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求馬、この地で斃れるか?「加地三右衛門、ここがお主の墓所となるか」 求馬の乾いた声を浴びた、加地三右衛門が不敵な笑みを浮かべた。「その言葉、そっくり返してやろう」 求馬の脳裡に不審な念がよぎった。 今の境地に立った、加地の言葉とは思えなかったのだ。 加地三右衛門が細い目蓋の奥から、眼を光らせ懐中から右手を抜き出した。鈍く光沢を放つ短銃が握られていた。「卑怯ー」 「喚(わめ)け、動けば遠慮のう引き金を引く」 見守っている、お蘭が蒼白となった。「走狗(そうく)の犬、加地三右衛門。遠慮のう引き金を引くことじゃ」 求馬が村正を垂らし、うっそりと佇みながら嘯いた。「やい、加地三右衛門、侍なら侍らしくしなさいよ」 「ほう、色っぽい姐さんじゃな、伊庭を始末して可愛がってやろう」「馬鹿を云うんじゃないよ、これでも江戸子だよ。旦那になにかあったら舌を噛み切って果てるまでさ」 お蘭が蒼白な顔色で必死に啖呵を切った。「威勢のよい女子じゃ、伊庭ともども冥途に送ってつかわす」 加地三右衛門の細い眼に残酷な色が刷かれた。 瞬間、求馬の痩躯が宙に跳ね上がった。短銃の銃声が響き、求馬の躯がわずかに静止をみせたが、加地三右衛門の頭上を猛禽のごとく飛び越え、村正が鋭く青白い光芒を放った。「ぎやっー」 獣のような声をあげた加地三右衛門が熊笹の中に転がった。 短銃を握った右手が肩口から両断され、宙に跳ね上がっていた。 求馬が跳躍し一瞬の隙をついて、村正で加地の右肩を薙ぎ斬ったのだ。着地するや痩身を加地三右衛門に向け、村正の切っ先が咽喉をかき切った。血が噴き上がり、断末魔の声をあげる事も叶わず、加地三右衛門がもんどりうってのけ反った。 求馬はその傍らに村正を杖として立ち上がっていた。「旦那っ」 お蘭が転がるように駆けよってきた。「お蘭」 二、三歩、お蘭にそばに歩みより求馬が地面に膝をついた。「お怪我ですか」 駆けよったお蘭が求馬の躯を抱え起こした。「奴の弾を食らった」 見ると左胸に銃弾の跡があり、鮮血で濡れている。「確りして下さいな」 「そこの岩にもたせかけてくれえ、そして火を熾せ」「はいな」 求馬は躯を岩にもたせかけ、乱暴に柳行李を開けた。「旦那、火が熾りましたよ」 「小柄の切っ先を焼くのじゃ」 求馬は、その間に三尺手拭を傷口に当て出血を止めている。「小柄の先は赤く焼けたか?」 「はいな」 「着物を脱がせてくれ」「弾を取り出す、取り出したら印籠の薬を傷口を埋めるように塗ってくれ」「はい」 お蘭が蒼白な顔色をみせながら気丈に振舞っている。 求馬が真っ赤に焼けた小柄を突き刺した、肉の焦げる異臭が漂い、お蘭が眼を瞑った。求馬の額に脂汗が滲みだし、頬を伝って滴り落ちている。 お蘭が手拭で懸命に拭いている。求馬が苦痛を堪え傷口から弾を取り出した。「頼む」 求馬が苦しげに岩に躯をもたせかけた、お蘭が血が噴出す傷口に印籠の薬を塗り込んだ。 「出来ましたよ」「傷口に手拭を当て出血を止めるのじゃ、その上から油紙を当ててくれ」 失血の所為で求馬の顔が青白く見える。「終ったら、三尺手拭を躯に巻きつけるのじゃ」 「こうですか?」「もっときつく縛りあげよ」 「はい」 お蘭が治療を終え着物を着せかけた。「良く遣ってくれた」 「大丈夫ですか」「わしは死なぬ、そのうちに猪の吉がもどってこよう」 ずるっと求馬の躯が岩から滑った、すかさずお蘭が抱きとめ膝に頭を乗せ、道行き衣で求馬の痩身を覆った。お蘭には求馬の衰弱する様子が手にとるように判る。 「確りなすってくださいな」 「そちに助けられたのは二度目じゃな」 薄っすらと求馬が頬を崩した。 「雲が綺麗じゃ」 擦れ声で空を見入っている。(猪さん、早くもどっておくれよ) お蘭が祈る思いで猪の吉の帰りを待った。 益々、求馬の容態が悪化している。「お蘭、わしは疲れた。・・・・暫く眠る」 求馬が眼を閉じた。「旦那っ」 お蘭の問いに求馬の返答はなかった。 信濃の空が青く輝きだす午後であった。 「完}本日をもって血風甲州路は完了いたしました。皆様のお蔭で歴史部門は1位となり、小説ブログランキングは4492の中で3位となりました。 これも皆様の応援の賜物と深甚なる謝意を表します。 今回で筆を置きますが、次ぎの作品もよろしくお願いいたします。 有難うございました。血風甲州路(1)へ
May 15, 2008
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この小説は明日をもって終了いたします、最後まで応援いただき感謝いたします。 求馬が躯を反転させ、踏み込みざまに村正を打ち下ろした。青白い刃紋の輝きが帯を引き、ずんーっ、と肉を絶つ感触を掌に感じ、更に前面の標的に肉薄した。恐怖に顔を引きつらせた対手が上段に大刀を構えた。 求馬が素早く反応し片膝を地面に付け、村正が唸りをしょうじ水平に奔りぬけた。まさに紙一重の差である、上段からの大刀と水平に奔りぬける村正が宙で交差した。お蘭が蒼白となり目を閉じた。苦痛の呻き声が洩れ、目を見開いた時、対手の浪人が仰向けに血飛沫をあげ、斃れ臥すのを目撃した。「お蘭、案ずるな」 求馬が余裕の声を懸け、眼を転じた。 加地三右衛門が、頭分とお覚しき浪人を引き連れ、木立の間を逃走する姿が見えた。「卑怯な」 求馬の痩身が二人に追いすがった。それを見た残りの五名が、それぞれの得意の構えで殺到してきた。「お主達、あたら命を粗末にいたすな」 「ほざくな」 五名が問答無用と大刀を輝かせ、猛然と迫ってきた。その瞬間、求馬の痩身が群に飛び込んできた、村正が縦横に白い光芒を放ち苦悶の声と鋼のぶちわたる音が響いた。流石は元公儀隠密として名を馳せた腕前である。 瞬く間に三人が虚空を仰ぎ血飛沫をあげた。「いかに」 求馬が凛とした声をあげ血塗れた村正を正眼とした。 残った二人の浪人が血眼で構えを建て直し、一気呵成の攻撃をしかけた。 一人の大刀を峰で弾き返し、突きこんでくる切っ先を躱しざま抜きつけの一閃を対手に送りつけた。村正が脳天を真っ二つに両断した。「くそっ」 恐怖で顔を歪めた浪人の必殺の攻撃を躱しもせず、下段より村正の切っ先が跳ね上がった。一瞬はやく対手の喉首を刎ね斬った。 それは凄まじいほどの神速の業であった。「ぐふっ」空気の洩れる異様な声を発し、対手の躯が求馬の体躯に打ち当たり、その反動で仰向けに熊笹の繁みに斃れこんだ。「旦那っ」 お蘭が金切り声をあげ駆けつけた来た。「お蘭、大丈夫じゃ」 求馬の全身は蘇芳色(すおういろ)に染まっている。「お怪我はありませんか?」 「返り血じゃ、大事ない」 お蘭が求馬の顔についた血糊を拭ってくれた。周囲は踏み荒らされた熊笹が無残な姿を見せている、清冽な湖の空気が生臭い臭いを漂わせている。「加地三右衛門を追わねばならぬ」 「加地が逃げたのですか?」「浪人の頭分を連れて卑怯にも逃げおった」 「あたしもご一緒します」 求馬とお蘭が追跡に移った、さっき通った道なので迷うこともなく進んだ。「あそこじゃ」 求馬が乾いた声で指をさした。 転がるように二人が小道を急いでいる。 「待たぬか、卑怯者」 求馬の声で振り向いた二人が、観念したように足を止めた。「伊庭求馬、この場で引導を渡してくれよう」 加地三右衛門の細い眼が見開かれ、血走ってみえる。「貴様の汚いやり口で六紋銭の村は廃村となった。ここでわしが命を絶つ」「無理じゃな、まずは絵図を渡すことじゃ」 加地三右衛門が、自信に満ちた声で嘯いた。「笑止、金塊なんぞはない。今頃は高島藩国家老の手許に届いておろう」 求馬の冷めた言葉を聞き、加地三右衛門が身を引いた。 一人残った浪人が獰猛な顔つきで大刀を抜き放った、金壺眼をした目が冷静な色を秘めている。出来るなと瞬時に悟った。「お蘭、ここを動いてはならぬ」 求馬がゆっくりと痩身を近づけた。 対手は草履を後方に跳ね飛ばし大刀を正眼に構え、摺り足で三間ほど間合いを詰めた。求馬は冷めた眸を据えたままでいる。 対手が見事な足さばきで接近してきた、両者は二間の距離を保って対峙した。「見事な腕を持ちながら、走狗になりおったか」 求馬が乾いた声をなげ、村正の鯉口を切った。 対手は水のように静かな構えを崩さずにいる、長い対峙となったが、徐々に勝負の潮合いガ迫ってきた。先に仕掛けたのは浪人であった。 凄まじい懸け声を発し、求馬の面に鋭い打ち込みを送りつけてきた。 村正も負けずと迸り、鋼と鋼の音が響き両者の大刀が宙で交差した。 見守るお蘭が、白く輝く大刀の迸りを見て目を閉じた。 その間に両者の足場が逆転していた。秘術をつくした攻防が続き、浪人の肩先から鮮血が滴っている。金壺眼が見開かれ、呼吸があがっている。 村正が求馬の躯を中心としてゆるやかな円弧を描いて左下段の構えとなった。湖上から吹きつのる風が、両者の間を吹き抜けていった。「だあー」 浪人が奔りより正面から猛烈な斬り込みをみせてきた。 迸る閃光を本能的に躱し、村正が浪人の右脇腹に襲いかかった。「くっ」 浅手を負わされた浪人が大刀を一閃させたが、それは求馬の翳を斬ったにすぎなかった。頭上に冷たい刃風を感じ、身をそらそうとした瞬間、凄まじい衝撃を受けた。村正が見事に頭蓋を断ち割ったのだ。 噴出する血飛沫の中で求馬が、痩身を加地三右衛門へと向けた。血風甲州路(1)へ
May 14, 2008
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この小説も残り二、三日で終了いたします、最後の応援をお頼みいたします。「諏訪の海、角間の川と交わりて、中洲に浮かぶ、中秋の月、か。中州も既になく、中秋の名月も刻限とともに位置を変えるか」 求馬が諏訪湖を見つめ低い声で呟いた。 「旦那、お手上げですな」「お主の申すとおりじゃ、最早、信玄の隠し金塊は見つからぬ。絵図の真贋も判定は不可能となった、悪いが茶臼屋の与兵衛殿に絵図を渡してきてはくれぬか。わしとお蘭はここで待っておる」 「判りやした、一走りしてめえりやす」 猪の吉が残念そうな顔で懐剣を懐にいれて駆け去った。 求馬が切り株に腰をおろしお蘭を見つめた。 「一杯飲みたいものじゃ」「はいな、そう思って瓢を用意してきましたよ」 お蘭が色っぽい顔を綻ばし、柳行李から瓢を取り出し求馬に手渡した。 求馬がゆっくりと瓢の酒を味わっている、風にあおられ小鬢(こびん)が揺れている。何となく淋しそうな横顔だとお蘭には見えた。「仕方がありませんよ、旦那の所為ではありませんから」 湖水から涼しい風が二人の躯を吹き抜け、お蘭が傍らにそっと腰をおろした。「ご一緒できて楽しかった」 お蘭が、そっと求馬の手を握り締めた。 瞬間、求馬の双眸が強まった。 「旦那っ」 「動くでない」 微かに熊笹を掻き分ける音が聞こえる。それにつれ殺気が盛り上がった。「お蘭、最後の闘いとなったようじゃ」 低く声をかけ痩躯を立ちあげた。「そこで止まるのじゃ、近づけば斬ることになる」 乾いた声を浴びせた。 小道の傍らに苔むした小さな地蔵が祀られている、その辺りから人の気配がする。求馬が素早く村正の鯉口を切った。「水野忠邦の用人、加地三右衛門ならびに金で雇われた亡者共、姿をみせえ」 冴えた声が潅木の中に吸い込まれた。「だっー」 声に誘われ近くの大木の翳から、凄まじい懸け声があがり刃が襲っきた。並の腕ではない凄い一颯であったが、求馬が身を躱した。 目前を猛烈な勢いで駆けぬけた浪人の首筋に、村正の切っ先が伸びた。 首の皮一枚を残し、血煙とともに熊笹の中に勢いよく転がった。「己れ」 四方から声があがり九名の浪人が姿を現し、求馬の痩身を包囲した。足音に驚いたのか、繁みから水鳥が一斉に羽音をたて翔び去った。 求馬が獲物を狙う鷹のような冷たい双眸を光らせ、痩身を包囲網の中において佇んでいる。見渡せば対手は何れも面擦の跡をみせる凄腕と判る。「道場剣法で人が斬れるか」 求馬が揶揄う余裕で声をかけた。 じりっと包囲網が右手方向に移動を始めた。 求馬が黒羽二重の裾を翻し痩身を宙に跳ね上げ、正面の浪人に襲いかかった。それは猛禽のような俊敏な動きであった、頭蓋を絶ち斬り包囲網から脱出した。ざざっと熊笹を鳴らし、残りの浪人が一斉に上段に構えなおした。それは生を捨て去った捨て身の構えである、「びゅっー」と村正が風斬り音をたて素振われ血糊を吹き飛ばした。右手の浪人が雄叫びをあげ身を躍らせた。 上段からの攻撃を村正二尺四寸(七十三センチ)が、対手の大刀を跳ね上げた。鋼の音が響き、焼刃の臭いが漂う中、対手の大刀が半ばから折れ空中に跳ね飛んだ、見逃さず村正の切っ先が、対手の右脇腹から左首筋に抜けた。「ぐっ」 凄惨な形相をみせ対手が地響きをたてた。 その迅速な業をみた七名が、二、三歩後退した、包囲網が破れたのだ。「加地三右衛門、姿を見せえ。そちの主人水野忠邦は先般、登城禁止となり蟄居の身となった」「莫迦な」 紺色の袴姿に棒縞の羽織をまとった、加地三右衛門が細い眼を光らせ杉の大木の翳から現れた。「我が殿が蟄居とな、そのような事態があろうか」「影の軍団であった六紋銭を失い、幕閣への押さえをなくした。その六紋銭は全てそれがしが殲滅いたした」 「うぬっ、斬れえ」 加地の下知で二人の浪人が猛然と大刀を振るって攻撃をしかけた。 村正と対手の大刀が絡まり、えたりと一人が求馬の右肩を袈裟に襲った。 すん余で身を捻り、刃がすれすれに求馬の躯をかすめ奔り抜けた。血風甲州路(1)へ
May 13, 2008
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翌朝、高島城の時を知らせる太鼓の響きで三人は目を覚ました。朝餉を摂り、猪の吉が帰りの用意の品々を求め、町に飛び出して行った。「お蘭、柳行李を確かめよ、不足するものは整えずばなるまい」「はいな」 お蘭が柳行李を確かめ詰め替えている。 相変わらず求馬は、醒めた顔つきで煙草を燻らしている。「旦那、スルメなどの非常食はどうします?」「帰りであっても油断大敵じゃ」 「はいな」 お蘭が楽しそうな様子である。 「なにか嬉しいことでもあったのか?」「はいな、これからは江戸弁を使っても構いませんね」 道中、お蘭は極力江戸弁を控えてきたが、これからはそんな心配はない。それが嬉しいのだ。猪の吉が荷物を抱えてもどってきた。「ご苦労じゃ」 「新しい三尺手拭も買ってまいりやした。手甲、脚絆、その他もろもろですが、長旅には色んな物が不足いたしやすな」 猪の吉も加わり、帰りの用意がととのった。 五つ半(午前九時)に三人は旅籠を出立した。城下町は人々で賑わっている。「旦那、なんで城下町がお城のそばにないんでしょうかね」「幕府の仕置きじゃ、宿場町を優先させたのじゃ」「成程ね、お城は諏訪湖に近い場所ですからね」 猪の吉が納得顔をした。三人の前の道筋には欅並木が広がってきた。 既に紅葉がはじまっている。この並木道の先に高島城の大手門がある。 三人が城の東側の小道を辿っていた。鬱蒼と潅木が小道の両側を埋め尽くし、名も知らぬ小鳥のさえずりが心地よく聞こえる。 お城の大手門を通りすぎると、門番が丁重に求馬に会釈をしている。 求馬は無言で会釈を返し、何事もない様子で道を進んだ。 高島城の者は、皆が三人の任務を承知しているようだ。「旦那、このお城の屋根は瓦ではないんですね?」 お蘭が木立から三層の天守閣をみつめ不審そうに訊ねた。「冬の寒さが厳しく瓦が割れるそうじゃ、そこで檜の薄い板を屋根瓦の代りにしたそうじゃ。なんでも柿葺きと云うそうじゃ」「へいー、そんなに冷え込むんで」 猪の吉が驚いた顔をした。「諏訪湖も凍りつき、人が歩けるそうじゃ」「一度、そんな光景を見たいものですね。猪さんはどうだえ」「おいらは真っ平ご免だね、猫は炬燵で丸くなるだ」「なんだえ、まるで風流てえものがないね」 早速、お蘭が江戸弁を使いだした。求馬の痩身に木漏れ日があたり、黒羽二重の背中がだんだら模様に染まっている。暫くして三人は小高い丘に辿り着いた。「こいつは見事な景色だねえ」 猪の吉が感嘆の声を洩らし見入った。 目の前に広大な湖が現れ、遥か西北の岡谷方面まで霞んで広がっている。 岸辺には羊歯(しだ)類が密生し、諏訪湖の湖底に向かって水辺を蔽い隠すかのように垂れ下がっている。その奥には欅、楢、杉などの樹木が枝を広げ、幹には蔦が巻きついている。「旦那、お城の城壁があんなに離れておりますよ」 お蘭の言葉に求馬は無言で湖水を凝視した、波がきらきらと輝き、遠くの空と一体となり溶け合っている。この当時の諏訪湖は周囲二十里と云われていたが、かなり水位も低く面積も小さくなっていた。 これは歴代の藩主が農地干拓などで水位を下げることに腐心した結果であった。とりわけ、天保元年(一八三〇年)に天龍釜口にあった、浜中島を撤去したことで水位の低下に拍車がかかったのだ。「猪の吉、高島城が築城された当時は、諏訪湖の波が城壁を洗うほどでな、西から見ると湖水に浮かんだように見えるために、浮城と呼ばれていたそうじゃ」「ここから見やすと諏訪湖は高島城の城壁から、十町(一一〇〇メートル)ほど後退しておりやすぜ」「それだけ水位が下がり諏訪湖が干しあがったのじゃ」「昔はもっと大きな湖だったのでしょうね」 お蘭が感慨ぶかそうに呟いた。「恐らくな」 求馬が感情を殺した乾いた声で応じた。「旦那、諏訪のお城は違った場所にあったと言われやしたね」「そうじゃ、島崎城は角間川に挟まれた場所にあったが、その後に河口の三角洲に築城された。それが今の高島城じゃ」「それじゃあ、今のお城よりもっと諏訪湖に近い場所と考えられやすな」「・・・・」 求馬は無言で諏訪湖を見つめている。「折角の絵図も、ただの紙切れですかえ」 猪の吉の声に落胆の思いがこめられ、お蘭の顔にも失望の色が浮かんでいた。二人の感情はよく判る、ここまで命懸けで来たのだ。血風甲州路(1)へ
May 12, 2008
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庭に面した風呂は豪勢きわまりないものであった。天然の岩を配し、温泉を引き入れている。求馬と猪の吉がゆったりと湯を楽しみ、お蘭は岩陰で旅の疲れを癒していた。「師匠、こちらで一緒に入らないかえ」 猪の吉が顔を拭って揶揄った。「馬鹿、助平ー」 お蘭と猪の吉が旅の終着としってふざけあっている。 湯上に用意された食事も吟味されたご馳走であった。 三人は食事に堪能し、心休まる一夜を明かした。 翌日、約束どおり磯辺頼寛が、紺の紋服姿で部屋を訪れてきた。「お世話をおかけいたした」 求馬の顔を見るなり礼を述べた。「磯辺殿、江戸からは何も便りがござらんか?」「吉報が届きました」 磯辺頼寛の若々しい顔に笑みが浮かんだ。「水野忠邦が失脚でもいたしましたか」「左様、登城禁止に蟄居とのことにござる」 「真にござるか?」 求馬が半信半疑の顔つきをみせ尋ねた。「近々には老中首座に阿部正弘さまが就かれる筈、我が藩も安泰となりました」「それは重畳。登城禁止の原因は何でござる」「詳細は未だにござるが、水野忠邦の献策した上知令(あげちれい)なるものが、御三家や幕閣から反対が起こり、家慶さまのご不興をかったとの事にござる」「上知令で墓穴を掘りましたか」 求馬が合点した様子で応じた。「伊庭殿は上知令なるものをご存じにござるか?」「詳しくは知り申さぬが、江戸、大阪十里四方を天領とする水野の考えにござる」 求馬の言葉に磯辺頼寛が驚き顔をした。「そのような事を画策しておりましたか」「左様、さて磯辺殿、少々面倒な事がござる」 「何事にござるか?」「この宿場に水野忠邦の懐刀と言われた男が、浪人者十名を引き連れ潜伏しております」 「なんと」 磯辺頼寛の顔が険しくなった。「男の名は、水野家用人の加地三右衛門」 「利け者ですか?」「知られた男にござるが、主人が失脚いたしては用人なんぞに何が出来ましょう」 求馬の乾いた相貌に笑みが刷かれた。「それで貴殿はいかが為される」 「まずは絵図をお返し申す」「それはお受けできかねます。殿の申されたとおり絵図の真贋をお願いいたす」 磯辺頼寛が畳みに手をついて低頭した。「磯辺殿、絵図の真贋なんぞ今更問う必要もござるまい、それがしは絵図を餌として、加地三右衛門、並びに浪人共を全て葬る覚悟」「・・・・」 磯辺がじっと無言で求馬の相貌を見つめた。 伊庭求馬という男の生きざまを見た思いであった。「ことは万全にせねばなりません。加地三右衛門を斃せば水野忠邦の復活は二度とござらん」 「それを貴殿一人で為すと申されますか?」「乗りかかった船、上諏訪まで血の雨を降らせて参ったが、この地でそれがしの手で降り止めといたしたい」 求馬が平然と嘯いた。「我が藩でお手伝いを致す事はござらんか?」「更なる吉報が参るまでは、静かにしておる事です。我等は奴等を成敗いたし、絵図の真贋を確かめます。それが済みましたら、この旅籠の与兵衛殿に絵図を預けて去ります」 「伊庭殿・・」 磯辺頼寛は声を失った。「ご案じあるな、それがしの前途には常に悪鬼羅刹道が待っております。孤剣でもって天下をのし歩く、これがそれがしの生きざまにござる」 磯辺頼寛は目前の求馬の痩躯を目の覚める思いで見つめた。 白面の相貌をみせる男の壮烈な生きざまを初めて知ったのだ。「我等は明日、諏訪湖に向かいます。信玄の隠し金塊が絵図に印された箇所か己の眼で確かめ申す」 「その際には是非ともお城にお立ち寄り下され」「我等のような者が、お城にあがっては諏訪高島藩の名折れとなりましょう、ご遠慮いたす」 求馬が一言ではねのけた。「伊庭殿、最後に諏訪家累代にわたる掛け軸の文言(もんごん)をお知らせいたす」 「ほう、どのような文言にござるか」「諏訪の海、角間の川と交わりて、中洲に浮かぶ 中秋の月」「成程、諏訪湖には中洲がござったか」「既に、それも無くなり申したが、何かのご参考にとお知らせ申す」 磯辺頼寛が求馬の相貌を若々しい顔で見つめて答えた。「覚えておきましょう、再びお目にかかることは御座るまいが、堅固にお過ごし下され」 「我が藩を代表し御礼を申しあげる」 求馬が首肯し、それを見極めた磯辺頼寛が静かに部屋から去った。血風甲州路(1)へ
May 10, 2008
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「我々のことを、加地三右衛門は知っておりやしたな」 猪の吉が気を取り戻し訊ねた。 「今の刺客は加地の指図ではない、水野忠邦の差し金じゃ」「それはどういう意味です」 猪の吉が瀬川一馬の死骸をふり向いて聞いた。「わしは瀬川とは、蔦木宿の風呂で相湯をいたした仲じゃ」「奴はそんな近くに潜んでおりやしたか」「そうじゃ、あたら腕前に慢心し一命を落としたのじゃ」「驚いたね」 猪の吉か吃驚顔をした。 太陽が急速に連綿とつづく山並に沈み、街道に薄闇が忍びよってきた。 暫く急ぐと前方に、きらきらと灯が見えてきた。「あれが最後の上諏訪宿じゃな」 「さいですな」「猪の吉、済まぬがひと走りしてくれぬか」 「旅籠ですかえ」「本陣宿の茶臼屋じゃ、既に高島藩より知らせが参っている筈。我等の到着を知らせてもらいたい」「合点承知の助ですぜ」 猪の吉が脱兎のごとく走り去った。 求馬とお蘭は肩を並べ、ゆっくりと宿場町へと歩を進めた。「旦那、あれが諏訪湖ですか?」 お蘭が立ち止まり指をさした。 大きく仄暗い湖水が眼の前に広がり、灯をうけてきらきらと白波が輝いている。 「海のように大きな湖ですね」 二人は湖水の横の常夜灯を横切り、宿場町に足を踏み入れた。 さすがに城下町である、旅人に交じり町人や藩士が急ぎ足で行き来している。「とうとう最後の宿場に着いたのですね」 お蘭が感慨ぶかい顔をしている。「旦那、こちらで」 猪の吉が駆けよってきた。 三人は茶臼屋の奥座敷に案内された、そこには裃姿(かみしもすがた)の主人が待ち受けていた。「遠路、ご苦労さまにございました。わたしめが主人の与兵衛にございます」 初老の男が丁重に名乗った。「伊庭求馬にござる。国家老、磯辺頼寛殿のお手配りにござるか?」「はい、明日の四つ(午前十時)に、お伺いいたすそうにございます。今宵はゆるりとお寛ぎ頂きとう存じます」「丁重なる挨拶痛みいる、お言葉に甘えさせて頂く」「早速、茶なぞ差し上げましょう」 「冷や酒もお願いいたす」「畏まりました」 与兵衛が下がろうとした時、求馬が声をかけた。「与兵衛殿、ついでにお願いがござる」 「なんなりと申して下さい」「我等を狙う浪人と頭領十一名が、この宿場町に泊まっておる筈、何処の旅籠かお調べ願いたい」 「すべて浪人にございますか?」「いや、頭領はさる藩の用人、名前が判れば重畳にござる」「早速、内密に調べさせましょう」 与兵衛が下がり、すぐに女中が茶と茶菓子に冷や酒を持参した。 お蘭が茶を啜り、茶菓子を口にしている。「このお菓子は、あたしなんぞには勿体無い絶品ですよ」「あっしと旦那は酒です」 猪の吉が湯呑みに注ぎ分けて飲みだした。「きりっとした辛口の美味い酒ですな」 求馬が湯呑みを手にし窓を開け放った、湖上からの風が冷たく感じられる。 ここから城下町の喧騒と西北に位置する、諏訪高島城の三層の威容がよく見える。 「旦那、諏訪湖が見えやせんな」「地形が変わったようじゃな」 求馬が横顔をみせ呟いた。「でも、大きくて綺麗な湖でしたよ。ねえ、旦那」「師匠、あっしが邪魔ならそう云っておくんなさえよ。その間に加地三右衛門の動きなんぞ探ってめえりやすから」 猪の吉がお蘭を揶揄った。「猪さん、意地悪はよしておくれ」 お蘭が顔を染め啖呵をきった。「失礼をいたします」 襖がひらき主人の与兵衛が顔をみせた。「先刻の件にございますが居りました、宿場外れの花ノ屋と申す旅籠に宿泊いたしております。頭領は水野家用人の加地三右衛門さまに、浪人衆は十名と判明いたしました」「旦那、堂々たるものですな」 「本名を名乗りおるか」 求馬と猪の吉が顔を見つめあった。「皆さま、これから夕餉の用意をいたします、庭の向こうに風呂がございます。手拭、宿衣の用意も整っておりますれば、ゆるりと湯にお浸かり下さい」「かたじけない、早速、旅の垢でも落として参ろう」 三人は風呂に向かった。 「師匠も一緒ですかえ」「あたしの裸を覗き見たら、目がつぶれるよ」 「そいつは恐いや」 お蘭と猪の吉が、掛け合いで喋りまくっている。血風甲州路(1)へ
May 9, 2008
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「疲れがとれやしたね、ところで親父、一刻頃に十名ほどの浪人が通らなかったかえ」 猪の吉がさり気ない素振りで話を聞きだしている。「通りましたがの、もう上諏訪宿に着いているだろうね」「旦那、どこかで待ち伏せておりやすかね」 「その心配はあるまい」 求馬が常と変わらぬ相貌をみせ、最後の一滴を飲干して断言した。 空はあくまでも青く澄み渡り、街道は白く乾いている。街道が徐々に登り坂となってきた。 「綺麗な景色ですね」 周囲の山並は紅葉に覆われ、紅葉や欅の葉がひときわ映えて見える。 お蘭が汗を拭いつつ周囲を眺めている。「足は大丈夫ですかえ」 「大丈夫ですよ」 前方に大きな欅の大木が見えてきた、一里塚である。 旅人が数名たむろして休憩をとっている。 「わしらも休もう」 求馬が草叢に腰をおろし、おもむろに煙草入れを抜き一服燻らしている。 汗ばんだ肌に心地よい風が吹きぬけてゆく。三々五々と旅人が出立する。 お蘭が柳行李から瓢を取り出した。 「まだ持っておったか」 珍しく求馬が白い歯をみせた。 「師匠、あっしにはねえんですかえ」「心配ないよ、猪さんのもあるよ」 「ありがてえ」 猪の吉も草叢に座り込んで瓢を口にしている。「美味いねえ、こうして紅葉を拝んで飲む酒は堪えられねえよ」 四半刻ほど休息し、再び三人は西に向かった。前方の山並に太陽が沈みはじめ、西日が真正面から三人を照らしだした。 「眩しいねえ」 お蘭が手を額にかざし街道を見つめている。「あの侍は変だぜ」 猪の吉が異変を察し素早く駆けだした。 西日を背に受けた侍が影法師のように近づいてくる。「旦那、浪人風の侍ですぜ」 駆けもどった猪の吉が緊張した声をあげた。「一人か?」 「へい」 求馬がずいと痩身を西日に向け、眼を細め近づいてくる浪人を見つめた。野袴姿の浪人の袴の裾が風に煽られている。「二人とも下れ」 求馬が厳しい声で命じうっそりと痩身を進めた。 街道には旅人の姿はなく、求馬らと浪人の四名がひっそりと佇んでいるのみである。両者が三間の距離を保って対峙した。「伊庭求馬殿か?」 低いが落ち着いた声の持ち主である。 「左様」「何の遺恨もないが、貴殿の命を頂戴いたす」「お主とは蔦木屋の風呂で一度会ったの」 求馬が乾いた声で応じている。「左様、拙者は無双流の瀬川一馬と申す」 瀬川と名乗った浪人が抜刀し正眼に構えた、西日を反射し大刀が眩しく煌いた。「お主が仕留め人の瀬川一馬か、水野忠邦の飼い犬に成り下がったか」 彼は流れ者の一匹狼で知られた殺し屋であった。「どう思われようと勝手じゃ、拙者は貴殿の秘剣をやぶりたいまでじゃ」「勝てるか」 声と同時に村正が鞘走った。街道に肌が粟立つような殺気が充満した。求馬は得意の左下段に構え、うっそりと孤影を西日の中に佇ませている。真っ向いから西日を浴びる求馬が圧倒的に不利な体勢である。 求馬が瞑目した、それを見たお蘭と猪の吉が手に汗を滲ませ凝視した。 じりっと摺り足で瀬川一馬が前進を始め、正眼から左斜め上段へと構えを移している。下段と上段ながら同じ左構えである。 この勝負は太刀ゆきの速さで決まる。徐々に勝負の潮時が近づいている。 二人の大刀が同時に西日の中で煌き、宙を斬り裂いた。「あっ」 お蘭が思わず目を閉じた、二人はお互いの攻撃を躱し正眼の構えで対峙していた。 「畜生め、飛礫を見舞ってやるぜ」 猪の吉が飛礫を握り締めた。 「無用じゃ」 求馬が制止した。 二人が前進を始めた、ついに死への間仕切りに身を踏み込ませたのだ。大刀と大刀が吸い寄せられるに光芒を放ち、西日の中で交差した。「むっー」 瀬川一馬が呻いた。強かに右脇腹を村正が薙ぎ斬ったのだ。「おうー」 獣の雄叫びをあげて瀬川一馬の体躯が求馬の痩躯に肉薄し、一閃、二閃と大刀が白い光芒の帯を引いて襲いかかったが、ことごとく虚しく弾かれた。 「おのれ」 瀬川一馬が左膝を街道につけ水平に左から右へと求馬の痩身を両断すべく攻勢をかけた。 ふわりと痩身が宙に踊りあがり、西日を反射させ村正が青白く迸り、瀬川の背後に求馬が着地した。 街道に真紅な霧が舞いあがり、どっと瀬川一馬が躯を街道に叩き付けていた。 「旦那っ」 駆け寄るお蘭を手で制し、「大事ない」と声をかけた。 その瞬間、懐紙がぱっと青空に舞い上がった。 何事もなかった風情で村正を鞘に納めた求馬が、ゆっくりと歩みだした。「旦那、怪我はありやせんか?」 猪の吉が声をかけた。「わしの腕が勝っておったようじゃ」 既に求馬は闘いを忘れたような声音で応じた。お蘭と猪の吉が、安堵の思いをこめ痩躯を呆然と見つめた。血風甲州路(1)へ
May 8, 2008
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お蘭が浴衣を脱ぎ捨て豊満な裸身を、惜しげもなく晒し求馬の胸に飛び込んだ。仄暗い風呂場で二人が絡まった。 お蘭の切ない喘ぎ声が響き、すぐに太腿を割られ求馬の命を受け入れた。 独りでに腰が律動し、快感が背筋をつき抜けた。「お蘭、暫くは我慢するのじゃ」 求馬の呟きを聞きながらお蘭が果てた。 こうした三人旅では、本能のままに振舞うことは出来ないが、久しぶりの抱擁に満足し、求馬の胸に顔を埋めるお蘭であった。 二人は躯を洗い流し部屋に戻った。お蘭の瞳が、まだ快感の余韻を残しているが、求馬は覚めた表情をみせ再び独酌をはじめている。 猪の吉が一刻ほどで戻ってきた。「旦那、やはり加地三右衛門ですぜ、奴は一人で豪勢な部屋で女を呼んで飲んでおりやすが、浪人は大部屋で独酌です。見たところ凄腕の遣い手ぞろいですぜ、いずれも面擦れの跡がある浪人たちです」 猪の吉が興奮を隠さずに一気に喋り終わった。「それで何か判ったのか?」「全く無言でなんにも意図が判りやせんゃ」「そうか、いずれ近いうちに血の雨が降るの」 求馬が平然と言い放った。「あれ、師匠、どうかしやしたか?」 お蘭の態度に落ち着きがなく猪の吉が訊ねた。 「折角だもの、猪さん、もう少し探ってくるものさ」「・・・そうですかえ、お邪魔虫の帰りが早かったてえ訳ですかえ」 猪の吉が素早く察し揶揄った。 「猪さんの意地悪」 お蘭が顔を染め隣の部屋に逃げ込んだ。「旦那、もう一度探ってめえりやしょうか?」 「馬鹿め、まずは飲め」 求馬が苦笑を浮かべ徳利を差し出した。 「へい、頂戴いたしやす」 猪の吉が美味しそうに飲干した。 翌朝、三人は遅く目覚め五つ(午前八時)に朝餉をとり、五つ半に旅籠をでた。 昨日とうってかわり、信濃の空は青空が広がっている。「最後の旅を祝っているようですな」 猪の吉が軽快な足取りで歩んでいる。「お蘭、近々に最後の闘いが始まろう、気を緩めるでない」「はいな」 と答えながら求馬の傍らを歩む、お蘭の顔が桜色に染まっている。 歩みながら昨夜の抱擁を思い出していたのだ。「旦那、御射山神戸(みさやまごうど)てえ、変な集落に着きやしたよ」 なかなか繁盛した集落である。 「猪の吉、先を探ってくれ」「へい、任しておくんなせえ」 猪の吉が足早に集落へと向かった。「旦那、街道の両側は林檎林ですよ、赤い実が綺麗ですね」 お蘭がうっとりとした顔つきで風景を愛でながら進んでいる。「お蘭、そこから刺客が襲ってくるやも知れぬぞ」 求馬が脅した。「あたしは大丈夫ですよ、天下一の用心棒が付いておりますから」 お蘭がすまし顔でしらっと答え、求馬が思わず苦笑いを浮かべた。 猪の吉が駆け戻ってきた。「奴等は六つ(午前六時)に通ったそうです、村の者から聞いてめえりやした」「ご苦労じゃ」 求馬は足を緩めず乾いた相貌をみせ思案している。「どうかなさりやしたか?」 「奴等の狙いが判った」「何処で待ち伏せいたしやす?」 お蘭が二人の会話を不安そうに聞いている。 「上諏訪までは心配はあるまいが、諏訪湖が問題じゃな」 求馬の答えに猪の吉が合点した。 「矢張り、絵図が狙いですか?」「間違いなかろう、奴等の狙いは絵図じゃな」 三人は正午ころに茅野宿を通りぬけた。この宿場は金沢宿と上諏訪宿の中間点に位置していた。「猪の吉、何処か頃合の店で休息いたそう」 「そうですな」「しかし、何で茅野は酒造りが盛んなんでしょうね」 お蘭が驚いている。 街道の至る所に造り酒屋が大きな屋敷を構えている。「信濃は米どころではありやせんぜ」 猪の吉も不思議そうに眺めている。 求馬は興味を示さずに、街道脇の蕎麦屋に視線を送っている。「あの店にいたそう」 「そうですな、小腹も減ったことだし」 猪の吉が威勢よく暖簾を掻き分けた。「ざる蕎麦を三人分と酒を二杯くんな」 店の奥に声をかけた。「あたしは無しですか」 お蘭が不平顔で文句を言った。「あれっ、師匠も飲まれやすか?」 「最後の道中ですよ」 お蘭が二人に笑顔をみせた。 「酒は三杯に変更だよ」 猪の吉が声をかけた。三人は蕎麦を二枚ずつたいらげ、仲良く冷や酒で咽喉を潤した。血風甲州路(1)へ
May 7, 2008
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「あぁ、良いお風呂でしたよ、疲れがすっととれました」 お蘭が顔を桜色に染めて戻ってきた。部屋に風呂の匂いと女盛りの体臭の入り混じった香りが漂った。「一杯、飲みますかえ」 「はいな、頂きますとも」 猪の吉の注いだ酒を色っぽい頤(おとがい)をみせ飲干した。「二人とも聞いてくれ、明日は待望の上諏訪に着くことになる。我等はそこから諏訪湖に向かう」 求馬が厳しい顔で告げた。「いよいよ信玄の隠し金塊を探りだしますか?」 猪の吉がはしゃいでいる。「それが可能かどうかを見極める」「旦那、絵図があれば見つかるのでしょう」 お蘭の顔にも興味の色が浮かんでいる。 「それは現地を見ねば判らぬ」「絵図が偽物てえ訳ですかえ」 猪の吉が不審そうな顔で膝を乗り出した。「わしは、諏訪家の城の古書を調べた」 求馬が仔細を語りはじめた。 もともと諏訪家のお城は島崎城と呼ばれ、信玄の侵略によって滅ぼされるまでは、諏訪湖の岬に築城されていたのだ。だが武田家が滅亡し太閤秀吉の命で日根野高吉が、島崎城を廃城として角間川の三角洲に新城を築き直した。それが今の高島城であった。求馬が喋りを止め、二人を順に見つめた。「そうすると絵図に描かれた場所は、今の高島城を目安としやすと全く違った場所という訳ですかえ?」「そう云う事じゃ。だから現地を見ねば判断が出来ぬのじゃ」「何ですか、つまらないの、それじゃあ骨折り損ですよ」「お蘭、道中の旅はどうであった?」 「それは楽しい旅でしたよ」「ならば金塊が見つからずとも良しとせねばな」 求馬が覗き込むようにしてお蘭の眸の奥を見つめた。 旅先の岩風呂で抱かれた時の興奮を思い出し、お蘭が顔を赤らめた。 この道中に同行した事で、そんな楽しい経験が出来たのだ。 その晩の食事は豪勢そのものであった。諏訪湖で捕れた、わかさぎや魚介類と野菜の天麩羅、野沢菜の漬物、蕎麦、食後には林檎、梨、葡萄が出された。「豪勢ですな、たまには茶漬けなんぞが食いたいね」 猪の吉が贅沢な愚痴をこぼしている。「女中さん、信濃でも天麩羅があるんですね」「はい、最近、江戸から流行って参りました」 女中が食後の果物を剥きながら答えた。 「天麩羅が食えるとはね」 猪の吉が、わかさぎを口にして呟いた。「江戸にもどったら、江戸前の魚介類を食べさせてあげるよ」「楽しみにしていますぜ、だが道中の食事にも飽きたね」 そんな二人の会話を聞きながら、求馬は黙然と思案しながら独酌している。 そんな横顔を時折、女中がうっとりとした顔つきで盗みみている。 求馬の虚無感を漂わす容貌が、女心をくすぐるようだ。 食事が終わると猪の吉が真顔となって口を開いた。「雨も止んだようです、あっしは夜風に吹かれ魚安に忍び込んできやす」「無理はするな」 「丁度、腹ごなしです。奴等の思惑を探ってめえりやす」 猪の吉が、そっと部屋から外の闇に忍び出て行った。 求馬は暫く独酌し、「お蘭、ひと風呂浴びてくる」 一声のこし手拭を持って風呂場に向かった。 「つまんないの」 ようやく二人になったというのに、ついつい愚痴がでる。「そうだ旦那のお背中を流してあげよう」 そう思い、そっと風呂場に向かった。 風呂場から湯の音が聞こえてくる、お蘭が浴衣の裾をはしよった。 求馬が檜の腰掛に尻を乗せ躯を洗っている。そっと足音を忍ばせ近づいた。 「お蘭、丁度よいところに来た、背中を洗ってくれ」「気づいていたのですか?」 お蘭が顔を赤らめた。「早くいたせ」 「はいな」 盥に湯を満たし手拭を絞り、求馬の背中を強く擦った、面白いくらいに垢が気持ちよくでる。「お蘭、襟元をひらけ」 求馬が思いもせぬ言葉を吐いた。「はいな」 恥ずかしさを堪え胸元を大きくあけた、豊満な乳房がこぼれた。「もそっと寄れ」 近づくと力任せに抱きすくめられ、乳首を吸われた。 恍惚となり裾が乱れ、肉置き豊かな太腿が顕となった。 唇が乳房から首筋へと這いまわり、お蘭が恍惚の呻き声をあげた。 手が自然に求馬の股間を探った、そこは硬く熱く燃えていた。「旦那、抱いてくださいな」 はしたないと感じたが、ついに口から出た。血風甲州路(1)へ
May 6, 2008
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「婆殿、酒はないかの」 「濁酒(どぶろく)ならありますだよ」「二杯、頼む」 早速、求馬が酒を頼んでいる。「驚いたね、濁酒ですかえ」 猪の吉が眼を剥いた。粥のような濁酒が丼のなかに溢れている。恐るおそる啜ったが、これがいけるのだ。 野趣に富む味であるが、芳醇な香りが口一杯にひろがる。 求馬と猪の吉が二杯の丼酒を飲干し、お蘭が二杯の蕎麦をたいらげた。「婆さん、金沢宿はどのくらいで着けるかね」 猪の吉が雨音を聞き訊ねた。「女子の足でも七つ(午後四時)には着けるだよ」「そうかえ、済まねえが厠を貸してくんな」 「この奥にあるだ」 猪の吉が小用のために小汚い奥に向かった。床板がぎしぎしと軋み今にも床が抜け落ちそうな小汚い厠である。「臭いねえ」 ぼやきながら用をたし、身を震わせた猪の吉の眼が光った。 街道を十文字笠をかむった浪人が、十名ほど本降りのなかを足早に歩み去って行く。先頭には深編笠の身形の立派な武士が見えた。「旦那、変な一行が通り過ぎやしたぜ」 戻るなり猪の吉が、厠からみた可笑しな浪人の一行の様子を告げた。「そうか、わしも不審な気配を感じておった」 「さいですか」 猪の吉が剽悍な目つきをした。「我等を追っておるのかも知れぬな、気をぬくまいぞ」 「へい」 三人は蕎麦屋を出て再び、本降りのなかに足を踏み出した。 (十四章) 雨に躯を濡らし三人はようやく金沢宿の本陣宿に辿り着いた。「伊庭さまにございますか?」 帳場から番頭が顔をだし腰を低め訊ねた。 求馬が無言で肯いた。 「早速、お部屋にご案内申します」「雨でびしょ濡れじゃ」 三人が合羽を脱ぎ女衆に渡した。「お与りいたします」 笠と手甲、脚絆の類まで持ち去ってくれた。「番頭、この手配りは高島藩国家老の磯辺頼寛殿の指図かな」「左様にございます」 番頭が三人を立派な座敷に案内した。「こいつは凄いねえ」 猪の吉がご機嫌の様子である。「このお部屋は、三藩の殿さまがお宿泊なされる座敷にございます。部屋の奥には、檜のお風呂もございます。追っ付け食事の用意も整えます、暫くお休み下さいまし」 番頭が慇懃な態度で説明した。「番頭、冷や酒を三杯頼みたい」 「ご三人さまにございますな」「ついでに調べて欲しいことがある」 「何でございましょう」「十名ほどの浪人が宿泊しておらぬか?」 「それはございませぬ」「そのような浪人者が宿泊した旅籠を探ってはくれぬか、その一行の責任者の名前もな」 「判りました、早速、捜して参ります」 番頭が不思議そうな顔つきで下がって行った。 三人は湿った着物を脱ぎ宿衣に着替え、冷や酒で咽喉を潤した。 冷え切った躯が暖かくなった。「足が疲れ、ふくらはぎが痛いわ」 お蘭が疲れた顔をしている。「お蘭、ひと風呂浴びて参れ、きっと疲労もとれよう」「はいな、お言葉に甘え先にお風呂を使わしていただきます」 お蘭が去って求馬と猪の吉は座布団に腰を据え、立派な杯で独酌している。「流石は殿さまの宿泊なされる、部屋だけはありますな」 猪の吉が飲みながら、部屋中を眺め廻し驚いている。「失礼いたします」 襖越しから先刻の番頭の声がした。「入れ」 「はい」 番頭が緊張した顔をみせた。「判ったかの」 「はい、この宿場の奥に魚安と言う旅籠がございます。そこに浪人風の武家が十名と、水野家の用人と申すお方がお泊りにござすます」「なんと、水野家と申したか?」 「はい」 「名前は判るか?」「加地三右衛門さまと申されます」 「加地・・」 猪の吉が求馬を見つめた。「ご苦労であった」 求馬が財布から一朱金を番頭の手に握らせた。「このような事は無用にございます」 慌てて番頭が手を引いた。「我等の事は内密じゃ。明朝、彼等が出立したら知らせて貰いたい」「判りましてございます」 番頭が部屋から去った。「水野忠邦、いささか逸りおる」 求馬が乾いた声で呟いた。「旦那、浪人を引き連れておるとは面妖でございやすな」「猪の吉、狙いは我等じゃ」 「今更、襲っても意味がありやせんよ」「六紋銭の壊滅で高島藩は安泰じゃ、奴等は絵図が狙いじゃ」「成程、いっそ一網打尽に斬り捨てますか」 「そうせねば為るまいな」 求馬の相貌がかすかに崩れた。相手が牙を剥くなら存分に相手をしてやる、その思いが脳裡を過ぎった。血風甲州路(1)へ
May 5, 2008
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「お受け頂けますかな?」 磯辺頼寛が求馬を凝視した。「それがしは、諏訪因幡守さまと大目付嘉納主水殿に約束いたしました。水野忠邦の失脚を狙い、奴の操る影の軍団である六紋銭を殲滅いたすと、決意し、それ故に甲州道中を下って参った」 求馬が己の決意を述べた。「水野忠邦の権力の背景に、六紋銭ありと言う訳ですな。権力が万全ならば我が藩を改易し、玄公金秘匿絵図を奪い磐石なる権力を掌握いたしますか?」「左様」 求馬が肯き冷えた杯を干した。「恐れいった。ご貴殿の深慮遠謀には、なにとぞ我が藩の安泰の為にお力添いをお願い申す」 磯辺頼寛が興奮を隠さずに手をついた。「お手をおあげ下され、水野忠邦は大奥にまで疎まれております。何れは上様ご贔屓の水野忠邦も失脚いたしましょう。そのためにも奴は必死で高島城の落ち度を探っておりましょう、既に藩中に奴の手が伸びておるやも知れ申さぬ、くれぐれもご用心肝要にお願いつかまつる」「ご念のいった忠告、痛みいります」 磯辺頼寛の若々しい顔に、何事か決する色が浮かんでいた。 二人は一刻(二時間)ほど密談を交わしあった。「我等は明日にでも、ここを引き払い上諏訪に足を伸ばします。道中は女連れ故にゆるりと参りたい」 「了解いたした」 磯辺頼寛は求馬の胸裡をさっした模様である。「金沢宿で一泊した後に上諏訪に向かいます。江戸表に異変が生じたならばご連絡をお願いいたす」 入念な打ち合わせ後、磯辺頼寛は駕籠にゆられ高島城に戻って行った。 翌朝は鈍色(にびいろ)の厚い雲が低く垂れ下がった日であった。「お客さま、今日は雨になりましょう。一日降りやまぬと思われます」 玄関先で番頭が心配してくれた。「急ぐ旅ではないが、そうそう長逗留もできぬ」 求馬は一文字笠に長合羽、猪の吉は菅笠に道中合羽を羽織っていた。 お蘭も菅笠をかむり、道行き衣で厳重な足拵えをしていた。 三人は旅籠を出て甲州道中を西に向かって旅立った。 少し行くと街道は二股に岐れる、道中塚に下諏訪と刻まれた街道を進んだ。「八ケ岳の上半分が見えませんね」 お蘭が右手に広がる八ケ岳を眺めぼやいている。「お蘭、甲斐では天気が良い時は何処からでも富士山が見られるが、信濃は平坦な地形で見ることは叶わぬ。だが富士見だけは富士山が望めるそうじゃ」 求馬が富士見の謂れをお蘭に語っている。「今日は見えませんね」 お蘭が恨めしげにぼやいた。 一行はうねりくねった街道に差し掛かった。ゆるい登り道が続き、女の足ではなかなか辛い、お蘭が杖を頼りに頑張っている。「師匠、足は大丈夫ですかえ?」 猪の吉が盛んに心配している。「大丈夫ですよ」 「次が、とちの木の集落じゃ」 刻限は四つ半(午前十一時)頃であろう、心配していた雨がぽつりと落ち始めた。金沢宿までの行程の中ほどと思われる。「旦那、この集落で少し休みやしょう」 「そうじゃな」 肯いた求馬の双眸が強まった、得体の知れない視線を感じたのだ。「旦那、どうかしやしたか?」 素早く猪の吉が訊ねた。「いや、気の所為じゃ」 雨が大粒となり、とうとう本降りとなった。 三人はびしょ濡れとなって一軒の小汚い蕎麦屋をみつけ駆け込んだ。「あれまあ、旅のお方かの」 薄汚れた着物の老婆が迎えてくれた。「婆さん、蕎麦を頼まあ」 「あいよ」 老婆が勝手口に消えた。 三人は濡れた合羽を脱いで三和土の脇に吊るした。 美味しそうな匂いが漂い、「ざる蕎麦にしては可笑しいや」と猪の吉が不審そうな顔をしている。「さあ、躯を暖めておくれ」 老婆が丼を三人の前に並べた。「これが蕎麦かえ」 見ると蕎麦にだし汁をかけ、刻みネギに生卵がのっている。 「美味しそう」 お蘭が汁を啜り蕎麦を器用に啜り込んだ。「美味しい」 流石は蕎麦の本場である。「こいつは旨いし、躯が暖かくなるね」 猪の吉も旨そうな音をさせている。血風甲州路(1)へ
May 3, 2008
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「師匠、この林檎は腐ってはねえんですかえ?」 猪の吉が、剥いた林檎を指さした。「馬鹿だねえ、そこの色の変わったところに蜜が集まっているそうだよ」 お蘭は帳場で聞いてきたようだ。 「本当ですかえ」 猪の吉が半信半疑で口に一切れいれて唸った。 「どう?」「こいつは甘いや、本当に蜜が集まっていますぜ」「地元しか食べれないそうだよ」 お蘭もさっそくぱくついている。「本当、甘くて美味しい」 お蘭が感嘆の声をあげた。「お蘭、食い終ったら道行き衣から絵図をだしてくれぬか」「はいな、旦那もいかがですか」 「わしはいらぬ」 求馬が所在なげに肘枕をして横になっている。 翌日の昼に、女中が慌しい態度で部屋を訪れた。「お客さま、諏訪高島城の国家老さまがお着きになられました。主人が申しますには、直ぐに客間までお出で下さいとの事にございます」「あい判った、すぐに参ると伝えてくれ」 「ご案内をいたします」 求馬は黒羽二重に着替え、佩刀の村正を手に部屋をあとにした。 女中が先導し、求馬は例の白面の相貌をみせ、うっそりと廊下を伝っている。 立派な部屋の前で女中が襖越しより声をかけた。「お連れいたして参りました」 「お入りいただけ」 若々しい声がした。「ご免」 求馬が誘われるように部屋に身を入れた。床の間を背に紺の紋服姿の若々しい武士が笑顔をみせていた。求馬が座布団に腰を据えた。「ご貴殿が伊庭求馬殿にござるか、お初にお目にかかる。拙者が国家老磯辺にござる、遠路遥々お越し願いご苦労に存ずる」 丁重な挨拶であった。「それがしが伊庭求馬にござる」 求馬が軽く会釈をした。 そうした会話のなかで求馬は、磯辺頼寛の人物を素早く読み取っていた。 若いがなかなか肝の座った人物と見極めた。「蔦木屋、茶を頼む」 磯辺が傍らに控えた蔦木屋の主人に声をかけた。「失礼ながら、それがしには冷や酒をお願いしたい」 求馬がわざと挑発するかのように酒を頼んだ。「これは気づかず失礼いたした、ならば拙者もご相伴にあずかりましょう」 磯辺頼寛が屈託ない態度で応じ、蔦木屋の主人が部屋を辞していった。「磯辺殿、まずはそれがしの身分を顕かにいたす書状にお目通し願います」 求馬が懐中から油紙の包みを取り出し差し出した。「拝見いたす」 磯辺頼寛が書状をひらき一読し巻きなおした。「失礼をいたした。我が殿をはじめ江戸家老の嘉納隼人正殿より、ご貴殿の容貌は知らされておりました。想像どおりのご仁とお見かけ申した。が、念のために書状を拝見つかまった」 「さらば申しあげる」 求馬が言葉を発した時に、廊下より声がした。「失礼を致します、ご酒をお持ちいたしました」「おう、さっそく用意が整ったか、こちらに運んでくれ」「はい」 四人の女中が手際よく膳部をならべ部屋から去った。「続きを申しあげる」 「伊庭殿、まずは咽喉を潤しましょう」 磯辺が気軽く求馬の杯を満たした、求馬も瓶子(へいし)を取り磯辺の杯を満たした。 「まずは乾杯なぞをいたしましょう」 磯辺と求馬の二人が目の前に杯をかかげ飲干した。「伊庭殿、あとは独酌と参ろう」 磯辺頼寛が薄く破顔した。江戸家老の嘉納隼人正より、求馬の癖などが知らされているようだ。 求馬は江戸から、教来石までの出来事を仔細に告げ終えた。「孤剣で六紋銭を殲滅いたすとは、鬼神のお働き見事の一言にござる。この磯辺頼寛、ただただ感服つかまった」「磯辺殿、まずは絵図の入った懐剣をお返しいたす」 求馬が袱紗に包まれた懐剣を磯辺の膝元へと差し出した。「この中に絵図がござる、お改めをお願いいたす」 そういい終えて求馬は瓶子を取りあげ杯を満たした。 磯辺頼寛が丁重に中を改め、求馬の相貌を凝視し口を開いた。「我が殿の申されますには、諏訪湖をご覧いただき絵図の真贋(しんがん)の判定を、ご貴殿にお願いいたせとの命にござる。お引き受け願いまするか?」「その前にお訊ねいたしたき儀がござる」 「なんでござろう?」「老中首座、水野忠邦が件にござる。未だに首座として健在にござるか?」 求馬が乾いた声で訊ねた。「江戸表よりの知らせにござるが、未だに健在との由にござる」「左様か、ならば請けざるを得ませぬな」 求馬の相貌に笑みが刷かれた。血風甲州路(1)へ
May 2, 2008
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「旦那、この書状の効果は凄いものですな」 猪の吉が改めて大目付の権限の大きさを知って感心している。「このお蔭で関所も面倒なく通れた、全て嘉納殿のお蔭じゃ」 求馬が丁寧に油紙につつみ直し懐中に納めた。「よい温泉でしたよ」 お蘭が洗い髪を梳ったままで戻ってきた。長い髪が益々、色っぽく女盛りを感じさせる。「こいつは驚いたね」 猪の吉が濡れ手拭を軒下につるし、初めてみるお蘭の艶姿に見いいっている。「なにさ、そんな顔をして照れるじゃないか」 お蘭が湯上りの顔を赤らめ、求馬の傍らに座りこんだ。 その晩は心置きなく信濃の食事を堪能し、ゆったりとした気分で酒を楽しんだ。もはや、何の心配もないのだ。桜鍋、馬刺し、へぼの佃煮、へぼ飯、ザザ虫の佃煮、野沢菜の漬物、最後に信州名物の蕎麦までが出た。「旦那、あっしはこのヘボが気に入りやしてね」「あたしはご免だね、なにさ、このざざ虫の佃煮とは」 給仕の女中が笑いながら説明した。「この信濃も甲斐も山国です、こうして川虫を佃煮にして保存いたします」「これは川虫ですか?」 お蘭が気色悪そうに悲鳴をあげた。「お蘭、川虫は岩の下に住み着く虫でな、これは魚釣りの餌じゃ」 求馬が馬刺しを食べながら説明した。「気味の悪い物を食べるんですね、あたしは魚じゃありませんよ」「冬に食べる保存食じゃ、この地方の生活の知恵じゃな」 求馬の説明をうけ、お蘭がしゅんとなった。「勝手なことを言ってご免なさいね」 女中に詫びている。「お江戸のお客さまには無理ですよね」「あっしは上野原宿でお駒と一緒で、このヘボを食ったんですよ」 箸でつまみながら、ひとつづつ口に放っている。そんな猪の吉の顔に愁いの色が浮かんでいる。お蘭が猪の吉の気持ちを察し、「はい、猪さん」 徳利を差し出した。 「済まねえ、師匠に気を使わせて」「何を遠慮してんのさ、そんなに落ち込んではお駒さんに笑われますよ」「そうでやすな」 お蘭の啖呵で猪の吉が薄い笑みを洩らした。 三人が感心したのは、やはり蕎麦であった。「旨いねえ」と、猪の吉がお代わりをしている。 「こしがあって美味しい」「お蘭、怒ったり喜んだり忙しいことじゃな」 求馬が揶揄っている。「だって美味しいものは美味しんですもの」「師匠にゃあ、叶わないよ」 猪の吉までが呆れ顔をしている。 こうして心静かな晩が更けていった。 翌朝、猪の吉とお蘭が旅籠付近に散歩に出かけた。 求馬は諏訪高島藩国家老の、磯辺頼寛に宛てた書状をしたため、蔦木屋の主人にそれを託した。 「今日中にお届けいたします」 主人が請負ってくれた。それを頼み求馬は朝風呂に向かった。 磨きぬかれた廊下を伝い、ゆったりとした温泉の浴槽で手足を伸ばした。 思い起こせば大変な旅であった、ただ脳裡に六紋銭の里の様子や、己が手にかけた老人や少年等の顔が過ぎっていた。「ご免、相湯をお願いする」 突然、物静かな声をかけられ現実に戻った。 一人の武士がかけ湯を浴び、浴槽に身を浸している。三十前後で浅黒く陽に焼けた顔が印象として残った。「いい湯加減ですな」 男は鼻歌を歌いながら景色を眺めている。「お先に」 一声残し、求馬は風呂場を出た、その瞬間、背後から鋭い視線を感じとった。何者かなと不審な念を抱き部屋に戻った。「お風呂でしたか」 お蘭が嬉しそうな笑顔で迎えた。「林檎を頂いてきましたよ、あとでご一緒に食べましょう」 猪の吉は畳みに転がり、所在なさそうにしている。「猪の吉、今日は何もすることがないわ」 「返事待ちですな」「そうじゃ、返事を待って上諏訪に向かうことになろうな」「いよいよ、お宝を拝見する瞬間がめえりやしたか?」「まずは現地を見なければなんとも云えぬな」 求馬は窓際に身をもたせている。 「国家老さまの返事は明日ですかえ」「そう何日も待たせない筈じゃ、恐らく明日にはお見えになられような」 お蘭が、いそいそと戻ってきた。 「林檎をむいてもらってきましたよ」 器に綺麗に剥かれた林檎が盛られていた。血風甲州路(1)へ
May 1, 2008
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「あれが蔦木宿じゃ」 求馬の声にお蘭と猪の吉が前方の街道をみつめた。「なかなか広い宿場町ですな」 小奇麗な旅籠が木立に囲まれて散在している。この蔦木宿は甲州道中の宿駅として新しく作られた宿場であった。宿場の南北には侵入者を防ぐ防壁も作れている宿場であった。これは枡形(ますがた)というもので、侵入者が直進出来ないように、くねくねとした曲がり道を設けていたのだ。「この宿場は慶長時代に作られ、新しい土地に代ったそうじゃ」 珍しく求馬が多弁である、お蘭には、その気持ちがよく判った。ようやく苦労の末に六紋銭の脅威が消えたのだ。「まあー、あれは林檎の木ですか」 街道に沿って赤い実をつけた樹木が目についた。 「そうじゃ、信濃は林檎の産地として有名じゃ」「旦那、旅籠を決めねばなりやせんな」 「本陣宿に宿泊いたす」「成程、ここで高島城の城代家老さまと繋ぎをとるんでしたね」 猪の吉が、軽快な足取りをみせ宿場町へと駆けて行った。 求馬とお蘭は肩を並べ宿場町へと足を踏み込んだ。「旦那、ありやした、蔦木屋と云う脇本陣ですよ」 三人が旅籠の玄関に着くと、「おいでなされませ」と、番頭と女衆が待ちうけていた。この季節にしては旅人が少ないようだ。 三人は玄関の三和土で用意された、足濯ぎの桶で足を清め部屋に通された。 刻限はまだ七つ(午後四時)頃である。「旦那、今夜はぱっとゆきやしょうぜ」 猪の吉がはしゃいでいる。「そうじゃな、六紋銭の事件も片がついたしな」 求馬が肯いている。「お蘭、風呂にでも行って参れ。わし等は酒じゃ」「まあ、さっそくお酒ですか。ならお先に浴びてきますよ」 お蘭と入れ替わりに品のよい女中が現れた。「お客さま、お酒をお持ちいたしました」 酒と簡単な肴の膳部を並べた。「この漬物はなんだえ」 早速、猪の吉が漬物に目をつけたようだ。「これは信州名物の野沢菜です」 箸でつまんで口にし猪の吉が舌鼓をうった。「こいつは美味いや」 「早速じやが、この屋の主人を呼んではくれぬか」「主人にございますか?」 女中が不審そうに求馬をみつめ頬を染めた。 求馬が白面の相貌をみせ女中を直視している。「お客さまは何方さまでしょう」 「主人殿に話す」「暫くお待ち下さい」 怪訝な顔をみせ女中が部屋から去った。「旦那、この野沢菜は旨いですぜ、歯ごたえが違いやすな」 求馬も湯呑みで独酌をはじめた、六紋銭との死闘の疲れが氷解してゆく。「酒はよいの」 「さいで」 二人がのんびりと酒を酌み交わしている。「ご免下されまし」 声と同時に縞柄の着物を羽織った中年の男が座敷に現れた。 「わたしが、この屋の主人の唐一郎にございます」「早速じゃが、頼みがある。それがしは江戸から参った伊庭求馬と申す。暫く逗留いたす」 求馬が無造作に一両の小判を差し出した。「これは大金にございますな」 主人が吃驚している。「明日、書状をしたためる。それを高島藩国家老の磯辺頼寛殿に届けてもらいたい」 「ご家老さまにございますか?」 主人が不審そうに聞いた。 「我等の身分を示す書状じゃ」 懐中から油紙に包んだ書状を二通取り出し主人に手渡した。「拝見いたします」「一切の取調べなく通行させるべきこと。大目付、嘉納主水」「わが藩の最寄の者にて宿泊の便益を図ること。諏訪高島藩江戸家老、嘉納隼人正」 二通の書状に目を通した主人の顔色が変わった。「これは、ご無礼いたしました、ご依頼どうり書状をお届けいたします」「我等は、磯辺殿のご返事があるまで逗留いたす」「畏まりました」 主人が平身低頭して部屋から去った。血風甲州路(1)へ
Apr 30, 2008
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それに乾いた視線を浴びせ、山彦の彦兵衛に痩躯をむけた。 右頬から血を滴らせた彦兵衛が、獰猛な顔つきで忍び刀を正眼としていた。 狡猾そうな目を血走らせ、一瞬の隙を見逃さず身を翻した。「配下を全滅させ、己のみ生き残るか?」「うるさい」 凄味を利かせた山彦の彦兵衛が祠の翳で足を止めた。 血走った眼に残酷な色が刷かれている。 「六紋銭の最後じゃな」 求馬が覚めた声を発し痩身を宙に躍らせ、祠の屋根に片足を乗せた。「びゆっー」 獲たりとばかり彦兵衛の大刀が水平に奔り、求馬の片足を薙ぎ斬りとしょうとした。閃光のように襲いくる白刃を予期した求馬が身を再び舞い上がらせ、全身の体重をかけた村正が彦兵衛の頭上を襲った。 彦兵衛が地面に躯を投げ出し、それを躱したが、二の太刀で背中を割られた。 「貴様っ」 彦兵衛が敏捷に地面に膝をつき構えを立て直した。「彦兵衛、地獄に堕ちよ」 求馬が村正を上段に振りかぶった。「旦那、待つておくなせえ、あっしの手で始末させて下せえ」 いつの間にか飛礫を握った猪の吉が傍らに現れ叫んだ。「下種は失せろ」 「へっ、おめえのような男の相手は下種で結構」 猪の吉の構えをみた彦兵衛が、忍び刀で顔面を防御する構えをとった。「猪の吉、存分に相手をしてやれ」 「合点承知ですぜ」 猪の吉が山彦の彦兵衛の周囲を油断なく廻りはじめた。「ゆくぜ」と声がし飛礫が唸りながら、彦兵衛に襲いかかった。 辛うじて大刀で叩き落とし、体勢を整えようとした瞬間、再び飛翔音が耳朶(じだ)をうった。視線の先に黒く小さな飛礫が見えた時、眉間に強かな衝撃をうけた、それが山彦の彦兵衛がこの世でみる最後の光景であった。「ぐっー」 苦痛の声を洩らし小太りの躯が仰向けに斃れた。「遣りやしたぜ。・・・・旦那っ」 猪の吉が喜びの声をあげた。「見事な勝負じゃ」 求馬が誉めあげた。「お駒の敵討ちが出来やした」 「そうよな、お駒も喜んでおろうな」「旦那、これで六紋銭は全滅ですかえ?」「そうじゃ、我等の務めも終盤に近づいた」 「嬉しいねえー」 声と同時に猪の吉が駆けだした。 「師匠に知らせてめえりやす」 駆け去る猪の吉の後姿を見送り、求馬は慎重に辺りを眺め廻した。 もしも生き残っておる者がいたら、里に帰してやろうと思った。しかし、それも無駄と知らされた。一人として生き残った者は居なかった。「無駄か」 求馬が独り言を呟き教来石から、ゆっくりと街道に足を運んだ。「旦那っ」 お蘭が顔を上気させ転がるように駆けて来る。「お蘭、心配をかけたが終わった」 駒ケ岳と八ケ岳が真昼の陽光を浴びて聳えたっている。 お蘭が求馬の胸に飛び込んできた、その柔らかな躯をしっかりと抱きとめた。「寿命がちぢむ思いでしたよ」 お蘭がようやく愁眉をひらいた。 茶店に戻ると、猪の吉が美味そうに冷や酒を呷っていた。「旦那、勝ち戦の祝い酒です」 「亭主、わしにも一杯くれ」「へい」 なみなみと注がれた湯呑みを口にし一気に飲干した。 咽喉から胃の腑が熱く感じられ、壮絶な闘いの幕切れを実感した。 四半刻ほど休息し、三人は最後の旅へと発った。「八ケ岳の麓に小淵沢がある」 求馬が赤岳を望みながら地形の説明をした。 また川の水音が聞こえてきた。 「旦那、釜無川ですね」「そうじゃ」 三人の前に甲斐と信濃を分ける国界橋が見えてきた。 轟々と濁った釜無川の流れを見ながら国界橋を渡りきった。「上流は大雨が降ったようですな」 猪の吉が陽気な声で訊ねた。「そうじゃな、暴れ川とはよう云ったものじゃ」 「もう信濃ですか?」 お蘭が立ち止まり、今きた甲斐の山々を懐かしげに眺めている。 富士山が三人に別れを告げるかのように、裾野を広げ威容を見せ付けている。山々は紅葉が始まり緑のなかに黄色や赤が混ざりあっていた。「次ぎの宿場は蔦木宿ですな」 猪の吉が振り分け荷物を肩に先頭を進んだ。「猪さん、お目出度う。さぞお駒さんも草葉の影で喜んでいますよ」「師匠、旦那が譲ってくれたんで山彦の彦兵衛を斃せやしたよ」 猪の吉が複雑な顔をした。(抱いておくれよ) お駒の声が聞こえたように感じられたのだ。血風甲州路(1)へ
Apr 29, 2008
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「腑甲斐ないかな鶴吉、もはや用はない。この場から里に帰れ」 彦兵衛が醒めた声で罵声を浴びせた。 浅間の鶴吉が怒りの眼差しをみせ、仲間に声をかけた。「わしは里に戻る。わいらも一緒に帰らぬか」 六紋銭に動揺がはしった。「鶴吉、わしも里に戻る」 二名が鶴吉のもとに駆け寄ろうとした。「許さぬ」 彦兵衛の小太りの躯が躍りあがり、忍び刀が陽光に煌いた。 戻ろうと油断した一人は袈裟斬りをうけ、いま一人は空け胴を水平に薙ぎ斬られ絶叫をあげ血潮を噴き上げた。「何をする」 浅間の鶴吉が血を吐くように非難した。「黙れー」 彦兵衛が一喝した。 「配下を斬るとは莫迦な真似をする」 求馬が軽く村正を素振り血糊を吹きとばし、揶揄の言葉をなげた。「伊庭、勝負じゃ」 山彦の彦兵衛が酷薄の顔つきで吠えた。「里に戻る者は居おらぬか?・・・・ならば全て冥途に送ってやろう」 求馬の乾いた声に六紋銭の手練者に戦慄が奔りぬけた。既に影の軍団と異名をとった六紋銭は七名となっている、それも大半は目前の伊庭求馬により斃されていたのだ。「この場で全て斬り伏せる」 求馬が凛とした声を発し殺気を漂わせて詰め寄ってきた。残りの六紋銭が死を覚悟して素早く包囲網を敷いた。 村正を手にした求馬が、うっそりと間合いを詰め片手殴りの一撃が彦兵衛に襲いかかってきた。村正が鋭い太刀筋をみせたが、彦兵衛はなんなく躱した。「相手は一人じゃ、包み込んで膾(なます)にいたせ」 残りの者が一斉に求馬に襲いかかった、大刀と大刀が火花を散らし焼き刃の臭いがあたりに漂った。そこかしこから血飛沫があがり、絶叫をあげ教来石から樹木の翳に転がり落ちる。 空気を裂いて飛翔音が唸り、「ぐつ」苦痛の声をあげ一人が仰け反った。「やいー、ここにも一人おるぜ」 猪の吉の威勢の良い声が響いた。「くそっ、六紋銭の結界とはかくも脆いものか?」 頭の彦兵衛が手裏剣を猪の吉に投じ怒声をあげた。「貴様の残酷さが今の結果を招いたのじゃ。あたら忍びの手練者を多く失い、往年の力が失せたのじゃ」 求馬が冴えた声で応じ、血濡れた村正を斜め正眼として詰め寄ってきた。 既に、六紋銭は彦兵衛と二名の配下のみとなっていた。「お主等も里に戻れ、六斎殿は昨夜、配下の老人、少年を引き連れ戻った」 「伊庭っ、我等三名は己の命と引きかえに貴様を斃す」 山彦の彦兵衛が獰猛な顔つきで肉薄してきた。「死ねー」 右手の忍びが身を捨てた攻撃を仕掛けてきた。村正が無造作に振られ、対手の大刀を弾き体勢を崩し、切っ先が咽喉首をかき切った。 噴き上がる血を止める仕草をみせ対手は絶息した。「おのれ」 彦兵衛が猛烈な突きをみせた。紙一重の差で切っ先を流し、求馬が躯を躍らせ彦兵衛の背に必殺の袈裟斬りをみまった。 彦兵衛も負けずと躯を反転させ、二人の刃が交差した。 求馬の袖が宙に舞い、彦兵衛の右頬を村正が掠めた。隙をみせず彦兵衛が敏捷に身を宙に躍らせ祠の背後に逃れている。 流石は六紋銭の頭領だけある業を見せ付けたのだ。「びゅっー」 空気を裂く音を響かせ飛礫が襲いかかった。 彦兵衛からも手裏剣が放たれ、中空で飛礫と手裏剣が跳ねとんだ。「やい、彦兵衛とやら、おいらが飛礫の猪の吉だ。お駒の仇だ逃しはしねえ」「あの色気違いの女に惚れた馬鹿男か?」 彦兵衛がふてぶてしく応じた。「畜生め、今度は息の根を止めてやるぜ」 再び飛礫が襲いかかった、彦兵衛は余裕で避けたが。猪の吉は秘伝の二弾射ちを仕掛けたのだ、避ける余裕もなく強かに左太腿に直撃を受け、彦兵衛が激痛を堪えた。 その時、求馬は彦兵衛を猪の吉に任せ最後の一名と対峙していた。 対手は命を捨て去っている、ゆえに迂闊には攻めれない。 求馬は満身の気息をととのえ村正を垂らした体勢で対峙している。 対手は切っ先を地面すれすれに下げた構えで隙を窺がっている。 潮あいが定まった。無言で躯を叩きつけるように捨て身の突きを見舞ってきた。わずかに身を捻り、切っ先を流し村正が対手の左脇腹を強かに斬り裂き、切っ先が天をさした。たたらを踏んで留まった頭上に、渾身を込めた村正が怒涛の如く振り下ろされた。存分に血潮を吸った村正が、陽光の輝きを弾き返し、凄味をおびて反射した。 血潮を噴き上げ、暫く佇んでいた対手の躯が、どっと地面に倒れ臥した。血風甲州路(1)へ
Apr 28, 2008
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「旦那、奴等が動きだしやしたぜ」 猪の吉が鋭い眼差しで顎をしゃくった。 眺めると三名ほどが茅の繁みに忍び込む様子が見えた。「お蘭、水筒じゃ」 「はいな」 お蘭が竹筒を差し出した。 その水筒の水を口に含み、村正の柄に吹きかけた。 「猪の吉、刻限はどうじゃ」 猪の吉が太陽を仰ぎ見た。 「四つ(午前十時)頃かと思いやす」「行くぞ」 求馬と猪の吉が合羽を脱ぎ捨て、身軽な姿となって樹木の間に姿を消した。茶店の老人が呆然とした顔で見送っている。「旦那、無事で戻っておくんなさいよ」 お蘭が祈る思いをこめて手を合わせた。 「あんた達は公儀のお人かね?」「そうですよ。大目付さまと高島藩の諏訪因幡守さまに頼まれたお勤めです」「道理でな」 茶店の老人が納得顔をした。 お蘭が立ち上がり湿地帯に視線を這わせている。茅が波立ち二本の筋を引くように、教来石に向かっているのが見えた。 それに呼応するかのよぅに、対岸から茅の波立ちが三方面から迫っている。「六紋銭だね」 お蘭が傍らの松の翳で呟き闘いの様子を凝視している。 緑の茅の繁みが海原のように見える、六紋銭の迫る様子が荒波のように泡だち、茅が大きく揺れた。 「始まったよ」 そう感じた瞬間に、求馬と覚しき男が茅の上を二転、三転する様子と刃の煌めきが、お蘭の眼を射抜いた。 ざわざわと揺れ動いていた茅の繁みが、海原の大きなうねりとなった。「六紋銭の結界は破れたり」 凛とした求馬の冴えた声が微かに聞こえた。「我等の悲願を邪魔をいたし、多くの仲間を手にかけたお主等に鉄槌を下す」「笑止なり、山彦の彦兵衛。己の野望を達せんとし里の者を犠牲とした所業は許し難し」 声を目がけ小山の翳から無数の弓矢が放たれ、湿地帯の茅のなかに吸い込まれるように射込まれた。 最早、お蘭には何も見えない。 闘いの場所が教来石付近に移っていた。「己の配下の鶯のお駒も、その毒矢で殺したな」 「ほざくなー」 その声を目がけ猪の吉が、渾身の力をこめて飛礫を投じた。 茅の繁みをぬって飛来した飛礫がものの見事に的中した。「ぐっ」 苦悶の声があがり茅が泡だった。 求馬と猪の吉が湿地帯を抜け、教来石のある小山の鬱蒼たる樹木に身を躍らせ飛び込んだ。 「ぎゃー」 絶叫が木霊した。 求馬が敵を求め樹間を疾走した、二名の錏頭巾の男が前方を塞いだ。「刀を引き里に帰るのじゃ」「きえっー」 その言葉を無視し怪鳥の鳴き声をあげ、二人が宙に踊りあがり渾身の一撃を浴びせてきた。村正二尺四寸(七十三センチ)が血潮をもとめ白い光芒を放って煌いた。一人は空中で薙ぎ倒され、いま一人は着地と同時に、頭蓋を唐竹割りとされ血飛沫の中に倒れこんだ。 忍びの鉄則が破れた、「何処じゃ」 「探せ」 その声をたよりに求馬の痩身が三間の距離をものともせず跳躍し、教来石に飛び乗り周囲を睥睨した。 空気を裂いて飛苦無が襲いかかったが、村正の峰で苦も無く弾きとばした。 求馬の前に錏頭巾の偉丈夫な男が、忍び刀を構え佇んでいた。「お主は、浅間の鶴吉じゃな」 一目で感じとった。「闘牙の三十郎の仇を討つ」 殺気を全身から漲らせ、じりっと前進をはじめた。「無駄な闘いは止せ、六紋銭の出番はなくなった。里に戻り村を再建いたせ」「貴様を斃してからじゃ」 求馬が素早く左下段の構えをとった。 腰を低めた浅間の鶴吉がじりっと接近してくる、求馬も構えを変えずに前進した。 「命を貰う」 声と同時に凄まじい太刀風が求馬の右首を襲った。 求馬が半歩躯をひらいた、唸りをあげた豪剣が右肩を掠め切っ先が流れた。 見逃さず村正が、鶴吉の右脇腹から左首筋に跳ね上がった。 流石に六紋銭の遣い手である、崩れた体勢のまま後方に跳躍して逃れようとしたが、求馬が痩身を一気に接近させ村正が一閃した。「むっ」 苦痛の呻き声を堪えた鶴吉の左腕が、血の帯を引いて宙に舞った。「殺せっ」 浅間の鶴吉が歯噛みをして吠えた。「勝敗は時の運、お主の負けじゃ。温和しく里に戻るのじゃ、里はお主の力を必要としておる」「・・・」 鶴吉が無念の形相で求馬を見つめ、がくっと膝を付いた。 求馬が踵(きびす)を廻した。小太りの山彦の彦兵衛を真ん中として八名の六紋銭の生き残りが、忍び刀を正眼に構え立ち塞がっていた。血風甲州路(1)へ
Apr 26, 2008
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街道の両脇には、小さな集落が点々と散らばり、朝餉の煙が漂っている。 そんな長閑な光景を横目とし、三人はゆっくりと最後の闘いの場に足を運んでいた。一刻(二時間)ほど、ゆるい登り道を進んだ。 甲斐は盆地の国であるが、信濃は高地の国であった。標高が徐々に高くなっているのだ。 「あれが下教来石宿ですな」 猪の吉の云う通り、小さな集落が街道沿いに現れた。三人は宿場をぬけ更に西に向かった。 街道の風景が湿地帯に変わってきた、釜無川に近づいたようだ。 (十三章) 街道の両側が再び並木道へと変わり、樹木の間から鬱蒼たる樹木に覆われた丘が見えてきた。大きな奇岩が望見できる、岩の周囲は欅、楢(なら)、赤松などの大木が鬱蒼と天を仰いでいる。 その前面に開けた湿地帯には茅(かや)が群生している、まるで緑の海原のように見える。「いよいよですな」 猪の吉が腰の袋から飛礫を懐中に移している。 求馬は長合羽をひるがえし、うっそりと痩身を進めている。 なんの気負いも変化も見せないが、それだけに修羅場を潜り抜けた凄味がいっそう強く感じられる。そんな求馬の背中をお蘭が真剣な顔で見つめていた。 街道の切り通しの良い場所に、粗末な茶店が店を開いていた。「お蘭、あそこで一休みいたす」「はいな」 お蘭が緊張で硬い顔をしている。「案ずるな、我等が近づくまでは襲っては参らぬ」 求馬が平然とした態度で茶店の長椅子に腰を据えた。「お出でなされまし」 腰の曲がった人の良さそうな老人が出迎えた。「茶を頼む」 「へい」 猪の吉とお蘭も腰をおろし茶を啜った。「亭主、あの辺りが教来石(きょうらいいし)じゃな」「そうでございますだ」 茶店の老人の声に求馬が双眸を光らせ眺めた。「あの近辺で不審な者は見かけなんだか?」「何者かは知りませぬが、昨日より盛んに動き廻っておりますだ」「そうか、人数はどうじゃ」 猪の吉が耳をそばだてている。「はっきりとは判りませぬが、十四、五名くらいかと思いますだ」「亭主、ここに女子と荷物を与ってはくれぬか」 求馬が二分金を差し出した。「このお人と荷物を与りますに、こんなには頂戴出来ませんだ」 老人が驚いている、二分金が二枚で小判一枚に相当する大金である。「お蘭、ここで終わるまで待て、もし、二人が戻らなんだら亭主と一緒に逃れよ」「嫌です」 お蘭が鉄火女の意地をみせ断った。「お蘭、聞き分けるのじゃ、そちが一緒では足手まといとなる」「悔しい」 お蘭の眼から涙の露が盛り上がっている。「亭主、わしら二人が戻らなんだら荷物と共に近くの旅籠まで連れて行ってくれ、その為の銭じゃ」 「へい、お引きうけ申しますだ」 老人が茶店の奥に座り目を瞑った。「旦那、そろそろ仕掛けやすか?」 「待て奴等を焦らすのじゃ」「さいで、姿を現してくれれば、こちとらが有利となりやすな」「亭主の言葉が真実ならば、一気にかたをつける」 求馬は自信たっぷりである。「亭主、冷や酒を二杯頼むぜ」 闘いを前にして二人が酒を呷っている。 百戦練磨の修羅場を潜りぬけた二人だけが出来る芸当である。「旦那、なんでこんな場所に、あんなに大きな岩があるんでしょうな」「大昔の火山の名残りじゃろう、七里岩は火砕流で出来た岩じゃそうだ。また、教来石には面白い話が伝わっておる」 「面白い話ですかえ」「日本武尊(やまとたけるのみこと)が甲府の酒折宮に居った頃に、あの奇岩で休んだとの伝説が伝わっておる」 「それで祠が祀ってあるんで」 二人の会話を聞き、とうとうお蘭の堪忍袋の緒が切れた。「旦那、わざとあたしをのけ者にするのですね」「お蘭が怒りおった、もうすぐ六紋銭も痺れを切らす頃じゃな」 求馬が頬を崩した、彼は闘いの潮時を計っていたのだ。「あっしの悲しみを旦那に背負わせてはいけませんぜ。必ず戻りやすから」 猪の吉の言葉にお蘭がはっとした、これから闘いに向かう旦那になんと申し訳ない事を云ったものだと悟った。武士の妻なら笑って送り出すだろうに。「旦那っ」 「・・・・」 「許して下さいな、あたしが間違っておりました」「料簡いたしてくれたか」 「はいな」血風甲州路(1)へ
Apr 25, 2008
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部屋にもどると豪勢な膳部が目をひいた。「こいつは美味そうだ」 猪の吉が先刻の感傷を忘れたような笑みを浮かべた。山国の所為か、いつも鮎の塩焼きがでる。小鮎の甘露煮、山菜の漬物、珍しく鹿肉の鍋物が美味しそうな匂いを漂わせていた。 それに銘酒、七賢が供されていた。三人はゆったりとした気分で遅い夕餉を楽しんだ。食後は林檎と葡萄である、お蘭が嬉しそうに食している。 それを見ながら求馬と猪の吉が、七賢を飲みながら明日の策を練っていた。「矢張り、六紋銭を倒し信濃に入るだけですな」「明日はお蘭も一緒じゃ、白昼で不利な闘いとなろうな」 求馬が猪の吉に決意を告げた。「六紋銭の人数はどうですかね」 猪の吉の心配はそこにあった。 求馬の相貌には変化がみられない、ここまで来れば人数を気にする事はない。当たって砕けるまでと覚悟していたのだ。「明日は、なにが起こっても六紋銭を斃し、国界橋を渡る積りじゃ。そこからは信濃の国になる」「蔦木宿で一汗流せますな」 猪の吉が不敵な笑いを浮かべた。「そうじゃな、そこに逗留し高島藩国家老の、磯辺頼寛(よりひろ)殿に到着の知らせを出す。その返事を待って上諏訪に向かうことになろう」 求馬が乾いた声で今後の方針を語り、七賢を飲干した。「いよいよ信玄公の隠し金塊を探りだす訳ですな」 猪の吉が興味深い顔をしている、今の猪の吉には気を紛らせる何かが必要であった。それが、お駒の死を一時でも忘れる妙薬でもあった。「旦那、あたしが足手まといとなったら、遠慮なす置いて行って下さいな」 お蘭が覚悟を秘めた口調で告げた。「心配は無用ですぜ、あっしが守りやす。明日は旦那と六紋銭の闘いとなりやす、あっしらは旦那の背後を守ることです」「判ったよ、猪さん」 お蘭が嫣然とした微笑を返した。 覚悟を定めた女性は、普段よりも数段美しくなる。猪の吉が視線を外した、またもや、お駒の面影が胸中をよぎったのだ。 夜が白々と明け染めた時刻に三人は起床し、朝風呂を浴びて早い食事をとった。 「矢張り、酒がねえと駄目ですな」 猪の吉が朝酒を頼みに帳場に出向いた。「お蘭、死に急ぎはならぬぞ」 求馬が真剣な声で話しかけた。「はいな、六紋銭とて女には手をださないでしょう、万一の時は、あたしが旦那の死に水をとります」 風呂あがりの所為か一段と艶やかな顔をしている。「そちに死に水をとって貰えば本望じゃ、だが、わしは死ねぬ。そちを抱かねば死にきれぬ」 「まあ、旦那」 求馬からこのような言葉を聞いた事がなかった。抱いて欲しい思い募り躯が熱くなり、眸が濡れぬれと輝きをました。「朝酒ですぜ」 猪の吉が盆をもってもどってきた。「あれ師匠、悪い時に戻ったようで」 お蘭の様子を目ざとく感じ猪の吉が揶揄いの言葉を吐いた。 「そんな事はありませんよ」「そうですかえ、景気なおしに一杯いきやしょう」 三人は無言で杯を交わしあった。 飲み終わり、求馬と猪の吉が厳重に身形を調え、それぞれが長合羽、道中合羽を羽織った。お蘭も江戸から持参した淡い水色の地に細い縞模様の小粋な着物に着替え、道行き衣をまとった。 玄関には七賢の番頭と女中が見送りに集まっていた。 三人は厳重な足拵えで表通りへと向かった。 「道中、お気をつけて」「お世話になりました」 お蘭が、それぞれに礼を述べている。「番頭さん、この先に大きな奇岩があると聴いたが、どの辺りかね」 猪の吉が、それとなく探りを入れている。「下教来石宿から一里ほど西に向かいますと否応でも目につきます」「そうかえ、色々と世話になったね」 三人は早朝の台ケ原宿の旅籠町を通りぬけ、甲州道中へと足を踏み出した。「旦那、見てごらんなさいな」 お蘭が朝靄の立ち籠める街道に佇み、朝日を浴びて聳え立つ駒ケ岳と八ケ岳の威容を指さした。「天下の絶景ですな」 猪の吉までが、惚れ惚れと眺めている。血風甲州路(1)へ
Apr 24, 2008
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凄まじい攻撃に六紋銭の輪が広まった。「猪の吉、頭巾を脱いでみよ」 「へい」 猪の吉が斃れ臥した者の頭巾を剥いだ。 「これは」 猪の吉が驚きの声をあげ、つぎつぎと頭巾を脱がせた。「旦那、こいつはひどいや、老人と子供達ですぜ」 二人の目前には、いたいけな少年と老人の死骸が横たわっていた。「矢張りな。ここの結界を守る者は全員が老人と子供達じゃ」「恐れるでない」 しわがれ声に誘われた一人が宙に躍りあがった。「がっー」 鋼の音が響き六紋銭の忍び刀が弾きどばされた。「止めえ、愚か者」 求馬の一喝で六紋銭の結界が崩れた。「まだ判らぬか、最早、六紋銭は全滅したのじゃ。信州上田の里には女、赤子しか居るまい、お主等が死に絶えたら村はどうなる。死骸を引き取り里に戻るのじゃ、村の再建をいたせ」「我等は数百年もの間、世に出る機会を待ち受けていた。ようやく出られるとゆうに、里に戻れと申すか?」 しわがれ声の主である。「そちがこの一党の頭か、名前を名乗れ」 求馬が声を荒げた。「鹿(か)の子、六斎と申す」 錏頭巾から眼光が鋭く輝いている。「六斎殿、老中首座水野忠邦の失脚はまじかじゃ。世に出るために里の者が何名倒れた、もはや夢を捨てられよ」「伊庭求馬、お主に斃されたのじゃ。死んだ者の為にもお主を倒さねばならぬ」 六斎が錏頭巾を脱いだ、齢五十年配の男であった。どことなく鶯のお駒の面影に似ている。 「お主には娘が居らぬか、名は鶯のお駒と言う」 求馬の問いに六斎に動揺の色がはしった。 「お駒を知っておるのか」「猪の吉、お駒の最後の様子を話してやれ」 求馬の言葉で猪の吉が、原路でのお駒の最後の模様を語った。「死んだか」 六斎が、がくっと膝を付いた。「亡くなったが、人並みに男に惚れた。親として娘の冥福を祈って遣ることじゃ。兎に角、山彦の彦兵衛の甘言には乗らぬ事じゃ」「猪の吉殿と申されるか、娘を葬って頂き礼を申す」 六斎が丁重に頭を下げた。六紋銭の生き残り全員が頭巾を脱いだ。 白髪の老人や十五、六歳の少年ばかりであった。「こいつは酷(むご)いや」 猪の吉が痛ましそうに一党を眺め廻した。「二度は申さぬ。江戸で女子を犯し素人を虐殺し放火をしたのは六紋銭じゃ、それがしの忠告を無視するならば致し方がない、ここで全員斬り捨てる。今なら里の再建も出来よう筈じゃ」「先刻、申された水野忠邦さまの失脚は真の事にござるか?」「影の軍団と異名をとる六紋銭の後ろ盾を失った水野には復活はない。近々には阿部正弘さまが老中首座に付かれる」 求馬が冴えた声で断言した。「判り申した、我等の誤りにござった。これより教来石に引き下がり里に戻りましょう」 六斎が大きく肯き返した。「了解いただき重畳、山彦の彦兵衛に伝えて下され、明日には堂々と我等は信濃に踏み込むと」「山彦のお頭は手練者を率いてござる、それでも行かれるか?」「死生天にあり、これがそれがしの生きざまにござる」 求馬の言葉に軽く肯き、「戻るぞ、遺骸は丁重に運ぶのじゃ」 六斎の下知で一党は黙々と闇に消えて行った。「彦兵衛はあんた達に手をださないかね」 猪の吉が声を張り上げた。「我等は同じ里の者じゃ、里の者には危害は加えぬ」 声が街道の向こうから聞こえ、やがて風に揺れる樹木の音のみとなった。 猪の吉も、お駒の父親の顔をみて元気を取り戻していた。 旅籠に戻ると、お蘭が泣き顔で駆け寄ってきた。「大丈夫ですか」 「結界の第一陣は解けた」 「さいで」「良かった無事で」 「師匠、流石に腹が減りやしたよ」「判ったよ、風呂に入っておいでな。その間に用意してもらいますから」 お蘭がいそいそと帳場に向かった。「旦那、ひと風呂浴びやしょうや」 「そうじゃな」 宿衣に着替え二人は風呂場に向かった。「旦那は、気が漲ってないと云われやしたが、あの時から老人、子供達と判っておられやしたか?」 猪の吉が突然に訊ねた。「いや、途中で感づいたまでじゃ」 求馬が素っ気無く応じた。「おう、立派な岩風呂ですぜ」 猪の吉が掛け湯を浴び飛び込んだ。 瞬間、お駒の豊満な乳房と裸体が脳裡をよぎった。血風甲州路(1)へ
Apr 23, 2008
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短い夜が明け、ふたたび夜を迎えた。窓からは南西に駒ケ岳の威容が見え、北に裾野をひろげた八ケ岳と主峰の赤岳の稜線が、西日を受けて輝いている。 道中に眼を転ずると街道は、芒の穂が波立つように見事な景色を見せている。奇岩は黒々と翳のように不気味な様子でうずくまり、鬱蒼と繁った樹木に覆われている。しかし、お蘭は景観を愛でる余裕を失い、二人の男の闘いの身繕いをただ眺めているだけであった。 求馬も猪の吉も忍び装束に身をつつみ、得物の点検に余念がない。「お蘭、酒を頼んで参れ」 求馬の声に応じ、「はいな」と廊下を歩みながら、不安が黒雲のように胸に広がっている。「旦那の凄腕も、猪さんの飛礫の腕も知ってるじゃないか」 と独り言を呟きながら大徳利と湯呑みを盆にのせ部屋に戻った。「済まぬな」 求馬が白面の相貌をほころばし、口に含んだ酒を村正の柄に吹きつけた。 「あっしは勿体ねえんで腹のなかだ」 猪の吉が景気づけで湯呑みを口に運んでいる。「師匠、そんな顔をせずに飲んでおくんなせえよ、あっしはお駒の仇討ちだ。きっと喜んでくれますよ」 ふっと猪の吉の横顔に寂寥感がよぎった。「お蘭、首尾よくいったら五つ半(午後九時)頃には戻れよう、万一の場合は江戸にもどり嘉納殿に事のあらましを申しあげてくれえ」 求馬が事も無げな声で命じた。「はいな、ご武運をお祈りいたします」 お蘭が畏まって肯いた。 「師匠、心配はねえよ」 猪の吉が精悍な顔を崩し声をかけた。「確りとお駒さんの敵討ちをなさいな」「任せておくんなせえ、旦那、そろそろ参りやすか?」 求馬が痩身をたちあげ長合羽を羽織った。 「お蘭、行って参る」「はいな」 精一杯、明るい声で答えた。 二人が肩を並べ廊下に消えた、その足音の途絶えた静寂の中でお蘭はひっそりと祈るように座っていた。 旅籠を出た二人はゆったりとした歩調で宿場町を離れて行った。 街道は既に闇に覆われ、雲間から満月が覗いていた。「猪の吉、行くぞ」 求馬が長合羽をひるがえし疾走に移った。 猪の吉も、昔とったきねづかで負けずと跡を追った。「旦那、あそこでさあ」 一里塚の手前で二人は立ち止まり闇を透かしみた。 大きな奇岩が街道の左右に横たわり、鬱蒼とした樹木が闇を濃くしている。「待ち伏せには格好の場所じゃな」 求馬が猪の吉に声をかけた。 まるで恐怖心の欠けらもみせない。 「さいで」 と答え、猪の吉は唸る思いで求馬の傍らに待機していた。微かに人の潜む気配がする。「猪の吉、奇妙じゃ」 「・・・」 無言で猪の吉が求馬の横顔を盗みみた。 白面の相貌が満月に照らされ乾いてみえた。「どうかいたしやしたか?」 「気の漲(みなぎ)りが弱い」「はて、何のことです」 猪の吉には合点のゆかぬ言葉であった。「わしが一人で行くが、背後を固めてくれ」 求馬が低く命じた。「判りやした」 短く応じ、腰の袋から飛礫を取り出し岩に並べた。 長合羽を羽織り、求馬の痩身がうっそりと狭い街道を進んでいる。「お主が伊庭求馬かの」 突然、闇の中から低い忍び声が響いた。「左様、そなた等の結界を破るために参上いたした」 「破れるかの」 声と同時に殺気が盛り上がり、樹木の葉をざわめかせ、頭上から二つの影法師が求馬に襲いかかった。 長合羽が闇夜に大きく広がり、村正が一閃、二閃と闇を割って迸った。「むっ」 空中で二つの影法師が両断され、苦痛の声と共に土煙をあげ落下した。 「きえっー」 錏頭巾の忍び者が躍りあがるように必殺の攻撃を仕掛けてきた。求馬は村正の峰で敵の忍び刀を弾きあげ、その体勢のまま切っ先で対手の咽喉首を掻き斬った、血の臭いが清冽な空気を乱した。「びゅー」 風切り音が響いた。 「ぐっ」 奇岩の上から苦痛の声を洩らし六紋銭の一人が転がり落ちた。猪の吉の満を持しての攻撃であった。「姿を見せえー」 求馬の凄まじい一喝が闇を震わせた。 猪の吉が駆けより傍らで飛礫を握り身構えた。 ざざっと樹木を揺るがし、二人の前に二十名ほどの忍び者が姿をあらわした。「第一陣の結界を守る者共か?」 求馬が冴えた口調で訪ねた。「左様」 低いしわがれ声を合図に全員が抜刀した。「未熟者ばかりじゃ」 求馬が乾いた声をあげるや、痩身を躍らせ群りの中に駆け込んだ。縦横に村正が唸りをあげて煌いた。 悲鳴と苦痛の声をあげ、瞬く間に五名の六紋銭が地上に斃れ臥していた。血風甲州路(1)へ
Apr 22, 2008
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この台ケ原宿は甲斐、信濃国境の要衝の地である。甲府から西に向かう甲州道中は、韮崎をふくめ国境まで三宿しかなく台ケ原宿は、その中心的な役割を担っていた。佐久への道もあり人馬の往来も多く、甲信国境の物資の集積地としても有名であった。 求馬とお蘭が宿泊した旅籠は有名な七賢で脇本陣の役割も担っていた。 寛延二年(一七四九年)の創業で銘酒、七賢の造り酒屋としても有名であった。 求馬とお蘭は夕餉を終えてひたすら、猪の吉の到着を待っていた。「旦那、猪さんの到着が遅いですね」 お蘭がさかんに心配している。「男女の仲は判らぬものじゃな、まさか猪の吉とお駒が惚れあうとはの」 求馬がぼそりと呟き冷や酒を呷った。 「因縁ですよ」 お蘭の脳裡に三年前の出来事がよぎっていた。 その頃、お蘭は嘉納主水の密偵として求馬の動きを探っていた。 躯をはり求馬を誘惑し、初めて男女の仲となったが、求馬は密偵と承知でお蘭の躯を弄び、「据え膳を喰らったまでじゃ」と嘯いて去って行った。 あの時の悔しさは今でも忘れる事が出来ないが、今はこうして最愛の男となっている。勿論、求馬も愛してくれている。 お蘭は男女の不思議な縁に思いを馳せていた。 猪の吉が元気のない姿を現したのは、暮れの五つ(午後八時)頃であった。「心配をおかけしやした」 「お駒を葬って参ったか?」「へい」 言葉短く答えた猪の吉が荷物を片付け宿衣に着替えている。「猪さん、一杯ひっかけてお風呂に浸かっておいでよ、顔も手も泥だらけだよ」 お蘭が冷や酒を湯呑みに注ぎ手渡した。「師匠、済まねえ」 猪の吉が一気に飲干した。「旦那、話は後でいたしやす」 猪の吉が肩を落とし風呂場に向かった。 ほどなく戻った猪の吉が黙然と夕餉を摂り、食後の煙草を燻らせている。 精悍な顔が心なしか曇り、さかんに眼をしばたたいている。「お主が本気で惚れていようとはな」「お駒に薬を盛られ、いつの間にか惚れてしまいやした」「肌を許しあえば、そうなるのよね」 お蘭の実感であった。「それも、あっしを庇ったばかりであんな最後です。可哀想で愛しくて堪んねえ気持ちですよ」 猪の吉が眼を潤ませている。「猪の吉、お主の心の傷が癒えるまで逗留いたす」「滅相な、あっしは今からでも敵討ちがしてえ」「無茶を言うな、今夜はお駒の通夜じゃ、飲みつぶれるまで飲もう」 求馬が湯呑みを満たした。 「頂戴いたしやす」 猪の吉が酒を飲み下し、ほっと吐息を洩らした。 三人は重苦しい雰囲気の中で、黙然として飲み続けていた。「旦那、忘れねえうちに申しあげておきやすが、この宿場から西に半刻ほど行きやすと一里塚がございやす。街道の左右に大きな岩山がありやすが、そこは襲うには絶好の地形です。人の気配を嗅ぎ取ってめえりやした」「猪さん、あんたと言う人は」 お蘭が途中で絶句した。 お駒さんを葬った足で物見に行ってきたのだ、そうお蘭は感じとった。「猪の吉、お主の覚悟は判った。明日の晩に六紋銭の結界を襲う」 求馬が珍しく強い口調で断言した。「そうこなくちゃあね」 猪の吉の相貌に赤みが戻ってきた。「わしの勘じゃが、猪の吉の探って参った一里塚は六紋銭の第一陣じゃ。第二陣は教来石付近とみる、多分、手練者は第二陣に居る」「旦那、頭の山彦の彦兵衛は第二陣の結界におりやすな」「そうじゃ、何としても我等を信濃に入れぬ覚悟じゃ」 求馬の双眸が凄味をおびて輝いた。「お駒の敵討ちができやすな」 猪の吉の全身に覇気が漲っていた。 お蘭がそっとうつむいた、この旅の目的が六紋銭の殲滅にあるとは承知していたが、明晩が最後の血戦と思うと身内に震いが走ってきた。「お蘭、なにも心配はいらぬ。安心いたせ」 素早く心境を察した求馬が、お蘭を慰めていた。血風甲州路(1)へ
Apr 21, 2008
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相手の矢が放たれると同時に、猪の吉の飛礫が空気を裂いた。矢が猪の吉の躯の近くに突き刺さり、相手が潅木の中に崩れ落ちた。「やったぜ」 猪の吉が会心の笑みを浮かべた。 背後に敵の気配がする、猪の吉は窪地の中で身構えた。 相手の気配が途切れた。 「野郎、隠れがやったな」 猪の吉も、窪地で気配を絶った。長い対峙が続いたが、それは束の間の間である。風が潅木の繁みを吹きぬけてゆく、「畜生め」 猪の吉の飛礫を握る手が汗ばんでいる。突然、矢音が響き猪の吉の手からも飛礫が放たれた。「危ないー」 猪の吉の背後から女の声がして柔らかな躯が覆いかぶさってきた。 潅木の繁みから苦悶の声があがった。「誰だ」 猪の吉が女の躯を押しのけ、驚きの声を洩らした。「おめえは、お駒か?」 「鶯のお駒もどじを踏みましたよ」 お駒が身を挺して猪の吉をかばったようだ、口の端から血が滴り流れている。「お駒っ」 お駒の躯を抱き起こし愕然となった。 お駒の背中に深々と矢が刺さっている。「莫迦な、おいらを助ける為に矢を受けたのか」「わたしは本気であんたに惚れてしまったのさ」「確りしろ」 猪の吉が突き刺さった矢を根元から折った。「あんた、後ろだよ」 お駒の声で猪の吉がふり向きざま飛礫を投じた。「ぐっー」 苦悶の声をあげた男が弓矢を放り草叢に倒れこんだ。 ものの見事に眉間を砕かれたのだ。猪の吉が鋭い眼差しで周囲を見つめた。「あいつが最後ですよ」 「お駒、いま矢尻を抜いてやるからな」「無駄ですよ、矢尻には毒が塗ってありますのさ」 「馬鹿野郎」「猪さん、馬鹿はないでしょ。わたしは女ですよ」「・・・・」 猪の吉が、お駒の躯を抱きかかえ言葉を失っていた。「猪のさん、もう襲ってはこないよ」「おめえは、おいらの後を付けていたのかえ」「違いますよ、あんたを殺そうと潜んでいたのさ、でも駄目だった」 「今に旦那も来られる、きっと治してやるからな」「優しいねー、わたしは駄目。こうして猪のさんに抱かれて死ねるなんて思いもしませんでしたよ。くの一が男に惚れちゃあお終いですね」 お駒の顔色が蒼白に変わってきた。「六紋銭は終りですよ、教来石と国界橋に結界を張って待ち伏せしています。死んじゃあ駄目ですよ」 「お駒っー」 猪の吉が絶叫した。「莫迦だねえ・・・男が涙なんて流してさ」 お駒が、震える指先で猪の吉の涙をなぞった。「もう一度、あんたに抱かれたかったよ」 最後の語尾がかすれ、がくっと猪の吉の胸に顔を埋めた。「お駒っ」 猪の吉が絶叫しつつ、懸命にお駒の躯をゆすった。「猪の吉、もう駄目だ」 いつの間にか求馬とお蘭が傍らに居た。「旦那っ」 「猪さん、気をおとさないでね」「師匠っ、お駒はおいらを助けようと身代わりになって死んでしまいやした」 猪の吉が涙を流し、二人に訴えた。「お駒を葬ってやれ、わしらは台ケ原の旅籠で待っておる」 求馬が猪の吉の荷物を傍らに置いた。「弔い合戦は教来石と国界橋じゃ、忘れるでない」 求馬とお蘭が草叢を掻き分け、忍び足で戻って行った。 見送った猪の吉は、なすべき事も忘れお駒の亡骸を抱きしめていた。 台ケ原の旅籠で求馬とお蘭は、猪の吉の戻りを待っていた。「風呂に行って参れ、猪の吉の心の傷が癒えるまで逗留いたす」「はい」 お蘭の足音が消えた。求馬には猪の吉の心が痛いほど判る、己も過去に二人の最愛の女性を失ってきた。 その悲しみを忘れ去るのに数年の年月を要した、今はお蘭が居る。 それが己の生き甲斐となっていた。 求馬が冷や酒を呷った、せめて猪の吉が戻ったら飲みつぶれるまで付き合ってやる、そう思いながら苦い酒を飲んでいた。「お先に頂いてきました」 お蘭が風呂を浴びそっと戻ってきた。「お蘭っ」 「はいな」 「そちも猪の吉とお駒のために飲んでやれ」 お蘭に湯呑みを渡し、そっと注いだ。お蘭が湯呑みに口をつけ、そっと求馬の手を握りしめた。その暖かい感触が、いっそう無常感を募らせるのであった。血風甲州路(1)へ
Apr 19, 2008
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街道にそって暴れ川と異名をとる、釜無川が滔々と豊富な水量をみせながら流れている。いったん暴れだすと手の付けられない川であるが、今は静かな佇まいとなっていた。祖母石宿に近い茶店で三人は休息した。 街道はほとんど人影がなく閑散とした光景をみせている。「婆さん、酒はねえかえ」 早速、猪の吉が注文している。「地酒ならあるだよ」 「そうかい、二杯くんな」 求馬と猪の吉が酒を口にしている。「姐さんは何を飲みなさる」 「あたしはお茶と草団子を下さいな」 茶店の西は鬱蒼とした樹木が繁り、鳳凰山を望み、その先には駒ケ岳が天まで届くように聳えたっている。それに奇岩である。「見事ですねえ」 お蘭が団子を手に感嘆の声をあげている。 街道に一人の旅人が現れ、茶店に一瞥もあたえずに通りすぎていった。「猪の吉っ」 「へい、なんですかえ」「あの旅人は怪しい」 求馬が湯呑みを持つて顎をしやくった。「普通に見えやすがね」 「茶店に見向きもしなかった」「あっしの出番ですな」 猪の吉が荷物をもって追跡をはじめた。「旦那、なにかありましたか?」 お蘭が不審そうな顔をした。「心配はない、食べ終わったら出かける」 「はいな」 求馬が代金を置いて立ち上がった。 「あれ、もう出かけなさるか」「婆さん、台ケ原まではどれくらいだな」「登り坂だが二刻もあれば着きますだよ」 茶店の老婆に見送られ、二人は街道にもどり、ゆっくりと歩みはじめた。「お蘭、明日あたりには信濃に入ろう。いよいよ六紋銭が姿を見せる頃じゃ、心して旅をするのじゃ」 求馬がさりげない口調で忠告した。「心得ておりますよ」 お蘭が求馬の横顔をうっとりと見つめた。「お蘭っ」 求馬の声で我に帰った。前方の岩の翳に猪の吉の荷物が置いてある、求馬が鋭い眼差しで周囲を見回している。「猪の吉は、先を急いだようじゃ」 求馬が猪の吉の荷物をもって二人は足早に街道を進んだ。暫くすると橋が現れた。 「穴山橋じゃ」 二人は釜無川に架かる橋を渡りきった、奇岩の続く街道には人影も見えない。 求馬の顔つきが険しく引き締まり、慎重に辺りを探っている。「お蘭、暫く橋の上に居れ」 猪の吉の荷物と己の振り分け荷物をお蘭にあずけ、求馬が右手の草叢に姿を没した。 心細さを我慢しお蘭が草叢を見つめている、暫くし草叢から求馬が顔をみせた。 「お蘭、済まぬがここまで荷物を運んでくれ」 「どうかしましたか?」「猪の吉は、ここを進んだようじゃ」 手早く荷物を手にし、求馬が先にたち草叢を掻き分けて進んだ。途中に小路が現れた。「ここが原路じゃな」 求馬が語りかけた。 「・・・」 お蘭には判らない事である。「釜無川が氾濫し、通行が途絶えた時に土地の者が使う小路じゃ」 二人は慎重に草叢を掻き分けて進んだ。 「見ろ、猪の吉の目印じゃ」 見ると潅木の小枝が折られている。「折れ曲がった方向に進むのじゃ」 二人は目印を身ながら原路を進んだ。 猪の吉は数町先を進んでいた、前方に旅人が物慣れた様子で急いでいる。「野郎、何処に行くつもりかな」 猪の吉がぴったりと尾行を続けている。 突然、旅人の姿が掻き消えるように消えた。「臭いな」 猪の吉が潅木の翳に姿を隠し、五感をすましている。 殺気に似た人の気配がする、それも周囲から湧き上がっていた。「こいつは抜かったぜ」 完全に周囲を包囲されたと悟った。 猪の吉が飛礫を握った。「びゆっー」と、空気を裂く風切り音がし、目の前に弓矢が突き刺さった。「いけねえや」 猪の吉が敏捷に躯を捻って窪地に身を潜めた。「六紋銭だな」 口中で呟き、周囲に鋭い視線を這わせた。 幸いにして相手の人数は小勢のようだ。「ここで退治してやるぜ」 猪の吉の手許から飛礫が放たれた。「ぐっー」 微かな苦悶の声がした、それを合図のように弓矢が襲ってきた。 潅木の翳に潜む男の姿が見えた、猪の吉が飛礫を握り身構えた。血風甲州路(1)へ
Apr 18, 2008
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「案ずるな、伊庭殿からの書状も届いておる。全てを見通しておられる」「流石に元公儀隠密だけはございますな」 隼人正が感心の面持ちをしている。 「韮崎で奴を仕留めたそうじゃ」 主水が壷庭に視線を這わせて告げた。「村松三太夫を仕留めましたか、根岸殿、酒を所望いたす」 隼人正が愉快そうに根岸一馬に声をかけた。「朝から酒にござるか?」 「伊庭殿の活躍を祝って乾杯じゃ」「根岸、わしも相伴いたす」 すかさず主水も声をかけた。「さても困った兄弟ですな、早速、用意いたしましょう」 根岸一馬が呆れ顔をみせて退いていった。「隼人正、些か水野忠邦め慌てておろうな」 「・・・・」 隼人正が黙然と兄の主水を見つめた。「先日、阿部正弘さまを狙って六紋銭が江戸に現れたが、我等の知るところとなり、大事には至らなんだ。これには訳があろうな」「・・・」 隼人正が口を閉ざし聞き耳を立てている。「伊庭殿の知らせでは、六紋銭の襲撃が上野原宿から途絶えているそうじゃ。その知らせと同時に、江戸に奴等が姿を現した」 主水が腕組みをして思案している。「わしの推量じゃが、影の軍団と異名をとった六紋銭は往年の力が失せたのじゃ。江戸では伊庭殿の手で三十名は斃されておる、更に甲州道中だも甚大な損害をだしたのであろう」「奴等の力の低下には、水野忠邦もさぞ痛手にござろうな」「そうじゃ、急遽、江戸に六紋銭を呼び寄せた事がその証しじゃな」 主水が断じ、隼人正が言葉を継いだ。「伊庭殿を斃すことを諦め申したか?」「忍び者の執念は恐い、信州に引き寄せ一気に片を付ける積りかも知れぬ」「成程、なれば場所は甲斐と信濃の国境かと思いまするな」 地形に詳しい高島藩江戸家老の、嘉納隼人正が断言した。「どこじゃ?」 「台ケ原から国界橋にかけてかと思慮いたす」「うむ、間もなくじゃな」 「はい」 「防ぐ手立てはないか?」 二人が深い沈黙に陥った。主水が太い腕を組んで瞑目した。「兄者、水野忠邦の失脚はなりませぬか?」「いまひとつ決め手がない」 主水が太い溜息を洩らした。「あと五日か六日で高島城に着かれましょうな、それは襲撃がないと想定してのことにございます」 隼人正が語り、主水が大きく首をふった。「無念じゃが、水野忠邦の尻尾はまだ掴めぬ」 こうした会話が江戸で交されているとも知らず、三人は清水屋を出立した。 玄関には韮崎の小兵と清水屋の主人が見送っていた。「伊庭さま、お蔭でこの宿場も静かになりました」 小兵が礼を述べた。 それに応ぜず、求馬が乾いた声で訊ねた。「この韮崎が洪水にあった時に備え、迂回路があると聞いたが、そこは何処に繋がっておる」 清水屋の主人と小兵が顔を見合わせた。「それは原路と呼ばれておりますが、この韮崎から蔦木の間を申します」「道は険しいか?」 求馬が双眸を光らせて訊ねた。「へい、旧道から穴山、日野春、長坂、小淵沢と続く険しい道にございます」「伊庭さま、地元の者でも難儀をする路にございます」 清水屋の主人が心配顔をみせ告げた。「そうか、礼を申す」 求馬がうっそりと後姿をみせ旅籠をあとにした。「お世話になりました」 お蘭が声をかけ続いて行った。「それじゃあ、また帰りに寄るぜ」と、猪の吉が一声のこし駆け去った。 宿場を出ると信濃の蔦木まで七里の間を、奇岩が延々と続いた街道を進む事になる。別名、七里岩と云われ、大小様ざまの奇岩が連なり、岩には赤松、紅葉、くぬぎの樹木が密生いていた。「絶景ですねえー」 お蘭が物珍しく眺めながら足を急がせている。「昨夜の食事は美味かったね。毎日、山の幸では食傷ぎみだ、久しぶりに塩辛い鯖だったが堪能しやしたよ」 「あたしは江戸前のお寿司が食べたいね」「師匠、この辺には海がねえんですぜ」 「知ってますよ」「そのために信玄は海を求め、駿河や越後を攻めたのじゃ」 求馬が戦国時代の武田信玄の野望を説明している。「こんな盆地で周囲は山また山ではたまんねえゃ」 猪の吉が、とんちんかんな事を喋りながら歩んでいる。血風甲州路(1)へ
Apr 17, 2008
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「おめえが、おいらに勝てるかえ?」 三太夫が下卑(げび)た声をあげた。「貴様は煩わしい、ここで命を絶つ」 求馬が乾いた声で宣言し、村正を抜き放ち左下段の構えをとった。 三太夫が屋外に躯をうつし、自慢の大刀を正眼とした。 あたりの空気が一変し、殺気が急速に盛り上がってきた。 三太夫が徐々に突きの体勢へと移り、求馬が痩身を左に移動させている。 完全に生死の間仕切りを踏み込んだ。「とうー」 凄まじい懸け声とともに猛烈な突きが求馬の痩身を襲った。躱した頭上に大刀が風を斬り裂いて真っ向空竹に襲った。 まさに鵜飼流の真髄であるが、ふわりと求馬は躯を後退させた。「村松三太夫、この宿場がお主の死に場所と心得よ」「おめえの腕では、おいらは斬れねえ」 三太夫が吠えた。「馬鹿め、その右足はまだ治ってはいまい」 「うるせえ」 三太夫の垂れ下がった目蓋に隠れた眸に、一瞬、ひるんだ色が浮かんだ。 既に求馬は先刻の攻撃で三太夫の弱点を看破していた、踏み込みの鋭さが欠けている。突きで相手の躯を仰け反らせ、間髪をいれずに相手の頭上を絶ち割る。それが鵜飼流であったが、飛礫の猪の吉に負わされた傷が完治してないのだ。三太夫が再び突きの体勢となっている、求馬が乾いた笑みを浮かべた。「しえっー」 獣のような声と同時に求馬の首筋に、三太夫の切っ先が伸びてきたが、矢張り以前のような鋭さがない。右足の踏み込みが浅く切っ先が流れた。見逃さず村正が光芒を放ち、三太夫の左の空け胴をめがけ迸った。「がっー」 辛くも跳ねのけた三太夫の躯が後方に弾きとんだ。 猪の吉が手に汗を握り両雄の闘いを見守っている。「ちえっ」 大きく舌打ちをした三太夫が肩で大きく息をしている。 完全に業を封じられた事を悟っている、眼が血走り大刀を正眼とした。 じりっと求馬の痩躯が刃圏に踏み込んできた。 長引いては不利と悟った三太夫が、再び仕掛けた。それは猛烈な突きであった。求馬は寸よで見切り、切っ先の乱れに乗じて村正が一閃した。「ぐっ」 苦痛の声と鮮血が吹雪いた。村正が三太夫の左の空け胴を斬り裂いたのだ。 「待て」 三太夫が引きつった顔で大刀を杖として喚いた。「貴様は地獄に落ちよ」 求馬が乾いた声を浴びせ、血濡れた村正が凄まじく虚空を旋回し、三太夫の頭蓋を断ち割った。 脳漿と血潮を噴水のようにまき散らし、三太夫が地面に転がった。 それを見た小兵の配下が、喚(おめ)き声をあげて稲田屋に飛び込んでいった。求馬は懐紙で血糊を拭い、痩身の影を地面にうつし清水屋へと向かった。「旦那っ」 お蘭が悲鳴をあげて駆け寄っててきた。「安堵いたせ、村松三太夫は始末した」 「お怪我は?」「心配はない」 「凄い勝負でしたな」 猪の吉が興奮の極みにいる。「これで煩わしい奴はかたずいた、六紋銭に総力をあげる」 初めて求馬の痩躯から気迫が鎮まっていた。 (十二章) ここは江戸駿河台の嘉納主水の書院で、三人の男が密談を交わしていた。 上座に嘉納主水が濃い髭跡をみせ脇息に身をあずけ、前に座る弟の隼人正を見つめていた。隼人正は書状に視線を走らせている。 末席には嘉納家の用人、根岸一馬が控えていた。 読み終わった書状を巻きなおした隼人正が主水の巨眼を正視した。「伊庭殿は甲府で六紋銭の手練で聞こえた、闘牙の三十郎を斃しましたか」「そうじゃ、六紋銭にとり痛手じやな」「驚きましたな、今頃は韮崎あたりを進んでおりましょうな」「隼人正、武蔵屋から第二報が届いた」 「ほう」「そちには話さなんだが、大奥のお真紀の方さまの事件は知っておろうな」「はい、多摩の別邸で何者とも知れない者に、暗殺された事件にござるな」「犯人は、小十人組の三男で村松三太夫と申す男じゃ」「大目付のお勤めは奥が深いものに、ございますな」 隼人正が感心の面持ちで髭面を撫でている。根岸一馬がクスリと笑い声をあげた。 「根岸、なにが可笑しい」「兄弟とは顔や仕草まで似るものにございますな」「埒もない事に感心いたすな、村松の件を隼人正に語って聞かせよ」「隼人正殿、暗殺の翳に水野忠邦が関与しておりました」 「なんと」「大奥の水野追放の急先鋒が、お真紀の方さまにござった。村松は見事に暗殺に成功しましたが、我等の手から逃れ甲州道中に向かいました」「甲州道中に?」 嘉納隼人正の相貌が険しくなった。「そちの考えどおり水野の用人、加地三右衛門の指図で伊庭殿を狙っての旅じゃ」 「これは見逃せませんな」 隼人正が兄を見つめた。 主水が可笑しそうに肉太い頬を崩している。血風甲州路(1)へ
Apr 16, 2008
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二人が語り合っていると、求馬が手拭を下げて戻ってきた。「旦那、手拭を」 お蘭が求馬の手拭を軒下に干した。「旦那、村松三太夫が人足稼業を束ねる稲田屋に入ったそうですぜ」「奴が、我等を追ってこの旅籠町に参ったも申すか?」「さいで、師匠が見たそうです」 「夕餉前に片をつけるか」 求馬が平然とした顔つきで窓辺に腰を据え、煙草を燻らしている。「殴り込みですかえ」 「それも面白かろう」「こいつは楽しみだ」 猪の吉が顔を引き締め帳場に向かった。「お蘭、そちも風呂を浴びたらどうじゃ」 お蘭が求馬の勧めで、隣りの部屋で宿衣に着替え部屋を出て行った。 入れ替わりに猪の吉が番頭を伴って戻ってきた。「地酒にございます、それに漬物をお持ちいたしました」「番頭、我等はこういう者じゃ」 求馬が嘉納主水の書状をみせた。「大目付さまのお知り合いにございますか、これは失礼をいたしました」 番頭が額を畳みに摺りつけ、逃げるように慌てて去った。「旦那、一杯」 猪の吉が湯呑みを差し出した。 求馬が一気に飲干し、猪の吉もご機嫌で咽喉を鳴らした。四半刻ほどでお蘭が戻ってきた。 「師匠、地酒です」 「済みませんね」 お蘭が湯上りの色っぽい顔をみせ湯呑みを手にした。「ご免下されまし」 廊下から声がして格子縞の着物を羽織った中年の男と、目つきの鋭い男が現れた。「何か用かえ」 猪の吉が応対している。「わたしは、この旅籠の主人にございます。こちらは宿場の十手持ちの韮崎の小兵親分にございます」 「十手持ちの親分が、あっしらに用ですかえ」「小兵と申します、皆様は大目付様の謂れのあるお方とか、失礼ながら書状を拝見いたしたくお邪魔をいたしました」 紺縞の絣(かすり)を小粋に着こなし、股引姿が良く似合う男である。「何故じゃな?」 求馬が乾いた声で訊ねた。「へい、稼業がら是非ともお願いいたします」 飽くまでも低姿勢である。「稼業なら仕方があるまい、確と見ることじゃ」 求馬が書状を手渡した。「一切の取調べなく通行させるべきこと。大目付、嘉納主水」 書状に目を通し、「へへっ」と小兵と主人が平伏した。「親分、稲田屋に村松三太夫と名乗る男が逗留した筈じゃ。その男は公儀の科人(とがにん)、夕餉前の腹ごなしで退治いたす所存じゃ。異存はあるまえな」 求馬が白面の相貌をみせぼそりと訊ねた。「恐れながら申しあげます。ついでに稲田屋をお縄にしたく存じます、差し支えなければ、お供をお許し下さい」 小兵が額をこすりつけた。「良かろう、夕餉は何刻ころじゃ」 「はい、六つ半(午後七時)にございます」「左様か、料理に注文がある。塩漬けの鯖を頼みたい」「畏まりました」 主人が驚き顔で応じた。「親分、わしは夕餉前に乗り込む、さよう心得よ」「へい、畏まりました」 二人が興奮の面立ちをみせ下がって行った。「旦那が、料理に注文をつけるなんて初めてではありやせんか」 猪の吉が不審そうに訊ねた。「韮崎には海産物が荷揚げされる、最近、海の物が喰いたくてな」「驚いたね、これから命の遣り取りをしようってのに」 求馬の豪胆な態度に感心し、鯖なんて久しぶりだなと猪の吉も思った。 刻限前に小兵の配下が、厳重な身形で稲田屋の軒下に潜んだ。 それぞれが指股、袖搦、突棒を揃えた物々しさであった。 清水屋から黒羽二重の着流し姿で求馬が、うっそりと痩身を現した。 猪の吉が宿衣をはしょった股引姿で後に従っている。 求馬が恐れげもなく痩身を稲田屋の玄関に入れた。「何者だ」 「サンピンか」 人相の悪い子分達が長脇差をもって立ち上がった。 「この屋に村松三太夫が滞在しておろう」「ここは稲田屋だぜ、怪我をしねえうちに退散しな」 凄んだ男が顔色を変えた、求馬の痩身から殺気が噴きあがったのだ。「野郎っ」 長脇差を振りかむった男が悲鳴をあげ土間に転がった。 求馬が手首をねじりあげ、そのまま土間に投げ捨てたのだ。 それを見た小兵の配下が、喚声をあげて玄関に殺到した。「やい小兵、これは何事だ」 脂ぎった男が土間に現れ凄んだ。「うるせえ、稲田屋、年貢のおさめ時だ。神妙にしろい」 小兵親分が十手を煌かせた。「うるせえな」 赤鞘の大刀を腰にぶちこんだ村松三太夫が現れた。「おめえか」 求馬を見た三太夫の垂れ下がった目蓋が瞬いた。「御用だ」 「神妙にしろえ」 小兵の配下が突棒で殴りかかった。 三太夫の腰から脇差が煌いた。 「ぎやっー」 諸刃の刃で一人は胸、いま一人が首筋から鮮血を噴き上げた。「貴様の相手はそれがしだ」 求馬が乾いた双眸をみせ進み出た。血風甲州路(1)へ
Apr 15, 2008
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「お蘭、万一の時には絵図の処分をそちに任せる」「そんな恐ろしいことは出来ませんよ」 「遣らねばならぬのじゃ」 求馬のきつい口調に、お蘭が真剣な顔つきで首肯していた。 早速、お蘭が道行き衣も衿(えり)を解いて、絵図を細長くたたみなおし縫いこんでいる、さすがは手慣れた手つきである。 求馬と猪の吉が、お蘭の手先を見つめながら酒を酌み交わしていた。 翌朝の五つ(午前八時)、三人は武蔵屋の人々に見送られ旅籠を出立した。 ほどなく甲府の大木戸を潜り抜け、一路、韮崎(にらざき)へと向かった。 街道は西に向かい、韮崎から西北へと変わり諏訪に至るのだ。 道中の北西に茅ケ岳(ちがだけ)が遠望できる。 甲府から韮崎宿は約四里の行程である、三人は途中の塩崎で休息した。 街道からの景色は一面に連山が霞み、暴れ川として名高い釜無川が左手に見えてきた。 「綺麗な景色」 お蘭がうっとりと眺めている。「猪の吉、この様子では正午過ぎには韮崎に着くの」「さいで、韮崎を越えるときつい道中になりやすな」「難路で名高い七里岩を抜けねばならぬな」「そうですな、韮崎宿を越えると大きな宿場はございやせんよ」「早いが韮崎で一泊いたすか?」 「そうですな」 求馬と猪の吉が旅の行程を喋りあっている。 韮崎宿が近くなるにつれ、釜無川が合流してくる。その手前に武田信玄が考案したと云われる治水のための信玄堤が見えてきた。「大きな川ですねえー」 お蘭が物珍しく眺めている。「昔は大雨となったら大変だったらしいですぜ、この信玄堤が出来るまで百姓たちは難儀したそうです」 「信玄て武将は偉かったんだね」 猪の吉とお蘭が肩を並べ語りあって道を急いでいる。 求馬はうっそりと振り分け荷物を肩に二人の後を歩んでいた。 この韮崎宿は、古くから交通の要衝として栄えた宿場町であった。 韮崎宿は上宿と中宿とに分れ、その境が韮崎追分と云われ、佐久往還の入口であった。また富士川船運の終点地としても知られ、峡北地方や信州佐久方面に物資を運ぶために、船山頭に掘割を作り釜無川の水を引き入れ、船山河岸として駿河から鰍沢(かじかさわ)を経て塩や海産物を陸揚げし、年貢米などを積み出していた。 三人は本陣宿を越えた中宿の清水屋に草鞋を脱いだ。「お早いお着きにございますな」 番頭が出迎え声をかけた。「甲府からだが、七里岩の道を祖母石宿(うばいしやど)まで行くのに女の脚ではきついだろうが」 「そうでございますな」 番頭が納得顔をした。「早速、風呂を使わしてもらうよ」 「お蘭、そちが先に入るか?」「どうぞお先に、あたしは鳳凰三山の地蔵岳の景色を眺めていますよ」 お蘭が上気した顔で窓から景色に見入っている。「師匠、悪いが先に浸かってくらあ」 猪の吉と求馬が風呂場に向かった。 お蘭は、葦ず張りの窓から外の景色を眺めている。「あらっ」 お蘭の眼が輝いた、目の下の街道を赤鞘の大刀を佩びた武士が右足をひきずって歩んでいる。「村松三太夫だね」 もっと先に行ったと思ったが、あたし達を探し廻っているな、そんな思いをこめて三太夫の背中を見つめた。 三太夫は本町の道を左に折れ、そのまま一ッ橋陣屋を抜けて一軒の大きな屋敷に入った。 「あの男の知り合いの屋敷かえ」と独り言を呟いた。この旅籠とは目と鼻の先である。 「番頭さん、あの大きな屋敷は誰のです」「この宿場の悪の家です、川舟人足を束ねる稲田屋の屋敷にございます」「そんなに嫌われ者ですか」 お蘭が興味ぶかく訊ねた。「陰で淫売をやっている悪で、土地の女が大勢泣かされております」 番頭がぶつぶつ言いながら去った。「師匠、いい湯加減でしたよ、入ってきておくんなせえ」 猪の吉がさっぱりした顔をみせ、手拭を軒下に干している。「猪さん、あの赤鞘の村松三太夫が稲田屋に入って行ったよ」「三太夫の奴が?・・・それで稲田屋てえのはなんですかえ」 お蘭が指をさして番頭から聞きだした話を語った。「成程ね、おおよそ用心棒の売り込みなんぞで行ったんでしょうな」 猪の吉が平然と聞き流している。「どうするのさ」 「勿論、ここでかたをつけやすとも」血風甲州路(1)へ
Apr 14, 2008
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求馬が、おもむろに村正を抜き放ち刀身をみつめた。互(ぐ)の目乱れの村正特有の刃紋が鈍い光沢を放っている。 猪の吉とお蘭がそれを呆然と見つめた。何時、見ても身の凍る凄味をおびている。 「猪の吉、刃に小さな瑕(きず)がある、この刀を砥ぎにだしてくれえ」「へい、それで奴はどういたしやした?」「裏の寺で死骸となっておる」 求馬が刃を鞘に治めながら答えた。「奴は一人にござんしたか?」 「奴は約束を守りおった」「さいで、旦那、凄い形だ。一風呂浴びられてはどうですかえ」 お蘭が部屋の隅から、食い入るように求馬を見つめていた。「お蘭、わしは心配ない安心いたせ」 一言かけて脇差を携え風呂に向かった。途中で女中とすれ違った。 「伊庭の旦那、見事な勝負でしたね、猪さんの惚れるのも判りましたよ」「お駒か、三十郎の遺骸の始末を頼む」 「もう葬ってきました」 お駒が肩をおとし悄然と廊下の角を曲がって行った。 求馬は浴槽に身を沈めた、先刻の激闘が嘘のように思える。腕を出して眺めた、かってない事であった。今頃になって腕の筋肉に震えがきている、求馬にとり最強の剣客との闘いであった。 最早、六紋銭は壊滅状態にある、それは闘牙の三十郎の最後の言葉で推測できる。奴等を先に壊滅させるか、水野忠邦の失脚が早いか、それによって任務の内容が変わると感じた。 風呂から出るとお蘭が待ち受けていた。 「心配をかけさせた」 お蘭が求馬の躯を支えるように傍らに寄り添った、柔らかな女体の感触が心地よく、もたれるようにして廊下を歩んだ。「旦那、これから黙って出かける事は許しませんからね」「お蘭、そちは強くなったの」「あたり前ですよ、こんな危険な旅を重ねたんですから」「判った、約束いたす」 二人はもつれるように部屋に戻った。 三人は村正の砥ぎが仕上がるまで二泊過ごした。その間に道中の様子と、六紋銭の力が大きく衰退した事もしたためた、その書状を嘉納主水に送るよう武蔵屋次郎兵衛に託した。「明日にはこの旅籠を発つ」 夕餉を終えた三人は甲府柳町の最後の夜を楽しんでいた。心地よい酔いが廻った時、求馬が真顔となった。 「二人に語りおくことがある」と云いつつ柳行李から紫の袱紗(ふくさ)を取り出した。「何でございやす」 猪の吉が不審そうに眼を光らした。 求馬が無造作に袱紗を解いた。 「懐剣ですな」 二人の前に行灯の灯に照らされ、見事な拵えの懐剣が現れた。「これは諏訪高島藩に累代に渡り伝わる懐剣じゃ」「成程、見事な逸品ですな、金箔の紋章がありやすな」「この中に絵図が隠してある」 求馬の言葉に二人が驚きの視線で見つめた。 求馬が懐剣を抜き放った。 「これは道中脇差と同じ作りだ」 猪の吉の云う通りである。旅先で金子を盗まれない工夫として脇差形の金子入れがあった、それと同じ作りの懐剣であった。 お蘭が酒の入った湯呑みを手にし、男同士の話に聞き入っている。 求馬が懐剣から絵図を出して広げた。二尺ほどの絵図に見事な筆跡で玄公金秘匿絵図と朱書きされた、克明な諏訪湖の全容と湖水に描かれた、三ヶ所の丸印が眼に入った。「こいつは驚きだ」 猪の吉が驚きを隠さずに見入っている。「水野忠邦は、ここに隠された金塊が欲しいのじゃ。その為に六紋銭を利用してこの絵図を狙っておる」「それで必死で襲ってくるのですね」 お蘭が納得顔をした。「旦那、これで金塊の隠し場所が判るんですかえ」「この丸印の交わった場所に、信玄の隠し金塊が埋められておるとわしは睨んでおる」 「こいつは驚きだが、実際に判りやすか?」「その為の諏訪行きじゃ。わしは諏訪因幡守さまから、絵図を高島城に持ち帰るように依頼をうけた。万一の場合は一存で処置するお許しも頂いておる」「処置と申されやすと?」 猪の吉がおうむがえしに訊ねた。「奴等に奪われる事態となったら、この絵図を再び日の目に晒さぬと云う事じゃ」「奴等には渡さねえ覚悟ですな」 猪の吉の言葉に肯き、言葉を続けた。「これから諏訪に向かう、奴等は総力をあげて絵図の奪還を策す筈じゃ。絵図は小さく折りたたんでお蘭が身に付けよ、わしは今までどおり柳行李に懐剣を忍ばせ旅を続ける」 「身に付けよと云われてもどうすりゃいいんです?」 お蘭が困惑顔をした。「お蘭、油紙に包み道行き衣に縫いこむのじゃ」「そいつは良いや、こんな大切な絵図が道行き衣なんぞに隠されているなんて考えも及ばねえだろうね」 猪の吉が一人ではしゃいでいる。血風甲州路(1)へ
Apr 12, 2008
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「闘牙の三十郎が無反りの大刀を、己の腹の前に横たえ、鉄の指輪をはめた左腕を前に突き出し前進をはじめた。 緊迫した壮絶な殺気が、鐘衝堂の闇に立ち込めてきた。「むっ」無言の気合と同時に闘牙の三十郎が大きく跳躍し、同時に求馬の痩身も宙に躍りあがった。無反りの大刀と村正が白い光芒を放ち交差し火花が散った。互いの位置が逆転し、そのまま膠着状態に入ったのだ。 無言のまま二人は隙をうかがい対峙している。 じりっと二人が前進を始めた。闘牙の三十郎が燃えるような眼差しで接近し、求馬は氷のような冴え双眸をみせ痩身を進めている。 互いが勝負の間仕切りを踏み越えた、言うなれば死線の中に身を置いたのだ。どちらが仕掛けたというより、二人が同時に刃を振るった。 二本の大刀が再び交差し、弾かれたように三十郎の躯が跳ね飛ばされた。 完全に求馬は闘牙の三十郎の業を封じてみせたのだ。これは前回の闘いで悟ったものであった。 「くそっ」 三十郎の眼が血走った。 求馬が痩身を左へと移動させ、無言の気合とともに三十郎の意表をついて右に踏み込み、片手殴りの一閃を三十郎の左首筋に送りつけた。 片手を離した事で村正の切っ先が、思いもせずに伸び無意識に左手で防いだ、ざくっと闘牙の三十郎の左手の甲が割られた。 無反りの大刀を正眼にもどし、小刻みな忍び足をみせ闘牙の三十郎が後方に退いた。それを見逃さずに求馬が脇差を抜き放ち矢のように放ってみせた。 意表をつかれ無反りの大刀で払い落とした時、手裏剣が唸りをあげて襲いきた。右手のみで受けきれずに、左肩に手裏剣を深々と受けた。 大きく息をついだ闘牙の三十郎が、大刀を腹の前に水平とし、踏み込みの瞬間を図っている。それは太刀ゆきの速さで決まる構えであった、どちらの刃が先に相手を斬り伏せるかの勝負である。 顕かに闘牙の三十郎は劣勢に立たされた。潮合が定まった。 無言の懸け声とともに光芒が二人の躯を走りぬけた。それは求馬の勝ちであった。一瞬、早く村正が闘牙の三十郎の左胸を深々と斬り裂いたのだ。 闇夜に血の臭いが漂い流れ、闘牙の三十郎の無反りの大刀が力を失い虚しく宙に流れた。「無念ー」 三十郎が躯を松の大木にもたせかけている。「どうやら勝負がついたようじゃな」 求馬が村正を携え乾いた声で告げた。「しゆっー」と風きり音がして求馬の痩身を飛苦無が襲いきた。 村正が鋭く反応し、宙で叩き落とした。「卑怯」 求馬が闇を透かしみた、片膝をついた錏頭巾の忍び者が大刀を正眼に構えている姿を捉えた。「鶴吉・・・・止すのじゃ。これ以上の犠牲者が出てはお頭が困る、里に戻れ」「三十郎っ」 「鶴吉、これは命令じゃ」 求馬が乾いた双眸で二人のやりとりを見つめている。「三十郎、さらばじゃ」 浅間の鶴吉が血の叫び声を残し闇に溶け込んだ。「冥途で待っておる」 闘牙の三十郎が、ふらりと立ち上がった。「止すことじゃ、お主の体力は尽きた。すでに勝負はついた」「伊庭求馬、流石じゃ。見事にわしの剣を封じたの」 口から、ごぼっと血泡を吹いた。 「三十郎、引導を渡す」 村正が煌き錏頭巾を両断した。 求馬が踵を廻し鐘衝堂を離れた時、どっと闘牙の三十郎が地面に転がる音を耳にしたが、ふり向く事もなくそのまま帰路についた。「旦那っ」 部屋に戻るとお蘭がしがみついてきた。「冷や酒をくれ」 「これを」 猪の吉が湯飲みを差し出した。 求馬が一気に空け、荒い息を吐いて腰をおろした。「何処に行っておられやした?」 「闘牙の三十郎と勝負をつけて参った」「あの男と」 猪の吉が驚いて眼を剥いた。血風甲州路(1)へ
Apr 11, 2008
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山国というに真っ先に鯖寿司が眼に入った。卵焼き、蒲焼、馬肉鍋、香の物がならび、大皿には葡萄、梨、柿などが盛られていた。 一目で次郎兵衛の好意と知れた。「お蘭はどうした?」 求馬がお蘭の姿が見えなく訊ねた。「風呂でさあ、男女に別れた檜風呂ですぜ」「わしも一風呂浴びて参る」 「ごゆっくり、あっしは飲んで待ってますよ」 求馬が宿衣に着替え、脇差のみを持って廊下を伝っていると、女中とすれ違った。 「風呂は何処じゃ?」「廊下を突きあたり右手にございます」 女中が答え先を急ごうとした。 求馬が、すれ違いざまに女中の腕をねじりあげた。「何をなされます」 「お駒、何処まで付きまとう」 女中はお駒の変装であった。 「わたしは軍使ですよ」 「軍使とな」「本当ですよ、闘牙の三十郎からの言付けを伝えに来ただけです」「なに、闘牙の三十郎の使いと申すか?」 「明日の暮れ四つ(午後十時)この旅籠の裏に寺があります、そこの鐘衝堂で待っておりますよ。確かに伝えましたよ」 お駒が求馬の手から逃れて告げた。 「何人じゃ」 「闘牙の三十郎は、何時でも一人です」「判った。ところでお駒、猪の吉が恋しいか」 「はい、惚れてしまいましたよ」 お駒が切れ長の眼を潤ませて求馬を見つめた。「連れ出したらどうじゃ」 求馬が含み笑いを残し離れていった。「旦那、間違いなくお出でになりますね」 「間違いなく参る」 お駒に一言のこし風呂場へと向かった。見るからに立派な風呂場である。 求馬がゆったりと風呂に浸かっていると、「旦那っ」 隣りからお蘭の声がした。 「まだ風呂におったか」「はいな、旦那に嫌われないように磨いておりますのさ」「馬鹿め、早くもどって夕餉でも食べよ」 「一緒にもどりましょうよ」「わしは出る」 ざぶっと湯の音を響かせ求馬が飛び出した。 三人はご馳走を楽しみ甲府の夜を満喫した。もとより求馬は闘牙の三十郎の事は一言も口にしなかった、心配させない配慮である。 求馬の痩身が武蔵屋の脇道を伝っている、闇空には朧月が浮かび薄っすらと小路を照らしだしている。道が途絶えると寺の門前にたどり着いた。「闘牙の三十郎か」 独りでに相手の名が口をついて出た。 異様な構えが脳裡を過ぎった、雪駄の音を響かせ鐘衝堂に着いた。あたりは静寂につつまれ、樹木の間に闇が覆っている。 殺気の漲りを感じ、ひたっと求馬が足を止めた。すでに村正の鯉口はきっていた。 「伊庭求馬か?」 忍び声が微かに流れた。 「闘牙の三十郎か?」「伊庭、闘う前に訊ねる、ここから江戸に引き返す考えはないか?」「絵図はどうする」 「わしにとっては無用な物じゃ」「ひとつ訊ねる、六紋銭は江戸から甲府までに多くの仲間を失った。すでに往年の影の軍団の力は失せたとわしは感じておる」 求馬が冴えた声を発した。「伊庭、まさにその通りじゃ、貴様を倒さぬかぎり、我等の仲間は死に絶える。その為に貴様をここに呼び寄せた」「わしを倒せるか」 求馬が言下に乾いた声をあげた。「とうあっても江戸には戻らぬか?」 「影の軍団を抹殺いたす」 求馬の声と同時に「ざっー」 空気を裂いて飛苦無が痩身をめがけ飛来した。求馬が闇をついて左手に疾走し村正が光芒を放った。「がっ」 刃が縦横に振るわれ飛苦無が地面にことごとく落ちた。 闇夜にきな臭い匂いと殺気が入り混じっている。「見事じゃ」 声と同時に忍び装束の男が、松の大木から降り立った。 鉢金の厚い錏頭巾に見覚えがあった。 「闘牙の三十郎か?」「伊庭求馬、貴様の命を貰いうける」 声とともに無反りの大刀が闇を割って求馬の痩身を両断すべく、頭上に襲いかかってきた。 求馬が雪駄を脱ぎ捨て、村正を口に銜えて後方に躯を反転させて防いだ。 その度に鋼のような三十郎の体躯が躍り、無反りの大刀が二度、三度と求馬の痩身に襲いかかったが、すべて虚しく宙を斬り裂く羽目となった。 とんと求馬が三間の距離をおいて佇んだ時には、村正が左下段へと構えられ、ひたっと停止していた。得意の逆飛燕流の構えに入ったのだ。血風甲州路(1)へ
Apr 10, 2008
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「伊庭さまにございますか、遠路ご苦労さまにございました」 男は玄関先に座り丁寧な挨拶で、三人を出迎えた。「そなたが主人殿かの?」 求馬が乾いた相貌をみせ尋ねた。「わたしは番頭の伊兵衛と申します、主人が奥でお待ちいたしております」「猪の吉、お蘭を頼む。わしは用を終えてから部屋に行く」 猪の吉に長合羽を手渡し、求馬は着流しとなって村正を手に奥にむかった。流石に老舗の旅籠だけあり、廊下は磨かれ庭には大きな池が作られ、悠々と緋鯉が泳いでいる。「この部屋にございます」 伊兵衛が襖のまえで膝をつき声をかけた。「お入りいただけ」 部屋から野太い声がした。「どうぞ」 伊兵衛が襖を開け入るよう促した。 うっそりと求馬は部屋の入り口に佇み、乾いた視線をなげた。 部屋には逞しい体躯の五十年配の男が待ち受けていた。「この屋の主人の武蔵屋の次郎兵衛と申します」 贅沢な着物の肩が盛り上がっている。 「お座り下さい」 求馬は促され、村正を右手に持ち替えて座布団に腰を据えた。「失礼ながら、嘉納さまの書状を拝見させていただけますかな」 野太い声に貫禄と恐れをしらぬ気迫がこもっている。 求馬が懐中から主水の書状を無言の裡に差し出した。「拝見いたしまする」 素早く眼を通し、丁寧にたたみ直し返した。「嘉納殿の手紙がみたい」 無言で次郎兵衛が分厚い封書を差し出した。求馬は無造作に封書をあけ、書状に眼を落とした。紛れもなく主水の筆跡である。そのまま読み下し書状を己の懐中にねじこんだ。 その行為は無言の裡で行われた。 「委細は承知いたした」「まずは茶なぞ召しませ」 次郎兵衛が自ら茶をたて勧めた。「伊庭さま、些か情勢が変わりました」 求馬を茶を啜り無言でいる。「早飛脚の便りで判明いたしましたが、阿部正弘さまが何者とも知れぬ刺客に襲われたそうにございます」 瞬間、求馬の双眸が鋭くなった。「その者共は錏頭巾の忍び者かな?」「左様に、幸いにも嘉納さまの手の者が駆けつけ大事には至らなかった由」「何名、斃しました」 「八名とのこと」 次郎兵衛が簡潔に応じた。「水野忠邦、苛立っておる、曲者は水野の操る影の軍団と異名をとる信州上田の六紋銭と名乗る忍び集団」 求馬の言葉に次郎兵衛が興味を示した。「ほう、嘉納さまは何も知らせては参られませぬ。奴等は信州の土着の者にございまするか」 「左様、それがしが話すと思われたのでしょうな」「それでも伊庭さまは、このまま上諏訪に行かれますか?」 求馬がはじめて破顔し、次郎兵衛に己の考えを述べた。「道中のはじめは、しっこいほどの襲撃をみせたが、最近はとんと止んでおる。その隙に江戸で阿部殿を狙ったが失敗いたした。察するに奴等の損害は甚大なものと推測いたす」 「奴等が、貴方さまを倒さぬ限り、水野の復権は難しくなりまするか?」「左様、それがしの持つ絵図を奪わぬ限り、水野は老中首座から失脚いたす」「貴方さまへの風当たりが強まりますな」「死生天にあり、これがそれがしの生きざま、ご案じあるな」 次郎兵衛が求馬の顔を凝視した、この時代に生死を超越した求馬の覚悟の凄さに驚嘆したのだ。 「これで失礼いたすが、無心がござる」「何なりと申し付けて下され」「この旅の決着は信州の台ケ原か教来石かと勘考いたす。我等からの連絡が途絶えたら屍を野に晒したと思し召し、次なる策をお考えあるよう、嘉納殿にお知らせ下され」 「判りました」 求馬が部屋の入り口で振り向いた。「二、三日ほど厄介になります、それまでに嘉納殿への便りを認めます。江戸に飛脚便で送っていただきたい」 「畏まりました」「次郎兵衛殿、なかなかの腕とみました」 「新影流を少々」 次郎兵衛の声を背に受け、求馬は廊下を伝って去った。「驚いたものじゃ、あのような遣い手が幕府に居ったのか」 武蔵屋次郎兵衛が驚嘆の面持ちで消え去る足音を耳にしていた。 彼は、甲府勤番の行状を探る隠れ目付であった。代々、世襲とし市井の宿の主人として、勤番者の動静を大目付に報告する事が任務であった。「旦那、主人との話は終りやしたか?」 求馬が部屋に現われると、酒でご機嫌な猪の吉が訊ねた。「終った」 部屋には豪勢な食事が用意されていた、これは次郎兵衛の心遣いと求馬は感じた。 「猪の吉、二、三日逗留いたす」「そいつは嬉しいね、旦那、六紋銭を待つ積りですかえ」 猪の吉の問いを無視し、求馬は膳部の前に腰を下ろした。血風甲州路(1)へ
Apr 9, 2008
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「いいじゃないか、お駒さんは別嬪だよ」 「師匠、本気で怒りますぜ」「肌を許しあった仲でしょうが」 お蘭が笑いを堪えている。(畜生、二人でおいらを虚仮(こけ)にする。併し、お駒のアマ本気で惚れたのかな)猪の吉はお駒の痴態を思い浮かべた。正直なところ女の躯があんなにも気持ちがいいとは思ってもみなかったのだ。「猪さん、やにさがった顔をしているよ。もっとしゃっきり為さいな」「なんとでも云っておくんなせえ、婆さん酒をもう一杯くんな」「お客さん、雨があがったようじょ」 酒を置いた老婆の声で初めて気づいた。見る間に黒雲が流れ去り、青空が広がっている。「お客さんは運がいいね、富士が見られるなんてね」 真っ青な空に雲を突き破り、富士山の威容が見事に見渡せる。「裏富士じゃな」 求馬もはじめて見る光景であった。「甲斐の富士は日本一と申しますだ」 茶屋の婆さんが自慢した。「甲斐(嗅い)で見るより駿河(するが)いいて昔からの言い伝えだよ」 猪の吉が駄洒落を云い、すかさずお蘭の反撃を喰らった。「猪さん、あんたは助平の固まりだね」 三人は茶店を後にし富士山を背にして西に進み石和宿に着いた。 ここで甲州道中は青梅街道と合流する、ここから甲府までは一宿の距離である。この甲府は戦国時代には武田家三代の居館が、置かれた甲斐の中心地であった。また武蔵の秩父と結ぶ秩父往還、甲斐と駿河を結ぶ身延街道が交差する交通の要衝でもあった。 この地に相応しい城として築城された城が甲府城で、別名を無鶴城とも云われていた。享保九年(一七二四年)甲府藩主であった柳沢吉保が大和郡山へと転封されたのち、甲斐は幕府の直轄地となり、再び藩主が置かれる事はなかった。幕府は甲府城の守衛として甲府勤番支配をおいた、定員二名、従五位下諸太夫、役高三千石、ほかに手当てが千石支給され、与力十騎、同心五十名を率いた。さらに甲府勤番二百名を小普請組から任命した。 こうして甲州道中を勤番士が往復するようになったのだ。だが最近は行跡不良な幕臣が処罰として甲府勤番を命じられるようになり、これを甲府勝手小普請と言われ。幕臣からは山流しと呼ばれ恐れられていた。 甲府での宿場町は、甲府城の西の一帯にあたる甲府柳町にあった。 交通の要と甲斐の中心地に相応しい宿場町として旅籠の数も多く、淫売宿や岡場所の類も増えていた。まさに天領の威光を背景とした宿場町で夜間の治安は年々と悪くなっていた。 因みに天保時代の幕府の直轄地である天領は、全国で四十二箇所にまたがり、総石高は三百十余万石であった。 三人が甲府柳町の木戸をくぐったのは暮れ六つ頃であった。雨と途中での道草で遅くなった。「秋祭りですよ」 旅籠町に入るや、お蘭が疲れを忘れた声をあげた。 町の広場には、見世物小屋が並び人々が群れていた。 露天の食物屋も店開きをしている、そうした喧騒の中を三人は歩んでいた。「旦那、何処に泊まりやす」 猪の吉が旅籠を物色しながら訊ねた。「町の奥に武蔵屋という旅籠がある筈じゃ」「武蔵屋ですかえ」 猪の吉とお蘭が顔を見合わせた。「嘉納主水殿と打ち合わせの旅籠じゃ」「あっしが探ってめえりやす」 猪の吉が雑踏の中を駆け去った。 その様子を露天商のよしずの翳から覗いている男がいた。「とうとう現れたか」 頬被りした男が低く独語し、頬被りを取った。 精悍な顔が現れた、男は六紋銭の浅間の鶴吉であった。この宿場で求馬一行の到着を待ち受けていたのだ。「旦那、見つけやした。大きな旅籠ですよ」 猪の吉がもどって来た。 求馬は案内されるまま雑踏に流され、痛いほどの視線を感じとっていた。「ここですよ」 三人が足を止めた。なるほど豪華な旅籠である。 玄関から客引き女が飛び出してきた。 「ご三人さま、いかがでしょう」「伊庭が着いたと主人殿に取り次いではくれぬか」 「主人にございますか」「早くいたせ」 求馬がうっそりと玄関に痩躯を入れた。「ご三人さまだよ」 手代が大声で出迎えに出てきた。 三人が足を濯いでいると中年の男が姿を見せた。血風甲州路(1)へ
Apr 8, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。「猪の吉、今の様子から察し、六紋銭は暫くは襲ってこぬな」「何故にございやす」 猪の吉が求馬の言葉に不審顔をした。「雇われ浪人に襲わせるとは面妖(めんよう)じゃ。考えられることは奴等の損害が思いのほかに大きいのかも知れぬな」 求馬が双眸を光らせ、峠の下り道を見下ろしている。「成程、ずいぶんと始末しやしたからね」 納得顔の猪の吉である。「さて雲行きが怪しくなってきた、先を急ごう」 求馬の言葉でお蘭が、はっとして上空を仰ぎ見た。雲が凄い勢いで流れている。三人は懸命に山道を下った。 「お蘭、見てみよ」 求馬が途中で足を止め指差した。「まあー」 お蘭が喜びの声をあげた、木立の間から集落が見えた。「あれが駒飼宿ですかえ」 猪の吉も眼を細めて見入った。「笹子峠もすぐに終る、ゆっくりと下ろう」 お蘭が安堵の色を浮かべ、竹筒の水を美味しそうに飲んでいる。「駒飼宿には七つ(午後四時)には着けよう。今日はそこで終りじゃ」「へい、そういたしやすか」 猪の吉も大賛成のようだ。「この峠が終えると盆地に入る、甲斐の西にあたる国中だ」「甲斐は盆地の国と云いやすね、いよいよ甲斐に着きやすか」 猪の吉が感慨深い顔をしている。「猪さん、駒飼宿とは変な名前ですねえ」 またもやお蘭が揶揄った。「師匠、もう止しておくんなせえよ」 猪の吉が閉口している。 二人が駄洒落を喋りあい、求馬は黙々として歩んでいた。 一行はその日、駒飼宿で一泊し笹子峠の難路を走破した疲れを癒し、翌日、甲府に向かって旅立った。 生憎とこの日は雨となった。三人は雨にうたれ鶴瀬宿に辿り着いた。 この宿場には小さな関所が設けられていた。 求馬は長合羽をまとい、関所の役人に三人の道中手形をみせ、ついでに大目付の嘉納主水の書状を手渡した。 この関所は甲府から出張った甲府勤番役がつとめている関所である。 大目付、直々の書状を改めた役人は丁寧に三人をぐうした。「お役目ご苦労に存ずる」と低頭し木戸を通してくれた。彼等からみた三人の取り合わせは、大目付直々の密命をおびた一行と映ったようだ。「流石は大目付の書状ですな、お調べもなく通してくれやしたぜ」 改めで猪の吉が大目付の権威に驚いていた。「まあ、あれは葡萄の木ですね」 お蘭が感嘆の声をあげた。 街道の両側は葡萄の木で埋められていた。 「ここが勝沼じゃ」「勝沼は葡萄の産地ですぜ、師匠は知らなかったのかえ」 猪の吉が昨日の借りを返している。 「なにさ、あたしだって知ってますよ」 お蘭が負けずと言い張った。勝沼は葡萄の名産地として知られ、江戸の神田市場へも出荷されていたのだ。「あんなにふさふさと実るなんて初めて見ましたよ」「茶店がある、一休みしょう」 「葡萄を頂きましょうよ」 お蘭が顔を上気させ、まるで小娘のようにはしゃいでいる。 三人は茶店の奥に足を入れた。茶店には老婆が一人で番をしていた。「お客さんは旅のお人かの」 「江戸からだよ」「さあ、合羽を脱いでそこに掛けなされ」 三人は雨に濡れた合羽を脱いで、老婆の指した場所にかけた。「なにを召されるかの」 「婆さん、葡萄に冷や酒を二杯頼まあ」「こんなに大きな葡萄は初めて・・・・美味しくて甘いわ」 お蘭が夢中で葡萄を食べている、求馬と猪の吉は冷や酒をあおっていた。「旦那、ここからは栗原、石和と通り甲府ですな」「ようやく旅の半分じゃな」 求馬が乾いた声で応じた。 街道を篭を背負った百姓女が足早に西に向かっている、茶店を通りすぎ足を止め小汚い笠を上向かせた。「あのアマ} 猪の吉が眼を剥いて唸った。女は鶯のお駒であった。彼女は、にっと白い歯をみせた、お蘭も吃驚して葡萄を持ったまま見つめている。「ご一行さん、先に行きますよ。猪さん、わたしはあんたにぞっこんさ、今度、逢ったら可愛がっておくんなさいよ」「あん畜生め」 猪の吉が飛び出そうとした。「やめんか」 求馬が珍しく頬を崩して止めにはいった。「旦那、なんで止めなさる。あのアマは六紋銭ですぜ」「どうやら、お主に惚れたようじゃな」 求馬の言葉にお蘭が吹きだした。 「笑いごとではありやせんぜ、六紋銭に知れたら血の雨だ」「甲府に着けば奴等に知れる、お駒を止めようと関係はない。それにしてもお駒は本当に真剣かも知れぬな」 お蘭が、たまらず笑い声をあげた。 「師匠も師匠だ」 猪の吉が、恨めしそうな顔をして求馬とお蘭を見つめた。血風甲州路(1)へ
Apr 7, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 三人は求馬を先頭にして頂上から山道を下りはじめた。 お蘭にとって下りは、登りよりもきつい道中となった。足元が滑るので、小さな潅木の枝や蔦を握って下りねばならなかった。 頂上から少し下りた所に平坦な箇所があり、赤い鳥居が祀られていた。 天神祠と称され、奥に小さな石塔が苔むしていた。求馬が歩みを止めた。 森閑とした静寂の中で名も知らぬ鳥がさえずっている。 猪の吉が、すっとお蘭の傍らに寄り眼が鋭くなっている。「祠の裏に隠れずに出て参れ」 求馬が乾いた声で誰何(すいか)した。「流石は元公儀隠密の手練者だけはありますね」と、女の声がした。「あれはお駒だ、くそっ、あのアマ」 猪の吉の顔色が変わった。「猪さん、女のお守りですか。わたしは恋焦がれて探し廻りましたよ」 「お駒、伊庭の旦那に殺されるなよ。引導はおいらが渡してやるから」「楽しみですねえ、また可愛がってあげますよ」 お駒の艶っぽい声に挑発され、「畜生」猪の吉が苦い声を洩らした。「先生方、お願いしますよ」 お駒の声で祠の裏から三人の浪人が姿を現した、いずれも荒んだ容貌ながら剣気を秘めた凄腕と知れる。 求馬が振り分け荷物をおろし、うっそりと佇み冴えた声をかけた。「六紋銭の忍び者はどういたした」 「これは、わたしの計画ですよ」「笹子峠に鶯のお駒か、洒落にもならぬな」 求馬の声で三人の浪人が同時に抜刀した。求馬は半眼となり二尺四寸の村正を抜き放ち左下段の構えとなった。彼の得意技である秘剣逆飛燕流の構えである。瞬間、左手の浪人が仕掛けようと動いた。 求馬がそれに合わせ躯を移動させた、辺りに壮絶な空気が漂った。 右手の浪人が上段に構えを移し、一気に求馬を袈裟斬りとすべく猛然と踏み込み、鋭い一撃をみまってきた。 半歩、求馬の痩身が左にひらき村正が跳ね上がった、それは躱す暇もない凄まじい反撃であった。白い光芒が浪人の左脇腹から右首筋に抜け、血潮とともに痩身が風を巻いて中央の浪人に襲いかかった。 村正を跳ね飛ばそうした浪人の刃と村正が交差し、紙一重の差で村正が対手の頭蓋を真っ二つに両断した。清冽な山の中に血の臭いが漂い、血飛沫をあげ二人の浪人が、崖下に転落していった。 残りの一人が正眼に構えなおした、初めてみる早業を求馬が披瀝したのだ。「ぴゆっー」と血糊を素振いて求馬が対手の正面に構えを移した。 一人残った男は大兵の浪人で、どっしりとした正眼の構えでいる。 求馬は対手の仕掛けを看破した、突きでくるとみたのだ。剣法では突きの一手がもっとも攻撃力がある。全ての剣法で突きほど利のある業はない、しかし、突き損じれば、たちまち攻守転じて不利となるは言を待たない。 長い膠着状態が続いている、お蘭が顔色を無くし見つめている。 焦れた対手が、じりっと正眼で前進をはじめた。「だっー」と声と同時に電光の突きが正眼の切っ先から生まれ、求馬の胸元に伸びてきた。求馬は躯をひらきながら、片手殴りで相手の浪人の右胴を水平に薙いだ。浪人の大刀が求馬の肩先を掠め、躯が停止した。 暫く二人はもつれるような体勢で制止した。 「旦那っー」 お蘭が悲鳴にちかい声をあげた、それを合図のように浪人の躯が地響きをあげて転がった。求馬が懐紙で血糊を拭い、村正が鞘に納まる音がした。「お駒とやら、そちの得意技はなんじゃ」 「畜生」 切れ長の眸を光らせ妖艶なお駒が無念の形相をしている。「逃げてみよ、必ず仕留める」 求馬が乾いた声で挑発した。 お駒がじりっと腰を低め後退している。「待っておくんなせえ、お駒はあっしが始末しやす。今日のところは見逃しておくんなせえ」 猪の吉が必死で声を張り上げた。「お駒、命冥加よな、そちに猪の吉が惚れたようじゃ」「旦那、それはねえでしよ」 猪の吉が情けなそうにしている。「お駒、去れ」 求馬の一喝でお駒が素早く峠を下って行った。「猪さん、お駒さんには甘いねえ」 お蘭に揶揄われ、猪の吉が顔を赤くした。血風甲州路(1)へ
Apr 5, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 (十一章) 翌日は曇天の朝であった。三人は厳重な身繕いを終え旅籠の玄関で草鞋を履いていた。 「お客さま、無事に峠を越えてくだされ」 番頭が見送りに出てきた。 「雨はどうじゃな?」「今日一日は保つと思いますだ」 「そうか、世話になった」 求馬が袴をはいて軒下を踏み出した。 「昨夜の鍋は美味かったぜ」 猪の吉が道中合羽を身につつみ、番頭に言葉をかけ表に出た。「有難うございましただ」 番頭の声を背中に聞き、道行き衣を羽織ったお蘭が、杖を手にし赤い蹴出しをみせ二人の後を追って行った。「番頭さん、あの女(ひと)に惚れただべえ」 小女が揶揄い番頭が赤くなった。 「雨が降らねば良いがの」 番頭が小首をかたむけ奥に去った。 鬱蒼と樹木が繁った山並の上空には、重苦しい雲がかさなり天候の荒れる様相を見せている。 「旦那、大丈夫でしょうな」「番頭の言葉を信ずるだけじゃ」 「看板がありやすよ」 猪の吉が行くてを指差した。狭い街道には、「此処より笹子峠」と書かれた古い標識があった。標高三千三百余尺の笹子峠は江戸日本橋から、下諏訪に至るなかで最大の難所として知られていた。 この峠を越えると甲斐の国となる。道はゆるやかな勾配で登り坂となってきた。 樹木が街道を覆え隠し、時々、笹子川の流れが見える。 一町ほど進むと樹齢何千年と思われる杉の大木に行き着いた。「これが有名な、矢立の杉じゃ」 「大きな杉ですな、内部は空洞ですぜ」 猪の吉が感心の面持ちで見つめ、お蘭も足を止めて眺めている。「故事じゃが、合戦にゆく武者がこの峠を越える時、矢をたて戦勝を祈願したと云われておる」 求馬が説明し古木の梢を見あげている。「そんなに古くから使われた峠ですかえ」 猪の吉が周囲を眺めた。 この先からは街道と言うよりは立派な山道であった。「驚いたね、山歩きだよ」「そうじゃ、黒野田宿から頂上まで一里十五町、下りは二十一町と云われる。頂きまでは一刻半はかかろう、足場も悪くなる気をぬくな」「はいな」 渓谷より吹き上がってくる風は冷たくお蘭が頬を赤くしている。 求馬を先頭に黙々と峠を登った。時々、崖崩れなどで道が途絶え迂回しながらの行程であった。 「お蘭、大丈夫か?」 「はいな」 気丈に答えお蘭が杖をついて従っていた。 途中で猪の吉が足を止め何事かしている。 「猪の吉、何をしておる」「へい、六紋銭に備えて飛礫の用意ですよ」 流石に歴戦の猛者である。「襲いくるなら頂上じゃ」 「そうですな、こんな小道では身動きがとれやせんな」「猪の吉、何刻じゃ」 「まだ五つ半(九時)頃と思われやすな」「そうか、平坦な場所で少し休息しよう」 お蘭には、もう一刻ほども進んだと感じられたが、まだ四半刻(三十分)ほどしか経ってない事を知らされた。三人は道の傍らの平坦な場所で休んだ。 求馬と猪の吉が煙草を燻らしている、お蘭は竹筒の水で軽く咽喉を潤した。「笹子峠の由来を知っておるか?」 求馬がお蘭に声をかけた。「あたしには無理ですよ」 お蘭が額の汗を拭いながら答えた。「この峠は鶯の名所で知られておる。「笹子」とは鶯の幼鳥を云うそうじゃ。満足に鳴けない頃の鶯の名じゃ」 珍しく求馬がさかんに言葉をかける、お蘭を勇気づけるためであった。一行は悪戦苦闘してようやく峠の頂に着いた頃は正午を迎えていた。小さな切り通しのような頂上であった。「ここが笹子峠の頂上ですか?」 「そうじゃ、よく頑張ったの」「何にもねえ頂上だね、ここで腹ごしらえでもしやすか」 猪の吉が、日当たりのよい場所を選んでお蘭を休ませた。江戸育ちのお蘭の足では、番頭の言葉どおりには進めない。しかし、ここからは下りにかかる、無理をする必要もなかった。 求馬が握飯を口にしながら五感をすませているが、なにも不審な気配はない。「お蘭、草鞋を脱いで足の裏を揉むことじゃ、楽になる」「はいな」 握飯を食べ終わったお蘭が草鞋を脱いでいる。「ここから下りになる、峠の先は駒飼宿じゃ。その先には関所がある鶴瀬宿じゃが、どちらに泊まるにしても明日には甲府に着く」「甲府で何か起こりやすな、あっしにはそんな予感がしゃすよ」 猪の吉が思案顔で求馬を見つめた。 「まずは無事に峠を下ることじゃ」血風甲州路(1)へ
Apr 4, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 求馬がうっそりと座敷に入り、床の間に佩刀の村正を立てかけた。「すぐにお茶をお持ちいたしますだ」 番頭が誰に言うでもなくに語りかけた。「冷酒を頼みた、・・・番頭、尋ねたいことがある」「はい、何でございますだ」 番頭が恐るおそる求馬をみつめた。「明日、笹子峠を越えたいが天候はどうじゃ」「雲の様子では大丈夫でございますだが、少しは雨に降られましょうな。余りひどいようでしたら、遠慮のうお帰り下せい」 云い終えて番頭が足音を忍ばせ、戻っていった。 暫くして小女が盆に茶と大徳利に湯呑みを載せて現れた。「お風呂はこの突き当たりにございますだ。何時でも入れます」「温泉ですか」 すかさずお蘭が訊ねた。「温泉だが自慢にございまいだ」 小女が盆を置いて座敷を去った。「お蘭、すまぬが酒をくれ」 「はいな」 お蘭が湯呑みに注ぎ分け求馬と猪の吉の前に差し出した。 「こいつは済みません」 求馬と猪の吉が咽喉を鳴らして飲干している。「美味いねえ、こうして飲むのが一番だ」 「あたしも頂きますよ」「お蘭、飲んだら旅の汚れを落として参れ」 「はいな」 三人が酒で道中の疲れを癒しながら、窓の景色を眺めている。「旦那、あそこが笹子峠にございやすな」 猪の吉が指さした。 甲州道中随一の難所として知られる、標高一0九六メートルの笹子峠が遠望できる。お蘭がみつめ息を飲み込んだ。「お蘭、心配は無用じゃ、もし天候が荒れたらここに引き返す」「ご免くだされ、夕餉は何刻頃が宜しゅうございますだ」 番頭が神妙な顔つきをみせ訊ねたが、求馬が無視し逆に問い返した。「女連れで笹子峠を越えるに何刻ほどかかる?」「そうでございますな、順調ならば二刻半には越えましょう」「そうか、ならばゆっくりと食事が摂りたい。六つ頃に用意いたせ、今晩のご馳走はなんじゃな?」「こんな山奥にございますだ、麦飯にとろろ汁、当旅籠の自慢の鍋物に香の物にございますだ」 「鍋の具はなんじゃな」「はい、猪の肉に大根、里芋、ネギ、ゴボウなどで味噌じたでにございますだ」「猪の肉か、美味そうじゃな」「はい、精がつきますだ」 番頭が満足げにもどっていった。「あたしは気味が悪いよ」 お蘭が猪の肉と聞いて顔をしかめた。「まず、食ってから文句を云いなせいよ」 猪の吉がけしかけている。「猪さんも食べたことがあるのかえ」「初めてでさあ、猪の吉が猪の肉を食うなんて洒落にもなりやせんよ」「それでは風呂にでも行くか」 求馬が立ち上がった。「万一の用心もありやす、あっしは後で入らせて頂きやす」「悪いの、一風呂浴びてまいる。お蘭、行くぞ」 「でも・・・・」「いいて事よ、師匠も汚れを落としてきなせえ」 猪の吉が湯呑みに酒を注ぎ、「あっしはこれだ」とにっと笑いを浮かべた。「じゃあ、悪いが頼みますね」 お蘭がいそいそと求馬の手拭も持って風呂場へと向かった。明日は敵地に向かう勝負の日だ、たまには旦那と一緒に入んなせえ、万一てな事もある、猪の吉の心遣いであった。「まあ、素敵」 お蘭が露天風呂ではしゃいでいる。岩を巧に配した露天風呂は、自慢したとおり見事な景色を見せてくれる。 求馬も目前に広がる雄大な光景に見蕩れている。お蘭が恥じらいもなく全裸で旅の汚れを落としている。白練りの肌に温泉の水滴が付き、夕陽を浴びてきらきらと輝いている。柔らかな肩の曲線、乳房からふくよかな下腹部への曲線が女盛りを感じさせる。 「旦那、お背中を流しましょうか」 「頼む」 求馬が背中を向け、お蘭が丁寧に垢をこすりとり、「ほっ」と切なげな吐息を吐いて求馬の背中に頬ずりをした。抱いて欲しいと心の底で願っていた。「我慢いたせ」 求馬の声に、「はい」と小さく答え温泉に浸かった。 自分の秘所が潤っている事が悲しかった、女体の不可思議さを知らされたお蘭であった。 「旦那、今度はきっと抱いてくださいな」 求馬は無言でお蘭と並んで温泉に浸かり、乾いた横顔を見せていた。血風甲州路(1)へ
Apr 3, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 翌日の早朝、明け六つ(午前六時)三人は旅籠を出た。朝靄が流れ、名の知らぬ小鳥のさえずりが一帯をおおっている。 猪の吉を先頭に、お蘭、求馬とつづいた。小道を進み大月橋を渡ると街道に出る、ここから下花咲、上花咲の二宿を通過し下初狩、中初狩、白野の三宿を通り、阿弥陀仏海道から目的の黒野田宿に向かう強行軍である。 甲州道中は国中に向かっていた。街道は旅人の姿が時折、見られる程度で閑散としている。荷物を運ぶ大八車の姿も見受けられない。「旦那、やけに静かですな」 猪の吉が鋭い眼差しで辺りを眺め声をかけた。 「笹子峠のせいじゃ、あの峠で甲州道中は寸断された情況だ。物資の流れが途切れるのじゃ」 「成程ね」 求馬の言葉に猪の吉が応じた。 街道の小藪から小さな犬のような獣が横切った。「あれはなんですか?」 お蘭が興味をしめした。 「狐だよ」 「へいー」 お蘭が熊笹の中を覗きみた。「噛みつかれやすよ」 猪の吉の脅しでお蘭があわてて街道に戻った。「旦那、茶店がありやす」 「少し休んでいこう」 三人は粗末な茶店の腰掛で休んだ、茶店には腰の曲がった老人が一人で店番をしていた。 「爺さん、地酒はないかえ」 早速、猪の吉が訊ねた。 「濁酒(どぶろく)ならありますだ」「三杯くんな」 猪の吉の注文を聞きながら、お蘭が周囲を眺めている。 街道は徐々に道幅が狭くなっている。どんぐりのなる楢や山欅、榎、桜、などの樹木が枝を伸ばし、街道を覆いつくしている。「なんだか恐いような道ですね」 お蘭が気味悪そうにしている。「お待ちどうさんで」 老人が欠けた飯茶碗を盆に乗せて運んできた。 口にしたお蘭が悲鳴をあげた。 「これは酢じゃないか」「今年は失敗での」 老人が、ほっほっと嬉しそうな笑い声をあげた。 求馬は平然とした顔で飲んでいる。 「旦那、これが酒ですかえ」 猪の吉がぶつぶつ云いながら啜っている。「あたしは駄目ですよ、お茶をおくれな」 お蘭が音をあげた。「爺さん、赤鞘の大刀を差した足の悪い侍が通らなかったかえ」 猪の吉が村松三太夫の消息を探っている。「昨日、笹子峠を越えるといって通っただ」 猪の吉の眼の色が変わった。「旦那っ」 「心配はいらぬ」 求馬がぼそりと呟き茶碗を空けた。「爺さん、黒野田宿はあとどれくらいだね?」「そうじやのう、一刻と四半刻(二時間半)くらいかの」 茶店をあとにして三人は街道を進んだ。大月から桂川が流れを変え水音がしない、鬱蒼とした山並の道をひたすら歩んだ。「驚いたねえー、これが五街道のひとつとはね」 猪の吉がすっとんきょうな声をあげた。ようやく阿弥陀仏海道を抜けたようだ。「師匠、あと十二町(約一.三キロ)くらいですよ」「有難う、気張らなきゃあね」 お蘭の足取りが軽くなった。 ようやく宿場の入口に辿りついた、ひなびた宿場である。「まったく人気がねえや、これが黒野田宿かえ」「白野、阿弥陀仏海道と黒野田宿の三宿で一宿駅を担っておるのじゃ」 求馬が、うっそりと宿場に沿った街道を進んでいる。どれも似たような茅葺屋根の小汚い旅籠が並んでいる。求馬が一軒の旅籠の前で足を止めた。「旦那、この宿ですかえ」 猪の吉が玄関に入った。「誰も居ねえや、誰が居るかえ」 大声を張り上げた。「へい」 声がして奥から薄汚れた顔の小女が現れた。「客だよ、三人だ」 「ちよっくら待ってくんなせいな」 小女が足濯ぎの桶を運んできた。 「客はいるのかえ」「おまえさん方だけだ」 「驚いたね、笹子峠を越える最後の旅籠と言うのに」 猪の吉が呆れ顔をしている、奥から中年の男が姿をみせた。「これはこれは、ようこそ」 「おめえさんは?」「番頭にごぜいやす」 「一晩、厄介になるぜ」 「有難うごぜいますだ」 建てつけの悪い廊下を案内され、黴臭い座敷に通された。「部屋はこれだけかえ、もう少しましな部屋はねえのかえ」 猪の吉が一朱金(十六枚で一両)を差し出した。「こがいな大金では、つり銭がございませんだ」「一番、上等な部屋にかえてくんな、風呂はあるだろうな」「へい、露天風呂がごぜいやすだ」 番頭が次ぎの座敷に案内した。「ここなら上等だ、続き部屋も頼むよ」 「黴臭い宿だねえ」 お蘭の姿をみた番頭がびっくりしている。「番頭さんかえ、女を見たことがないのかえ」 お蘭の揶揄いで番頭が顔を赤らめた。血風甲州路(1)へ
Apr 2, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 傷口から流れ落ちる血が橋の上を濡らしている。求馬が村正を握り痩身をゆっくりと三太夫の間合いの中に入れて来た。 それを見た三太夫の垂れ下がった目蓋の奥に恐怖の色が浮かんだ。 正眼に構えた大刀の切っ先を求馬に向け、じりっと三太夫が後退した。「この勝負はあずける、いずれ借りは返すぜ」 濁った声をかけるや、踵(きびす)を廻し脱兎の勢いで駆けだした。 猪の吉の手から、再び飛礫が飛んだ、躱す間もなく右の太腿を直撃され転等したが、素早く起き上がり足をひきずって逃走に移った。「やい、飛礫野郎、今度会ったら命をもらう、おいらを甘くみるなよ」 捨て台詞を残し街道の旅人を驚かしながら逃げ去った。「旦那っ、大丈夫ですか」 お蘭が金切り声で駆けよった。「騒ぐな、大事はない」 求馬が乾いた双眸で街道の彼方に消えてゆく村松三太夫の姿を見つめていた。「旦那、一筋縄ではゆかねえ男ですな」 「猪の吉、助かった」「いらぬお節介をいたしやした」 猪の吉が興奮した声で照れている。「うるさい男が一人増えたな」 ようやく求馬が抜き身を鞘に納めた。 緊張していたお蘭に、谷底の桂川の清流の音がもどってきた、緊張のあまり猿橋の景観を忘れ去っていたのだ。「さて大月宿に向かうか」 求馬が柳行李を担いだ。 大月宿は小盆地のなかにある。ここから郡内往還道が桂川に沿って分れ、この往還道を利用し富士講の人々は、富士登山口の吉田へと向かうのである。 またこの一帯は戦国時代、小山田氏の所領として続いた地域で甲府西部の国中に対し郡内と呼ばれていた。ここには武田家を裏切りで滅亡させた、小山田信茂の居城、岩殿城の跡があった。 お蘭の身を気遣い、求馬はここの旅籠に早めの宿泊をした。 この地は温泉の宝庫でこの旅籠も温泉宿であった。さっそく三人は温泉に浸かり、一日の疲れを癒した。 ここら辺りは男女混浴で、お蘭も肩の傷口を油紙で押さえて入浴した。 上鳥沢宿から大月宿は、猿橋宿と駒橋宿の二宿を越えたばかりの近場であった。刻限はまだ八つ半(午後三時)を少し過ぎた頃で宿泊客は誰も居ない。「お蘭、疲れはないか?」 「はいな」 求馬の問いにお蘭が湯の中から答えている。 「鳥沢からはきつい道中でしたから、ゆっくり浸かって下せえ」 猪の吉が一足はやく部屋に戻っていった、こうも間近でみるお蘭の裸体は、猪の吉には目の毒であった。 「猪さん、気をつかいましたね」「馬鹿め」 求馬が苦笑した。 「旦那っ、・・」 お蘭が上気した顔を見せてもじもじしている。求馬の目の前に豊かな乳房が湯のなかで透けて見える。「お蘭、まだ真昼間じゃ」 ざぶっと湯の音をあげも求馬が浴槽から出ていった。「なにさー、つまんない」 お蘭が恨めしげに後姿を見つめていた。 座敷では猪の吉が寛いでいた。「旦那、村松三太夫は素通りで先に進んだようです」 猪の吉は風呂からあがり、帳場で三太夫の動きを探ってきたのだ。「奴は足を引きずっていたそうですぜ」「この先には笹子峠の難所がある」 求馬が塗れ手拭を干しながら答えた。「奴はあの傷です、甲府までは大丈夫ですよ」「お主もそう思うか」 「へい」 「まずは六紋銭の動静じゃな」 二人が今後の相談をしている。 「ああー、良い湯加減でした」 お蘭が汗を拭いながら現れた、ゆっくりと疲れをとった所為か顔色がいい。「明日は強行軍じゃ、七宿目の黒野田宿まで足を伸ばす。そこで一泊し翌日は笹子峠を越える」 「はいな」 お蘭が上気した顔で肯いた。「さて、今夜はゆっくりと飲むか」 「そうですな、師匠の全快祝いですな」 猪の吉の言葉に、「嬉しいねえ」と、お蘭が妖艶な笑顔をみせた。「それじゃあ、夕餉前の一杯といきやすか、帳場に頼んできます」 猪の吉が座を立つた。 「ここは盆地ですね、周囲の景色の綺麗なこと」 お蘭がうっとりと連綿とつづく山並の風景を眺めている。 ここに来て紅葉が目立ってきた、本格的に秋の訪れがきたようだ。血風甲州路(1)へ
Apr 1, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 翌朝の五つ(午前八時)三人は、旅籠の者に見送られ甲州道中を西に向かった。 「今日もいい天気だね」 猪の吉がご機嫌である。 手甲、脚絆も新しく草鞋の感触も心地よい。お蘭も新しい道行き衣を羽織り、紅紐の草鞋に菅笠をかむり新しい杖を手に勇んでいた。 求馬のみ黒羽二重の着流し姿で、柳行李を振り分けに肩に担ぎうっそりと歩んでいる。街道は桂川を離れ山道となっていた。かなりの急坂が続いている。「師匠、大丈夫かね」 猪の吉がお蘭の身を案じさかんに声をかける。「大丈夫ですよ」 お蘭の体調も完全にもどったようだ。 山並が重なりあって緑一色であった景観が変化を見せはじめてた。 所々に紅葉がはじまり、薄い紅色や黄色が交じっている。「もう、秋なんですね」 お蘭が菅笠を上向け景色に見蕩れている。「上鳥沢宿から二十六町で天下の三奇橋に数えられる猿橋がある。渓谷の水音が聞こえるだろう」「はいな」 求馬に教えられ、お蘭が嬉しそうに肯いた。 橋のたもとは苔の生えた石垣が積まれ、蔦が縦横に這っている。それに鬱蒼とした大木が橋を覆い隠すように枝を伸ばしていた。 手摺につかまり、お蘭が下を覗いている。「目が眩みそう、落ちたら命はありませんよね」 三人は橋の中央に足を止め奇景に見入った、眼下は深い渓谷で桂川が白い泡立ちをみせ流れ下っている。この猿橋は橋脚がない、ハネ木造りという工法で作られていた。浮世絵師の安藤広重が天保十二年に訪れ、この猿橋の絶景に驚嘆し、「絶景言語に堪えたり拙筆に写し難し」と絶賛したと云われる。「凄い眺めだねえー」 猪の吉が感に堪えない声をあげている。「お蘭っ、猪の吉、この場を離れよ」 声と同時に求馬が前方に疾走した。「あれは」 猪の吉が驚きの声をあげた、向こう側から侍が駆けて来る。「探したぜ。村松三太夫だ、忘れたとは言わせねえ」 赤鞘の大刀を腰にぶちこみ、求馬の目前に足を止めた。「鳥沢の旅籠から眺めていたな、おいらの眼は節穴ではねえ」「わしが斬れるか?」 黒羽二重の着流しで求馬がうっそりと佇んだ。 渓谷から吹き上がる風で裾が煽られている。 三太夫の垂れ下がった目蓋の奥の眼が瞬いた。ゆっくりと自慢の赤鞘から大刀を抜き正眼に構えをとった。風の音が響く静寂の世界に殺気が漲り、お蘭と猪の吉が息をつめて見守っている。 三太夫が徐々に突きの体勢に構えを移している、求馬が鯉口を緩め左の指で軽く鍔を押した。「きえっー」 凄まじい懸け声と共に猛烈な突きが、求馬の胸元に伸びた。 同時に求馬の痩身が、ふわっと宙に舞い橋の欄干に飛び乗っていた。 「あっ」 お蘭が蒼白となった。足を滑らせれば千尋の谷底に落下する体勢を求馬がとったのだ。三太夫の攻撃が頓挫(とんざ)した。 鵜飼流は猛烈な突きの攻撃で相手の体勢をくずし、真っ向唐竹割りとする一撃必殺の剣であったが、求馬は躯を欄干の上に置く事で三太夫に攻撃を許さぬ体勢を作ったのだ。「おのれ」 三太夫が正眼に構えを移し喚いた。完全に業を封じられたのだ。 斬り込めば求馬は、三太夫の頭蓋を割る一撃必殺の攻撃をする、それを躱す業は三太夫にはない。 「村松三太夫、ここで命を落すか」 冴えた求馬の声が皮肉をおびて聞こえる。「畜生」 三太夫が呻いた、相手は橋の欄干上に居る。長引けばこちらが有利、三太夫が後方に身をうつし持久の策をとった。「あの野郎、旦那の疲れを待つ積りだな」 猪の吉の眼が鋭くなった。 お蘭が瞬きを忘れ、食い入るように求馬の姿を見つめている。二人には長い時間であったが、それは瞬時の出来事であった。 いかに忍びの術にたけていようと、求馬の体力にも限界がある。 猪の吉が飛礫を握りしめ啖呵をきった。「やい化け物、ここに飛礫の猪の吉さまが控えているぜ」 村松三太夫の相貌が歪んだ。 「大川での飛礫はおめえかえ?」「そうだ、今度は仕留めるぜ」 「糞っ」 三太夫が思いだした。 猪の吉の手から飛礫が、三太夫の眉間を狙って放たれた。 素早く大刀を顔面の前で上段に移し、大刀の柄で飛礫を払い落とした。 体勢に隙ができ、見逃さず求馬の躯が宙に躍り、村正が三太夫の頭上に襲いかかった。三太夫は本能的に大刀を水平とし両手で受けた。 凄まじい衝撃で三太夫の躯が後方に弾き飛ばされた、すかさず村正が白い光芒の帯を引き三太夫の肩先に襲いかかってきた。 肩袖が千切れ左肩から血潮が迸った。 「ちえっ」と舌打ちの声がし、辛うじて三太夫が構えを立て直した。血風甲州路(1)へ
Mar 31, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。「良いか、我等が世に出るか否やの節目じゃ、一族をあげて教来石に結界の陣を敷くのじゃ」 彦兵衛の下知で隠れ里から一斉に声があがった。 その頃、二人の男が山道を駆け下っていた。一人は全身が鋼のような闘牙の三十郎で、後続する男は浅間の鶴吉で敏捷な姿をみせていた。 猪の吉が駆けもどって来た。求馬等が上鳥沢宿に逗留し四日目の事である。座敷の窓からは甲州道中が一望できる、旅人は閑散として桂川のみが穏やかな流れを見せていた。あいもかわらない長閑な光景である。「旦那、大月宿まで行ってきやしたが、不審な者はまったく見当たりやせん」 猪の吉が珍しく額に汗の粒を浮かべている。「そうか、ご苦労であった。まずは咽喉を潤せ」 求馬が地酒の入った徳利をさし出した。 「頂きやす」 猪の吉が湯呑みに注ぎ咽喉を鳴らして飲干した。「美味いねえー」 感嘆の声を発し口の端を手の甲で拭い白い歯をみせた。「旦那、奴等はあっしらを見失ったのでしょうかねえ」「ここから眺めているが、怪しい者は一人も通らぬ」「あら、猪さん戻っていたのかえ」 お蘭が姿をみせた、血色の良い顔をしている。 「師匠もずいぶん元気になりやしたね」「はいな、美味しい食事にお風呂でしよ、元気になって当然ですよ」 お蘭の市松模様の小紋姿が、一際、艶やかで赤い蹴出しが色っぽい。「あたしにも久しぶりに一杯下さいな」 お蘭が湯呑みを取り出しせがんだ。「傷も癒えた事じゃ、ただし一杯だけじゃ」 求馬が注いでやった。 少し口に含み、お蘭が味を確かめるように咽喉に流しこんだ、久しぶりに胃の腑があつく燃えた。 「美味しい」と心底、嬉しそうな笑顔をみせた。「お蘭、明日にはこの旅籠を発とうと思うが大事ないか?」「はいな、ようやく旅が出来ますね」「そうじゃ、途中の猿橋は天下の景観じゃ。それらを愛でながら足慣らしじゃ」「師匠、旅の用意はすべて整っておりやすよ」 猪の吉が新しい長合羽、道行き衣などを買いととのえてくれていた。「今回はよい経験をした。非常食も薬も充分か?」「抜かりはありやせんよ」 「猪さん、心配をかけましたね」「なあに、いいって事さ、おいらも鯉料理に飽きあきしていたんでね」 久しぶりに、三人はのんびりとしたお喋りを楽しんだ。 求馬は酒を飲み続けている、そんな姿をお蘭がうっとりと見つめている。(お暑いことだ)猪の吉が胸理に呟いた、唐突にお駒の妖艶な裸体がよぎった。 あれ以来、時々夢に現われるのだ。飛礫の猪の吉が恋をしたようだ。それもよりによって六紋銭のくの一のお駒にである、皮肉なめぐり合わせであった。「猪の吉っ」 「へい」 求馬が街道に顎をしゃくった。 菅笠をかむった侍が足早に街道を歩んでいる、腰にぶちこんだ赤鞘の大刀が印象的であった。 「旦那、あの侍がなにか?」「奴が鵜飼流の遣い手の村松三太夫じゃ、ここに姿を現すとは主水殿は捕縛に失敗したようじゃ」 求馬が双眸細めて眺めている。「奴が大奥のお真紀の方を暗殺した殺し屋ですかえ」「そうじゃ、水野忠邦の用人加地三右衛門の差し金で、我等を追ってきたのかも知れぬな」 「また厄介な男が現れやしたな」 猪の吉が、鋭い眼差しで見つめている。「奴は甲府に向かっておるのじゃ、こんな所でわし等が足止めをくっておるとは思わぬ筈じゃ。甲府までは安全じゃ」 求馬が酒をぐびっと飲干した。「鉢合わせをしたら殺りやすか?」「当然じゃ」 求馬の相貌に変化はない、乾いた眼差しで去り行く三太夫の姿を見つめている。猪の吉の背筋に、ぞくっと戦慄に似た感覚が奔りぬけた。血風甲州路(1)へ
Mar 29, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 道は険しい山道となり、鬱蒼とした樹木が天を覆い昼でも薄暗くなってきた。 何度となく峠道を辿り、僧が足を止めた。 山並に囲まれた中に盆地がひらけ、猫の額のような段々畑が各所にみえる。 ここは須貝村と呼ばれる集落で、山ひとつ隔てた須坂村の名主が二つの村を仕切っていた。僧は小道を下り、茅葺屋根の大きな屋敷に入った。 井戸端で足を洗い流し、網代笠を脱いだ男は僧侶ではなかった。 浪人髷をし日焼けした逞しい面魂の男であった。彼は草鞋を脱ぎ土間にあがり、磨きぬかれた廊下を伝い道場のような大広間に踏み込んだ。 深々とした大広間には、二十名ほどの男達が居並んでおり、中央に小太りの男が野良着姿で待ち受けていた。 「もどったか、浅間の鶴吉」「はっ、江戸より書状を持参いたしました」 浅間の鶴吉と呼ばれた男が低い声で答え、傍らの男に書状を渡した。 小太りの男が書状に目をおとし、眉間に深いしわをよせ声を発した。「水野忠邦さまは、ご立腹じゃ」 この男が六紋銭の頭領、山彦の彦兵衛であった。 ここが影の軍団と異名をとる六紋銭の隠れ里であった。「申しあげます」 一座の隅から忍び声がした。 「なんじゃ」「伊庭求馬にござるが、上野原宿より消息が不明となっております」 大広間の男達は一様に気配を絶って沈黙を保っている。「何時からじゃ」 「先日の大雨から足取りが途絶えております」「鶴川宿への街道が崖崩れをいたし、脇道に入ったと知らされておる」 山彦の彦兵衛が鋭い声を発した。「お頭の申すとおりにござる、わしは六名率いて奴を脇道で襲いましたが、数名を斃され引き下がりました。その後に大洪水となり未だに脇道に入るは叶わぬ情勢となってござる」「鶴川宿、野田尻宿にも現れぬか?」「はっ、奴は女連れにございました。洪水の犠牲となったやも知れませぬ」 山彦の彦兵衛が、「三十郎、われの考えはどうじゃ」と声をあげた。 天井からふわりと三十郎が降り立ち、凄まじい剣気が立ちのぼった。「奴等が江戸を発ってから、我等の仲間の犠牲者は二十名ちかくを数える。あの凄腕の男が洪水なんぞで死ぬ訳がない」「三十郎、われならどう考える?」「知れた事、急ぐ旅ではない。じっと隠れ潜んで我等の動きみる」 彦兵衛が腕組みをして考え込み、浅間の鶴吉を見据えた。「我等は奴の為に一村が廃村となるような犠牲を被った。鶴吉、街道の手配りはどうじゃ」 「街道に分散した物見を甲府に集める事が先決」「訳は?」 鶴吉が不敵な面をみせ答えた。「生きておれば必ず甲府に現れましょう、そこを一気に襲い命を貰いうけます」 「一同の者の意見はないか?」 「鶴吉の言は良し」 一座から賛成の声があがったが、一人の男が反論した。「わしは反対じゃ。伊庭求馬とは公儀隠密の最強の男と聞く、江戸では我等の手練が全滅し、甲州路でも数十名が倒された。それが証拠じゃ、我等は信州に奴等をおびき寄せ、そこで叩き潰す」 不気味な沈黙が漂った。「わしも賛成じゃ、ただし、わしは鶴吉を伴い甲府に出向く。お頭は結界を敷いてはどうじゃ」 闘牙の三十郎が忍び声をあげた。「判った。信濃の入口の教来石(きようらいいし)に結界(けっかい)を敷く。三十郎と鶴吉は甲府に行け、くれぐれも功を逸ってはならぬ」 六紋銭の方針が決まった。この結界とは仏法修行の言葉である。修行のために一定区域に入る事を許さないことを意味する言葉であった。 この場の結界も同じ意味あいで、信濃には求馬等を一歩も踏み込ませない、六紋銭の覚悟を示したものであった。 ここで六紋銭は存亡を賭け、影の軍団としての存在を顕としたのだ。それは山彦の彦兵衛の意地でもあった。「ところで鶯のお駒は、いかがいたしておる?」「一度、上野原宿で奴等の一人を媚薬を遣いお縄にしましたが、留守の間に逃げられ、今も必死で足取りを追っております」「お駒め、病気が出たのであろう。今度、捉えたら男をおもちゃにせず、一思いに殺せと申し聞かせよ」 「畏まりました」 彦兵衛が含み笑いをあげ、一座からも不気味な笑いが起こった。「お頭、お駒の男狂いは治らぬ、わしの女にしたいがどうじゃ」「三十郎、われもお駒に気があるのか?」 山彦の彦兵衛が三十郎に揶揄いの言葉をかけた。「あの女はよい、何度でも抱きたくなる女じゃ」 声と同時に闘牙の三十郎が、音もなく天井に飛びあがった。「伊庭を斃したら、われの好きなようにいたせ」 彦兵衛の声を合図に、浅間の鶴吉も天井に飛び移り気配を絶った。 血風甲州路(1)へ
Mar 28, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。「いよいよ六紋銭も気合をいれる事になりやすな」 猪の吉が不敵な笑いを浮かべた。「そうじゃな、上田原宿の脇道から姿を消したが、存外と我等の消息を探っておろうな」 「あの洪水で我々が遣られたと思ってはおりやせんかね?」「そうした考えもあろうが、この宿場も見張られておるやも知れぬな」 求馬が当然とした顔つきで返答し廊下に視線を移した。「主人の九兵衛にございます」 しわがれ声がして襖がひらいた。 羽織、袴に着替えた主人が廊下に膝をついていた。「いかが為された、入られよ」 「ご免こうむります」 貧相な顔をみせ座敷ににじり入ったきた。「高島藩ゆかりのお客さまのお出でに、心より御礼申し上げます」「丁重なるご挨拶痛みいる」 求馬が応接している。「夕餉をお持ちいたしました、田舎の事とてなにもお持て成しが出来ませぬが、ごゆるりとお寛ぎ下されませ」 女中が膳部を並べて去った。「ここは山と川の里。鯉の洗いに鯉の煮付け、鯉汁。それに山鳥の味噌焼、山菜の煮しめに香の物にございます」「ほう、鯉づくしに山鳥とは珍しい」「お酒は地酒にございますが、ごゆるりとご賞味下されませ」 畳に額をつけ、主人の九兵衛が部屋を辞していった。「驚き桃の木だね」 猪の吉がひょうきんな声をあげた。「お大名とは、こんな器で持て成しを受けるものなんですね」 お蘭まで呆気にとられた顔をしている。蒔絵の膳部に高価な器、どれをとっても庶民には縁のないものであった。 三人は鳥沢のご馳走を心ゆくまで堪能した。 食後、お蘭が猪の吉に訊ねている。「ところで猪さん、上野原宿で何処に消えたのさ」 猪の吉が、途端に苦い顔をして求馬が笑いを堪えている。「なんですか、二人とも変な顔をして気味が悪いわね」「猪の吉は、六紋銭のお駒と懇ろになったようじゃ」 求馬が笑いを耐えている。 「旦那、それは云いっこなしですぜ」「何さー、二人してやに下がった顔をして」 お蘭がくってかかった。 求馬がお駒との一件を喋ることになった。「呆れたね、猪さん。くの一のお駒と一夜を共にしたって訳ですか」「仕方がねえんでさ」 「何さ、にやけた顔をして」 求馬が可笑しそうに酒を飲んで見つめている。「旦那、なんとか云ってくだせえよ」 「ようするにお駒に犯されたのじゃ」「へい、女に犯されたんですか、あたしはこれまで聞いた事もないね」 お蘭の言葉に、猪の吉が身を縮めて酒を飲んでいる。「なんとでも云っておくんなせえ、久しぶりに女を抱きやしたよ」「不潔だね、そんな人とは思わなかったよ」 お蘭が息巻いた。 珍しく求馬が笑い声をあげている。「もう止しておくんなせえよ、あっしはお駒に惚れたようなんで」 猪の吉がしんみりとした口調で二人を見つめた。 お蘭と求馬が顔を見つめあった、今まで考えた事もなかったのだ。「本当かえ?」 「ああ、最近はお駒の顔が頭から離れねえんで」 猪の吉が苦そうにして酒を飲み下している。「暫く時を置くことじゃ、そのうちに猪の吉の考えも纏まろう」 求馬が助け舟をだし、その話は打ち切られた。 (十章) ここは信州上田である、戦国時代に名を轟かせた真田家の居城である上田城が有名であった。南に千曲川を擁し、太郎山脈が連なった天下の堅城で聞こえていた。関ヶ原の合戦では、徳川秀忠率いる三万余の大軍をわずか二千五百名の小勢で足止めをさせた、真田昌幸、幸村親子の活躍が今も語り継がれている。 城下の南方に浅間山が、北方には白馬、穂高の峰々が連なっている。 一人の僧が南に向かっていた。網代笠(あじろがさ)に薄墨衣をまとい、手には錫杖(しゃくじょう)を持っている。歩くたびにじゃらじゃらと錫杖の音を響かせている。 血風甲州路(1)へ
Mar 27, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 求馬が上空を仰ぎ見ている。 「刻限は四つ半(午前十一時)頃じゃな。ここまで来れば上鳥沢まで行こうか」「判りやした」 猪の吉が同意し、慎重に前方をみつめ竿を操る。 両岸はますます険しくなり、奇岩、巨岩が眼につく。筏は流れにのって飛沫をあげて上下左右と烈しく揺れながら流れる。「やりやしたぜ、とうとう下鳥沢ですよ」 猪の吉が濁流に負けずと大声をあげた。 下鳥沢と上鳥沢は、ほとんど距離のないふたつの宿場宿である。猪の吉と求馬が懸命に竿を操り、桂川の右手に筏を近づけている。岸辺の近くに浅瀬があり、所々に岩が邪魔をする。 上鳥沢宿の集落が見えてきた、村人が数人、川岸に集まり筏を眺めている。「おーい、おまえさん達は何処から来なすった」 浪人と女と町人の取り合わせが珍しいのだ。「怪しい者でわねえよ、本陣か脇本陣の主人はいねえかえ?」 猪の吉が慎重に竿を操り大声で訊ねた。岸辺に筏が近寄り、猪の吉が川に飛び込んだ。腰のあたりまで水に浸かり懸命に筏を岸に近づけている。「師匠、上鳥沢宿ですぜ躯は大丈夫ですかえ」 「猪さん、大丈夫だよ」「村の衆、手助けを頼まあ、怪我人がいるんだ」 その声に応じ数人の村人が川に入り、筏を岸に導いてくれた。「助かったぜ」 猪の吉が真っ先にあがり、懐中から礼金を村人に渡した。「こがいに仰山はいらねえだ」 「遠慮はなしだ、旅籠の主人は居るかね」 お蘭が蒼白な顔で岸にあがり、岩に腰をおろした。「別嬪だなや」 村人が好奇な眼差しでお蘭を眺めている。 求馬が筏の荷物を持って佇み、うっそりと周囲を眺めやった。「わたしめが脇本陣の主人の九兵衛にございます」 みるからに貧相な老人であるが、上等な着物を羽織っている。「わしは伊庭求馬と申す、脇本陣を借り受けたい」 「お武家さまが?」 求馬が高島藩家老の嘉納隼人正の書状を差し出した。「これは知らぬこととてご無礼をいたしました」 読み下した主人が腰をおった。「早速に部屋に案内を頼む。主人殿、村には医師は居るかの?」「はい、居りまする」 主人が不思議そうな顔で答えた。「怪我人がおる、部屋に手配を頼む」 「畏まりました」 この宿場は脇本陣のみであった、小さな旅籠のなかでは目立つ旅籠である。 まずまずの部屋に通された。 「お蘭、衣装替えは出来るか?」「まだ不自由です、女衆をお願い」 三人ともびしょ濡れである、求馬と猪の吉が行李から着物を取り出した。お蘭の替え衣装は、市松模様の小粋な小紋であった。猪の吉が帳場に行き一両の前金を払い、女中を頼んだ。 大金をみた番頭が驚いて訊ねた。 「何時までご滞在にございますな」「四、五日と思ってくんな」 「はい、お与りいたします」 番頭の指示で女中が慌てて部屋に向かった。 幸いにもお蘭の傷はたいした事ではなかった、求馬の手当てが良かったのだ。隠密としての求馬の傷の手当は、そこらの医師よりも手慣れていたのだ。「傷口は塞がっております」 「そうか、大事はないか?」「初めの手当てが良かったのです」 医師は傷口に膏薬を塗り晒しを巻いた。「三人とも川下りで濡れ鼠じゃ、風呂には入っても良いかの?」「傷口を濡らさないでお入り下され」 そう云い終えて医師は帰った。 早速、お蘭が女中を伴って風呂場に向かった。「お江戸の方でございますか?」 お蘭の濡れた着物を脱がせ、風呂に浸らせ背中をこすりながら女中が尋ねた。 「はいな」 「どうりで綺麗な肌をなすっておられますね」 お蘭は見事な裸身を女中に拭ってもらい、市松模様の着物を身につけた。「まあ、良くお似合いで」 女中が感嘆の声をあげて見つめている。 流石は江戸の小粋な鉄火女だけはある。 「お手数をかけましたね」 入れ替わりに求馬と猪の吉が風呂に飛び込んだ。「流石に堪えましたよ」 猪の吉が川の冷たさを思いだしぼやいた。「飛礫の猪の吉も歳か」 求馬は平然としている、隠密としての鍛え方が違うのだ。 「旦那には叶いませんよ」 ようやく三人は茶を喫み寛いだ。 「暫くこの旅籠に逗留いたす」「そんなにのんびりしても良いのですか」 お蘭が心配顔をした。「そちの躯が心配じゃ、これから難所中の難所、笹子峠が待っておる。万全な躯で向かいたい、猪の吉、出立までに衣装や食料などの用意を頼みたい」「任せておくんなせえ」 と猪の吉が胸を張って請負った。「甲府には甲府勤番支配がある。堂々と罷り通りたい」 求馬が不適な相貌を見せて云ってのけた。血風甲州路(1)へ
Mar 26, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 こうして三人は、山中で三日間過ごすことになった。ようやく桂川がもとの流れにもどり、渓谷の流れも緩やかになった。すぐさま求馬と猪の吉が河原の様子を探りに行き、洞窟にもどった。三人が焚火の廻りに集まった。 お蘭の傷もふさがり元気を取り戻している。「猪の吉、お主に相談がある」 早速、求馬が口をひらいた。「何でござんす?」 「お蘭も聞くのじゃ、ここから抜けでる方策を考えた」 猪の吉とお蘭が求馬の次ぎの言葉を待った。「お蘭の傷口は一応固まったが、無理をすると開く事になる。この難路を走破することは無理じゃ」 求馬がお蘭をみつめた。「どうなさる積りです?」 猪の吉の眼光が鋭くなった。「食料も尽きる、何としてもここを抜け出ねばならぬ」「あたしを残し、お二人で野田尻宿に発って下さいな」 お蘭が毅然とした態度で言ってのけた。「それはならぬ、抜け出るときは一緒だ」「あたしのような足手まといを連れては無理です」「少し黙るのじゃ。猪の吉、河原の流木で筏(いかだ)を組み桂川を下る。これが、わしの考えじゃ」 無言で猪の吉が眼を剥いた。「お主はツタを捜してくれえ、わしは手頃な流木を伐り揃える。その間はお蘭は何も考えず体力を養うのじゃ。筏が出来たら脱出する」「旦那、ひとつ尋ねてもようござんすか?」 「なんじゃ」「何処まで筏で下りやす」 その言葉に求馬が頬を崩し考えを述べた。 求馬の考えは、上野原から鳥沢までは谷が険しく難路で知られている。 それ故に山の峰の街道を通らねばならない、これではお蘭の体力が保たない、街道のはしる山を下り有名な猿橋にから大月宿へと出る考えであった。 それを二人に語った。 「一気に大月宿まで下りやすか?」「それは無理じゃ、我等の道具は鉈と脇差だけじゃ。それでは桂川の急流を下るだけの頑丈な筏は作れぬ」「そうしやすと下鳥沢か上鳥沢の、どちらかの宿場を目指す訳ですな」「野田尻宿、犬目宿、このふたつの旅籠を筏で通り抜ける事が出来る」「犬目宿の一里塚は、日本橋から二十一里と云われておりやす、一気に甲州道中の半分ちかくを走破した事になりやすな」 猪の吉が興奮を顕にしている。 早速、二人は手分けをし筏の材料を揃えた。求馬が河原の平坦な場所に伐り揃えた木材を筏の形に並べ、猪の吉が山から採ってきた蔦(つた)で厳重に結びつけた。二日後日の夕刻には、幅六尺長さ十四尺ほどの筏が完成した。「猪の吉、よく出来たの」 「さいで」 二人にとり初めての経験であった。 「竿は竹竿にしょう」 中央には、お蘭の為に四角の囲いをもうけ、長合羽と道行き衣を敷き水が入らないような工夫をこらした。 山並に夕日が沈み、最後の洞窟生活が終わった。 求馬と猪の吉が厳重な身支度をととのえた。「お蘭、そちの躯が心配じゃが我慢をするのじゃ」 「はいな」 筏の中央に、荷物とお蘭が乗り込んだ、舳先は猪の吉で艫は求馬が受け持つことになった。 二人が慎重に筏を桂川に押して浮かべた。「行くぞ」 「まかしておくんなせえ」 筏が朝靄をついて桂川の真ん中に進み、一気に流れにのった、猪の吉が懸命に前を塞ぐ岩を竿で突いている。呼吸を合わせ求馬も艫で竿を操っている。 水飛沫が容赦なく三人の躯に掛かる、お蘭が懸命に囲いを握っている。「旦那っ」 舳先から猪の吉が右手を差している、小さな集落が見える。「鶴川宿じゃ」 筏は矢のように下ってゆく。「これは早いや」 猪の吉がご機嫌で竿を操る、見るみる鶴川宿も過ぎ去った。「お蘭、我慢せえ」 求馬が励ましの言葉をかけている。「はい、大丈夫ですよ」 お蘭が必死で囲いの竹を掴んでいる。 水飛沫が遠慮容赦もなく全身に降りかかる。ようやく流れが緩やかになった。 水の色が青黒く変色し、両岸の崖が切り立ち前方に集落が現れた。「とうとう犬目宿に着きやした」 猪の吉が嬉しそうな声を張り上げた。 あと少し下れば上鳥沢宿が見えてくる筈である。「旦那、鳥沢が近い筈です、上か下かどちらに着けやす」血風甲州路(1)へ
Mar 25, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 桂川の濁流の音が、いよいよ激しさをましてきた。「旦那、外の様子を見てきやす」 猪の吉が心配そうに云った。「ここなら大丈夫じゃ」 求馬が平然としている。「これから、どういたしやす?」「お蘭の容態しだいじゃ、熱がでなければ直ぐに回復しょう」 求馬が傍らの柳行李から、握飯の包みを猪の吉に渡した。「こいつは有り難い、頂きやす」 猪の吉が握飯をひとつ手にし包みを返した。修羅場をくぐり抜けた男だけに出来る配慮である。水と食料の大切さを身をもって知っているのだ。「旦那には、こいつが一番だ」 猪の吉が行李から瓢をだし手渡した。「手配りのよいことじゃ」 求馬がさっそく瓢を口にし、「美味い」 と独語し、瓢を返した。猪の吉が大切そうに柳行李にしまっている。「旦那、スルメです」 二人はスルメを噛んで焚火にあたっている。「猪の吉、わしの宿業はまだ終っていないようだ」「・・・・」 猪の吉が黙して足元の砂をすくっている。 求馬の悲惨な過去が、猪の吉の脳裡をよぎった。彼の愛する女性は全て命を失っていた、それも敵の手で無残な最期を遂げていた。 今、またお蘭師匠が手傷を負っている。 「師匠は大丈夫ですよ」「わしも、そう願っておる」 深い沈黙のなかで二人の男は過去を振り返っていた。求馬の過去は血塗れたものであった、好むと好まざるとに係わらず、常に悪鬼羅刹道のなかで孤剣をふるってきたのだ。そうしたなかで愛した女性を二人も失ってきた。今また、お蘭が敵の手で深手を負ってる。「旦那、師匠の傷を見てやっておくんなせえ」 猪の吉の促しで求馬がそっとお蘭のそばに寄り、甲斐甲斐しく傷の手当をしている。 それをみて猪の吉が、洞窟の入口に足を運んだ。 暗闇のなかで桂川が白い牙を剥き、轟々と凄まじい流れを見せている。 既に三尺余りも水嵩が増している。猪の吉が入念にあたりを眺め安堵の息を吐いた。求馬の言葉どおり、この洞窟は安全であった。「猪の吉、お蘭は大丈夫じゃ」 洞窟に求馬の安堵の声が響いた。 三人は焚火の傍で安心の一夜を過ごした。 翌日は雨もあがり、目の覚めるような青空が広がり、重畳と連なる山並の樹木が雨に洗われ、緑が眩しい朝を迎えた。 桂川はいぜんと濁流が渦巻き、流木が波にもまれ浮き沈みして流されてゆく。猪の吉は洞窟の入口に佇み、自然の猛威を呆然と眺めていた。「猪の吉、お蘭の意識がもどった」 求馬の乾いた声がした。(もっと嬉しそうに出来ないものかね)と胸のなかで毒づきながら、猪の吉がお蘭の傍らに寄った。 「猪さんも一緒なんだね」 お蘭が長合羽の上に横たわり白い歯をみせた。 「よかった」「心配をかけてご免ね、みんな旦那のお蔭さ」 お蘭の顔に血の気が浮かんでいる。 「血色がいいよ、師匠」「傷口を確かめたが、思ったよりも浅手でじやった」 求馬が両人に傷口の様子を語った。「川が落ち着くまでは、二、三日は外に出られやせん。師匠にとって良い休養が出来やすよ」 「そうじゃな、お蘭、ゆっくりと休め」 求馬が手拭を濡らし、お蘭の額に乗せ替えた。 「すみません」 お蘭が申しわけない素振りをしている。 「師匠、このさいは甘える事ですぜ」「猪の吉、貝柱がある筈じゃ」 「へい」 素早く柳行李から取り出した。「体力を付けねばならぬ、これをゆっくりと噛むのじゃ」「はいな」 お蘭が貝柱を含み目蓋を閉じた。「焦りは禁物だ」 求馬が声をかけ焚火の傍に腰を据えた。「旦那、食い物はありやすか?」 「握飯が一食分は残してある」「あっしの方は、江戸から持参した非常食が大分残っておりやす」「うむ、水の心配はない。六紋銭も我等が水に溺れたと思っておろう、ゆっくりと休養いたそう」 求馬が三人に語りかけ、お蘭の顔に安心の色がみえた。「旦那、あたしの行李に瓢が三個入っていますよ」「そいつは豪勢だ」 猪の吉が嬉しそうな声をあげた。「お蘭、我等二人には酒がなによりのご馳走じゃ」「旦那も猪さんも、こんな山奥では暮らせませんね」 お蘭が軽口をたたいた。 「こいつは一本取られやしたね」 猪の吉が素っ頓狂な声を張り上げた。血風甲州路(1)へ
Mar 24, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。「お帰りにございますか」 玄関に飛び込むと番頭が驚き顔で出迎えた。「旦那はまだ居られますかえ」 と性急に訊ねた。「お連れのお方と明け五つ頃に出立なされました」 猪の吉は詳しい話を聞き、荷物をまとめて二人の跡を追った。「地蔵堂から、脇道があると番頭が云っていたな」 猪の吉は誰一人と通らない街道を急いだ、刻限は正午頃と思われる。 太陽が真上に位置している。 地蔵堂の傍らに茶店をみつけ、老婆から二人の消息を聞きだし、獣道のような脇道に入り込んだ。「これは?」 猪の吉の眼が鋭くなった、歩くに邪魔な小枝や枯れ木に鉈の跡が残っている、まだ、真新しい傷痕である。「旦那だ、これなら充分に追いつける」 と一心に先を急いだ。 暫く進み、猪の吉が空を仰ぎみた。重畳と連なる山々の峰から黒雲が湧きだすような空模様となってきた、時折、生暖かい風に変わり徐々に強まってくる。 「いけねえや」 雨の前兆と悟った。 こんな山中での女連れでは、旦那であっても苦労なされる、何処か風雨の凌げる場所に避難されておればいいが、猪の吉は自分の危険も忘れ小路を急いだ。 その頃、求馬は嵐のくることを予知していた。彼は桂川の水位の高まりを恐れた、この場所に洪水が襲ってきたら、お蘭を守りとおせない。 彼は入念に崖下を見て廻った。求馬の双眸が強まった、崖の岩の色に違いがあることに気づいた。彼の背丈あたりから崖の色や苔の様子が変わっている。 「ここまでが水に浸かった跡じゃな」 鋭く見極めた。 早く安全な場所はないかと崖下を見回り、避難場所としての格好の穴場をみつけた。そこは六尺ほど高い場所の洞窟であった。 求馬は迷わず足を踏み入れた、内部は乾いた砂で覆われ湿気も少ない。 ここに、お蘭と供に嵐を避けよう、そう思案し付近の枯れ草を刈り、その上に長合羽を敷いた。こうしてお蘭を横たえてから荷物を運びあげた。 彼は鉈を持って薪となるような枯れ木をみつけ、鉈をふるった。 それらも洞窟に運び入れた、これで焚火は完全である。残るは水の確保であった、水筒の竹筒は二個あるが、これでは凌げない。 再び河原にもどり周囲を見廻した。格好の得物が眼についた。それは流木として流れ着いた竹であった、もう乾燥して中はからからに乾いている。 手ごろの長さに切り、川水で内部を洗い水を入れて洞窟に運び入れた。 それらを砂に突き立てた、これで急場はなんとかなる。 求馬は枯れ木に火を点し焚火とした、洞窟内が炎で明るくなり、お蘭の様子もよく見える。額に手をあてたが熱は出ている兆候はない。 外は烈しい風雨となってきた、轟々と雷鳴が轟き稲光が洞窟まで奔りぬける。 求馬は柳行李から、握り飯の包みを取り出し一個を食べ、水筒の水で咽喉を潤した。益々、風音が強まり雨脚も烈しくなっている。 求馬は枯れ草に躯を横たえた。 その頃、猪の吉は風雨の中を必死で進んでいた。幸いにも求馬が先に進んだお蔭で迷うことなく前進が出来た。近くの大木に落雷がおち火柱がたったが、臆せずに突き進んだ、桂川の水位があがったようだ。 時折、足元に水が押し寄せ草鞋が濡れた。「やばい事になったぜ」 と独語し前方の暗闇を透かしみた。微かな明りが見えた。 「ひよっとすると旦那かも知れねえな」 猪の吉が足音を忍ばせ、熊笹を掻き分け洞窟にたどり着いた。「誰じゃ」 聞き覚えのある求馬の声であった。「旦那っ」 「猪の吉か?」 「へい、あっしです」 びしょ濡れの猪の吉が、洞窟に這い上がってきた。「風邪を引くぞ、火のそばに参れ」 求馬が枯れ木を投げ入れた。 猪の吉が着替えを終え、焚火のそばに寄り眼を剥いた。 お蘭が枯れ草を褥(しとね)として昏々と眠っている。「師匠は怪我でもしやしたか?」 求馬が六紋銭との死闘の有様を語った。「容態はどうです」 「今のところは大丈夫じゃ」「そうですか」 猪の吉が安堵の様子で焚火に手をかざした。「お主は、一晩、何をしておった」 訊ねる求馬の横顔が火に照らされ浮かびあがっている。「あっしも酷い目に遭いやした」 お駒との一件を告げた。「たまには女を抱くのも良い事じゃ」「抱かれたのは、あっしのほうでさあ」 猪の吉が憤りをぶちまけた。「抱こうと、抱かれようと同じ事じゃ」 珍しく求馬がくっくつと笑え声をあげている。 「そうは行きやせんよ、今度、会ったら目にもの見せてやりやす」 雷鳴が轟き青白い閃光が洞窟内を奔りぬけた。血風甲州路(1)へ
Mar 22, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 お蘭が岩陰から、求馬の後姿を蒼白な顔で窺がっている。そのお蘭の耳朶に、空気を斬り裂くような音が聞こえた。「旦那っ、危ない」 思わず叫び声をあげた。 求馬の腰から村正が白い光芒となって迸った。「かっー」 鋭い金属音がして足元に見慣れぬ飛び道具が落ちた。それは伊賀、甲賀の忍び者が使う手裏剣の役目をする飛び道具で、飛苦無い(とびくない)であった。「隠れずと姿を見せえー」 求馬が冴えた声をかけ、村正を脇備えとした。 崖から綱が投げ落とされ、それを伝って宙に身を躍らせた忍び姿の男が、数人河原に舞い降りてきた。 いずれも錏頭巾と茶の忍び装束姿の六紋銭の忍び者である。彼等は求馬の痩身を中心とし素早い動きで左右を廻りだした。 その輪の中で求馬は動きを留めている。「びゅつー」 求馬の背後に回った忍び者が飛苦無いを放った。 求馬の大刀が一閃し、苦もなくそれを跳ね飛ばした。「きえっー」 二人の六紋銭が跳躍し、求馬の痩身に襲いかかった。 抜きはなった村正は、血に飢えていた。 鋼の音が河原に響き、二人の大刀を弾きかえした。失敗した男が背後に着地しようとした瞬間、その背後に村正が生き物のように鋭く伸びた。ぱっと血飛沫が噴き上がり、痩身が風をまいて残りの一人に猛禽の如く襲いかかった。六紋銭の忍び者と求馬の痩身が交差した。 苦悶の声を洩らし胴を両断された男が、その身を河原にたたきつけた。 ざざっと敵の輪が広まった。「参る」 求馬が凛とした声を発した、それに誘われるように一人が前面を塞いだ。じりっ間合いを詰め生死の間仕切りを二人が踏み込んだ。「きえっー」 六紋銭が猛烈な攻撃を浴びせてきたが、求馬の動きは緩慢にみえた。にもかかわらず、襲った白刃は求馬の脇を虚しく流れた。 求馬の村正が左手から横殴りに、空間を裂いた。その線上に対手の首筋があり、悲鳴も洩らさず胴から離れ、血潮の帯をひいて河原に飛び去った。 あまりの冴えた腕をみせられ、六紋銭の忍びに戦慄がはしった。 見逃さず求馬の痩身が血をもとめ六紋銭の群に飛び込んだ。 刃がきらきらと輝き、その度に苦痛の声と血潮が吹雪いている。それは周囲の景色とあいまって不思議な光景を現出していた。 あまりにも血腥い光景である。「ぴっー」 鋭い指笛が響き六紋銭の生き残りが、一斉に潅木に身を躍らせ退いていった。先刻の闘いが嘘のように桂川の川音が響き静寂につつまれた。 河原の砂地に求馬が仁王立ちとなって大刀を構えている。「旦那っ」 悲鳴をあげお蘭が岩陰から駆けよってきた。「大事ない」 村正を素振り血潮を吹き飛ばした求馬が、ゆっくりと川辺に近寄り、村正を流れに浸し血糊を洗い流し懐紙で拭った。「お蘭、怪我はないか?}「はいな」 と答えた顔から、見る間に血の気が失せ河原に倒れ込んだ。「お蘭っ」 求馬がお蘭の躯を抱え起こした、左肩に飛苦無いの傷痕がある。かなりの出血のようである、今も流れつづけている。 求馬は傷口に手拭いをあて血止めを施し、印籠から薬を指ですくい傷口に塗布した。(わしの宿業はまだ続くのか) 求馬は長合羽を寝床代わりとしてお蘭を横たえ、己の宿業を呪った。己を慕う女子は皆、死出の旅に発つのか。 お蘭は意識を失い横たわっている。 求馬は崖下に荷物をまとめ、枯れ草を敷きつめ寝床を作りお蘭を移し、濡れ手拭を額にのせた。 「熱が出なければ良いが」 と独り言を呟いた。 急に空模様が変わり、生暖かい風が吹き始めた。「猪の吉さん、わたしは仕事にでかけますが、温和しく待ってておくんなさいよ。ご褒美に美味しい物を持って帰りますから」 お駒が妖艶な流し目をみせきえた。 「畜生め、人をこけにして」 猪の吉が、怒りをぶちまけるように独り言を呟き身をみんだ。「こんな縄なんて目でもねえ」 さかんに首や肩を捻っている。 そのたびに骨の鳴る音がして右肩の関節がはずれ、縄が緩んだ。 にやりと猪の吉の顔が笑いで崩れた。ついでに左肩の関節も外れた。 暫くして猪の吉が立ち上がった、この業も猪の吉が得意としていた、 長年の泥棒稼業で身につけた業のひとつであった。「あの女(あま)、どうしてくれようか」 この歳で縛られて女に嬲られるとは、思いもしなかった。しかし、忘れられない女である。「鶯のお駒、こんど会ったら覚悟するんだな」 と捨て台詞を残し逃れ去った。多分、旦那はおいらを信じて先を急がれた筈とは思うが、その確認の為にいろは屋へと急いだ。血風甲州路(1)へ
Mar 21, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 求馬は昨夜の豪勢な接待を断った、宴席の代金も含めて払ったのだ。 明け五つ(午前八時)に二人は猪の吉の安否を気遣いながら、いろは屋を出発した。空が鈍色におおわれているのが案じられる。二人はゆっくりと進んだ。「お蘭、猪の吉の用意した、非常食も忘れずに持参いたしたか?」「はいな」 充分に休んだせいかお蘭の顔色はよい、二人は桂川を眼下に見おろしながら街道を進んだ。 「甲斐とは山国とは聞いておったが、聞きしにまさる景観じゃな」 求馬も感心の面持ちをしている。街道の両側は鬱蒼たる樹木に覆われ、 名もしらぬ山々が、連綿として続いていた。 お蘭は、いつもの旅姿の道行き衣と菅笠に杖をもって求馬に肩を並べている。一方の求馬は黒羽二重の着流しに、左肩に柳行李を振り分けとし担いでいた。 お蘭は歩みながら、猪の吉の事が案じられてならなかった。併し、求馬が何も語らないために遠慮していた。あの猪の吉が六紋銭に後れを取るは思えないが、何故か心が騒いだ。旅籠を出て一刻半(三時間)ほど歩き通した。「旦那、あそこが地蔵堂でしょうかね」 お蘭が上気した顔で指を差した。 小さな地蔵堂の傍らに茶店が見えた。 「あそこで少し休もう」 二人は茶店の腰掛に腰をおろし茶を注文した。「旅のお人、何処に行かれますぞな」 店の老婆が不審顔で尋ねた。「野田尻宿じゃ」 求馬が渋茶を啜り答えた。「崖崩れで通れませんぞな」 老婆が気の毒そうに二人を眺めやった。「お婆さん、この地蔵堂から脇道があると聞いてきましたよ」「知っていなすったか、ひどい路じゃ。万一、路に迷われたら桂川に沿って西に向かわれるがよい」 「有難う」 お蘭が礼を云った。 二人は街道を外れ、老婆に聞いた箇所から潅木を分けた。急勾配の小路が続いている。まるで獣路のようである。 降りたつと桂川の碧い水がごうごうと音を響かせ流れる様は壮観な眺めである、ふり仰ぐと街道はまったく見えない。 西方を眺めると曲がりくねった隘路が続いている。「お蘭、足元に気をつけよ」 「はいな」 路の左手は桂川で右手は潅木が生い繁った、急峻な崖がつづいている。 途中には流木が路をふさぎ、何度となく迂回しながら先を急いだ。「旦那、なんだか気味の悪い路ですね」 お蘭があたりを眺めまわし、薄寒そうにしている。「辛抱いたせ、もう少し先にいったら休息いたす」 途中から求馬が、用意してきた鉈をふるって路を開いている。「まあー、綺麗」 突然、目の前がひらけお蘭が感嘆の声をあげた。 桂川の急流が緩やかに広がり、垂直に崖が天まで届くかのように切り立っている、崖の中ほどに生えた松の大木が路を覆っている。 もう、一刻は進んだ筈である、砂利や小石まじりの河原が広がっている。「お蘭、疲れておらぬか?」 求馬が気遣っている。「はいな、旦那と二人だけでこんな場所に来れるなんて夢のようです」「猪の吉が居ったら、妬くじゃろうな」 二人は並んで岩に腰をおろした。 やや天候が持ち直したようだ、厚雲が途切れ青空がのぞいている。「猪の吉はどうしたかな」 求馬が低くつぶやいた。「旦那も、矢張り心配なんですね」 お蘭が顔を曇らせた。 求馬が昨夜の、いろは屋での出来事を語って聞かせた。「曲者が忍んでいたんですか」 道理でとお蘭は合点した。 日頃の猪の吉らしくない、女の話が気になっていたのだ。「六紋銭に捕まったなんて事はないでしょうね」「あの男のことだ、今頃は跡を追っておろう」 求馬の相貌にも翳りが見える、急に心細さがお蘭を襲った。「お蘭、じっとしておれ」 求馬が低い声で囁いた。 「・・・・」「わしの合図で岩陰に身を伏せるのじゃ」 「六紋銭ですか?」「判らぬ」 求馬が村正の鯉口を緩めている。「伊庭求馬とみた、ここは地獄の路。待っておった」 突然、不気味な声が木霊した。 「お蘭、身を伏せるのじゃ」 小声で注意を与え、「六紋銭か、またもや命を捨てに参ったか」 冴えた声をかけ孤影をゆっくりと河原に向かって進めた。血風甲州路(1)へ
Mar 20, 2008
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励みになります、応援宜しくお願いいたします。 猪の吉が目覚めた。薄暗い寺の中のようだ、暗闇でもみえる猪の吉の視線にお駒の姿が、おぼろに霞んで映った。立膝の姿勢で湯呑みを口にしている。 傍らに竹の水筒が見えた。起き上がろうとした猪の吉が呻いた。 全身がんじがらめに縛られている。 「畜生、はめやがったな」「気がついたようだね」 「おいらに何を飲ませた」「眠り薬ですよ、わたしは鶯のお駒と言いますのさ」 お駒が近づき猪の吉の唇に唇をあわせ、口移しに酒を流し込んだ。 全身が熱く燃えてきた。 「何を飲ませた」「死にやしないよ、古くから伝わる媚薬だよ」 「おいらをどうする」 にっとお駒が笑いを浮かべた、壮絶な色気が漂い、立膝の白い太腿が猪の吉を刺激した。 「どうだえ、躯が燃えてきたでしよ」「・・・」 猪の吉が身をもんでもがいた。「ここは山奥の古い寺さ、叫んでも誰も助けにはきませんよ」 猪の吉の全身に熱い血潮の滾りが駆けめぐった。 「畜生ー」「憎い伊庭の片腕のあんたを殺そうしたが駄目でしたよ。あたしはあんたに惚れたよう」 むっとする女体の匂いに包まれ、お駒の手が裾を割って猪の吉の太腿を撫でさすった。ぞくっとする快感が背筋を奔りぬけた。「今夜は、わたしの男だよ」 ねっとりとした舌が猪の吉の舌に絡まり、股間が強張ってきた。 「やめろ」 「こんなになって止められますか」 艶然と微笑み、お駒の燃える手が猪の吉の一物を握りしめた。「立派な持ち物を持っていますね」 お駒が猪の吉の下帯を取り去った。「畜生」 猪の吉が躯をくねらせ逃れようもがいた。「駄目だよ、わたしからは逃れられないよ」 お駒が立ち上がり、帯を解く音がきこえる。するっと着物が肩から滑り落ち白い裸身が猪の吉に迫った。 「色気違いの女め」「そうさ、わたしは色気違いさ」 そのまま猪の吉の股間に顔が伏せられ、一物が暖かいお駒の口に銜えられた。暫く口で愛撫したお駒が顔をあげた。 切れ長の眸が塗れぬれと輝き、乱れ髪が口元にへばりついている。 そのまま立ち上がり、猪の吉の肩先を軽く蹴った。猪の吉が床に転がり着物が乱れ、一物が隆々と天を差している。 「逞しいねえ」 お駒が全裸で騎上位の姿勢で猪の吉の躯をまたいだ、秘毛と女陰(ほと)をあらわに晒し、お駒が一物を女陰に導き入れた。ぬらりとした感触を覚え、猪の吉が呻いた時には、お駒の胎内に深々と銜えられていた。 感極まった嬌声をあげるお駒の豊満な乳房が、猪の吉の目の前に上下し、お駒が歓喜の呻き声をあげ、豊かな腰がうねった。「わたしは、あんたに一目ぼれしたのさ。猪の吉さん、いいよー」 白い裸身が白蛇のように悶え狂っている、猪の吉が我を忘れお駒の躯に溺れていった。烈しい営みの末、猪の吉に限界が迫ってきた。「むっ」 腰が震い、お駒の女陰に快感の証しを汚濁のように放った。「わたしの躯に放ってくれたんだね、嬉しいよ」 お駒がうわごとのように囁き、烈しい息遣いが耳元に聞こえる。 再び、猪の吉の一物がお駒の胎内で硬くびくっいた。お駒の腰がうねり、猪の吉も忘我の世界に溺れていった。 (九章)「旦那、猪さんの身に何かあったんでしょうかねえ」 お蘭がさかんに心配している。 「猪の吉のことだ心配はあるまい」 ご飯に味噌汁、大根の煮しめ、小魚の甘露煮、山菜の佃煮を前にし、 二人は朝餉をとっている。お蘭の箸が進まない。「ご免下さい」 番頭が顔をみせた。「おや、お一人さまはいかがなされました?」 番頭が不審そうな顔をした。「心配は無用じゃ、少し用があってな外出しておる」「左様にございますか、これを主人から与って参りました」「野田尻宿に抜ける脇道の絵図じゃな」 求馬が絵図を広げた。 丁寧に描かれた絵図であった。 「番頭、ここが甲州道中じゃな」「はい、崖崩れはこの箇所でございます。しかし脇道は鶴川宿を迂回する事になりますので、かなりきつい道中となりましょうな」「ここが鶴川宿じゃな」 求馬が仔細に眺めている。「街道を西に進まれますと地蔵堂がございます。ここです」 番頭が指で差した。 「ここから脇道がございます」「女の足でどのくらいで着ける?」「まず二刻から二刻半なれば充分かと存じます」「色々と面倒をかけた。主人には宜しく申してくれ、これは代金じや」 求馬が一両差し出した。 「滅相な、お代なんぞ頂戴したら主人に叱られます」「早発ちをした男の荷物を与って欲しいのじゃ。いずれ受け取りに現われる、それに万一の用心に、握飯を二食分頼む。その為の代金じゃ」「判りました、でわ、与らして頂きます」血風甲州路(1)へ
Mar 19, 2008
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