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日経新聞によれば、赤ちゃんの出生数は、一時的には回復し、底入れの兆しであるという。ところが、あれだけ、少子高齢化を問題としているのに、ちょっと増えだした赤ちゃんを生む場所が用意されていないというのである。少子高齢化問題を扱っていた政治家や専門家のみなさん、こどもが増えたら、生む場所の需要がふえることまで考えなかったのでしょうか?物事を全体的な視点で考える能力が、日本人に不足しているということが明らかになる一つの例でしょう。
Sep 29, 2006
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日本橋の首都高移設とそれにともなう地域再生が実現にちかづきつつある。日本橋の周辺で蔵や魚河岸など和風の街並みを整備し、江戸時代に東海道などの起点として栄えた頃の街の雰囲気も復活させたいと考えているという。一方で、東京の都心部では、皇居のお堀端の東京海上ビルの建設を契機に、どんどんと無秩序な超高層ビル化が進んでいる。一方で低層の和風の空間を形成しようとしているのに、その背景の空の中ににょきにょきと、丸ビルをはじめとする超高層ビルが立ち並んでいる。こうした状況が生じたのには、東京、そして、日本には都市デザインの考え方がなかったという背景がある。パリでは、モンパルナスタワーの超高層ビルが建ったとき、超高層ビルは、中層8から10階建て程度のナポレオン3世とオースマンによる既存のパリの街並の景観にそぐわないと市民が気がつき、反対の運動がおこり、それ以来、パリ市のほぼ旧市街20区の中には、原則として、超高層は建てられない都市デザイン的施策がなされた。昨今では、パリに隣接するパリ郊外のデファンス地区に新宿副都心のように超高層ビルがたちならび、19世紀末からのパリの景観に影響を与えているという声もあるが、旧パリ市外の中には、モンパルナスタワー以外は、原則として超高層ビルは建っていない。東京の場合は、バブル崩壊後、地価が下がり建設コストが下がったのをいいことに、デベロッパーが競って、超高層オフィス群やマンション群を都心部のいたるところに、都市デザインをすることなく建てまくった。その結果、中低層の街並の背後の空のなかに、超高層ビルがのぞくという景観破壊がいたるところに展開するような状況になっている。このような状況をみると、いったい、日本人や東京都は、どのような都市を形成し、どのような都市に住まいたいと考えているのか理解できなくなる。今後100年の長期的展望にのっとり、人口減少社会の現状についても鑑み、御用都市工学者のためだけではなく、本当の民意を尊重しうる都市デザインを東京をはじめとする日本全国の拠点都市にしてゆく必要があろう。
Sep 28, 2006
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日経新聞によれば、植物などが原料で環境に優しい生分解性プラスチックが普及する兆しであるという。強度を高めたタイプ、などが開発されている。生分解性プラスチックは土の中で分解される素材で、石油の使用削減にもつながるという水に浸したり、土に埋めたりすると製品の形が比較的短期間にくずれ最終的に水と二酸化炭素に分解するものが開発されている。ところで、建築の構造などの材料として用いることができる材料について考えると、現在考えられている生分解プラスチックでは寿命が短すぎると思われる。建築の寿命は、100年単位の寿命のある構造・外装材料と、数年単位の寿命の内装仕上げ材料との組み合わせで成り立っている。内装仕上げ材料については、現在の生分解プラスチックの考え方でも可能性がありそうだが、構造・外装材料については、長寿命 生分解プラスチックが必要である。ただし、構造・外装材料などの建築材料については、現場で半端材料がでない構法で造られる部分については、単純な長寿命材料でも良いかもしれないが、一般には、必ず残りや半端の材料がでるので、それについては、水や土など自然界に普通に存在するものではなく特殊で環境に悪影響のでない方法で分解できなければならない。又、長寿命の100年単位の建築でも、一般的には、機能的寿命が来て解体されるものが出てくる訳であるから、同様に、水や土など自然界に普通に存在するものではなく特殊で環境に悪影響のでない方法で分解できなければならない。また、土木や都市のシンボルになるような建築については、可能な限り残されることが重要であるから、その場合には、可能な限り長寿命な生分解性プラスチックが構造や外装材料にもちいられるようになることが望まれる。ところで、建築以外においても、自動車や船舶や土木構造物などでも、植物に由来するプラスチックなどで、長寿命であり、水や土など自然界に普通に存在するものではなく特殊で環境に悪影響のでない方法で分解できる材料が開発されれば、主要構造部や外装部材などに用いることが出来るであろう。こういう性能をもった、植物に由来する長寿命 生分解性プラスチックが開発されるようになると、農業により太陽エネルギーのフローに由来する材料を供給することができ、資源・エネルギー・環境問題の構造的解決がはかれるようになるかもしれない。
Sep 27, 2006
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日経新聞の新製品の記事に、トヨタ自動車の運転席が電動車いすになった小型乗用車「ポルテ」福祉車両が紹介されている。ポルテの詳細は記事を読んでいただくとして、新しい製品開発の手法として、ハイテクノロジーの新製品開発を弱者にむけて行うことで、結果として、健常者や一般人にとっても便利な製品につながるというユニバーサル・デザインの考え方の重要性がそこに示されていることを確認した。ロボット技術などでも、サイボーグ型のロボットなどは、物理的な身体障害者の欠損した体の補完をおこなう技術として期待できるが、それが完成することで、健常者や一般人にとっても便利な物が開発できることに着目したい。今までの開発方法は、短絡的な経済優先主義からか、健常者や一般人むけの技術を開発し、それが経済的にペイするようになってから、あとで、弱者向けの技術に改良するという方法がとられていたのではないかと考えられる。ところが、視点をかえて、最初に弱者向けの製品開発を行うことで、結果的に、健常者や一般人向けの高度な製品を得ることが出来るという方法をとることで、だれにとっても便利なユニバーサル・デザインに近づくことを考えるべき時代がきていると感じた。
Sep 26, 2006
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日経新聞によれば、鹿島などが、コンクリートの材質に特殊な鉱物を加え表面などを炭酸ガス(CO2)を使って処理することで内部に水や塩分が通りにくくし、鉄筋の腐食を低減することで寿命を理論値で100倍の1万年もつプレキャスト・コンクリート(工場生産コンクリート)を開発したという。鉄筋コンクリート(RC)はReinforced Concreteの訳だが、それを直訳すると、補強コンクリートである。要するに、コンクリートの内部に鉄筋をしこみ補強したものである。コンクリートそのものの原型は、ローマの時代からあり、ローマの遺跡などではすでに2000年以上の寿命をもっている。それは、コンクリートの中に、補強材、すなわち、鉄筋がしこまれてなく、コンクリートの化学的性質というよりは、物理的性質で強度を保ってきたからである。現在のコンクリートは19世紀にポルツランド・セメントが開発され、施工性がよくなったが、コンクリートの化学的性質により強度をたよっておることにより、水や塩分がしみ込むと、内部の補強鉄筋が腐食することにより、寿命が短くなっているのである。特に、日本の鉄筋コンクリートは、地震が多いといいうことからか、鉄筋の強度分担が多く、ヨーロッパなどに比べて鉄筋の太さが太く、鉄筋が腐食すると、急激に強度が低減する構造となっている。また、日本の場合、鉄筋を保護しているコンクリートが、施行性を高めるために、施工時の水の量がおおいため、コンクリート自体の耐久性がなくなっているのである。すなわち、日本の鉄筋コンクリートは、ヨーロッパなどのように、補強鉄筋コンクリートになっているのではなく、コンクリート保護鉄筋造と言ってもいい状態になっているのである。そうなったのは、ヨーロッパが、組石造から鉄筋コンクリートを生み出したために、現場打であっても、プレキャスト・コンクリートのような石のようなコンクリート部材の積み上げになって物理的なくみ上げ技術なのに対し、日本では、木造から鉄筋コンクリートをイメージしたために、原則的に現場打ちで、鉄筋の粘りを耐火的に保護するためにコンクリートを利用したという背景があると考えられる。従って、ヨーロッパでは、現に100年以上の近代鉄筋コンクリートの建物が健在であるのに対し、日本の場合には、機能的理由もあって、寿命が30年代から数十年というのが現実である。これに対し、今回の鹿島の提案は、まず、構法的に、プレキャスト・コンクリート(工場生産コンクリート)にしたことがあげられ、つぎに、コンクリートの素材を変え、さらに、コンクリートの表面処理をし、水や塩分の浸透による鉄筋の腐食を低減していることになり、まずは、理にかなっていると言えよう。これからは、コンクリートが百倍の寿命をもつのであるから、スクラップ・アンド・ビルドによる環境負荷の低減に役立つことになる一方で、一度建設したら百倍もそこに存在する建造物を残すことになるので、建築家や土木技術者の、都市の原風景を形成することにたいする倫理的責任が増大することになろう。
Sep 25, 2006
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日経新聞によれば、小泉内閣終了とともに議員辞職する竹中平蔵参議院議員が、以下のように述べているという。・構造改革はあと10年くらいが重要な局面だ・今後人口減少すると、(分散化した過疎の)地方を守るより (効率性が高い)人口の集積を重視する(国土づくりの) 方向に向かわざるを得ないが、今はそこまで議論が進んでいない。・世界のどこにいっても地域の中心産業は農業で、 公共事業をいくらつぎ込んでも地域は活性化しない。 市場原理を生かした形で農業の担い手を集約し 競争力をつけるべきだ。まったくおっしゃる通りである。地球レベルでの、資源・エネルギー・環境問題を考えても、そうなるのが道理である。惜しむらくは、竹中大臣には、彼自身の力でそれをやり抜く気力も義務もなさそうなことである。せめて、後継者を育てるなり、推薦するなりして退任していただきたいものである。
Sep 24, 2006
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銀座で歌舞伎座が再開発されようとしている。私たちのまちの原風景を構成していた建築がバブル崩壊後も収まらず、最近また盛んになってきた再開発ブームの中で、どんどん取り壊されてゆく。建築は、そこに住まい機能を享受していた人だけのものではない。建築は、まちや都市の顔であり、人々のまちにもつ原風景を構成してきたのである。こどものころに感じた原風景は、東京近郊の住宅地でもなくなっている。武蔵野の屋敷林や田畑であったところや、小川のせせらぎであったところが、すでに、ごちゃごちゃした住宅地やマンションにかわってしまっている。こどもの頃に草野球をした空き地は、もうどこにもないし、ザリガニをとった小川は暗きょになってしまっている。東京をとりまく、原風景破壊の構図は根が深く、このような環境の中で育ったこども達が、昔のこども達と同じように成長するとは思えない。私たちは、原風景の破壊によって、なつかしく、帰りたくなるような故郷を東京の近くに見いだすことはむずかしくなった。こども達だけではなく、大人達も、精神のよりどころを失ってゆく現代の日本のすがたに、発展ということばは相応しく無いであろう。
Sep 22, 2006
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日経新聞によれば、スズキは、メタノール燃料電池を搭載した四輪電動車いすを開発したという。現状の電動車いすでは8時間充電して20キロの走行が可能だが、メタノールを含む燃料4リットルで40キロ以上走行できるという。これが販売されるようになると、引き続き、電動車いす一般にも利用可能となるだろう。そして、ロボット技術などと融合して、サイボーグ型の介助ロボットにも利用されるのも近いであろう。問題は、たぶん、燃料電池の燃料を補給するステーション等の配備であろうが、実用化の進展とともに解決されることであろう。これをきっかけとして、自動車一般用燃料電池、住宅等家庭用燃料電池の実用化にも一歩前進したことになるのであろう。
Sep 21, 2006
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日経新聞によれば、3大都市圏の基準地価が16年ぶりに上昇したが、全国平均では2.4%下落したという。21世紀末までの今後の長期的地価変動予測をするとすればいったいどういうことになるであろうか?21世紀末までに、日本の人口減少が続くと言われているが、そうだとすれば、国民一人当たりの土地所有量のようなものが長期的に増えない限りにおいては、今後の長期的地価は下落傾向にあることになる。国民一人当たりの土地所有量が増加したとしても、国民一人当たりの敷地面積がふえるだけで、国民一人当たりの建物の延べ床面積がふえないとすれば、やはり、今後の長期的地価は下落傾向になることになる。ところで、地価の国民からみた感触というものは、基準地価だけをみても判断できないであろう。たとえば、「100%±物価上昇率」で基準地価を割った数字のようなものがあればそれが、国民の見た地価の実感(体感地価)に近いであろう。デフレ経済のもとでは、物価上昇率と基準地価上昇率が同じであれば体感地価というものはあまりかわらないとも考えられる。逆にインフレ経済のもとでは、物価上昇率と基準地価上昇率が同じであれば体感地価というものは、やはり、あまりかわらないとも考えられる。人口減少下の社会で、デフレ傾向の圧力がかかるとしても、体感地価が上昇していれば、実質的に地価が上昇していることになる。人口減少下の社会がつづく21世紀においては、体感地価のような、国民の視線からみた指標が必要となろう。
Sep 19, 2006
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昨年度から、ある県とその県の大学が主催する、インターネットの、まちづくりリーダー養成講座のインターネット教材の作成と、インターネット会議室の質疑応答を担当している。今日は、インターネット会議室について語ろう。インターネット会議室を始めると、講座の会員でも、ブログなどをしていてインターネット会議室慣れした常連がでてくる。活発な議論のきっかけとして、常連の活躍は必要であるが、インターネット会議室初心者が恐れをなしたのか、参加しなくなってしまう。ブログの場合、読み手が、どのように読もうが、あんまり関係ないでいることができるが、インターネット講座の会議室というのは、講座自体と表裏一体をなすものであり、そこでの活発な議論によるコミュニケーションがまちづくりのときの実際のコミュニケーションの練習や研鑽となることを目指しているのであり、コミュニケーションからコミュニティへの進化の鍛錬が意図されているはずであった。ところが、常連の人たちが、マイペースで議論を始めると、恐れをなすのか、初心者の人たちがアクセスしなくなってしまうのである。常連の人たちには、マイペースで議論を進めるのではなく、初心者の人たちにも参加意欲がでるようなコミュニケーションの取り方を工夫するようにお願いしているのであるが、会議室は、なかなか、常連の独占状態から脱することができない。こちらは、スタッフで、会議室がうまく運営されることを命じられているのであるが、スタッフが会議室に参加すると、それだけで、初心者が身を引く可能性が高まるので、できるだけ、参加しないで、自由な議論が進展するのを願っているわけであるが、そうすると、議論が一部常連のみになり、一般に展開してゆかない。スタッフは仕事なので、会議室に参加しなければならないのであるが、うっかり、干渉すると、議論が止まってしまうので、できるだけ、参加しないようにしなければならないという事実もある。ブログの書き込みなどは、誰が読もうとかってであり、また、趣味でやっているようなものなので、誰かが反応してくれるかどうかよりも、後で、原稿でも書くときのための、ネタ帳として利用しているわけであるから、書き込みが少なくても、問題ではないが、インターネット講座の会議室は、まちづくりの疑似コミュニティーの作成を、会議室のコミュニケーションを通じて、実現し、研究し、練習するのが目的であるから、困ったものである。どうしたら、常連の人たちに、初心者とコミュニケーションをとるような方法を編み出してもらい、初心者の人たちも、まちづくりに必要な、コミュニケーションからコミュニティーの創造を体験していただくことができるか、頭の痛いことである。
Sep 17, 2006
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日経新聞によれば、建物の、未利用容積率を近隣街区の建物の上空に移転し、「空中権」を使う再開発が本番になるという。これにより、東京駅は復元され、低層化が保たれることになるが、そこから転売された「空中権」が、近隣のビルに転売され、要するに、ミニ・ニューヨーク化することになる。東京が、ニューヨーク化することにより、オフィス環境の東京への一極集中が促進されることになる。東京駅周辺に、住宅の職住接近が出来るような地域はなくなるが、周辺に、夜の人気のない、オフィスが占めるようになるのであろうか。具体的な、実施計画のシミュレーションがおこなわれているのかどうか疑問点がのこることになる。
Sep 16, 2006
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成田空港で未完成となっている暫定平行滑走路(2380m)の2500m化へ向け、成田国際空港会社は、着工式を15日開いた。ところで、日本国憲法には以下の条文がある。第11条国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの出来ない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。第12条この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。第25条すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。第29条財産権は、これを侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。このような憲法があるのに、成田空港が未だに完成しないのは、正当な補償がおこなわれようとしていないか、成田空港が公共の福祉のためにならないかのいずれかということであろうか?
Sep 15, 2006
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日経新聞によれば、平行する新線、つくばエキスプレスの開通で乗客の一部が流出した、常磐線沿線で、芸術を振興したまちづくりが行われるという。公共事業や土地神話など、それまで無価値のものに価値を創造してきたことが、人間の生活や地球環境に悪く、環境破壊や、社会破滅のもととなった経験をつんだ私たち日本人にとって、新しい価値をゆるやかに生み出す仕掛け、価値観、思想のようなものは、何かないものかと考えてきた。前から、まちづくりに芸術がいいだろうとは思っていた。しかし、何で芸術がいいのかがわからなかった。ところが、今日この記事を読んでわかったのは、芸術そのものが価値創造の仕掛けであることだ。一般に価値創造につながるほどのレベルの高い芸術はそう簡単には出現しないが、芸術の本質は新しい価値創造であるから、ゆるやかな経済成長や、地域振興に効果が期待されてしかるべきである。特に、建物についていえば、それが建つ敷地や土地霊と切っても切りはなせないものであるから、建物が芸術性をもち、「建築」の名にふさわしいレベルのものとなるときには、まちづくりや、まちおこしに貢献することであろう。今まで、箱ものを企画するときには、芸術性のレベルの振るいにかけられたものが少なかったかもしれない。これからは、新しい価値創造ができるような芸術性をもった「建築」の名にふさわしいものに限って、建設されるように心がけることが、その建物が根ざす土地やまちに貢献することになろう。そして、そうした「建築」を実現するには、経済性、機能性を超えた、空間性を実現することに好意をよせる地域の民間人のパトロンの存在が必要であろう。そして、パトロンを実現させるためには、地域に貢献したり、空間に芸術性を与えることに対する、税制の優遇処置などが必要であろう。現代のメジチ家やロックフェラー家を日本の各地域に生み出すような制度的枠組みを検討すべきであろう。
Sep 14, 2006
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日経新聞によれば、エタノール混合ガソリンが来夏発売されるという。曰く、トウモロコシやサトウキビなどから生産するエタノールを混ぜたガソリン。植物は生育中に温暖化ガスである二酸化炭素(CO2)を吸収するため、燃やしたときのCO2排出量をゼロと見なすことができる。ところが、植物が生命を終えて、バクテリアなどで分解されると、メタンガス(CH4)が発生することがあるが、一個の炭素CがCO2になる場合よりもCH4になる場合の方が、温室効果が高いとされる。それ故、植物とはいえ、地球温暖化の回避にとって為にならないという説もある。一方で、CO2で温室化された環境は、植物にとっては、生長を促す快適な環境であり、植物がどんどん増える可能性がある環境だという。植物の絶対量が無視できないほど増えると、燃やしたときのCO2の排出量が、現時点ではゼロだとしても、植物が増えて、なおかつそれが燃やされると、CO2の排出量が増える計算になり、CH4として排出されると、もっと温暖化し得ることになるのではなかろうか?そもそも、地球上の資源・エネルギー・環境問題の簡単な理解のために、CO2による温暖化という形式が用いられてきているのであるが、本来は、地球上の資源・化石エネルギーの枯渇と拡散化が問題であるのが地球環境問題の発端、すなわち、地球上の資源・エネルギー・環境問題であったのではないだろうか?地球の温暖化による環境悪化の兆候は、確かに、あちこちで観察されるようになっているが、根源的な問題は、地球環境に対し、太陽エネルギーから送られてくる、負のエントロピーが、地球環境の中で変化・変質をとげ、徐々に、エントロピーを拡大し、やがて総量として正のエントロピーとなり、植物の炭酸同化作用や、植物を含む生物の屍のバクテリアによる分解などで、様々な状況に分解されたものが、地球上の水と大気の大循環を通じて、地球の地殻付近から上昇気流と水蒸気に乗せられて、大気圏と外の宇宙の境目で外部に放出されることにより、入力された負のエントロピーと放出された正のエントロピーとの間に、バランスがとれていることが必要なのである。現実には、太陽エネルギーのフローとして地球環境に取り込まれた負のエントロピーのかなりの部分が、地球誕生以来のかなり長い間に、化石燃料としてストックされてきたものが、産業革命以来の極めて短い時間の間に、それこそ、時間軸を縮めると、山火事でもおこるかのように、消費されて、地球環境に放出されることが地球温暖化問題の根源であり、人間の寿命と同じくらいのオーダーで太陽エネルギーの負のエントロピーから消耗された植物などの発生する正のエントロピーのフローに限って消費されているぶんには、地球温暖化にかかわって発生する正のエントロピーは太陽エネルギーから受け入れられた負のエントロピーとバランスしうる量になるということではないのだろうか?産業革命以降の、太陽エネルギーからの負のエントロピーのストックを、極力使わないようにすることで、長い時間軸上では、地球の山火事状態がふせがれるのではないだろうか。現在の地球環境問題は、基本的には、ストックの化石燃料等の資源をタイムカプセルにのせて現在にもたらし、消費するという行動が生み出しているのであり、地球の時間軸上では、太陽エネルギーのフローである、植物系燃料や、原料を使用しているうちには、エントロピー全体の問題としては、大きな問題にならないというのが本当の答えではないだろうか。(図1 太陽エネルギーのフローだけを消費し、宇宙に対して開いた系としての地球環境)
Sep 13, 2006
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日経新聞によれば、東京都内の分譲マンションが、需要旺盛でも着工減になっているという。この結果、バブル崩壊後に顕在化した「都心回帰の流れが止まり、価格決定力も消費者から再び開発事業者が握り始めた」との声も出ているという。この期に、東京都心回帰と、高層マンション化についてじっくり考え直してみる必要がないだろうか?東京都心に人口が吸引されると、人口減の時代に、ますます、周辺郊外、果ては、地方の人口減が顕在化する可能性が高くなる。全体の人口が減るのに、局所に人口集中すれば、それ以外の人口が減るのは、難しいモデルを用いなくとも明白である。地方は、過疎化の力が働き、都心は、過密化の力が働くことになり、都市や集落としての生活が悪化する可能性が大である。(図1 東京への一極集中構造)(図2 多極化された多極集中構造)一方、過度の集中化のために、高層化されたマンションには問題はないのであろうか?よく言われるのは、地震などの災害時にエレベーターが止まると、避難や非常生活に支障を来すということである。また、昔から建築計画学に言われているのは、高層マンションに住む子供は、周辺の町、すなわち、接地階へ出て行かなくなり、引きこもる可能性が高いと言うことであった。それに対して、空間的に、中間階に子供やコミュニティーの集合スペースを提案する試みがあったこともあるが、現在、現実に建っている都心部の高層マンションにそのような取り組みがなされているのであろうか?また、エレベーターで接地階におりても、都心部の場合には、スケールアウトした高層ビルの下の良くても繁華街などで、子供達が、集まって遊べるような空間はないのではないだろうか?このように、国土計画、都市計画、都市デザイン、建築計画のいずれの見地からみても、東京都心部への一極集中と、それを可能にする高層マンション化には人間の空間として問題があるのではないかという疑義があることを落ち着いて考えてみよう。
Sep 12, 2006
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日経新聞によれば、中小・ベンチャー企業の間で、会社にこどもを連れてきて働くことが可能な職場が増えてきたという。かつでアグネスチャンがこどもを職場に連れてきて、避難され、アグネス論争をひきおこしたことが嘘のようである。子供は、多かれ少なかれ、社会の中で育てられ、社会の一員となってゆくものである。乳幼児の場合には、お母さんだけが、子供を連れてきて職業を達成することが要求されるが、少し大きくなったら、お父さんの職場でも面倒みることが出来るようになることが今後は必要かもしれない。そして、保育園、幼稚園、小学校に上がるくらいになったなら、昨日書いたように、保育園、幼稚園、小学校、介護施設などの複合化を図り、お年寄りが子供の面倒をみたり、子供がお年寄りのお世話になるようになたりお互いに、意識し、交流し、面倒をみるような関係性を築きあげてゆくことが必要であろう。昔、ストリートウォッチャーとして、町の秩序を観察していたお年寄りも、社会入院のベッドから解放し、人々や、町や、子供達のために、一定の役割を与えられることで、世代間の肉体的、知的交流が自然と行われるようになり、一昔前のコミュニティーを回復するそういう都市計画の倫理を築き上げるべきであろう。
Sep 11, 2006
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日経新聞によれば、政府は、少子化対策を秋に始動させる。出産一時金を現在の30万円から35万円に引き上げ、親はまとまった資金を用意しなくても、ふつうの分娩ならば子供が産めるようになる。不妊治療に対する助成金を年10万円から20万円に倍増させる。こうした結果により、子供が増えると、お年寄りの施設と、子供の施設を複合化した施設が可能になる。例えば、デイケアセンターなどの介護施設と保育園、幼稚園、小学校などのこどものための施設を複合併設化することができるようになると、こどもやお年寄りの交流が盛んになり、お互いの状況を監視しあうことができ、お年寄りは、子供と接することで生き甲斐を感じ、こどもは、お年寄りと接することで、お年寄りの存在を認識するだけではなく、お年寄りのもっている知的財産を享受することができるようになる。これにより、孤独死の確率が減少し、また、子供の危険も減少し、間接的に、親の世代と、お年寄りの世代との交流も生じるようになってくる。また、子供にとって利用しやすいまちづくりは、結果として、お年寄りや全ての人にとって利用しやすいユニバーサル・デザインのまちづくりとなる。また、子供の歩行圏に、関連施設が充実すれば、全ての人にとって住みやすいコンパクトシティーが実現するきっかけとなろう。青年世代の動向に、経済社会まちづくりが支配されているような現在に比べて、柔和ですみやすい、なつかしいまちづくりが実現するきっかけとなろう。
Sep 10, 2006
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明日の晩から、日本建築学会大会があるので、発表するわけでもないのですが、コンピュータを持っていく訳でもないので、日曜日まで、楽天広場はお預けです。宜しくお願い申し上げます。
Sep 5, 2006
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日本経済新聞によれば、2004年10月、東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる「井の頭公園」の井の頭池で、豪雨のあと、地下水位が上昇し、大量のわき水が池に流入し、普段緑色によどんだ水が、突然、約一ヶ月にわたり澄み渡り、底まで見えるようになったという。これと同様の原理で、家屋の雨樋が受けた水を溢れさせないために、側面に穴があけられたバケツのような形の「雨水浸透ます」を設置し、雨水の地下浸透をめざす自治体等が増えているという。この、地下水の大循環は、地球環境全体における、水と大気の大循環システムの一部を構成し、水により、地球環境の汚染物を回収し、バクテリアなどの活動を促し、分解洗浄し、やがては、水蒸気として、地上からの上昇気流に乗って、大気と宇宙との境目まで汚染物質を運んでゆき、地球圏外環境に放出するシステムの重要な部分を担っている。都市などの舗装されたり、構築物が建てられた地表は雨水の自然な地下浸透を阻んでおり、地球環境の汚染に一役かっているわけである。この水が運んでいる汚染物質は、より正確に言えば、物質のエントロピーであり、太陽エネルギーから取り込んだ負のエントロピーが地球環境内で変化が続くことにより、エントロピーの増大をひきおこされ、正のエントロピーへと変わっていったものである。すなわち、地球環境問題と、資源エネルギー問題を考える上で小さくとも重要な部分を担っているわけである。(図1 宇宙に対して開いた系としての地球環境)
Sep 4, 2006
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きょうは、去る5月になくなり、密葬されていた、丹下健三 都市 建築設計研究所の10歳先輩を偲ぶ会が行われた。急な招集にもかかわらず、40人弱のOBが集まった。そもそも、アトリエ系組織設計事務所などは、現役所員が多いときでも40人くらいしかいないのであるから、40人くらい集まるというのは大変なことである。丹下健三先生の未亡人も訪れた。今回なくなられたA氏と仕事をともにしたのは、私の世代が一番若いようで、一番末席だった。2次会のおり、今後も予想される偲ぶ会の幹事に任命された。これから、10年くらいはお世話をすることになるのかもしれない。しかし、幹事の方が先に逝ってしまうこともないわけではないから、任期を全うするくらいの間は、健康に気をつけろというご命令だと考えることにした。今日の日経新聞で、丹下健三先生の、国立代々木競技場が、アスベスト除去の工事を34億円(3万平方メートル)かけて行われることが決まったと報じられた。1964年に東京オリンピックで使用された同競技場の天井裏の構造の、直接人に触れることのない部分にアスベストが使用されていることは、丹下事務所の関係者として、わかっていたが、明治以降の日本の近代建築を最も代表する建築であり、日本の近代建築を世界に知らしめた建築であり、近代オリンピックで初めて表彰された建築であり、構造的にも意匠的にも、未だに世界最先端を行く国立代々木競技場を壊す訳にもいかず、どうしたものかと思っていたが、東京オリンピックが今回国内候補となったのを期に、再び、オリンピック施設として使えるように、除去工事が決定されたものと考えられる。将来の、重要文化財であろうから、原型をできるだけとどめる形で保存してほしいものである。
Sep 2, 2006
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東京オリンピッックが実現のおりの、グランドデザイナーは、建築家の安藤忠雄氏がやるということだが、安藤氏の建築の特徴は、建築学会賞をとった、その初期の、住吉の長屋という作品にある。その特徴は、住吉の町屋の一敷地に玄関しか開口していないコンクリートのかべを建てたのである。すなわち、内部的には、雨が降ったら、傘をさしてトイレに行くような構成ではあるが、住み手が自分だけの世界を謳歌しているのであるが、周辺の街並に対しては、窓一つなく、コミュニティーに対して開いていない。先日有名になった表参道ヒルズにしても、250Mもの長さの建物の、中心部分のアトリウムを地下をめざして掘り進め、内部空間としては独り占めしているのであるが、外部の表参道の街並に対しては、ほとんど閉じていて、開いていないのである。地下に埋められた、アトリウム空間は、内部の人間に対しては、混雑するほど人を集める空間であるが、外部の表参道の街並に対しては、ほとんど閉じていて、外から感じることが殆どできない空間となっている。安藤氏が今回、東京湾に提案したメインスタジアムにしても、芝生の山の中に埋没していて、外部の、環境に対して、開いていない。樹木や芝生の山の中に埋め込まなければならないとすれば、そこにある建築物は、ない方がいいと言っているのと同じである。あるべき建築の姿は、必要なアクティビティの表現を、都市や街並といった外の空間に対してすることである。要するに、安藤氏の空間は、窓らしき窓がなく、建物の全体の大きさと比べて、入り口がせまく、内部の人は楽しめても、外部の人々が、町の活力を感じるような、内部空間と外部空間の流動性が確保されていない計画なのである。要するに、コミュニティと断絶していて、建築のアクティビティが感じられないものなのである。これらのデザイン上の欠点を補うために、かつての弟子である東大建築学科の卒業生のスタッフたちに、もっと自由な発言権を与え、良いものは弟子の案でも良いとし、安藤氏自体は、できるだけ発言しないで、若い力を発揮させるような事務所に変えてゆく必要があるだろう。丹下健三の建築は、賛否両論がある点もあるだろうが、コミュニティーに対して開いているという特徴がある。窓や開口部やアトリウムが街並に開いていて、自由な人々を呼び込む設計であった。その、建築の開放性と建築の閉鎖性が丹下健三と安藤忠雄の根本的な違いである。東京大学栄誉教授の肩書きではなく、安藤氏の建築の実像を良く観察すべきであるという。東京オリンピックでは、安藤氏はグランドデザイナーであるが、単体の競技場の設計はコンペで設計案を決めるという。グランドデザイナーは、若くて優秀なスタッフに対し、聞く耳を持つ必要があろう。
Sep 1, 2006
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