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何年ぶりだろう?壊れたパソコンをリカバリーしていろいろ再設定しているうちに楽天ブログにたどりついた。たまに携帯では覗いていたが、ずっと書き続けている人や休止、放置している人、様々。放置の一人であった自分が、今、たまたまのキッカケと勢いで更新している。まだ、福祉の仕事はしている。紆余曲折もあり、日々落ち着かない。体調も良くはない。でも、確実に進んでいる福祉社会。緩やか過ぎて変化にも気づけない時も。でも、確かに変わっている。いい意味でも、そうでなくても。福祉に、教育に、社会に、障害者と区別される人達が確実に、ゆっくりと、私たちの周りに共存している。また気分が乗ったら独り言。
2010.01.20
みなさん、お久しぶりです!ちび犬はちゃんと生きてます。仕事もちゃんとしています。楽しみながら、無理しない程度で自分の許容範囲内で仕事してます。夜遅いこともありますがひとりじゃないので辛くないです。ようやく仕事は慣れてはきたのですが家に帰ってからあまりパソコンを開きたくないくらい数ヶ月ぶりに働くのはさすがに身体に堪えます。もう少し余裕が出来るまではしばらく日記はお休みしています。本当に気が向いたときだけ書きますので、こんな日記ですがよろしくお付き合いください。話はがらりと変わって、今日は2ヶ月ぶりのきょうだい会でした。今回は、セルフポートレートといって自分で考えて自分の写真と撮るといういままでにない企画をやりました。自分で撮るといっても、腕を伸ばして写しても近距離しか撮れないないので、自分で構図を決めて仲間に撮ってもらう形で、心のファインダーで自分を覗いて仲間がシャッターを押すみたいな、「自分を表現する写真を撮る」斬新な企画でした。あいにくの曇り空の中、北○道大学のキャンパス内で思い思いのポーズや背景を考えながら素人とは思えない素敵な写真を撮っていました。出かける前には人見知りし合っていたメンバーが自分達で自ら連絡先を交換するくらいに仲良く楽しんでいました。学校行事などが重なって今回は人数が少なめでしたが内容の濃い素敵なきょうだい会でした。次回は毎年恒例の12月クリスマス会!徐々に新メンバーが増えてきて運営する側としては本当に大変ですが、幼いきょうだい達の笑顔にいつも励まされて次もまた頑張ろう!と思う大人のきょうだい達でした。
2005.10.23
僕がブログをはじめて1年経った。何度かのリニューアルを重ねながら今日までなんとかやってきた。ブログ開設のきっかけをくれた、ゆ~ほさんの新たな旅立ちにいままで何度も僕を励ましてくれた感謝ときっとまた再会できる日をを信じて。あ・り・が・と・う!きっと、また会おうね!いってらっしゃ~い!!
2005.09.28
本日、再び仕事が出来ることに決まった。地域での日中活動の仕事になりそうだ。もちろん懸命にするつもりだが主役はあくまでも「本人」であり、彼らの暮らしをより楽しく充実した笑顔あふれる支援をしたい。本人だけではなく親やきょうだいも含め「しょうがい」を共に生きる人達がくらしやすい世の中になるように出来る限りのことをしていきたい。今度は自分を追い込み過ぎないよう自分自身の暮らしも大事にしながらギブアップしないように肩の力を抜いて「楽しく」をモットーに頑張りたい。昨日の月を「美しい」と感じる余裕を忘れないようにして。
2005.09.27
今日は自閉症親の会の公開講座に参加。あらためて思う。たとえ仕事として直接支援できなくとも兄の生きた証として自閉症や発達障がいの人々やその家族が楽しく過ごせる社会をつくるその手伝いをしたい。明日はどんな日かを臆病に考えるよりもどんな明日が来ても乗り越えられる力と困難に立ち向かう勇気と希望をもって今この瞬間を楽しく過ごすことがたとえどんな明日が来ようとも後悔せずに前向きに生きていけるそんな毎日を過ごしたいと感じる今日。夕焼けに彩られた曲線の雲にきっといい明日が待ってるとそう信じて。
2005.09.26
昨日、今日と2日続けて、有名になったモエレ沼公園に隣接する農業体験交流施設「さとらんど」の炊事広場で焼肉!昨日は十数年通うスナックの飲み仲間さんたちと、今日は7月からボラに参加し始めた障がい者家族の団体で。たまたま別々に上がった計画なのに、まさか続くとは驚き!昨日は午前中小雨が降っていたのが午後には上がりちょっと晴れ間が出たくらいの過ごしやすさの中、みんなの楽しい食事を脅かす無数の集団が飛来!そう!ハエだ!さすがに今日はその小さい敵とは戦いたくないので殺虫剤を手に現地に出動!そんな行動に驚かれながらもデカイ缶1本なくなるまで噴射!!お陰で楽しく食べれました!終了後、その団体のきょうだい+αでボーリング&バイキング!最近の小中学生にフツウに「オジサン」呼ばわりされることに少しは慣れ始めてきたけれど、やはりまだショックだぁ~!!
2005.09.19
今日の北海道は冷え込みました。札幌で17℃しか上がらなかった。夕方、出先から家の近所に帰ってくると異常なくらいパトカーが巡回していて、前方に赤色灯が回ってたのでいってみたら7○レブンに紺色のグランドチェ□△ーがクルマ半分突っ込んでた!犯人男2人逃走中~まさか近所でこんな事件が起きるとは…かつて住宅より空き地が多く住みやすかったのに、団地が出来て、大型スーパーが出来て便利だけど、知らない人が増えて、中学校が荒れ、治安が悪いし、なにしろ空気が悪い。田舎暮らしが少し恋しい~
2005.09.14
本日、母がようやく退院しました。まだ炎症反応はあるものの、血栓はちいさくなりしばらくワーファリンという血流をよくする薬を飲み続け、ビタミンKの摂取禁止で納豆が食べれないくらいの制限はありますが、普段の生活に戻れます。心配で検査した膠原病の再発は診られてないので、無理をしなければ大丈夫そうです。皆様にご心配戴きまして、心より感謝申し上げます!
2005.09.13
今日は前々から友達と約束してずっと行けなかった、積丹の温泉に向ってドライブへ。積丹岬までは順調な空模様で、海辺まで降りて写真撮り。しかし、神威岬に着くと物凄い強風で灯台まで歩くのを断念。海が温泉も見渡せる温泉もあきらめて積丹半島を一周。ニセコパノラマラインを通り、先月行ったニセコ町のひまわり畑のある牧場の名物シュークリームとプリンを食べ、今年3回目のニセコアンヌプリ温泉「湯心亭」へ。初めて行ったときはオンボロだった建物がリフォームされ外装も浴室もきれいになって、最新マッサージ機も無料、なりより源泉100%の源泉で日帰り入浴700円に惚れる。帰り道に小樽運河近くにある、とても大好きなイタ飯屋「ベリーベリーストロベリー」でパスタを食べ帰路に。ドライブ中、TUBE、T-BORAN、B’zの懐かしいバラードのベスト版を聞きながら唄いまくり、ひたすらしゃべりまくり、美味しいものを食べまくり、ひさびさに心も体も存分にリフレッシュ!!雨も降ったがそれも愉快に感じるくらいに楽しかった!!
2005.09.12
最近、またサボり癖が・・・書くことがない訳ではないがいろいろと考えることが多くてパソコンを開くのが億劫になってた。でも、それも正直な自分。別に否定も肯定もない素直な自分。まぁ~何事もはじめる前に考え込んでしまう悪い癖ではあるが、そんな自分も好きだから自分で決めたことに真っ直ぐに進んでいけるそんな自分であり続けたい、自分自身をもっと好きになりたい、と思う今日この頃。
2005.09.11
以前、とらジジさんが紹介してはじめて知ったホワイトバンド。あまり本を読まない男なので本屋に行く機会がなくしばらく忘れていて、8月末に近くの本屋の入り口にその文字を発見!しかし品切れ!「9月入荷予定、予約承り中」と書かれていたが、予約までしなくともと、9月に入ってまめに本屋をチェックしに行くがなかなか入らず、本日ようやく手に入れた!!家に帰ったら、ちょうどFMラジオでホワイトバンドの紹介をしてた。気になる方は、下のアドレスへ。www.hottokenai.jp
2005.09.07
今日は、翻訳家のニキ・リンコさんの講演会に行きました。以前1月にも行われたのですが、体調不良と吹雪で参加出来ず、今回、お話をお聞きすることができてとても良かったです。2年前の森口奈緒美さんの講演会以来、久しぶりに当事者ご本人の日常生活での情報処理のメカニズムとその苦労を聞いて、周辺にいる人間の、モノを伝える技術の差によって理解や行動、処理に変化があって、趣旨と目的の理解が深まることによって不可能だったことが可能になったりする、など・・・自閉症視点を分かりやすくお話して戴きました。機会があれば、後日紹介したいと思います。
2005.09.06
母はようやく回復してきた。入院治療をはじめてから血圧が高く時々熱も上がっていたが、足の腫れが徐々に引き、今日ようやくトイレにいけるようになった。昨日の孫薬の効果もあったのだろう、自分で歩けるシアワセを感じて表情に余裕がみられた。母なりにストレスを感じていたようで、口内炎が出来たり、多少ワガママな要求があったりもしたが体調が上向きになると人はこんなにも違うものだろうか?もうちょっとの辛抱で退院できそう。孫の運動会までにはきっと退院することでしょう。
2005.09.05
今日はひさしぶりに友達とガトーキングダムへ。夜9時から12時までの料金500円で満喫。一時間プールに浸かり、出るときに足元ふらふら~意外と水の中って水圧でカラダ軽くなってるものですね。歳を重ねて足腰弱ってきてるのを実感。そのあと2時間の温泉入浴、スチームサウナを楽しむ。風呂から上がりホテルのラウンジにいき夜景を見た。心も体もゆっくりまったり過ごしました。
2005.09.02
って、感じられないほどに日中まだまだ暑い!昨日も寝苦しい夜に扇風機かけっぱなしで寝ました。はやく食欲の秋、恋愛の秋、スポーツの秋を満喫したいのに~!って季節のせいにする…「夏の終わりのハーモニー」のメロディーがはやく似合う季節になって欲しい。もう9月、また一歩、進まなきゃ!
2005.08.31
今日は歴史的な1日なのかもしれない。それは総選挙の公示日のことではなく、現在、世界第2位の販売台数を上げている日本が誇る自動車メーカーが国内に立ち上げた、「トヨタ」が放つ新ブランド「レクサス」の誕生日だ。すでに北米を中心に立ち上げいる高級車ブランドで、その市場ではベンツやBMWを押さえトップを独走している。ただ、日本では同じクルマが売られていたものの、ブランドイメージとは懸け離れた「車名売り」が欧州車と比較して安っぽく一般的に感じるセレブには受け容れられず、日本での高級車市場に苦戦のトヨタ。それを払拭し、ベンツ、BMWに挑戦しようと「レクサス」ブランドを逆輸入する戦略に出た。クルマ好きの僕にとっては歴史的な出来事だ。ただ、クルマを一目みたら日本車の9割は「車名」がわかる僕であるが、「GS」や「CS」など欧州車と同じように「記号」で車名を表されるのはいつかのマツダのクルマみたいにとても覚え辛いのであまり歓迎はしないが、魅力あるクルマであることには変わりない。来年発売の「LS」(セルシオ後継)に期待!「いつかはクラウン」というフレーズがかつてあったが「いつか、レクサス」に変わる時代がもう間もなくである。まあ~大理石の床やウン百万もする応接セットなど一般ピープルにはとても敷居が高くて店舗に入ることすらかなりの勇気がないと出来ないと思うが、「いつか、レクサス」を操ってみたい。
2005.08.30
ドラマ「広島」を少しだけ見ました。今この瞬間こ生きる幸せは、たくさんの犠牲のよってに成り立っていること、ニッポン人として忘れてはいけないとあらためて思いました。だからこそ、今を大切に悔いのないようにもっと貪欲に生きなくちゃ。
2005.08.29
母のこと、ご心配戴きありがとうございます。まだベッドから立ち歩くことはダメですが、前日よりは腫れや痛みが引きいたようです。今日は孫が見舞いにくるのが待ち遠しくて朝からそわそわしてました。お昼過ぎに到着してまだ字にならない字でおばちゃんへお手紙を書き、チョコとキャンディーをリュックから出して渡す孫、わずかな時間でしたが何よりの薬だったようです!病気やケガで2年に1度は入院している母でも今回はさすがに自分でも心配な様子で、いつもみる母が小さく弱くみえます。明日から本格的な検査が始まります。「健康」で過ごすことの有り難さ、あらためて感じます。
2005.08.28
昨日は友達と2人で帯広へ。午前中は、前日に母が両足が腫れて動けなくなり静脈血栓の疑いで緊急入院、検査と治療で1週間ほど入院することになった。同室の患者さんが脇腹を切ってパイパス手術したのを聞いてビビっていた母だったが、先生から手術は必要ないだろうと言われ安心したよう。午後から一ヶ月前から友達と約束していた、十勝川の花火大会へ向う。台風通過でお天気が心配だったが、たとえ雨でも以前札幌に出していた帯広の豚丼屋さんの水や食材にとことんこだわった美味しい豚丼を食べたいと帯広へ向った。近づくほどに天気は回復、日勝峠を下る頃には雲が薄く晴れ間が見えて最高の花火日和となり、広大な十勝平野の絶景を拝むことができた。迷いながらも豚丼屋さんに到着、いつもながら絶品の豚丼を頂いた。ホントに美味しいものを食べたあとは、もう一杯食べれそうなくらいに口の中で唾液が止まらない。豚丼屋というより店主自らコーディネイトしたオシャレなカフェスタイルの特に有名なお店という訳ではないが、以前の札幌の常連さんが多く通うほどの隠れた名店だ。豚丼を満喫したあと、一万発の花火が舞う花火大会へ。札幌では4・5千発の規模しかないが、十勝ではお盆に行われた十勝毎日新聞社主催の2万発を筆頭に万単位が常識のよう。曇りの予報が幸いにも雲が少なく晴れてきて、場所も寝そべって観れるベストポジションを確保できた。現地の友達と合流して3人で鑑賞。すごい!本当にすごい!一度に上がる数といいデカさといい今まで一度も見たことのないすごい迫力と規模の花火だった!現地の友人いわく「勝毎」ほどすごくはないと言うが、こんなに大きくて思考を凝らした花火を初めてみた!感動した!豚丼といい、花火といい、今日は満足しまくり!出来れば来年、15万人動員の2万発の花火が観たくなったが今日はとても満足して滞在時間4時間で帯広をあとに。途中、地平線から上がりたての真っ赤な月を仰ぎ、途中で運転を交代して助手席で居眠りしながら午前1時半、帰宅。前日あまり寝れず鼻風邪気味の体調でハードな一日だったがとても楽しい時間を過ごした。
2005.08.27
気のせいだろうか?出揃った各党のマニフェストに、自民党の「障害者自立支援法案の成立」以外はしょうがい者政策が盛り込まれていないのは。えっ?!ホントに?!あまりにもヒドくないですか!?なんの対抗案も出ないの?厚生労働省のお役人さんが財務省に予算上無理とゴリ押しされたままの、このまま成立したら多くのしょうがいを抱えた人々が苦しむことが明らかな法案に対して、物申してくれる政党はどこもないんですか?自民党だけが悪いなんて思ってませんがあまりにもこの国の政治はおかしくないですか?福祉や社会保障を軽視し過ぎると、あとあと若い世代にツケがまわることにもう少し多くの国民が気づいて欲しいです!郵政民営化も年金問題もとても大切ですがいつ何時、自分が事故や病気でハンデをもち、「しょうがい者」と呼ばれる国民全体からみたら少数の「弱者」(この表現は大嫌い!!)扱いされて、幸せに暮らしづらい枠組みの中で生活しなくちゃならない状況に追い込まれてから嘆いたって遅いと思うんですけど・・・。「しょうがい」をもつことが不幸だなんて思いませんがこの国に生まれたことに不幸を感じる国民で居続けたくない、と思うのは僕だけでしょうか?
2005.08.26
今日はこの曲をリピートして何十回も聞いた。15時過ぎからいつもの友達とカラオケへ。久々に喉の調子がよく高音もよく出て気分爽快~♪DAMのCMでやってる採点機能で最高点が92点!しかも初めて唄った「sacura」の「かげぼうし」で!ほかは76点が最低で平均85点くらいかな?ビブラートはやっぱ難し~い!!「コブクロ」の「ここにしか咲かない花」を友達にリクエストされ唄ったら、その友達が泣いてしまった!それほど上手い訳ではないが、とくにスローバラード系は得意としてるので感情移入して熱唱し過ぎたのかな?!それでも分からずに曖昧に唄っていた部分があったのでカラオケのあとTSU○AYAで友達がCDを購入して縦書きの歌詞カードに驚きながら何十回も聞き唄い、帰ってきたからもメロディーが頭から離れない~♪なにもない場所だけれど ここにしか咲かない花がある・・・・
2005.08.25
駒大苫小牧の暴力事件。2連覇の快挙を成し遂げた選手達にとってはその嬉しさを掻き消すほどに悲しい出来事。故意に遅れせた発覚後の学校側の報告、加害者の部長と被害者の父との食い違い、部員同士ではなく部員への大人の一方的な暴力、優勝報告会の中止、もしかしたら優勝取消しも・・・全て「大人の都合」に振り回されている今年の甲子園で一番輝いていた選手たち。どんな結末が待っていたにせよ、選手たちが胸を傷めたことに変わりはない。「傷つけられた栄光」を胸にやがて選手たちも大人になっていく。しかし君たちのファインプレーに偽りはない。それを誇りにして歩んで欲しいと心から願う。同じ過ちを繰り返さないようもっと「大人」が信じられる「オトナ」にならなきゃ。政治から変えなきゃ。自分たちの手で。9.11、選挙にいきましょう!
2005.08.24
今朝の○HKをちょこちょこ観ていた。明石さん親子が生出演して、歩みを紹介していた。お母さんは以前、講演会でお見掛けしたことがあるが本当にとてもパワフルですごいオーラを放たれていた。息子さんは決して軽くはないが、公務員として働く姿に勇気づけられた本人や家族は多いと思う。ありのままに受け容れ、ありのまま地域に伝え、ありのままに今を生きる事実を世間に伝え、「勇気」と「希望」を与えてくれた明石親子。「自閉症」の可能性を自ら示してくれた親子に、あらためて心から感謝したい。
2005.08.23
このところ暑さも少しやわらぎ連日の甲子園からの中継も終わりなんだかわびしさを感じはじめる。もうすぐ秋なんですね~今年は自分にいろいろあり過ぎて時間が経つのがすごく早く感じる。これから先どうなるのだろう~扉のムコウに不安に感じつつも扉を開けて勇気ある一歩を踏み出さなきゃいけない時期になっている現実を受け入れ前に進もう。進まなきゃ何も始まらない。自分のやりたいことをあとで後悔しないように一歩前へ。
2005.08.22
今日もお祭りのお手伝いへ。雨の中、客足もまだらで、さびしい祭りだった・・・「行列」のあと、坂本九物語を観る。泣いた。あの裏表のない九ちゃんの笑顔が映るとホントに「いいヤツだったなぁ~」と友達みたいな親近感を覚え、「また会いたい!」と思ってもそれは二度と叶わぬ現実。兄のそれのように。でも忘れない、あなたを。生きている限り。でも、番組を観て納得がいかないのは、九ちゃんの黒い分身(悪魔?!)が現れ囁く設定。幸せ過ぎたから起きたかのような演出。あの事故には必ず原因はある。先日の特集番組をチラッと観たときに事故調査に問題が・・・日航の責任は・・・今も頻繁に繰り返されるトラブルは・・・・決して見過ごしてはならない現実を風化し美化しないで欲しいと強く願う。兄の誕生日に、兄と同じ日に亡くなった尊い命と、大事な人を亡くした家族のために。
2005.08.21
今日は、あるお祭りの手伝いに行きその最中に高校野球決勝戦が気になりラジオに耳を奪われてばかり。南北海道代表、駒大苫小牧優勝!!すごい快挙だ!2連覇だ~!普段、スポーツ観戦は好きではないがさすがに今日は鳥肌が立つくらいに優勝の瞬間は喜んだ!今日は色々とあって疲れ果てて文章まとまらず。これにて失礼。
2005.08.20
ここ数日の日記で「きょうだい」のことについて書きました。母として胸を痛まれた方がいらしたら、本当にごめんなさい。僕自身、この記事を書くことにかなりの勇気が要りました。でも、決してお母さん達を傷つけるために書いたのではありません。逆に、「お母さん」を応援したくて書いたつもりです。「しょうがい児」も「きょうだい児」も大切に想う気持ちは皆さん同じであることは、私が身近に接しているお母さん方を観ていれば十分に理解しているつもりです。だからこそ、お母さん方には、もっと、ゆとりをもって生活して欲しいんです!大抵の場合、「子育ては母親の仕事だ」と「収入ある仕事」を理由に子育てに参加しない父親が多いと思います。それは「しょうがい児」がいたとしても例外ではなく、ただでさえ一人で子育てするのは大変なことなのに、「障がい」を勉強しながら「しょうがい児」にも「きょうだい児」にも愛情深く、毎日を懸命に奮闘するお母さんを数多く知っています。自閉症などの講演会や勉強会に参加する積極的なお父さんはいつも限られていて、多くの父親に正直もっと勉強してもらいたいと思っています。しかし現実に仕事上、無理なことも分かります。でも、ホントにいまのままでよいのでしょうか?幼少期に心傷めている「きょうだい」が存在する以上、昨日までの記事を書かずにはいられなかったこと、どうかお許しください。お母さん方へお願いです。あまり「障がい」にいっぱいいっぱいにならないでください。もっともっと、人に、地域に、甘えてください。人に任せる勇気をもってください。もっと自分らしく生きてください。趣味でも娯楽でももっと楽しんで、ゆとりをもって生活してください。リニューアル前のブログにも書きましたが、30年以上とある地域の親の会を支援している、教師や入所施設職員の経験ある女性の専門家はいつもお母さん達をこう叱っています。「『しょうがい児』の母である前に、『きょうだい児』の母でもあり、 一人の夫の妻であり、一人の女性なんですよ!そんなに「障がい」に いっぱいいっぱいになっていて、自分自身の人生は楽しいですか? 『障がい』は1割ぐらいでいい、もっと『きょうだい』のことに、 夫のことに、自分自身のことに、もっと力を入れてください。」この言葉、自分の子供の頃の母親にも聞かせてあげたかったです。もっと教師や福祉の職員を頼って、行政に頼って、地域に頼って、自分自身を大切にして生きてください、とお母さんに毎回エールを送っています。ヘルパーやレスパイトを上手に利用してくださいとアドバイスしています。もっと、ゆとりをもって生活してください。この国が「障がいあるヒト」に優しい国になって欲しいと思いますがそれを待っていても、ただ時間が過ぎていくだけです。ですから、一人で頑張らないで、もっと勇気を持って、他人を地域を巻き込んで、「楽しい自閉症ファミリー」を目指して欲しいと、心から願っています。
2005.08.19
「自閉症の兄弟が叩いてきて、叩き返したらお父さんに自分が怒られた。」「いつも我慢してるけど、どうして僕だけ怒られるんだろう?」「『自閉症なんだから』と言って、いつも親はひいきをする。」先日のきょうだい会キャンプでの、勇気ある告白です。僕も同じ体験があります。いつも兄から仕掛けてきます。いわゆる他害です。兄弟同士に他害という言葉が当てはまるかは分かりませんが、叩いてきたり、ひねってきたり、かっちゃいてきたり、兄は寝たきりになるまでは、しょっちゅう仕掛けてきました。子供の頃は、僕もついカーッとなって叩き返したりもしましたが、たとえ逃げてもしつこく追いかけてくることもありました。「自閉症なんだからしょうがないでしょ。」って怒られことも、「されるの嫌だったら逃げなさい。」とか言われたこともあります。「えっ?僕が悪いの?」と言っても「もういいから!うるさい!」と親に返され、悔しくても泣き寝入りするしかないこともありました。姉や妹ともケンカすることはありましたし、一般家庭でも兄弟ゲンカはごく当たり前のことです。しかし、「仲直り」が成立しない兄の場合、一体どうしたらよかったのでしょうか?言葉を発しない兄を父が無理やりに頭を下げさせ握手をさせても、決して心は晴れませんでした。たとえ兄の挑発から逃げたとしても、この家に僕の居場所はないのか?ととても悲しい想いをしたことが何度もありました。「自閉症だから」「障がい者だから」それを理由にひいきすることは、「きょうだい」という立場では、いまだに理解できません。それは僕がまだ結婚もしていない独身の立場だからなのかもしれません。職業として理解し経験してからは、「なぜ?そうするの?」と客観的に考えるようになりましたが、その前までは「自閉症」という名前だけで、どんな「障がい」なのか自分は理解していませんでした。「自閉症」を理解していたら、兄に対する接し方も親の言い分も少しは納得していたのかもしれません。「なぜ、兄はそうするのか?」「だから、どう対応したらよいのか?」それさえ分かっていれば、悔しい思いをすることも、親が「ひいき」してる、と感じずにいたのかもしれません。別の話、ある自閉症専門家の講演会で中で、「きょうだい児」に対してのアドバイスしていた時のお話しです。「しょうがい児」の名前をメールアドレスにしていたり、携帯の待受け画面にしている人はいませんか?それを、もし「きょうだい児」が知ったら、どう感じると思いますか?僕はその言葉を聴いたとき、胸が熱くなったのを覚えています。
2005.08.18
友達に兄弟が「自閉症」だって話していない。だから自分のお家に友達を呼んだことがない。先日の「きょうだい会キャンプ」で、ある子が告白しました。他の子が、自分は仲のいい友達に話したら理解してくれたよ!とアドバイスしていました。他のきょうだいの体験を聞き、きっとその子も少し勇気が出たと思います。でもその前に、果たして「自閉症」とは何か?幼いきょうだい達が知るには、まずは親が「自閉症」を知り、「我が家の自閉症児・者」の特性を理解することが大切で、その上で「きょうだい」の年齢・年代や学校での関わりに応じて「自閉症」を段階的に教えてあげることが必要だと思います。僕の兄の時代の「自閉症」は、「情緒障害」の枠の中で扱われ、親の育て方が悪いとか、母親の愛情不足など、全く根拠のない囚われ方しかされていませんでしたから、親が進んで「自閉症」を教えてくれることはなく、むしろ詳しいことを質問して怒られた記憶があります。実は僕も、子供の頃は友達に兄のことをあまり話せなかった一人で、その子の発言に自分の過去を重ねてました。しかし現在は、「自閉症」を認知してくれる時代に変わりました。ドラマや情報番組などのテレビや新聞、インターネットの普及で、入らないモノはないくらい情報があふれる中、「自閉症」も多くの国民に理解されつつあります。当然、大人の社会だけではなく、学校という子供の社会にも浸透されはじめています。でも、間違った情報や知るべき教師が詳しく知らない現実もあります。そこで大事なのは、親が「きょうだい」に正しく「自閉症」を教えること。知ることによって兄弟との関わり方や、友達との理解を深め、臆病な自分から脱却できるチャンスを与えられるはずです。本人告知も大事ですが、「きょうだい」への告知も大切です。家族全員が「自閉症」を理解し協力して生活することが、「シアワセな自閉症ファミリー」を築く最初の一歩です。
2005.08.17
先日の土日で行った「きょうだい会サマーキャンプ」。カヌーや動物園のレクレーションの他の大事な目的に、きょうだい同士が話し合う「プログラム」があります。自閉症をはじめ障がいのある兄弟姉妹がいる「きょうだい」という立場でなければ理解できない様々な日常を告白し、思いや悩みを共有し、話し合い、問題の解決策を見出し、「きょうだい」として生きる勇気や希望を見い出すことが出来ればと毎回、キャンプとクリスマス会で行っています。基本的に大人のきょうだいはアドバイスはしていません。同じ世代の仲間が体験を発表して、同じ事例を発言したり、自分は別の体験をした、わたしはこうして乗り越えたなど肯定的、自主的に、前向きな意見や発表を促しています。発表したくない子に無理強いはしていません。たとえ発表しなくても自分はどうなのか、と考える機会になってます。「きょうだい」として同じ悩み、痛みを共有、共感して、明日、未来へと踏み出す一歩を互いに与え合っています。ですから、なかなか発表できない子であっても毎年参加してくれている事実があります。受験や用事などで来れない子もいますが、年を追うごとに固定メンバーが増えてきています。僕らの運営するきょうだい会は、集合からは移動し解散するまで数名のボランティアさん以外は、純粋に「きょうだい」だけで運営しています。そこにも自由に言い合える安心感はあると思っています。今回も様々な告白や成長を感じさせる発言、経験者からのアドバイスなど、参加を重ねるごとに本音で話し会える「仲間」が確実に増えてきたことに、運営する側としての嬉しさと、自分の子供の頃にこんな会があったらなとうらやましさも感じています。当事者本人や親同士が繋がる当たり前になっている今、「きょうだい」同士の繋がりはまだまだ少ないと思います。「きょうだい」は「障がい児・者」よりも人権が守られていない、と発言する専門家もいます。「きょうだい」を理解し支えることが出来るのは「きょうだい」しかいません。大規模でなくてもいい、身近に「きょうだい」同士の繋がりがあれば、もっと前向きで楽しく生きられるはず。「きょうだい」のネットワークを、もっと理解して広めて、「しょうがい」も「きょうだい」も「親」も、みんなが幸福な毎日が過ごせる社会が実現できたらと願い、僕は「きょうだい」の活動を続けていきます。
2005.08.16
今日はお墓参りに行ってきました。父、母、下の姉貴を乗せて北に走り、渋滞を避けて遠回りしながら快調に、とらジさんちの前を通って、まずは一ヶ所目。お参りしてから白ハトマークのお店で買った弁当を木陰で食べ、それからすぐまた南へ2時間かけて移動して二ヶ所目で、旭川から戻った上の姉貴夫婦と合流して3つのお墓をお参りしたあと、多少時間をつぶしながら、下の姉貴が友達からもらった券で西武系ホテルのディナービュッフェでたらふく食べて、道東旅行から帰ってきたばかりの妹家族のうちに寄り、お土産をもらい帰って来ました。走行距離、約180キロ。ふ~ぅ、食べ過ぎてお腹張って運転で気分も張って昨日までの疲労もあってかなり疲れました。でも無事に先祖供養できてよかった~!今夜は早く寝ます。おやすみなさい・・・
2005.08.15
無事にきょうだい会のサマーキャンプを終え、事故もなく帰って来ました。今回は、僕がいじられキャラで子供達のオモチャになってしまい、かなり疲れました!(笑)でも心地いいです!また来年!今日はこの辺で失礼します。
2005.08.14
待ちになったサマーキャンプ!子供達から元気をもらって帰ってきます!3年も経つと僕の背を抜いてくるコもいそう?とにかくみんな笑顔で、事故なく楽しくキャンプしてきます~!ゆ~ほさん、とらジさん、いつかいっしょにいこうね!それでは、いってきま~す!
2005.08.13
20年前から知ってはいたがまさか命日が重なるとは。日航機墜落事故に乗っていた坂本九ちゃんと。北海道のローカルテレビで日曜朝9時に「サンデー9」という福祉番組のキャスターとしてさまざまな福祉施設や活動を紹介し、もちろん兄が当時いた児童施設にも何度も足を運んでくれた。九ちゃんなんて失礼かもしれないがあの番組を通して、坂本九という人間の人柄の良さを知っているひとは、つい九ちゃんと呼んでしまうのでは?歌手というよりも「サンデー9」の九ちゃんのイメージが僕は強い。歌も名曲ばかりで、今考えるとあの当時、僕はカレに憧れていたのだと思う。カレが死んだことを現実視したくないと事故当時はそう思っていた。今夜、九ちゃんと兄を偲ぶ歌。「見上げてごらん夜の星を」DEENや平井堅など多くのミュージシャンがカバーしている名曲。(僕、DEENファン!)今夜はペルセウス座流星群が見えるピーク。きっと空の上では九ちゃんの歌声を聞きながら楽しんでいる兄の姿があるのかもしれない。墜落事故で亡くなられた方々、どうか兄と手を繋いで仲間に入れてやってください!天国のコンサート、流れ星に願いをこめて。
2005.08.12
今日は、兄が誕生して37年、そして、兄が亡くなって1年。午前中、母と姉と一緒にお墓参りをして昨年の今日ことを思い出していました。前日から危険な状態であったため母は3年ぶりに兄と一夜を供にし、兄に思い出話を聞かせていました。下の姉は、本州から帰省した友達との旅行があったため、午前中に兄を見舞い出発しました。僕は、夏帰省でいつもより少ない利用者さんの昼食介助を終え、一息ついた頃に上の姉から電話をもらい、危篤状態になったことを知らされ、早退させてもらい、職場近くのお墓にお参りして、上の姉を乗せて病院へ向かいました。父はすでに病院におり、夕方、仕事を終えた妹と義弟と甥、上の姉の義兄と甥、そして急遽、旅行を中止した下の姉が揃ったのは19時頃。姉たちは誕生日カードを兄に見せお祝いの歌を唄い、36回目の誕生日を祝いました。肺水は抜くと血圧が下がるため貯まる一方、昨夜から入れた排尿を促す薬も効果がなく、誰の目からみても死がもう間もなく訪れることは分かっていても、兄との思い出話が途切れることなく続きました。夕方、胃ろうから血の混じった液が逆流し、21時すぎには喉元から出てきました。一度、吸入し落ち着きましたが血圧が徐々に下がり、指の爪の色が変色しはじめ、眼球の色もにごってきて、2度目に喉元から出た液を吸入して僕が兄の側に座って兄の両手に触れている最中、脈拍計を見ると78、64、48、36、・・・・・・・・・。一瞬のうちに脈が下がり「ピーッ」という音が部屋の中に流れました。すぐさまドクターとナースが集まり蘇生処置が行われましたが変化なく10分後、上の姉が「もう止めて、もういい。○○、がんばったからもう、いい。」と泣き叫び、母も「もう、いいです。」と、皆、兄の死を受け容れたのです。21時23分、永眠。あれから1年、家族それぞれに、兄を偲び、泣き、悲しんだ。僕も、すぐ目の前にいる兄とよく似た利用者さんを支援し、僕が兄にしてあげられなかった分、この人達を幸せにしてあげたいと意気込み過ぎた結果、精神的にダウンした。自閉症と暮らすことは決して楽なことではない。しかし僕ら以上に本人達が思っているからこそ、パニックや問題行動が生じるのである。しかし、兄も含め、彼らの純粋で心優しい笑顔に何度救わせたことだろう。苦しかったからこそ、今を生きることができる。それは兄が存在したから。奇麗事に出来ないこともいっぱいあった。恨んだこともあった。でも、こうして兄がいたからこそ、僕が存在するのである。これからは、命日として悲しみ耽るよりも、兄の誕生日として、その誕生し生きた証を祝いたい。「兄貴、お誕生日おめでとう!そして、ありがとう!」
2005.08.12
あさっては、いよいよ恒例の『サマーキャンプ』!!僕は今回で3回目だけど、「きょうだい」だけでお泊りし、遊んだり語ったりできる機会は、本当に貴重な時間だ。世代を超えて、同じ悩みや将来へのことなどを話し合って、仲間としての繋がりが深くなって、例え言葉を発しなくても理解し合える仲間がいるということは生きる上で心強い。普段親にも言えずに塞いでいる胸の内を、同じ「きょうだい」だからこそ明かすことが出来る時間は、本当に幸せだ!今回、ほとんど準備を任せっきりでほとんど何もしなかったが、いま名札をエクセルで作っている。暫くぶりにエクセルを使うと機能を覚えていない。悪戦苦闘しながらもなんとか完成間近!今回の顔ぶれをみると、新人5名に家族で全員参加もあり、20数名のなかなか楽しそうな顔ぶれだ!砂川でカヌーに乗り、お泊りして、次の日は旭山動物園へ。お盆休みと重なりかなり混むと思うが、バスで移動するので楽しく過ごせることだろう。とにかく楽しみで仕方がない。今回来れない人もいて残念だが、こうして少しずつ規模が広がって、「きょうだい」が世間に堂々と物言える時代になればと願って、兄はいなくなったが活動は続けていく。昨年の今日はキャンプ終日だった。その足で病院へ向かい、兄が肺水を抜く手術をしたが抜き切れず、危ない状況に。なんとかその日は乗り越えて誕生日を迎え、家族みんなで36回目のお祝いしたあと、息をひきとった。あれから1年。キャンプで語り合いながら兄が元気に生きていたその思い出を振り返えることが出来てすごく良かった。兄がいなければ知り合えなかった仲間を、今後も大切にしていきたい。
2005.08.11
今日は夕日がきれいだったので撮りました。兄の法事からずっと一人でお泊りしていた5歳の甥っこが夕食後帰り、やっと普段の静けさを取り戻しました。両親は孫可愛さに甘やかし過ぎる場面も。自分から過剰に構っているのに最後には疲れて八つ当たりされるし・・・。やっぱり独り暮らしから実家に戻るのはイヤなものですね。早く働いて家を出たい!しかし、こうも暑いとヤル気と体力が失われ今日はダラダラな一日でした。
2005.08.10
今日は訳あって、いつもと違う病院へ。受付11時ギリギリに入り、かなり混んでて5時間待ち、16時半に診療終了。待ち疲れましたが、行った甲斐あり。心理テストをやった結果はココロの風邪はもうひどくなく、自分の信じる方向へ歩めばよいと。ただし、まわりに過剰な期待はするなと。自分の思いをすべて理解してもらうことは決して出来ないし、自分が居心地のいいように環境を選んでやりなさいと、心強いアドバイス。自信回復!!行って良かった~!土日のきょうだい会キャンプが終わったら来週から稼動しようっと。今日、友達の家で親戚からホタテが来たと夕食に誘われご馳走に。美味しかった~!
2005.08.09
郵政民営化法案が否決、衆議院解散、総選挙。小泉さん、男として信念を貫いたことに敬意。その陰で、障害者自立支援法案も先延ばしに。これはチャンスをもらったと解釈する。みんな結束して、利用料等負担増額に絶対反対!北海道新聞に今日ちょこっとだけ載ってたがもっと多くの国民にこの状況を伝えなきゃ!今日は甥と近くの滑り台のある子供プールへ。こどもたちの笑顔にオジサン癒された!そして、先日辞めた施設の入所者のお父さんが昨日亡くなられ、お通夜へ。参列者の5分の1が入所者の親だった。親より先に子が亡くなる悲しみも深いが、障がい者の父親が亡くなることもかなり悲しみ深い。午前中、片言の言葉が言える一人っ子のその息子は、父と対面し、「お父さん、起きてくださいよ!」と言ったそうで、自宅にクルマがないので異変には気づいたらしく、お盆の帰省を気にしている様子。父親の死を受け入れ、この先、環境の変化に上手く対応していってくれればよいのだが・・・。参列した入所者の親の様子は、もしも自分が・・・と考えずにはいられなかっただろう。そう遠いないうちに、その時は確実に訪れる。その時に、遺された本人、親、きょうだいが困らない社会にしていかなければと強く思った。厳しくもとても優しいお父さんだった。自閉症の子供を育てるには本当に世間が冷め切っていた時代だった、とてもご苦労をさせたはずである。でも息子さんをみれば父のかけた愛情の深さが解かる。とても大柄なのに意外に臆病で、甘えん坊で心優しい。必ず息子さんは、お父さんの死を受け容れてお母さんを想い、立派に人生を送ることができるだろう。だからもう、ゆっくりと、安らかにお眠りください。ご冥福をお祈り申し上げます。
2005.08.08
今日は兄の一周忌法要がありました。「自閉症」という「障がい」と共に歩んだ36年の短くも濃縮された人生を振り返り、家族・親戚とあらためて兄を偲びました。これから兄は、僕が逝くまで心の中で明るい笑顔でいつも元気に走りまわり、僕の生きる力になってくれるでしょう。これから先は、決して兄の死を無駄にしない、僕が選んだ僕自身の人生へ再出発します。兄を言い訳にしない、兄を恨まない、自分の責任で、自閉症の人々と関わっていきたい。その家族や「きょうだい」を支えていきたい。みんなのシアワセな笑顔が見たいから。兄貴、頼りない弟で嫌なこともしたし、なんでそうして生きているのか疑問もあった。けれど、兄貴から教わったことも多かった。「生きること」への執念、福祉への道標、出会いやつながり、僕だからこそ出来ること、その全てに感謝するよ。ありがとう!僕は兄貴の弟で本当に良かったよ!兄貴が出来なかった分は僕が親孝行するからね!母さん、父さん、姉ちゃん、2人の妹のこと、見守ってね!自閉症として生きてくれて、ありがとう!!
2005.08.07
十数年来の行きつけの飲み屋(スナック)の恒例で、海水浴&BBQキャンプに参加して来ます。毎年、泊り掛けで行ってますが、明日は兄の一周期法要なのでほどほどにして本日中に帰ってくる予定です。では、
2005.08.06
「ウチの施設から出て行って欲しい。」兄が入所していた施設長と担当職員の2人が、突然、家庭訪問に来て両親に告げたのは、今から5年半前の冬のことでした。現場経験のない事務長が施設長となり、新しい体制でやっていくために兄に出て行って欲しいと。現状のまま兄が施設に居続けることによって他の利用者の人権が守れらない、そう言われたのでした。それまで「多少のことはありますが問題ありませんいよ!」と、歴代の施設長に言われ続けていた言葉と一転、「貴方が施設長になったことで方針が変わったとおっしゃるんですね?」という父に問いに、「はい」と答えた施設長。その後、兄の問題行動を羅列し、出来るだけ早く出て行って欲しいと言い残し、羊蹄山の麓へ帰って行きました。その以前から兄の施設とは、いくつかの確執はありました。その始まりは、毎年恒例の家族参加の一泊旅行でした。それまで母や姉が参加し、入浴やトイレ以外では付きっ切りで兄の側にいて問題なく参加していました。そろそろ旅行の時期なのに連絡が遅いなと思っていた頃に、担当職員からようやく電話が入り、「今年は旅行に連れていきません。」と思いもよらない話が飛び出したのでした。その理由を問うと、「社会性がないから。」と言い放ちました。その言葉を後で聞いた家族皆、怒りが治まりませんでした。利用者を家族に任せて職員飲み会と化していて利用者が寝ている側で平然とテレビの有料チャンネルを観ているような十二分に職員が楽しんでいる旅行に、家族がベッタリ兄をみているのに何が負担なのだろう、社会性がないから預けているのに、それを理由にしたら預けている意味がないだろうと、それまで施設を信じて兄の生活を委ねてきたことに、不信と不安を覚えたのはその頃からでした。結局後日、職員が謝罪に訪れ、その後は日帰り旅行に変わりましたが、家族と施設の間で出来た溝は塞がるどころかますます広がっていきました。兄がいた施設は職員だけでなく施設長も頻繁に変わり、町の議員である理事長の権限が施設を支配していました。2・3年ごとに施設長が交代し、兄が入所当時は有資格者がほとんどだったのに、その後、授産施設が新設されて職員の異動が納まった頃には、有資格者が1・2名しかいない状況が続きました。地元の再就職の斡旋で、破綻した高級リゾートホテルの元ホテルマンや元自衛官など、全く福祉経験のない、ましてや兄の自閉症や知的障がいを知らない新人職員が次々と担当職員になりました。よく兄のお世話してくれていた作業能力の高い利用者さんは授産施設へ移り、多動な自閉症の兄と生活するにはとても難しいと思われる、聴覚や視覚障がいを伴った、新しい仲間と4人部屋で生活しました。時折、両親が近くに行った際に施設を訪れてみると、兄は日中の作業にも参加せず野放しにされ、近くに職員がいない状況が度々ありました。そんな状況の中で兄の問題行動が激しくなっていったことは、今の僕には容易に推測できます。ただでさえコミュニケーションが上手出来ない自閉症が、そんな状態の中で生活したら崩れることは明白です。他害、自傷、弄便、放尿、多動、パニックと退所要請に来た日、その原因や心理状況、自閉症の特性を理解しないで、まるで問題行動の塊のように兄を語りました。それから両親は、休日ごとに全道の入所施設を回り、兄を受け容れてくれる施設を探し始めました。その姿を見た私は、「福祉の現状を知りたい」「兄の将来にとって、ふさわしい施設を見つあげたい」と、福祉の道へ足を踏み入れることを決意しました。医療事故が起きたその年の5月、兄は生活改善のため入院しました。施設がこれ以上、今の状態では面倒を診切れないと言い出して、結局、両親が行政を通して一時的に入院させることになりました。入院当初は承諾の上、拘束した車イスの状態での生活が始まりましたが、2ヶ月後には大量に投薬されてながらも問題行動を繰り広げていた、施設での生活から一変、落ち着いた生活を取り戻し薬もかなり減量されました。「自閉症を理解し環境さえ整えば落ち着いた生活が出来ますよ!」と院長にお言葉を戴き数週間後に退院と言われた数日後、病院からすぐに退院させてくれと突然連絡がありました。その理由を問うも院長は頑なに話そうとしませんでした。兄は7月上旬、施設に戻りましたが、また元の問題行動が多い生活に戻るには時間はかかりませんでした。そして職員の報告を受け、一週間ごとに薬が増量・変更され、状態が悪い中、私が入所施設に就職した8月上旬、共働きして繁盛期に休みが取れない両親は兄を帰省させてしまい、そして事故が起こったのでした。先の退院騒ぎで、施設側が3ヶ月以上の入院を迫り措置を解除しようとし院長を怒らせたと、施設経験をした私はそう推測します。医療事故が起き、母が毎日付き添っている状況で、人がいなくてなかなか来れないと、わずか5分程度の見舞い程度で帰って行く職員達。本来なら利用者が入院したのなら、僅かな時間でも母に代わって付き添ってくれるべきなのではと思うのは可笑しなことだろうか?事実、私は勤めた施設では利用者が入院した場合は交代で24時間付き添っていたし、当時、兄の措置費が入院によって減額されていても支払わせていたはず。そう考えると、運良く兄を措置介助することが出来たと思っていることだろう。それは事故が起きる前、施設が区役所の福祉課に、兄1人を施設から出してくれれば3人入所させてやる、と話を持ち掛け担当者を激怒させていた事実を知れば、そう疑いたくもなるでしょう。兄の措置介助が切れた翌日、荷物を取りにいった姉は、「理事長、お姉さんが見えてます」との職員の言葉に、「そう」と言っただけで顔も出さなかった理事長の態度に、こんな施設に入れるんじゃなかった、兄に済まないことをしたと、家族は後悔しました。特に父の施設への怒りは今も収まりません。兄が札幌に病院に転院してから、父は施設近くの病院のカルテの情報を開示してもらいました。すると、度々怪我で通っていたり、他者に耳を噛まれたりした、家族にも伝わっていない事実を知りました。帰省前、「実は最近、怪我したんですよ!」とそれだけで、何処で、どのように怪我をしたのかと問うても「よくわかりません」と平気で答えていた。危険を予知して自分のミスで怪我をすることが少なかった兄だったのに疑いたくはないが、手の小指を骨折したり、あざが多くなったり、職員が虐待しなきゃ出来ないと思う怪我も多かった。本当に兄の人権が守られていたのだろうか?多くの利用者の人権が守れないと兄を邪魔者扱いしたが、自閉症である兄を理解し、療育する姿勢など全く見らなかった施設が、果たして兄がいなくなった今、利用者の人権が守られているのだろうかと疑問に感じています。イチゴの特産地の、その町名を聞くと悔しい思いが蘇ります。施設のこと、薬のこと、この2つが絡み合って、兄は死に至りました。私自身も事故直前に福祉の道に入り、家族と職員、2つ気持ちの狭間で心揺れ動きました。あさって兄の1周忌法要を前に、本当はもう思い出したくもない気持ちですが、風化させてはいけない事実があるから、ここに記しました。最近の記事を読んで、気を悪くされた方もいると思いますが、私の今の全ての気持ちを吐き出して、今後は前向きな生活をしたいと思うので、どうかよろしくご理解ください。
2005.08.05
兄の一周忌を目前に、僕の胸のうちを全て明かしたくてこんな過激なタイトルをつけました。兄が死亡した原因は、睡眠導入剤の過剰投与による医療事故でした。今から4年前の8月、私が知的障がい者施設に就職し間もなく夏休みの自宅帰省中の兄が、信じられない事故を起こしました。ドライブ好きの兄が、父の運転するクルマから自らドアを開け転がり落ちたのです。普段はドライブが終わってもなかなか降りようとしないクルマ好きの兄が、不可解な行動をしたのです。その後、救急車で近くの脳神経外科へ搬送され、全身麻酔でCT撮影し結果、左眼下の骨折と全身打撲で幸い命には別状はなかったのでした。しかし、多動性の自閉症である兄が入院し治療するにはその病院では難しいため、結局、兄の入所施設の担当医療機関である、掛かり付けの総合病院の精神科に入院することになりました。移送転院した次の日、それは起きました。眼科の診断によって、骨折した左眼に出血の疑いがあって失明する恐れもあるとCT撮影が行われることになりました。そして兄の施設の嘱託医である精神科医の指示で、一時的に体動抑制しようと静脈注射した、睡眠導入剤の投与によってその撮影中に心肺停止状態となり、命だけは取り止めたものの速やかに行われなかったために、その後遺症で意識は不鮮明で身体機能も麻痺し植物状態となる「蘇生後脳症」になりました。その後3年間は、喉を切開し酸素を送り、胃ろうで流動栄養を流し、尿道にカテーテルし、手足から薬を点滴する、以前の走り回り笑顔を振りまく兄とは別人のようなその姿は、可哀想でなりませんでした。自閉症から重度心身障害者となった兄を、母はほぼ毎日通って付き添い看病しました。何度も危ない状態になりながらもその度に、生きようとする兄の強い生命力と、母の愛情を受け乗り越えてきましたが、昨年8月に入り肺炎を拗らせ肺に水が溜まって尿も出なくなり、兄36回目の誕生日の12日、とうとう力尽き、家族に見守られ僕の腕の中でこの世を去りました。現在もまだ、医療事故の民事訴訟裁判中で、病院側は過失責任を認めようとはしていません。しかし、今年3月に行われた証人尋問の中で、兄に睡眠導入剤の投与を指示した施設嘱託医の精神科医は、証言の中で兄についてこう述べました。「重度の知的障害であると認められるが、自閉症であるかどうかは分からなかった」と。その言葉を耳にした瞬間、私も両親も思わず「はあぁ~?!」と声を漏らさずには要られませんでした。彼は前任の医師に引継ぎ兄の担当医として事故で入院する前から約1年半に渉って13回兄を問診し、向精神薬など薬の処方を指示してきた、その本人です。「自閉症を知らない」、弁護士がの兄の自閉症特性のことを尋ねても「分からなかった」という医師。では、いままで一体何を根拠に度重なる処方変更をして、兄を薬漬けにしてきたのかと思うと、怒りを通り過ぎ厭きれることしか出来ませんでした。その病院がある伊達市には、「太陽の園」という元国立コロニーがあり、その解体政策以前から全国に先駆けてグループホームや生活寮、民家の下宿など様々な形で、自閉症を含む多くの障がい者達が地域で暮らし、多くの住民の理解と協力に支えられながら理想の「バリアフリー社会」を実現させています。その彼らの医療面を受け持つ「精神科医師」が、自閉症を知らないと恥じらいもなく発言し、現在も札幌市内の大病院で精神科の外来医をしていることに疑問を感じます。兄の事故が起きて3年半が経過した証人尋問で、「自閉症を知らない」と言い切れることに今も憤りを感じています。「完全に体動を止めるために打った」その医師の証言に、そこまでしてCTを撮らなければならなかったのか、そう医師が頑なに考えなければ、今頃は帰省期間でこの家に帰って来て、布団と食堂を行き来しながら笑顔を振りまき、時には泣いて、大好きなストローをくわえて引き伸ばし、元気で走りまわっている、兄の姿があったはずなのに。
2005.08.04
僕は今「ココロの風邪」をひいている。大分よくなったが。実は6月で仕事を辞めた。知的障がい者の施設職員だった。2年半を事務員として、1年余りを援助員として約4年間、自閉症や知的障がいのある人達と接してきた。現在は自宅療養中、まだ体力的に自信がないため求職していない。僕が福祉に就職したきっかけは、兄の入所施設から退所勧告を受け、両親が兄を受け容れてくれる施設を探し回る姿を見たからだ。兄の今後を、いや自分が今後、兄とどう関わっていけばいいのかを一番に考え、それまでの接客販売など、福祉と縁のない仕事の中で自分と兄との将来を不安に感じながら今の仕事で生活するよりも、いっそ福祉に身を投じたほうが自分が安心して生活できると思い、たまたま事務員募集の求人にダメ元で受けたら運良く採用された。事務員をしながら、グループホームで生活する利用者の送迎や、重度の自閉症者の生活棟の食事の介助、残業しながら夕食後の職員数が少なく対処し切れない利用者さんを事務室でみるなど、積極的に利用者さんに関わってきた。就職後まもなく医療事故で植物状態となった兄の身代わりとして、彼らを接することによって意思疎通がますます困難となった兄との距離を縮めたいと思った、弟としてのエゴだったと当時を振り返る。それから、直接支援がしたいとの願いが叶い、昨年4月に無資格のまま援助員となった。予想してはいたものの現場は過酷な日々だった。パニック、自傷、他害、睡眠障害、兄と互角な行動障害の激しい利用者さんの支援は体力的にも精神的にも辛い日々が多かった。しかし、兄と幼少期を共にした親の会メンバーのお子さんが多く、兄の小学校特殊学級の友人もおり、兄の友である彼らを支援することが僕の使命であると自分に言い聞かせ、自分なりに懸命に働いた。ところが8月に入り、兄の容態が急変、風邪をこじらせ肺炎を起こし、肺に水が貯まって抜くことも出来なくなり、36回目の誕生日にこの世を去った。前々日、事務局員として活動する「きょうだい会」の夏キャンプできょうだい同士、悩みや思いを話し、僕も兄との様々な思い出を浮かべ楽しんだ、その矢先のことだった。お疲れ様、ありがとう。兄の死後、悲しんでいる余裕もなく現実と向き合い勤務に努めた。そして次に自分がどう生きるべきか模索しながら、とらジジさんや本を出版しようとしていた、ゆ~ほさんの楽天ブログに触発され、兄が生きた証を伝えようと、このブログの前身である「障がいと共に生きる『きょうだい』のページ」を開設した。自己満足だが同じ境遇で悩み苦しむ「きょうだい」達とのネットワークをつくり、自閉症や障がいの人々とその家族が、今日より明日がもっと幸せになれたらとの願いだった。しかし、掲載した記事の内容が誤解を与えたのか、職業的観点と家族的観点の相違からなのか、ブログを読んだ元職員から職場内に波紋が広がり、明らかに他の職員が僕に距離を置くようになった。ブログのタイトルを文字ってバカにした職員もいた。兄の死後、僕をまるで腫れ物のように、ただでさえ冷たかった職員間が更に冷え込み、そういった悩みも相談できないような頼りない上司に、突然自宅を訪問され強引な宗教勧誘を受けて心傷つき初めて死にたいと思った。もう誰も信用できなくなっていた。そんな時から体の異変が起こった。体を動かしたあと微熱が出たり、体がだるく動きが鈍くなり、口内炎が頻発、筋肉痛や間接痛が続き、視界がぼやけたり、寝れなくなったり。整形外科や内科で様々な検査をしたが異常は見つからず、なんとか我慢して勤務を続けたが体力的に限界を感じドクターストップを受け、求職状態に。さらに代わりの補充要員を募集するとのことで、今の現場復帰を断念したら、復職しても正職員として扱われないと施設側に言われ、上司にも「いつ戻るか分からない人を当てには出来ない!」とキッパリと言われた。もう限界だった。辞めるしか道はなかった。今は体は順調だ。ただ今後のことを考えると不安も多く、そのことで精神的に波があり、一日中だるさを感じることもある。でも、仕事を辞めたことで、はじめて兄の死を現実として受け止め、悲しむことが出来てよかったと思った。もう施設では働きたくないと感じているし、結果として良かったと前向きに考えることにしている。兄との将来をダブらせて考えていた、見えないプレッシャーからようやく開放され、自分がしたいことが少しずつ見えてきた。自分と兄の人生ではない、自分のためだけの人生を考えることができるようになっただけ、他の「きょうだい」に比べて楽になったと思うし、自分が体験した同じ苦しみや悲しみを「幼いきょうだい」味わって欲しくはないので、今後も「きょうだいサポート」を続けていきたい。一周忌が済み、きょうだい会のキャンプが終わったら、新たな道へ歩み始めようと思う。一歩ずつ、あせらず、ゆっくりと。もう少しで「風邪」はきっと治ります。だから心配しないで!できれば「頑張れ!」とは言われたくないです。僕なりに十分、「頑張ってますから。」そっと見守っててくださいね!
2005.08.03
ぴったんこカンカンみてたら突然のスコールと雷が。こんなに激しくのは久し振りだ!そんな雷空を見ていたら高校時代、部活の帰り道にあんなスコールに当たって濡れたワイシャツが肌につくのがすごく気持ち悪くて前のボタンを外して風になびかせ激チャリして家に帰った、そんなことを思い出した。あの頃は怖いモノなんてなくて毎日が楽しいことでいっぱいだった。中途半端に歳をとったなと思う今日この頃。今日も好きな1曲をご紹介。福山雅治の「squall」。福山がプロデュースし提供した曲を自らカバーした名曲。まさに「恋」って感じの曲ですよね。突然のスコールで距離が近くなった彼を感じる女心を歌ってますが、恋をしてる時って、ちょっとしたしぐさやふとした出来事も新鮮に感じられる。恋してる人の特権ですよね!いいな~僕も素敵な恋したい。福山って、まさに大人の男って感じですよね!エッチな話題も恥らうことなく本音トークのカッコいいマシャ兄。彼の日曜16時のラジオは大好きです!あんな美貌で背がも少し高かったらなぁ~せめて息だけでも福山しなきゃ!!
2005.08.02
8月になりました。暑い~!カラッと晴れもしないのに生温かく心地悪い風が部屋の中に流れてます。きのうはしゃいだ分、今日は用事済ませたあとは家でダラダラしてました。やっとの思いで重たい腰を起こしてふと思い出した名曲をご紹介。TUBEの「NASTU」というアルバムだったかな?10年くらい前なのかな?当時、付き合っていたコがもっていたCD。当時よく彼女の部屋で聞いてました。その中の1曲。「Auguset Moon」コトバなんていらない、吐息ですべてわかる。闇に溶け込みたいからAugustMoon照らさないで。こんなサビだったかな?スローで海面に映る月が目に浮かぶようなバラード。8月の夜にピッタリな名曲です。TUBEは最近あまり聞かないけど、デビュー当時から好きなアーティスト。「夏といえばTUBE」とまで言われた清々しいサウンドと前田ボイスが好きです。最近、オレンジレンジなどにお株を奪われそうですけど・・・。残念!あ、でもTUBEのその前は、杉山清隆&オメガトライブでしたっけ?いいですよね!最近のコはもう知らない?!僕はTUBEのバラード曲のほうが結構好きだったりします。アップテンポの元気な曲よりもラジカセ普及期にラジオから流れてたフォーク(シンガーソングライター)時代が僕の音楽のルーツですから。まぁ、分かるひとには分かる話でした。では本日はこの辺で。
2005.08.01
家族で海水浴に行ってきました。数年ぶりに海の中に入り、足のつかない場所で海水のしょっぱさに驚き、溺れそうになりました。泳げないのに無理しちゃだめですね!今日は妹の子供(僕の甥)と、姉の旦那の甥で大阪からひとりで遊びに来た小2の男の子の、2人もチビッコがいたので楽しかったです!子供がいままで出来なかったことがちょっとの勇気を振り絞って出来るようになった瞬間って、子供だけでなく、一緒にいる僕まで嬉しくて元気をもらいますよね!ホント子供っていいな!はやく子供が欲しい!でもその前に、いくつになったら結婚できるのかな?う~う、まずは彼女が欲しい~。近くに両親と一緒に来た知的障がいの男性がひとりで楽しく浮き輪で泳いでました。両親は心配そうにいつも見守ってましたがなにか起きる訳でもなく、周りで泳いでる子供達も特に気にする様子もなく溶け込んでました。ほのぼのとしてなんかいいなあ~と感じながら、これがどこにでもありふれた光景になって欲しいなと思いました。兄を想いながら・・・
2005.07.31
8月12日が迫ってきた。その日には2つの意味がある。37年前、自閉症の兄が誕生した日と、1年前、家族みんなに見守られながら兄が天国へと旅立った日だ。36年ちょうどの濃厚で凝縮された人生を、本当に懸命に生きたと思う。言葉がわからない、意思が伝わらない、兄にとって不都合なことがいっぱいあって、いっぱい暴れたし、いっぱい泣いた。でも、楽しそうに嬉しそうに幸せそうに微笑むあの憎めない顔を思い浮かべると、決して全てが不幸な人生だったとは思わない。むしろ、自閉症への優しさの足りない国からはやく卒業できてよかったのかもしれない。20年、我が家を離れての仲間との暮らし、運動会や発表会、いろんな行事や日々の作業、慣れないながらもガンバっていたね。入所施設からの退去勧告、有り得ない医療事故、不自由な寝たきりの病院生活、旅立つ前の3年はホントに苦しい思いをしたね。でもそのほとんどを母さんを独り占めして、少しはいままでの寂しさを埋められたのかな?一周忌法要が来週に近づき、僕の胸の中で短いながらも懸命に生きた、兄のその姿が蘇る。
2005.07.30
~最近スカッとしない空。~~雨なんて降っちゃってもう。~~気分も晴れない。~ということでこれからカラオケ行ってきます!どっぷり気分を発散してきます!!今急いで先週買ったミスチルの「四次元」聞いて覚えてるけどまたこれはむずかしいよぉ~聞くには最高の詩と唄だけどそう簡単にはマネできませんね。さすが桜井さま。もう少し練習しよ~今日はこんなところで失礼。
2005.07.29
2日前の続きで今日も好きな絵を載せました。「ブエルトバヌス」という作品のポスター額で僕が8年前に初めて買った、笹倉作品です。マリーナに戻ったヨットたちを出迎えるように港の市場の温かい灯かりがいい感じです。そして笹倉ワールドの特色である美しい夜空。ちょうどクリスマスシーズンだったかな?たまたま入った地下街の額縁屋で、ボーナスが出たあとだったので、自分へのご褒美として買いました。そうそう笹倉さんは、もともとはパッケージデザイナーをされていて、発売当初の森永チョコ「小枝」やロッテ「コアラのマーチ」のパッケージをデザインされた方なんですよ!毎日同じテーマを書こうとすると、あまりに真剣に考え過ぎる性格でココロに余裕がなくなってしまうので、日替わり気ままなテーマで更新します。よろしくおつきあいくださいね!
2005.07.28
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