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東京大学名誉教授で、建築計画学を創設され、2年ほど前に亡くなられた、吉武泰水先生の「芸術工学概論」(九州大学出版会、1990)によれば、設計は以下のようなものである。設計とは、一定の計画に基づいて相異なるいくつかの要求を調整しつつ総合組織する作業のことである。もしもこれらの要求が物質的、技術的性質のものだけであれば、設計作業は、エンジニアすなわち工学技師によってなし得るであろうが、これに心理、生理、芸術、経済等人間的社会的要求が加わってくればくるほど、これら諸要求を調整総合するデザイナーすなわち設計家が必要となってくる。したがって、設計家は、関係する諸分野の専門家と協力し、一貫した設計意図のもとに、各専門分野間の連絡調整を行いつつ、全体を組織するコージネーターの役目を果たさなければならない。すなわち設計は、一般技術を人生に適切に利用するために欠くことのできない「高次の技術」なのである。そこで、このような意味における設計の能力を養うためには、高度の専門的な知識と技術を習得させることが必要であるが、とくに次のような諸点に留意して教育を行うことが肝要である。(1)豊かな教養と広い視野を与えること(2)科学的な思考力を養うこと(3)技術全般にわたる基礎的な知識を与えること(4)感性を高め情操を養うこと(5)創造力を養うこと(6)社会的倫理の観念を植え付けることしかも上記の教養、知識は、実験、実習、見学等による実際的訓練によって体験化され積極的な実行力に結集されなければならない。
Jan 31, 2006
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最近は、バリヤ・フリー・デザインと言うことは比較的少なくなった。バリヤ・フリー・デザインは、高齢者や障害者などの弱者に対応した設計のことである。これに対し、ユニバーサル・デザインは、高齢者や障害者などの弱者にも配慮した結果として、健常者を含めた全ての人々にとって快適な設計のことである。ユニバーサル・デザインの良い例は、ウォシュレットである。もともとは痔で悩んでいる人への対策として考えられたものだが、出来上がってみると、痔の予防にもいいことがわかり、成熟したデザインになった。バリヤー・フリー・デザインの中には、弱者を守ろうとするあまり、成熟したデザインになっていないため、健常者がつまづいて怪我をするもとになるようなものもある。既存の車椅子にあわせたバリヤー・フリー・デザインは既存の集合住宅の廊下の巾を広げようとする圧力になるが、実際には、既存の建物の中では経済的・空間的にむずかしい。車椅子の方を、既存の集合住宅の巾でも回転操作しやすいように何らかの形で改良できれば、既存の建物をいじくる必要がなくなり、経済的である。そして、さらに、スロープなどをつけにくい歴史的建造物などにおいて段差や階段を上れるようなロボットのような自動椅子が開発できれば、弱者の人でも、そうした歴史的建造物などを堪能できるようになる。こうしたものこそが、ユニバーサル・デザインである。バリヤー・フリー信者のように、バリヤー・フリーをとなえることも悪いことではないが、ユニバーサル・デザインの自由な発想や製品化を妨げるものであってはならないだろう。
Jan 30, 2006
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昨今、アメリカ合衆国からの牛肉輸入再開において、BSE危険部位の混入が問題とされ、輸入が中止されている。これは、アメリカ等の検査機関の怠慢でもあるが、そもそも、検査する前に、生産者が危険部位を混入させたが故にこのようなことになったのである。要するに、生産者倫理の欠如である。このようなことは、無農薬野菜と称するものや、ワインや、賞味期限など、私達をとりまく食料品全般にわたって、同じようなことが考えられることを暗示している。いくらユビキタス社会になって、ICタグをとりつけ、生産者情報を開示しても、生産者倫理が働いていない状態では、意味がなくなる。生産者倫理を広く考えると、企業倫理や技術者倫理に展開される。ライブドアーの企業情報の虚偽申告や、耐震強度偽装問題なども、こうした、生産者倫理・企業倫理・技術者倫理党等と呼ばれるものが、信頼性を欠いている事によるといえよう。様々な情報の開示が行われることの無かった、情報社会以前の社会では、このようなことは封じ込められていたのかもしれないが、情報社会の進展が、このような倫理一般をますます要求することになるだろう。
Jan 29, 2006
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日本で、確認申請の民間への移譲が行われたのは、フランス等の諸外国の例に習ったのだと思われますが、その深層構造において、異なる点があると考えられます。日本語にいう「建築家」ではなく、欧米流の「architect」はこれから示すような諸条件の荒波に揉まれていることを再認識する必要があります。1)21世紀になるにあたっての世界的パラダイムとして、「環境問題」と「高度情報化」があり、2)その結果として「internationalism ⇒ globalism」3)それを実現するためのインプリメンテーションとして「規制緩和(たぶん極めて日本的解釈)」あるいは「制度更新(renewal)」従って、誰かの個人的趣向性と関係なく、規制緩和が止めることのできない課題であると言う前提があるとします。4)その背景にある人々のイデオロギーとしての、「自由主義(liberalism)」があります。しかし、欧米に言う自由とは、未だにその底流に、カントの言うような『理性的存在の自己決定の自律性としての自由』の概念が流れていると考えられ、「responsibility」という、日本では責任と言う言葉で極めて軽く扱われているものが背中合わせに存在し、おそらくは、日本建築家協会会員の多くが考えている責任と言う概念よりもかなり重いものであるように考えられます。5)医者、弁護士、建築家に代表される、全ての「職能(profession、function)」は、「性能保証(security)」すなわち、responsibilityの「潜在能力(competence)」の「主体(the subject)」であり、その「行使(performance)」、従って、「難易度(difficulty)」 (software)に対し「報酬(fee)」という「経済(economy)」のシステムが用意されているのであり、そのための手続き、具体的作業量や成果品そのもの(hardware)に対してではないようにみうけられます。従って、欧米型の組織では、その最高責任者である「個人」に責任が集中するのが一般的で、組織の下位階層所属者は必要以上には自由権を行使して責任を負うこと、すなわち、「集合名詞」化し責任の所在を曖昧にすることはしないようであります。PL法はそうしたresponsibilityの概念の導入の第一歩であると考えられます。一方で、responshibility負担能力ないしは行使は、報酬が左右することになり、コンサルタント料のダンピングや値引きは、「依頼者(client)」に味方することになるとは限らないのであります。6)こうした性能保証や責任能力の水準を高めるために、「保険(assurance、insurance)」という「経済(economy)」のシステムが用意されています。海外では、建築竣工後にarchitectに対して訴訟が起こる場合が多いが、そういうケースに対処するためには、都市や建築に十分通じた弁護士等の法律家の養成が急務であります。建築家賠償責任保険制度はこのための第一歩であると考えられますが、あくまでも、自由主義的経済的「確率(probability)」的活動でありますから、現在のままでは、現在の日本における責任賠償にしか対応していないと考えられます。7)日本では、一般に日本の規制は欧米より厳しいと言う錯覚があるが、必ずしもそうではありません。フランスの建築基準の例でみると、『「法の精神」(性能規定)に厳しく、細かい数字合わせ(仕様規定)にこだわらず、「例外規定が充実」していて、「新規技術開発に対して寛容」である』わけで、法律上は、形態等に関する「裁量(discretion)」の余地が多いが、「安全規定」は、はるかに日本より合理的かつ厳しく、要するに、平面に占める避難階段の面積比の様なものは日本よりかなり多くなります。8)こうした裁量の部分のきめ細かな対応は、フランスでは、「民間の建築主事」が代行しているわけでありますが、そのperformanceは、その「経験(experience)」「報酬に応じたリスクに対する責任負担能力」「未経験事項に対する先見性」などにより左右され、余程能力が無い限り自動的に常識の範囲、あるいは、法規定よりも安全側におさまるようになっています。また、この職能に関しても当然保険が用意されていると考えられ、ここにも自由主義経済原理が働いていることになります。9)更に、建築に関する法規定が無い部分、緩い部分、裁量の部分、新規技術の部分などについては、国際的には、「火災保険料」の規定の細かな設定による自由主義的な歯止めがきいており、民間の建築主事の判断の目安になります。すなわち、将来の「利用者(user)」の「運転資金(running cost)」すなわち、負担能力によって、建築的冒険が能力、あるいは、必要以上にエスカレートしないように抑制されているわけであります。従って、日本で保険制度の更新が行われない限りは、不確実性が高まるか、有望な保険市場を海外に奪われることになります。ちなみに、サウジアラビアのケースでは、私が関わったプロジェクトは私が担当している間には竣工しなかったが、既に竣工しているプロジェクトに関わった先輩に当時伺った話では、『そのころは(現在はあるかもしれないが)現地には建築基準法のようなものがなく、火災保険の基準が事実上の国際的な建築基準となっていた』ということであります。10)このように、「責任に裏付けされた自由」が前提になっているわけでありあますから、日本においてその概念が啓蒙され成熟されるまでは、欧米から安易に「住民参加」の概念だけを持ち込むと不確実性が増すだけであります。「設計主体(the subject of design?)」を論ずるのにresponsibilityに対する考察がないとすれば、片手落ちという他ないでしょう。以上に示した様なことが、都市計画法・建築基準法の昨今の規制緩和の深層において起こり得ると考えられる事柄であり、「自由主義経済」という一つの『融通性はあるが(フレキシブルではあるが)効果的であり、巧妙な、「都市デザインレベル」でのデザイン・コントロールのインプリメンテーション(施策)』を考えるにあたり考慮すべきポイントでありましょう。こうした深層部におけるものに加えて、表層、目に見えるもの、知覚できるもの、感覚レベル、すなわち、形態的なデザイン・コントロールが必要になるわけであります。こうした問題の解決には、極めて多くの各分野の専門家(specialists:各分野についての責任主体、生活の専門家としての責任をもつ住民参加を含む)の関与が必要であり、それらを繋ぎ芸術のレベルまで高める存在として、欧米というよりは、internationalな意味での、architect(generalist:総合化の責任主体、棟梁もしくは統領、すなわち、都市計画家、都市設計家、建築家)の存在が必要になるわけであります。(1997年に書いたものを、ごく一部手直ししたものです。)
Jan 27, 2006
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日本が少子高齢化と言うと、そのまま進んでいったら大変なことになると思ってしまう。確かに、高齢化社会は大変なことであろう。だが、少子はどうであろうかちょっと考えてみよう。地球レベルでの環境問題の本質は、地球レベルでの人口爆発と物欲の増大にある。それを抑制するには、地球レベルでの人口抑制と物的福祉の抑制が必要である。宇宙船地球号の乗員である日本人も人口抑制と物的福祉の抑制と心的福祉への転換が必要である。せっかく人口増大がとまりつつあるのに、また、人口増大を前提とした社会を作ってはならない。人口の中の高齢者比率の高さと若年齢層の少なさは深刻な問題である。だからと言って、人口増大を目論む施策をとってはならない。これを期に、都市は人口集中を抑制し、コンパクト・シティーを目指し、空いた隙間の敷地は、可能な限りに於いて緑化等をすべきである。21世紀末をターゲットとする骨太の施策として、人口の減少を利用して、もっと安全で住み易く、人々の心を豊かにするような都市デザインを追及すべきである。そのためには、国家単位の経済的・都市的指標に固執するのではなく、国民一人あたりの経済的・都市的指標の維持と言う視点に立った施策をすべきである。そして、日本人の原風景をとりもどし、子供達に提供するように心がけるべきである。
Jan 27, 2006
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ホリエモンを取り巻く環境がかわってしまった。ホリエモン自身は外部情報の入りにくい監獄の中に閉じ込められてほとんどかわっていないようだ。マスコミの報道によって、ホリエモンはほとんど変わっていないはずなのに、ホリエモンを見る目が変わった、市民からみると、ホリエモンは別人のように扱われるようになる。市民の方も、自分の人格は変わっていないつもりだが、マスコミの報道により、視点がいつの間にか変わってしまっている。ホリエモンをとりまく環境がますます変わってしまっている。環境が変われば、そのなかの登場人物の存在も意味も変わってしまう。伝えられている検察の報道は、100%真実かどうかはわからない。だからこそ、これから法廷で争われることになる。しかし、市場は先入観の入った報道にもとづき、どんどん勝手に前へ進んで行ってしまう。ホリエモンを取り巻く人々の過去の意味づけがかわってしまい、現在も変わって行き、未来も変化してゆく。もはや、タイムマシンで時間の操作をされたような彼には、元に戻るという選択肢はなくなっている。複雑さを増した環境はもとにはもどらない。環境心理学に言う、Transaction(相互浸透)というのは、こういう状態を指しているのか。
Jan 26, 2006
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日本で言う、工学部の土木学科(civil engineering)は、欧米では、建築の構造(strucutural engineering)を扱っています。フランスの現場で聞いた話によれば、欧米では、civil engineer の優秀な人材は日本で言う土木(社会基盤工学)の構造に進み、優秀でない人材は日本でいう建築(architecture)の一般構造に進むということです。日本で言う工学部の建築学科(architecture)は、明治の初めに工部大学校(のちの東京大学工学部)に入れられてしまいました。欧米のように建築学部にならなかったために、構造(civil engineering)、電気設備(electrical engineering)、機械設備(mechanical engineering)などと、建築計画・意匠・歴史(architecture & planning)が同所帯になってしまったという歴史があります。1960年ごろには、都市工学(urban design & planning)だけが、工学部建築学科と工学部土木工学科から分離され、都市問題と建築・環境デザインがばらばらに議論されるようになってしまいました。最近では、東大でも、このぐちゃぐちゃになった、土木・建築・都市工学の再編を唱える先生の声も聞こえるようになりつつあります。日本の一級建築士は、現在の工学部建築学科に属する建築家、構造家、電気設備技師、機械設備技師の教育を受けた者の共通の資格となっていますが、欧米のように、建築学部と社会基盤工学が別々であるならば、本来別の資格と責任を有すべきこれらの分野が渾然一体となっています。真の耐震構造偽装問題の解決には、教育システム自体の改編が必要であり、一級建築士の資格の見直しだけしても本当の意味での問題解決にならないと思われます。
Jan 25, 2006
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ホリエモンが逮捕されて、もうすぐ1日がたとうとしています。ホリエモンは8000億と言われる資産をつくりましたが、それに見合ったコンテンツは創っていないようです。それ故に、かつて日本放送を買収しようとしたとき、フジサンケイグループのコンテンツに目をつけたのでしょう。そうした目利きはあるようです。少々時間がかかりますが、ホリエモンはきっと何らかの形で再起することでしょう。しかし、あいかわらず、彼だけの力では、コンテンツを生み出すことはできないでしょう。今度再起するときには、自分自身のタレント活動だけではなく、お金はそれほど儲からないかもしれないが、コンテンツを育成する組織を運営したり、パトロンになってほしいものです。環境問題に多大な影響を与える物づくりではなく、最小な影響しか与えない人づくりをしてほしいものです。そして、ホリエモンが時代の寵児であったころ、少し神がかった発言がみられましたが、少し熱気がかった頭を冷やすことで、再起にむかうことでしょう。
Jan 24, 2006
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ホリエモンと建築構造偽装問題と世間は賑やかであるが、両者には、相違点も多いが、似ている点もある。それは、特殊な専門領域に、従来は素人といえる人が参入して、それまでの業界の倫理的常識では、考えられないようなことをしでかしてくれたことである。はたして、有罪かどうかは、そのうち結論がでるとして、倫理的常識が働くことを前提としているのが、性善説であるが、それが働かないとするならば、性悪説にのっとって、規制強化にしなければならない。しかし、規制強化すれば、新しい自由な発想をさまたげることになる。これらの事件の結果として、政府が性悪説や規制強化に向かわないことを祈る。
Jan 23, 2006
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ヴィンテージといえば、フランス語で「ワインの年」とでもいうのであろうが、十数年前、パリで生活していたころには、ワイン用品点で20点満点の簡単な、ヴィンテージチャート(多分フランス語ではカルテ・デュ・ヴァン)なるものを用いていたが、それで、ハイスコアのワインを飲んでいると確かにおいしいような気がしたものだ。このブログを作ってから、ロバート・パーカーなる人物の名前をよく目にするようになったが、彼による100点満点のヴィンテージチャートが有名らしい。それほど微妙にこちらの舌が利くかどうかわからないが、お試しあれ。ただし、生産者倫理と流通業者倫理に性善説が成り立っている限りにおいて・・・⇒ロバートパーカーのヴィンテージチャートのホームページ⇒パーカー・ハイスコア・ワインのホームページ
Jan 21, 2006
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コンピュータのハードディスクに記入されたデータは、一度消去しても、検察で復元できると言われている。しかし、コンピュータのクロックは、それぞれのオペレータが、任意の時刻に設定できるようになっている。もし、誰かが、データを偽造しようとすれば、クロックを過去に遡って操作し、新しいデータを書き加え、ハードディスク上で消去することができるはずである。万が一このようなことが可能であるならば、電子データが証拠能力を持つかどうかについては疑問が生じる。検察がデータを偽造する可能性がないかについては、双方の信頼性によることになるかもしれない。コンピュータの専門家にお願いし、一度、技術的な側面から、この問題について、実験を行って調査してみる必要がある。コンピュータのデータに証拠能力があるかどうかで、今後の展開が変わる可能性があるだろう。
Jan 20, 2006
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ライブドアショックで、検察が何らかの形で立件することはまちがいなさそうだが、万が一検察が敗訴することになったらどういうことになるのだろうか。ライブドアの資産価値の目減りは既に4000億円に上ると言われているが、当然、民事訴訟になるだろうが、こちらでも、万が一検察が敗訴したら、国民の税金から支払われることになるのだろうか。ここまでして、検察が動いているということは、間違いなく、刑事訴訟に勝利する自信が検察にあるということでなければ考えられないことであろう。
Jan 20, 2006
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昨今の騒ぎの中で、民間企業の粉飾決算が問題とされつつあるが、その元凶は、政府・官僚機構の中にあるのではないだろうか。あらゆる福祉サービスおよび施策の意味のある基準となる国民一人あたりのGDPデータ等を求めるためのベースとなる人口予想データを粉飾してきたのである。約10年前には、2025年になると人口減少が始まると厚生省出身の東大大学院教授が講義していたが、実際は2005年のうちに人口減少が始まってしまったのはご存知の通りである。それも、去年の末にそれが発表されるまでには、多くの知識人は2007年に人口減少が始まるものと聞かされてきたのである。人口減少が始まったような社会では、国家単位の統計量よりも、国民一人あたりの統計量のほうが意味をもつようになる。そのベースの人口予測を誤った状態で、多くの都市・福祉・経済予測等が行われたままである。
Jan 19, 2006
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昨今、ライブドアの株式による錬金術法がマスコミに流れているが、その良い点については、政府は、通貨による錬金術法として学ぶべきところがあると考えられる。すなわち、株式市場における基準通貨に相当するものとして、米$(理解を容易にするため、操作前の$1=¥100とする)を設定するものとする。現通貨の¥100を逆デノミネーションにより額面で¥1000とする。すなわち、額面上は円はインフレーションになる。これにより、現通貨は¥100=$1であったものが、額面で、¥1000=$1となるはずであったが、市場では、¥500=$1程度におちつくことが予想される。すなわち、市場の実勢$価格では円はデフレーションになる。このとき、日本政府の負債を約¥1000兆=約$10兆だったとすると、逆デノミネーションにより、額面で、約¥10000兆=約$10兆になるはずであったが、市場では、約¥5000兆=約$10兆程度におちつくことになる。すなわち、逆デノミネーションの前の、現行価格では、約¥500兆に目減りすることが予想できる。もしそうであるならば、国債償還のスピードがかなり速くなり、むやみな増税や、少子高齢化対策をしなくても、成り立つ可能性があることが期待される。実際の通貨の運用は、そんなに簡単であるとは思えないが、ホリエモン流の錬金術からも学ぶべき所は学ぶべきではないか。
Jan 18, 2006
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昨日以来、ライブドアの虚業体質が一方的に悪く、物つくりなどの実業がよいというような報道がなされている。しかし、地球レベルでの環境問題のことを考えると、物を変化させる産業は、最低限にする必要がある。それでも、膨れ上がる人口問題と、豊かさを渇望する人間の欲望を満たすためには、経済的な発展、すなわち、人々にあたえる仕事を生み出す必要がある。物を変化させる産業を最低限に減らして、人々にあたえる仕事を生み出すために考えら得た仕組みが情報社会であろう。その情報社会の申し子であるホリエモンのような企業形態は、今後の環境問題を解決しながら経済を成り立たせる21世紀の社会のありかたへのヒントを提示しているものとも考えられる。考えてみれば、ライブドアは、デフレ経済の中で、インフレを実現していた、あるいは、バブルを体現していたとも考えられる。いわゆるバブル崩壊の解消のために生み出された、日本の800兆円とも言われる負債を解消してゆくためには、物を変化させる産業を極力減らしながら、人々に仕事をあたえる虚業こそが必要なのではないか冷静に考えてみる必要があろう。
Jan 18, 2006
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今日のニュースは、ホリエモンの錬金術とヒューザーの錬金術で賑やかですが、M&Aの錬金術に比べると、建設業界の錬金術なんてかわいいものですね。だいたい、設計者をいじめて外からほとんど見えない構造を骨抜きにするなんてたちが悪いことこの上ないですね。日本建築家協会のかつての設計監理報酬料率表によれば、工事費200万円の改修程度で、住宅は16.09%の設計料、工事費9000万円の新築工事程度で、住宅は10.00%の設計料、となっていますが、実際には、そこまで施主が払ってくれない場合が多いです。そもそも、建築家なんて、依頼主がほとんど知り合いなので、値切られてしまうわけです。その中から、建築構造家に払う構造設計料、建築設備家に払う電気設備設計料、機械設備設計料、造園家に払うランドスケープ設計料、建築工事の設計監理にむけた監理料、等々を捻出し、残りが建築意匠設計料すなわち建築家の取り分となるわけです。設計監理料を値切ると、設計監理にかける費用を減らすことになるわけですが、それがどんなに恐ろしいことか世の中に理解してもらういい機会になのかもしれません。ちなみに、彫刻家などは、彫刻制作費の100%相当が報酬だと聞いています。うらやましい限りです。
Jan 17, 2006
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先日、耐震強度偽造問題に絡めてそれまでは、建築関係者の性善説が期待されていたという日記を書いたが、ワイン業者にも、性善説が期待されていることに気がつく。ワイン業者は性悪説だとすれば、保存期間中、ワインセラーの中、空輸または船便などの輸送中、展示期間中、など、ちゃんと適切な条件で熟成保存されているということに期待するには無理がある。熟成に時間がかかる年代物のヴィンテージ・ワインでも、消費者に渡るまでのあいだに、不適切な温湿度条件等におかれることがちょっとでもあれば、消費者がワイン業者に期待している性善説が破られることになるからである。原産地でのワインの味が、同銘柄の輸入物のワインの味に勝るとすれば、先日述べた、料理との食べ合わせや合成保存料の有無のほかに、ワイン業者の性悪説的振る舞いにあるかもしれない。さて、現実はいかがなものであろう。日本酒の場合は、船便で赤道を超えてパリに届く剣菱が、あまくちの酒になるといわれている現実を考えてみる必要があろう。いずれにせよ、家庭用ワインセラーに入れても、いつ停電するかわからないのであるから、購入したワインは、できるだけ早いうちに、飲んでしまった方が、本来のその酒の持っている力を堪能できるであろう。
Jan 14, 2006
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今から×0年近く前の夏のこと、現在大雪で国道が寸断された秋山郷に、津南のまちから、一日何本もないバスで入ったことがある。しかしバスは、秋山郷のずいぶん手前で終わってしまい、そこから先は、熊の見えない影や鷹の姿に怯えながら、ひとり、山道を歩いてたどりついた。その津南からのバス道ができる以前は、真冬の間はもちろん夏の間も、たどり着くのは大変だった。かぼそい山中の一本道の突き当たりで、正しく陸の孤島であった。大雪で秋山郷に取り残された高齢者達は、昔の生活の厳しさを思いだしつつも、初めての経験ではないので、春がおとづれるのを、気丈に待ち続けていることだろう。しかし、秋山郷が日本最後の秘境といわれるくらいだからそれ以前の日本には、それ以外にも秘境といわれるようなところがあったのだろう。平家の落人部落といわれるようなところもあるようだが、季節のいいときには、桃源郷のようなところであったに違いない。日本は、便利になったようで、桃源郷を失ってしまったのかもしれない。
Jan 12, 2006
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昨年の暮れの建築学関係者の忘年会で、国土交通省住宅局の建築指導課長という人のお話があった。近頃世間を賑わしている建築構造家による耐震強度偽造問題の発覚により、今まで、建築関係者の性善説により成り立っていた建築基準法が、性悪説に変更しなければならないかもしれない状況に陥っていると言う。法律が性悪説になるということは、民主主義そのものの危機ではないかと思った。
Jan 11, 2006
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しかし、日本で飲むワインは高くても必ずしもうまくない。フランス料理やイタリア料理との食べ合わせの問題だという人もいる。しかし、フランスにのべ2年ほど住みこんでいたころ、中華料理や韓国料理や日本料理と一緒に食してもワインは確かにうまかった。現地では、合成保存料が使用されていないからという人もいる。また、年代物のワインとは何ぞやという問題が残る。それならば、飲み頃になってから、賞味期限をつけて、合成保存料を使用せずに、飛行機で冷蔵輸送したワインがあっても良さそうである。現実には、手元に届くまでの経路や保存方法はブラックボックスである。ユビキタス社会になってICタグが普及すれば、そういう情報が届くのかもしれないが、信じるもののみ救われるということなのか。
Jan 9, 2006
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軽井沢や中軽井沢は、別荘地で、シーズン中であろうと山の中。こんなところで、着いた晩に、ショッピングセンターまで買出しに行くのはめんどくさい。ここまで来て、食事を作るのもめんどくさい。こういうところこそ、デリバリー・サービスが充実して欲しい。
Jan 6, 2006
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1. 自動車の目的・利点、インターネット・ショッピング、宅配便サービス、個人または少人数で利用する自動車は、健常者にも障害者にも便利なものではあるが、障害者の多くには無くてはならないものであるのに対し、地球レベルでの環境問題の顕在が問題とされる今日においては、健常者の多くには必ずしも必要といいきれるものではない贅沢である。そこで、コンパクト・シティにおいては、極力、個人または少人数で利用する自動車交通を極力排除するという考え方が生じる。それに対し、多人数で利用するバスや、物流のトラックは、直接間接的に多くの人々の利便に供するもので、簡単には都市から排除することはできないものである。情報社会が進展し、インターネットの発達や、中心市街地活性化プログラムにより、庶民の購買品のもちかえり行動に構造的変化が生じたとしても、最終的な購買物の配送には、宅配便サービスなどにより自動車交通を必要とすることになる。また、都市の部分を構成する、建築物やランドスケープの植え込みは、一定の期間ごとに、メインテナンスや増改築・新築が行われ、その折には、メインテナンス用自動車通路が必要となる。従って、コンパクト・シティーにおいても、24時間自動車交通の禁止にするわけにはいかないのである。2. 窓口会社、コンビニエンス・ストア、在宅介護サービス、テレビ電話郵政民営化により、郵便局がいくつかの機能に区分され、窓口会社が生じるようになるが、この窓口会社は、旧郵便局の窓口サービスだけをするわけではなさそうである。そこには、テレビ電話状のプリンター付コンピューター端末が配備され、市町村役場の総合窓口サービスや、証明書類の発券が行われたり、コンビニエンス・ストアのような機能が持たされ、さらに、銀行ATMや、航空券・指定券等の発券サービスが期待されるだろう。そして、窓口からの配達サービスは、買い物宅配サービスを伴い、過疎地に限らず、在宅介護サービス・ビジネスを展開する可能性も生じることであろう。これにより、これまで、大きな窓口機能を持っていた郵便局、銀行、駅、役所等の機能そのものは、以前に比べてコンパクトなものでよいことになり、窓口・市民直接対応機能は、新郵便局窓口会社や、既存コンビニエンス・ストアなどに分散配置されることになろう。そして、物流等の自動車交通の流れも、宅配サービス等の発達はあるものの、個人または少人数で利用する自動車交通の割合は減少しうるポテンシャルを持っていると考えられる。3. 高齢者と遠隔操作コンピューター・オペレーション・サービス、テレビ電話状のプリンター付コンピューター端末が窓口会社用に開発されると、それは、時間の問題で、電話感覚で、一般の家庭で利用できるようになるだろう。それには指紋認証機構のついたスイッチがつき、暗号通信の発達が必要とされるだろう。また、窓口会社等に配備されたコンピューター・オペレーターが、家庭に配備されたコンピューターの遠隔操作が出来るように設定された、テレビ電話状のプリンター付コンピューター端末であるならば、高齢者など、コンピューター弱者などであっても、電話感覚で、窓口会社のサービスを、ディスプレイを通したフェイス・トゥー・フェイスにて受けることが出来るようになるであろう(遠隔操作コンピューター・オペレーション・サービス)。要するに、情報化社会においては、端末のインタフェイスの設計の如何で、如何様にも、ライフスタイルを設計できるようになるわけである。これにより、人々は、子供も高齢者も、自らが欲する近所の散策行動以外に、常時まちなかまで出かける必要はなくなるわけであり、個人または少人数で利用する自動車交通の割合は減少しうることになる。もちろん、自らが欲する近所やまちなかまでの散策をなくすわけではなく、健康の維持や精神的なリフレッシュメントのために、ウォーキングや自転車の利用や周回バスの利用をすることをとがめるものではない。(図1 遠隔操作コンピュータ・オペレーティング・サービスができる総合窓口機能)4. 身障者対応の車と車椅子と集合住宅デザイン等最近では、軽自動車の運転席に、車椅子ごと乗り込み運転できるような自動車が開発されているが、これは、それまで、一人で遠出や近所の散策ができなかった身障者にとって便利であることは言うまでもないことである。このように、身障者用車椅子が高機能・高回転・コンパクト化されると、既存の住宅や集合住宅の、身障者・高齢者向きの改修工事の程度が少なくてすみ、予算も少なくてすむことにつながる。そもそも、公共空間や公共施設等では、新設の設備の場合は問題ないが、伝統的建造物や、海外の歴史的な空間において、健常者と同様に身障者が生活や観光をエンジョイすることができるようにするためには、身障者用車椅子が高機能・高回転・コンパクト化され可能な限り量産されることが望ましく、場合により、ロボティクス技術を組み込むことが望まれる。こうした改修等は、建築のような一品生産の部分で行うよりも、工業化量産化が可能な部分と技術で行うほうが、低予算で高機能化が可能になることは、着目すべきことである。5. 雪国の身障者対策高齢者や身障者対策で、今後の問題となるのは、雪国における対策である。これは、健常者にとっても住むのに容易ではない場所であるので、ひとまず、一般的な集合住宅や都市機能について、対策が進んだならば、次の段階として、如何にすべきかの検討を要しよう。
Jan 5, 2006
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