、店と呼べるものが駅の売店以外になかった。必然的に、買い物は隣の名谷駅か、板宿駅まで出て、ということになりました。要は、生活の利便性は全くない場所で。ただ、スポーツ記者をやっていた私にとっては、プロ野球のオリックス、サッカーのヴィッセル神戸の取材にはこれほど便利なところもなかったわけで。ナイターが終わって、取材して原稿を書いて、家に着いてまだ日が変わるまで1時間半ある、とかいうのは同業の記者にとっては考えられない居住環境でした。プロ野球のオフの時も、オリックスの球団事務所は当時、総合運動公園駅そばにありましたから、文句を言ってはいけない、の世界でした。で、ようやく、タイトルの「須磨区と垂水区と西区」の話となるのですが、私の住んでいたこのマンション、ゲートを出ると勾配のきつい坂になっているのですが、ここの横断歩道を渡ると「須磨区」でした。私のマンションは「垂水区」。そして、その坂を上り、「グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとスタジアム)」を尻目に、オリックスのイチローらが住んでいた寮に着くとそこは「西区」。見事なほど、区の境が入り組んでいる地域だったわけです。当時、横断歩道を付けてもらうのに、どの区に言えばいいのか、のような議論もマンション内であったような記憶があります。ともかく、分かりにくかった。どこにも、区の境を記す看板みたいなのがなかったですから。だからどうした、と言わないでください。要は、何か区役所に用事がある時、この3つの区の区役所は全て別の場所にあるのです。しかも、見事に散ってます(笑)。知ってる方は知ってられると思いますが、同じ交通機関(バス、電車)で「総合運動公園」から3つの役所に行くことは不可能。その上に、もし3つの役所を一日で行かなければいけないとしたら、車でないと、何時間掛かるのか、今、計算しろ、と言われても私には出来ません。この場所に限らず、区の境目に住まわれている方には、「あれ?」っと思う行政上の不便さが出てくると思います。選挙ひとつとっても、目の前に須磨区の立候補者看板があって、投票権は垂水区、となってたりしてたのですから。同じ市の中にある限り、区同士で互換性を高めていかないとこういう境に住まわれているような方は、思わぬところで行政に不満を持つかも、ということを言いたかっただけで。まあ、選挙区の互換性は無茶なことですが、健康保険や年金、住民票などの交付も含めての話ですね。ほとんどそんなもん出来てるやないか、と言われたら、それはボクの勉強不足。謝ります。今はきちんと相互に出来てるのでしょう、たぶん。(写真は1994年3月から2003年11月まで途中、 転勤で空き家とした時期もあるにせよ、住んだマンション)
2013年01月06日
須磨の景観。昨日に続いて、須磨のJR沿線のことについて書きます。 私が昨年9月の初めまで住んでいたマンションは、景観は本当に文句を言ったら怒られて当たり前、というところでした。写真にも提示しますが、ベランダというか、リビングから初日の出が見れるような部屋で。 しかし、このマンションの売却を決意してからが大変でした。元々、身分不相応なところに住んでいたので、売却は当然のことだったのですが、売れませんでした。 景観の良さもあって、オープンハウスにすれば、ほぼ必ず、見に来てくださる方はおられたのですが、「すごい景色ですね」と言って、それっきり、というのが 約30組。2011年10月に売り出して、売れたのは 2012年6月末。その間、売却価格は約1000万円近く 下がりました。ローンも残ってましたから、かなりの 損益が出てしまい、今も経済状況は圧迫されてます。 まあ、仕事も今、充電中の身ですし。 プライベートなことをここに書くのには、もちろん 理由があります。なかなか売れなかった理由。 これは、ほとんど、一点に尽きました。 景観の代償として立地条件が悪い。坂が急で、年配の方、子供が毎日上り下り、と考えると、とても生活する場所ではない、という理由の方が9割を超えていたと思います。 私にとっては、盲点でした。「運動不足にならずに済むからええわ」と 考える人だった私が、世間では少数派だった わけです。 きちんと、国道2号線からエントランスまでの、エスカレーターか、エレベーターが必要、と考える方が大半だったわけで。写真でお見せするように、急な斜面がマンションの横にあるわけですが、ここも含め、私の住んでいたマンションやその先にある住宅街に行き易くする公共の「ムービング・ウォーク」みたいなものが必要だったのではないか、と今は思います。 須磨の景観の一部は、実はこの急な坂のおかげで形成されているところがあります。坂と引き換えの景色。 元々、別荘地だったという潮見台町近辺に限られたことなのかもしれませんが、こういった不便さを解消するための行動を、私は確かに起こしていませんでした。住んでいる方の数、を考えると必要性は低いのは確かかもしれない。それでも・・・。住まいこそ変わったとはいえ、これも、考えてみたいことのひとつなのは間違いありません。 (写真は自宅だったマンションのベランダから撮った昨年の 初日の出と、そのマンション横の延々と続く階段)
2013年01月05日
須磨から隣の区の長田へ引越しして以来、4ヶ月めにして初めて須磨の海岸へ。 生まれは須磨の私ですが、物心ついてから須磨にきちんと住んだといえるのは2005年の初めから昨年の9月初めまで。しかもこの7年半、海が見えるのが当たり前の生活だった関係もあって、わざわざこうやって海岸へ来ることは稀でした。拙書「めっちゃピンぼけ」の重要なシーンに選んでいる場所なのにね(笑)。 この駅(JR須磨)の周りの雰囲気は大好きです。ただ、暮らしていた時感じたのは、食材の確保、本の購入(駅の周りから本屋が2004年以後、なくなっている)など、普段の生活の利便性の不足でした。 今の新長田の駅南は、利便性は抜群です。ただし、須磨のような景観、海岸があるかどうかは別問題。鉄人28号はいるんですが。 神戸市で須磨と長田は隣合わせの区です。うまく融合させたら、三宮より西の地域で、何か生み出せそうな気がする。金もコネもないお前がいうな、と言われそうですが、考えたくなってしまいます。 自分と自分の家族が住む街をより良くする、ということを考えること。単純に妄想かもしれませんが、それが今、一番楽しく思えることです。もっと、そういったことを具体的に話し合ったり、計画したり、出来る仲間。今年の目標のひとつにそういう信頼できる仲間を作ることは挙げておきたい、と思ってます。 (写真は2013年1月4日、夕暮れのJR須磨駅と須磨海岸)
2013年01月04日
初詣。 神戸市須磨区の綱敷天満宮へ行きました。昨年、困っていたことをお願いして、唯一解決してもらえた、と思えた須磨の天神さん。 今年もごく普通のことを願ってきました。帰りに、引いたおみくじは、写真の通りで「大吉」。内容は「初めは危ない谷の小川の橋を渡るような心配事 があるが驚き迷うことはありません。後には何も 彼も平和に収まります。凡て小さい事も用心し てすればよろしい」だそうで。 今の状況にぴったりで、一番言われて嬉しいことのような気がしました。“ありがとうございます”と、心の中で。その通りになって欲しいな、と。 (写真は、綱敷天満宮へ行く前に見た明石大橋と合わせて、で)
2013年01月02日
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