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官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介(本文)戦争と経済と昭和天皇裕仁第一高等学校(旧制) 旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設されたナンバースクールの先駆けであり、1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設された。校名が第一高等学校に改称された1894年(明治27年)以降、一高の修学期間は3年となり、帝国大学の予科と位置付けられた。一部は法学・政治学・文学、二部は工学・理学・農学・薬学、三部は医学であった。また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類という分類となる。一高の卒業生の多くは東京帝国大学へ進学し、戦後、GHQの指導による学制改革に伴って1950年に廃止されるまで、総計18,633人の卒業生を出した。第一次世界大戦と敗戦国ドイツの賠償金第一次世界大戦におけるドイツの賠償金の総額は1320億金マルク ドイツの第一次世界大戦における連合国への賠償金の総額は1320億金マルク、現在の日本円で 200兆円。当時のドイツの国家予算の何十年分にも相当した。 ドイツには払える額ではない。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませた。そのため500億金マルクが連合国が考えるドイツが実際に支払える金額であった。 領土の取り合いという帝国主義戦争となった第一次世界大戦である。国が余ったお金で軍備を整え他国を侵略したのではない。軍備は公債の形式による借金でよって賄われた。領土の奪取は借金の穴埋めに有効である。ドイツに対してイギリス、フランスなど連合国が戦闘を開始し塹壕戦となり戦闘員900万人と非戦闘員700万人が死亡、歴史上、死亡者数の最も多い戦争となった。イギリス、フランス、ドイツのどの国も借金によって戦争をした イギリス、フランス、ドイツのどの国も借金によって戦争をした。国民からの借金は自国決済が付くものであるが、イギリスは外債を発行してアメリカ合衆国(米国)から借金をした。 現代の庶民の借金は収入を担保にして銀行からの借り入れによる不動産購入である。同じ形式によって1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけての第一次世界大戦におけるイギリス(グレー ト・ブ リテン)、フランス連合国とドイツは戦争をした。ドイツが連合諸国に支払う資金の大元は米国からドイツへの貸付金であった 主戦場であるヨーロッパ戦線とは離れて、背後に位置していたのが米国である。米国が参戦したのは1917年4月6日。1917年2月にドイツが対商船に対する無制限潜水艦作戦を再開したことが口実にされた。参戦した米国の役割はイギリス、フランスなどへの金融支援ならびに武器支援。イギリスは米国にお金を借りて、そのお金で米国から武器を買ってドイツと戦争をしていた。米国は参戦と同時に「自由公債法」にもとづき169億ドルの公債を発行、一部を自国の戦費調達に充用し、ほかを連合国への貸付け( 9憶2,300万ドル)た。貸付対象の80%はイギリスとフランス。 第一次世界大戦の最中、ロシアではユリウス暦の1917年10月25日(現在のグレゴリオ暦の11月7日)、ボリシェヴィキ革命がおきて社会主義政権が確立した。 戦争は借金によって経費が賄われる。1919年になって米国がイギリスとフランスなど連合国の諸国に融資(貸付)の償還を求る。連合国の諸国ははドイツからの戦争賠償金を返済に充てる。ドイツが連合諸国に支払う資金の大元は米国からドイツへの貸付金であった。米国のお金がドイツ、イギリス、フランスなどの諸国の負債の帳簿に記載され、ぐるぐる回っているといのが実態で、1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦の戦費調達に係る米国からの貸付金残高は44億ドル。全てを返し終わったのは2015年である。ドイツから米国への貸付金返済は1931年に反故にされた。 第一次世界大戦において日本軍は、イギリス軍とともにドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日から 11月7日)。太平洋におけるドイツ領を全て奪取。ドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇は、ドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開、出雲は第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。 日本軍は、19世紀後半から20世紀初頭に発生した戦争、日清戦争、日露戦争に勝利している。 日清戦争はm1894年に朝鮮をめぐる清との勢力争いをきっかけに開戦。1895年に下関条約によって日本は台湾を領有。清は敗戦により弱体化し、イギリスやフランス、ロシアなどが清に進出して経済的な利権を手にした。 日露戦争は、1904年にロシアが満州を事実上占領し、韓国への進出をうかがっていたことをきっかけに開戦。1905年のポーツマス条約によって朝鮮の外交権を奪い、韓国統監府を設置。また満州では、南満州鉄道株式会社をつくって満州の経済的な利権を拡大した。第一次世界大戦とロシア革命第一次世界大戦とロシア革命 ロシア革命は1917年にロシア帝国で起きた2度の革命を指し、1度目の革命は二月革命、2度目の革命は十月革命。ロシア帝国からソビエト連邦社会主義連邦に変わった。 第一次世界大戦で困窮したロシア民衆によるペテルブルクでの「パンよこせデモ」をきっかけとする二月革命、レーニン率いるボリシェヴィキ派による兵士や労働者とが連携した十月革命と社会主義政府の樹立。 レーニンのボリシェヴィキは、地主制の廃止や主要産業の国有化など社会主義政策を採った。マルクス主義に基づく労働者解放を目指す社会主義運動が勢い付いた。ロシア革命は、20世紀において最も巨大な意義をもった社会変革となり、その後の世界情勢を変えた。 日本は江戸期以来ずっとロシアとの勢力争いをつづけ、明治期以降は満州を巡って陣地の取り合いをしてきた。社会主義ロシアが成立してからは、資本主義日本において社会主義思想との抗争があり、これを抑えることを基本政策にしてきた。第二次世界大戦後の日本では社会主義思想への傾倒が起こり、かなりの割合でソビエト連邦を理想とする社会主義経済への希求があった。「社会主義の弊害と資本主義の幻想」ローマ法王パウロ二世 後になってみれば「社会主義の弊害と資本主義の幻想」というローマ法王パウロ二世による1991年の「レールム・ノヴァルム(回勅)」が、すべてを公平に物語っている。これとてあとになって振り返ってみればということであり、1945年には混沌としている状況であった。中国を社会主義国と規定すると1950年ころには人口だけを抜き出してみれば世界人口の三分の一が社会主義国の下で暮らしていたのである。 ローマ法王パウロ二世の1991年回勅(かいちょく)は、資本主義と社会主義という2つの経済体制の双方に批判的な視点を向けている。ローマ法王パウロ二世は、スターリン時代のポーランドで育ち、ソ連や東欧社会主義の悲惨な状況を経験。ポーランドは19世紀後半の産業構造の変化による不況で労働事情が悪化していた。資本主義国では少数の資本家が富を独占し、行き過ぎた資本主義によって労働者が貧困に苦しむ状況にある。資本主義と社会主義(共産主義)とも、現実的には社会の生産力の発展とその時代における望ましい人の暮らしを実現させてはいない。資本主義と社会主義という2つの経済体制を超えて、すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保されるべきことを強く訴えたのである。また過去半世紀における経済発展は自然環境の破壊を地球的規模で拡大化したたことを憂えた。1991年回勅は、カトリック教会が伝統的農村から新興都市部の労働者に支持を広げることを考慮したと言ってよい。戦後日本の社会体制の決定したものロマノフ朝ニコライ2世の革命政府による処刑 ニコライ2世は1918年(大正7年)7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で殺された。皇帝ニコライ2世と妻のアレクサンドラ・フョードロヴナ、夫妻の5人の子供オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシア、アレクセイと幽閉先に同行することを選んだ人すべてが銃撃、銃剣突き、銃床での殴打によって。同行者にはエフゲニー・ボトキンやアンナ・デミドヴァ、アレクセイ・トルップ、イヴァン・ハリトーノフが含まれていた。ウラル地区ソビエトの命令により、ヤコフ・ユロフスキーが指揮するボリシェヴィキ軍によってなされたとされる。 300年に及ぶロマノフ朝は、1917年のロシア革命でその幕を閉じた。ニコライ2世は、1917年3月22日には、ロシア国君主ではなくなっており臨時政府により家族や侍従たちとともに軟禁状態に置かれ、幽閉生活を送っていた。1917年8月、臨時政府首相のアレクサンドル・ケレンスキーは、高まる革命の動乱から一家を保護するという名目で、ロマノフ家をトボリスクに避難させた。そこで一家は元知事の邸宅に住み快適な生活を送った。1917年10月にボリシェヴィキが権力を握ると、幽閉はしだいに厳格なものになり、ニコライを裁判にかけることが議論されるようになった。1918年3月1日、一家に与えられるのは兵士への配給品のみになり、家族はバターとコーヒーを諦め、献身的な10人の召し使いとも別れなければならなかった。ボリシェヴィキが力を増すにつれ、政府は4月にニコライとアレクサンドラ、娘のマリアをヴァシーリー・ヤコヴレフの指揮の下、エカテリンブルクに移送した。アレクセイは酷い血友病を患っており、両親と同行することはできず、姉妹のオルガやタチアナ、アナスタシアとともにトボリスクに残った。アレクセイらがトボリスクを離れたのは1918年5月になってからだった。 ロマノフ家への総処刑は反革命軍の利用を恐れてのものか、それまでの圧政と人民弾圧への報復か、それの総合か。決め手はないが革命の動乱がもたらしたものである。ボリス・エリツィン大統領は1998年に行われたロマノフ家の国葬で、この殺害はロシア史上最も恥ずべきページの一つであると述べた。 レーニンはロマノフ朝を300年の不名誉である「帝政の汚物」とし、ニコライ2世を「ロシア人民の最も憎むべき敵で血の死刑執行人、乱暴な憲兵」、「王冠を被った強盗」と言及したとされる。フランス革命とブルボン王朝国王ルイ16世の処刑 国王ルイ16世は「祖国と革命に対する裏切り」の罪で、1793年1月21日に処刑れた。1789年に始まったフランス革命によってブルボン王朝は倒される。贅沢を尽くした結果とされる財政難のために、ルイ16世は貴族への重課税を課すなどしたためにパリ市民が蜂起してフランス革命が勃発。1791年6月21日にマリ・アントワネットと国外逃亡を企て失敗。1792年8月10日にパリのサンキュロットが決起してテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世とその家族をタンプル塔に幽閉。1793年1月14日の投票は、全員一致でルイ16世の有罪とし、16日夜の投票で死刑が。1793年1月21日午前10時22分、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首された。 立憲君主制を採るイギリス王室は社会主義革命が起これば国王ルイ16世あるいはロマノフ朝のニコライ2世と同じ道を想起しなければならない。日本では徳川の武家政権を打倒した新政府は日本国の王の天皇家を担いで立憲民主制を制度とした。英国王室とともに日本の天皇と皇室は社会主義革命がもたらす運命は切実である。 日清、日露の隣国との戦争に勝利し、第一次世界大戦では日英同盟を名目にドイツを敵国として戦勝国になった。幕末に英国、フランス、ロシア、米国の支配下に置かれかねなかった日本国であり、明治新政府は列強に伍するべく富国強兵策で対応する。三つの戦争での勝利は軍事大国日本こそ生きる道と思わせた。 戦争は全てにおいて自国には開戦の理屈を立て、これに国民が同意する。朝鮮併合、満州国建国、台湾併合はすべて領土拡大である。 満州国建国における満州族、漢民族、蒙古族、朝鮮族、日本民族による五族協和。1932年建国の満州国の実権は日本人にあった。 人種、民族、宗教などの差別なく一つの家に暮らす八紘一宇(はっこういちう)と日本を盟主としてアジア諸国を欧米の植民地支配から解放する共存共栄を謳った大東亜共栄圏。日本が実権を握り、日本のためのアジア諸国という日本の帝国主義支配思想とその実行。見事な文句であり普通の日本国民だけではなく知識人までもこの言葉のようになることを望み、その目的のために突き進んだ。そのための軍事であり軍隊であり、兵隊であり徴兵制であった。 朝鮮併合、満州国建国、台湾併合と大東亜共栄圏が崩れることは日本の敗戦である。世襲のような高級将校世襲の様相を呈していた高級将校 まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政が成り立つはずは無い。が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の「少年のような希望」であった。この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。 上はテレビドラマ、司馬遼太郎「坂の上の雲」の冒頭ナレーションである。 陸軍士官学校および海軍兵学校は、師範学校および高等師範学校と同じように学費の要らない出世の登竜門であり、軍の学校は俸給さえ出たのである。読書階級である旧士族はこれまでの道の延長として軍の学校への進路を求め軍人になった。明治に始まった職業としての軍人としての高級将校は昭和20年(1945年)までは確実に続いた。傷病などを含めて軍人の子弟は士官学校あるいは軍の幼年学校への進路で優遇されていた。国民皆兵、皆が軍人になる世の中では、同じなるなら将校への道を進むことになる。そのような事情もあって高級将校の子は高級将校への道を選んだ。 高級将校としての軍人の生きる道はいつまでも軍があることなのだ。第一次世界大戦の敗戦国ドイツの事例のように負ければ賠償責任が課せられ、国は疲弊し軍人の地位と権威は崩壊する。また軍そのものが解体される。戦争における政治目的は軍人からは排除される。勝ち負けの度合いはない。勝ち三、負け七であっても良いことなのだがそれを自らは許さない。日清戦争と日露戦争に勝利した日本軍 死に物狂いで戦った日清戦争と日露戦争に偶然にも勝利した日本軍の幹部は戦えば必ず勝つという思いを幼稚な知性のなかに刻んだ。それは江戸幕府を謀略まがいのことまでして打ち負かしたことに起源を発しているかもしれない。 米国との開戦一年後から外務省が諸国の領事館から報告される通信で掴んでいたのは米国に勝てる見込みはなく、1944年8月にはもはや敗戦必至ということである。中国での戦線、南方での戦線でも軍幹部自らが敗戦必至であることを知っていた。日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である大本営は、大日本帝国憲法下において天皇が有する統帥権のもとにあることを利用して、どこまでも戦争を引き延ばした。本土の都市部を焦土とされ、広島と長崎を原子爆弾で壊滅させられ、ソ連の満州進行によって降伏を余儀なくされた。昭和天皇裕仁秘録 昭和天皇裕仁「拝謁(はいえつ)記 NHKの取材陣が発掘しドラマ仕立てにしたのがNHKによる初回放送日2019年8月17日の「昭和天皇は何を語ったの-初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記-」は、初代宮内庁長官として昭和天皇のそばにあった田島道治の『拝謁記』である。 1949(昭和24)年から4年10か月の記録には、昭和天皇の言動が、田島との対話形式で克明に記されていた。敗戦の道義的責任を感じていた昭和天皇は、当初「情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」としていた。さらに1952年の独立記念式典の「おことば」で戦争への反省に言及しようとする。しかし吉田茂首相からの要望で、最終的に敗戦への言及は削除されていく。その詳細な経緯が初めて明らかになった。番組では、昭和天皇と田島長官の対話を忠実に再現。戦争への悔恨、そして、新時代の日本への思い。昭和天皇が、戦争の時代を踏まえて象徴としてどのような一歩を踏み出そうとしたのか見つめる。 「昭和天皇拝謁記」は、初代宮内庁長官の田島道治が就任した半年後の昭和24年2月から長官を退いた昭和28年12月までの4年10か月余りの間の拝謁の記録。手帳とノート合わせて18冊に記されている。「拝謁記」は日記とは別に、昭和天皇などと面会した際のやり取りなどを記録していたもので、長年遺族の元で極秘に保管されていた。 「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「詳しくて生々しい昭和天皇の肉声がいっぱい書かれているので非常に驚いた。発言の要旨ではなくほとんど昭和天皇がしゃべったままの言葉が書かれていると思う。昭和天皇の肉声をこれほど継続的に詳しく記録した資料は他に例がなく、今後昭和史を研究する上で超一級の基本資料になる」と述べる。拝謁(はいえつ)記が伝える天皇裕仁の戦争への態度 昭和天皇裕仁は敗戦色濃厚な中にあって一撃反撃講和にこだわっていた。1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満洲(現在の中国東北部)の遼寧省瀋陽市近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、関東軍が南満洲鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である柳条湖事件。柳条湖事件は満洲事変の発端となった。つづく盧溝橋事件ほか中国戦線における日本軍の軍事行動は陸軍の大佐、中佐などが勝手にやったことだと捉えている。これらの事件のどこかの時点で戦線を納める時期はあったのにその判断を政府も軍もしなかったと考えていた。穏やかでないニコライ2世と王ルイ16世の処刑 ロマノフ朝ニコライ2世の革命政府による処刑、 ブルボン王朝国王ルイ16世の処刑というロシアとフランスにおける革命が絶対君主を処刑の事例を自分と重ねて昭和天皇裕仁が考えたことであろう。ドイツにおけるヒトラー、イタリアのムッソリーニの末路は天皇裕仁と重なる。いたたまれない筈だ。昭和天皇裕仁の民主主義は五箇条の御誓文 五箇条の御誓文は、明治天皇が1868年(慶応4年)3月14日に京都御所の紫宸殿で発表した、明治新政府の基本方針。天皇が神に誓う形で出され、日本の民主主義の基本と普遍的な理念が示したことになっている。五箇条の御誓文の内容と現代語風表記。第一条 広く会議を開き、万機公論に決すべし。(政治は人々の話し合いで決める)第二条 上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。(身分の上下を問わず、心を一つにして国を治める)第三条 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。(役人や武士、庶民など、身分の違いを超えて、それぞれの志を実現できる社会を目指す)第四条 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。(悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいて行動する)第五条 智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。(知識を世界に求めて、天皇の統治の基礎をふるい起こす)「広く会議を開き、万機公論に決すべし」その対象として描かれたのは江戸時代における各藩の藩主とされる。る国体の護持と戦後の昭和天皇裕仁 日本国は昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報を打った。8月12日に返ってきた回答の解釈を巡って騒動が起きた。外務省は「subject to」を「従属する」ではなく「制限の下に置かれる」、「form of government」を「政治形態」ではなく「政府の形態」と意訳した。政府であれば天皇は含まれない。陸軍など抗戦派の反発を恐れての、精一杯穏やかな表現だった。すでに陸軍も回答を入手し抗戦派は「隷属する」と訳していた。抗戦派は激高し参謀総長と軍令部総長がそろって参内し昭和天皇に受諾拒否を求めた。 この回答ではでは国体護持は危い、徹底抗戦しかないと両総長は憤慨したのである。これに対し昭和天皇は「至極冷静に」対応したと、当時参謀次長だった河辺虎四郎が戦後に回想している。「梅津総長が(皇居から)帰って来られたとき、上奏の際の模様をたずねたところ、天皇は至極冷静に総長の申し上げることをお聴きの後、公式の敵側の返信でもない放送、しかもその日本の訳語もよく練ったものかどうかも疑わしいのに、それをつかまえてやかましく議論立てすることなど、つつしむべきだと、両総長をむしろ戒められるおちを拝したとのことであった」という。1945年8月14日の抗戦派参謀のクーデター日本のいちばん長い日 軍部のクーデターと8月15日 抗戦派は1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となってクーデターを起こした。「8月15日事件」または「宮城事件」であり、半藤一利実録小説『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』が、1967年に岡本喜八を監督として配給、上映された。 陸軍幹部と近衛師団参謀によって起こしたクーデターは、近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害し、師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠、陸軍首脳部と東部軍管区の加担を求めて、これに失敗した。これにより玉音放送と日本の降伏表明は予定通り行われた。参謀本部佐官の反乱者氏名 クーデター参加したのは次の軍人たち。 陸軍省参謀本部では、荒尾興功大佐(陸軍省軍務局軍事課長、陸士35期)関与、稲葉正夫中佐(陸軍省軍務局軍事課編制班長、陸士42期)関与、井田正孝中佐(陸軍省軍務局軍事課員、陸士45期)首謀・自決断念、竹下正彦中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班長、陸士42期)発端文書作成、椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課員、陸士45期)首謀・失敗後自決、畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課員、陸士46期)首謀・失敗後自決。 第12方面軍兼東部軍管区では、古賀秀正少佐(参謀、陸士52期)関与・自決。 東京防衛軍警備第3旅団では、佐々木武雄予備役大尉(横浜警備隊長)民間・関与。 その他では、上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長、陸士55期)自決。 日本国憲法の制定によって天皇条項は、第一章天皇〔天皇の地位と主権在民〕、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされた。昭和天皇裕仁と国体昭和天皇裕仁における国体のありさま 降伏の条件に国体の護持を求めたが無条件降伏となった。軍人たちが考えた国体とは天皇主権であった。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の既定の下、昭和天皇裕仁がなしたことは戦後巡幸であった。 1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に各地を巡る巡幸である。演題に天皇が立ち手を振るのに和して集まった大勢の国民が万歳をすることは戦後における天皇と国民の間を取り持つ関係としての国体として昭和天皇裕仁は理解していた節がある。 平成天皇明仁は美智子皇后とともに巡行し、国民とは対面して話を聞くことを主な内容とした。令和天皇徳仁は被災地を見舞うことが多く、雅子皇后とともに国民とは膝を交えて対応する。終戦の詔勅 1995年8月15日の玉音放送 終戦の詔勅の玉音放送は、1945年(昭和20年)8月15日正午にラジオで放送された。皇居表御座所で録音盤に吹き込んだ昭和天皇自身の声による「終戦の詔書」が予定通りに。8月14日の閣議でポツダム宣言を受諾したことに伴なう無条件降伏である。前線の日本軍将兵や外地の在留邦人の耳にも届くように海外放送も行われた。 玉音放送は事前に伝達されていた。雑音で音声を聞き取れなかった地域は多い。天皇の言葉の意味が聞き分けられなかったという人がいる。戦況を知っている者には意味することが直ぐに飲み込めた。 東京大学を仮卒業して外務省に嘱託官として勤めていた男は次のように証言する。 八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞 く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。 その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦にいたる戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。2025-01-21-no21-bureaucracy-and-measurement-by-war-economy-and-showa-emperor-hirohito-[資料]経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介├├├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
2025年01月31日
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生成AI企業DeepSeekとは 開発コストの安さDeepSeek-R1の衝撃 解説速報├計量計測データバンク ニュースの窓-181-生成AI企業DeepSeekとは 開発コストの安さDeepSeek-R1の衝撃 解説速報├├├中国の生成AI企業「DeepSeek」とは? 注目集める理由と利用リスク | 日経クロステック(xTECH)├中国の生成AI企業「DeepSeek」とは? 注目集める理由と利用リスク馬本 寛子 日経クロステック/日経NETWORK 2025.01.29 中国のAI(人工知能)開発企業、DeepSeek(ディープシーク)が注目を集めている。2025年1月27日(米国時間)にマルチモーダルなモデル「Janus-Pro」を公開した。AI向けオープンソースプラットフォームのHugging Face(ハギングフェース)で70億パラメーターの「deepseek-ai/Janus-Pro-7B」をMITライセンスで公開した。 それ以外にも、2025年1月に入ってからiPhoneやAndroid向けに生成AIチャットアプリ、性能を高めた大規模言語モデル(LLM)「DeepSeek-R1」など、次々と新サービスを公開し、話題を呼んでいる。ディープシークは2023年に中国・杭州で梁文鋒氏が設立した企業。2024年12月にLLM「DeepSeek-V3」を公開した。 日本国内でも反応する企業が出始めた。サイバーエージェントは2025年1月28日、「DeepSeek-R1-Distill-Qwen-14B/32B」に日本語データで追加学習をしたLLMをHugging Faceで公開した。安価な利用コストで注目 ディープシークが今、急速に注目を集めている理由は、性能に対する利用コストの低さにある。DeepSeek-R1の公開以降、SNS(交流サイト)などで話題になり始めた。オープンソースとして公開している点や米OpenAI(オープンAI)のLLM「o1」に近い性能にもかかわらず無料で使える点が特に話題になっている。 同社の論文で示すDeepSeek-R1のベンチマークではオープンAIのo1などと比較し、どれも同等の結果を示していることをアピールしている。例えば数学のテスト「AIME 2024」ではDeepSeek-R1が79.8%、オープンAIの「OpenAI-o1-1217」が79.2%の正答率となった。特に、推論・数学・コーディングなどのタスクを得意とする。 また、このDeepSeek-R1をベースとして動く生成AIチャットも無料で利用できる点も注目度を一気に高めた要因といえるだろう。これに対し、オープンAIのo1を使うためには「ChatGPT Plus」プランを利用し、月額20米ドルを支払う必要がある。 API(アプリケーション・プログラミング・インターフェース)を利用する場合は、入力トークン数と出力トークン数に基づいて料金を支払う。こちらもo1と比較して優位であるとディープシークは主張する。同社の資料によれば、100万トークンの入力(キャッシュミスの場合)はDeepSeek-R1は0.55米ドル、o1は15米ドル。100万トークンの出力においては、DeepSeek-R1は2.19米ドル、o1は60米ドルだ。約30倍の違いがある。中国DeepSeekが論文で示したDeepSeek-R1のベンチマーク(出所:中国DeepSeek)[├├松田語録:DeepSeek-R1の衝撃〜OpenAi o1に匹敵する中国AI2025/01/28 収録日:2024年1月24日 シンギュラリティサロン主宰の松田卓也神戸大学名誉教授の健康や学習に関連する日ごろのお考えを皆さんにお伝えします。今回は中国AIであるDeepSeek-R1について。├├中国の生成AI企業「DeepSeek」とは? 注目集める理由と利用リスク | 日経クロステック(xTECH)├├【DeepSeek速報解説】40歳の超新星/超低コストで開発できた3つの工夫/OpenAIとGoogleの脅威ではない/NVIDIAのピンチか?/オープンソースで公開した狙い/米中対立への影響├├【DeepSeek】米テックを抜く?AI専門家「超すごい」開発コストの安さとド根性に驚愕…スターゲート計画は?東大で7千人受講希望の研究者が解説|アベヒル
2025年01月30日
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月30日号「日本計量新報週報デジタル版」日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25品質工学座談会 品質工学は計測技術にどう貢献したのか―2014年座談会「品質工学は計測技術である」から10年を振り返って―2024年10月5日開催(日本計量新報座談会)品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量管理の解釈と必要な変革の実行計測でも科学でもない数値の強調と人の健康小さな島と青い空と砂浜日本海の海に小さな島があり砂浜と青い空と海が広がっていた。ここは糸魚川河口、青海町そして親不知港ちかくである。2023年12月9日13:20に撮影。20日後に能登に大地震が発生し津波が押し寄せた。このようなことなど思いもよらないことで松葉ガニを食べ海を見て喜んだ。高崎ナンバーの二人の釣り人はシーバスの釣り具を抱えて海から上がってきた。遠くにでかけて少しのヤンチャか冒険に心が躍っていた。写真と文章は森龍之。世界経済の5割から2.5割に低下し中国がそれに迫る新時代の秩序が模索されている経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点写真はボーイングB-29スーパーフォートレスの製造のようす。B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。初飛行は1942年9月21日。生産数は3,970機。運用開始は1944年5月8日。日本の無条件降伏を戦略目標に、軍事施設と主要都市を爆撃して戦力を奪う作戦として実施した。日本の主要都市は焦土となり、東京大空襲では一夜にして10万人が焼け死んだ。マイクロソフト、アップル、アマゾン マイクロソフト、アップル、アマゾン、カルフォルニアの半導体地帯という言葉が怒涛のように脳に飛び込んでくる。世界経済はアメリカ合衆国(米国)が完全支配している印象になる。第一次、第二次大戦の戦費、兵器供給と米国 第一次世界大戦の戦費を敵対国がともに米国から借りており、敗戦国ドイツから英国などへの賠償金の支払いは米国からドイツへの貸し付けによってなされていた。第二次世界大戦の日中戦争では米国から武器弾薬が中国に供給され、英国、仏国など連合国の対ドイツ戦線の武器も同じように米国から供給された。 第二次世界大戦における日米戦争が始まると米国では婦女子を動員して兵器製造に全力を挙げた。米国の無条件降伏を目的とした日本焦土作戦 米国の対日戦争の戦略は戦闘において日本軍の戦力を粉砕し、武装を失った政府に無条件降伏させることであった。これは第一次世界大戦における対ドイツ戦線での米軍の行動の延長であり伝統的作戦となっていた。 アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃隊の司令官や一部の海軍将官にとって、この伝統的作戦は目的というよりは手段であった。 日本の軍需産業と都市爆撃は躊躇なく実施された。野坂昭如の火垂るの墓は、神戸市界隈への都市爆撃にによって路頭をさまようなか4歳の妹が栄養失調で死んでいくことを描いている。このとき作者は14歳であった。日本は石油の7割を米国に依存していた。これを止められ、また預金を封鎖された。満州、中国から手を引けという条件であった。B-29エノラ・ゲイとB-29ボックスカーによる原爆投下米軍の対日作戦のその戦略は日本を焦土として戦闘能力を奪い無条件降伏させることである。そのための作戦行動の中心はB17爆撃機の後継で能力が大きく向上した超大型爆撃機B-29であり、1945年5月以降にボーイング社以外の工場でも生産体制を築いて大増産している。長距離侵攻能力を生かして日本本土への戦略爆撃に使用された。B-29エノラ・ゲイとB-29ボックスカーの2機は広島、長崎へ原子爆弾を投下した。1944年7月9日のサイパン陥落などによって南部マリアナ諸島を出撃基地として日本の主要都市が射程となった。米国戦略爆撃調査団(USSBS)発表では日本本土を爆撃したB-29の延べ出撃機数 33,401機、作戦中の総損失機数485機、延べ出撃機数に対する損失率1.45%、作戦中の破損機数2,707機、投下爆弾 147,576トン、搭乗員戦死 3,044名。 アメリカ空軍第9爆撃航空団統計によるB-29所属部隊の戦績と損失は次のとおり。 第20空軍1944年6月5日以降。作戦数380。戦闘出撃機数 31,387。その他出撃数1,617。出撃機数合計33,004。投下爆弾・機雷トン171,060。戦闘損失数494。アメリカ本土での訓練損失260。損失合計754。搭乗員戦死576。搭乗員行方不明2,406。搭乗員戦傷 433。搭乗員死傷者合計3,415。1945年8月、日本軍の航空機実戦配備 6,000機(すでに38,000~50,000機を失う) 日本軍のサイパン基地陥落前後における日本軍の航空戦力の状況はどうであったか。 日本軍は1945年8月当時、まだ約 6,000機の航空機を実戦配備していたが、帝国陸海軍の航空部隊はすでに38,000~50,000機と、それらを操縦していた搭乗員の大多数を失っていたと推計される。日本の陸軍兵士は6人に1人の割合で戦死したのに対し、海軍水兵は4人に1人の割合で戦死していた。200万人以上の帝国陸海軍人が戦死したが、生存者も 500万人以上にのぼる。ピーク時の1943年には 873,000トンであった油槽船隊が1945年にはその4分の1の規模にまで縮小していた。 都市爆撃によって、少なくとも50万人の日本の民間人が死亡。本土在住の国民の12分の1に当たる。これらのことは敗戦時の日本の状況を表す指標の一つである。開戦時日米の経済格差は1対20(陸軍主計大佐新庄健吉の現地調査) 第二次世界大戦終結時における世界の富の二分の一を米国が保有していたといわれる。開戦時の日米の国力比較を軍の命令でしたのが陸軍主計大佐新庄健吉である。 新庄健吉は1941年(昭和16年)1月にアメリカ出張を命ぜられた。新庄の任務は日米戦争にかかわり米国の国力と戦力を調査である。4月に米国に到着して以来、すべて公開されている統計情報をつうじて調査は実施されたとされる。政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。調査のための場所に選ばれたのはエンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店で、ここに新庄は机を置いた。表向きの身分を三井物産社員。米国が世界一の工業生産力を持つことははっきりしていたがこれを確かな形で確かめた。重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3であった。米国国力を調査した陸軍主計大佐新庄健吉 米国国力を調査した陸軍主計大佐となった新庄健吉は異色雄経歴をもつ。 1897年(明治30年)9月30日農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業。同年12月、陸軍三等主計(少尉相当)に任ぜられ、歩兵第62連隊附。1923年(大正12年)6月、陸軍経理学校高等科に入り、1925年(大正14年)5月卒業。陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入る。1927年(昭和2年)3月、一等主計(大尉相当)に進級し、1928年(昭和3年)3月、経済学部を卒業、大学院に進み経営経済学を学び1930年(昭和5年)3月、大学院を修了する。1935年(昭和10年)11月からソビエト連邦・ポーランドに軍事研究員として駐在。1941年(昭和16年)1月、参謀本部附仰付、アメリカに出張を命ぜられ同年4月ニューヨークに赴任。重工業分野は1対20、化学工業1対3、全体は米国が日本の20倍の産業力 第二次世界大戦終了時において米国は世界の富の半分を保有していたことになっている。日米大戦の開戦時の1941年の日米の経済の状態を陸軍主計大佐新庄健吉の調査では重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3であったと調べ上げた。全体としても日本の20倍の産業力を保有していたのが米国である。 陸海軍の軍備は軍縮会議で決められた内容に沿うものであるから日本1、米国20ではない。しかし第二次世界大戦欧州戦線の展開とともに米国は兵器の増産体制に移り、1944年には日本本土の都市を爆撃することを目的とした超大型爆撃機B29の大増産を始めた。軍需産業はことごとく爆撃され、都市は焼き尽くされた。1945年3月10日の東京大空襲は単なる絨毯爆撃ではなく円形に焼夷弾を投下することによって下町の住民10万人を死亡させた。2021年の世界GDP比率は米国24.1%、中国18.3%、5.1% 時が下って2021年の各国の国内生産はどのようになっているか。 米国の世界GDPに対する比率は24.1%、中国の比率は18.3%、日本は5.1%、ロシアは1.8%。日米の差(比率)は1941年と変わらないが中国と米国が拮抗するようになった。1.8%のロシアが米国と対抗して東西冷戦と騒がれていたことが不思議である。米国の兵器産業は日本のGDP700億円相当 米国における兵器産業の状態である。 2015年において米国の上位10社の軍事企業の売上高は41兆円。関連する企業などの売上高を総計すると日本のGDP700億円に迫ると想像される。米国における軍事産業は世界平和あるいは地域紛争と密接にかかわる。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イランとイラクの戦争、アフガニスタンの内紛、ウクライナ戦争などは、米国が製造する兵器の消費の場であった。軍事産業を宇宙開発に振り向けてきた事情があるが、宇宙開発はGPSを生み出し、ミサイル、無人攻撃機などにつながっている。ウクライナ戦争から2025年2月で三年に ロシアのウクライナ侵攻によるウクライナ戦争は3年を経過する。ウクライナのNATO加盟に連動する西側の動きはロシア領への西側の圧迫である。一連の動きはロシアにはミンスク合意の破棄と受け止められている。ロシア・ウクライナ危機が対立の激しさを増し、2022年2月21日にロシアはドンバス地域の独立を承認し、翌22日ウラジーミル・プーチン大統領は会見で、ミンスク合意は長期間履行されずもはや合意そのものが存在していない、として破棄を宣言した。24日にはウクライナの非軍事化を目的とした特別軍事活動を承認し、ロシア軍によるウクライナへの全面侵攻が開始された。ウクライナのGDPはロシアの10分の1以下、人口は2割 ウクライナのGDPはロシアの10分の1以下。ロシアは米国の155の1。戦争が国力の総合で争われるものだとするとウクライナ軍の戦闘は異例である。NATO加盟国の軍事援助、米国による特別な武器支援がなければ戦えない。ウクライナ戦争に関係する各国のGDPと人口である。戦争に関連した各国のGDP 戦争に関連した各国のGDP世界の名目GDP(USドル)は次のとおり。(単位: 10億USドル) 1位アメリカ27,720.73。2位中国17,758.05。3位ドイツ4,527.01。4位日本4,219.83。11位ロシア2,009.96(人口1億3千万人)。58位ウクライナ178.34(人口3千4百万人)。(以上2024年10月23日付け)戦争の動機とその発端 第一次大戦とサラエボ事件 ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商の対立は領土拡張を動機を背景に、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公暗殺のサラエボ事件を契機に始まった。ウクライナ戦争をこれに対比するのは発想の飛躍に類するが事情は複雑である。ロシア語を話す人々が多く暮らす地域でロシア語を公用語から外したこと、これに伴なってロシア系住民の20万人以上がウクライナ領から去ったこと、など。ウクライナ戦争とロシアが求めるミンスク合意へのこだわり ロシアはミンスク合意の地域の確保にこだわる。和平協定は結ばないかも知れない。和平協定を交わしてもミンスク合意による領地への思いは捨てない。経済規模では小さな国のウクライナと決して大きくはないロシアの紛争に外部評価としての正義の刃をふるうことは難しい。新し世界秩序への模索の入り口になったウクライナ戦争 大きかった米国の世界経済に占める地位は50%から25%へと縮まり、中国が米国に迫り、インドがそれを老い、米国の相対的地位が低下している。低下した米国経済に占める軍事産業の比率は高く、米国の軍事産業は日本のGDPの総額に相当するかも知れないのである。世界経済での絶対的地位から少しずつ落ちている米国は軍事力確保のために同盟国への分担を求める。第二次大戦の敗戦国でありながら経済大国になったドイツと日本が肩代わりの対象である。 ソビエト連邦の崩壊を宗教と家族の切り口から言い当てたフランス人のエマニュエル・トッドはこの戦争に対して日本はできるだけ何もしないことだと直言する。ドイツに対しても同じである。 米国が没落して世界は新しい秩序に移行しようとしているというのである。[資料]2024年世界の統計(総理府)https://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/2024al.pdf2021年GDP(単位:100万米ドル)名目GDP、構成比(単位:%)アメリカ合衆国 23,315,081 24.1%日本 5,003,700 5.1%中国 17,734,131 18.3%ロシア 1,778,782 1.8%イギリス 3,131,378 3.2%フランス 2,957,880 3.1%ドイツ 4,259,935 4.4%イタリア 2,107,703 2.2%世界GDP(10億ドル) 81,407.1 86,601.6 87,728.7 85,311.0 96,698.0構成比(単位:%) 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介手塚宗求と霧ケ峰高原コロボックル・ヒュッテ官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之窓にカケスがやってきたホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併問題理解のカギ資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-146-)日産とホンダの経営統合で暗躍する「経済産業省」 “負け組”同士を統合させて時間稼ぎをするだけの愚策 古賀茂明資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-148-)├主要鉄鋼企業−粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)主要鉄鋼企業-粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)社名 国名 2020 2021 伸び率20/211 中国宝武鋼鉄集団 中国 115.3 120.0 4.02 ArcelorMittal ルクセンブルク 78.5 79.3 1.03 鞍鋼集団 中国 38.2 55.7 45.74 日本製鉄 日本 41.6 49.5 19.05 江蘇沙鋼集団 中国 44.7 44.2 -1.16 POSCO 韓国 40.6 43.0 5.97 河鋼集団 中国 43.8 41.6 -4.88 建龍集団 中国 36.5 36.7 0.79 首鋼集団 中国 34.0 35.4 4.210 Tata Steel インド 28.1 30.6 9.011 山東鋼鉄集団 中国 31.1 28.3 -9.212 徳龍鋼鉄 中国 28.3 27.8 -1.613 JFE Steel 日本 24.4 26.9 10.214 湖南華菱鋼鉄集団 中国 26.8 26.2 -2.115 Nucor アメリカ 22.7 25.7 13.016 江西方大鋼鉄集団 中国 19.6 20.0 1.917 現代製鉄 韓国 19.8 19.6 -0.918 広西柳州鋼鉄集団 中国 16.9 18.8 11.419 JSW Steel インド 14.9 18.6 25.120 SAIL インド 15.0 17.3 15.821 NLMK ロシア 15.8 17.3 9.822 IMIDRO イラン 17.4 16.7 -3.923 包頭鋼鉄集団 中国 15.6 16.5 5.424 U.S. Steel 米国 11.6 16.3 41.125 Cleveland-Cliffs 米国 3.6 16.3 352.826 中国鋼鉄(CSC) 台湾 14.1 16.0 13.027 敬業集団 中国 16.3 15.4 -5.628 Techint アルゼンチン 12.6 14.9 18.829 河北新華聯合冶金控股集団 中国 14.2 14.3 1.130 Gerdau ブラジル 13.0 14.2 9.2日本の氷河を眺望する白馬駅近くの白沢峠 夏森龍之介松本駅前にあった酒場「昭和横丁」 森龍之アラジンの青い炎が静かにゆらぐ日曜の午後 森龍之令和6年12月15日(日曜日)第75回計量士国家試験実施1. 試験の場所北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州及び沖縄2. 試験の期日令和6年12月15日(日曜日)3. 試験の区分試験は、環境計量士(濃度関係)、環境計量士(騒音・振動関係)及び一般計量士について行う。4. 受験願書(試験案内書)の配布期間受験願書(試験案内書)の配布期間は令和6年7月1日(月曜日)から同年8月2日(金曜日)まで、インターネット及び郵送による配布とする。計量士制度に関するお問合せ経済産業省イノベーション・環境局計量行政室メールによるお問合せはこちら電話:03-3501-1688(直通)受付時間:9時30分~12時00分/13時00分~17時00分(平日のみ)雪の日の朝とシジュウカラ 森龍之・自然のことマユミの赤い実飯塚幸三氏令和6年(2024年)10月26日逝去ロシア、ウクライナ、米国、日本と国の事情 社会主義の弊害と資本主義の幻想をローマ法王が口にした。原案作成に協力したことに感激したのが宇沢弘文であった。社会的共通資本の概念を提唱した宇沢弘文は日本の高速道路は米国車を売り込む目的でつくられたことを『自動車の社会的費用』ほかで述べている。GHQの通訳に駈り出されて調査の現場にいた。国のため天皇のためと命をさしだした日本国民であった。その人々が今や米国を崇拝し、米国が誘導する思想を身にまとう。殺された家族と同じ苦しみをさせたいと過失の人を罵(ののし)り重刑を求める。国に命を捧げた人々と現代の日本人は同じ人だとは思い難い。[予稿]官僚制度と計量の世界 「大島太郎、福島新吾と旧制高等学校」 夏森龍之介晩秋の高原 ひと月の移ろい 甲斐鐵太郎計測でも科学でもない数値の強調と人の健康解説]トヨタ・プリウス池袋交差点事故(過去の計量計測データバンクの記事から)官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介霧ヶ峰挽歌 甲斐鐵太郞伊勢崎賢治氏の話のなかにウクライナ紛争解決と戦争の本質理解の糸口が隠されている伊勢崎賢治 - Wikipedia伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係伊勢﨑賢治 東京外国語大学教授 著者と語る『本当の戦争の話をしよう~世界の「対立」を仕切る』 2015.5.20第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【前編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」【中編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【後編】生命とは生命とは動的平衡(福岡伸一) サプリの99%は添加物で頼りない成分の科学的根拠(田村忠司)第5回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム「生命とは何か?それは動的平衡」福岡 伸一 2018年7月22日2大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界-福岡伸一 - Wikipedia(689) 田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart1】あなたはそのサプリの中身を知っていますか - YouTube田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart2】あなたはそのサプリの中身を知っていますか串田孫一 とうきょうFM「音楽の絵本」の録音版モーツァルトの手紙から/串田孫一音楽の絵本 「冬の記憶」 串田孫一 詩と朗読気持よく働き一日を満足する日本でありたいソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん計量計測データバンク ニュースの窓-111-2024年ノーベル経済学賞「制度がどのように形成され、繁栄に影響を与えるかの研究のために」ノーベル賞の公式ウェブサイト - NobelPrize.org計量計測トレーサビリティデータベースとその辞書人工知能(AI)と人の頭脳の働かせ方2024年9月6日公務員塾発表 国家公務員への転職の穴場は林野庁係長職【穴場の受験先】どうしても公務員に転職したい受験生へ(社会人経験者採用)Vol.033 (youtube.com)林野庁森林管理局選考採用試験(事務系)について:林野庁 (maff.go.jp)林野庁ホームページ (maff.go.jp)森林管理局の概要:中部森林管理局 (maff.go.jp)住所:〒380-8575 長野県長野市大字栗田715-5電話:026-236-2720(代表) 026-236-2721(夜間・休日)法人番号:4000012080002上高地 秋の紅葉と梓川の流れ 甲斐鐵太郎目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)に信州とリンゴ 甲斐鐵太郎2024年ノーベル化学賞はAIでタンパク質の立体構造予測と新タンパク質設計の研究者ら(デビッド・ベイカー、デミス・ハサビス、ジョン・ジャンパー)2024年ノーベル物理学賞は人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明(ジョン・ホップフィールド氏とカナダのトロント大学のジェフリー・ヒントン氏)2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)にドングリが高原の宿の屋根をコツンコツンとたたく夜 甲斐鐵太郎品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量公務員への就職事情計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ)計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ) 計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次) 日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。 日本計量新報 週報デジタル版(週ごとに電子メールでお送りするニュースです。webページで閲覧できます) 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンク 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2025年01月30日
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経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介写真はボーイングB-29スーパーフォートレスの製造のようす。B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。初飛行は1942年9月21日。生産数は3,970機。運用開始は1944年5月8日。日本の無条件降伏を戦略目標に、軍事施設と主要都市を爆撃して戦力を奪う作戦として実施した。日本の主要都市は焦土となり、東京大空襲では一夜にして10万人が焼け死んだ。(見出し)世界経済の5割から2.5割に低下し中国がそれに迫る新時代の秩序が模索されている経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点(本文)マイクロソフト、アップル、アマゾン マイクロソフト、アップル、アマゾン、カルフォルニアの半導体地帯という言葉が怒涛のように脳に飛び込んでくる。世界経済はアメリカ合衆国(米国)が完全支配している印象になる。第一次、第二次大戦の戦費、兵器供給と米国 第一次世界大戦の戦費を敵対国がともに米国から借りており、敗戦国ドイツから英国などへの賠償金の支払いは米国からドイツへの貸し付けによってなされていた。第二次世界大戦の日中戦争では米国から武器弾薬が中国に供給され、英国、仏国など連合国の対ドイツ戦線の武器も同じように米国から供給された。 第二次世界大戦における日米戦争が始まると米国では婦女子を動員して兵器製造に全力を挙げた。米国の無条件降伏を目的とした日本焦土作戦 米国の対日戦争の戦略は戦闘において日本軍の戦力を粉砕し、武装を失った政府に無条件降伏させることであった。これは第一次世界大戦における対ドイツ戦線での米軍の行動の延長であり伝統的作戦となっていた。 アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃隊の司令官や一部の海軍将官にとって、この伝統的作戦は目的というよりは手段であった。 日本の軍需産業と都市爆撃は躊躇なく実施された。野坂昭如の火垂るの墓は、神戸市界隈への都市爆撃にによって路頭をさまようなか4歳の妹が栄養失調で死んでいくことを描いている。このとき作者は14歳であった。日本は石油の7割を米国に依存していた。これを止められ、また預金を封鎖された。満州、中国から手を引けという条件であった。B-29エノラ・ゲイとB-29ボックスカーによる原爆投下 米軍の対日作戦のその戦略は日本を焦土として戦闘能力を奪い無条件降伏させることである。そのための作戦行動の中心はB17爆撃機の後継で能力が大きく向上した超大型爆撃機B-29であり、1945年5月以降にボーイング社以外の工場でも生産体制を築いて大増産している。長距離侵攻能力を生かして日本本土への戦略爆撃に使用された。B-29エノラ・ゲイとB-29ボックスカーの2機は広島、長崎へ原子爆弾を投下した。1944年7月9日のサイパン陥落などによって南部マリアナ諸島を出撃基地として日本の主要都市が射程となった。 米国戦略爆撃調査団(USSBS)発表では日本本土を爆撃したB-29の延べ出撃機数 33,401機、作戦中の総損失機数485機、延べ出撃機数に対する損失率1.45%、作戦中の破損機数2,707機、投下爆弾 147,576トン、搭乗員戦死 3,044名。 アメリカ空軍第9爆撃航空団統計によるB-29所属部隊の戦績と損失は次のとおり。 第20空軍1944年6月5日以降。作戦数380。戦闘出撃機数 31,387。その他出撃数1,617。出撃機数合計33,004。投下爆弾・機雷トン171,060。戦闘損失数494。アメリカ本土での訓練損失260。損失合計754。搭乗員戦死576。搭乗員行方不明2,406。搭乗員戦傷 433。搭乗員死傷者合計3,415。1945年8月、日本軍の航空機実戦配備 6,000機(すでに38,000~50,000機を失う) 日本軍のサイパン基地陥落前後における日本軍の航空戦力の状況はどうであったか。 日本軍は1945年8月当時、まだ約 6,000機の航空機を実戦配備していたが、帝国陸海軍の航空部隊はすでに38,000~50,000機と、それらを操縦していた搭乗員の大多数を失っていたと推計される。日本の陸軍兵士は6人に1人の割合で戦死したのに対し、海軍水兵は4人に1人の割合で戦死していた。200万人以上の帝国陸海軍人が戦死したが、生存者も 500万人以上にのぼる。ピーク時の1943年には 873,000トンであった油槽船隊が1945年にはその4分の1の規模にまで縮小していた。 都市爆撃によって、少なくとも50万人の日本の民間人が死亡。本土在住の国民の12分の1に当たる。これらのことは敗戦時の日本の状況を表す指標の一つである。開戦時日米の経済格差は1対20(陸軍主計大佐新庄健吉の現地調査) 第二次世界大戦終結時における世界の富の二分の一を米国が保有していたといわれる。開戦時の日米の国力比較を軍の命令でしたのが陸軍主計大佐新庄健吉である。 新庄健吉は1941年(昭和16年)1月にアメリカ出張を命ぜられた。新庄の任務は日米戦争にかかわり米国の国力と戦力を調査である。4月に米国に到着して以来、すべて公開されている統計情報をつうじて調査は実施されたとされる。政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。調査のための場所に選ばれたのはエンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店で、ここに新庄は机を置いた。表向きの身分を三井物産社員。米国が世界一の工業生産力を持つことははっきりしていたがこれを確かな形で確かめた。重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3であった。米国国力を調査した陸軍主計大佐新庄健吉 米国国力を調査した陸軍主計大佐となった新庄健吉は異色雄経歴をもつ。 1897年(明治30年)9月30日農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業。同年12月、陸軍三等主計(少尉相当)に任ぜられ、歩兵第62連隊附。1923年(大正12年)6月、陸軍経理学校高等科に入り、1925年(大正14年)5月卒業。陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入る。1927年(昭和2年)3月、一等主計(大尉相当)に進級し、1928年(昭和3年)3月、経済学部を卒業、大学院に進み経営経済学を学び1930年(昭和5年)3月、大学院を修了する。1935年(昭和10年)11月からソビエト連邦・ポーランドに軍事研究員として駐在。1941年(昭和16年)1月、参謀本部附仰付、アメリカに出張を命ぜられ同年4月ニューヨークに赴任。重工業分野は1対20、化学工業1対3、全体は米国が日本の20倍の産業力 第二次世界大戦終了時において米国は世界の富の半分を保有していたことになっている。日米大戦の開戦時の1941年の日米の経済の状態を陸軍主計大佐新庄健吉の調査では重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3であったと調べ上げた。全体としても日本の20倍の産業力を保有していたのが米国である。 陸海軍の軍備は軍縮会議で決められた内容に沿うものであるから日本1、米国20ではない。しかし第二次世界大戦欧州戦線の展開とともに米国は兵器の増産体制に移り、1944年には日本本土の都市を爆撃することを目的とした超大型爆撃機B29の大増産を始めた。軍需産業はことごとく爆撃され、都市は焼き尽くされた。1945年3月10日の東京大空襲は単なる絨毯爆撃ではなく円形に焼夷弾を投下することによって下町の住民10万人を死亡させた。2021年の世界GDP比率は米国24.1%、中国18.3%、5.1% 時が下って2021年の各国の国内生産はどのようになっているか。 米国の世界GDPに対する比率は24.1%、中国の比率は18.3%、日本は5.1%、ロシアは1.8%。日米の差(比率)は1941年と変わらないが中国と米国が拮抗するようになった。1.8%のロシアが米国と対抗して東西冷戦と騒がれていたことが不思議である。米国の兵器産業は日本のGDP700億円相当 米国における兵器産業の状態である。 2015年において米国の上位10社の軍事企業の売上高は41兆円。関連する企業などの売上高を総計すると日本のGDP700億円に迫ると想像される。米国における軍事産業は世界平和あるいは地域紛争と密接にかかわる。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イランとイラクの戦争、アフガニスタンの内紛、ウクライナ戦争などは、米国が製造する兵器の消費の場であった。軍事産業を宇宙開発に振り向けてきた事情があるが、宇宙開発はGPSを生み出し、ミサイル、無人攻撃機などにつながっている。ウクライナ戦争から2025年2月で三年に ロシアのウクライナ侵攻によるウクライナ戦争は3年を経過する。ウクライナのNATO加盟に連動する西側の動きはロシア領への西側の圧迫である。一連の動きはロシアにはミンスク合意の破棄と受け止められている。ロシア・ウクライナ危機が対立の激しさを増し、2022年2月21日にロシアはドンバス地域の独立を承認し、翌22日ウラジーミル・プーチン大統領は会見で、ミンスク合意は長期間履行されずもはや合意そのものが存在していない、として破棄を宣言した。24日にはウクライナの非軍事化を目的とした特別軍事活動を承認し、ロシア軍によるウクライナへの全面侵攻が開始された。ウクライナのGDPはロシアの10分の1以下、人口は2割 ウクライナのGDPはロシアの10分の1以下。ロシアは米国の155の1。戦争が国力の総合で争われるものだとするとウクライナ軍の戦闘は異例である。NATO加盟国の軍事援助、米国による特別な武器支援がなければ戦えない。ウクライナ戦争に関係する各国のGDPと人口である。戦争に関連した各国のGDP 戦争に関連した各国のGDP世界の名目GDP(USドル)は次のとおり。(単位: 10億USドル) 1位アメリカ27,720.73。2位中国17,758.05。3位ドイツ4,527.01。4位日本4,219.83。11位ロシア2,009.96(人口1億3千万人)。58位ウクライナ178.34(人口3千4百万人)。(以上2024年10月23日付け)戦争の動機とその発端 第一次大戦とサラエボ事件 ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商の対立は領土拡張を動機を背景に、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公暗殺のサラエボ事件を契機に始まった。ウクライナ戦争をこれに対比するのは発想の飛躍に類するが事情は複雑である。ロシア語を話す人々が多く暮らす地域でロシア語を公用語から外したこと、これに伴なってロシア系住民の20万人以上がウクライナ領から去ったこと、など。ウクライナ戦争とロシアが求めるミンスク合意へのこだわり ロシアはミンスク合意の地域の確保にこだわる。和平協定は結ばないかも知れない。和平協定を交わしてもミンスク合意による領地への思いは捨てない。経済規模では小さな国のウクライナと決して大きくはないロシアの紛争に外部評価としての正義の刃をふるうことは難しい。新し世界秩序への模索の入り口になったウクライナ戦争 大きかった米国の世界経済に占める地位は50%から25%へと縮まり、中国が米国に迫り、インドがそれを老い、米国の相対的地位が低下している。低下した米国経済に占める軍事産業の比率は高く、米国の軍事産業は日本のGDPの総額に相当するかも知れないのである。世界経済での絶対的地位から少しずつ落ちている米国は軍事力確保のために同盟国への分担を求める。第二次大戦の敗戦国でありながら経済大国になったドイツと日本が肩代わりの対象である。 ソビエト連邦の崩壊を宗教と家族の切り口から言い当てたフランス人のエマニュエル・トッドはこの戦争に対して日本はできるだけ何もしないことだと直言する。ドイツに対しても同じである。 米国が没落して世界は新しい秩序に移行しようとしているというのである。[資料]2024年世界の統計(総理府)https://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/2024al.pdf2021年GDP(単位:100万米ドル)名目GDP、構成比(単位:%)アメリカ合衆国 23,315,081 24.1%日本 5,003,700 5.1%中国 17,734,131 18.3%ロシア 1,778,782 1.8%イギリス 3,131,378 3.2%フランス 2,957,880 3.1%ドイツ 4,259,935 4.4%イタリア 2,107,703 2.2%世界GDP(10億ドル) 81,407.1 86,601.6 87,728.7 85,311.0 96,698.0構成比(単位:%) 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0[資料]秋丸機関 - Wikipediaシリーズ 日米開戦50年 新発見 秋丸機関報告書 有澤廣巳と太平洋戦争|戦争|NHKアーカイブス御前会議|太平洋戦争開戦はこうして決められた
2025年01月29日
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小さな島と青い空と砂浜日本海の海に小さな島があり砂浜と青い空と海が広がっていた。ここは糸魚川河口、青海町そして親不知港ちかくである。2023年12月9日13:20に撮影。20日後に能登に大地震が発生し津波が押し寄せた。このようなことなど思いもよらないことで松葉ガニを食べ海を見て喜んだ。高崎ナンバーの二人の釣り人はシーバスの釣り具を抱えて海から上がってきた。遠くにでかけて少しのヤンチャか冒険に心が躍っていた。写真と文章は森龍之。
2025年01月28日
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米国の対日戦略は都市爆撃と経済封鎖で敵戦力粉「非武装化」による無条件降伏├計量計測データバンク ニュースの窓-168-米国の対日戦略は都市爆撃と経済封鎖で敵戦力粉「非武装化」による無条件降伏├├アラン・R・ミレット https://en.wikipedia.org/wiki/Allan_R._Millett1937年10月22日(87歳)生れ アメリカ人 アメリカ海兵隊大佐歴史家であり、アメリカ海兵隊予備役の退役大佐である。彼は、他の軍事トピックの中でも特に朝鮮戦争に関する彼の作品で知られています。生い立ちミレットは、オハイオ州のマイアミ大学の学長を務めたジョン・D・ミレットと妻のキャサリンの息子です。彼には2人の兄弟がいます。彼はデポー大学に通い、1959年に卒業しました。軍歴彼は米国海兵隊予備役の大佐を務めました。彼は、海兵隊予備役将校協会(MCROA)の元会長です。アカデミックキャリア彼はオハイオ州立大学の歴史学部で37年間務めました。彼は現在、ニューオーリンズ大学でスティーブン・E・アンブローズ教授を務めており、同大学のアイゼンハワー・センター・フォー・アメリカン・スタディーズの所長も務めています。テレビ『Hold at All Costs: The Story of the Battle of Outpost Harry』(2010年)、『Greatest Tank Battles』(2011年)など、さまざまなドキュメンタリー制作に専門家として参加している。出版物ミレットは、『International Security』、『The Americas』、『Armed Forces & Society』、『Strategic Review』、『Journal of Strategic Studies』、『Military History Quarterly』などの出版物に記事を寄稿している。├├アジア・太平洋戦争再考(1937-1945年)-アメリカの勝利は必然であったか-アラン・ミレット (防衛研究所) https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2007/forum_j2007_05.pdfhttps://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2007/forum_j2007_05.pdf 反事実的な歴史を記した Rising Sun Victorious (『太平洋戦争の研究:こうすれば日本は勝っていた』)の中で、想像力豊かなピーター G. ツォーラス氏を筆頭とする執筆陣は、太平洋戦争の経過を書き換えようと試みた。その結果は、専門的・技術的な詳細に富んだ一方で、明らかに説得力に欠けるものであった。その中で、アメリカを和平交渉に向かわせるための最善の方法として彼らがせいぜい考え得たことは、連合艦隊がミッドウェー海戦で勝利を収め、その後、ハワイ島を占領し、併せてアメリカ本土西海岸への攻撃に成功する、という展開であった。その場合でも、1941年末から1942年初頭においてソビエト連邦が崩壊することが、この仮説の必要条件である。また、日本はその後、インド東部ならびにオーストラリア北部への侵攻に成功したが、日本に残された唯一の成功は、米軍が神風特攻攻撃と奇跡的に発生した台風を前に敗退することによって、その本土上陸作戦「ダウンフォール」作戦が失敗に追い込まれることでしかなかった。 ツォーラス氏と執筆陣は、おなじみのジレンマに直面している―つまり、ドイツがソビエト連邦に侵攻し、真珠湾が攻撃された後で、いかにアメリカを脆弱な交戦国のレベルまで降格させるか、である。1945年の太平洋戦争の結果―日本の連合国へのほぼ無条件の降伏と、大日本帝国の解体―は依然として、富士山を覆い隠す雲と同様に不可避なものとみなされている。山本五十六海軍大将など、最も高い先見性を持った日本の計画立案者たちは、長期戦がアメリカに有利であることを理解していた。 1941年から翌年にかけての日本の軍事行動が決定的な「衝撃と畏怖」を生み出さない限り、日本の軍人がいかに熟練の技を持っていようと、あるいは忠義に燃えようとも、動員されたアメリカ軍の軍事力が、最終的には日本帝国の陸海軍を圧倒することになる。日本の戦争の目的ならびに戦略には根本的な欠陥があった。それは、日本が単に、アジア太平洋地域に配備された連合国軍を打ち負かす能力しか有していなかった点であり、日本がアメリカの世論や、工業生産性と資源、農業生産性、そして軍人になりうる人口には何ら直接的なダメージをあたえられなかったことである。つまり、太平洋戦争の偶発的な要素は、日本が左右し得ない、人々や事故によって引き起こされるものであった。 本稿の目的は、太平洋戦争を連合国の視点、つまり基本的にはアメリカの視点から検証することである。しかしながら、戦争は交戦国が互いに自らの強さを最大限に高めようとし、一方で敵の脆弱性に付け込む相互作用に基づく現象であることから、このような分析においては比較の重要性を無視することができない。クラウゼヴィッツが指摘するとおり、戦争においては摩擦や混乱、偶然がいたる場面に現れる。したがって、事後にならなければいかなる紛争の結果も「必然であった」とは断じることができない。 そこで私は、これまでに私たちが発表した3巻シリーズの Military Effectiveness のなかで採用した4つの観点から、太平洋戦争の分析を行うことを試みる。その4つの観点とは、政治または戦争の目的、世界戦略ならびに地域戦略、作戦の傾向と実行能力、そして陸上、海上ならびに海中、空中での戦術レベルの戦闘能力である。これらのカテゴリーはすべて、一定の二面性を内包していることから、私はこの分析を「4つの二面的戦争」と呼びたい。二面性に注目することにより、論文にわずかながらもアジアの雰囲気が加わるはずである。政治 第一の二面性は、日本が 1937 年に中国を相手にアジア大陸における初めての戦争に突入したことである。 その後、ソ連赤軍との国境紛争、つまり「ノモンハン事件」(1939年7~8 月)なども起きている。 国共合作後の中国軍の強固な抵抗は、ソビエト連邦や英国、アメリカなどといった外国からの支援の増大をもたらした。 この状況を受けた帝国陸軍の参謀本部は、日本はソビエト連邦との和平に同意し(たとえ不安定で一時的な和平であっても)、連合国の軍需物資輸送のために使われているビルマ・ルート、ならびにフランス領インドシナの港を閉鎖しなければならないと確信したのである。 中国での紛争が長期化し、またアメリカの経済制裁も加わると、日本はインドシナ半島、マレー半島、オランダ領東インドの石油その他の資源が、日本軍の領土拡張政策に限らず、究極的には国家の存続のために不可欠であると考えるようになった。この場合、ヨーロッパ諸国の植民地が奪取されることに抵抗でき、同時に自らの植民地であるフィリピンを守ることができた国は、アメリカのみであった。ミレット アジア・太平洋戦争再考(1937-1945 年) アメリカは当時、欧州において枢軸国との戦争に正式には参戦していなかったものの、1940年の選挙が過ぎると、ルーズベルト政権と連邦議会はアメリカ軍の軍備増強と、大英帝国とその脆弱な同盟国への支援を加速させた。 アメリカの武器貸与プログラムは、アメリカの「ドイツ第一主義」を象徴するものとなった。日本と同時に戦う状況になっても、あくまでも主敵はドイツであった。アメリカ陸軍省は「ビクトリープログラム」(勝利計画)(1941年 9月)に基づき、戦時の陸軍の兵力について、670万人の地上軍と200万人規模の航空隊を配備する構想を立てた。この兵力をもって213 個師団と195個航空群が編成される計画であった。 つまり、ドイツ軍と英国空軍を合体させた規模の戦力をアメリカは整備しようとしたのである。そして、大英帝国ならびにソビエト連邦が健闘した場合には、巨大なアメリカの陸軍および空軍それぞれの一部を、対日戦に投入することができるはずであった。 日本との戦争において鍵となるのは、アメリカ海軍が太平洋を越えて日本本土周辺まで進攻する作戦であった。対日戦は1900年以来、アメリカ海軍が「オレンジ計画」と名づけ、手を尽くして分析した問題であった。後に「レインボー計画」に組み込まれた「オレンジ計画」は、最も実現可能性が高く、かつ困難な戦争の双方を睨んだものであり、その意味で戦争計画としては珍しかった。 1940年、ドイツがフランスに侵攻すると、アメリカ海軍は、目的を北半球の安全保障(「レインボー-1計画」)に限定した場合も、世界最新の、戦闘力の高い海軍が必要であることを議会に力説した。議会はこの主張を受け入れ、軍艦数を当時保有していた 488隻(就役または承認済み)から745隻にまでほぼ倍増させる計画を盛り込んだ、両洋艦隊法(1940年7月~9月)を成立させた。また、海軍の保有する軍用機を新たに 15,000 機増強することが決定された。 40億ドルを投下したこの計画は、1945年までに完遂される予定であった。アメリカの軍艦建造プログラムの意義は、日本の海軍関係者にも十分認識された。いずれも非常に可能性の低い事態ではあるが、仮に日本海軍が1942~43年の間に1隻の軍艦も失わず、アメリカ海軍が既存の主力艦ほぼすべてを失った場合でも、両洋艦隊計画が実行されれば1941年時点でほぼ均等であった日米の軍艦の数は、1944年までには米国が優位になる。 アメリカの造船業界には、両洋海軍を支えるインフラを構築するための資金が注入された。ここで、一定の比較を行うことが適切である。1942年から1943年にかけて、日本およびアメリカの海軍は、それぞれ5隻と4隻の航空母艦を失った。そして、それらの補充として帝国海軍は空母を 11隻建造し、アメリカ海軍は26隻を建造した。帝国海軍は戦時中に戦艦2隻を就役させた一方で、アメリカ海軍は、10隻の戦艦と巡洋戦艦をその艦隊に加えた(表Iを参照)。しかも重要なのは、空母や戦艦といったそれぞれの艦種は大西洋における対潜水艦戦ではなく、来る日本との洋上戦を想定して選ばれたものであったことである。 戦時中に建造、または就役した海軍艦艇(1941年12月から1945年8月)大日本帝国海軍 アメリカ海軍*CV 7 17 (11)CVL 4 9 (19)CVE 3 76BB 2 8 (0)**BC - 2 (6)CA 0 12 (8)CL 7 33 (37)DD 32 347 (195)DE 31 417SS 116 205 (72)*括弧内の数字は、両洋海軍法(1940 年 7 月)によって承認された船舶の数である。**1938 年成立の海軍拡張法により、戦艦8隻の建造資金が拠出された。ミレット アジア・太平洋戦争再考(1937-1945年) アメリカがどれほどアジア太平洋戦争に執着したか、その戦略的背景は、海軍と海兵隊の対日戦への組織としてのコミットメントを書き並べるだけでは十分に説明されないであろう。 アメリカの世論には、二面性があった。政治エリートは、親中派(一部は国民政府支持派であり、その他は中共支持派であった)、ならびに親日派という2つの「アジア第一主義者」に分かれた。1937年以降は、親中派が世論を席巻した。親中派の代表格はパール・バックや蔣介石夫人であり、一方の親日派の代表格は、ジョセフ・グルーであった。 さらに、アメリカ人宣教師たちは中国びいきであり、ヘンリー・ルースの築き上げたメディア帝国を通じ、世論形成に大きな影響を与えた。 「アジア第一主義」連合は、政党―つまり共和党―と結びついており、ダグラス・マッカーサー元帥も、その一員であった。こうした政策エリートたちと、層が幅広い、復讐心に燃えた伝統的な白人アメリカ国民の心を一つにしたのは真珠湾攻撃であった。これらの人々が、パールハーバー、ウェーク島、そしてバターン半島の仕返しとして日本への報復戦争を望み、結束したのである。 国民の怒り、中国に対するエリート層の傾倒、さらにはアメリカ産業界の生産力と技術革新が、まさに日本の現実主義者たちが恐れた兵器の大量生産を生み出したのであった。 航空機の製造量を見れば、物量の面での日米の不均衡は明らかである。1941年か1945年の間に、アメリカは97,000 機の重爆撃機と100,000 機の戦闘機を製造した。 一方、日本が製造した同じ機種の航空機は、それぞれ15,117機と30,000機であった。 アメリカは1944年だけでも、日本が戦時中を通して製造した数を上回る38,000機を製造した。 さらに、アメリカ陸軍航空隊は1940年、長距離飛行が可能な重爆撃機の開発を決めた。技術的な難関を克服したボーイング345型は1943年9月に初飛行に成功した。 6カ月後、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長とH・H・アーノルド陸軍航空隊総司令官はこの重爆撃機を対日戦に投入することを決定した。B-29が実戦に使用されたのはそれからわずか数カ月後のことである。戦略 対日勝利を目標としたアメリカの戦略はさらなる二面性を明示している。厳密に言えば、そこには2つの二面性が見られる。 第一は、戦闘において敵の戦力を粉砕し、それによって「非武装化」された政府を無条件、または限定的な条件で降伏させるという伝統的な戦略構想である。 フリードリッヒ大王やネルソン提督ならば、1943年5月8日の統合参謀本部文書JCS-28711号、「日本を打倒するための戦略計画」の内容に違和感を感じることはなかったであろう。 アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃隊の司令官や一部の海軍将官にとって、この伝統的作戦は目的というよりは手段であった。 この場合においては、B-29と艦隊型潜水艦隊を日本本土に近い基地に展開することを可能にして、都市爆撃と経済的な締め付けによって、日本国民を直接戦争に巻き込むための手段であった。 都市爆撃と経済封鎖は、第一次世界大戦中に試行された概念であり、その結果は将来の有効性を期待させるものであった。 海・空軍による基地争奪戦は制空権と制海権が鍵であり、対峙する陸軍の大きさはあまり重要でなかった。アメリカが大きな島やアジア大陸での長期的な陸上戦を避けさえすれば、この二つの作戦はアメリカの軍事的な長所に適うものであった。つまり、高度な訓練を受けた人材が優勢(少なくとも数の上において)な艦船や航空機を使って戦う、という強みを生かして有利に戦うことができると考えられた。 戦力の編成と犠牲者に関する統計が、アメリカのこうした戦略的選択を反映している。転出や部隊再建がなされたことを考慮に入れると、太平洋戦争において連合国が対戦し、壊滅せしめた日本陸軍の師団の数はわずか 28 個にとどまり、その半数は、フィリピンに配備され戦ったものであった。 連合国の地上部隊は、アメリカ陸軍21個師団と6つの海兵師団、オーストラリアあるいはニュージーランド軍の7個師団からなるものであった。 ビルマで戦い、インド、アフリカおよび英国の師団で編成された第十四軍も、最終的には日本の12個師団と対峙し、その大半を破った。 この他、日本軍は当時アジア北部にはおよそ50、本土に50、そのほかフォルモサ島(台湾)に7、東南アジアに12の師団を派遣したが、1945年8月のソビエト連邦の短い軍事行動を除き、連合国は日本陸軍とは殆ど交戦していないと言える。 一方、連合艦隊が 1945年までに失ったのは、19隻あった航空母艦すべてと、12隻の戦艦のうち8隻、42 隻の巡洋艦のうち36隻であった。 日本軍は1945年8月当時、まだ約 6,000機の航空機を実戦配備していたが、帝国陸海軍の航空部隊はすでに38,000~50,000機と、それらを操縦していた搭乗員の大多数を失っていたと推計される。 日本の陸軍兵士は6人に1人の割合で戦死したのに対し、海軍水兵は4人に1人の割合で戦死していた。200万人以上の帝国陸海軍人が戦死したが、生存者も 500万人以上にのぼる。 また、爆撃と経済封鎖によって、少なくとも50万人の日本の民間人が死亡した。これは、本土在住の国民の12分の1に当たる。 ピーク時の1943年には 873,000 トンであった油槽船隊が1945年にはその4分の1の規模にまで縮小していたことも日本の敗戦時の状況をよく表す指標の一つと言えるだろう。ミレット アジア・太平洋戦争再考(1937-1945 年) 手前勝手な議論をする歴史家たちは依然として、こうした二つの作戦のうち、日本の降伏に決定的な役割を果たしたのはいずれであるかの論争を未だに戦わせている。 マッカ-サーによる南西太平洋方面の攻勢作戦を讃える者と、キング、ニミッツ両提督の中部太平洋進攻作戦を評価する者たちによって、議論がさらに複雑にされている。 しかし、いずれの主張をする者たちも、1942年から1944年にかけての南太平洋における消耗戦によって帝国海軍の航空機および水上部隊の戦力が消耗していたことを見落としている。 ミッドウェーでの戦いも要因として考慮すれば、戦前の帝国海軍とアメリカ海軍は、1943年の夏までに互いに抹消しあった、と言える。しかしアメリカ側には、言わば建造中のもうひとつの海軍があり、それが1944年に連続して戦われた大海戦で勝利をおさめることになる。 1945 年7月から8月に日本の政治エリートが抱えた内省と葛藤は、日本の文献等をもとに検証しても、「決断力」の問題について回答をもたらすものではない。 しかしながら、日本に同情的でありながら戦時中のアメリカの行動の擁護者であるハーバート・ファイスとロバートJ・C・ビュトーによる「通説」に比べれば、日本が降伏を受け入れた過程をより微妙なニュアンスで、かつ同情的な見方をすることができる。 日本を犠牲者と定義することによって、ファイスらの研究は、その後の入江昭やジョン・ダワーの被害者の視点からの分析を奨励することとなった。 しかしこれらの研究は、1945年における捨て身の日本外交を正当に評価していない。 天皇制の維持こそが明らかに日本の外交を動かしていたのである。 ただし、日本のこの中心的な目標が、他の国益や目標を排除することはなかった。 その他の目標とは、ソビエト連邦の北アジアにおける勢力拡張を鈍らせること、海外に居住する500万人の日本人を帰還させること、アジアにおける反帝国主義の擁護者であり続けること、報復的な占領をかわすこと、ソビエト連邦から革命が飛び火するのを阻止すること、そして近代的な経済インフラを維持すること、であった。 アメリカの歴史家たちが二発の原爆の使用に固執することを選ぶのであれば、戦後の日本を形作ってきた実質的な問題は日本の有識者たちの研究分野として彼らに任せることができる一方で、アメリカの歴史家は以上の知的な非難を受け続けるべきである。作戦 アジア太平洋戦争における作戦の歴史を見れば、日米両国の陸海空軍が、陸地でも海上でも様々な地理的環境にうまく適応しながら戦っていたことが明らかである。 ビルマのジャングルや広大な中国内陸部の外に、アジア太平洋戦争における作戦実施の環境には、ニューギニアやソロモン諸島などといった赤道直下の山岳地帯の多い大きな島における軍事行動や、中部太平洋の環礁・島嶼での戦闘、マリアナ諸島やフィリピンなど農業化され、人口の多い大きな島での軍事活動、硫黄島や沖縄などの要塞化された本土防衛に準ずる戦闘もあった。 作戦の一般的なパターンを見ると、当初は日本が様々な意味で有利であり、それが1941 年12月から1942年5月にかけての作戦上の成功の原因となった。初期にもたらされた日本軍の勝利の大半は単純に、1937 年以降の実戦経験を反映したものであった。 一例を挙げると、日本軍は夜間の行動を恐れず、むしろ得意としていた。 後にはアメリカ海軍もレーダーを利用しながら夜間の戦闘方法を身につけ、自信を失ったアメリカ陸軍航空隊と海軍航空部隊は、夜間戦闘機の開発と実用化も行った。 しかし、アメリカ軍の地上部隊は、日本軍からの攻撃を受けた場合を除けば、依然として日中の戦闘を選んだ。 いずれにしても、砲兵隊の援護を受けながら防御力の高い陣地を構築することによって、アメリカの歩兵隊は敵が総力を挙げた突撃に対しても、あるいは潜入に対しても、強くなったのである。 地上戦で得られた「教訓」のうち最も有益であったのは、地形によらず、大砲と戦車に重要な役割があるということであった。この点についていえば、アメリカは重迫撃砲や火炎放射器、爆薬、そして有刺鉄線に大きな有用性を見出したのであった。 海上においては、アメリカ海軍は作戦面でいくつかの課題に直面した。 その第一は、夜戦には弱かったことが挙げられる。これは、ソロモン諸島での艦船喪失の最大の要因である。スリガオ海峡の闘いという例外もあるが、航空作戦がほぼ絶対的に水上艦隊の活動を左右するようになったという過酷な現実も問題であった。 アメリカ海軍にとってのもうひとつの重荷は、マーク14型魚雷の欠陥であった。これは、日本の酸素魚雷(アメリカの通称「長槍」)に比べてあまりにも粗末であった。潜在的な技術力の比較を始めればきりがないが、そうした比較を通じて、アメリカ兵は日本との作戦に学び、初期の日本の優位性を相殺するような、現実的な改良を行うことができたのだという事実は変わることはない。 一方、アメリカの火力に対抗するため、日本が採用し始めた最も効果的な対応―洞くつ陣地に基づく陸上防御戦と、アメリカ海軍の艦艇に対する神風特攻攻撃―は、戦争後期にやっと現れたのである。 しかしながら、それでも日本は航空機や潜水艦からの攻撃に脆い兵站、未発達な医療組織などの自らの弱点を補うことができなかった。 日本兵は、マラリアや下痢、皮膚感染、ビタミン欠乏症などで犠牲になったが、一方のアメリカ兵は、疾病に侵された後も極めて高い確率で任務に復帰することができた。医療サービスが優れていたからである。ミレット アジア・太平洋戦争再考(1937-1945 年) 空・海の軍事攻撃が進む中において、アメリカ軍は継続的に、日本の優位に対抗するための作戦上の改革を行った。 数多の犠牲を払って生み出された改良もあるが、その一例として、水陸両用戦闘における航空支援および艦砲射撃の能力の向上、レーダー誘導による迎撃戦、夜間の水上砲撃能力の向上、対潜水艦作戦、日本の船舶への跳飛爆撃、潜水艦による魚雷攻撃、VT信管を装着した砲弾、要塞化された陣地に使用する数種類の通常兵器それぞれの採用や投入などがある。 技術革新は作戦の効率性向上に貢献したが、必ずといっていいほど再訓練と組織の再編成をする必要があった。しかも、それは作戦の進行速度を妨げないように計画することができた。 例えば、アメリカ海軍の母艦航空隊に配属されるパイロットの訓練に要する飛行時間は 1941~42 年には 305 時間であったのが、1945 年には 525 時間に増えていたが、帝国海軍のパイロットの場合は1941~42 年当初 700 時間であったのが、1943 年には 500 時間に減少し、さらに 1945年には 90 時間にまで減った。 訓練の過程が拡大したにもかかわらず、航空母艦の数が増えたこともあり、アメリカ海軍航空の出撃飛行する回数は1944年には延べ129,000回にのぼり、1943年の16,000回に比べ10倍近くになっている。日本の航空部隊と異なり、アメリカ軍は経験を積んだパイロットの大半を有効に活用した。 海軍のエース36人のうち、戦死したのは1人だけである。(彼らは延べ 448機の日本軍機を墜落した)。 アメリカと日本の空中戦におけるパイロットの経験と生存率の因果関係は、ゼロ戦に比べれば多くの点において劣るところのあったグラマンF4Fワイルドキャットにアメリカ海軍と海兵隊のパイロットが搭乗した、1942年から既に明らかになっていた。エース 撃墜数 戦死者海軍 パイロット 16 81 1海兵隊 パイロット 30 245 5 すべてのアメリカ軍が、戦略に関連する作戦上の問題に直面し、これらは時間と人命の喪失、資源の消耗、士気の低下、日本側に有利に働いた機会の創出などではかること41 ができる。 またアメリカの海軍も陸軍航空隊も、旧型になった航空機をできる限り早急に新しいものと入れ替えた。アメリカ陸軍航空隊にとっての最も難しい問題は、高々度、長距離水平重爆撃機―B-17、B-24 および B-29―の有効な使用方法を見出すことであった。 これらからの動く標的への命中率は非常に低く、250 ポンドの高性能爆弾であろうと、2発の原爆であろうと、いかなる場合においても、高度を下げるか兵器を変えることによってしか命中率と破壊力を上げることができなかった。 陸軍と海兵隊の地上部隊が繰り返し直面した問題は、いかにして戦術航空支援や砲撃、戦車ならびにその他の銃撃兵器、歩兵急襲部隊を忍耐強く運用して、日本の強固な防衛を水際あるいは内陸において突破するかであった。 大洋を跨いで効果的に機能しうる後方支援の万全の体制を構築することが、アメリカの作戦のテンポと柔軟性を左右する鍵であった。 戦域兵站は、安全な港で荷卸をする、軍用船と商船に依存していた。船団を組んで航行していたこれらの船は、1942年6月以降、日本の空軍あるいは潜水艦からの攻撃によって深刻な損害に見舞われることはなかった。 しかし、ハワイとオーストラリア以遠に進出すると、アメリカ軍は独自の基地システムと停泊地を築く必要にせまられた。通常は飛行場と併せて作られるものであり、これには、重機を備えた設営工兵大隊が必要であった。地上戦闘部隊の人員だけをみても、太平洋戦線に配置された各師団は、ヨーロッパ地域に配備されていた師団よりもさらに16,000人の支援要員が師団ごとに必要であった。 海軍は、軍艦の航行中に補給を行う洋上補給艦と、給油艦を中心とする補給部隊を組織し、基地への依存からある程度解放された。これらの補給部隊は駆逐艦部隊に護衛され、日本海軍の航空機の攻撃圏内に入らないよう注意しながらアメリカの空母任務部隊の後方に位置した。 特設補給艦は、停泊地から停泊地へと移動し、駆逐艦や潜水艦、水上機、上陸用舟艇の整備を行った。海軍は、戦闘で5隻の給油艦を失ったが、1945年にまだ65隻の給油艦を保有しており、痛手にはならなかった。ミレット アジア・太平洋戦争再考(1937-1945 年) アメリカの作戦計画の策定は、主に通信傍受による情報収集活動を通じて日本の作戦の意図を密かに読み取ることができたので助けられた。 アメリカが兵力であまり優位でなかった1942~43年においては、アメリカの空軍および海軍の作戦にとって、事前の情報、あるいは、少なくとも情報に基づいた推測を得ることが特に重要な意味を持っていた。 帝国海軍の戦闘序列と作戦計画を把握するための通信傍受と暗号解読、無線通信分析が果たした役割の分析が、作戦の他の要因に焦点を当てる研究の存在を現在ではかなり薄くしてしまった。 諜報活動におけるアメリカの優位は、珊瑚海海戦ならびにミッドウェーにおけるアメリカ軍の展開の仕方、ニューギニア-ソロモン諸島での作戦の実施(カートホイール作戦)、帝国海軍の潜水艦隊の制圧、山本海軍大将の戦死のそれぞれにおいて最も明らかであった。 日米の諜報活動の勝利と失敗に関心が集中するという最近の傾向により、太平洋戦争は血なまぐさい作戦の連続というよりも、チェスの試合のような頭脳戦としての様相を呈するかのようになってきた。戦術 戦時中の作戦レベルでの改善と同様に、戦術の革新も比較的容易に実施できた。 戦闘という実験場によって、戦術の革新に効果があったかどうかを示す説得力ある証拠を迅速に得ることができるからである。 ドクトリン上の正式な承認や訓練経験、組織による慎重な承認が必要なものもあれば、切迫した必要性に駆られての革新もあった。 アジア太平洋戦争における戦闘方法の基本的な違いは、一部の注目すべき例外を除いて、日本の指揮官たちが、勝利のためには自らの命も部下の命も惜しくは無いとみなしていたことにある。 日本軍の文化には、一日でも長く生きて延びて戦うという考えがなく、さまざまな形で自決することは組織的に容認されていたのである。 一方、アメリカの戦術は、自分が死ぬことではなく、敵を殺すことを重視した。 アメリカ軍の指揮官たちは、一部の例外を除き、人命の過度の損失あるいは説明のつかない損失を回避することが、その職責であると考えていた。 ダグラス・マッカーサー元帥は、犠牲者の数を少なくしたとの自らの主張を神話のレベルにまで上げた。 また、陸軍の将官たちは概して、海兵隊の士官たちは犠牲者を出すことに無神経であると非難し、海兵隊の広報活動への反感を顕にした。空・海共同の救助隊によって撃墜されたアメリカの搭乗員の捜索と救出が行われ、潜水艦と飛行艇により、終戦時のころには、アメリカは撃墜された自軍のパイロットの 75%を救助することができた。 また、硫黄島の飛行場に不時着できたことにより、日本上空で損傷したり、エンジンが不調になった B-29に搭乗していたアメリカ陸軍航空隊員 25,000名以上の命が救われたというのが、同島の攻略を事後的に正当化するために考えられた理由であった。 アメリカのメディアの特派員たちも、血に飢えたような物言いで知られる指揮官たち(ハルゼー、ルメイ、プラー、H・M・スミスなど)をもてはやすことはほとんどなかった。 むしろ、マッカーサーやニミッツ、スプルーアンス、バンデグリフト、そしてクルーガーのような人間味のある指導者たちを好んだ。 アメリカが兵站の面で豊かであったので、その指揮官たちは犠牲者を出すことに消極的になることができた。 ひとつの要因は、あらゆる形態の戦闘における火力の重視という単純なものであった。 アメリカ軍の戦闘機は日本の戦闘機よりも火力が強力で、機体と燃料タンクに防弾を施し、そのために重量が増加してもより強力なエンジンを装備することができたので、問題がなかった。 三菱零式艦上戦闘機五二型は機関砲2門と7.7ミリ機銃2丁を搭載し、全備重量は約 2,700キロであった。対するアメリカ海軍のグラマン F6F ヘルキャットは、12.7 ミリ機関銃を6丁、あるいは機関砲2門と機関銃4丁を搭載可能で、全備重量が約 5,700キロであった。 大砲、戦車、機関銃、手榴弾、そしてライフル銃についても、同様の比較をすることができる。ミレット アジア・太平洋戦争再考(1937-1945 年) アメリカの兵站が充実していたことにより、アメリカ軍の兵士は日本の兵士よりもよい食事を与えられ、病気になることも少なく、十分な衣類が支給され、より良い医療も提供されていた。 1942年から1943年にかけての南太平洋での作戦においてのみ、アメリカ軍は日本軍とほぼ同程度の苦痛を味わったが、これは人種にかかわらず兵士たちを悩ませた蚊と、熱帯病が原因である。 さらに1943年から1945年にかけては、さまざまな理由による犠牲者がかさんだが、連合軍の師団を部隊再建のため前線から後退させることが可能になった。ガダルカナルから残存兵力を撤退させたのが、日本側の唯一のそのような例であった。 アメリカ軍の兵士たちは、専門的に有能な士官に指揮されることを期待した。その「有能性」の尺度は、彼我の戦死傷者の比率が 10 対1か、それに近いものであることであったが、このような期待は、1942年 6月から1945年 2月までの間においてかなえられたのである。 しかしながら、硫黄島ならびに沖縄の戦闘は、日本軍の陣地戦(突撃の禁止)と空からの特攻攻撃が功を奏し、日米の戦死傷者の比率は再び均衡に近いレベルに戻った。ただし、負傷したアメリカ兵の大半が戦死はしなかったのに対して、負傷した日本兵のほとんどは死亡した。終戦時、アメリカ軍は日本が1944年に到達したのと同じ状況に達した―つまり、作戦上、戦術上において最善を尽くしても、戦略の不備を埋め合わせることはできなくなってしまったのである。結論 ウィリアムソン・マレー教授と私は、軍の組織行動を10年に及んで研究し、有用な教訓を導き出そうと試みた論文において、私たちは、政策立案者たちや軍の計画立案者たちが、戦略的手段と政治目標を適合させるという知的な難題を誇張したという議論を展開した。 そのような適合をなすことは、第一級の政治的課題であることは疑いもない。しかしながら、それを理論的に導き出すことは困難なことではないのである。我々が痛感したのは、理論においても、実践においても、実態または仮想の作戦能力を戦略的なグランドデザインに適合させることがいかに困難であるかということである。最近の戦争を分析してみても、その結果は変わるものではない。├├御前会議|太平洋戦争開戦はこうして決められた├
2025年01月27日
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原発をつくったから言える事 後藤政志氏講演(2024年3月)(動画と文字起し)├計量計測データバンク ニュースの窓-171-原発をつくったから言える事 後藤政志氏講演(2024年3月)(動画と文字起し)├├後藤政志氏講演会 原発をつくったから言える事2024年3月24日午後1時30分〜 (youtube.com) 皆さんこんにちはあの五藤正と申しますえっと今あの過分のご紹介 いただきましたけれどもあの私自身はですね元々東芝で原子と発電所の設計特に原子度核の容器という事故があった時に放射能 を閉じ込める容器ですこれの設計を担当しておりました。でまさかと思ったんですが 31が起こってで私は決して安全だと原発を思ってたわけ ではありませんけれども日本で起こしてしまった事故この時にもたまらなかったんですねそれは当然のことですけど心配してたくせに結局私はもう引退したん2年前に 31日の2年前に東芝からもうやめてですね。でその状態で 事故越してしまっそうすると私が別に福島の第1原発を直接設計したわけではありませんけれどもだけども同じ方の原発を設計してきたし核のきっていうのは安全の砦と言ってますからそれの責任者でもあったわけですからね。その私としてはもういてもたっても言られなかったんです。でそこからはもうあのそれまでは実はあのペンネームで色々 やったことがあるんですけども。あの本名であのお話をさせていただくようにしましたで実は311の時にそういう思いでお話をさせていただいたんですけど今全くもう1度同じ思いです。先ほどお話ありましたように野半島のですねあの地震とあの地震によって結果として出てくる盤の勇気とか地割れとかですね。あれを見たらもうですねとんでもないと思う。はっきり言っていつどこで起こってもおかしくない 状態であれがもしあれが近くで原発に行ったら一発でやられます。簡単にでそのことが ねこれだけは皆さん是非お伝えしないとまずいと思ったんです。なぜかって言うと 1度3こでも我々てこりてるんですよ。原発に私はそう思ってるんですからそれはなぜ かということをね。少しそこは丁寧にちょっとお話をさせていただくと思います。もちろんこの判断はですねどうかっていう安全か安全でないかって判断はあるいは再稼働がいいかどうかっていう判断はこれは私が決めることではなくて皆さんが決めることです。ただし私はそれに対して原発に多少かかった人間として皆さんに伝える義務があると、そういうことで今日は お話をさせていただきます。で非常にはっきりもあげて精神的にも公用してます。あある面でそれなぜかって言と本当に緊張してるからです。この我がさのある原発がですね他でもそうですけど特に若さはですね。今日お話させていただきますけども複数 あるわけです。原発が近くにこれがどのくらいの脅威があるかってことはあの少しきちんと話をさせていただいといけないというのがま1つの趣旨であります。それではちょっとお話をさせていただきます。えっとお手元にですねあのカーの印刷たのありましてまこれで後であの色々見ていただくのがいいと思うんですが今日お話 させていただくのはそれにプラスあるか何枚か追加してますのでちょっとそこのところはご了承ください。それと私はあのいつもそうですけどもこの治療全部お話しするつもりは申し訳ないありません。そのことよりはやっぱりポイントになること、ここで是非と思うことをお話しさせていただいて、場合によってはそれ飛ばさせていただいて後でご覧に、そういうことをご了承ください。それでは中身にしますで今日のお話はですね。今のまさにその何を話すべきかってことですけど、ま原発を作ってきたからとま作ってき たと言っても実は原発なんてのはその私が作ったというよりももっとずっと昔から設計されてて、私の時代にはもうすでに設計は出来上がってるんです。実は私がやった仕事は何かっていうと福島であったようの過酷事故ああいう事故は起らないと言ってたんだけども、起こった時に核納金が壊れるか壊れないかいや、壊れるのは分かってるんですけどどのくらいで壊れるか、そういう 研究をしてたんです。実はですからそういう意味では、あの原発についてその是非ということよりも原発そのものはどこまで持つかっていうことの、そういう分野で専門にやってきたと、そういう趣旨です。でそっから考えますとですね、やっぱり自分が設計研究してきた原発がね、事故を起こしちゃったわけですからね、そうするとまこれは謝罪というか、謝罪なんていうことじゃ済むはずないんもう本当に説服もだと私思ってるんです。だからそういう話をあえてあの口はったいですけど、話させていただくとそういうことです。そうするとですねやっぱりそこで1番ね、福島の事故で思ったのは、事故がどうどう就勝させるかとか2度と原発事故を起こさないってこれを必死でみんなで考えてたわけですよ。だから原発はね、ちょっとまずいんじゃないか、こんな事故をこすっていうこと行って、そこまで行ったのに2030年には原発ゼの話も出てきたのに、その後今何と言ってるか、ま1年半くらい前ですか原発ね、再起と言いますかね、原発にもう1度やるんだと、しかも今老朽原発もバンバン平気で運転するような話も出てる。しかも今回のよにノのような自信がある近にある原発なんかどうどう考えるのか、これに対して原子力正員会も全く無視してるでしょ、関係ないのもう論外です。原発の分かってない連中が言ってるだけ、そこだから申し上げてきます。でその上で私が言いたいことはですね、次の日3月えっとごめんなさい、えっとこれはまあいいですね、このこれどうでもいい話なんでもペネもいいです。それでこういう話があって、ま今こういう本当にその原発について、もう1度けられてる状態で、何を考えるべきかってことを今日お話しすると、まそういうことになります。それそれで、これはあの事故の直後に公園作った資料なんですね。全くそのままです1号機これちょっとかけてますけど1号2号3号4号とあって、2号機以外は原子と立てあっています。原子道が入ってる建物四角コンクリート全壊してますよね。ほとんどこれは水素爆発が起ったからなで、しかもこれ4号機って運転してなかったのに壊れてるでしょ。これ爆発起こしてる何かっていうと、3号機から流れた水素がここに流れて逆流してここで爆発したからで、2号機はどうかって言と爆発しなかった。なぜかって言うとここに穴が空いて水素が出ちゃったから助かったんです。偶然ですですけどもこの1号機から4号機で1番厳しいのは2 号機なんです。2号機が1番放射の出してるんですね。そうすに見ると御影上原発というのは、御影上の問題じゃなくて実は私から見るとこの格納容器が壊れてないんですよ。こちらも中にあってだから助かってるんですよ。これが毎日一気でも壊れたらこんな議論になってませんよ。こんなもんじゃないすみませんよ。福島があんな状態じゃないから関東一円が全滅してるんだからね。今頃こんな呑気な話してるわけいかない。そういう状態になってたということをもう1度思い出してくださいということが311の1番の問題の1つですさて少し先に行きますと電源の話があります。電源はよくこのこ遠くですからね、離れたとこにありまして実は何で電源の話するかっていうと、原子特発電所は外からの電気で動いてます外からの電気がないと冷却もできなくなる。格納器もうまく動かなくなるしダメなんです。だから総点線を伝って使って外の発電所からその当該原子と発電書に電気を送ってコントロールしてるところがね。基礎が滑って鉄が倒れたり、あるいは変電書が壊れたり、これで電源がなくなって、電源は何系統もあるんだけどそれが同時多発で3つやられる。やそれでももっと考えてますよ。何考えてるかて非常用ディーゼル非常用電源があってそれでやる仕組みになってるんです。ただし問題なのは最初の電源があるでしょ、この電源装置ってその福島であった後も色々何回もいな事故あったでしょ。そのたびに全電源喪失になる一歩手ってのいっぱいあるんですよ。だから今度の歯科原発ですねノ半島のあの根元にあるあれはって一部今外部電源落ちたりしてたん何かっていうと原発というのは外部電源が必要なのにそれが確実に確保できないってのが、1点第1点目その次にそれでもまあ4つ3つか4つあるから、そのうち1個生きてればいいんだけど、じゃその次に非常電源があるからいいじゃないっていうのがやられたのが福島なんね。そういう風に考えると電源装置て入り口がもいっぱいあってそれがノの今回もね後で出 てくるけどその変電書もめちゃくちゃになってるのは壊れてるの何かってたら弱いんですよ。変電書ってのは変電書ってはあの地震に弱いのだから変電所のね対策やってって何も対策になってないでしょ。他のもそうなんこれはねずっとつまり技術ってそういうものなんですよ。上辺場は対策してると言ってるけど現実には難しいことがいっぱいあるということを言いたいんですね。まそういう風に理解いただけたらとでまそういう風に考えるとまここはちょっと話としてお話はなぜ話とするかってことについてはちょっとこれは後であのお読みいただいた方がいいかと思います。んでよろしくお願いします。でえノトの方の話に行きますとえまずこれ気象庁の資料かな えっとノト半島のここで震度7の地震が起こって全域で震度6票とかね結構きいところがいっぱい出てきてる。
2025年01月26日
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ウクライナ戦争は第3次大戦「西洋の敗北」(2024年)著者エマニュエル・トッド├計量計測データバンク ニュースの窓-172-ウクライナ戦争は第3次大戦「西洋の敗北」(2024年)著者エマニュエル・トッド├├エマニュエル・トッド - Wikipediaエマニュエル・トッド (Emmanuel Todd, 1951年5月16日 - ) は、フランスの人口統計学者、歴史学者、人類学者。主な業績はソビエト連邦の崩壊の予想。家族類型及び社会体制の関係の究明。学位はPh.D.(ケンブリッジ大学・1976年)。研究分野は歴史人口学、家族人類学。人口統計を用いる定量的研究及び家族類型に基づく斬新な分析によって広く知られている。フランスの国立人口学研究所に所属していたが、2017年に定年退職した[2]。2002年の『帝国以後』は世界的なベストセラーとなった。経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を捉え、ソ連の崩壊、英国のEU離脱や米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した。ドイツ ドイツは直系家族であり、アングロサクソンの絶対核家族よりも粗暴な差異主義である。直系家族は兄弟の不平等を特徴とし、人間は互いに異なると認識するが、同時に父親の権威は中心的権力の下にまとまることを求める。この緊張が、しばしば暴力的な反応を生む。 直系家族社会は、同じ文化の小集団を被差別民として指定することがある。日本における部落民や、南西フランスにおけるカゴ (Cagot) がこれに当たる。カゴは、村から離れて住み、墓地が別であり、非カゴとの婚姻が許されず、教会では特別の席が定められていた。職業は建具職人や大工であり、南西フランスの人口の 1% から 2% を占めていた。18世紀前半には、平等主義核家族のパリの支配によりカゴは解放され、消滅した。 これと似た立場にいたのがドイツのユダヤ人であるが、宗教が異なるため一層疎外されていた。19世紀にドイツの直系家族は病的に硬直していく。プロイセンでは、1816年-1820年期から 1871年-1875年期までで、乳児死亡率が 168‰ から 224‰ に悪化する。同時期、同じ直系家族のスウェーデンでは 176‰ から 134‰ へと健全に低下する。ドイツの高い乳児死亡率は、社会の硬直性による私生児の増加と、権威主義による母乳育児の否定によるものである。この病的な権威主義の結果がナチズムであり、ホロコーストである。アメリカが人種別統計を作成するのに対し、ドイツの統計では人間をプロテスタント、カトリック、ユダヤ教徒、イスラム教徒に分けるのである。日本 トッドは家族構造の研究を通じて、日本が非常にヨーロッパ的であり、特にドイツやスウェーデンに近いことを見出し、日本特殊論を否定した。トッドは、この発見は生涯最大の衝撃の一つであったと述べている。トッドは頻繁に日本に言及するが、それは日本がヨーロッパと同類であるという確信に基づいている。『西洋の敗北』 2022年のロシアのウクライナ侵攻では西側を批判し、2024年に『西洋の敗北』(La Défaite de l'Occident)を刊行。西欧が宗教精神を欠いたプロテスタンティズムによりエリート主義に陥ったことを指摘する。また、第3次世界大戦が始まっているとした。日本との関係(来日でのシンポジウム) 2000年、藤原書店の招きで来日し、国際討論会(シンポジウム)を行った。この席で、社会に慣性がある以上、日本が数十年の間にアングロサクソン的なウルトラリベラルな社会に変容するとは考えられないと述べ、それへの反応について警告している。 今日のドイツ、日本、スウェーデンは、それぞれ非常に豊かな国であり、高齢者が多く、大変成熟した社会です。ナチ党の党員と幹部を生み出し、日本の軍国主義を支えた若くて興奮しやすい人々に満ちた社会ではもはやない。しかし一〇年、二〇年、三〇年という長期的なタームで見たとき、ドイツや日本のような社会において個人の安全を脅かすリベラリズム的な状況が続いたならば、極めて右傾化した不愉快な反応が生み出されてもおかしくない。├├エマニュエル・トッドの「大分断」(#社会学)├├【ICF2022】プレセッション:我々はどこから来て、今どこにいるのか?├├【ICF2021】キーノート:エマニュエル・トッド├├エマニュエル・トッド氏 2009.10.19├├世界の新たな構造 ~The new structure of the world~ エマニュエル・トッド氏├├【トランプは「敗北の大統領」となる】ロシア勝利を望む「その他の世界」|日本の“真の敵”はアメリカだ|EU崩壊の原因はプロテスタンティズム減衰【エマニュエル・トッド】101,180 回視聴 2025/01/21〈番組概要〉1つのテーマを分かりやすく読み解く「+ RONTEN」。今回のゲストは歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏。ロシアの計算によれば、そう遠くないある日、ウクライナ軍はキエフ政権とともに崩壊する――。トッド氏はそう予測します。米国と欧州が自滅していく中、日本はどうやって生きるべきでしょうか。勝利は確実でも五年以内に決着を迫られるロシア、戦争自体が存在理由となったウクライナ、反露感情と独経済に支配される東欧と例外のハンガリー、対米自立を失った欧州、国家崩壊の先頭を行く英国、フェミニズムが好戦主義を生んだ北欧、知性もモラルも欠いた学歴だけのギャングが外交・軍事を司り、モノでなくドルだけを生産する米国、ロシアの勝利を望む「その他の世界」。21カ国で翻訳が決まりながら、英語圏ではいまだに刊行されていない『西洋の敗北』について、トッド氏に訊きました。 『西洋の敗北』を著した動機とその内容西洋の人たちの気持ち明確な良心を持っていなかったし、正確なロシアのウクライナ侵攻の意味侵略がもたらした何か明らかなことを感じているロシア人は西側諸国を攻撃していた攻撃されましたが、見てみると、のダイナミクスNATOからヨーロッパへの拡大我々が明け渡すロシアの国境実はロシア人は脅迫されていると考えて戦争を起こす守備と不在このメカニズムを認識することで、西洋人は私と私を心配しているようでした。この誤ったビジョンを正そうとした西洋が抱えている現実について特に彼が~を過小評価していたためにだまされた.。ロシア人の強さを彼は理解していなかった。ウクライナ人の本当の動機。ロシアに対する敵意を理解していなかった。持たない東欧諸国は、自分自身の危機を理解しました。欧州連合の危機か何かの最も根本的な危機である。長持ちする。 アメリカ社会、ひいては本の章ごとに世界中でこの偽物を調べてください。どこまでも続く西洋への意識その究極のポイント、つまりこれです。西側諸国は自分たちが世界から賞賛されていると考えている。残りの時間に世界のマスター。私は世界の中で戦争を研究しています。本とそのいずれかの確率、ロシアの勝利は確実だが、そうでない本の本当の主題、ロシアの勝利は敗北だこの事件と本の核心は爆縮ああ、米国からだけではなく、アングロサクソン世界全体が以前に関する非常に残酷な章イギリスとその後の 3 章えー、どれがどの程度のことを示しているかと言いますと、アメリカの力は虚構になった。
2025年01月25日
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写真は雪景色の美ヶ原高原です。1、花粉症に小青竜湯を一日三度飲むことでおさまります。2、風邪と思って自重しておりました。
2025年01月24日
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月23日号「日本計量新報週報デジタル版」日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25品質工学座談会 品質工学は計測技術にどう貢献したのか―2014年座談会「品質工学は計測技術である」から10年を振り返って―2024年10月5日開催(日本計量新報座談会)品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量管理の解釈と必要な変革の実行計測でも科学でもない数値の強調と人の健康手塚宗求と霧ケ峰高原コロボックル・ヒュッテ夏雲が恋しい。霧ケ峰高原の緑の草原と青い空と夏雲。この地を開いたのは手塚宗求と言ってよい。車山の肩にころコロボックル・ヒュッテを建てて登山者を受け入れた。昭和31年(1956年)7月のことである。スキー場はなく、ビーナスラインなど夢のなかにもなく静かな牧歌的な高原であった。長島茂雄が巨人軍に入団したのは昭和33年(1958年)。日本は貧しいけれど戦後復興の最中にあり何とか生きていける気配はあった。手塚宗求への早稲田大学からの誘いを受け入れる状況になく、配給公社の仕事に従事して高校時代の続きで山登りをしていた。盲腸の手術にともなう医療過誤は仕事を奪う。山に入ることは自らの心の叫びであり結果としてそのようになった。コロボックル・ヒュッテを通じての色川大吉、串田孫一、「北八ッ彷徨」の山口耀久などとの交流は編集者の知るところとなり霧ケ峰高原や人生のエッセーを纏めた何冊もの本となった。(写真は2023年7月25日、14:50:撮影)美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎美ヶ原の樹木には雪か霧氷が張り付いていた美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎「登りついてふいに開けた眼前の風景にしばらくは世界の天井が抜けたかと思う」 美ヶ原はフォッサマグナの西はじに噴出した火山だ。楯状火山とその溶岩台地と考えられていたが安山岩質の組成を持つ火山の浸食地形とされるようになった。山本小屋から歩いていくと右手に美ヶ原の象徴である「美しの塔」がある。濃霧のときに吊るされた鐘を鳴らす。尾崎喜八の「登りついてふいに開けた眼前の風景にしばらくは世界の天井が抜けたかと思う」は美ヶ原を見事に語る。北アルプスの展望台であり八ヶ岳連峰、南アルプス、富士山や御岳山がみえる。江戸時代には美ヶ原から御岳山を拝んでいた。4月27日は白い台地と厚い雲の間に霧ケ峰高原と車山がだけがみえていた。(写真と文章は甲斐鐵太郎)官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介戦争と経済と昭和天皇裕仁第一高等学校(旧制) 旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設されたナンバースクールの先駆けであり、1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設された。校名が第一高等学校に改称された1894年(明治27年)以降、一高の修学期間は3年となり、帝国大学の予科と位置付けられた。一部は法学・政治学・文学、二部は工学・理学・農学・薬学、三部は医学であった。また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類という分類となる。一高の卒業生の多くは東京帝国大学へ進学し、戦後、GHQの指導による学制改革に伴って1950年に廃止されるまで、総計18,633人の卒業生を出した。第一次世界大戦と敗戦国ドイツの賠償金第一次世界大戦におけるドイツの賠償金の総額は1320億金マルク ドイツの第一次世界大戦における連合国への賠償金の総額は1320億金マルク、現在の日本円で 200兆円。当時のドイツの国家予算の何十年分にも相当した。 ドイツには払える額ではない。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませた。そのため500億金マルクが連合国が考えるドイツが実際に支払える金額であった。 領土の取り合いという帝国主義戦争となった第一次世界大戦である。国が余ったお金で軍備を整え他国を侵略したのではない。軍備は公債の形式による借金でよって賄われた。領土の奪取は借金の穴埋めに有効である。ドイツに対してイギリス、フランスなど連合国が戦闘を開始し塹壕戦となり戦闘員900万人と非戦闘員700万人が死亡、歴史上、死亡者数の最も多い戦争となった。イギリス、フランス、ドイツのどの国も借金によって戦争をしたイギリス、フランス、ドイツのどの国も借金によって戦争をした。国民からの借金は自国決済が付くものであるが、イギリスは外債を発行してアメリカ合衆国(米国)から借金をした。現代の庶民の借金は収入を担保にして銀行からの借り入れによる不動産購入である。同じ形式によって1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけての第一次世界大戦におけるイギリス(グレー ト・ブ リテン)、フランス連合国とドイツは戦争をした。ドイツが連合諸国に支払う資金の大元は米国からドイツへの貸付金であった主戦場であるヨーロッパ戦線とは離れて、背後に位置していたのが米国である。米国が参戦したのは1917年4月6日。1917年2月にドイツが対商船に対する無制限潜水艦作戦を再開したことが口実にされた。参戦した米国の役割はイギリス、フランスなどへの金融支援ならびに武器支援。イギリスは米国にお金を借りて、そのお金で米国から武器を買ってドイツと戦争をしていた。米国は参戦と同時に「自由公債法」にもとづき169億ドルの公債を発行、一部を自国の戦費調達に充用し、ほかを連合国への貸付け( 9憶2,300万ドル)た。貸付対象の80%はイギリスとフランス。 第一次世界大戦の最中、ロシアではユリウス暦の1917年10月25日(現在のグレゴリオ暦の11月7日)、ボリシェヴィキ革命がおきて社会主義政権が確立した。 戦争は借金によって経費が賄われる。1919年になって米国がイギリスとフランスなど連合国の諸国に融資(貸付)の償還を求る。連合国の諸国ははドイツからの戦争賠償金を返済に充てる。ドイツが連合諸国に支払う資金の大元は米国からドイツへの貸付金であった。米国のお金がドイツ、イギリス、フランスなどの諸国の負債の帳簿に記載され、ぐるぐる回っているといのが実態で、1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦の戦費調達に係る米国からの貸付金残高は44億ドル。全てを返し終わったのは2015年である。ドイツから米国への貸付金返済は1931年に反故にされた。 第一次世界大戦において日本軍は、イギリス軍とともにドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日から 11月7日)。太平洋におけるドイツ領を全て奪取。ドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇は、ドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開、出雲は第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。 日本軍は、19世紀後半から20世紀初頭に発生した戦争、日清戦争、日露戦争に勝利している。 日清戦争はm1894年に朝鮮をめぐる清との勢力争いをきっかけに開戦。1895年に下関条約によって日本は台湾を領有。清は敗戦により弱体化し、イギリスやフランス、ロシアなどが清に進出して経済的な利権を手にした。 日露戦争は、1904年にロシアが満州を事実上占領し、韓国への進出をうかがっていたことをきっかけに開戦。1905年のポーツマス条約によって朝鮮の外交権を奪い、韓国統監府を設置。また満州では、南満州鉄道株式会社をつくって満州の経済的な利権を拡大した。第一次世界大戦とロシア革命 ロシア革命は1917年にロシア帝国で起きた2度の革命を指し、1度目の革命は二月革命、2度目の革命は十月革命。ロシア帝国からソビエト連邦社会主義連邦に変わった。 第一次世界大戦で困窮したロシア民衆によるペテルブルクでの「パンよこせデモ」をきっかけとする二月革命、レーニン率いるボリシェヴィキ派による兵士や労働者とが連携した十月革命と社会主義政府の樹立。 レーニンのボリシェヴィキは、地主制の廃止や主要産業の国有化など社会主義政策を採った。マルクス主義に基づく労働者解放を目指す社会主義運動が勢い付いた。ロシア革命は、20世紀において最も巨大な意義をもった社会変革となり、その後の世界情勢を変えた。 日本は江戸期以来ずっとロシアとの勢力争いをつづけ、明治期以降は満州を巡って陣地の取り合いをしてきた。社会主義ロシアが成立してからは、資本主義日本において社会主義思想との抗争があり、これを抑えることを基本政策にしてきた。第二次世界大戦後の日本では社会主義思想への傾倒が起こり、かなりの割合でソビエト連邦を理想とする社会主義経済への希求があった。「社会主義の弊害と資本主義の幻想」ローマ法王パウロ二世 後になってみれば「社会主義の弊害と資本主義の幻想」というローマ法王パウロ二世による1991年の「レールム・ノヴァルム(回勅)」が、すべてを公平に物語っている。これとてあとになって振り返ってみればということであり、1945年には混沌としている状況であった。中国を社会主義国と規定すると1950年ころには人口だけを抜き出してみれば世界人口の三分の一が社会主義国の下で暮らしていたのである。 ローマ法王パウロ二世の1991年回勅(かいちょく)は、資本主義と社会主義という2つの経済体制の双方に批判的な視点を向けている。ローマ法王パウロ二世は、スターリン時代のポーランドで育ち、ソ連や東欧社会主義の悲惨な状況を経験。ポーランドは19世紀後半の産業構造の変化による不況で労働事情が悪化していた。資本主義国では少数の資本家が富を独占し、行き過ぎた資本主義によって労働者が貧困に苦しむ状況にある。資本主義と社会主義(共産主義)とも、現実的には社会の生産力の発展とその時代における望ましい人の暮らしを実現させてはいない。資本主義と社会主義という2つの経済体制を超えて、すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保されるべきことを強く訴えたのである。また過去半世紀における経済発展は自然環境の破壊を地球的規模で拡大化したたことを憂えた。1991年回勅は、カトリック教会が伝統的農村から新興都市部の労働者に支持を広げることを考慮したと言ってよい。戦後日本の社会体制の決定したものロマノフ朝ニコライ2世の革命政府による処刑 ニコライ2世は1918年(大正7年)7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で殺された。皇帝ニコライ2世と妻のアレクサンドラ・フョードロヴナ、夫妻の5人の子供オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシア、アレクセイと幽閉先に同行することを選んだ人すべてが銃撃、銃剣突き、銃床での殴打によって。同行者にはエフゲニー・ボトキンやアンナ・デミドヴァ、アレクセイ・トルップ、イヴァン・ハリトーノフが含まれていた。ウラル地区ソビエトの命令により、ヤコフ・ユロフスキーが指揮するボリシェヴィキ軍によってなされたとされる。 300年に及ぶロマノフ朝は、1917年のロシア革命でその幕を閉じた。ニコライ2世は、1917年3月22日には、ロシア国君主ではなくなっており臨時政府により家族や侍従たちとともに軟禁状態に置かれ、幽閉生活を送っていた。1917年8月、臨時政府首相のアレクサンドル・ケレンスキーは、高まる革命の動乱から一家を保護するという名目で、ロマノフ家をトボリスクに避難させた。そこで一家は元知事の邸宅に住み快適な生活を送った。1917年10月にボリシェヴィキが権力を握ると、幽閉はしだいに厳格なものになり、ニコライを裁判にかけることが議論されるようになった。1918年3月1日、一家に与えられるのは兵士への配給品のみになり、家族はバターとコーヒーを諦め、献身的な10人の召し使いとも別れなければならなかった。ボリシェヴィキが力を増すにつれ、政府は4月にニコライとアレクサンドラ、娘のマリアをヴァシーリー・ヤコヴレフの指揮の下、エカテリンブルクに移送した。アレクセイは酷い血友病を患っており、両親と同行することはできず、姉妹のオルガやタチアナ、アナスタシアとともにトボリスクに残った。アレクセイらがトボリスクを離れたのは1918年5月になってからだった。 ロマノフ家への総処刑は反革命軍の利用を恐れてのものか、それまでの圧政と人民弾圧への報復か、それの総合か。決め手はないが革命の動乱がもたらしたものである。ボリス・エリツィン大統領は1998年に行われたロマノフ家の国葬で、この殺害はロシア史上最も恥ずべきページの一つであると述べた。 レーニンはロマノフ朝を300年の不名誉である「帝政の汚物」とし、ニコライ2世を「ロシア人民の最も憎むべき敵で血の死刑執行人、乱暴な憲兵」、「王冠を被った強盗」と言及したとされる。フランス革命とブルボン王朝国王ルイ16世の処刑 国王ルイ16世は「祖国と革命に対する裏切り」の罪で、1793年1月21日に処刑れた。1789年に始まったフランス革命によってブルボン王朝は倒される。贅沢を尽くした結果とされる財政難のために、ルイ16世は貴族への重課税を課すなどしたためにパリ市民が蜂起してフランス革命が勃発。1791年6月21日にマリ・アントワネットと国外逃亡を企て失敗。1792年8月10日にパリのサンキュロットが決起してテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世とその家族をタンプル塔に幽閉。1793年1月14日の投票は、全員一致でルイ16世の有罪とし、16日夜の投票で死刑が。1793年1月21日午前10時22分、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首された。 立憲君主制を採るイギリス王室は社会主義革命が起これば国王ルイ16世あるいはロマノフ朝のニコライ2世と同じ道を想起しなければならない。日本では徳川の武家政権を打倒した新政府は日本国の王の天皇家を担いで立憲民主制を制度とした。英国王室とともに日本の天皇と皇室は社会主義革命がもたらす運命は切実である。 日清、日露の隣国との戦争に勝利し、第一次世界大戦では日英同盟を名目にドイツを敵国として戦勝国になった。幕末に英国、フランス、ロシア、米国の支配下に置かれかねなかった日本国であり、明治新政府は列強に伍するべく富国強兵策で対応する。三つの戦争での勝利は軍事大国日本こそ生きる道と思わせた。 戦争は全てにおいて自国には開戦の理屈を立て、これに国民が同意する。朝鮮併合、満州国建国、台湾併合はすべて領土拡大である。 満州国建国における満州族、漢民族、蒙古族、朝鮮族、日本民族による五族協和。1932年建国の満州国の実権は日本人にあった。人種、民族、宗教などの差別なく一つの家に暮らす八紘一宇(はっこういちう)と日本を盟主としてアジア諸国を欧米の植民地支配から解放する共存共栄を謳った大東亜共栄圏。日本が実権を握り、日本のためのアジア諸国という日本の帝国主義支配思想とその実行。見事な文句であり普通の日本国民だけではなく知識人までもこの言葉のようになることを望み、その目的のために突き進んだ。そのための軍事であり軍隊であり、兵隊であり徴兵制であった。 朝鮮併合、満州国建国、台湾併合と大東亜共栄圏が崩れることは日本の敗戦である。世襲のような高級将校世襲の様相を呈していた高級将校 まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政が成り立つはずは無い。が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の「少年のような希望」であった。この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。 上はテレビドラマ、司馬遼太郎「坂の上の雲」の冒頭ナレーションである。 陸軍士官学校および海軍兵学校は、師範学校および高等師範学校と同じように学費の要らない出世の登竜門であり、軍の学校は俸給さえ出たのである。読書階級である旧士族はこれまでの道の延長として軍の学校への進路を求め軍人になった。明治に始まった職業としての軍人としての高級将校は昭和20年(1945年)までは確実に続いた。傷病などを含めて軍人の子弟は士官学校あるいは軍の幼年学校への進路で優遇されていた。国民皆兵、皆が軍人になる世の中では、同じなるなら将校への道を進むことになる。そのような事情もあって高級将校の子は高級将校への道を選んだ。 高級将校としての軍人の生きる道はいつまでも軍があることなのだ。第一次世界大戦の敗戦国ドイツの事例のように負ければ賠償責任が課せられ、国は疲弊し軍人の地位と権威は崩壊する。また軍そのものが解体される。戦争における政治目的は軍人からは排除される。勝ち負けの度合いはない。勝ち三、負け七であっても良いことなのだがそれを自らは許さない。日清戦争と日露戦争に勝利した日本軍 死に物狂いで戦った日清戦争と日露戦争に偶然にも勝利した日本軍の幹部は戦えば必ず勝つという思いを幼稚な知性のなかに刻んだ。それは江戸幕府を謀略まがいのことまでして打ち負かしたことに起源を発しているかもしれない。 米国との開戦一年後から外務省が諸国の領事館から報告される通信で掴んでいたのは米国に勝てる見込みはなく、1944年8月にはもはや敗戦必至ということである。中国での戦線、南方での戦線でも軍幹部自らが敗戦必至であることを知っていた。日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である大本営は、大日本帝国憲法下において天皇が有する統帥権のもとにあることを利用して、どこまでも戦争を引き延ばした。本土の都市部を焦土とされ、広島と長崎を原子爆弾で壊滅させられ、ソ連の満州進行によって降伏を余儀なくされた。昭和天皇裕仁秘録 昭和天皇裕仁「拝謁(はいえつ)記 NHKの取材陣が発掘しドラマ仕立てにしたのがNHKによる初回放送日2019年8月17日の「昭和天皇は何を語ったの-初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記-」は、初代宮内庁長官として昭和天皇のそばにあった田島道治の『拝謁記』である。 1949(昭和24)年から4年10か月の記録には、昭和天皇の言動が、田島との対話形式で克明に記されていた。敗戦の道義的責任を感じていた昭和天皇は、当初「情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」としていた。さらに1952年の独立記念式典の「おことば」で戦争への反省に言及しようとする。しかし吉田茂首相からの要望で、最終的に敗戦への言及は削除されていく。その詳細な経緯が初めて明らかになった。番組では、昭和天皇と田島長官の対話を忠実に再現。戦争への悔恨、そして、新時代の日本への思い。昭和天皇が、戦争の時代を踏まえて象徴としてどのような一歩を踏み出そうとしたのか見つめる。 「昭和天皇拝謁記」は、初代宮内庁長官の田島道治が就任した半年後の昭和24年2月から長官を退いた昭和28年12月までの4年10か月余りの間の拝謁の記録。手帳とノート合わせて18冊に記されている。「拝謁記」は日記とは別に、昭和天皇などと面会した際のやり取りなどを記録していたもので、長年遺族の元で極秘に保管されていた。 「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「詳しくて生々しい昭和天皇の肉声がいっぱい書かれているので非常に驚いた。発言の要旨ではなくほとんど昭和天皇がしゃべったままの言葉が書かれていると思う。昭和天皇の肉声をこれほど継続的に詳しく記録した資料は他に例がなく、今後昭和史を研究する上で超一級の基本資料になる」と述べる。拝謁(はいえつ)記が伝える天皇裕仁の戦争への態度 昭和天皇裕仁は敗戦色濃厚な中にあって一撃反撃講和にこだわっていた。1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満洲(現在の中国東北部)の遼寧省瀋陽市近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、関東軍が南満洲鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である柳条湖事件。柳条湖事件は満洲事変の発端となった。つづく盧溝橋事件ほか中国戦線における日本軍の軍事行動は陸軍の大佐、中佐などが勝手にやったことだと捉えている。これらの事件のどこかの時点で戦線を納める時期はあったのにその判断を政府も軍もしなかったと考えていた。穏やかでないニコライ2世と王ルイ16世の処刑 ロマノフ朝ニコライ2世の革命政府による処刑、 ブルボン王朝国王ルイ16世の処刑というロシアとフランスにおける革命が絶対君主を処刑の事例を自分と重ねて昭和天皇裕仁が考えたことであろう。ドイツにおけるヒトラー、イタリアのムッソリーニの末路は天皇裕仁と重なる。いたたまれない筈だ。昭和天皇裕仁の民主主義は五箇条の御誓文 五箇条の御誓文は、明治天皇が1868年(慶応4年)3月14日に京都御所の紫宸殿で発表した、明治新政府の基本方針。天皇が神に誓う形で出され、日本の民主主義の基本と普遍的な理念が示したことになっている。五箇条の御誓文の内容と現代語風表記。第一条 広く会議を開き、万機公論に決すべし。(政治は人々の話し合いで決める)第二条 上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。(身分の上下を問わず、心を一つにして国を治める)第三条 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。(役人や武士、庶民など、身分の違いを超えて、それぞれの志を実現できる社会を目指す)第四条 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。(悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいて行動する)第五条 智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。(知識を世界に求めて、天皇の統治の基礎をふるい起こす)「広く会議を開き、万機公論に決すべし」その対象として描かれたのは江戸時代における各藩の藩主とされる。る国体の護持と戦後の昭和天皇裕仁 日本国は昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報を打った。8月12日に返ってきた回答の解釈を巡って騒動が起きた。外務省は「subject to」を「従属する」ではなく「制限の下に置かれる」、「form of government」を「政治形態」ではなく「政府の形態」と意訳した。政府であれば天皇は含まれない。陸軍など抗戦派の反発を恐れての、精一杯穏やかな表現だった。すでに陸軍も回答を入手し抗戦派は「隷属する」と訳していた。抗戦派は激高し参謀総長と軍令部総長がそろって参内し昭和天皇に受諾拒否を求めた。 この回答ではでは国体護持は危い、徹底抗戦しかないと両総長は憤慨したのである。これに対し昭和天皇は「至極冷静に」対応したと、当時参謀次長だった河辺虎四郎が戦後に回想している。「梅津総長が(皇居から)帰って来られたとき、上奏の際の模様をたずねたところ、天皇は至極冷静に総長の申し上げることをお聴きの後、公式の敵側の返信でもない放送、しかもその日本の訳語もよく練ったものかどうかも疑わしいのに、それをつかまえてやかましく議論立てすることなど、つつしむべきだと、両総長をむしろ戒められるおちを拝したとのことであった」という。1945年8月14日の抗戦派参謀のクーデター日本のいちばん長い日 軍部のクーデターと8月15日 抗戦派は1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となってクーデターを起こした。「8月15日事件」または「宮城事件」であり、半藤一利実録小説『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』が、1967年に岡本喜八を監督として配給、上映された。 陸軍幹部と近衛師団参謀によって起こしたクーデターは、近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害し、師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠、陸軍首脳部と東部軍管区の加担を求めて、これに失敗した。これにより玉音放送と日本の降伏表明は予定通り行われた。参謀本部佐官の反乱者氏名 クーデター参加したのは次の軍人たち。 陸軍省参謀本部では、荒尾興功大佐(陸軍省軍務局軍事課長、陸士35期)関与、稲葉正夫中佐(陸軍省軍務局軍事課編制班長、陸士42期)関与、井田正孝中佐(陸軍省軍務局軍事課員、陸士45期)首謀・自決断念、竹下正彦中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班長、陸士42期)発端文書作成、椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課員、陸士45期)首謀・失敗後自決、畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課員、陸士46期)首謀・失敗後自決。 第12方面軍兼東部軍管区では、古賀秀正少佐(参謀、陸士52期)関与・自決。 東京防衛軍警備第3旅団では、佐々木武雄予備役大尉(横浜警備隊長)民間・関与。 その他では、上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長、陸士55期)自決。 日本国憲法の制定によって天皇条項は、第一章天皇〔天皇の地位と主権在民〕、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされた。昭和天皇裕仁と国体昭和天皇裕仁における国体のありさま 降伏の条件に国体の護持を求めたが無条件降伏となった。軍人たちが考えた国体とは天皇主権であった。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の既定の下、昭和天皇裕仁がなしたことは戦後巡幸であった。 1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に各地を巡る巡幸である。演題に天皇が立ち手を振るのに和して集まった大勢の国民が万歳をすることは戦後における天皇と国民の間を取り持つ関係としての国体として昭和天皇裕仁は理解していた節がある。 平成天皇明仁は美智子皇后とともに巡行し、国民とは対面して話を聞くことを主な内容とした。令和天皇徳仁は被災地を見舞うことが多く、雅子皇后とともに国民とは膝を交えて対応する。終戦の詔勅 1995年8月15日の玉音放送 終戦の詔勅の玉音放送は、1945年(昭和20年)8月15日正午にラジオで放送された。皇居表御座所で録音盤に吹き込んだ昭和天皇自身の声による「終戦の詔書」が予定通りに。8月14日の閣議でポツダム宣言を受諾したことに伴なう無条件降伏である。前線の日本軍将兵や外地の在留邦人の耳にも届くように海外放送も行われた。 玉音放送は事前に伝達されていた。雑音で音声を聞き取れなかった地域は多い。天皇の言葉の意味が聞き分けられなかったという人がいる。戦況を知っている者には意味することが直ぐに飲み込めた。 東京大学を仮卒業して外務省に嘱託官として勤めていた男は次のように証言する。 八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞 く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。 その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦にいたる戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之窓にカケスがやってきたホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併問題理解のカギ資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-146-)日産とホンダの経営統合で暗躍する「経済産業省」 “負け組”同士を統合させて時間稼ぎをするだけの愚策 古賀茂明資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-148-)├主要鉄鋼企業−粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)主要鉄鋼企業-粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)社名 国名 2020 2021 伸び率20/211 中国宝武鋼鉄集団 中国 115.3 120.0 4.02 ArcelorMittal ルクセンブルク 78.5 79.3 1.03 鞍鋼集団 中国 38.2 55.7 45.74 日本製鉄 日本 41.6 49.5 19.05 江蘇沙鋼集団 中国 44.7 44.2 -1.16 POSCO 韓国 40.6 43.0 5.97 河鋼集団 中国 43.8 41.6 -4.88 建龍集団 中国 36.5 36.7 0.79 首鋼集団 中国 34.0 35.4 4.210 Tata Steel インド 28.1 30.6 9.011 山東鋼鉄集団 中国 31.1 28.3 -9.212 徳龍鋼鉄 中国 28.3 27.8 -1.613 JFE Steel 日本 24.4 26.9 10.214 湖南華菱鋼鉄集団 中国 26.8 26.2 -2.115 Nucor アメリカ 22.7 25.7 13.016 江西方大鋼鉄集団 中国 19.6 20.0 1.917 現代製鉄 韓国 19.8 19.6 -0.918 広西柳州鋼鉄集団 中国 16.9 18.8 11.419 JSW Steel インド 14.9 18.6 25.120 SAIL インド 15.0 17.3 15.821 NLMK ロシア 15.8 17.3 9.822 IMIDRO イラン 17.4 16.7 -3.923 包頭鋼鉄集団 中国 15.6 16.5 5.424 U.S. Steel 米国 11.6 16.3 41.125 Cleveland-Cliffs 米国 3.6 16.3 352.826 中国鋼鉄(CSC) 台湾 14.1 16.0 13.027 敬業集団 中国 16.3 15.4 -5.628 Techint アルゼンチン 12.6 14.9 18.829 河北新華聯合冶金控股集団 中国 14.2 14.3 1.130 Gerdau ブラジル 13.0 14.2 9.2日本の氷河を眺望する白馬駅近くの白沢峠 夏森龍之介松本駅前にあった酒場「昭和横丁」 森龍之アラジンの青い炎が静かにゆらぐ日曜の午後 森龍之令和6年12月15日(日曜日)第75回計量士国家試験実施1. 試験の場所北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州及び沖縄2. 試験の期日令和6年12月15日(日曜日)3. 試験の区分試験は、環境計量士(濃度関係)、環境計量士(騒音・振動関係)及び一般計量士について行う。4. 受験願書(試験案内書)の配布期間受験願書(試験案内書)の配布期間は令和6年7月1日(月曜日)から同年8月2日(金曜日)まで、インターネット及び郵送による配布とする。計量士制度に関するお問合せ経済産業省イノベーション・環境局計量行政室メールによるお問合せはこちら電話:03-3501-1688(直通)受付時間:9時30分~12時00分/13時00分~17時00分(平日のみ)雪の日の朝とシジュウカラ 森龍之・自然のことマユミの赤い実飯塚幸三氏令和6年(2024年)10月26日逝去ロシア、ウクライナ、米国、日本と国の事情 社会主義の弊害と資本主義の幻想をローマ法王が口にした。原案作成に協力したことに感激したのが宇沢弘文であった。社会的共通資本の概念を提唱した宇沢弘文は日本の高速道路は米国車を売り込む目的でつくられたことを『自動車の社会的費用』ほかで述べている。GHQの通訳に駈り出されて調査の現場にいた。国のため天皇のためと命をさしだした日本国民であった。その人々が今や米国を崇拝し、米国が誘導する思想を身にまとう。殺された家族と同じ苦しみをさせたいと過失の人を罵(ののし)り重刑を求める。国に命を捧げた人々と現代の日本人は同じ人だとは思い難い。[予稿]官僚制度と計量の世界 「大島太郎、福島新吾と旧制高等学校」 夏森龍之介晩秋の高原 ひと月の移ろい 甲斐鐵太郎計測でも科学でもない数値の強調と人の健康解説]トヨタ・プリウス池袋交差点事故(過去の計量計測データバンクの記事から)官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介霧ヶ峰挽歌 甲斐鐵太郞伊勢崎賢治氏の話のなかにウクライナ紛争解決と戦争の本質理解の糸口が隠されている伊勢崎賢治 - Wikipedia伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係伊勢﨑賢治 東京外国語大学教授 著者と語る『本当の戦争の話をしよう~世界の「対立」を仕切る』 2015.5.20第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【前編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」【中編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【後編】生命とは生命とは動的平衡(福岡伸一) サプリの99%は添加物で頼りない成分の科学的根拠(田村忠司)第5回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム「生命とは何か?それは動的平衡」福岡 伸一 2018年7月22日2大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界-福岡伸一 - Wikipedia(689) 田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart1】あなたはそのサプリの中身を知っていますか - 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2025年01月23日
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福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長├計量計測データバンク ニュースの窓-153-福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長├├福島新吾 社会科学としての政治研究―1947~54(専修大学社会科学研究所月報)福島新吾 社会科学としての政治研究―1947~54(専修大学社会科学研究所月報)https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/smr486.pdfISSNO286-312X No.478 2003.4.20はじめに『専修大学社会科学研究所月報第 478 号』に「体験戦後史 1945~47」と題して敗戦後の体験などを述べた。引き続き発表の機会を与えられた事を深謝し、私の研究者としての出発期を回顧したい。私はこの国に初めて創立された東大社会科学研究所の助手となった(公募第一期)ので、その研究所は当時如何なるものであったのか、そこでは社会科学をどのように考えていたかをふりかえる。この研究所のお蔭で私の政治学研究には社会科学という frame of reference が加わった。私はそれを十分政治学に生かしたとはいえないが、少なくとも同世代の狭義の政治学者とはかなり違ったテーマ、視角、展望をとったと思う。そのいきさつが社会科学の発展史の参考になればと願う。他方世界政治の変遷とその日常生活への浸透にもまれつつ私の政治意識-国家意識あるいは愛国心-が変わっていった経過もふりかえってみたい。目次はじめに ································································· 1§1 東大社会科学研究所 ················································· 2§2 その組織と活動 ····················································· 5§3 社会科学をめぐる対立 ··············································· 9§4 私が経験した調査・研究活動 ········································· 11① 無産政党の選挙結果 ··············································· 11② 労働組合の調査・研究 ············································· 12③ 選挙の実態調査 ··················································· 13④ 公安委員会調査 ··················································· 14⑤ 農村調査 ························································· 15§5 理論と実践 ························································· 18§6 社会的活動 ························································· 20編集後記 ································································· 24- 1 -§1 東大社会科学研究所 そもそもこの国には明治以来学校制度は整ったが、研究所という機関は未成熟であった。 Institute の起源はフランス革命で既成のアカデミーが破壊されたのち、1795 年につくられたInstitut National des Sciences et des Arts. で、それを受けて英国でも Royal Institute ofBritish Architects.1834. をはじめ多くの研究所がつくられたという(O.E.D.)わが国では1856年の蕃書調所が最初といえるだろうか。『近代日本総合年表』(岩波)によれば1890 年上海で荒尾精が日清貿易研究所を創立しているが、これが研究所に相応しいものだったか?疑問である。同書によれば日本で最初の研究所は 1886 年の帝国大学臨海実験所(三崎)、あるいは1891年に決定、98年に確立、1918年に官制が出来た逓信省電気試験場のようである。その他戦前に設けられた主な研究所は凡そ116だが、その内理工・医学系が 92(しかも1939 年以降設立が実に39、敗戦の年にも3)、文科系はわずか24、その過半数は戦時下に東亞占領地支配の必要に迫られた急造研究所である。京大人文研、東大東洋文文化研も含めて戦時のイデオロギー宣伝の色濃いものが多かった。戦時以前の本格的なものは大原孫三郎が寄与した倉敷労働科学研、大原農業研、大原社会問題研と大阪商大の経済研、山口高商の東亞経済研位に過ぎない。その大原社会問題研究所も敗戦後大内兵衛は東大に、高野岩三郎と権田保之助は日本放送協会へ、森戸辰男は日本社会党へ移動し、久留間鮫造のみ残留の解体状況にあったと聞く。 1946年8月24日に東大社会科学研究所(以下社研という)は官制(勅令)によって東大に付置された。『社会科学研究所の30年』(社研編1977)によれば東大法学部長南原繁(1889~1974)が戦争中軍部が財政経済を独占して無謀な計画を立てそれに同調した少数の学者が参加して、敗戦の結果になったということを反省し、大学が本格的な研究をして、政府、国会に役立ててもらうようにしたいと戦争末期から考え、戦後自らが総長になってそれを具体化した。これには真理に忠実な南原の科学的調査研究への願いとともに、政府説得のための戦術的な「国策」樹立という方向が示され、かなり素朴な実用主義的学問観がうかがえる。それに対して文部省や内閣法制局は学部の講座を増設すればよいと反対した。研究観の浅薄さ、職名と予算さえあれば研究は直ぐ出来るといった研究と教育の両立の安易な考えのあらわれだろう。また学問は(主に外国の)既成の体系を伝授するだけのもので、新現象を研究するなどは空想的として拒否したのだろうか。とくに「社会科学」にイデオロギー的な反発があったかも知れない。だが南原は文相前田多門(1884~1962、若き日の南原の内務省で群長を志願した先輩)の同意を得てそれをおしきった。占領初期で、占領軍は関与していなかったようだが、知れば恐らく社会科学に好意を寄せたであろう。 そこで考えられた研究所はどんなものだったのか?官制では「広く世界各国の法律・政治・経済の制度及び事情に関し正確なる史料を組織的系統的に蒐集し且つこれが厳密に科学的なる- 2 -比較研究を行う」ことを目的としている。予算不足の折から北米・英国・本邦公法・本邦内政・本邦産業経済の五部門だけが実現したが、当初の14部門の案には仏(西欧)、独(北欧・中欧・東南欧)、ソ連(東欧)、中華民国、その他の東亞の諸国と本邦私法、外交、財政金融、資料の蒐集及管理が含まれていた。この当初案は 1973 年までかかって 17 部門に完成したが、日本の研究には社会法・農業・工業・労働を加わえ、比較研究では一国別をやめてヨーロッパ圏、アメリカ圏、社会主義圏の法律、政治、経済などに分類された。当初の構成を見れば、従来ドイツ学重視だった社会分野に米英を始め世界各国の知識を急増する位の意図しか見えず、理論がない。オセアニア、アフリカが全く無いのは後進国無視を示していたのか。 南原は東京帝国大学のなかに戦前には禁止されていた社会科学の研究所をかかえていこうじゃないかということになったのは「一つの変化ですね」と語っている。この発言は学問の自由を謳歌しているが、その内容までは説明していない。『東京大学百年史 部局史四 社会科学研究所』(東京大学百年史編纂委員会編、1987)によれば「いまだ東京帝国大学と言う名称を保持するこの大学に、敗戦からわずか一年後にして社会科学研究所という新研究所が創設されたことは、通常の意味での研究所の新設をこえた、ある種の歴史的意義を有する出来事であった。」「社会科学研究所は、新日本の建設に資する方向への大学と学問の革新の拠点となるべき使命を担っていたといっても過言ではない。」と述べている。設立前に文部省に提出された「社会科学について」と題する説明書では、文化科学ないしは人文科学のもとに「精神科学」と「社会科学」とがあるとし、社会現象を研究する一群の科学の総称としていた。南原自身も社研の開所記念講演(1947.2.1.)で、その特色として比較的、総合的、実態的の三本柱を立てたのみで、なんらかの特定のイデオロギーにたつものでは決してないと強調したが研究の具体的な方法は示さなかった。私は戦後の青年としては学生運動や地域の政治活動に接触せず、家庭に閉じこもってひたすら New York Timesの海外版などから情報を吸収していたが、その中にfact-findingと theory-building の両面を併せ持つ事が肝要だと書かれたのに共鳴していた。 社研の三本柱は前者を重視していたが、後者は弱かったようだ。私の在職中(初期の7年)に知るかぎり矢内原忠雄所長や所員が方法の問題を提起したことは無かった。1947 年 12 月に社研から刊行された「社会科学叢書」のあとがきに、矢内原は「我が国では社会科学といえば、マルクス主義の代名詞といわれていた時代があったが、私どもは社会科学という語を広義に用いているのであって、マルクス主義も社会科学の一つではあるけれども、その全部ではない」と意識的に区別を立てて説明していた。南原は申請する時にその名称を社会科学研究所と決めるについては「少し新しすぎるじゃないか」という慎重論もあったと語っている。1954 年の高島善哉『社会科学入門』(岩波新書)でさえ「社会科学とは何かしら好ましくない学問であるといったような印象が一部の国民の間にまだ残っている」と書いている。南原などは社会諸科学- 3 -の中にマルクス主義を加える事を公認した点に新しい意味を認めたのだろう。1952年には行政管理庁がたった一時間の行政監察を行った後社研廃止の案を出した。また 1958年頃には東大内部から国際問題研究所に改組する案が提起され、存立の危機が問われた。それらはいずれも無事解消したが、当時の政党などの見解が依然として懐疑的だったことを暗示した。1947 年には英語名称を“Institute of Social Science, Tokyo Imperial University.”と決定している。 それは占領軍への届け出に必要だったらしいが、単数で表現したことに意味があったのか否かは説明が無い。1947年秋頃に機関誌『社会科学研究』の名前の英文について再び検討され、宇野弘蔵や山之内一郎は単数、鵜飼信成は英語の常識では複数との説でかなり熱心に論争し結局単数と決めている。 O.E.D.Vol.Ⅱ.1933(The Compact Edition.1971)p.2902.では単数の表現に 1848 年の用例として The conception of a social science is due to M.Comte.(コントの『実証哲学講義』によると思われる)をあげている。またA Supplement to the O.E.D.Vol. Ⅳ, 1986.p.320.でもsocial science を単数であげ「社会の構造と機能の科学的研究。人類社会を総体として、または一部分として組織的方法で研究するすべての学派」と解している。その用例には 1785 のAdams,1821のBenthamから1949のMead,1977のGiddensがあがっている。これらは明らかに単数で総合的な社会科学をとらえた例である。他方同書p.315にはsocialの用例の中に、social sciencesと複数でタイトルを出して「個人と他人とのつきあいから生ずる相互関係に属する、またはそれに基づく、あるいは一グループ、乃至は一つの会の会員になくてはならない機能や構造の」という意味をあげている。この用例にもたしかに J,S,Mill や M.Meadなど諸種の社会科学の用例をあげているから、社会諸科学を全体にまとめた意味で使われたものだろう。この両者の実例では総合的な名辞としてどちらを使うべきかの基準はないといってよいだろう。 ここで問題になるのは「社会科学」は敗戦当時までの日本社会では一般にはマルクス主義のものをさしていたという慣例である。その場合には、すべての社会において下部構造である生産様式が法律、政治、文化など上部構造の基礎となる。従ってあらゆる学問は経済学に規定されるという史的唯物論の前提がおかれていた。社会科学はその全体が有機的な一体をなすものと考えられたのである。ただし、旧体制の日本にはもちろん明治時代から経済学、法学、政治学、歴史学など社会現象を研究する個々の学問が輸入されていたが、それらの総合はおろか同部門の学会の内部討論さえほとんど無かった。前記『総合年表』によれば、明治以後自然科学系43、人文・社会系 30の学会が記載されているが、その内自然2、人文5は東京、京都両帝大内部に限定したものだった。会員の発表内容を統制するための便法だったのではないか。 これはもとより政府の言論、思想的弾圧を避けるものだった。では何故社会科学がマルクス主義を意味するとして忌避されたのか。それについては社研月報 135号(1974.12)に「社会科学- 4 -としての政治学の発足」と題して書いたから省略する。 ドイツでも1918年まで社会民主党はあっても、大学に社会科学部や社会科学研究所は無かったようである。Rolf Wiggershaus の“The Frankfurt School.”(原著は1986、英訳は 1994)によれば、ドイツに現存する、社会科学系の三大研究所のうち、最も古いのは第1次大戦直前の1913年に鉄鋼のクルップ家等の寄付で、キールのクリスティアン・アルプレヒト大学に設立された Royal Institute of World Economy and Marine Transport.(世界経済び海上運輸研究所)のようであるが、それは当然右派的なものであった。それに次いで第1次大戦後 1919 年にケルンに市から 12 万マルクの予算を受けて大学制度(社会学部、社会政策学部)とともに The Research Institute of Social Science.(社会科学調査研究所)が設置された。これには当時ケルン市長で戦後の西独首相になったカトリック中央党の Konrad Adenauer(1876-1967)の要請をうけたカトリックの知的伝統に立つ哲学者 Max Scheler とリベラルの背景に立つ社会学者のLeopold von Wiese とが理事となった。左右の政党のバランスをとったものであった。ドイツでもここに初めて社会科学の名が用いられたようである。三番目に出来たのが有名なFrankfurt Institute of Social Research, (ドイツ 名は Frankfurter Instituts für Sozialforschung. 社会調査研究所)である。これはキールと対象的にユダヤ系の穀物商の富豪ヘルマン及びフェリクス・ヴェイル父子の寄付による、左翼系のイデオロギーに基づく社会科学研究所であった。ヴェイルは純学術的意味でソ連のマルクス・エンゲルス研究所をモデルとしたいとさえ考えたという。ここでも「批判的」と言う言葉がマルクス主義のカムフラージュとして使われたという。§2 その組織と活動 社研の所長には官制公布と同時に、南原と経済学部に復帰した大内の協議で矢内原(東大経済学部を1937年に免官。無教会派のキリスト者だが、新渡戸稲造の植民政策の後継者でマルクス経済学と古典経済学を融合した立場。1893~1961)を迎えた。植民地を旧日本帝国が全部喪失し、彼が批判的に研究していた植民政策は国際経済論と改称されたその時期に彼の自由主義的識見を復活させる場となったのである。コミュニストの疑いは持たれず、マルクス経済学では最長老で、社会科学研究所を統率するには絶妙の人事だった。47 年4月当時の部門とスタッフは以下の通りである。- 5 -部 門 教授 助教授 翻訳官 併任教・助教授 助手第一部(米国)第二部(英国)第三部(公法)第四部(政治)第五部(経済)嘉治鵜飼山之内宇野内田有泉高橋鈴木大内遠藤林楊井克己末延三次・野田良之岡義武大河内一男大塚久雄下山瑛二福島新吾松村憲一塩田庄兵衛 しかし当時大学には学長や所長を事務的に補佐する役職は無かった。総長や学部長は大学評議員を相談相手としたようだが、新設で評議員がない社研では矢内原は早々と8月末に嘱託を発令された山之内(ソ連法)、鵜飼(行政法)と翌年1月になった宇野(マルクス経済学)の三教授を頼るしかなかったようだ。その二人が犬猿の仲だったから、運営は難しかったであろう。 鵜飼は当時稀だった戦前米国留学の知米派学者でマスコミの寵児であり、火中の栗は拾わなかった。翌年3月に前田文相の秘書官から教授に採用された嘉治真三(経済地理学)は業績も乏しく全く消極的であった。有泉亨(民法)、内田力蔵(英法)が主に所長の事務補佐を勤めていたようだ。鈴木鴻一郎(マルクス経済学)、高橋勇治(中国憲法)、林茂(日本政治史)は所内行政にはノータッチのようだった。遠藤湘吉(財政学)、大内力(マルクス経済学)はまだ三十前後だった。その他に非常勤の嘱託で、藤井洋(経済学、後講師、1951死去)、高橋幸八郎(フランス経済史、後教授)、佐藤功(憲法)もいた。一挙に教授クラスを揃えるのに苦心したようである。まず戦前思想的に追放されたり植民地喪失で失職したソ連・中国部門の専門家が考慮された。しかし予算が通らなかったので他部門担当の名目で先行採用した。経済部門は労農派のマルクス経済学者で固めた。戦前の講座派系の大多数が投獄等にあい、採用条件に沿わなかったこともあったのか。大内らの構想に沿わなかったのか。講座派には歴史、社会運動、国家などの専門家もあったが、それらは選考されなかった。全員が東大出身だったが、調査経験者を加えるべきだった。決定したスタッフは在来の学部としては当時の事情ですぐれた選択といえるが、新時代をになうと自負する適格性は乏しかった。在来型の文献的専門研究の学者で弟子がない不安を感じたのか、新制大学院が設置されると争ってその講義を担当し、なぜわざわざ負担を求めるのかと疑問をもたれた。法学でいえば解釈学より法社会学や、歴史研究をより重視すべだっただろう。自然科学系(特に統計学、資源・環境問題)の人も必要だった。 法・経両学部からの併任教授・助教授は単なる目付け役だった(鵜飼所長の後任選挙に彼らが山之内を排して有泉に投票した為に両者同数となる事件があって、以後併任教授を謝絶した)。 大河内だけは労働組合の実態調査に深く係わり、専任以上の役割を果たした。社研の内部では- 6 -当初から社会科学とは何を如何に研究するのか、在来の法学、政治学、経済学とマルクス主義とはどう協調するのかという、組織の根本問題に誰一人あえて疑問を提出せず、その立場を考えようともしていなかったようだ。大塚が病床についたことが惜しまれる。『30 年』で有泉は「社会科学とは何ぞやという議論をしてもまとまるわけはなかったのです。結局それぞれが少しづつ自分の関心にしたがってやっていくより仕方がなかったのです」と当初からの絶望的見解を示している。所内の派閥対立がそれほどに激しく収拾がつかなかったところに、日本の革新運動の病弊、世界的なマルクス・レーニン主義の深刻なセクト主義の欠陥があった。少なくともどんな意見が対立するのかを討論すべきだっただろう。しかも社会諸科学の総合、協力という課題は、立場のいかんを問わず考慮されるべきだった。また制度上課せられ、所員の誰も経験のない調査を行うのに、何を、如何に調査するか、それはどのように新日本の建設に資するのかをまず徹底的に論争すべきだっただろう。それを所員会で十分検討することもせず、研究費を申請して通過した事業に応じて調査が始まったといっても良さそうであった。ところがその研究費の申請は本来の予算で各教官に与えられた研究費では総合的な調査を遂行する事は不可能であったので、戦前には自然科学系に限られていた機関研究費の配分を要請し文部省科学研究費特別委員会として、社研中心の「民主主義研究特別委員会」が認められた。文科系では「現代中国研究」、「日本における外国語及外国文学研究法研究」と並び36万円(最高額)が47年度分として4月上旬に内定されていた(実施は42万円。個人研究では普通2千円であったから破格)。それは第一部「民主主義の思想と制度ー各国の比較研究」、第二部「日本における資本主義の発展と民主主義」、第三部「転換期における行政機構の民主主義化の問題、殊に各種委員会の実態調査」、第四部「労働組合運動と民主主義ー特に最近の労働争議にあらわれた民主主義化の実態調査」となっていた。第一部はほぼ全所員の名目で研究題目が羅列され、ほとんど名義人には配分されず、実質は一括して調査費に使用していた。第二部は経済部門の独占で農地改革の実態調査を書面で行っていた。この両者は報告は出ず、わずかに第三部、第四部が単行本で報告を出した。後には農林省林野局、建設省など他の官省、川崎市など地方自治体、その他民間機関から委託研究費を受けるなど、調査の実施には種々苦心があったようである。 さて私は実際に助手として勤務を始めて研究所の活動が漠然としているのに驚かされた。形式的な研究会、その他の会議が連日のようにあった。記録を再現すれば4月7日所員会。14 日所員会。17 日経済研究会。18 日法律関係例会。21 日民主主義研究委員会総会。24 日経済。28日ロシア語講習会(毎週)。5月1日経済。2日法学。5日所員会。助手研究会。5~7日経済公開講座。9日法研。12~14 日政治公開講座。16 日助手研。17 日労働組合調査。19 日所員会。19~21 日労働法公開講座。22 日農地委員会。26 日所員全体研究会。30 日法学。6月2日所員会。4日労働組合。6日法学。9日所員会。12 日助手研。13 日法研。17 日英米部会研。19 日- 7 -助手研。26 日助手研。27 日民主主義研。30 日英米研。7月4日学術研究会議研。7日所員会といったあんばいである。この他記録がもれたものもあろう。スタッフは自分の領域をかなり限定して休んでいたが、助手はこれらのほとんど全部につきあう建前で容易なことではなかった。当時助手は「御殿女中」と批判もされたが否定しきれない。お茶汲みも使い走りもあった。 後述の諸調査の実働員は大部分助手だった。その外に研究所として当初助手に命じた雑用があった。先ず図書分類。これは通常の図書分類では経済、法律等が大ざっぱにすぎるから、特に社会科学分野を詳細に、かつ地域研究を考慮して、地域分類を加味した、複雑な社研専用の分類表が作成された。ところが図書係の事務職員にはそれを適用する能力が無いとして、助手がそれを担当することになった。さらに「資料整備」として官庁発行の資料を官庁に配付予算が無かったから、助手が交通費自弁で(といっても交通機関はバスは当てにならず地下鉄虎の門からあとは永田町、霞が関一帯を徒歩でかけまわる)官庁を回り受領に回った。時間のロスも大きく資料は重く、実質的にはそれが価値のあるものか不明で「今日は何貫目稼いだ」などと自嘲するクズ屋だった。不満が二年ほど鬱積して組合を結成した頃廃止された。もうひとつは新聞記事の切り抜きの指定を助手にさせた。これも 48 年秋には廃止されたが助手は貴重な時間とエネルギーを奪われた。しかも大学評議会における他学部特に病院からの反対のため助手を漸次昇格定着させて次代の研究者を自前で養成する方針が拒否された。そこで助手を一般調査業務に従事させながら、任期は学部と同じ三年とし(当初は論文無しに転任が受諾されていた)、助手の異議申立によってやっと一年延ばしたが、適宜他大学等に転出することを期待された。しかも他学部から研究に没頭して顕著な業績を収めた同年配の助手をスタッフとして採用した。これは才能を選択したつもりであろうが、研究所向けの能力選択ではなく、学部教授と同様に文献中心で調査に未経験な研究者を加えたに過ぎなかった。 研究会活動を省みると、全研究所合同の研究会は矢内原が所員の統合の為に力を入れたが、内田「ベンサムの立法理論」。遠藤「ホッブス・レヴァイアサンの思想」。林「国家の問題」。宇野「資本論の方法」。佐藤「ロバート・フォン・モールの生涯と学説」など分散した報告の為出席者が次第に減り盛り上がりを欠いていった。所員間に共通の問題意識が無いのが原因だっただろう。矢内原が神経痛の持病をもっていたので、報告者が実は神経痛が起きて報告が準備出来なかったと言い訳をする場面などまであった。 最も活発だったのは毎週宇野が主宰するゼミナールであった。私が入所する前に、野呂栄太郎『日本資本主義発達史』を終え山田盛太郎『日本資本主義分析』が終わりかけていた。宇野が「講座派」の理論の再検討を試みたものだったらしいが、次に平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』が候補となると、もう結構だと拒否し、その後は櫛田民蔵「農業問題」、次いで資本論の歴史的論証の部分や、ヘーゲル法哲学批判などを読んだ。これには経済学部から隅谷三- 8 -喜男、武田隆夫、加藤俊彦、氏原正治郎。外部から大島清(教育大と法政大の同名者二人)なども参加し、社研では経済部門と全助手が出た。法律・政治部門のスタッフは殆ど出なかった。 しかし報告者のコメントは内容を要約する程度で、一番力を入れていたのは、当時未だ使われていた改造社版全集や、高畠訳の伏字(戦前の検閲により出版、翻訳などで頻繁に登場した)の推定であった。日記に「意外に出席者が不勉強なのでおどろく。研究者の安住的態度か」としている。しかもその後ほとんど宇野の独演的なコメントで終わった。私にとっては何派の区別もなく、未知のマルクス主義的な日本社会の分析の鮮やかさに驚嘆させられた。山田の分析などテキストから多くを学ぶとともに、宇野の意見もまことに多様で示唆的であった。日に日に視野は広がり、戦時からの天皇制への強い共感は、反発とまではいかなかったが薄れていった。だが何しろ参加者すべてが労農派支持で、『分析』の「インド以下的低賃金」という有名なフレーズなどは政治的だと冷笑する。唯一講座派を自認する塩田助手はほとんど発言せず、やがて出席しなくなり、両派対立の根源は検討されず、一方的な印象を免れなかった。宇野が欠席したりすると低調に終わった。 法律関係の研究会では野田「プラトンのノモス」、有泉「労働争議の法理」、山之内「ソ連法学の概観」、福島「神山茂夫『天皇制の理論的諸問題』(6月発行の新刊書の紹介)」、遠藤の「ブレトンウッヅ協定」などの記録がある。上記の有泉の回顧にあったように、報告者の学問は在来そのままの各個バラバラで、各自の報告が全く統一を欠いていたから、蓄積されるものが無かった。 社研の公開講座、宇野「資本論入門」。高橋勇治「中国における国民党と共産党」。有泉「労働争議の法律問題」。内田「英米の家族法」。大河内「婦人と労働問題」、山之内「ソ連憲法と婦人の地位」。三日連続で一般の聴衆を集めたが助手には関心は薄かった。外務省の清水威久のロシア語講習会は毎週一回で七月に終わり大変有益であったが多忙でついてゆけなかった。これなど継続してほしかった。さらに助手だけの研究会もレーニン「帝国主義」を読んだ。「帝国主義」とは、現代の植民主義を指すのか(たとえば矢内原の『帝国主義下の台湾』)、金融独占資本主義の総体を指すのか曖昧だとの疑問で混乱した。§3 社会科学をめぐる対立 当時統一的な社会科学を強く意識したのは、宇野を筆頭とする労農派の人々であった。彼らはマルクス主義以外に社会科学はありえないと考えており、強い経済学優先思想であった。しかしそれは社会の政治、法律、産業、市民などの分野の諸現象の特殊な研究を自ら総合してゆこうという見解ではなく、社会現象のすべては経済構造によって決定されているから、経済学を知らずして学問は無いとする唯物史観を信奉しているだけであったように思われる。たとえ- 9 -ば宇野の意見では政治思想史などで、基盤の経済構造の変化を乗り越えて各時代間の学者相互の思想や観念に歴史的連続性を認めることなど成立し得ないと丸山の学問を否定した。封建社会の思想と資本主義社会の思想は、全然異質で共通の論理はあり得ないというのであった。だが資本主義以前の経済学について研究する方法論を示すことはなかった。マルクス主義のいわゆる社会発展史観についてもどのように研究するかの方法を持つわけでもなかった。マルクスやその一派がそれをどのように説いているかを知りその方法を模倣しさえすれば総合的な社会科学になると考えているようであった。この立場では解釈法学等は全く技術的な修辞法と考えられたであろう。したがって研究所には法学の専門家は全く無用なのである。宇野がマルクス主義の最高性を主張する時、私は自然科学にも、数学や物理学だけではなく、応用化学のような分野があるではないかと政治学の独自性を擁護した。ただ労農派に対抗する日本共産党、あるいは講座派支持を称する人々の社会科学観はもっと極端だった。 私自身がやがてその見解に追従したのだから批判する資格もないが、ソ連共産党の正統を受け継ぐ日本共産党の理論だけが社会科学だとする建前であった。この立場では山之内が代表的だった。 戦前からソ連を公然と支持して研究を続けた勇気と戦闘性は尊敬のほかなかったが、数十年の収集資料を全部空襲で失い、米占領下でソ連資料は入手出来ず細々とソ連紙を読む程度のようで研究の継続は困難だったのだろう。日常的な行動は温厚篤実で、厳格な遵法主義者と見受けられた。しかし公的な論争となると極端なソ連礼賛一辺倒で、一切の伝統的制度を拒否しようと努め、妥協を認めなかった。学問的には戦時の鬱屈から解放されて与えられた言論の自由の快感にひたっていたようで、ソ連の憲法の解説や法学の内部事情の解説を語ることに精力を傾け、かって自ら翻訳したパシュカーニスのやや公式的なソビエト法理論が、ヴィシンスキーのスターリン主義に追随した権力主義的な法理論によって痛烈に批判され、パシュカーニスは粛清されるにいたった経過を無条件に賛美していた。その意欲はすべてスターリン指導のソ連現政権礼賛、宣伝につきたといえる。Off-timeの私生活の言動は同志の学者や朝鮮総連の人々と酒を楽しみつつ、天皇制や労農派の痛罵をくりかえすことのみであった。その言動には社会主義の優秀性を認めさせ、人民戦線への参加を促す寛容性や魅力を示して保守派を説得するどころか、好意を持つ一般の市民や進歩的な学者にさへ、反感を与えることも少なくなかったと思われる。社研設立当初から頑な原則論で矢内原に敵対し、当初好意的だった矢内原にまで、ついに敵意を懐かせるにいたった。 私はその純粋性を尊敬し、自分の結婚の立会人までお願いしたほどだが、それゆえにもっと学問を、もっと和解をと苦言をくりかえし、ついに激しい不興を買うにいたったのは無念である。その還暦記念論文集が三年もおくれ『今日の法と法学』(下巻)が先生の急死によって追悼論文集となり、そこに捧げた「秘密の保護は『防ちょう...』と同義か?」を生前に見て頂けなかったことも痛恨事であった。一般に進歩派の社研所員としては、占領後の日本はい- 10 -かにあるべきか、日本革命はいかに進めるかの問題を考慮することが最大の急務だったと思う。 それにはまず戦前のコミンテルンテーゼがどんなものだったか、その現在はどう考えたらよいかという点から出発すべきだったと思う。その為には戦前の経験者は進んで当時の状況を後輩に伝達してほしかった。 しかし獄中十八年を栄光とする党主流派のセクト主義はそのような教育を意図しなかった。彼らは戦後直後には国民的な人気の高かった山川均の人民戦線提唱に対応して、救国民主統一戦線を叫んで一見呼応するかの如く見せて人民戦線をぶちこわした。ドイツ共産党ピークの「人民統一戦線」を破壊した自己批判も全く顧みられなかった。 非転向だけを振りかざし、セクト主義の反省を全くせず、戦前の反共派の労農派や社大党の屈伏だけを非難する偏狭さを捨てきれなかった。しかも社研で共産党を支持する人々もそれが革新の主流だからと独善の過ちを看過、許容していたのであった。戦後の共産党は占領下の弾圧とソ連幹部の批判の板挟みになり、テーゼのどの部分が占領民主化によって実現されたか、どの点が不十分なのかという基本問題の討議にふれようとしなかった。 志賀義雄や神山茂夫らは公式主義ながら若干の発言を行っていたが、中央では秘密裡にそれにからんだ派閥対立を起し除名や脱党が続いていた。その中で1950年1月のコミンフォルムによる野坂批判(実質は徳田批判)がおきた。 徳田はそれに一度は反発したが一週間で全面降伏した。その間に私は招かれて代々木の共産党本部二階のM.L研究所の会議に出席、眼と鼻の先で徳田球一書記長がまさに真っ赤になって、日本の事情を知りもしない幹部達が勝手に口を出す、二七年テーゼの時と同じだとコミンフォルムの批判に反撃したのを見た。 当時徳田は日和見主義と批判され、占領軍にはほとんど無抵抗で専ら吉田内閣への議会主義的な非難攻撃のみ(それを串刺し論と称していた)を展開していた。私は二・一スト中止の大打撃以後の米占領軍の公然たる反共主義の下では、日本の革命は出来るはずが無いと半ばあきらめわずかな改良闘争を支持していた。今日から見れば、コミンフォルム批判は朝鮮戦争開始に先立つ第二戦線結成の要求にほかならなかった。 だから徳田の抵抗は全く意味が無かったわけではない。宮本顕治の国際主義の方が誤っていたであろう。その自己批判は無いのだろうか。§4 私が経験した研究・調査活動① 無産政党の選挙結果 未だ勤務に慣れないうちに初仕事を命じられた。1947年4月の戦後第二回の総選挙で日本社会党が第一党になったので『社会科学研究』の編集委員会が普選以来の無産政党の選挙結果の変遷をまとめる論稿を私に依頼した。だが戦中派の私は何も予備知識が無くて当惑した。政党論を展開するにもやや粗雑な協調会編『無産政党史』などしか参照文献も無く、当時の裏面のかけひきに動かされた政治過程の資料も揃っていないし、当時非合法だった日本共産党を含め- 11 -て、どの政党が正統かなどという評価はもてなかった。出来ることはただ最も正確な選挙結果の記録を集約することと判断した。ところが戦前内務省警保局と衆議院事務局で二種類出していた結果報告が東大にも内務省にも完備していない。ようやく両者取り混ぜて揃えると、今度は内務省編「衆議院議員総選挙結果調」と、衆議院事務局編「衆議院議員総選挙一覧」に所属党派など微妙な食い違いがある。それらを苦心して公平に整理し、無産政党の優勢な選挙区を探ってその特性を指摘するなどのささやかな分析を加えて約二ヵ月で試論を提出した。だが編集部では一種の無産政党論、或いは戦前の無産党右傾化の批判などを求めていたのか、レベルが低いと没にされた。② 労働組合の調査・研究 ノートに 47 年5月 24 日9時有楽町(産別)とあるから助手になりたてでいち早く訪問活動がはじまっていたらしい。同年 10月のメモでは連合体、単位産業連合、大企業別連合、地方産業別連合、事業別連合など様々な形態のものを根こそぎ調査しようとの方針がたてられている。 その中で中央郵便局を訪問し、その委員長で後に全逓委員長として有名になった宝樹文彦にあった。すでに顕著に反共的でこちらの質問にも極めて用心深く回答し、野間宏を知っているか等とカマをかけてこちらの立場をさぐろうとした。他に安立電機、東京都土建製材従組、逓信省本省なども多分訪れたはずだ。この調査の過労と深夜の個人研究の疲労の積算で 1948 年3月頃私は軍隊での結核を再発し以後半年病欠せざるを得なくなった。そのために実行できなかった訪問先も多かったはずである。これらの調査の第一回の報告書『戦後労働組合の実態』(1950 年、日本評論社)は、単位労働組合への文書によるアンケート調査に止まらず、一部は訪問による調査を加えており、未知で注目を集める問題だけに、一応の成果になっていた。 48 年後半以降の「労働争議に関するゼミ」としたメモは次の様である。1 争議。大河内、有泉、塩田、福島、川田侃、竹浪祥一郎、遠藤、隅谷三喜男、石川吉右衛門、磯田進、横山不二夫。(大河内、有泉、隅谷は理論研究だけ、石川、磯田、横山は名前だけ)。2 中小工業。大河内、有泉、隅谷、氏原正治郎、松本達郎、藤田若雄、山中篤太郎、岸本英太郎、名和統一。とあり、原則毎週と決めている(山中、岸本、名和も名目)。調査原案は1時期の概観。2産業の一般的状況。3当企業の概観。4当工場の概観。5労組調査。6争議調査。7この争議を契機として起きたる諸成果、となっている。 対象としては第一期、京成電鉄、三菱美唄、第二期、電産、二・一スト、第三期、全逓、小松製作所、第四期、東宝、帝国石油があげられ、それぞれに東芝、国電も加えて担当者も決定していた。この労働運動調査は大分後まで継続し、社研の看板の一つになった。研究費かせぎの負担がとれてからかえって本格化したようで、いかにも社研らしいスタイルが確立された。これは大河内、有泉、- 12 -氏原、藤田、隅谷、遠藤、塩田諸氏の奮闘の成果であった。氏原はその職人的調査力を買われて経済学部助手からいち早く社研研究員、助教授の道を突破したが、当然の人事と認められた。 病気から回復した私は遅れて49年11月10~17日石川県小松製作所の調査に学生安藤昭三を伴って出張した。しかし第二組合が会社と提携して共産党幹部を追放したという生々しいケースで争議も起きていなかった。その経過を共謀した会社と第二組合の側から聞き取るのは大きな限界があった。調査の中でも馘首者と連絡を取らさないように、さまざまの妨害工作を受けた。こうした調査は会社への影響も考慮して発表はずっとおくらされて 1971 年にようやく社研調査報告第 13 集として『戦後初期労働組合調査』が刊行されている。③ 選挙調査 1948 年 12 月に朝日新聞の企画で蝋山政道を中心に鵜飼、辻、川原次吉郎(中大)、中村菊男(慶応)が参加し、翌年1月に行われる総選挙の実態調査を日本で初めて行うことになった。 鵜飼がその企画を持ち込み社研や法学部の助手を調査員に勧誘した。社研の仕事ではないが二人のスタッフが指導するので公然と参加でき、政治研究を目指す私にとっては願ってもない好企画で下山と共に即座に参加した。 法学部では辻の研究生で左派の阿利莫二や川島門下の法社会学の潮見俊隆、唄孝一、卒業間際の学生の石田雄、広中俊雄らが入った。 学生も多数動員された。朝日で何度か方針を協議して、調査地区に都市部は東京都第一区の台東区、農村部は第七区の府中町(現府中市)と西府村(現府中市)を選定した。鵜飼、辻が都市部担当、われわれはその協力者となった。 翌 49年1月23日の投票日まで約1ヵ月上野、浅草地区でなまの選挙の進行を近々と熟視することができた。この調査の方法は委員会で決めた聞き取りの諸項目(一度テスト調査で再考したもの)の印刷を有権者に見せ、面接した大学生の調査員が回答を書き取る方式とした。 何党に投票するか(回答の信頼性を確かめるため、投票の十日程後に同一人物に再調査した)の他に政治意識の方向を知る狙いで、昭電事件、賃金釘付け、役人、会社の首切り、高い税金、ストライキの諸問題について賛否の意見を聞いた。有権者名簿からの被調査者の無作為抽出を考えてみたが、住所の拡散、勤労者の自宅での面接時刻設定の困難等を考え、朝日が作成した事業所調査表から従業員 30 人以上と 30 人以下とに分けて計 362 の事業所を選び、その中で区内の有権者で前回 1947 年総選挙の投票者を選んで質問することとし、計 743人の被調査者を得た。 協力者たちも地域の実情を知らないと回答の分析も出来ないと考え、同じ調査表を持って自由に対象を選んで質問し、あわせて地域の政治事情も調査して総括に備えた。それは数量化された回答の意味を判断する上で大変有効であったと考えた。後に統計数理研究所の林知己夫に事業所の抽出、その中のサンプルの選択は有意標本(purposive sample)を選んだことになる、またそれを他の標本調査の知識で解説したのも非科学的だと批判された。統計学の理論を現実に適用するには大変金がかかるという微妙な難しさを感じた。- 13 - 確かに事業所では回答者が自由ではなく、事業主やおかみさんが助言、代弁した例は多かった。我々も聞き取りの依頼に事業所に立ち入るにもなかなか勇気がいった。阿利は勇敢にも浅草のテキヤの元締めとされた芝山組に乗り込み質問を重ねて来た。私が入った小さなぺン製作所では回答者が工場入り口の帳場のおかみさんの前で、社会党に投票すると答えたが、選挙後に再調査に行ったら「社会党なんか内にはおけないよ」とその工員は既に首切られていた。重大な人権侵害と調査者の責任を痛感したが異議申立も出来なかったのは消極的だったと反省している。別の町工場では選挙調査と言っただけで親方にコップの水をかけられて追い出された。 これらは私にとって調査といえども、戦前の体制を残す支配層と改革をめざす層との闘争になることは否定できないという印象を与え、その後の調査への大きな教訓となった。浅草寺の裏手で飛び込んだ小さな靴屋さんは、対面してみると梅毒で鼻が欠けていた。ぎょっとしながら耐えて質問を終えたが、名刺をもとに三月末に突然東大まで訪ねてきて、企業組合から収入をはるかに越えた所得税の額を割り当てられ、どうにもならないから助けてくれとの依頼を受けた。 私も自信はなかったが、好都合にも当時取引高税という印紙を貼って所得を証明する税があったので、それを調べると明らかに過重課税が立証された。それを持って税務署に同行したら、名刺の東大助手、文部教官という肩書が強力な効果で所長が出て減税を認めてくれたので大変感謝され当人が亡くなるまで付き合いが続いた。 この例でも官尊民卑や中小企業の中のボスによる課税の不当な押しつけを知ることが出来た。この調査報告は我々協力者がまとめ、朝日から『政治意識の解剖』と題して9月に刊行され、好評を得て満足することが出来た。また辻の斡旋で『潮流』のコラムに石田雄と二人が無署名で初めて総選挙のルポの短文を寄稿した。 この選挙は民主自由党が総数466名中264と戦後初めて絶対多数を獲得した。占領軍の施政方針の転換と、翌年の朝鮮戦争というきびしい状況で、日本に一党独裁の弊害を生みこの国の民主主義の定着を大きく歪めることになった。それが今日まで継続する保守政権独走の出発点である。当時それはヒトラーの再現を想起させたし、米国ではすでにその前年から非米活動委員会が国務省の鳩派の赤狩りに猛威をふるい、翌年にはマッカーシズムが台頭したのである。 私はこの時反ファッショに身をささげる決意で共産党に入党した。反天皇制や日本革命の動機は薄く反米、反ファッショの意識だった。④ 公安委員会調査 1949年には社研全体が47年からの民主主義研究特別委員会の総括にあたっていたようだ。 私は半年病欠し事後も過労を避けて出たり休んだりしていたが僅かに武蔵野市で公安委員に面接し公安委員会担当の報告を作成した。1947 年12 月17 日制定の「警察法」は「内閣総理大臣の所轄の下に、国家公安委員会及び一三万人を越えない国家地方警察隊を置く」とともに「都道府県知事の所轄の下に、都道府県公安委員会を置く」「市及び人口五千以上の市街的町村は、- 14 -その区域内において警察を維持し、法律及び秩序の執行の責に任ずる」「市町村長の所轄の下に市町村公安委員会を置き、その市町村の区域内における警察を管理せしめる」等と規定している。戦前には内務省警保局長が道府県警察部長(東京府は警視総監)を全国一括して管理下において警察国家の悪評を得ていた。それを解体させようと考えた占領軍の意向に基づいた1948年3月7日の同法施行で、警察は一挙に約 1605の小単位に分断され、しかも中央政府の左右し得る警察力は定員でおよそ四分の一、地域は非市街的な部分に限られる形に縮小されたのである。さきに特高警察の解体も完了しておりこれは正に特高・警察国家にとって大打撃であった。 しかし国民の大多数はそれを知らず、それに直面した地方政治家たちはむしろ財政負担をきらう消極性しか示さなかった。 他方占領軍に対抗して天皇制国家の柱石に任じていた内務・警察官僚はさまざまの手段を用いてその権限存続につとめた。 従来の警保局長、警察部長などにかわって公安委員が警察を管理することになったが、その人選が一つの要で、予め旧内務省で適切な人物と推奨する職業、社会的地位などのモデルを作りそれを全国に回付して、警察官の意のままになる保守的な公安委員会が形成された。 私が面接した武蔵野市の公安委員は慶応の民法教授で比較的率直に内情の一部を語ってくれたが、警察の事前の立案によって警察長の選択や警察官任用が遂行され、公安委員はそれを追認するだけで、自由な意思の発動は殆どありえないものになっていた。 警察官の採用はすべて旧内務省系の国家地方警察隊が管理する都道府県警察学校卒業者に限られた。しかも警察官の総定員 12 万5千人は従来より約4万人増員されたのでその補充に不足し冗員の割当を待つ状況だったという。ここでも占領民主化の空洞化、旧天皇制の存続陰謀を強く感じた。また治安問題には体制維持の権力の論理が露呈する事を痛感した。⑤ 農村調査 行政、経済、社会の各方面から町村行財政の実態を把握しようという試みであったが、それを如何に実施するかの戦略は討議されなかったと思う。私の在職中の調査地域は一括して示せば、次の通りであった。実施地域 期日1 茨城県鉾田(ほこた)町 1950 年1月、補充調査4月3~5日。2 群馬県島村 1950 年5月6~9日。3 福島県神指(こうざし)村 1950 年8月27~9月4日。4 静岡県下河津(しもかわず)村 1952 年2月23~26 日。5 群馬県強戸(ごうど)村 1952 年8月24~9月2日。6 徳島県木屋平村 1953 年8月。ただし前4回の調査については、『社会科学研究所の三十年』(1977、東大社研編)には記載- 15 -されていない。第1~3回の資金は『立法及び政治教育の政策に寄与する目的のための農村実態の総合調査』として、1950~51 に科研費試験研究特別研究費を受け、50~53 に実施されたとだけ記録されている。 鵜飼、辻、高橋幸、林、潮見俊隆、福島、喜多川篤典、磯田、大内、加藤一郎、羽鳥卓也、小山博也、阪本仁作、下山、照井隆太郎、竹浪、中木康夫、吉野悟、秋田成就の名が列記されているのみだ。 しかし私の記憶では他に内田、遠藤、暉峻衆三らも参加し、その全部に連続参加したのは数人の助手と鵜飼、林くらいであった。その報告は各人の調査結果を一括して審議し評価するシステムをつくらなかったので、個人報告を提出しないスタッフがいて、全体の総合が完成しなかった。そこで正式報告はされず、年表に乗らなかったのかも知れない。また第5回は『日本社会の基礎を為すコンミュニテイーの総合的社会実態調査』として 1952~54 の特別研究費を受け、鵜飼、有泉、内田、林、磯田、加藤俊彦、遠藤、大内、潮見、高柳信一、藤田若雄、福島、小山、長坂聡、江守五夫、岡田与好、大島太郎、藤田勇、戸原四郎、暉峻が名を連ねている。1 鉾田町。 私は先乗りとして一人で初めて宿泊先や村その他機関との打合せなど下ごしらえをした。そして折り返して本隊を誘導したが、乗換列車の時刻を誤り、途中駅で待たせる失敗をした。此処を調査地に選定したのは、当時同県の鹿島地帯に常東農民組合があって、若い山口武秀という強力な指導者が出たことに注目したからである。山口はすでに1947年の総選挙に無所属で当選、49年には労農党所属で連続当選し、後には共産党に入党した。調査は数日だっただろうが、初めてふれる農村地域の真っ只中の小商業都市の生活の実情にふれることは誠に新鮮で魅力的だった。 町はいたって平穏であった。町の人はここは日本の蒙古だと自嘲していた。Y教授の紹介で訪問した医師の娘二人は強烈な東京願望を語り、まさにチェーホフの「三人姉妹」時代だなと痛感させられた。 予想した農民意識の高揚に反して町の雰囲気は「台風の眼」という停滞した印象であった。若い人々だけは山口を高く評価し、有力者は一斉にアカと攻撃した。この初めての農村調査で、農地改革関係をたずねる経済調査や、婚姻圏関係、夜這いなどを聞く民法関係は比較的話がはずむが、所得や町議会議員・町長選挙の問題になると口は固い。国政関係は関心も薄くて容易に成果が上がらない。出るのは腕力で町政が左右されるといった嘆き程度であった。 背広の研究者が戸別訪問すると、まず税務署、次いで警察関係者と誤解された。その警戒を一旦解きどこでも出される枝豆をつまみながらの話となっても政治は差し障りが多いと口が重くなった。 投票に買収ないしそれに近い報酬が出まわっていると察しられたが確証は得られない。こうした一般家庭の戸別訪問をまめに回るのは助手たちだけで、スタッフ連は体裁にこだわるのか、労力を惜しむのか、または細部の問題に無知をさらすのを恐れたのか、町役場とか、農協の事務所などのボス達との格式張った話しか聞かない。そこで全体像を構成する相互討論でも、下からほり出- 16 -した政治、経済の対立関係をボスの力で皆丸くおさまったものと結論したがる矛盾が生じた。 調査の基本姿勢の不統一であった。一つにはまず事実を発見し、その後に理論を考察するという姿勢がなく、適用すべき理論をまず見つけようとする性急さだったのであろう。その結果報告をまとめる段になって、農民側に立つラディカルな見解と、町の有力者層の反乱抑止型の意見が食い違って、世論の批判を恐れるスタッフ達は報告執筆を怠り、総括にいたらぬまま放棄されてしまった。これは単に一調査の成果ばかりでなく、その後の調査全体の空気となり、助手は労力のみ多くして業績は残せない結果になった。2 島村。 これは関東の村の規模として面積、人口がほぼ平均的で、地理的にも関東平野の中心部、商工都市に近在するモデルとして選択された。前者のような革命的政治運動が顕在しないことも考慮されたと思う。ただこの村は 1955 年に境町に合併されたが、中心部が利根川の中州になっており、村の統合にはかなり困難な要因をもっていた。この村には高良とみ参議院議員(1952年に始めて訪ソを果たし、さらに帆足計、宮腰喜助と訪中して初の日中貿易協定を締結した)の生家(蚕糸業の問屋でキリスト教徒だった)があり村人の尊敬を受けていた。 ここでも私は先乗りをしたが本隊出発の日寝過ごして列車に乗り遅れ、特急で別の道から何とか本隊が到着する時迄にかけつけた。こうした失敗で無能助手の評価を受けたのかも知れない。林に最初に起用されるのは実力検討の意味があるよと警告されたが全然気にしなかった。ここでは私がさきに経験した選挙調査にならって、有権者名簿からランダム・サンプリングで抽出して訪問者を特定する、統計学的に厳密な方法を採用した。しかし質問項目が村民の要求と結びつかず、その回答からあまり明確な問題意識を見い出し難かった。村民の意見は全国的な世論の動向に安易に追随する傾向を確認したにとどまった。朝鮮戦争開始直前で吉田首相が南原東大総長を「曲学阿世の徒」と罵ったり、大学の左翼教授追放の声がやかましい時期であった。この調査で副産物となったのは、時ならぬ若い学者多数の来村を迎えて、村の青年たちが大いに学習意欲を高め、助手の一部もそれを歓迎して座談会を二回組織し総員が発言して大いに熱弁を振るい賑やかな交流が行えたことだ。私の宿泊した家の青年にはその後早大を経て町議会議員を何期か勤めるほどの影響を残した。3 神指村。 調査の成果がなかなか纏まらないので、経済部門の主張によったと思うが、幕末時代からの庄屋文書の研究を進めていた福島大学の玉山勇、庄司吉之助教授らの協力を得て、成果をあげようとしたようだ。その反面政治・法律関係ではさっぱり問題がつかめず、外部から参加したT調査員が偏執狂的で、ある部落の冬季の下水溝の溢水をめぐる紛争を過大評価して全般の調査を妨げる言動がありほとんど成果無しに終わった。4 下河津村。これはどうして選定されたか不明だが、伊豆の東南部農村で、温泉もあり、温- 17 -暖な農漁村であった。半島の交通不便のため、幕府時代からの若者組の組織、規約などが残っており、その聞き取りは興味があった。これは磯田の持論の村落構造の研究の視点で潮見が選定したのかも知れない。 私の関心からすると調査がますます現代から離れて、学者の興味本位に走る傾向を感じた。偶然の出会いだったがこの村に大矢好治という米国で花栽培の技術を勉強した指導者がいて、当時としては珍しいカーネーションやバラにビニールハウス栽培を導入し東京への出荷を指導し、大きな成功を収めていた。米作中心の農業学者は重視しなかったが、その後五十年静岡県一帯に定着、発展している。5 強戸村。 これは社研に行政管理庁から廃止報告が出された状況下で「コンミュニティーの研究」に研究所全体で取り組むことになった調査であった。私はすでに社研に残れない状況で最後の助手論文に没頭していたからくわしい事情に通じなかったが、調査方針で助手たちがスタッフと衝突し調査は中絶の形に終わったようだ。 この村は昭和初期に農民組合が強く、土地闘争に勝利して村政まで手中におさめた希有の歴史をもっていた。第一回普選に日本労農党から須永好が立候補したが、当時八百軒の村で五百軒が組合員で村長も農民組合、村議二十五名のうち十九名が組合員という状況であった。その伝統で当時も日本農民組合の勢力が強く、戦後第一回の総選挙でも須永を衆議院(社)に送っていた(46 年死去)。それを太田市出身の大島太郎助手が知っていて推薦したのだったと思う。6 木屋平村。 これは私は参加していない。磯田が自己の村落構造の理論を実証する意図で小グループで行い、まとまった単行本の成果をあげた例である。調査員の統制と検証すべき理論仮説の提示が不可欠なことを示した。この外川崎市の市政調査というものも、通勤で行い疲労が大きかった。報告も書いたはずだ。§5 理論と実践。 その頃私はようやく自分は社研の調査その他の業務を継続的に忠実に果たすことを期待されず、個人で論文を書き他大学の教育職に転出することを求められていると理解した。就任の際は任期3年、後に1年延期を認められたものの調査と雑用に明け暮れた。 1950年1月には「政党の社会的基礎」と題した政党の地域別得票とその都道府県の職業別分布との相関から、その支持層を探ろうとした論文を提出したが、数理的分析を政治学に持ち込んだこと、また経済学部の増山元三郎ゼミで学んだ推計学による相関係数の意味の検定を加えた部分などが特に理解されず昇格を認める空気では無かった。 助手仲間の進退を見ると松村は1年半、塩田は3年8ヵ月で退職したが、特に塩田は社会運動が専攻で左派の学界では早くから著名だったから所内での昇格は有力視されていたが激論の末否決されたと聞いた。続いて下山は3年8ヵ月、渓内謙は3年6ヵ月、川田侃は2年7ヵ月、近江谷左馬之助は4年、喜多川篤典は3年6ヵ月、中木- 18 -は4年3ヵ月それぞれ適職がある時他大学に転出した。私は調査に長く携わって職人的なfact-finding の実力を養いたいという希望を強めていた。 私(7年)のほか中小企業の調査に熱を入れていた松本達郎(6年11ヵ月)、政治史の小山(5年2ヵ月)、ソ連経済の竹波(6年8ヵ月)、ローマ法から法契約の本質を考えた吉野(5年)、宗教改革から人間性と政治を考えた阪本(病気欠勤を含めて9年)が研究専念派だったかもしれない。 だがここには技術指導をする親方がいないから何とか自分自身の理論を確立する事が急務であった。 当時丸山は東洋政治思想史の講義を開始したばかりで、私は「超国家主義…」には感激し、一連の福沢研究に興味を引かれたが、思想に重点がおかれ過ぎている、政治制度や大衆の政治意識が評価されないなどとして東洋政治思想史と政治学は隔絶していると考えていたらしい。 マルクスがどこかで「事物の論理」という概念を使っていたように記憶するが、それを発見することが私の理論研究の目標だと思った。何をテーマとするかについてはマルクス主義では当時必ず理論と実践という問題を迫られた。机上の空論より階級闘争に有効な実践に励むべきだというのである。それは活動への参加を求めていたのだが、私は行動のみが実践ではない、理論活動の中で現実とかかわる理論を取り上げる事が学者としての実践だと考えた。 日本の革命は米占領軍の撤退や世界情勢での左翼勢力の優越が起きなければ不可能だが当面は日本のファッショ化を阻止することが目標でそれに有効な課題を研究することが最も実践的だと考えたが具体化は難しかった。 当時自分自身にも偏りがあった。私は色弱のため幼児から他人との色彩の認識の不一致に悩まされ、自己の認識の客観性に自信をもてなかった。逆に読書能力は小学一年で六年の教科書が初見ですらすら読めておおむね理解でき、その点での同年者との相違も懐疑主義につながったのかもしれない。 中学時代から旧盛岡藩出身で母の実家と古くから交流があった元国際連盟事務局次長新渡戸稲造を尊敬していた。その『内観外望』(1933 年)に「教育とは学校で習ったことをことごとく忘れた、その後に残っているものをいうのだ」、「大学で聞いた講義のノートなどを持ち出してチャプター・エンド・バース〔to give chapter and verse=引用句の出所などを明らかにすること〕をやっている時代はまだ本物でない--すっかり自分自身の物になり切った、パーソナル・コンヴィクションになった、それがほんとうの教育である」と述べている。さらにデカルトの説を聞き自分で検証するまで他人の説をうかうか承認するまいとした。 それは一種の経験主義になろうか。そこで戦後の民主主義全盛期に政治学を研究しようと心掛けていながら、当時全盛のプラトン、アリストテレス、マキアベリ、ホッブス、ロック、ルソー等々の古典やブライスの近代民主政治などをまず学習する方法をかたくなに避けた。そして就職論文執筆以後現実政治に直面してそれを分析することを第一とし、初学者がたどるべき理論研究を後回しにしていた。社会科学の理論でも留保を続けた。講座派、労農派どちらもマルクスの解釈論争で、その依拠した経済・政治史的事実、理論的問題を自ら原資料にあたって著者- 19 -以上に分析しなおす意欲は欠く訓詁学と思った。たとえば天皇制は絶対主義か、近代君主制かと争っていても、マルクスは何を絶対主義、何を近代君主制としていたかを検討する事もなかった。 そこで私は当時マルクス主義に全面的に傾倒する意思は無く、ソ連や共産主義には批判意識を持ちつづけようと努めた。1949年のメーデーに初めて参加して赤旗の波に生理的違和感を覚えた位だった。マルクス・エンゲルスもその現実性に魅力を感じて基礎的に読み進み、その歴史的業績には大いに傾倒したが、その「具体から抽象へ」という段階には足踏みをしていた。 資本論も第一巻までは学んだが、第二巻中途あたりから、経済、金融の知識がなくては自分には空論だと足踏みした。初期マルクスや、ヘーゲル批判などまで研究が及ばずマルクスにはあまり政治理論が無いと感じ、エンゲルスに注目したが、その『家族、私有財産及び国家の起源』の実証性には疑問を抱いた。この段階で適切な指導をしてくれる先達を持てなかったのは不幸であった。宇野などにはそんな関心は無かった。こうして私は七年の長期間さまざまな得難い体験を得たが、社研の方針に従って調査の専門家という展望をあきらめ、十分な学者としての準備も出来ぬまま専修大学へ転出することにしたのである。§6 社会的活動 社研に入って間もなく先輩から慶応大へ行かされた。京浜地区大学高専助手研究生連絡会とかいうものの初会合だった。そこで戦災後の研究の困難を打開するために東大図書館の利用を各大学に開放してほしいと要望が出て、東大から独り出席した私が図書館にその旨依頼することになった。当然の事と考えた私は帰って司書官に面会し、趣旨を伝えたところ数日のうちに所長に呼び出された。図書館からの苦情を受けた「イワン雷帝」矢内原所長は、新任の助手が権限もない図書館に申し入れをするとは何事かと卓をたたいて叱責した。こちらはその剣幕に震えたが何が悪いのか、戦後の困難を互いに助け合って乗り切るのが当然だ、先生の主張通りではないかと一歩も引かずに抗弁したらやがて所長は破顔一笑君の言い分は正しいが世の中には正義も通らないこともあると非難を撤回した。所長とこんな対決をした助手は私一人だっただろう。 党に入ると政治的活動が要求された。社研の職務、自己の研究と重なり忙しさがトリップルで目が回るようだった。まず東大法・経・文などでは教授の圧力で作られていなかった労働組合組織を社研で作ろうと1949年2月に塩田を委員長に結成した。助手以上の加入は無かったが、これは当時の社会では当然の行為であまり困難もなかった。しかし組合を拒否する事務長直結の職員と、図書室、用務員との亀裂を生んだ。又思いがけなく経済学部や法学部の図書室系職員たちがそれぞれ職組をつくる刺激を生んだ。私はここで唯一可能な事は教職員の親睦と差別の廃止だと考え年末忘年会などを全員で楽しくやった。5月には大学管理法案反対闘争の委員- 20 -に押し出された。占領軍の意図で政府・与党がしきりに制定の動きを見せた大学の自治をおかす政策で左派の政党・労組・学生はもとより、各大学当局も反対していた。いち早く全学連は運動を展開していたが、5月 28 日全国 70 大学学生参加で大学法対策全国協議会を結成した。これに教職員が加わる形をつくろうと、社研山之内、農学部近藤康男、古島敏雄、大阪大伏見康治、都立大寺沢恒信など少数の教員が参加し、私も山之内の補佐役として学生との連絡にあたった。気炎はあがるが左翼学生ばかりで各大学内での実勢力は頼り無かったが、大学当局もこの運動には教室利用などを許した。 当時CIEのイールズが新潟大学で左翼教授追放の演説を行ったので、教授連でこれに反撃しようと、総司令部 CIE に7月16日ルーミス、8月4日にはイールズを訪れ米国の有名な Holmes とBrandeis 両判事の a clear and present danger を生み出す状況がないかぎり言論を抑制すべきではないとの判例をあげて、左翼教授の学問の自由を擁護した。民間でどこかの州の countyの教育長だったらしいイールズはそんな憲法の常識すらなく答弁に詰まった。この時案内した学生が高沢寅男(故社会党議員)と戸塚秀夫(元社研教授)だった。この頃から学習運動の助言者も命じられて様々の会合に出掛けた。大学法の解説から破壊活動防止法案など次々とテーマは変わった。スターリンの社会主義経済の諸問題なども大真面目に指導した。塩田退職で社研職組委員長になった 49年12月、恒例の年末一時金闘争が東大職組でも盛り上がった。当時南原総長は対日講和の意見交流で渡米中で瀬藤象二工学部長が代理であった。 大学事務局の警備不足をついて組合側は大衆交渉にもちこみ、馴れぬ瀬藤に一時金支給の調印をさせた。これが懲戒問題となり約二年公聴会での係争の後原田正道委員長(第二工学部助教授)、大山勲副委員長(理学部助手)は休職、身分保障の無い福本書記長(本部事務局事務官)は気の毒にも解雇となり東職はその救援活動も出来ず、行き詰まった当人は数年後自殺する悲劇に至った。 この間朝鮮戦争が始まり共産党議員は追放され、幹部は地下活動を開始しいよいよファシズムの出現と緊張した。アカハタが戦争報道により発行禁止となると、戦前の経験にものをいわせて党は次から次へ禁止をくぐってその代替紙や、「占領目的阻害行為禁止令」違反となるコミンフォルム機関紙「恒久平和のために!人民民主主義のために!」、地区の党紙などの非合法紙を発行した。 その秘密配付が党員の大きな仕事となり、現物を持って警官に自転車の無灯火で意見されたり、大晦日に大量の束を受け取り、新年は縁の下に隠し持ったりヒヤヒヤした。東職本部が懲戒反対闘争に明け暮れているうち連合体の東職の各単位組合は休眠状態におちいった。 委員長交代が出来ず1年半が過ぎた。組合保全のため放置出来ないとついに 51年4月頃組合新参の私が半年と期限をきり工学部助手の高橋昇書記長(現『技術と人間』編集長)と組んで委員長になった。私は3月に結婚したばかりであった。初代の長畑一正(病院)二代原田は助教授で助手は異例であった。就任にあたり社研のスタッフに挨拶したら昇格に響- 21 -くと警告されたがそんなことは無関係とつっぱねた。医学部(付属病院)、農学部、理学部、工学部、第二工学部(千葉)のほか学部には単位組合は無く、地震研、本部事務局、史料編纂所、理工研、新設の社研の連合であった。 しかも朝鮮戦争開始から一年、米占領軍の戒厳体制はますますきびしく、学内には本富士署の私服刑事が多数歩きまわっていた。1952年2月の「ポポロ事件」で学生が取り上げた私服刑事の警察手帳(「吾々は告発する-警察手帳の全貌-」)にも私の大学への出入がメモされていた。当時東職委員会はかろうじて四五人の出席で、活動といっても最低限の情報ビラを委員長、書記長と学生書記の四人位で大学構内各所にちらばる連絡のない単位組合の職場まで配って歩く始末だった。だが病院の看護婦が組合のビラなど何年振りと感謝され、工学部の技術実習担当の高齢の元労働者などは、好意をもって受け取りながら弾圧されるぞ気をつけろと戦前の経験を語って励まされた。 外部では書記長と二人だけで芝公園のデモ禁止のメーデーや労働者決起大会に参加したり(手帳に記載)、無謀にも少数の委員会で差し迫るサンフランシスコ平和会議に向かって 8.15までの数日講演と映画の「平和祭」を計画、人脈を存分に生かして法哲学の尾高朝雄、大河内に紹介された官庁エコノミストの稲葉秀三、渡辺一夫にことわられて一高の恩師フランス文学の市原豊太の三氏を引出した。 それに毎日一本づつ反戦映画、「また逢う日まで」「大いなる幻影」などを上映した。これで少しは組合員も参加するかと期待したが、強権横行の時代、私服刑事が入り込む状況で学生(夏休みで半年後の「ポポロ事件」の時のように刑事を捕らえるほどの数がなかった)や、ひそかに呼びかけた本郷周辺の労働者、在日朝鮮人の方が多かった。 最後の8月 14 日第二食堂で平和祭を開こうとしたが、まず大学の用務員、それを説得すると本部事務員、さらには鉄門前に集結した本富士署から、無届け集会禁止で解散を命じられた。組合員の集会だという弁明は参加者を一目すれば崩れる。日頃大学当局は学生デモに対し学内に警察権力を入れないと、大学の自主規制で処理している状況を考慮すると、ここで警察の立ち入りを招くことは影響が悪いと判断して、残念ながら委員長の独断で解散し、参加した朝鮮人に軟弱だと非難された。 翌日は本富士署に任意出頭で高橋と二人敗戦記念日の暑い西日の中尋問され、前途ある東大の助手が労働者や朝鮮人と共闘するとはと戦線分裂をはかったり、突然机を叩いて怒鳴ったり、硬軟使い分けでさんざん脅かされたが弱音は吹かなかった。 その夜は大田区の工場で非合法の平和決起集会に参加などした。東職は東京都大学高専教職組連合(略称ダコセ)に加入していたので、その線で総評の平和闘争に参加し、8月末には浅草の仁王門の真ん前の歩道で、すぐ後ろに交番をひかえながら、平垣日教組中執とともに生まれて初めての街頭演説をやり、幼少期の上海の状況を述べて講和後も続く日本の主権喪失を訴えた。 9月初旬には総評の平和推進国民会議主催の朝鮮戦争後初めての大規模の平和集会とデモに参加して感激した。場所は意外な靖国神社境内、デモも両国震災記念堂だった。インドのネルー首相から友好の象が贈られ、宗教者平和運- 22 -動協議会の日蓮宗妙法寺僧侶が団扇太鼓で参加したり、1年半に及ぶ占領軍の戒厳令的治安に抗した民衆の平和的感情が爆発した。全面講和、再軍備反対、中立維持、軍事基地反対の平和四原則は参加者の大きな願望であった。このデモで私たちダコセグループが先頭に立って組合旗をかかげて行進する姿が『人民日報』に掲載されたと聞いて快哉を叫ぶような子供じみた気分であった。すべて蟷螂の斧であった。 嵐のような半年はまたたく間に過ぎ、11月には南原後任の総長選挙で、農学部が推した岡田教授を委員会でしりぞけて東職として矢内原を支持し(12月3日当選)最後の統一戦線の仕事を終わった。その後遠山茂樹(史料編纂所助教授格)が後任と決まり、私は破壊活動防止法案反対のための解説執筆や、小集会での報告、講和発効後のメーデー事件など緊張した日常を続けつつ、僅かな余裕を得て二度目の助手論文「戦後日本の警察と治安」を執筆した。尚政治研究そのものについては幸いに専修大学法学研究所紀要 29『政治学の諸問題 Ⅵ』(04年3月)にこの続編として掲載を許されたので併読をお願いしたい。- 23 -〈編集後記〉 12月号をお届けいたします。福島所員の論考は単なる回顧録にとどまらず、今日でもなお多くの問題提起をし得るものでした。 社会科学を志す者にとって、理論と実証のバランスはいつでも難しい問題を孕んでいるように思われます。理論なき実証は単なる事実の羅列を招く恐れがありますし、逆に実証という作業は理論に対して絶えず修正を迫ることにもなるでしょう。こうした理論と実証の間の相互補完的発展性は常に念頭に置かれなければなりません。すなわち、原資料にまで下りて、それを丹念に、かつ批判的に読み込んだり、あるいは、自らの理論の枠からはみ出した調査結果を謙虚に受け止めたりする姿勢が研究者には求められているといえます。また、「理論活動の中で現実とかかわる理論を取り上げる事が学者としての実践だ」という筆者の主張は正鵠を得たものです。一方で自らの専門を極めつつ、他方では、大学教育の場において現代社会の諸問題との接点を常に意識することによって、研究者は自らの研究成果を社会に還元することが可能となるように小生には思われます。 さて、教員としてのわれわれは、「学校で習ったことをことごとく忘れた、その後に残っているもの」を今日の学生にどれだけ与えることができるのでしょうか。(Y.S)
2025年01月22日
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福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時代ほか├計量計測データバンク ニュースの窓-152-福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時代ほか├一1一 これほど劇的な世界に生まれあわせ、何らかの忘れられない体験を持たなかった人はいないであろう。しかもそれが個人的、あるいは少数の人による経験であり、さらに時代の流れを示す意義を持っと考えられる時は、その記憶を後世に伝えたいと思うのは自然であろう。もっとも原爆や空襲罹災、その他戦争犯罪にからまるようなあまりも悲痛、残虐で口に出せない記憶を持った人は、とうてい語りえないかもしれない。多分歴史にはそうした記憶や経験は残らないで消えていくのだろう。 私の経験は平凡なものだが、時代が大きく変わった今では、理解されにくい。なんと違った世界に生きたものか、異常に生真面目な生き方をしてきたのかという疑問さえ感じさせる側面を持つと思う。少なくとも私個人やその家族の経験では、一度は戦前の天皇制国家を強く支持し、その国家の存亡の危機を感じて、あえて戦いに身を投じようと決心した。そして敗戦を悔しい思いで迎えた。 占領軍への不信は容易に消えなかった。しかしそうした思いは、当時では行動に表せば反占領軍的として非合法となるものだった。そこで人と多くを語りあうことなく事態を黙視していた。 自分ではその間にマルクス主義の学問、ソ連型社会主義に魅力を感じていった。そこに朝鮮戦争が起こり、日本も半ばその渦中に巻き込まれ、眼前に展開された現代兵器の下の苛烈な戦争は、激しい思想・宣伝戦で実情の把握が極めて困難であった。その後もさまざまな冷戦。そしてソ連・東欧がもろくも崩壊し、その支持に傾いていた私は、社会科学者として深く反省せざるを得なかった。 この間に私自身もさまざまな文献や資料を研究、思索した結果、ようやく民主主義の理想的な側面を、批判的に支持できるまでに変化した。その時には、すでに米日など西欧の支配層は時代に適応しないとして、それを逸脱する方向に変わりつつある。その代表が憲法改正論であろう。私の感覚からすれば、今尚、進みつつある方向が狂っているとしか思えない。 もちろん過去の天皇制、ソ連、中国の社会主義、そして今のグローバリゼーション。 いずれの理想も絶対に正しいものではない。少なくとも前二者の大きな誤りは明らかになったと思うが、それすらこの国の一部の人士はその立場によって、部分的にしか認めていないのかも知れない。 過去の何が間違っており、未来への政策の方向の何を正すべきなのか、それはすでに各人の選択するイデオロギーの問題である。新しい時代は脱イデオロギー、それを超越した時代ではなく、形の変わったイデオロギーを強力なマス・メディアを通じておしつけている事を忘れるべきではない。 私が特に今でも拘りを持つのは敗戦後の国民全体の転向の内実である。戦後の通説は、軍部の圧政に苦しんでいた国民が、敗戦によって苦難から解放され、歓喜をもって占領 軍を迎えたということになっているだろう。反動的に言うわけではないが、果たしてそれほど単純なものだっただろうか。一2一 歴史研究者の立場からいうならば、史料はいつも完全に利用されているとは限らない。そしてさまざまの史料の価値も時代とともに変化する。歴史記述の主な努力は、膨大な資料をいかに捨てるかに集約される。だがそこで何を捨てるかにイデオロギーが係わってくる。だから歴史記述はどんな場合にも時代的制約を受ける。捨てられた多くの無名の記録からも無数の歴史が記述されうる。 ある歴史家が「歴史記述とは、嵐の後の海岸に打ち上げられた難破船の破片からそこに何が起こったのかを推理するようなものだ」と述べていた。その場合も乗員の運命を慮るか、積み荷の中身を探るか、船の構造を推定するか、その難破の原因は事故か、作為か、自然災害かなどを推理する等様々な視点がある。 ささやかな個人史にも一片の資料の価値が存する場合もあるわけだ。私がここに記す事柄も戦後史の反古拾いであり、かなり私的な性格がつよいのだが、その史料的価値 はともかく、現在でも若い人にそんな事もあったのかと、多少の興味がもたれるかと期待する。ここでは特に上述のように戦後の政治意識に重点をおいて記述したつもりである。 私は戦後しばらく生活した後は、日本における社会主義の形成展開に希望をいだき、保守政権に批判的な態度を維持してきた。だがそれ以前の私は戦争終結当時には、おどろくべき愛国主義、抗戦主義に立っていた。それがどうして立場を変えてていったのか。 この記録を記しても、自分でも必ずしも明確に説明できないが、そこに通説とは大きなズレを感じている。 今日アメリカー国外交主義が、自国の主張する民主主義に批判的な国家に干渉し、武力に訴えて政権交代を求める事態が展開されている。そこでその攻撃の対象となる国家では、かっての日本と同様な忠誠の転換の問題が起きていると考える。それらの国家体制への批判は別として、その国民一人一人にとっては、それが外から如何に愚かな態度に見えようとも真剣な問題であろう。それにつけてもかっての日本のケースは果たして真の民主化であったのか、それとも大多数の国民の場合はカメレオンのように素早く色を変えただけに過ぎなかったのか。 今あらためて省みる価値があるのではないだろうか。近来靖国問題が保守政治家の大きな問題になっているのも、この人達が敗戦当時、あるいはその後の日本社会で真の民主化の洗礼や教育を理解しなかった事を証しているのではないだろうか。日本社会に今第二の敗戦などの声があるが、これは五十数年前の敗戦を正しく受容しなかった後遺症ではなかろうか。 叙述は時代を追っているが、問題によっては戦前にさかのぼる。また内容が家族史となる部分、あるいは私の学生時代の論文を引用する箇所も多い。公刊に値しないかと恐れるが、何れも時代意識の例示と考えての記述として許容していただきたい。 資料は、主に自分のノート、日記、書簡で、若干は当時の書物によるが、高齢のため手離してしまった文献が多く、史料考証は最小限しか出来なかった。大部分記憶にたよっていることをお断りする。当初自分の心覚えの為に執筆していたものを、社会的にも多少は意味があろうかと思いなおして公表するので、自己弁明はしていないつもりである。ただ当時と今と自分の思想は大きく変わっているので当一3一時の極端な意識については今日の目からの批判的コメントも加えさせてもらう。特定の個人や運動を批判する狙いは全く無いが、プライバシーのため一部の人名は伏せておく。第一 章 敗戦1945§1 ポツダム宣言受諾へ 1945年5月の空襲で東京霞が関の外務省庁舎は罹災した。焼け跡を囲む古典的な飾りのついた鉄柵ばかりが残って哀れであった。その前に外務省調査局は、今の東急東横線学芸大学駅に近い、当時の東京第一 師範(学徒勤労動員で休校状態だったと思う。現在の東京学芸大付属高校)に分室として移転していた。本省はどこに移ったのか知らない。 8月の11日か12日、その一室で、隣の課の課長がいつもより多い四、五人の課員を集めて「まだ秘密だが、ポツダム宣言の受諾がきまって連合国と接触中だ」と伝え、破顔一笑「助かった。これで私の家は焼けないですんだ」とつぶやいた。私はかねて課内で読んでいた外国公館からの秘密電報の内容などから、近くこんな結末になろうとはおよそ承知していたから、事柄には驚きはしなかった。しかし国家の重大事に対するこの課長のあまりにも私的な受け止め方に心から腹を立てた。 別に神州不滅の狂信に心から同調していたわけではない。ナチスやファシストのような特定の党派に属していたわけでもない。だがこの発言を聞いた私の反応は「裏切り」という感じだった。 イタリア降伏時にファシストがバドリオ政権に反発した。又第一次大戦後のドイツで、軍部支持派は降伏した政府当局者たちを"DolchstoB(ヒ首〔あいくち〕の一突きを背後から戦線の軍隊に刺した)"と非難した。私の感じはそれに似たものだった。 昭和大恐慌以後の農村崩壊から脱出するには、日本が中国資源を排他的に確保することが不可欠だというドグマを長い間の宣伝によって信じ込まされていたのであろう。頼みの幻の巨大戦艦大和」「武蔵」も、空母も飛行機も失い、もう肉弾以外にはほとんど戦力が無いことも省内の秘密資料で承知していた。しかもなお日米開戦前のハル・ノートの条件から若干の緩和をかちとるまでは戦争をやめられないと妄信していた。大本営発表の決死の切り込み攻撃や最後に予想された焦土決戦に何らかの効果があると誤信していたのである。 陸軍の抗戦派青年将校と接触していたわけではないが、同じ発想であった。敗戦後の農地改革、財閥解体、労働権の保障等々によって、奇跡の高度成長をとげた今では正にバカげたと考えられる展望しか持てなかったのである。 まだ兵役から病気で復員して、大学在籍のままの一嘱託に過ぎない身であった。しか し何でも腕力に訴える兵隊社会ならここで課長にビンタをくわせるところだとまで憎悪 を感じた。戦争終了で幸いに自分の家も焼け残るのだし、軍籍にある兄達の安否は不明だが父母と自分の生一4一命の安全は保証されるのに、その喜びを感じなかった。同年配に続々と戦死者、特攻隊出撃者があり、東京周辺では多くの空襲焼死者が出て、敗戦のさなかに無為に生き延びている自分を責めていたためだろうか。この発想は今日の靖国参拝を重視する政治家の思考と類似している。死者の追悼の仕方、死の意味のとらえ方、死後の霊魂の存在の信仰などの感覚に問題があるだろう。また生活実感の無い独身者だったためでもあるか?戦時の殺伐たる生活の中で、「死」にさえ無関心になっていた。生命の価値をまるで知らなかったようだ。結局自分もその時にいあわせた同僚 もただ沈黙して受け止めていたが、どんな印象を持ったのか、別れるまで聞く機会を持たなかった。戦後解放史観が通説となり、降伏によって死を免れた喜びを感じたとするのが定説になっている。勿論戦前からの社会認識により、体制転換を実感した世代、知識層があったことは間違いない。また破滅に打ちのめされて、絶望におちいっていた国民の大多数が、安堵を覚えたことも事実である。しかしそれにもかかわらず、停戦に矛盾する気持ちを抱いた国民が、当時それ程少なかったのだろうか。今日に至るまで、疑問とする。友人の数 人に聞いたところ、特攻出撃の命を受けていた人は、救われた意識が頬のゆるみとなってあらわれたという。直接攻撃の立場になかった基地勤務者などは、同輩の戦死を頭に浮かべて、割り切れない思いを抱き、敵ないし降伏を命じる上官、さ らには兄弟の間で、降伏に順応した者に怒りを覚え、「こんちくしょう」と睨みつけたとか、下士官が剣をふりあげて、将校に迫ったとかいう。戦争下の狂った心境にあっては、停戦即解放の反応は素直には出なかったのではないか。当時はそれがくすぶったまま、やがて和平の建前に統一されていったことも多かったのだと思う。そ こでも日本人の大勢順応主義が働いたであろう。それが結果 的には正しかったのであるが、真の体制転換には遠かったであろう。 私は『学徒出陣落第記』(1993、オリジン出版センター刊)に書いたが1943年冬の学徒出陣に参加し、病気に倒れて一年で陸軍から復員した。そしてこの年の4月20日(当時未だ霞が関の外務省があった)から縁故をたよって外務省に就職を運動し、5月22日採用、24日からここに勤務した(辞令は6月4日、外務省嘱託、調査局第一課兼第三課勤務、月手当六十円支給)。 ちょうどその夜世田谷区代田の自宅が西部地区二回目の空襲を受けた。依病招集解除で兵役は一年間不適と認定されていた。銃後といわれた市内には、すでに若者の姿は影をひそめ、歩いているのも気が引ける状況であった。結核療養といっても戦時下に医療の便も、投薬の道もなく、気儘に読書にふけり、病気や理科系で兵役に服さない友人と機会をっくっては会って話し合い、軍籍の友が休暇を得一時帰宅すれば慰労にかけつけるなどで気を紛らし、はたから見れば戦時ともいえぬ気楽な生活を送っていた。しかも内心では戦況がますます切迫していたたまれぬ思いであり、他方区役所の労務係から労務徴用を課せられるおそれ知っていた。軍隊一5一でその内部規律に強い不信を抱いたから、労務官僚の思索には一層信用がおけなかった。そんな労務徴用で結核を再発しては大変だ、能力を少しでも発揮できるデスクワークにっいておきたいと考えたのである。母方の祖父と伯父が共に外交官だったからかねてその道を目指していた。しかし大学授業短縮で昭和18年春の最後の高等文官試験(外交科)を受 けられず兵役に服したので、高等官になれない。それは承知でせめて外務省で働きたいと思った。 成田人事課長に大学を卒業すれば高等官へ推薦の道もあるといわれ、試験もなしに大学生のまま嘱託に採用され、世田谷区下馬の分室勤務を命じられた。兄の1942年秋の初任給も5~60円だった。しかし戦時インフレで、会計課が斡旋したヤミ鯨肉2キロを買ったら最初の月給は無くなったと記憶する。 空襲被害でもはや電車に頼れず、自宅から約45分の徒歩で通勤した。母は軍隊で死ぬかと思った息子が、時ならず社会人として門出するのを喜んでくれた。私は小学校3年以来ずっとザンギリだった髪を、死ぬ前に一度位はとオールバックに伸ばしていた。国民服も手に入らなかったので、米国生活が長かった母は私に、父の若い頃の派手な背広にチョッキ、ネクタイもしめさせた。さすがにゲートルは巻き母の手製の防空頭巾も肩にかけたにせよ、戦時下では異様な服装だった。自分では何も気にしていなかったが、約三ヶ月の間一度も街頭で文句をいわれなかったのは、不思議なほどだ。空襲に打ちのめされた東京ではもう憲兵や警察、ヒステリックな好戦派の在郷軍人などが国民に干渉する状況は無くなっていたのだろう。 むしろ初出勤して隣室にたむろす大勢の外国育ちの外交官の娘さんたちに、初対面でい きなり「暑いのに何故ヴェストまで着るの」と問いかけられて辟易した。母の着付けが正式と信じていたのでむっとした。しかし「男女七歳にして席を同じうせず」の時代に男ばかりの兄弟で育った若者は、「チョッキ」を「ヴェスト」という外国モードに通じた娘たちに初めてお目にかかってひどいコンプレックスを覚えた。ここには自分と同じに徴用逃れの外交官の子弟がたくさん勤めていた。ここで男女対等の娘たちに接触したおかげで戦後女性蔑視の感覚を捨てることが出来た。 ところで戦争末期の外務省調査局には実は何の仕事もない。人事課の乙津領事は上海で幼い私を覚えていると言われたが、課長の吉田氏は欠勤。かわりの上司にあたる課付きの市川泰治郎元シドニー領事から二三の調査を命じられた。佐藤尚武駐ソ大使公電に報じられた1945年度ソ連国家予算の分析(私の結論はソ連は対独戦は終わるのに国防費を減額 していない。対日戦に要注意ということ)。又当時まだクーリエ(傳書使、courrier)が駐 ソその他中立国大使館から運搬していた"DailyWorker"のレジュメが求められた。 今思うに外務省としてそんな将来的ビジョンなどなかっただろうから、彼の個人的に興味のあるものを小手調べにやらせて見たのだろう。レジュメの意味が分からず、問い返したら、作ったことがないのかとやや軽蔑気味に説明されて屈辱を覚えた。マスプロ教育 の東大と昭和初期の東京商大の違いだった。古一6一くから基礎的研究が重んじられた商大ではそんなゼミ教育が行われていたのだろう。東大ではそうした経験を持てなかった。それによって女性たちに、新聞を何時まで読んでいるのと馬鹿にされながら、世界労働組合会議創立総会の概要を作った。さらに世界労連の決議に戦争犯罪人の処罰要求があったので、第一次大戦の戦争犯罪人処罰の実態をアメリカの政治学雑誌で調べた。そしてカイザーはオランダに亡命したので、処罰できず、戦時国際法違反者の処分に終わったと報告した。今一つ自分で考えついて当時『中外商業新報』といったか、『日本産業経済新聞』だったかに掲載されていた米国の株式価格変動を太平洋の戦局(フィリピン、沖縄、硫黄島など)と対比してグラフに取ってみた。株価の上下には全く勝敗の影響が見られず、もはや戦争の大勢は決しているとの判断がついた。 市川氏はそれを見せても口を閉ざしたままで何も感想はもらさなかった。そんなことは多分識者にはすでに当然だったし、憲兵の耳を警戒する面もあったのだろう。当時日本の自然科学者たちが、日本の数字の単位は四桁刻みだから、西洋式に三桁でコ ンマを入れず、四桁にすべ と提案していたのに同調して、数字を四桁に刻んだら、帰国子女のタイピス トが不思議がった。ほかには、週一回くらいの防空用の宿直勤務が主な負担だったと記憶する。幸い勤務開始のころまでで東京の大空襲は終わっていたから、宿直の夜に空襲警報は出なかったが、警戒警報下で暗いビルを孤立した二、三人で警備しているのは不安であった。当時問題 の課長など欠勤続きで、市川氏なども空襲にかまけてさっぱり出勤しない。前の机の乾末松嘱託も私の幼年時代に上海で父と面識が有った人だったが、対面しないうちに空襲で焼死し連絡は途絶えたままであった。その机上に残 置されたStatesman'sYearBookなどの参考資料を私がそっくり引き継いで利用した。 そんな状態で勤務中に会話する相手は殆どなかったが、それでも出勤している人は分室全体ではかなりの人数で帰途何人かの同僚と歩きながら短時間でも話すことは楽しみであった。なかに戦前に米国国会図書館日本課長を勤めていて戦時下に交換船で帰国した坂西志保女史(1896~1976、戦後国家公安委員)がいた。 四月からローズベルトに代わって大統領に昇格したトルーマンは"ローズベルトがratherleftだったのと違ってratherrightinthecenter"だと説明してくれて、そういう分類をするものかとそのrの発音と共に感心した記憶がある。 隣の調査局第二課には罹災者に支給された兵隊服を着て肩から雑嚢をかけたやや背の高いロイド眼鏡の人物がいた。これが後に社会科学研究所の教授として再会し、思想的な指導をも受けたソ連法専攻の山之内一郎氏だった。また伯父の隣家にいた伊藤嬢は三軒茶屋から玉川電車に乗るまで帰途が同じでよく会話を楽しんだ。戦争への危機感も一致した。戦後思い出して訪ねたらすでに結婚して不在であった。岡本達郎君という青年は戦後占領軍に勤めていて、再会したことがあった。一7一 私の勤務なるものは、通常はほとんど無人の部屋で、暇にあかして棚から勝手に機密電報を引っ張り出し、片っ端から拾い読みをすることにつきた。そこには大本営発表とは正反対に、珊瑚海、フィリピン沖海戦の大敗、「陸奥」「武蔵」「信濃」「大和」など大艦の無為の撃沈や事故、スイス、スウェーデンなど駐在の日本の外交官たちの報告(アイルランドのダブリン駐在の別府節弥領事のものが特にすぐれていた)。中立国を介しての米英政府への必死の和平のための接触(外国電報ではpeace-feelersといわれていた)、佐藤尚武駐ソ大使以下の、(和平斡旋依頼のための)近衛特使のソ連派遣受入れ交渉の顛末などが記され、眼から鱗の落ちる思いを日々くりかえしていた。 あきれた事にある日、出仕早々の嘱託の私に、誰も出勤していないから課長会議へ出ろと呼び出しがかかった。多分ほとんど代理ばかりの十人たらずの会議であったが、その議題は東京も危なくなって、もはやこれ以上分室を残置するのは無理だろう。再疎開を考えるなら何処が良いかという話。そして議長の渋沢調査局長は何と未だ食糧のありそうな伊豆半島はどうかという。当時岩手県の宮古や房総ではすでに激しい艦砲射撃を受け敵の本土上陸は近いと予想されていた。九十九里浜か、相模湾が上陸地点と見られたのに、いくら何でもそこに近い危険な所をめざすとはとその非常識に唖然とした。しかしその後報告すべき上司とあわぬうちに私が赤痢にかかって約三週間欠勤してその会議は聞きはなしに終わった。 これより先二月に、東大法学部研究室にゼミナール指導の国際法の安井郁教授に復員の挨拶をした。安井さんは立作太郎教授の門下で横田喜三郎教授とは犬猿の仲。戦争初期にはナチスの国際法学者の欧州広域国際法の理論なるものを紹介、束亜広域国際法を提唱して、大東亜共栄圏構想に協力する態度が濃厚だった。また近衛首相、海軍などに接近し、講義で南京占領後の「蒋介石政権相手にせず」の声明発表の政策進言にかかわったことを匂わせて得意気であった。しかも学徒出陣の頃にはすでに敗戦の見通しをつけマックスウェーバー研究に逃避していた。戦後は教職追放にあい、杉並区の公民館長を勤め、ビキニの水爆実験にあたり、杉並母の会の人々と原水爆禁止署名運動の口火を切って、戦時下の行動を反省したと全国の運動をリードした。巷間オポチュニストの典型としてそしられている。たしかに直接接した私の感覚でもキザなところが多くて、心から好きになれなかったが、この方は大変頭が切れるスタイリストで、事態の推移の展望と反応が早すぎるが、悪意の人ではなかったと信じている。最晩年にはレーニ ン平和賞を受けたソ連とも接触が切れ、専ら金日成への信頼が厚かった。結局国際政治の判断力が乏しかったことになろうか。その時安井さんは「もう日本には近代戦を遂行する戦力は無い、南原(繁、政治学史、後の東大総長)、高木(八尺、米国政治史)両教授などが講和のために奔走されている。日ソ中立条約もサンフランシスコ会議後、廃棄は必至だ。最高政策の断が必要だ」と私に語った。当時小磯内閣は公にはまだ焦土抗戦を唱えていたから、実は一8一降伏は間近いのかと愕然とした。帰宅して母や戦傷で召集解除巾だった兄にその話を伝 え、政府の無力を嘆きあったものだ。その頃東京は数回の小規模な爆撃、焼夷攻撃を受 け、人は疎開に血眼で古道具や古本はタダ同然に山のように店に出ていた。戦争終結に賭ける投機感覚と資金があったら、東京の土地を買い占めることも可能だったかなと思うほどだ。 特高警察の取締りもうすれて左翼の発禁物もかなり出回っていたが私には関心が無く、山川均の「コミンテルンの歴史」という講座の一分冊を読んだ位だ。むしろ文芸物を折りにふれてあさりまわり、やがて焼けてしまった近所の本屋で、大正10年創刊頃の雑誌 『思想』をバラで手に入れ、ケーベルや中勘助、志賀直哉などの随筆を、夜問空襲を予期しながら宵の床の中で楽んでいた。 明日を知らぬ身にもこれらの文章は読んでそのまま血肉になるような思いがした。死を前にしての諦観だろうか。また父の蔵書にあった北一輝『国家改造法案大綱』などを読み、ソ連の講和仲介に密かに期待を寄せたりしていた。はずかしいが当時のあきれるばかりの国家主義、軍国主義への傾倒ぶりを日記の一部を抄録して告白しておこう。 このような記録はほとんど見かけない。丸山真男氏は最晩年の95年に、1944年11月 から45年3月頃の経験として、次のように語っている。 「山上御殿〔東大教授達の構内食堂〕で--私の前にすわっていた三〇歳ほどの、工学部の助教授の人が、『なんで早く手榴弾を配らないのか』と。これは冗談ではなくて真面目に言っているんです。驚くべきことですね。--(それが)その人の憂国の情なんです。--一言にしていえば、私の青年時代を思いまと、日本中オウム真理教だったんじゃないかと。」(『丸山真男手帖』24,p.42~43)。 私も武器を要求するほど具体性をもたなかったが、これと変わらない考えだったわけだ。そして多分これが当時の一部の青年の思想の実態だったのだ。 すでに二月頃から歯医者に治療に行くと、焼失して家が無い。外務省は就職運動中に戦災にあう。自宅の焼夷弾攻撃と闘い、あわや火災による窒息死の危険も体験したが、なお戦争の最終段階と思えぬほど落ち着いているのは不思議なほどだ。 「四月六日 昨日とうとう小磯内閣総辞職したが、後継は鈴木貫太郎大将だと云ふので些か心配だ。まさか今になって講和の手を打つのではあるまいと思ふが、組閣の交渉相談の相手が岡田啓介、若槻、勝田主計等と云ふ老人の従来の親英米派と目された奴ばかりだから危ない予感がしてならぬ。もしそんな事があって特攻隊になんと申し訳すか。内乱の危機もある。しかし爆撃と疎開者の焦燥との連関等を見ると、都会人の中に敗戦思想が相当流れてゐる事を憂へさせる。元老と云ふものの存在が日本の動きを妨げると思へてならぬ。」--これなど全く青年将校の言いぐさそのままだ。』二月の安井さんの見解はまるで気に止めていない。「四月二十八日 ベルリンは完全に包囲もされ市内も制圧されてしまって、全く最後の運命に晒された。ドイツに残る山岳ゲリラの手は果たしどの程度に有効か。日本への全面的攻勢の日は近い。死闘の用意を急がねば。」山岳ゲリラなどどこで聞いたのか。一9一「七月十四日(土)。今日山本実彦の『満鮮』(旅行記、昭7)を読了。なかなか面白く読んだ。所謂インテリ層の対満州事変態度の一班を知り得る。山本氏など特に優秀な方だろう。その中でも好い意味の層を代表するのだろう。非常に筆致曖昧だが、必ずしも(事変に)全面的反対では無い。列国の反対に関し及び支那軍の抵抗に関し危惧し我が力を過少評価する傾き。必ずしも平和主義ではない。国際連盟の政治的意図も看破している。ただし日本の軍部の意図に信なく人類的見地よりの国策樹立を望んでいる。政党の弊は知りつつも軍部の圧迫に対しては民衆の意思発現の意味から反対のよう。我が政府に国策を樹立遂行するだけの実力なきため対満策がその場当たりに流れすぎることを憂う。要するに悪い所は政治上の民主議会至上主義を内包する点にあるようだ。 その他では(1)間島の朝鮮少数民族問題。(2)山東苦力問題。(3)満州国に於ける労働力濫費問題。(4)日本人の自作農的移民と一旗的カフェ的移民の問題。(5)満州国構成上の日本人介入問題。などの所在の指摘。」--〔心底からの帝国主義〕。 七月二十九日(日)。昨日早川(孜 、故人。麻布中学同級で一高も共にした生涯の親友。当時東大経済学部在学。結核療養で徴兵不合格。戦後は東京銀行に勤務した)が来ていろいろ話した中で二人でこの努力を戦争以外にそそぎたいものだと痛感。またこの戦後も結局同じことが繰り返されるのだなあと人問の進歩せぬのを慨く。 ちょうどChurchillが労働党に敗れたばかりだったことから国家の今後の方向は当然国家社会主義的になると一致する。 八月九日(木)。ついにソ連開戦せり。今の世界には道義などかけらほどもない。国際法の躁躇が如何に堂々と行われることか。MachtPolitikのみ。如何にして日本はその永遠の生命を守るべきか。危機なる哉。ソ連の出方は意外に早かったなあ。どうもポッダム会談にあんまりスターリンの言い分が通り過ぎると思った。」 戦時の日記はこれが最後でその後の破局の日記はない。この数日後に初めに書いた課長の降伏予告があったはずだ。 八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞 く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。 その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦にいたる戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。 夕刻甲府の家族の許に帰るという親戚の娘さんを、危険な状況があってはと小田急で新宿まで送った。ついでに世間の反応はどうかと駅周辺の様子を見たが、いたって平穏で意外であった。反乱軍でも出ていたら馳せ参じかねない心境だったと思う。 翌日かその次の日あたり隣組の中年男たちが大声で「軍隊が無くなって、せいせいす る」と話一10一し合っているのを聞いて、人々の変わり身の早さに愕然とした。 八月末になって一年前に戦病死した戦友故佐久問豊実君の父君を船橋に弔問した。中学校長だったという謹厳な父親は、近くの陸軍の経理の将官が軍用物資を山のようにトラックで持ちかえったと身をふるわせて憤っていた。その痛烈な軍部批判に、観念的な愛国主義者は反省させられることが多かった。 降伏の数日後、私は第一師範の校庭に掘った大きな穴に、命じられた膨大な数の「機密文書」の山を次々に投げ込んでは焼き捨てていた。その大部分は戦時中最後まで中立国だった、スウェーデン、アイルランド、スイスなどに残留した日本外交公館が西欧の新聞雑誌などから入手した敵国側の情報を、本省あてに送ってきた暗号電報の解読であった。 それらは暗号解読の素材になる〔戦争終結後に?〕以外は、戦時中に一般国民や憲兵に対して極秘であっただけで、米国に対して何も秘密な事などなかったのだから、焼却する必要があったかどうか疑わしい。 その多くは未だ読んでいなかったから、敗戦後でもそこに何が書かれていたのか好奇心があり、何とか焼かずに保管できないものかなあと思いながら、紅蓮の炎に空襲の業火を重ね合わせて見守っていた。 「これから日本はどうするのでしょう?」という私の質問に、かって中国に在勤した年長の同僚の属官は「支那では役人も市民もみんなが昼と夜と二重の仕事でかせいで食いつないでいたのさ。日本もそうなる。」と答えた。 幼時に上海でさんざん眺めた、あらゆる町角にあふれる、ボロに包まれたクーリー(苦 力、下層労働者)や、乞食、カッパライとバクチで食いつなぐ浮浪児の姿が眼に浮かんだ。かって農村崩壊を憂いて決起した』二・二六の青年将校達の思想を思い起こすと「戦争で何一つ問題は解決していないではないか!」と悔やまれるのであった。 戦後最初の日記。「八月二十四日(金)。大詔を拝して丸十日、どうやら外地各戦線とも停戦は実行された様子。いよいよ敵の第一次進駐は明後日〔台風で二十八日に延期〕厚木に行われ、明日からは敵の監視飛行が始まって日の丸の飛行機の飛ぶのを見るのは今日を限りとなる。 この十日の心の動きを振り返ると実に複雑なものがある。しかもその中から何等行動の指針がるかみ得なかったところに俺の今の最大の欠点たる無気力が表れている。大詔を拝した瞬間は事をここに至らしめた国民の罪を痛感し陛下にこれほどまでの御言葉を告(の)らせ給うの止むなきに至らしめた輔弼(ほひつ)の臣の無為無策を痛憤した。陛下がこの戦争中国民はその全力を尽くしたとねぎらい給うた時ほど恥ずかしく、嘘だと絶叫したかった事はない。しかも時を経るにつれ、ますます重臣たちが反戦的に策動したという印象が強く戦力が未だ尽きざるに[何と認識が不正確なことだろう!]手をあげる事の『意地』の上からの口惜しさも手伝い、反停戦の暗殺等の噂をきくと、何とか大勢をひっくりかえしてくれぬかとの希望をすら抱いた。 しかし一方東久遍宮の御放送をきくと純粋に大詔を奉戴し再建に努力すべきだとの気持ちも一11一沸き他方、一般人の米占領軍に対する不安についてはどうもそれほど組織的に乱暴は行 いそうもないと思うところからやたらに停戦協定に違反する事も考えもの(どうせ再交戦 は不可能なのだから)という気もして両者の矛盾に苦しんだ。」未だ天皇主義にひたりき っていた若者だが、早くも転換の煩悶が始まっていた。天皇が皇室存続のためのみをはかって講和を決断した経過を全く理解していない。 そこに様々の指示と戦時中の指針との矛盾が出ていることに迷わされていたのである。§2 占領支配 多分9月2日の戦艦「ミゾリー」号艦上での降伏文書調印式の当日、私は港区田村町の元の日産ビル(当時は満州重工業を作った日産コンツェルンとして有名)にあった終戦連絡事務局(8月26日に占領軍と日本政府との連絡のために外務省の外局として新設された)に出向しており、電力不足で昼も薄暗い大きな事務室の一角で、配られた「指令(名前は不正確かも)第1号」「第2号」の綴りに驚いていた。「第2号」は戦犯逮捕の指令であった。 それはポッダム宣言から予期され、私も終戦前に第一次大戦後のドイツの戦犯の処理 を調査したりしていた。 だがその多数の人名の列挙を一見してすぐ頭山満や中野正剛など多くの死亡者、またとても戦犯には当たらない政治的に無力な人物を見た。「何だ。米軍の情報はこの程度か」との軽侮と、戦時中少ない情報で外国政治家の人名録なども印刷配付していた同盟通信のレベルは低くはなかったなと自負の念も起こった。 後に刊行された『日本管理法令研究』(1946年5月)には「指令第2号」(9月3日)は連合国最高司令官の管理すべき地域の降伏その他占領に関する手続きを定めたものであり、戦犯逮捕を命じた指令はない。実際には戦犯一括のリストは公表されず、9月11日東条英機以下36人、12月2日広田弘毅以下59人、同6日近衛、木戸以下9人となしくずしに、およそ100人がA級戦犯として米軍MPにより直接逮捕されたと思う。 そのA級戦犯の人数や氏名も私の記憶の最初の指定とは大きく違っていた。多分この文書は一旦取り消されたのだろう。その後B、C級の戦犯は千人をこえたが、その文書では政治家、軍人、経済人、思想家などの有名人ばかりでB、C級は含まれていなかった。 第1号の方はもっと重大な占領軍の日本直接統治の指令であった。ポツダム宣言で日本は間接統治とされているのにと愕然とした、これは米軍当局者の無知か、連合国の欺隔 か。外務当局の上層部はこれに直ちに抗議しているのだろうかと焦りを覚えた記憶がある。 『管理法令』では「指令第1号」(9月2日)は 「一・般 命令第1号 、陸海軍」(軍 隊が降伏する諸手続きを定めたもの)を発布する命令を中心にした簡単なものである。だが、私の見たものは、9月10日にワシントンで発表した「日本管理方針」に似たものだった。9月22日に日本で発表された一12一「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」の第二部第二節には「現存の日本政府機構を利用するが、それを支持するものではない。」としていたから、正式には間接統治は変えなかったわけだ。 この直接統治の文書の記憶について私はずっと幻を抱いていたような気がしていた。この点を「占領史研究会」(後に解散)の天川晃(横浜国大教授)、袖井林二郎(法政大教授)両氏に質問したら、やはり降伏当初Proclamations(布告)というものが二、三発せられ、重光外相が交渉して撤回した経緯があったとその頃分かったらしい。戦犯リストも米軍に準備がなく、フィリピン米軍の参謀部であわててズサンなものをでっち上げたことがあったとサザーランド準将のメモワールにあるそうだ。 私の記憶は幻ではなかった。何しろ米軍が進駐を開始した直後の8月30日一日だけで、私が見た終連横浜支局からの通報では神奈川県下の米兵の強盗、せっ盗、婦女暴行は千件をこえていた。それは戦時中の宣伝の「鬼畜米英」のイメージそのままであった。 数日でこの種の報告は禁止された。新聞ではしばらく「黒い大男の犯行」などと表現 していたが、やがてそれも許されなくなった。 個人的な事例だが我が家で戦前5メートル級中古ヨットを一隻逗子の鐙摺漁港に所有していた。それが米兵のために見苦しいと一方的に焼き捨てられてしまった ことをずっと後になって知ったが、何処にも訴えようがなかった。 そんな時代であったから、この情報にふれて、ひょっとすると米軍は本気で直接統治 するのかもしれないと不安になった。 その指令?の中に「日本政府の官吏の辞職は一切認めない」という項目もあった。「我 々も止められないのでしょうか?」と慌てて上司に聞いてみたら、「下っ端は問題にならんよ」と一蹴された。 しかし外交官庁から占領軍のメッセンジャーボーイに転落した終戦連絡事務局で、属官はさらに高文を通った事務官の使い走りであった。一つの文書に多くの課長や部長のメ クラ判をおしてもらう稟議書(りんぎしょ)を持ち回らされて馬鹿々々しくなった。しか もその事務官たちの知的常識の低いことにまたまた呆れさせられた。 米軍が二十四時間制の文書をよこすのに、十五時と書かれていると午後五時と読み違える始末だった。 高等文官試験を戦前にパスしていない身でこんな連中に一生使われたのではとても我慢が出来ないと感じた。 多分それらが退職を決意させたのだろう。辞令は9月18日付けである。§3 戦後の再出発・復学 私の在学中からの一高校長安倍能成先生が敗戦後多分最初の『週刊朝日』9月2日・9日号(9日発行)の巻頭に「日本の出発」という文章を書いた。米軍の検閲なしで最後に発行されたと思えるこの論説には「今や--日本の歴史あって以来最も大いなる又恐らく世界の国民の経験にも多くを見ざる、苦しい生の長い道が横たわっている。自国の利害を第 一とする連合国の方針が、日本人の考える程おめでたいものだかどうだかは分からない--新しく強い重一13一圧の加わる恐れもなくはない…一アメリカの大統領トルーマンは、日本人が平和を愛好する国民だという事を信じえて始めて警戒の手をゆるめるといった意味のことを口にしたと記憶する。彼のいわゆる平和がアメリカにとって都合のよい平和であり、平和を愛好することがアメリカに対する従順を意味するという制約も免れがたいであろう。しかし我々日本国民はトルーマンのことばを超えて、真に平和を愛好し、日本の存在を本当に世界諸国民の歓びとし幸福とし得るような、国家として国民としての最高の理想をめがけて進んでゆきたい。…一(昭 和 二 十年八月二十八日米機のしきりなる爆音を頭上にききつつ)」とあった。 あの時にこれだけの事をいいきったのは実に勇気があったと感心する。それは私が最 も共感を得た文章であり、戦後の再出発の導きであったし、今日にもなお通用する警告である。 ただその後のソ連による東欧の占領政策を知ると、ソ連にではなく米国に占領された ことは不幸中の幸せだったと認めるのが公平かも知れない。そして敗戦の後遺症は今なお続いているのだと自覚する必要があろう。 戦災を受けた安倍先生は世田谷の私の家の近所に仮寓しておられ、46年1月から5月までは幣原内閣の文相を勤めた。母が安倍恭子夫人(藤村操の妹)と東京府立第二高等女学校同級の親友だったので、入閣前から何度かたずねて先生の話を聞く機会があった。十畳位の一間に僅かな食器、日常家具と布団などを積み上げて、夫妻で起居されていた。その不便な暮らしの中で、『今ラジオで「夏の夜の夢」のオペラを聴いていた。面白いね』などと悠々たるものだった。 宗教とは何かと問うと『個人の命を宇宙の大生命とつらねるものだ』といわれたが宗教 に入らなかったのは何故とたずねる機会はもたなかった。また当時の米国教育使節団と学制改革について論じあい、旧制高等学校の長所を力説しその存続を求めたが受け入れ られなかったとこぼされたこともあった。 アイケルバーガー中将が帰国する時には、貨物船一杯日本の骨董などを持ちかえった と非難されていた。 私は多分9月中旬東京帝国大学(まだこの名前であった)法学部に復学した。学徒出陣にあたり文部省は昭和18年9月に二年修了(とい っても戦時の学年短縮で、最初の半年で一年の講義を終了したから、実質は入学後一年半だった)の学生にはある程度の単位取得をしていれば「仮卒業」という資格を与え、在学のまま翌19年9月に卒業させることに した。 そこで同期生はほとんど仮卒業になっている。(銀杏会調べによると政治学科407法律学科87計494名である。入学は約800だったはず)。 私も仮卒業資格があったが、当時まだ三年配当科目など七科目を残しており、「戦死するなら大学生のままでいたい。生きて帰れば、しっかり受講したい」という論理で、仮卒業の申請をしなかった。そこで敗戦後のこの時仮卒業組は聴講生にされたが、私は復学が出来た。とはいえ食糧危機、インフレ、交通機関の崩壊の中で、結核を患った身には殺人的混雑の電車で通学し、肋骨が折れる危険を冒すのは容易ではなかった。 この頃の生活一14一を示すノートの走り書きがある。『9月7日(金) 午前支那事変中の思想犯罪に関する文書を読む。参考になった。8日(土) U.N.Charter写し終わる。大いに能率上げた。帰って裏開墾。9日(日) 午前は(隣組の)回 報(母が組長だったので、かわって持ち回った)、味噌配給などで忙しく、井戸端の修理 で終わる。午後は大根播種、5×25、愛知大根、6×15、練馬大根、すじまき、約6×2畝[畝といっても家庭・焼け跡菜園の僅かなうねで正規の単位では勿論ない]。9月16日(日) 個と全との調和哲学に個人差が入ってこぬか、健康なるかぎり全への奉仕は個の幸福となりうる。漢字を断然廃止するか制限すること。古典を翻訳することもかまわんだろう。Latin,Greekのごとき存在とす。新しい仮名をつくる。Lの発音をRのそれと区別できる字体。Vにも。今度ほど人間が本性を現したことはない。leaderのやせ我慢が消滅。「先憂後楽」。9月21日(金) 西園寺公の言に「政争は議会政治の本質的なるものである。唯その契機が私利に流れるのは政治家のレベルの低さを物語るものである」とあり。考えさせる。9月22日(土) からし菜一畝半。ほうれん草一畝半。24日 からし菜発芽。小松菜二畝。小蕪一畝播種。25日 玉葱播種28日 小松菜、小蕪発芽、26日ごろ、ほうれん草発芽』といった記述が続く。 別の箇所には大学で写してきた聞きたい講義日程も書いてある。和辻さんと辻さんは多分一度も聞かなかった。 神奈川県大楠町(葉山の南)海岸に、すでに結核を八年療養していた父は、食料配給の制限八時一十時十時一十二時月曜 倫理学(和辻哲郎)火曜 政治学(南原繁)水曜 社会政策(大河内一男) 労働法(末弘厳太郎)木曜 政治学(辻清明)・和辻〃(末弘)金曜 東洋政治思想史(丸山)一15一から東京都内に戻れず、依然別居していたが、母と兄弟たちとは食糧は不足しても、久し振りに一家団樂の夕食が持てた。戦没者を家族から出さなかった幸運に恵まれた暖かさであった。 毎夜のように停電が続く中で、蝋燭をたよりに、数個の数の足りない蜜柑をジャンケンで取り合いをして笑いころげたこと等、今の人には分からない平和の喜びでなっかしい思い出である。 家族一同でホームソングや当時流行りだした「りんごの唄」などの斉唱を楽しんだ時もあった。 生活上は一日家庭菜園、配給、薪割り、買い出しなど雑用がたえなかった。頭を使うのは、深夜部屋にこもって読書と思索にはげむ時、たまに昼間学校に出て友人を見つけて、やっと民主主義、社会主義、軍国主義などと議論に熱を上げる時にすぎなかったが意外に充実した日々だった。東大の御殿下と呼ばれたグランドの前の芝生に、復員服を来た一高文科丙類(フランス語を第一外国語とした)同級の友人たちが、日を追って帰ってきて、再会を喜び合った。 米兵に大和撫子を躁躇されていると敗戦日本を悲憤する者、沖縄戦で敗走して必死にな って豚小屋にもぐり、泥まみれになって生き延びたいきさつを自ら戯画化して語る友、二度も南海に撃沈されて水泳部の実力を発揮して救われた勇士の話などなど鮮烈に記憶する。 人間魚雷「回天」の乗組になって、出撃しては故障で生き残った中学の日頃おとなしい友人の話も噂に聞いて襟を正した。 ただ講義に出てみると戦前と同じ教授のいうことがまるで変わっており、それに反発を感じる場合もあった。それは多分川島武宜先生だ っただろう。名著『所有権法の理論』を戦時中にまとめた川島さんは、私達のクラスに物権法の特別講義をして、ゲヴェーレなどという難しい概念を教えて悩ましたが、「私はマルクス主義者ではありませんが」とわさわざことわっておずおずとマルクスの説を一部紹介していた。それが今や公然 とマルクス曰くとやっていたからだ。それが悪いわけではいのだが、転換があまり際立ってお り、大阪高校同窓の安井さんに似たキザな印象があって感情的に反発したのだろう。 他方丸山真男先生(まだ『世界』の論文を発表して強烈な反響を呼ぶ前)や 、一高で教えを受けた大塚久雄先生(戦時中東大講師)の講義を何度か聞けたことがよかった。また多分大河内先生あたりから史的唯物論の壮大な構想を聞くことができて、世界観が変わる思いをした。 末弘先生の労働法もようやく禁止が解け、時代の焦点となり興味は深かった。南原先生は一度位しか聞けなか った。たまにしか講義に出ず、戦前のようにノー トの空白を埋めさせてくれる友もなく参考書も入手できず、うぶなことに空手で受験する勇気が無かったので試験は放棄続きで、卒業のメドがたたなかった。 大学側は溢れている学生を早く卒業させたがっていたので、早く相談すればよかったのだが、窓口の指導を受けてみたら敗戦から一年半たった1947年3月になっても戦時の特典があり、既得単位だけで不足があっても卒業出来た。 こうして中途半端な「仮卒業拒否」は消えた。結局私は卒業年度をおくらせ生涯給与 の号数で損をしたが、この一16一一年半の間のわずかな聴講で戦後の教授たちの自由な講義を耳にしたことが私に大きな思想的変化を与えた。そのために同期で戦後に大学の講義を聞かなかった仮卒業組とは生涯長く政治的、社会的な意見が違う思いをした。 当時盛んに出版されはじめた粗悪でうすっぺらな用紙のマルクス主義のパンフレット「共産党宣言」や「賃労働と資本」なども次々と読んで、軍国青年の心に一抹の抵抗を感じながら、その眼は長くかかって徐々に開かれた。当時戦時中からの寵児西田幾多郎、和辻哲郎などの書はひっぱりだこで、反感を感じたそれらを売っては本屋にならんだ改造社版のマルクス・エンゲルス全集や、特に明治文化全集がバラで安価に出回っていたのを買いあさった。 河上肇の『日記』は熱読したが、『貧乏物語』その他の経済学はマルクスが先だとして読まずじまいだった。 世論は当時「民主主義とは何か」「選挙はどうする」「封建制を葬れ」「天皇制は廃止すべきか」という点に集中していた。その中で相変わらず、デモクラシーとはギリシア語のデモスとクラトスとに由来するなどといった、外国古典の安っぽい受け売りばかりが横行して、身近で何が民主的かと考えることは無かった。党より人を選べというのも新聞の流行語であった。 年長者が反対意見をのべると封建的とされた。各地の青年会がしきりに座談会式の集 まりを持つ。 私も友人に誘われ調布付近で参加したが、知ったかぶりの競演で無意味だと感じた。私はそんな時論の受け売りより自分の内面の基礎知識を固めることが第一と考えるにいたった。 10月頃、アダム・スミス『国富論』の輪読を友人と二人で始めた。敗戦後の経済大混乱を理解すべく手をつけたが、戦争中の空白は大きく英語の読解力もさることながら、経済史の細部に至るまで知らないことだらけだった。戦時中よみかけて、空襲以後中絶していた大塚久雄先生の『近代欧州経済史序説』をまた読み始めていたので、その注にならって、父が米国から持っていた"Palgrave'sDictionaryofPoliticalEconomy"を引いて一々未知の概念や史実を調べた。これは自分にはとても面白い勉強だったのだが遅々として読み進まず、戦後の日本経済の現状を知るための研究とはとうてい対応しなかったわけで友人をうん ざりさせた。 このころのノー トに、「十 月十六 日、p28.c.1.今 日の如 く貨幣 価値 が下 が る と人 はquantityofmoney(貨幣量)で 考 え ることを止 めvalueofuse(使 用価値)を 考 える。或 いはquantityoflabour(労働量)を考える。米(以下10行ほど文章拾えず)一17一のは惜しかった。私も独力では読み続けられず、卒業見込みのたたないまま、転地先の父との連絡、銀行の当座貸越口座からの戦時中の借越返済対策、母の手伝い、家庭の菜園係などをあたふたと続けることになった。その開始の頃の日記。未だ皇国主義が濃厚であるが、反省の兆しがある。 「9月22日。吉瀬の家にゆきAdamSmithのTheWealthofNationsの輪講を来月半ばから始めることに定める。この事なかなか容易ではあるまい。根気を要する。しかしやりとげれば二人の為に大きな益を残してくれるだろう。敗戦後の平静を失った心のよりどころにも資するため大いに力を注ぎたいと思う。最近いろいろ反省してみて如何に自分が流れに逆らっているつもりで流されていたかを痛感し、自信を失っている。 (大局の把握不足)冷静に判断したところでは、日本が支那事変に移行した時、初めは北支の特殊行政区域化をはか った方針に於いて明らかに攻撃的であり、少くとも今唱える如き対等の友好関係を求める方針ではなかった。満州国建設的な行き方であり、将来大いに努力して楽土と化して初めて正当化する困難な路であった。それが間もなく支那全面に及び、更に注政権支持にかわり、それが更に対等日支国交へ大転換した。この日米国交調整をやるにあたり大陸全面撤兵の譲歩は今から考えれば出来ぬことではなかったのである。しかるに当初の特殊化的考えにこだわってとても出来ぬように考えたのは軍部の考え方に動かされたのであろう。 (現実認識の甘さ)更に昭南、ジャワ、スマトラまで占領するや一応楽観的になり、その時終戦の形式として流石に宣伝の如きN.Y.占領と云う夢物語には同意しなかったにしろ直ぐその時を講和の最適期と考えず、一応内線の防備に成功し、敵が防衛線突破作戦に倦んだ時こそ妥協の時であり、その時も南洋圏の確保が出来ると云うが如き甘い考え方をしていたのも流された証拠だ。 (真実)更に国家意思の遂行を高しとする余り、その国家意思形成の過程が適正なりや否やを判断するを忘れ、或いは戦時中なる故現在存在するものを以て現在得らるる最高のものと仮定する事に同意し、その批判を為すものに好意を持たなかった事、従って真実の貴さを忘れた事も流された大きな点であった。 (無節操)又軍隊に入っては戦勝に向かうの一点を最高目的として他の全てをそれに捧げると云う方針の中に何時か真に目的に指向するかどうかの検討を忘れ、無節操に陥った事は最低の生活態度と云うべきだった。 (無気力)凡て戦争中体力の消耗に伴い戦争目的に何ら貢献し得ぬまま無為に日を過ごしてやむなしとする無気力に陥っていたのも社会一般の風潮に流されていたのだ。体制に流されぬ事は実に難しい。しかし流されぬような自己を築き上げたい。今日天野貞佑氏(故人にも今まで流されて何となく反感を抱いていたのだが)の『学生に与ふる書』に人間は最も聖なるもの一18一を全の限定としての個人の資格で自己に宿し得るが故に最も高きものに寄与し得るが故に自己を尊敬すべしとの句に接し、大いに我が意を得た。吾々は如何に愚鈍なりとも一臣下として己の誠を捧げて陛下に翼賛し奉る事が出来る。これこそ自己を高しとする所以なのだ。しかもその方途がやはり天野氏の云う如く己の持ち場に於いて誠を尽くすことによってのみ可能なのだ。 これこそ誰にでもできることではないか。ここに希望を見いだすべきである。日本再建の路を翼賛せんとするには他の日本人がいずれも最善をつくすかどうかを信用しなければ、己は一局部に閉じこもっている事が出来ぬ。他の全体への全力を捧げての貢献は信じ切って自分の持ち場に全力を打ち込むことが真の協力であると云う事も天野氏に示唆を受けた。雨の夜省線(今のJR)のなかで読みつつ帰り興奮のさめぬまま停電をおかし蝋燭の下に以上の感想を記す。」 父の皇道主義の影響は強かった。いつまでもぬけない。§4戦 後政治の開幕=戦争調査会・政党の再建①戦争調査会 翌年7月茅ケ崎に疎開していた叔母とその夫柴田雄次(化学者。東大理学部長の後、名古屋大学を創設、理学部長、東京都立大学総長、日本学士院長)を訪ねた。戦後の無事の確認と食糧の調達とを兼ねていたのだろう。そのとき戦時中から軍部の愚行を痛撃していた叔父が「今度の戦争が何故起こったのか、また戦争中の軍事、政治、経済はどの様な支障に直面したのかを政府で調査することになった。徹底的に検討してみるならば、将来に大きな教訓になるだろう」と語った。先に引用した安倍先生の論説も「今度の敗戦の原因について徹底的に究明され認識されなければならぬこというまでもないが、更にさかのぼってかかる戦争をやるに至った原因についてまでも、根本的に聞(せん)明されねばならぬ」と強調していた。それは大変貴重な調査になると大いに期待をもった記憶がある。 この会はその後一般に知られなかったが、昭和20年11月21日の閣議(幣原内閣)で 「大東亜戦争調査会」として官制を決定、翌年1月11日に「戦争調査会」と改称して、しばらく続いたらしい。新聞紙上には報道されなかったようだが、『朝日年鑑』昭和21年版の5月24日現在(吉田内閣)の官庁其他職員録の主要委員会に「戦争調査会」として掲載されている。総裁吉田茂。第一部会(政 治外交)部会長斉藤隆夫,同代理大河内輝耕(元大蔵省、貴族院議員)。第二(軍事)飯村穣(元陸軍中将),代 理戸塚道太郎(元海軍大将)。第三(財政経済)山室宗文(元三菱財閥役員),代理渡辺鎮蔵(元東大教授、日本米穀会、代議士)。第四(思想文化)馬場恒吾(ジャーナリスト、元国民新聞),代理和辻哲郎。一19一第五(科学技術)八木秀次,代理柴田雄次。事務局長官青木得三(元大蔵省)。委員はほかに富塚清,高木八尺,有沢広己,松村義一(元内務省、貴族院議員),中村孝也,片山哲,木村介次(藤倉電線),渡辺幾治郎(歴史家),小汀利得(ジャーナリスト),阿部真之助(ジ ャーナリスト)、鈴木文四朗(大阪朝日)臨時委員(公職追放中の旧軍人)飯村,戸塚、宮崎周一,矢 野志加三。 そのメンバーはたしかに保守的な顔触れが多かったといえようが、殆どが戦争に批判的な立場をもっていた当代一流の人だったと思われる。従ってこれが占領軍により間もなく禁止されて何らの成果も資料も残さなかったことは惜しいことであった。それは米軍が恐れたように、軍国主義の再建を企てるより、今日未だに消えない戦争正当化、大東亜解放戦争の意識を否定する国民常識を作りえたかもしれなかった。② 政党の再建 11月2日(金)日本社会党、同9日(金)日本自由党の結党式はともに日比谷公会堂で開かれた。私は政党というものに大いに関心をそそられて共に傍聴に出掛けた。ほこりだらけの三階席から、戦時の国民服や、復員服と呼んでいた元の兵隊服姿も多い雑然とした会場を見下ろした。まだ「国体護持、反共」の観念からぬけられなかった私は、いちはやく民主主義に便乗する気配の政党には強い不信感を持ち、その宣伝や組織工作にはひっかからないぞと固く決意していて、帰りのアンケートも拒否した程だ。今の右翼青年みたいなものだった。 社会党では、構成員が労働組合、社会運動家ということでなじみにくく雑駁な印象を受けた。 政策として天皇制にどういう態度を示すのかに関心をもって「天皇制、どうする」と野次も飛ばしたほどだが,議事では多分一言もそれにはふれず、僅かに国家主権の思想が主張された程度だったと思う。 自由党についても軍国主義下でのマイナスイメージとしての自由主義への抵抗感が消え去っていなかった。自由党はこれよりさき既成政治家のみで丸の内常磐家で結成準備を進めていた。 なかんずく党首となった鳩山一郎(当時盛んに京大滝川事件の文相として新聞で攻撃されていた)には不信感が強く悪い先入観を持って出ていった。そして形式的な熱弁を聞かされたが、ほとんど何の感慨も受けなかった。 日本進歩党は、大日本政治会という翼賛政治会の後身がさらに変身したもので、最も戦争責任の重いグループだったのに、なんと国体護持派として期待を寄せた。その党はいち早く修正資本主義をとると政策上の急転回を示したのに賛成していた一方、戦前の民政、政友両党から一20一復活した政治家が顔を連ね昭和初年の政党腐敗の印象を想起させ、一体今後どんな反省を見せるのかとの興味ももっていた。 病床の父にあてて戦前の知人からの入党要請状も届いていて、出掛けてみたかったが、11月16日丸ビル内の丸の内会館での結党式では学生が足をふみこむ気分にはならなかった。 日本共産党は10月7日の占領軍による解放指令以後いちじるしく脚光をあびていたので、依然たる反共主義から危惧の念を抱いていたが12月1日の代々木本部での党員だけの大会だったようで、傍聴の期待も持てず、出かけなかった。後に新聞に『綴り方教室』で戦前から有名だった豊田正子の報告が出たが、すでに余人には近寄りがたいセクト主義を感じさせられた。第二章 占領下の思想変化1946年§5父の生涯 年頭の元旦詔書、いわゆる天皇の「人間宣言」は、五年ぶりに結核療養から体調を回復して来た六十四歳の父と家族六人に、福島本家の当主である四十歳の元海軍技術中佐(プ ロペラ機のエンジンの専門家)を加えて、そろって新聞で見て大いに話し合った。戦時中熱烈な神国主義だった父が思いがけなくあっさりと同意した。他の家族は皆戦時中から天皇の神格化を認めておらず、その否定こそ天皇制の基礎を固めるのに適切だと大賛成であった。 その詔書の冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文をあげて、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘ ン。朕ハ薙二誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」と述べ、この趣旨に則ることが新しい政治の指針であるかのように表現した点は、五箇条の御誓文の趣旨と違う。 当時の「広ク会議ヲ興シ萬機公論二決スヘシ」は単に大名の意見を聞く意味で、占領軍を欺く表現だと受け取った。 日記に「明治の五ケ条の精神に還りつつ新しい道を開こうとの思し召し、かなりMac(Arthur)向けの感じがあったが、それが意外に米本国に好感をよんだらしい」と書いている。 大江健三郎のいう「あいまいな日本」はこの辺に早くも始まっていたのかも知れない。 ともかくこの元旦詔書を読んだ当時は、一同まだ天皇の「我国民ガ其ノ公民生活二於テ団結シ、相椅リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統二恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン」との期待にこたえようと決意をいだく忠良な「国民」であった。 この問題では私は父の二転、三転の思想的変転の経緯を考えずにはいられない。戦時中父の急進的神道思想は家族にとって大きな精神的圧力となった。逆にその戦後の転換もまたあまりに急角度で、かえって同調しにくいものさえあった。 ここで波瀾に満ちた父の生涯を回顧してみよう。 それはこの軍国主義の時代に実業界で活動したやや偏った一指導者の行動の事例と思うからである。 父の伝記、有田ロータリークラブ蒲一21一原権氏編集(有田出身で三井物産社員だが父のはるか後輩)『ロータリアン福島喜三次伝』(1966.10.20,B6小型版66ぺ一ジ)に私が調べた資料を加える。①苦学の人。喜三次(きそうじ、伝にきさじとあるのは誤り)は福島喜平の第七子、五男。 1881(明治14)年に佐賀県有田村に生まれた。戸籍上の誕生日は10月10日(半年ほど届けがおくれたとの伝承があり正確な日付は不詳)。この日は中華民国が成立した双十節であり、我々がそれを知って父の祝日とふざけると父は大変いやがったので4月10日に祝ったこともあった。 三井物産が停年になる半年前の4月下旬に、三井合名に移り後理事になったので、父が郷里の人に座右の銘としていた「人間万事塞翁が馬」を地でいった。 父の生まれた翌年4月にその父喜平は43才の若さで世を去った。家業を成功に導いた祖父伸右衛門もその三年前に70才で死んだばかりであったから、その染屋、質屋、酒造業は未だ14才の長兄隆一と母達子の手に残され、やがて人手に渡さざるを得なくなったという。9年間苦闘した隆一も多分三代続いた結核で23才で早世する。一家は離散の運命をたどった。 その間里子に出されたりした父は、小学校(尋常科四年、高等科四年)を優秀な成績で卒業すると、郷土の有力者の学資援助により、1900(明治33)年3月28日校長若杉米太郎から第1号の卒業証書を受けて長崎商業を卒業した。さらに佐賀出身の元代議士松尾寛三(天草電灯社長、勧銀監査役、深川製磁監査役)の書生となって同年秋東京高商に入学した。 同期には後の佐藤尚武外相(1882~1971、当時田中姓)、小坂順造信越化学社長(1881~1960)、向井忠晴三井合名理事長・蔵相(1885~1982、雅楽の名門多忠久の長男、二歳で向井忠二郎の養子。飛級で開成中学を経て東京高商に15歳で進学した(追想録『向井忠晴』1986)などがいた。 在学中1902(明治35)年には佐藤、小坂らとともに一橋会と名付けた学生会創立委員の一人となっている(東京商科大学一橋会発行『一橋五十年史』)。当時から英語会で活躍していたようで、ボート部でも選手となった。 苦学ながら明治37年の官報によると144名中の首席で卒業。校費で中国の漢口まで旅行させてもらったという。②長い在米経験。 ついで向井らと三井物産に入社(前 記向井追想録に三井物産入社十人の写真があり、福島は前列中央に向井は後列にいる。すべて東京高商卒だろうか?。向井は別のところで「戦争景気で …… 同級生だけでも四十九人も入りました」と述べている。三井物産編『回顧録』。)、門司勤務(1905.2月雑品係、日露戦争中に学業で徴兵を免除されていた身なので有田に帰るとっかまるということで、母が門司まで逢いに来た)の後同年8月5日ニューヨーク支店、翌年8月同勘定係に転出した。当時ニューヨークで日本料理店に二十八人の日本人社員が集まった写真がある。三井の発展ぶりに驚かされる。次いで1906年からオクラホマ、ヒューストンなどを経て1912年ダラス出張所長。以後1920年まで勤務し、綿花の買い付けを中心に15年在米した。1913年には32才で三井物産の現地法人(1911年からつくられていた)Southem一22一ProductsCo.(後SouthemCottonCo.)の社長になっている。そして第一次大戦になると米綿が暴落したが、長期的戦略で買い付け、 欧州向け貨物船も先物を大幅に予約したが、その後貨物船の需要が激増し大当たりに当たって、…挙に大手の米国綿花商に頭をさげさせ る世界一流の綿花商になった。 ところが大戦末期には見通し悪く、欧州向けの飛行機までを含む多額の軍需物資を買い付けたところで休戦となり、綿花も大暴落をして当時の金額で400万円(1986年の金で100億円)の損失を出す結末で本社に召還された(『トーメン社内報、昭和56年5・6月』東島健児、『同'86.9.10』浮村専務)。それは当時の本店綿花部長児玉一造の強い支持の下に行われたのであったが、幹部の安川雄之助らの批判で、三井が綿花部を独立させて東洋綿花を設立した(社長児玉一造)きっかけにもなり、この悪印象が父の三井生活で終生深い傷となったようだ。 この長い在米期間(帰国は結婚とその後の二度だけ)に大学も一時聴講し、英語も熟達 し、日本人で初めてダラスロータリー・クラブに入会した。訪米した三井銀行の米山梅吉もこれに強い関心を持った。福島は帰国にあたりクラブの日本での創設を本部に委託され、帰国後米山の協力をあおいで1920年10月に東京ロータリークラブを創設した(チャーターメンバーは会長米山梅吉、幹事福島のほか深井英五、磯村豊太郎、星一、樺山愛輔、牧田環、佐野善作、和田豊治など24名)。滞米の終わりにはダラス・カントリークラブ(ゴルフ)にも入会を許されたし、自家用のフォードを持ち、兎狩りや汽船でのまぐろ釣りなどもするほど豊かでアメリカ社会に溶け込んだ。渡米当時の東洋人蔑視の風潮の中で、多くの屈辱を味わった経験もあったらしいが、それをのりこえて米国社会の内部に受け入れられた実績から、米国の友人も多く民主主義や自主性尊重の良さを十分評価していたはずであった。 事実その家庭内では当時の日本では異例な民主主義で、十二才年が若く自由闊達な母を尊重して、子供たちを自由主義、放任主義で教育することを認めた。我々四人の息子は特別の家訓も受けず、幼稚園や塾の教育も受けなかった。 1932年に暗殺された蔵相井上準之助が日本銀行当時訪米した際案内をしてその深い信頼を受け、自分も尊敬して見合いの仲介さえ依頼し、仲人も頼んだ。どちらかというと政治嫌いで、とかく腐敗の噂がつきまとっていた東京高商同窓(一年おくれ)の内田信也(1880~1971)(後に岡田内閣の鉄道大臣)には強く批判的だった。家庭には米国から帰国して後も神棚、仏壇、父母の位牌をもたず、西本願寺系の菩提寺、墓が佐賀県なので寺詣りもしなかった。 神社に行けば礼拝はおこなっていたが、少なくとも満州・上海事変当時までは神仏信仰への深い関心はなかったようだ。③ その国粋主義化。 1925年から上海勤務、26年には支店長となりやはり7年間日中貿易に従事した。その間に租界に居留する外国人による上海の市政機関であった工部局参事会に日本人一23一代表として立候補した。過去には『中外商業新報』1920.2.20.に工務局選挙結果で前議員の日本人郷氏は三位当選と伝えている。 NHK"ドキュメント昭和"取材班編『ドキュメント昭和』2「上海共同租界」1986年、は1927年にも参事は英5、米2、日2であったと記す。 甫喜山精治氏のご教示によると1929年3月5日の選挙では福島1166票、船津辰一郎(在華日本紡績同業会総務理事)1156、安諾徳(人、漢訳)890、麦克那登少将(英)857、法蘭枢(米)790、歌巴特(英)775、培爾(英)713、雷門(米)672、麦賓(英)651の9人が当選、4人落選 している。堂々の一位当選である。(中国紙『申報』、本埠新聞からの転載)。 また『上海居留民団編上海居留民団三十五年記念誌』には、1931年3月17日の選挙でも福島、岡本乙一の二人が1086票の同点で最高点当選と記す。その選挙権は租界内に500両(テ ール)以上の土地を所有し、または地租(または地租と市税)年10両以上を納める者、もしくは年額500両を下らない評定家賃の家屋に居住する者であって、日本人の有権者は少なかったという。1939年に日本が5名の立候補者を立てたら3名が落選の浮き目をみたと伝える。 その参事会に二回当選し、さらに在米経験にものをいわせて議長も勤めたと聞いている(それを確認する資料は見当たらない)。外国人問の信用が高かったのであろう。その任期中に満州・上海事変に遭遇した。9月20日に村井総領事の委嘱で上海でも在留日本人の時局委員会が組織されると、市参事として当然であろうがその一員に任命され在留民の避難救護の準備にあたった。 また10月5日にはプレス・ユニオンを組織して外国人方面への広報に努力した。1931年12月には全支日本人居留民大会で12人の発言者(内上海5名)の1人として「新日本の理想」と題する演説を行っている。 このような政治活動の為中国民衆の側からは殺害に三千両の懸賞金をかけるとポスターを貼って憎まれたのであった。 32年1月20日 日本の青年同志会会員が前々日の日蓮宗僧侶襲撃の復讐として三友実業社を襲撃し工部局支那巡捕を死傷させた事件では工部局議長に遺憾の意を表した。28日の日支交戦開始後、海軍陸戦隊の苦戦の状況をみて、居留民時局委員会は米里、福島両委員を代表として犬養総理などに1月30日、2月1日と相次いで陸軍の出兵要請を打電した。 上海居留民団編『昭和七年上海事変誌』は「就中福島委員は事変期間を通じ其の全力を此の方面に傾注奔走し、功績著しいものがあった。」と賛辞を呈している。たしかに他の船津、岡本二人の市参事と米里居留民団長の名は事変誌にあまり出てきていない。この功により後に海軍から銀杯の下賜を受けている。この点について国策研究会事務局長だった矢次一夫(1899~1983)は『昭和動乱私史』上(1971)に、昭和12年同会改組後の創立総会から会員となった福島と親しくなり、直接話を聞いたと次の逸話を紹介している。この出兵要請の時、大使館付武官補佐官だった田中隆吉陸軍少佐が福島にピストルを突きっけて、出兵要請の電報を団琢磨理事長に打てと強要したと称している。事実はどうかという矢次の質問に、福島はその脅迫があったこと、打電したことは事実だが、脅迫に屈したのではなく、上海の事態を早期に一24一解決することが得策だと判断したためだと答えたと書いている。家庭では聞いたことは無かった。この話、宛先が首相や陸軍大臣ではなく三井合名の理事長としている点や、民間から救援を求める必然性もなく奇妙である。田中か矢次の作り話ではないかと思える。 事変前後から日本綿紡諸社や、日本領事館がしばしば中国人の襲撃を受けており、2月18日朝には三井物産支店に爆弾が投げられたが、父の出勤前で被害は無かった。白川司令官ら多数の有力幹部が死傷した4月29日の天長節式典の時は幸いにも日本に帰国中で難を免れた。その後三井物産本社から帰国を命じられて、5月18日には市参事会員を辞任し、後任には寺井久信日本郵船支店長があたっている。このように身の危険にさらされながら現地領事館、陸海軍の上層部と提携し、日本居留民の利益擁護に奔走した活動の為当然会社の仕事はそっちのけとなったのであろう。営利重視の三井首脳陣(理事長安川雄之助、向井はこの年取締役に就任した)からきびしく批判され、業務不振の責任を問う形で本社査業課長という閑職におかれた。 しかし時代は三井首脳の伝統的な営利主義の動きとは裏腹な国家主義に急転しており、2月9日の井上準之助に続いて3月5日三井合名理事長団琢磨も暗殺されていた。父自身も五十を越えたこの頃になって、事変の経験でつくづく国権拡大の必要を痛感したためか、そのような事情を理解せずに左遷した首脳部に激しく反発し、抗議の辞職も考えたようであったが母に慰留された。 当時業務上必要があった為か、自主的に接触したのか不明だが蓮沼門三(1882~1980)の修養団(1906~)と接触を持ち、やがて自らそれに加わり後には療養中の身をおして伊勢の五十鈴川でのみそぎに参加した(最近その地を訪れて今なお修養団の宿舎があることを目撃し驚いた)。又三井系がようやく軍需産業に参入して創立した玉造船の職員研修を修養団に担当させるなど熱を入れた。 それとともに家庭内でも急激に国粋主義、伝統的な神仏信仰に没入し、家族に意外な変身を見せていた。 ところが時代の逆風をもろに受けつつあった三井でも、33年には池田成彬が国策協力 をかかげて登場し34年には安川が退く変化が始まり、父の国粋主義を支持する長老(益 田太郎)もあって、物産の定年を目前にして1936年財閥本社である三井合名に転じ調査部長兼考査課長、で理事になり、同時に内閣から企画庁の顧問に任じられた。 これらは三井側に父を通して軍部・右翼の会社への圧力をそらす狙いがあったのかと今日推測される。 このころ鳥羽貞三氏によると三井に関東軍から新京での水力発電開発の依頼があり、その調査団長として父が出張したが、莫大な資金が必要になるため辞退したという。『追想録向井忠晴』(1986)。 二・二六事件の前後には北吟吉、西田税、若干の陸海軍中堅青年将校たちとの交際があった。 私は自宅に西田税が訪問してきた姿を見ている。また父の机上に北玲吉の七百円の借用証書が放り出されていた。何故そんなものを粗末にしていたのか不可解で、返済の可能性のない献金だったのかと推測する。 事件前後に激しい電話の会話が続き、当時コンニャク版といわれたコ一25一ピーものの軍部、右翼の内部情報が大量にどこからとなく入っていた。そのころから政治的、思想的には蓑田胸喜(1894~1946,自死。元慶応大予科教員)、 三井甲之(1883~1953,元山梨県敷島村長)らの原理日本社(1925~)、帝国新報社、野依秀市(1885~1968)の実業之世界、帝都日日新聞などの出版物に強く影響されるに至った。 その非合理的思考、たとえば物理学の定説などを頭から否定する主張などを熱烈に支持して、大学で物理学を専攻する兄に議論をふきかける姿は異様で、帝大系統の西欧的合理主義に深い敬意をはらう学統には全く敵対するものであった。 さきの矢次一夫の『昭和動乱私史』によると昭和8年12月28日に発起人会を開いた国策研究会の会員名簿に父の名がある。また昭和11年11月25日に改組した同研究会の創立総会にも出席している。④欧米経済使節。 そのような思想的活動とは別に、これは三井の財界活動の使命を託されたのだろうが、1937年4月末に日本経済連盟会が米国、英国等に派遣した経済使節団に三井を代表して参加した。 その顔触れは次のようなもので、当時の財界で有力なメンバーだったといえるだろう。団長 門野重九郎(東京商工会議所会頭、大倉土木会長)団員 福島喜三次(三井合名理事)。夫人同伴は以上二人のみで、英語会話力とあわせて、事実上の副団長であった。石坂泰三(第一生命取締役)木日木中寺出島柏春鈴田小下高秀茂(正 金銀行東京支配人)弘(住友本社理事)祥枝(東京海上火災会長)寛三(三菱商事会長)源吾(大日本紡績社長)義雄(名古屋商工会議所副会頭)誠一(日本経済連盟会常任理事)随員 以上の団員がそれぞれ一名の若手秘書を伴った。 そのなかで父は最も英語会話にすぐれ、米国財界に既知も多く、団長を助け、約2ヵ月の米国旅行の各地の全ての団長演説原稿を一人で引き受けて作成するなどの激務を果たして過労となった。 そしてついに7月渡欧後に結核を発病、10月半ばに帰国後一年休職することになった。 対照的にその12月向井は三井物産の代表取締役に就任した。父はその後一旦は復職したものの、すぐ病状が再発して昭和15年8月三井総元方に改組した後の理事を退くことになった。 その時の総元方専務理事は向井であった。生涯あくまでライバル的立場にあったのは因縁であった。 両者に公然の対立があったかどうかは詳らかにしないが、その経営思想が全く異質だったこと一26一は明らかである。父は国粋主義を奉じ、軍部と親交を結んでも、それを商売に利用しようとはしていなかった。たしかに政治的傾向があったのだろう。 向井はその『追想録』で語られているように山西事件で三井がドル買いをしてもうけたと軍部に強く非難をあび、攻撃を受けていた時に、在支の支店長を集めて配置がえをした際軍に反発した部下に「この戦争中に軍に関係の無い三井の仕事があると思うか」と叱咤したという。あくまで経営第一主義だったのであろう。 この違いはどこから生まれたのか興味ある問題だ。 向井は入社早々上海支店に配置され、当時上海在勤のまま同支店長兼理事だった山本条太郎に目をかけられ、1913年にその世話で同氏夫人の妹と結婚した。この山本との深い関係が向井の三井での昇進に大きな背景となっただろうことは疑い無い。ただしその直後シーメンス事件といわれた軍艦金剛建設の受注にかかわるドイッのシーメンス社の日本海軍高官への贈賄事件、ヴィッカース社の贈賄事件が発覚し、その仲介をした代理店の三井物産社員も逮捕され、山本も控訴審有罪判決の後恩赦をうけたが、三井を引責辞職し、後政界に向かった。 この経験で向井は深刻な影響を受け「三井物産は貿易や平和産業でいかなければいけないと考えるようになった」と述べている。 米国定着のままの父はこの事件には全く無縁だったであろう。しかも向井夫人ヒデと母は女学校卒業当時墜葉会(当時は教会のシスターの作ったグループだったようだが、後の女学校)で学んだ英会話クラスの親友で終生その友情は消えなかった。その縁で両者の対立もとげとげしいものにはならなかったようである。 父は療養中ますますはげしく皇道主義に深入りし、たとえば母が「富士山が美しい」というと「霊山を美しいなどどいうのは不謹慎だ」などと叱責したほどだった。 もっぱら三井甲之一派の雑誌に精神主義的な短歌を投じ、たとえば斉藤茂吉(父の一歳年下になる)の「あららぎ」などを問題にもしなかった。戦況の不利、日本軍の虐殺行為などの噂は一切信ぜず、ひたすら神州不滅を神棚に祈願し続けるのみであった。 母と息子たちは黙って訓戒と叱咤を受け、その行動を見守るしかなかった。 そんな父だったから敗戦は心底からの大打撃であったに違いない。敗戦の詔勅の時私達家族は東京におり、連絡も切れていたから様子は分からなかった。だがその後意外に淡々と事態を受け入れていた事が分かった。 戦争末期から敗戦の実態は当然理解していただろうし、「承詔必謹」(天皇の詔勅を受けたら無条件にそれに従うという意味で当時政府が強く国民に求めた言葉)が何よりの支えだったのだろう。 やがて療養先の三浦半島にも米兵が進駐を始めると、たちまち二十五年前の米国時代 の経験を蘇らせて、"offlimits"、"warrantofficer"などの米軍の新用語の語義や、米軍の指令、行動に深い興味や理解と、時には好意を示した。 米国を知らない若い私の方がかえって反米的でこの態度についてゆけず急速な転身に呆れる思いだった。⑤労働運動への反発。 当時急速に展開した労働運動によって、生産管理という争議手段が生一27一み出された。経営者が物価の不安定などを考慮して、生産活動を躊躇する時に、労働組合が経営権をのっとって、生産を再開する闘争手段であった。年表を見ると45年10月から11月と1件づつ起こったが、12月には12件、46年1月には13件、2月17件、3月13件と次第に頻発した。 2月の三菱美唄炭鉱ごろから世間の注目を集め、それを皮切りに、東宝、東芝、日本鋼管など全国に波及した。 厚生省の5月20日までの統計では103件に達している。 「民主化」の高まり、「資本家の生産サボタージュ」という批判のムードの中で、世論は生産管理を支持する傾向にあった。 京成電鉄の争議は生産管理によって全面勝利となった。 これに対し政府は46年5月ころ、生産管理中の炭鉱組合から直接石炭を購入した日本石炭会社という、戦時中からの石炭販売の統制会社に向かって、炭価を組合に支払うことをひかえるように指示し、経営協議会の設置の提案をかざしながら、生産管理は違法だという見解を示した。 他方大河内一男、末弘厳太郎教授らはこれを争議行為の一環として承認し、争議に中立的であるべき政府が干渉するのは偏った行為だとする論説、経営協議会は平時の機関でそこで妥協できない場合は争議行為の一つとして生産管理を行うのもやむを得ないという見解を新聞に発表した。 私もその流れにそってこれに賛成であった。 だがそのころ療養先で父と話すと、「生産設備は資本家の私有財産で、労働者が勝手にそれを使用するなどもってのほかだ」と、激烈な批判をあびせられた。 敗戦後の生活逼迫の非常事態など全く念頭に無かった。これが企業家魂というものかと、それまで見たことが無かった父の一面を垣間見てびっくりさせられた。戦中の父は軍需生産優先で、軍の企業管理に批判を加えることは全く無かった。ところが戦後になると、所有権尊重を力説し、資本家の「生産サボタージュ」と非難された行為には一言の批判も無かった。 その急変は意外と感じない訳にいかなかった。この論争の際に私の意見に対してそれは「マンチェスタースクールか」と父が問い、不学の私はスミスのことかと反問し、今度は父が答えに詰まったことがあった。いうまでもなくこれは1820~40年代のコブデン、ブライトなどのイギリスの自由貿易主義であり、スミスの系統を受けるものであった。父の学んだころに先進的経済思想とされていたのであろう。ところが私の学んだ頃にはすでに忘れられていたという食い違いがあったのである。⑥その最期。 父はこの年秋、十年近い結核との闘病のあげくついに家族と離れた保養地で一人さびしくその生涯をとじた。長く親しんだ米国と祖国が戦って破れる悲劇にあい、胸にいだいた神国の夢も消え去った後に、自らきずいた家産もすべてインフレと国家財政の破綻の影に消え、無一物になって、その死期を迎えた父の胸中には万感胸に迫る思いがあったに違いない。 戦後療養の孤独に耐えられず、強く東京の家族との同居を求めて一月ほど実行したが、長年の比較的ゆったりとした単身生活に慣れた習性では、狭い住まいのなかでの大勢の家族の、戦後の貧しい水準の雑居にたえられず、激しく家人と衝突をくりかえした後、未だ完治しない病気一28一の家族への感染の警戒もあって(しかし結局母が感染してしまった)再び元の保養地に戻った。 今になってその心境を思うと胸が痛む。 戦時中自己の信念に殉じて、全資産を軍需企業の株券と国債に投入し、生活費はそれらを担保とした銀行からの借入金で賄っていた。敗戦により国債、株式がほとんど無価値になって、破産状態に近い中での死であった。もちろん戦災による資産の喪失は珍しくない時だった。 幸運に家屋の戦災を免れ、いわゆる「たけのこ」生活で手放す家財が残ったのは、はるかに恵まれていた方であろう。私が銀行と協議して負債の返済を僅かな繊維その他の株の売却でやっと済ませた報告を喜んで聞いたが、 その翌日台風襲来の最中に亡くなった。 四人の子供が駆けつけたときはもう間に合わなかった。その頃のことだから逗子と鎌倉の境の丘の上の火葬場で薪を使って焼くのに一昼夜かかった。そのあと骨を拾うと長年の栄養不良で「骨にスが通っている」 と焼き場の人に言われあらためて涙が流れた。10月13日かねて用意してあった多摩墓地に埋葬したが、金が無く白木の墓標を建てたのみで、その後十数年墓石は建てられなかった。やっと墓石を置いた時は木の墓標は腐って折れていた。§6 占領政治との交渉 占領下になって配給に米軍の野戦用缶詰その他の保存食品が与えられ、駅にMP(憲兵)がいて、発疹チフス予防用に改札口の木枠の上に立って、男女の区別無く通過する乗客の肩から首筋に強制的にÐDTを真っ白にまきかける。道路は米軍のジープばかりが我が物顔にかけまわり、空はもちろん米軍機ばかり。国電には米軍専用車両があり、いつもガラガラでGI(govemmentissueの略で、官費の服装、生活をしているという意味から兵士を意味した)が、ガールフレンドにした日本娘を連れて座っている。日本人はボロボロの車両にすしづめという風景。 罹災地の後片付けには米軍の強力なブルドーザーが働く。これらを疲れ果てた日本人が呆気に取られて莚然と眺めているというのが、当時の東京の姿であった。 しかしそれらを除くと私のように反米的意識を容易に捨てられなかった個人が米兵と接触する機会は意外に少なかった。 この頃の私が占領政治をどのように認識し、どんな印象を受けていたかを示す事例をかえりみておこう。① 憲法改正案と末弘教授 46年2月日本政府の憲法改正案が保守性を捨てきれない状況をみて、マッカーサー司令部は直接草案を内閣につきつけ、それを政府案として公表する事を迫った。それに屈伏した政府が3月6日、その翻訳を憲法改正草案要綱として発表した。今日マッカーサー草案として広く知られているものだ。 私はそれを朝の新聞で初めて見たが、そこには政府草案とだけ書いていた一29一から、すぐ占領軍のものと分かったわけではない。 当時は「国家主権説」「天皇機関説」をとる美濃部達吉教授の戦前からの学説を支持する気持ちだったから、天皇制を維持することが出来るかどうかに関心が高く、まずその点について調べた。そして前文に「ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し」とあるのを見て、これは国民主権をさすものだなと感じた。 さらに第一条天皇をみると、「この地位は日本国民の至高の総意に基く」と記されてい る。そこで、早速通学の駅で"JapanTimes"を求めて対照して見るとやはりそこにはずっと明確な表現が使われていた。 まずタイトルにすでに"DraftConstitutionVestsSovereigntyInPeople'shands."としていた。そして前文はやはり"WetheJapanesepeople,… …doproclaimthesovereigntyofthepeople'swi11"とし、さらに第一条で明確に"derivinghispositionfromwillofthepeople."と明記していた。 この違いで直ちにこれは天皇を象徴として残していてもこれは明確な「国民主権説」だ、日本政府が起草したものではなく、占領軍の命令を国民の反発を買わないようにごまか した訳文だと判断した(後に国会審議の46年7月25日、自由党がそれまでの天皇の地位を元首とすべしとの主張をひっこめて、突如前文を「主権が国民に存することを宣言し」と修正するよう提案した。これは占領軍の指示を受けたことは明らかであった)。 当時の私にはこれは一大ショックであった。 その日東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に『ドイツ国民に告ぐ』と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、一語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に「押しつけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほか に公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。 末弘さんは、昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。教授は戦時中私の在学当時の法学部長であった。 その頃なんと東大の入学式には「父兄同伴」が求められていた。病床の父の代わりに出席した東大物理学科を卒業した兄は、末弘法学部長が訓示して「今は科学万能のようなことを言っているが、理科を出た人間に国家を運営することは出来ない。法科で学ぶ諸君が天下国家を担わなければならない」と激励したので憤慨していた。 当時東大法学部教授で政治学を担当していた矢部貞治氏は 『矢部貞治日記銀杏の巻』(1974)で末弘氏の法学部長選出に反対して、これは「横田喜三郎一派[つまり親欧米、反 ナチス派というわけ]の策謀と見える」と書いているが、当時かなり厭戦的だと知られて いた横田氏の派閥(田中耕太郎氏ら)が推薦したというのはあま一30一り納得できない。矢部氏は南原教授も末弘氏に批判的と書いているが、末弘さんはむしろ当時憂国的だったから南原さんが危惧したのではないだろうか。その外、当時タカ派で思想弾圧のリーダーと見られた大審院検事池田克の夫人が末弘の妹という関係が知られていた場合には不安をもたらしたかも知れない。 私達の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行い、学徒出陣の壮行会の時には「『行ってまいります』は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えず に『征きます』と言え。」といわれて気が引き締まったことを覚えている。 そんなわけで学生の眼にはかなり戦争協力的に見え、一部学生は批判的だったが、私は好感を覚え、矢部さんのように軍部に迎合した人とは立場が違うと感じられた。末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。 しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は継続し、労働者委員の徳田球一(共産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日経連)などとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。 世間のとかくの風評にもかかわらず、その生き方やこの時の訴えに私は深く感銘した。②占領軍兵士との接触 45年の秋の一日、東横線の事故にあって車内で長時間足止めをくった。たまたま隣に占領軍の下士官がいて(専用車がなかったと見える)事故の話から占領下で初めて米兵と会話をかわした。英語を使って外国人と会話したのも、戦前から初めてだったと思う。単語を思い出すのに骨をおりつつ、スミスを勉強した知識を活用して日本の現状を説明し「日本の農民は平均2エーカー程の農地しか保有していない。米 国と比較してどんなに苦しいか分かるだろう」といささか抗議口調になった。するとすかさず「お前は東条が好きか」と逆襲してきた。やっぱりこう来るのかと鼻白みながら(hateといっては強いかなと迷いながら、dislikeとは思いつかず)「IhateT6j6」とかわす。「明日GHQのこれこれの場所に自分を訪ねて来い、もっと話そう」とさそわれた。 どうやらこいつは周りのシッポをふる奴と違って面白そうだ、使えるかも知れないと見られたらしい。わりに知的な男だったから訪ねて実情をもっと細かく訴えたいという気持ちも動いたが「戦勝国軍人にやすやすと尻尾をふるものか」と片意地をはってそれきりにした。 もし訪ねていたら私の運命は変わったかなと、その後時々思い出した。何しろ当時生活のために最も得やすい職場は占領軍の通訳やPX(軍人用販売店)だった。親友早川も郊外の洋館を米兵に接収されて、その縁で立川基地の通訳に入り、通称はっとむをちじめてTomに一31一なったと平気で語るのが情け無い思いだった。彼はそれから米国関係に縁づいて晩年は長く米国銀行に勤めた。外国育ちの従姉も、外務省の元同僚もPXに働いていた。その人達に花瓶や着物などの家財を売る取次ぎをよく頼みにいったが、不思議なことに占領軍兵士との対話は経験しなかった。そんな心境の頃 『世界』の46年2月号 に一高のドイツ語教授の竹山道雄氏が米兵との交遊をヒューマニスティックに描いた「交歓」というエッセーを読んで割り切れない気持ちを抱き、卑屈ではないかといささか詰問的な手紙を送り、弁明の返事を(惜しいかな、紛失した)いただいた事があった。先生はかなり不快であったろうと今は気が咎める。③CIE図書館東京日比谷の東宝劇場(もうこわされたが)の隣に戦前あった日束紅茶のティーハウスが占領軍に接収され、CIE=民間情報教育部(CivilInformationandEducationDepartmentofGHQ)のLibrary(米国図書雑誌の閲覧室)が、45年11月ころから一般公開された。 私が1939年に旧制一高に入った時はすでに丸善あたりに新刊外国書籍をほとんど見掛けなかった。間もなく輸入禁止になったか、大戦により貿易が途絶したのだっただろう。だからほとんど初めて外国の新刊図書、雑誌を手にすることができて大変うれしい場所であった。小さい部屋しかなかったが、それまで日本では味わえなかった開架式図書館の自由な雰囲気も良く、いつも混んでいた。上述した国連憲章の写しも点検し直した。朝鮮戦争が始まった1950年ころまでしばしば出掛けて、いろいろと読みあさったものだ。それを種に厚顔にも1949年の『朝日年鑑』に内外の政治学界の展望を書いたことまである。 米軍の宣伝工作では利用範囲は小さかっただろうが、最も成功したものの一つではなかろうか。 ソ連の代表部も丸の内の三菱ビルの一角に小さな部屋をかまえて、ソ連に好意を示す 日本人を招いて雑誌を見せたり、映画を上映していた。GHQに遠慮していたのか、割りにこっそりと開いていたようだ。私は一度だけ行ったように記憶するが、映画には未だ珍しかったテクニカラーの『石の花』など美しいものがあったと聞いている。雑誌や講演などは宣伝臭が強くて興味を引かなかったようだ。CIEとは太刀打ちできなかったと思う。④戦争犯罪の問題 ポツダム宣言にも予告された戦争犯罪人の処罰問題が45年秋の大きな話題になっていた。当時欲を出して顔を出してみた上智大学でのラテン語講習会の機会に米国のキーナン主席検事が講演したのを聞いて関心を一層そそられた。一年位後に社研の塩田庄兵衛君が知人の弁護士から市ケ谷国際法廷のA級戦争犯罪人審理の傍聴券を入手してくれて、後年労働経済の大家になった氏原正治郎君と三人で実況を見ることが出来た。その日の審理はソ連検察官の出番で、あま一32一りドラマティックな場面はなく、法廷のメチャメチャに(米国的水準だったのだろうが)明るい照明と、審理に参加する連合国各国の色とりどりの国旗をずらりと後ろにならべた裁判官の席などまるで歌舞伎の松羽目の舞台を見るようで、その政治的演出を強く感じとることになった。 ここに俘虜虐待問題をとりあげて、友人のために国際法の卒業リポートを書いた原稿が残っている。大学に復帰して久々に図書館を利用したものだったらしい。このリポートは、大学在学中の国際法研究の成果を反映して、形式的には一応整っている。だが問題の本質を深く考えるには至っていない。後のソ連抑留捕虜の問題もあわせて考えると、ジュネーヴ条約の人権擁護の規定の重要性を今知ることが出来る。国際法学は当時このような形式論で固まっていたという気がする。イデオロギー的には私がBC級の軍事裁判に対して、強い反発を持っていたことを示しているが、実際のBC級裁判でこのような形式的な法理論の弁護を展開する余地は無かっただろう。現実には占領軍の強引な審理が進められたのだろうが、実際の資料をフォローする余力がない。唯その報道を見るころには、被告と米国側の証人との醜い責任転嫁の論争がクローズアップされて、正義の論議は影も無く、被占領国民の無力感に押しつぶされていた思いがある。周囲の友人と理論的反発を語りあう気力もなかったらしい[この問題はたまたまイラク戦争で再現しつつある。多少参照の価値もあろう]。「俘虜虐待問題の国際法的性質」 第一序大東亜戦争の終結に伴い帝国のポツダム宣言受諾による無条件降伏により、連 合国側に於て盛んに戦争犯罪者処罰の問題が論議され、連合軍に対する戦争犯罪者引渡の要求は無条件降伏を行った帝国政府の手によって忠実に履行されつつある。此の戦争犯罪者には大別して二種ある如く思われる。すなわち第一は開戦ないし戦争指導に関する責任者所謂戦争責任者である。第二は戦争に関する国際法の違反者―狭義の戦争犯罪者である。①①例えば10月24日チューリッヒ特電として毎日新聞の伝える所によれば日本の戦争犯罪人は、1,戦争を計画せる軍首脳部2,残虐行為を犯した野戦軍司令官3,残虐行為を行った日本軍兵士または非戦闘員の三種に分かれるであろうと述べている。1が前者、2,3が後者に属すると見られる。 この中所謂戦争責任者の処罰に関しては国際法的には果たして適用すべき法規が存するか否か、又存するとするもそれが個人の責任に帰属せしめ得べきか否かは多大の疑問が存する所であり、むしろ多分に政治的意図を含むものと解せられる。この点はしばらくおき,ここには狭義の戦争犯罪者なかんずく問題とされる俘虜虐待者について考察を進めたいと思う。 第二問題の提起 合衆国国務長官バーンズは去る九月五日日本軍による俘虜虐待に関す る一33一報告書に於いて「ゼネヴァ陸戦法規ならびに国際法に反する俘虜虐待行為は厳重処罰される筈であり、この点に関し日本の戦争犯罪者はドイツの場合と同様にその責任をあくまで追求されるであろう」と述べたといわれる。②②9月8日朝日新聞所載・[2003年3月のイラク戦争では民兵の戦闘参加に対して戦争法規違反と、米英側が非難した。これはヘーグ規則1条によるものだが、同2条の適用もあり、断定は難しい。これはゼネバ陸戦法規違反の争いの実例である。] 先ずポツダム宣言第十項は「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」と述べている。果たしてしからばここに所謂俘虜虐待なる行為は国際法違反であるか、しかしてその責任者は個人的に敵国の手によって処罰を受けるべきであろうか。 この問題を考えるには先ず俘虜取扱に関し日本に適用されるべき国際法規が存在するか否かが考えられねばならぬ。 次にその違反が存在するか否かを定めねばならぬ。そして最後に果たして国際法の違反は何人にその責任を帰属せしめ得べきであるかが考察されねばならぬ。 第三 適用法規の問題 俘虜取扱に関しては1929年ジュネーヴに於いて俘虜の待遇に関する条約(1929.7.29.)が締結されているが、これは帝国の署名のみで批准するに至っていないから帝国を拘束するものではない。この条約に関しては昭和16年12月27日スイス国政府が米国の為に、同17年1月3日アルゼンチ ン国政府が英国およびその自治領の為に各俘虜の取扱に関する1929年の条約を守る意思あることを帝国政府に伝え、且つ帝国政府の意向を尋ねて来たに対し、昭和17年(1942)1月29日帝国政府よりスイス国 、アルゼンチン国外交代表に向かって「適当なる変更を加えて(mutatismutandis)同条約に依るの意思ある」ことが声明されている。従って法的には拘束力なきも実際上は大体同条約の規定を守るいわば外交道義上の義務を生じていると見るべきであろう。 この条約以前には1907年のヘーグに於ける陸戦の法規慣例に関する条約、附属書陸戦の法規慣例に関する規則第一款(かん)第二章に俘虜に関する規定があり、帝国はこの条約に署名批准しているのであるから、これは一応帝国を拘束するものと云える。しかるに同条約第二条は「第一条に掲げる規則及び本条約の規定は交戦国が悉く本条約の当事者なる時に限り之を適用す」とのいわゆる連帯条項がある。③今次大戦に於いても交戦国と認められる英帝国の自治領諸国は何れもヘーグ条約には加入していない。 よって本条約の適用の有無につき疑いが生ずる。しかしながら前大戦に於いても実際上は各国政府がヘーグ条約を有効なる如く取り扱った事実もあり、④又第一次大戦後の新興国あるいは自治領の独立によって連帯条項を適用する時には殆 どすべての戦争法規を無効ならしめる虞もある点も考慮すれば、この第二条の規定に拘わらずこの条約は後の俘虜条約の規定する如く⑤「之に参加せる交戦者の間に拘束力を有する」如一34一く取り扱うを可とするであろう。かくて俘虜の取扱に関しては法律上は1907年のヘーグ陸戦法規が帝国に対し適用力を有するものと解せられる。しかして道義上は1929年のジュネーヴ条約も「適当なる修正を加えて」遵法さるべきものと云い得るのである。③国際法外交雑誌42巻7号信夫淳平「従軍所感と国際法」13頁。④立作太郎博士『現代法学全集第五巻』「国際法の基本観念」167頁参照。⑤俘虜の待遇に関する条約82条。第四 違法の要件 しからば俘虜の取扱に関し、いかなる点に於いて違法が成立し得るか。 先ず俘虜は正当な事由なくして生命を奪う事は出来ぬ。正当な事由とは俘虜が違法なる交戦手段を執りたる為俘虜の取扱を受ける権利を失っていた事が判明した場合 ⑥又は甚だしき不従順の行為ありたる時 ⑦に限られる。これらの事由なくして俘虜が殺害せられたならばそれは明らかに違法である。 次に俘虜の取扱は人道を以てすべきである。⑧この点は「人道を以て」とのヘーグ条約の規定は明確を欠くが、ジュネーヴ条約は更に詳しく常に博愛の心を以て扱う事、暴行侮辱および公衆の好奇心に対して保護さるべく、又報復の対象たり得ざる事を明定している。⑨前段に述べた帝国政府の声明の趣旨から推せばこの点はジュネーヴ条約の規定を準用してさしつかえないものと思われる。(但し同条約が俘虜に対し優遇を与えすぎる点にたいする制約は存するが,右の点はその制約は受けぬものと解せられる。⑩)従って俘虜に対し正当な事由なくして行われたる暴行侮辱は違法と云わなければならぬ。正当な事由とは不従順の行為ある時の処罰、あるいは氏名、階級に対する訊問に対 し実をもって答えざる場合である。ジュネーヴ条約は俘虜に対し一切の体罰を禁じているが⑪ヘーグ条約に於いては軽度なる体刑は許されると解すべきである。訊問に対する応答の強制は氏名及び階級に限られる。軍事的事実に対する訊問に答えざる場合には何ら体刑を課する事を得ぬ。又俘虜に対する労務は作戦行動に関する事を得ず、又過度なる事を得ぬ。⑫「作戦行動に関する」とはジュネーヴ条約の規定する如く⑬「各種兵器弾薬の製造及び運搬ならびに戦闘部隊に宛てられたる材料の運搬」などと解してよいと考えられる。これらの労働に従事することを強制する事は違法である。過度とはその国の労務者がその労働に従事する時間を甚だしく超過する事と解せられる。十分の休養時間もなき奴隷的労働に酷使する事は違法である。又将校に対して労働を課する事も禁止されている。俘虜の給養は捕獲国の政府の軍隊と対等たるべき事が規定されている。しかしながら此の規定の趣旨は俘虜に衣食を与えずして虐待する事を防止するにある事から推して帝国の場合の如く自国の軍隊自身、規定量の衣食の給養を受くるに十分でなかった際に俘虜に対して厳密に同一35一等ならざる事は必ずしも違法とは解し得ぬと考えられる。⑭ただし捕獲国非戦闘員の得べき最低基準量の衣食は給養さるべきものと解すべきであろう。俘虜の収容は収容所内では或る程度の自由を許されねばならぬ。⑮正当の事由なくして長期間幽閉する事は違法である。俘虜が甚だしく従順を欠き多人数通謀して反抗を企てる場合の如きは正当な事由ありと為すべきである。収容所の設備に関してはヘーグ規則はジュネーヴ条約の如き詳細の規定⑯なきも人道の見地から可能なる範囲に於いて清潔衛生を保持すべきであろう。捕獲国の軍隊の兵営と同等たる事を標準とすべきであろう。位置に関するジュネーヴ条約の規定⑰は優遇に過ぎると云うべきであろう。従って可能なる範囲に於いて適用すべきも遵法の義務は認め得ぬと解せられる。⑥ヘーグ陸戦法規第三条第二項⑦同8条。例えば逃走したる時あるいは多人数通謀して逃走または反抗を企てたる場合の如きは死刑に処し得るとされる。立博士『戦時国際法』195頁。⑧同第4条。⑨ジュネーヴ俘虜条約第2条。[2003年3月末、イラクと交戦中の米英国政府は俘虜のTV放映について、この条項違反 と非難している。]⑩立博士同様。国際法外交雑誌41巻6号82頁。横田喜三郎が当然視するは疑問。国際法外交雑誌42巻5号84頁。けだし連帯条項不適用は事情変更故。⑪ジュネーヴ条約46条。⑫ヘーグ規則6条。⑬ジュネーヴ条約31条。⑭立博士『戦時国際法』196頁。⑮ヘーグ規則5条。⑯ジュネーヴ条約13-1条。⑰ジュネーヴ条約9条。「不健康地に於いて又は気候温和なる土地より来たれる者に対し有害なる気候の地に於いて捕らえられたる俘虜はなるべく速やかに一層良好なる気候の地に移さるべし。俘虜は如何なる時たるを問わず戦闘区域の戦火にさらされるべき地域に移送せられることなく又その所在に依り或る地点又は或る地域を砲爆撃より避けしむる為に利用せらることなかるべからず。」第五 責任の帰属 前節によって俘虜取扱に関し帝国が遵守すべき法規の主要点を指摘し、同時に俘虜取扱 に対する違法の要件を示し得たと思う。よって次にかかる違法あ責任は何人に帰属せらるべきかという問題を検討しよう。 凡そ違法に対する責任を問うのは法の実現に対する保障の手段であり、法の法たる所以であ一36一る。国際法も法である以上、違法に対して責任を追及する事によって法の実現を保障せんとする。しかしながら国際法は主として国家間の関係を規律する法である。従って違法の責任を問う者も国内法の如く組織された法の支担者ではなく、国際社会を構成する国家であり、違法に就き責任を負う者も一般に国家でなければならぬ。そこから国際法に於ける強制につき国内法と異なった特殊性―国家の実力関係による多分の政治性―が生ずる。 しかしともかく国際法の主体が国家であると云う点から国際法の違反に対する責任が国家に帰属する事は疑いを入れぬ。 ヘーグ陸戦条約第一条は明瞭に条約国の負う訓令発令義務を規定する上更に第三条に於いて第一条に掲げた規則に違反した当事国はその軍隊を組成する人員の一切の行為につき責任を負ってこれが賠償の責を負うものとしている。⑱従ってヘーグ陸戦規則の違反責任が国家に帰属し賠償の義務を生ずる事は法文上明瞭と云わねばならぬ。 しかし国家に違法の責任が帰属する場合には何らかの形でその国家の成員たる個人又は団体の違法行為が無ければならぬ。かかる場合に行為者たる個人又は団体は全く違法の責任を負わぬものであろうか。国際慣習法上戦争法規違反を為した個人を自己の権内に収めた交戦国は右個人を戦時犯罪人として厳重に処断し得る事が認められていると云われる。⑲それはヘーグ規則にも言外に含まれていることが感知され得る。これは行為者たる個人に責任を負わせるものであろうか。凡そ国際法は国際秩序の間の関係に於いてのみ効力を有する事はあらゆる規範はそれが形成するところの法秩序のうちに於いてのみ法的性質を有するとの原則から見て当然である。⑳従って国際法は一般に直接個人の行態を規律する事はあり得ない。この場合のヘーグ規則も直接個人に特殊の行態を要求する如く見えるが、ヘーグ陸戦条約第一条に明らかな如く、右規則は条約国の発すべき国内法規の典型に過ぎぬ。従って右規則が直接個人の行態を規律するものとは云い得ない。帝国はこの規則に則って、しかも多分にジュネーヴ条約の精神に近い俘虜取扱細則、俘虜労務規則、俘虜給与規則等⑳を定め、又俘虜処罰法を制定した。此等の規定はヘーグ条約第一条を忠実に遵法したものと云い得べきである。かくてヘーグ規則に対する違反は違反者たる個人にとってはそれが規則を準用する国内法規の違反であると云う意味に於いてのみ妥当する。従ってそれら個人は国内法によってのみ処罰され得べきである。しかしながら交戦中は敵国に対し戦争法規違反の責任を求める事は困難である。けだし戦争それ自体が国際法上の強制の形式とも考え得る事を想起すれば直ちに理解されよう。従って交戦国は交戦中国家を通じて敵国の国民に戦争法規の遵守を求める事は出来ぬ。この点からこの場合法規の保障の為には直接敵国の個人(行為者たる)に対し制裁を加える事が許されるので一37一ある。故にこれは交戦中に限られるものと解すべきである。停戦後は如何なる違反に対 しても国家に対し責任を問う事を得る。従って国際法の主体ならざる個人に直接国際法規の責任を帰する事はあり得ぬと云うことになる。最後にかくて国家に帰属する事が明らかになった違法の責任の内容は如何なるものたるべきか。個人の行為の責任を国家に帰する問題に関しては国際法学上古来二つの考え方が行われているとされる。即ち一はゲルマン法的連帯責任の理論であり、他はローマ法的な故意過失の理論である。しかしながらこの二流は何れも国家としての責任を果たすか或いは責任を免れる目的の為に行為者たる個人を処罰すると云う結論に達する。従って此の問題に関する理論上の見解は共に国家の賠償には行為者たる個人の処罰が含まれると云うを得るであろう。⑳ヘーグ条約第三条は明文を以て国家の無過失責任を認めたるもので前者の理論を汲む ものと見得るがその賠償はやはり行為者の処罰を要求すると解し得るであろう。この場合国家は先ずかかる違法行為が発生せざる如き処置を講じていたか否かが検討せらるべく、次いで違法が発生した場合その行為者に対し刑事上の手続きを執る義務が生ずる。⑳帝国はヘーグ条約に基ずき夙(つと)に俘虜取扱規則、俘虜収容所条令、俘虜労役規則、俘虜処罰法等を定めていたが、今次大東亜戦争に際してもそれが改正を行うと共に新たに俘虜給与規則(昭17.2.20陸達)等を定めて、その国内への遵法をはかっている。之等法規は条文上国際法に抵触すると見得るものはないから第一の責任は解除されると解される。 そこで国際法規の違法行為者は之等の規定の違反者として国内法上の犯罪を構成し、その責任を追及されることになる。ここで問題となるのは前記の諸法律、命令には条項違反に関する特別の処罰規定がないことである。従って之等条項違反は刑法、陸海軍刑法、命令の条項違反に関する罰則の件等によって処罰する外はないものと解せられる。かように特定の処罰規定を設けていない事は国際法上責任を生ずるやと考えられるが、上記の適用より特に著しい不都合は生じないように考えられるから必ずしも不法ではないと解する。 次に賠償は一般に金銭給付を以て行われるのを常とする。しかしながらこの場合個人の処罰と銭給付とが二重に行われるべきかどうかは疑問である。一般国際法は賠償の一般的性質を定めていないと見られている。⑳⑱ヘーグ条約1条「締約国は其の陸軍軍隊に対し本条約に附属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すべし」、3条「前記規則の条項に違反したる交戦当事者は損害あるときは之が賠償の責を負うべきものと交戦当事者は其の軍隊を組成する人員の一切の行為に付責任を負う」。⑲立博士『戦時国際法』p.45-49.⑳アンチロッチ『国際法の基礎理論』一又正雄訳61頁参照。⑳俘虜収容所条例 明治38勅28(明38.2.2)。 第二条俘虜収容所は必要に応 じ之を設置す。 その位置一38一及び開閉は陸軍大臣之を定む。俘虜取扱規則中改正追加,明38陸 達7号。俘虜取扱細則中改正追加,明38陸 達20号。俘虜労役規則第5条中追加,明38陸 達40号。俘虜自由散歩及び民家居住規則,明38陸 達21号。俘虜処罰に関する法律,明38.2.28。法38号。第一条 俘虜監督者監視者又は護送者に対し反抗もしくは暴行の所為ある者は重禁獄に処しその情軽き者は六月以上五年以下の軽禁固に処す第二条 俘虜共謀して多衆前条の所為あるときは首魁は死刑に処すその他の者は有期流刑に処しその情軽き者は重禁獄に処す第三条 俘虜共謀して多衆逃走の所為あるときは首魁は有期流刑に処しその情重き者は死刑に処す その他の者は重禁獄に処しその情軽き者は六月以上五年以下の禁固に処す第四条 宣誓解放を受けたる俘虜宣誓に背く者は重禁獄に処しその宣誓に背き兵器を執り抗敵する者は死刑に処す第五条 俘虜逃走せざる宣誓を為し之に背く者は重禁獄に処す その他の宣誓に背く者は軽禁固に処す(以下略)⑳Anzilotti,p.509-516.⑳ヘーグ条約第一条参照。⑳田岡良一教授『国際法大綱』(上)435頁。ここに説く如く国際連盟規約13条も賠償の範囲及び性質の決定は仲裁裁判所又は司法的解決に付し得るものとしていたのは此の証左である。第六 結語 以上を以て俘虜虐待に関する国際法違反とその責任に就き概説を終わったのであるが、要するにその責任は国家に対し違反行為者の処罰に対する義務と要すれば金銭給付の義務とを負わせるものであって、被害当事国による行為者の裁判権は戦争終結後には法律上認められていないものと解せられる。しかるに現実に於いては連合国による裁判が準備されつつあると伝えられている。ここに帝国に対する国際法違反が問題とされぬ事と共に論者が前節冒頭に於いて指摘した如き国際法適用上の政治的制約が見られるのである。かかる現象は即ち国際法の法的原始性を示すものであり、国際社会の原始性をも物語るものである。吾人はここに益々国際社会の進化につき努力を捧げる必要を感じつつこの稿を終わることとする。1945.11.27.頃執筆。 後書き。この原稿を浄書しつつ二ケ月以上を経過した そのに俘虜虐待事件の裁判は横浜に開かれ、既に二名の死刑、数名の懲役刑を宣告した。又従来先例のない戦争開始に関する責任者の裁判も近く開かれんとしている。それにつき一部ではこれら裁判を通じて園際法の革新一39一が行われつつあるのだとうたう者もある。ポツダム宣言により国際合意が成立したとすればなるほど之も一応の形式をととのえているといえるかもしれぬ。又現実に行われるが故に法であるといえば、いかにも従来の国際法より実定力の強い新たなる法だと言えるかもしれぬ。しかしそれらは法の主たる目的である道義の実現及び人権の確保等を無視したものである。国際法の如き未発達の法にあっては実定性は必ずしも伴わぬ当為として事実の上にのぞむという意味を多分に含むものだということが考えられねばならぬ。事実の前に屈服するのは、専制主義の法学である。又刑法の不遡及の原則の如き専制主義への反動としての重要な成果はそれが国内法の領域に於いて得られたものとはいえ、国際法の領域にも当然守らるべきものであり、それを放棄するのは国際専制主義の承認に外ならぬ。要するにこれらは国際間の実力状態の強弱を基にした専制的悪法である。これらについては国際政治上の痛烈な批判が下されねばならぬと信ずる。⑤国際連合 占領政策で最大の効果をあげたと思える農地改革には、農村に縁がなかった生活でほとんど注目しなかった。戦前の日本資本主義論争に無知だった証拠であろう。同様に労働組合の公認も現実として受け止めたに止まる。共産党の公認などの思想的自由は全く理解できていなかった。敗戦後の没落市民層の関心はやはり食糧危機の救済にあった。賠償問題は第1次対戦後のドイツの例を思って、襲いかかる嵐を待つように恐怖感をもっていたといえよう。国際政策では国際通貨基金(IMF)を設置して重要だった1944年7月のブレトン・ウッヅ協定による国際通貨会議(46.3)は切り抜きを持っていたが、やはり理解がうすかった。私が具体的に最も関心を持ったのは、直接の日本の問題ではなく国連の問題だったようだ。戦前に国際連盟事務局次長を勤めた伯父杉村陽太郎の影響だっただろう。 多分未だ終戦連絡事務局にいた9月ころだろう。45年6月サンフランシスコで調印されたばかりの国際連合憲章正文をみつけ、感激して全文を筆写した。その後長く保管していたが、何日かかったものか?。9月8日(土)に写し終わっている。時事通信社からの原文対訳は46年5月末にやっと出たし、新聞記事でも46年1月に一部の要約を解説したにすぎないから、それらより大分早く知ったわけだ。当時は未だ冷戦の開始を予想しないから、総会の多数決と安保理の拒否権を定めたことによって、大国の共同歩調で世界をリードするのだ、これで世界が平和になれると、かって国際連盟が総会の全会一致制のため紛争解決能力を持てなかったことと比較し、大きな夢を抱いたことを忘れない。戦時の米ソ蜜月が永続することを期待したのである。 45.10.24.の米国批准による国連の正式成立は新聞に小さく報じられた程度だったが、その一40一後ロンドンでの第一回総会が始まる頃には、当時強力だった占領軍の指導をうけた新聞が「国連の機能」などと解説をかかげ、強力な武力を背景に世界の安全保障、平和の維持を目的とすると紹介を始めた。46年1月のトルーマン大統領年頭教書でも「国連は世界平和維持へのわれらの果敢なる冒険が開始されたことを意味する。この平和建設の努力に当たっては小国もまた大国と同じく発言権を有するよう努める方針で一曹一米国としては日独との平和条約締結に際してもかかる機会を小国の為に留保する心算である〔これは全く実行されなかった〕。国際連合の育成支持は米国の永続的政策となるでなろう」とその重視を強調していた〔今読むと米国の現実政策との背反に呆れる〕。4月6日米国陸軍記念日のトルーマン演説でも「米 国外交政策のさしあたっての目標は全力をあげて国連を支援することにある」としていた。世界連邦への夢は世界的に拡がっただろう。こういう世界情勢については、私は敗戦の恨み、復讐戦争の志は残さず、世界平和を望みつつもか なり冷静に事実を観察していたようだ。この国連憲章のノートを使って46年4月に友人のために卒業リポートを書いたものも残っているが、現実にやがて始まる米ソの冷戦の前兆をしっかりとらえている。「国際聯合と国家主権」(聯は以下国際聯盟の外は連と改める)一一 国際連合の成立 第二次世界大戦の戦後秩序建設の為に、前大戦に於いて国際聯盟を平和条約たるヴェルサイユ条約と結び付けた為に種々の不都合を生じた経験にかんがみて、連合国は対日戦争の未だ終わらざる1945年4月早くもサンフランシスコに連合国国際組織会議を開いた。 そして二ケ月の討論の結果6月26日国際連合憲章を採択、参加46ケ国の署名を行った。 この19章111条からなる憲章は、その111条 第3項 の規定する五大国とその他の署名国の過半数の批准書寄托を同年10月24日の米国の批准によって終わり、先の国際聯盟に代わり、今後の世界政治を運用する最大の新国際団体たる国際連合を明示の国際合意に基づいて成立せしめたのである。 そしてその後の参加五ケ国を加えた51ケ国代表は本年(1946)1月10日よりロンドンに会してその第一回総会を開き、各種理事会の構成等を終わり、その活動を開始したが、早くもそこに先の国際聯盟と異なった観念の存することを示しつつある。ここに観察を国際法上の主権の問題に限定しつつその分析を試みよう。二 問題の根本と分析の方法 Kelsenの純粋法学を遵奉する横田喜三郎教授は、 国際法の対象の純粋性を強調して政治的事象を国際法の研究対象とする事を拒否するが、その立場は結局国際法秩序乃至国際法の拘束力に対する独断的な信念を基礎としている点で極めて政治的と云えるのであって、教授の国際連一41一合讃美論は正しい学問的理論であるとは考えられぬ。国際連合の研究に当たっても、憲章の条文のみの検討に止まって、その論理的完全性を推奨することは容易であるが、第一回総会壁頭英首相Attleeが述べた如く、「原則の肯定は易しいがその行動への転化、理想の現実化はまことに難しい」寧のである。そして現実化されざる法は法と見ることは出来ないのであるから、国際法のごとき法の推進力としての政治との関係の極めて密接な法領域に於いてはその研究対象として法規そのものに止まらず、その背後にある政治現象にも分析の眼を向けることこそ真の学問的態度であると信ずる。 更にその場合純粋法学と逆に分析の根本的立場に於いては全く政治的動機を排すべく、国際法および国際政治現象のありのままを分析すべきことを注意しておく〔以上は反横田の立場を取った安井郁説に忠実な主張である〕。 さてかかる立場から国際連合憲章を見るとそこには二つの互いに矛盾した主義の並び存している事に気付く。すなわち―は従来の伝統たる国際法主体としての国家の絶対的平等を認めてゆく主義であり、他は主権の平等を排し現実的勢力に基づく国家の差別を規定せんとする主義である。現実的な観察に基づけば国際連合には国際連合讃美論者の説く如き、超国家としての連合自体の権力の如きは未だ実効力を伴う段階に立ち至っておらず、その点まだまだ国際社会は未分化[未発達]である事を認識せねばならぬ。よって以下節を分かって上記の二点についての説明を試みよう。*Time ,1946年1月21日 号,11頁 。三 主権平等の主義 国際連合憲章前文は「--男女ならびに大小諸国家の平等の権利に対する信念を改めて確認すべく--決意せる我等連合国人民は」と明らかに従来の国際法の伝統的観念たる国家主権の平等の主義を謳っている。それは更に第二条にも「本組織はその全成員の主権平等の原則に基づく」と繰り返されている。 かくて総会、経済社会理事会、信託統治理事会に於いては票決に多数決主義をとり、総会の手続き上の事項と後二者の決議は過半数、総会の重要事項は2/3の多数を以て決すべきものとした。この点は国際聯盟に於いて機械的な主権平等主義に忠実であって全会一致でなければ大部分の議事が決定し得なかった点に比し、必然的な政治原則たる多数決主義を採用した事は、当然とは云え大きな改良と云うことが出来る。 しかし規約内容には必ずしもその原則は徹底していない。詳しくは後に述べるが安全保障理事会に於いて大国と小国との投票の価値に差別を設けた点がその例外である。 ところでこの連合の構成員として平等権を有する国家は如何なるものか。憲章第二条「成員」一42一に於いては原成員は サンフランシスコ会議に参加又は1942年1月1日の連合国宣言に署名した国家にして、本憲章に署名批准したものとし(3条)、その他の平和愛好国家にして本憲章の義務を受諾し、本組織の判断に基づき、その義務を有効且つ積極的に履行するものには加入を許す(4条)としている。 ところがこの国家(State)は必ずしも独立せる事を要せざる事は原成員たる諸国家を見れば明らかであって、これは恐らくある程度の自治、外交権を与えられていれば足りると解される。この点は先の聯盟に於いても国、完全な自治を有する領地、又は植民地という条件(1条)の下に、英自治領諸国インド等[カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、南アフリカ]が加盟していたので事実上同一であるが今度は明文がない。 かくて新たに今次大戦中に独立を付与されたシリア、レバノン共和国や、新たに外交権を付与された白ロシア、ウクライナ(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が含まれている。 これらあるいは英勢力下にあるサウディアラビア等がどれほどの外交的独立性を有するか、国際関係に於いて主権を有すると認めるのが正当か否かは相当疑問である。国際政治上これを見ると結局これらの国家の加盟はその実質的指導力を握る英、仏、ソ連等が国際連合に於いて一票以上の投票権を得んが為の形式に外ならぬように解される。殊にサンフランシスコ会議開催直前になって、ソ連が白ロシア、ウクライナの参加承認を求め、しからずんば英自治領も参加すべからずとした如きはこの間の消息を物語っている。 かかるソ連の外交にはイデオロギー的攻勢の立場が看取され、英米の国際的優位に対し着々自己の勢力下の国際法主体を増加して対抗せんとの意向があることは、第一回総会 の議長選挙に当たり、ウクライナ代表より公開選挙を主張した点にうかがわれ、注目される。しかしともかくかかる自治領、構成共和国等は国際連合に関する限り国際法上の主権を認められているわけである。四 主権差別主義 前節に指摘した如く、国際連合の最も重要な機関たるべき安全保障理事会に於いては11の理事国に対しあらゆる議事は7票の賛成により決議さるべく、手続き以外の事項に関してはその中5常任理事国全部の同意を含むを要するとされている(27条)。 これは明らかに国家主権に優劣の差別を設けるものであり、前文及び第二条の精神に反するものと云わねばならぬ。かかる例は従来割りに少ない。国際聯盟に於いて主たる同盟及び聯合国を常任理事国とし、15条に基づく聯盟総会の報告書が聯盟国に不戦の義務を負わせる[紛争当事国に戦争に訴えないように求める]には常任理事国全部と爾飴過半数の同意を要するとした例(同条10項)と、国際労働機関に於いて労働理事会の政府代表者選定に主要産業国[主要産業国が何処かは国際聯盟理事会が決定する]に優先権を与えた例が顕著であるにすぎぬ(国一43一際労働規約393条)。 これは一見前節に述べた主権平等の主義と根本的に矛盾する如く見えるが、これもやはりその根底としての国際政治を考察すれば前節と同じく旧態依然たるPowerPoliticsの別の、より露骨な表現にすぎぬと見ることが出来る。この規定は俗に拒否権と呼ばれているが、サンフランシスコ会議に於いて拒否権を最も強力に主張したのはソ連であり、最も反対したのは英自治領諸国及び中南米諸国であった。拒否権を認めることは如実に大国の専制を認めることになり、ソ連がこれを得なければ勢力下の小国を多数有する英米に事毎に服せねばならぬ事となる訳であったのだ。従ってソ連としては一方に白ロシア、ウクライナの参加を得、他方拒否権の獲得によって自己の立場の強化をはかったと見られる。[2002-3年の対イラク武力行使をめぐる安保理事会で仏、露、中国の拒否権行使の気配で米国の決議回避の行動を生じた経過は、このシステムの崩壊をうかがわせるものである。]五 結語 その他なお国際連合が国家に対しどれほどの拘束権を有するかというような根本的の点に関し問題が残るが、未だ発達途上の国際連合に於いて規定のみから判断を下すことは無意味と考えるからここには省く事にする。 以上を要するに国際連合は一部平和主義者の賛美する如き理想的な国際組織ではなく、未だ発達の不十分な国際政治の局面を反映したPowerPoliticsの色彩濃いものという事が出来る。 その点でいたずらに理想に流れて実行力に乏しかった国際聯盟に比して現実的であって実行力に対する希望ももてると云える。しかし本稿に説いた如くその組織は結局英米勢力とソ連勢力との強力な対立をはらみつつ妥協によって結合したものと云う事が出来、その持続性も、その限界をこえる事は出来ないものと云い得る。しかし又考え方によってはかように現実の勢力対立関係が聯盟の場合の如く蔭に潜まず、規約乃至会議の席上に姿を表していることは一の進歩であり、その方向にかえって国際法の発達が期待出来るとも云えよう。[昭和]21.4.18.執筆。§7日 華学芸懇話会 一高の文科丙類で一年のクラス担任は漢文の竹田復(さかえ)先生(中国軟文学専攻、1986没)だった。左翼運動華やかなころに学生主事をされたから、いろいろ深刻な経験も持たれたのだろう。年配で小柄の人間的に深味のある非常に面白い方だった。当時の中国人留学生だった趙安博氏も約五十年後に好意をもって回顧していた。私は在学中から時々訪問して話を伺っていたが、この頃市ケ谷のお宅に訪ねた。するとちょうどいい勉強会をや っているからぜひ聴一44一きに来たまえとすすめられた。 それは戦時中解散させられた筈の太平洋問題調査会の後継だったのかも知れない。平野義太郎氏らが同会の資産の運営に当たり、南洋諸島の研究書などを出版していたらしい。 日比谷内幸町の幸ビル六階の多分同会の一室で、毎土曜日に日華学芸懇話会〔当初は文芸〕という小さな研究会が開かれていた。 手元に残る記録によると46.3.23.山之内一郎「ソ連の憲法」3.30.橘(立花か?)善守(義盛か?)(多分上海毎日新聞)「上海近情」4.6.池内宏「神功皇后記」4.13.鈴木朝英「英国のマライ回教徒政策」、内田某「同華僑政策」4.20.魚返善雄「外人の見たる新中国文学」4.27.上田辰之助「月刊誌『アメレシアAmerasia。46,1.』による中国経済学説批判」5.4.平野義太郎「"WhyBadResultsfromGoodDirectives?"『同46.2.』による」5.11.清水安三「中国近況」5.18.李済・張鳳墾氏の予定(キャンセル)。5.25.松尾某「Roosevelt以後の米国」6.1.欠席。6.8.魚返善雄「中国のローマ字国字運動」6.15.幼方直吉?中国のキリスト(新)教運動」7.6.増田福太郎「中国宗教の課題」7.20.直江広治「華北における民問伝承の運搬者」といった内容であった。私も随分熱心に通ったものだ。必ずしも中国の話題に限定せず、それぞれ専門的な、学者、新聞記者などが二、三十人集まって、戦時中の蓄積を吐き出 している趣であった。討論にも熱気が脹り若い私には大変刺激的であった。 ノートに残る記録を紹介しよう。1山之内さん。Ideology的にか、研究中に自然にそうなったのか、著しく(ソ連)心酔的傾向が目につく。何故批判力がないのか。没入の中に自己を失うのか。それはそれとして現実政治の話は学問への情熱を増す。山之内さんは外務省調査局で罹災の兵隊服姿が哀れっぽく印象に残っていた。不思議にも後に東大社会科学研究所で再び長老教授として接し、麻布中の先輩でもあった。そんな関係で私に大変好意を示され私達の結婚の立会人(昔の媒酌人に代えた)までお願いした。その大人の風格は深く尊敬していたが、昔風のソ連一辺倒の学風にはいつも反発して直接の論争となったこともある。それで不本意なことに周囲の同僚に仲が悪いと誤解された。私は尊敬するが故に批判していたのであった。もうあんなに純粋に共産主義を信仰できる人は二度と現れないだろう。一45一2橘氏。3月8日に上海を立ってきた人。 国民党の独裁が国内的にも国外的にも寿命が来ている。国民党、中共双方の都市政策(生産?)の貧困のための漸江地区の困窮、支那の民族意識としての対日接近感情と経済再建上の対米依存とのdilemmaことに国民党政府では従来抗帝(国主義)一本で来ただけ、対外協同により学生、藍衣社等排外層を導くのは難しく、国民党の衣替え、立て直しは必至と見られる。殊に対ソ関係では条約締結の責を問われている等の指摘が面白かった。この日は竹田先生も出席されて用事を頼まれたりしている。3魚返氏。一回目は(意味不明。二度報告されたのか?)民国三十五年、中国成年期に達すと、十年前には問題にもならなかった 日欧米人の文学研究がようやく緒についた。日本においては「懐風藻」は早いが、中絶。昭和十年頃「中国文学研究会」ができた。フランスでは初期の支那学者が独創に富む研究をしたが、その後マンネリズムに陥り、どちらも清朝初期で打ち止め。これは留学の支那人に継承され、呉易大の「中国文学概説」がで きた。欧米人のこれまでの傾向としては、①老荘と旧約聖書との比較、②中世朱子学と中世欧州哲学との比較、③民国文学革命とルネッサンス、④諺、箴言の重視による民族性の探究という特徴があった。エドガー・スノーが"LivingChina"で、死んだ材料ではだめだと、現代文学に目を向け、魯迅を取り上げた。「阿Q正伝」も小説ではなく、歴史小説の短編の引き延ばしだ。これは原稿料が安いことと、講釈師の伝統に基づくとスノーはみる。しかしわたしはこれは支那語自体の特質によると思う。簡潔だから了解しにくいのである。スノーはまた林語堂『我国土我国民 』以後が中国新認識時代とするが、同感である。これがPearlBuckの"Th eGoodEarth"に並立する。エスカラ『支那・過去及現在』もこれに匹敵しないといった内容であった。4平野氏のは"Amerasia"46年2月号の占領政策批判の紹介で、多分AndrewRossか、Jaffeyの書いたものだろうと推定。"Amerasia"という雑誌(1937.3月創刊とのこと)や、アメリカの左翼ジャーナリストの存在、そのグループによるアメリカの対中国観が"NewFrontier"という点にあることが紹介された。これを聞いて高木八尺教授の講義の「フロンティァ・スピリット」を思い出し、世界史の大きな転換期を感じとった。その批判はまず「日本の識字率は98%というが、14%位しか新聞を楽に読めない。大部分は支配層のスローガンを理解するのみだ。幣原内閣の性格はアンシアン・レジムの代表だ。それを通じてはGHQの良い指令も変わってしまうと急進民主派の立場を取る。農地改革については1、地主保有地五町歩は広すぎる。2、24力年年賦でも農民に購入の資力がない。3、農民の性格をそのままにしておけば元へ戻る。4、農業資本の大部分が土地購入に費やされ、生産力が上がらない。また小地主と小作人の対立を取り上げていない、と新潟、山形、秋田、宮城等水田地帯に昭和初期以来大地主が集中、激増した。生産に協力してゆくものなし。山形の本間一46一家が農業倉庫をやるのみ。不在地主は特に寄生的。税を納めぬからだと、大地主の土地没収を主張。しかし日本の問題点は中小地主にあると零細規模農業について、日本の社会経済構造を問題にしている。荒蕪地開拓でも零細規模の問題は残る事に気づいているという。これらの見方は1.P。R.(太平洋問題調査会),"FarEastemSurvey",OwenLatimore,Ross,Jaffey.などに共通した認識だとされた。根本的にはアメリカの一部の人々が日本が戦争を起こさざるを得なかった社会経済機構の窮迫という点に着目し始めていると指摘され、列席の田村幸策氏(元外交官,国際法,東京裁判弁護人)に向かって戦犯裁判の根拠薄弱なことをつき、個人の弁護とは別に日本としては止むに止まれぬものがあったし、今もその原因はあるのだということを説いてもらいたいといわれた。 しかし大平善悟氏は国際法には時効も不遡及の原則も適用されないから、パリ不戦条約を根拠として交戦権をうばうことが可能だと法廷の主張を支持した。5松尾氏はローズベルトは、国内市場開拓となった失業救済策と、経済制度の矛盾克服をはかった社会政策との妥協に基調を置き、ニュー・ディールを成功させたので、経済支配階級の自信を弱めた。政治による経済干渉の成功であった。しかし景気回復とともに保守派の自信が復活し、1934秋以降のニュー・ディールの政策自体の妥協性と困難性とによる行き詰まりが、その違憲判決を招いた。37年以後の社会政策は資本撒布を恒久的なものと主張したが、それが資本家のPrivateIndustryへの挑戦とみなされ、PublicService,NationalIndustry.に限られるべきものとされて、いやおうなしに、NationalDefence.に向けられざるを得なくなった。そして世界情勢が、それを可能にしたのである。同時にニュー・ディール政策は対外本位に転換。"QuarantineSpeech"(隔離演説)以後がそれで、主体はHullからRooseveltに移った。1940年の予算教書は、外政の干渉政策と内政の国防充実政策の合体で、41年6月の歳計軍事支出は62億ドル(予算の62%で、失業救済費の6倍)だった。 従来あくまで平時産業の付加として賄われてきた軍需産業は、開戦とともに反枢軸(日 独伊)の兵器廠として大転換した。経済界の要人を大量に軍需産業指導に登用した積極性 がスムーズな転換を可能にした。その中で特徴的なことは、①国家資本による軍需工業の比率が増大したことは、戦後、国家の経済への発言権を増大する。②民需工業の戦後の再転換は大問題。③産業人の登用も政府の産業界への圧力を増す。④飛躍的に増大した生産力の戦後の処理はどうなるか。これに付随した現象で、戦時中保守派は自信を回復、ウオレスにかわりステッティニアス、スタンリーにかわりハリマンの保守派が登場した。彼らはニュー・ディール政策への復帰を阻止するため、新たに世界市場を求め、従来の一般世論の干渉主義と合致して今の外交における進歩派の理想主義と混在することになるとした。この報告などは、その後の冷戦に突入する米国の国内的条件を見事に浮き彫りにしており、長く私の分析の基礎となった一47一と思い起こす。6増田氏の「中国宗教」は「中国では仏教の因果論、他界説が理解されず、実体は道、儒、仏一体としうる。道7,仏2,儒1の割合の混和だ。 大成教、斉教、紅槍会などはそれだ。 漢民族の宗教の根本原理は「現実的人間主義、商取引主義」の二つ。その神は人と同格。天地、日月、山海、風雪。それらすべてが共通の性格を持つ。①発祥月日、姓名を持つ。②神の代理、出張も信者の需要に応じる。③持斎ではない神は配偶者(第一夫人、第二夫人など)を持つ。室(寝台)も別に、子もある。伝統的な神には対偶、太陽に太陰。④供侍、従者があり、神務を司る従者、例えば朝陽門外の東岳大帝は七十二人と、歴史的伝統的なもの、たとえば天上聖母の二人など。⑤無数の部下を持つ。神将、神兵。⑥情意を持ち、欠点もある。姦淫、盗賊あり。⑦金銀を持つ。参詣者が尊前で金紙を焼く(焼金)。祖先を祭るには銀紙。神と霊との差。金紙、銀紙が紙の通貨。⑧神自体が法律生活を持ち、契約を結ぶ。土地神が山を買い、福徳精神の公山とする。神と人との取引関係。同格に立って取引をする。(a)有求必慮。額に応じて参詣者の無限の要求に応ず。南方では無縁仏を祀るものに限られる(有慮公)。(b)算盤を飾る。大衆としては神と人とを差別するのは霊験あるのみ。信仰は霊験のまにまに動く。それが包容性。迷信。(a)好を呪誼する宗教。(b)荒唐の予言で社会不安を起こすもの。王爺廟など。正信。(a)個人的にも社会的にも信仰の効果を与うべきもの。(b)科学に耐うべきもの。神を神像そのもの(物質)と見るのは迷信。神像の差で霊験を考える。代理の差もある。神を人間と考え、知、情、意を考えるのも迷信。』 会の出席者は毎回二、三十人に上った。今考えて必ずしも、いわゆる進歩派に限らず、広く学問を求める人が集まっていたと思う。研究会としては、理想的な運営であったと高く評価している。その後の大学や民間研究団体などがすべてイデオロギー、専門領域、学閥、就職活動などで人を選別する傾向に走り、多様な思考方法をもった人相互の意見交換が行われなくなってしまったのは、自分自身を含めて大きな間違いをおかしたと反省させられる。 竹田先生は時々現れただけだったが、報告者以外にも東京商大で国際法の大平善悟ら同大学関係の方数人。鶴見和子、俊輔氏姉弟の顔もここではじめて見た。米軍が厳しい出版物、郵便の検閲をしていることも和子氏の発言で初めて聞いた。また最近になって一48一中国教育学史の斎藤秋男も中国から復員した46年秋以降には私と入れ違いに参加していたとを聞き互いに奇縁を感じた。 その記憶では、野原四郎、幼方直吉らもいたらしい。 ここでは報告のあとに、雑談でさまざまな意見交換があり、戦争に関してアジア諸国の植民地解放が進むが、それが日本の戦争の成果とされては混乱が起きるなどの意見も聞いた。『新中国』、『思想の科学』などの新雑誌も、関係者が持ち込んで購入する機会となった。ここで『日華叢書』として蒋介石、波多野乾一訳『中国の命運』(1946)が出版され、感激を覚えつつ読んだ。毛沢東、同会訳編(やはり解題は波多野)『同撰集上』(1947)も出た。まだ中国で出版が出来ない時で、「章乃器氏等に与う」「持久戦論」などを含み、極め早い紹介だったが、読んだ記憶は無い。この研究会から多くを学んだが、父の死が迫ったことで、縁が切れてしまった。 こんなレベルの高い研究会が当時ささやかに持たれていたことは特筆に値するだろう。第三章 社会へ1947§8 学校を出る 中学時代から母方の祖父杉村溶(1898年の朝鮮閲妃殺害事件の時大使館一等書記官で事件の計画にたずさわったとみられる。1906年ブラジル弁理公使の時任地で病死)、伯父杉村陽太郎(1927-33年国際聯盟事務局次長兼政治部長、その後イタリアに次ぐフランス大使の時ガンを発病、帰国後死去)のあとを継ぐ外交官の道を志望していた私は敗戦により目標を失った。戦後の食糧難とインフレの窮迫期で、ヤミ商売を除けば食べてゆける仕事はなく、求職は選び放題だが、どの産業、どの企業にも未来を感じられない時代だった。特に軍隊で結核を患って、その再発を恐れる身体で殺人的な交通マヒの中、毎日満員電車で通勤する自信はなかった。 東大法学部だったから当然友人が次々官庁に入った。また時代の指針と見られた出版社に入ってゆく人もいた。しかし母が結核で倒れた家庭で、三人の兄は就職して忙しく、私が専ら家族の食事、洗濯、買い物などの雑事を引き受けていたから多忙な日を送り、自分の終生の道をどこに求めるか悩んでいた。 戦時中の外務省で役所勤めにはこりた。当時「(教師に)でもなろうか、(教師に)しかなれない、でもしか教師」という自嘲、ひやかしの言葉が流行っていた。 未来にかける教師は食えないので希望者が少なかったからだ。学徒出陣の時に仮卒業を拒否したので、残した七科目をとらなければいけないと誤解していたことも頭痛の種だった。 一一九四六年末の東京帝国大学新聞で新設の社会科学研究所の助手募集の公示を見つた。 未だ設置の場所もきまらず、航空研究所の跡地(渋谷区駒場の現東大教養学部の裏にあ り、当時占領軍指令で廃止がきまっていた。現東大宇宙科学研究所)に置かれるかと予想されていた。一49一 それなら自宅から徒歩三十分以内で通勤できる場所であり、研究機関なら勤務にも比較的余裕がありそうで体力的に耐えらるかと思えた。調査は外務省でも多少経験し、やれるかも知れない。当たって見ようと、とにかく法学部事務室に書類を求めに行った。するとまず戦時の仮卒業の条件で単位を取らずに卒業が出来ることが分かった。幸 い「学徒出陣」前の学業成績は良くて、応募の資格は十分だ。これなら法学部助手にもなれるから、そちらを志願すれば良いとすすめられた。確認しなかったが、その人は多分南原教授の弟子の一人で後に中大教授となった小松春雄氏だっただろう。 だが私の東大法学部教授の学識、才能への信仰は未だ強烈だったので、戦時教育で未熟のまま「仮卒業」する身には法学部などとても近寄り難かった。 一生かけて調査研究の下働きをやっていれば、何か仕事ができるかも知れない。またその中に戦後急速に脚光をあびたジャーナリズムを通して、民衆啓蒙の仕事も開けるか。戦時中、米国の実情を知らずに開戦した日本の軍人、政治家、官僚。 開戦後も戦争政策に国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた。これらの原因をつかむべく、日本の政治の実情を研究したいとの念願が強く、高度の理論教育に専念する法学部より社会科学研究所の方が目標に近いと思えた。 初めに既に法学部で岡義武先生(日本政治史)の助手になっていた一高の同級生横田地弘君(後学習院大教授、欧州政治史)に話を聞きに行ったら、社研所員でやはり一高文丙の先輩、日本政治史の林茂先生を紹介された。 訪ねると今度は矢内原忠雄所長に会いなさいとの勧め。 戦時に多少の社会経験を積んで度胸が付いた私は平気で経済学部の二階の日当たりのよい研究室に突然訪問した。脱いだ外套を手にかかえ、先生の机の前に直立して応募の心得を質問した。 先生は笑顔で気さくに話に応じてくださって、その態度にすっかり嬉しくなり、次第に一高で先生と同級だった伯父杉村英三郎(陽太郎の弟)のこと、自分の兄たちが神戸一中で先輩としての先生の講演を聞き騒いで叱られた話など話し込んでしまった。 先生は論文を書く時は引用文献を明確に示すことを厳守するようにという点だけ注意された。「政治学について」 年末から生まれて初めて与えられた課題なしに自分でテーマを決める論文というものを書くために東大図書館に通った。 目標は政治研究なのだが、どこから手をつけてよいのか分からない。東大法学部の『国家学会雑誌』のバックナンバーをまず手掛かりに次々政治学に関係のありそうな文献を読み漁った。 しかし探しても探しても私の思うような日本政治を分析した業績は見つからない。当時すでに論壇の主流となったマルクス主義文献の参照は不可欠であろうと考えたが、探し方が悪かったのか、未だ戦時中の閲覧禁止処分のカードの回復が十分でなかったのか見当たらず、かろうじて三木清や戸坂潤の論文を多少閲覧し、佐々弘雄の論文にいくらかそれ らしい文献が引用されているのを見つけ、それを参照することが精一杯だった。 当時の一50一ポケット日記に記された読書メモではその頃やっと堺利彦訳「共産党宣言」,エンゲルス 「空想的及科学的社会主義」,マックス・ウエーバー「職業としての学問」,「社会科学と価値判断の諸問題」,タルド「社会法則」,リッケルト「文化科学と自然科学」,蝋山政道「政治学の任務と対象」,大山郁夫「政治の社会的基礎」,堀豊彦「中世紀の政治学」,大類伸「概論 歴史学」などを読んだにすぎない。 戦時の学生時代から遡ってみても、政治学関係といえそうなものは、『アメリカの外交政策』アンドレ・モーロア、『フランス破れたり』滝沢敬一、『第四仏蘭西通信』芦田均、『日本近代外交史』ドーソン、『政治の彼方に』G.F.ハドソン、『世界政治と東亜』H.M.ヴァイナック、『東亜近世史』金井章次、『満蒙行政項談』『ル ーズベルト政権十年史』『井上馨伝』『伊藤博文伝』『懐往事談』『日本文化史序説』小松緑、『錦旗を続りて』『法哲学 』『大隈伯昔日談』『実定法秩序論』『ビスマルク書簡集』くらいなものであった。 馬鹿々々しい大串兎代夫『国家学研究』などという代物も高文に必要などと聞いて眼をとおしていたのはいまいましい。 そのあげく特に蝋山を読んで過去の所謂政治学なるものは、まるで私の構想するものとかけはなれていて、現実離れした方法論や政治概念論の抽象的論争に終始していたことが段々分かってきた。 最も実践的だった大山郁夫にしても、とても日本の現実政治を分析しているとは思えなかった。結局論文は「政治学について―その対象と方法の一考察」と題して、その過去の状況を批判的に描きつつ、政治の概念とは何かを考察し、最も通説的と考えられる概念を「平均的概念(矢内原さんに「平均」には統計学の厳密な定義があると批判を受けて後に中間的と改めた)」と名付けて示した400字26枚、参照文献と注が10枚ほどの小論文をまとめただけに終わった。 ともかく約三ヶ月たらずの苦闘で私は初めて、当初自分が考えもしていなかった論旨が一篇にまとまるという、未知の創造の喜びを感じる満足だけは味わった。 この論文はその後発表の機会を得ず、1976年になってやっと専修法学論集』22号に書いた「政治学の課題」という論文の附論(p。68~85)として発表した。 その一部を抄録しておこう(抄録なので注は省略する)。 「一序」では「敗戦後の今日、社会科学の必要くらい痛切な要求はない。もとより学問は必要のみに奉仕するものではなく、かかる傾向はむしろ学問を邪道に導くものであることはいうまでもない。が、いかなる自立的の学問でもその始原的要求は学問のための学問ではなく、むしろ人生のための学問であったことは疑えないものだと思う。……」「我が国の社会科学の中でも一一・政治学のふるわぬことはいちじるしいものがあるように考え られる。おこがましいことをいう資格はないが、これは近時の弾圧に基くばかりではなく、政治学自身の混乱にも基くものと考える。すなわち本来実証的なるべき政治学が、古来の悪弊たる形而上学的独断的教説にまどわされていた形があるので はなかろうか。もとより学問の困難と自己の無力とは十分知るが、あくまで事実に即し、事実に学んで政治学を考えてみたいと思う。 以下はその出発にあ一51一たっての心おぼえである。」とした。 「二 政治概念の不明瞭」では「およそ学問的に事象を認識するには、その対象が定まっていなければならない。植物学を研究しようとして犬や猫をとらえるものはいない--ところが一政治学も一応は対象としての政治の概念をもっているといえるであろうか。植物の概念が植物学に始めて志す者にとって、すなわち一般人にとって一定しているようには、政治の概念が一般人にとって一定しているとはいえない。それは個々の植物の実在が我々にとって顕著だということから、それを通じて植物一般の概念をも常識的にも比較的容易に認められるのに反し、政治学の対象は政治一般はいうまでもなく、個々の政治事象それ自身がすでに永続性をもたない、単なる事実現象の経過にすぎないので、常識的な―非組織的な―認識は困難だという点に基くように思われる」として、蝋山政道教授が「政治学の最初になすべき仕事は『政治概念の決定』であるとし、それは『一口に言へば或る現象をして政治現象たらしむる或るものに外ならぬ』とするが、その方法は「実証的であり得るかどうか疑わしい」と疑問を投げ、「先ず(植物におけるような)常識的な概念に代わる意味で厳密に実証的とはいえないにしても、なるべく事実に即した概念を規定することを政治学の最初の任務と考えたい」とリッケルトの「科学はいわば我々の協力なしに始められた現実の概念化の一種の継続及び意識的完成と見倣され得るのである。」という観察にならって「常識的と科学的の中間に位するものもあり得るだろう」とした。 「三 政治の中間的概念」では各種の政治事象を概観し、まず選挙は政府の担当者の地位をめぐる諸党派の闘争だとし、「これはそのまま政治の特質を示すと見る」。そしてその闘争する党派の代表である政党は、「何れも我々のいとなむ社会生活の状態に関係した」理念を明示的、或いは黙示的に掲げ、その実現につとめるととらえる。そして政党員は何れも自党の目的理念に共通の利害を持っものである。行政、司法はこれらの政党の多数をしめるものの支持を得た法を大体において中立的な立場を以て実現してゆく。この意味で行政は政治の重要な部分であるが、司法はみだりに法の逸脱変更をゆるさず、独立している。 次いで外交、軍事・戦争や、予算編成にふれ、政府の作用は何れも国民の生活に大きな関係を持ち、何等かの理想を実現してゆく作用だとした。また国家以外の地方自治団体、力トリック教会、学生自治組織、労働組合、政党自体の内部などにも政治は認められる。 これらでは対立が顕著ではなく、強制の契機が弱いと認められる。それら全体を通じて政治と認められる現象の特色に共通するものは、 第一に対立者間の現象。第二にそれらの人々が社会生活状態に関するさまざまの理想を持ち、その実現にも利害関係をもつ点である。第三にその目的実現の為に反対者と闘争する行為を伴う。 目的実現に有利な地位・手段の獲得の争い、さらにその手段などを用いて反対者を押さえて自己の目的実現につとめる場合の摩擦である。第四にその手段は強制で、物理的、心理的等の力一52一を以て行われる。かくて「政治は一つの社会生活状態に関する理想の実現に共通の利害関係をもつ多数の個人又は団体が、その実現のために協力して反対者と闘争し、自己の理想とする目的を強制的手段を用いて実現し、その成果を安定的ならしめようとする行為」であるとした。 「四中間的概念の検討」では、この中間概念を諸学者のとるところと比較する。まず機能主義をとる蝋山は「人間と人間の結合又は協力関係をより高き秩序に組織化する直接或いは間接の行為を言ふ」とし、社会的行為、強制的行為、個人若くは階級の利益を伴ふことがあるとしている。「より高き」という価値判断を伴う点と「階級」を含む点が異な るが大差はないと考える。 次に社会学的政治学を企図する大山郁夫はその具体的内容を離れては何等の意義をなさないもの」として、特に概念構成を試みないが、「徹頭徹尾一の集団現象」とし、「諸社会群間に於て力の優越」―それは「権力」と呼ばれる―の獲得を目標とする社会的闘争に関連する諸事象だとし、その闘争は「集団としての自己保存及び自己拡大の衝動に基づく経済的共同利害関係に促されて発動する。被支配階級に対する経済的搾取を最も巧妙に―最も『賢明』に―最も『徳道的(ママ)』に行ふ技術だなどと説明する。ここでは集団の衝動を認める点と「支配・被支配間の経済的搾取」と端的に規定した点が問題と考える。 ドイ ツ西南学派の価値関係的普遍化科学の一種として政治学を認める戸沢鉄彦は「一つ又は幾つかの意思の主体が他の一つ又は幾つかの主体を適宜に動かして何か所期の目的を実現する機能」とする。こんな抽象的な概念で政治現象のみを示すことになるかどうか疑問とされると批判している。 最後に現象学的法哲学を求める尾高朝雄は「単一社会団体の内部現象」で「一定の対立を予想しつつ、これを克服して進もうとするところの目的活動」で、「実力の行使によって対立の克服を計るところの目的活動」とする。ここでも目的の内容が規定されていないから株式会社の株主総会等の行為もあてはまるのではないかと考えられる。また国際政治にはあてはまらない。さらに根本規範内とそれをも破砕する闘争の二つを区別し、後者は国家の同一性を中断するもので、単なる力だとする。これらは団体実在の根拠等に関し、大きな問題を投げる。かくてここに検討を試みた概念には一応大きな矛盾はなく、所期の目的には十分たえうるものであるとした。 「五政治学の認識方法」では方法論を検討する。まず政治学は社会現象を対象とする。従ってその認識は客観的実在に即したものでなければならぬ。ただその為には思想の自由が保証されねばならないが、その制約はほとんどどの国にも絶えないようにさえ考えられることと考えあわせると、そこに政治学が永遠に免れ難い重荷があるように思う。次に概念の構成をリッケルトによって、「同質的連続の数学的概念か、異質的不連続の概念かに変形することによって一53一のみ合理的に把握出来る」と考え、自然現象と歴史現象とに対応して一般化的方法と個性化的方法を区別する。 歴史的科学又は文化科学は個性化的方法に限られるようだが、その中間として一般化的に構成された群概念の個性的特性などが問題になり得るとする。 タルドは科学は必ず「反復」され、又 は無限に「反復」され得るものと考えられた個体に関する。分化も自然から不特定多数を以てひき出され得る一つの原型として特徴づけ得るので、個人の特典の如き個性は科学の対象となり得ぬ。また科学は実在に個有な「対立」を探究して創造せねばならない。さらに創造的な共同生産の関係である諸現象の「順応」の探究へ導くという。 この「反復」は一般化的概念構成を、「対立」と「順応」は個性化的概念構成を意味すると考えられ、ここでも二方法の併用が考えられる。政治学はそのどちらをとるべきか。 リッケルトを徹底すれば、政治学と政治史の区別がなくなる。歴史と自然現象との区別を無視する史的唯物論にたてば純粋に一般化的法則科学として成立し得る。大山の立場はこれである。 しかし我々は未だ個人の歴史形成の力を全く無視し得る証明を与えられたとは思わぬ。 そこで併用の根拠としてマックス・ウェーバー(現実態の文化意義による理解と、一般化的法則による類概念の分析の併用)、蝋山(社会科学の論理的目的たる文化価値は手段価値であるから、それに関係づけるべき実現手段の客観的存在の可能を証明せねばならぬ)、大類伸(政治史は因果関係による個別化的傾向をもち、文化史は価値による一般化的傾向を有して必ずしも或る事実の経過の一切を考察の対象としない)などを参照しつつ、「政 治学は個性化的概念構成の方法を主とし、歴史学よりは個物を離れて一般化的概念構成を補助手段として群・集団の個性をも求めつつ研究を進めるべきものと考えられる」とし、その際ウェーバーの理想類型は大いに学ばるべきものとした。 「六政治学の領域」では、まず社会学的研究、特に政治的結合関係、心理的要素など、また集団に固有の衝動があるか、団体は単一性をもつ実在と認め得るかなどを研究すべきだ。次に闘争関係では戦争論も含まれる。第三に目的実現の過程の研究では、立法や、行政による法の運用、宣伝的声明など、戸沢のいう「指導・支配・操縦」の検討。 さらに国家以外の政治における強制手段、摩擦克服の手段。最後に当為としてではなく、存在としての政治の目的論、目的の起源の検討、たとえば何故重商主義の産業家たちは自由放任の主張を産んだか、何故明治維新は天皇政治と結びついたか等である。その研究は唯物史観の環境による意識の規定の正しいか否かの証明ともなるであろう。この点に於いて先に述べた文化史的方法が大いに活用され得ると思う」と今後研究すべき諸分野をあげて終わっている。 いたって簡単ではあるが、未だ戦後のアメリカ政治学は全く知られていない時に、政治社会学、Conflict論、戦争研究、政治過程論 、プロパガンダ論など当時の政治学では未知の分野をひろく掲げたことは、評価される点ではないかと思う。少なくとも矢部貞治教授の政治学には一54一こうした観点は出てこなかった。さらにその後数ヵ月して『人文』第2号に丸山真男先生が「科学としての政治学」と題して過去の日本の政治学の不毛を論ずる趣旨の論文を発表された。私も幼稚ながらも同じ問題を独立に取り上げられたという思いを抱いて大きな励ましを受けたし、そこでも上記のような具体的内容はあげられなかったので 自信を得た。 当時どうして入手したのか覚えていないが、多分国家公務員用の昭和二十年十二月、印刷局発行の「職員手帖」と題したポケットノー トを使っていた。未だ新憲法以前だとはいえ、占領下数カ月たっているのに、ノートの初めに先ず「教育勅語」「戊申詔書」「国民精神作興二関スル詔書」「太平洋戦争終結二関スル詔書」(この詔書には標題がなく、新聞では戦争終結の大詔と書かれたのだが、これだけは占領軍の用語に従って「太平洋戦争」と付け加えられている。 そこだけは詔書とその上の標題と活字が違い、印刷がずれているので、占領軍の検閲 によって標題をあらためたことを推察させる)「大日本帝国憲法」「皇室典範」が列記され、さらに皇室として朝鮮王公族まで氏名、出生日、住所を列記し、なお御歴代天皇即位年代及年号表、国旗、公式令、内閣官制、官吏服務規律、宮中席次、奏任、判任文官年俸表、服忌 表、郵便電信規則概要、度量衡表、国税納期月別一覧表、日歩年利対照表、複利表の六十頁近く付録が付された驚くべき旧体制のしろものである。占領下でも旧帝国官僚たちがどんなに天皇制的官吏統制維持に心を砕いていたかを知らされる。[よく調べると、表紙に三菱のマークが浮き彫りにされており、叔父の会社で、前年の公務員用ノートの残品を表紙だけかえて作ったものをもらったものと判定した。ここにも戦後の貧しさが分る]。 そのノートを私は一年おくれの日付で使っていた。そこに論文を書き終えた日から、時々メモを記している。それによると、「三月十五日5時半清書終わる。400字24枚。注500字7枚。正午出す。志望者3人。」とある。一応安心したようだ。17日には「高木、Beard,Siegfriedのアメリカ研究の如きが真の政治学の型。政治運動と為政」と記している。 論文の執筆中に、社会では、労働者運動の占領政策との最初の正面衝突だった二・一ストが計画されていた。あまり大学に出席しなかった一学生の身で、当時いち早く起こっていた学生運動にも関与したことがなく、労働運動については全く外部から新聞・ラジオで知っていただけだったが、ゼネストには、直接の利益はないが同様に貧困と食糧不足 に悩む時とて何となく共感を覚えていた。その前夜、突然あの伊井弥四郎議長の涙なが らのスト中止のラジオ放送を聞いた。 背後でMPにピストルを突きつけられての放送とは分からなかったものの、占領軍の強制があったことはよく分かり、何とか中止命令に批判や反論は出来ないのかと歯がゆく感じた。前掲の安倍先生の論説のように「占領・民主化」とは何であるのかと反米的な疑問を深めた。 この日にたまたま社会科学研究所では開所記念講演会を開く予定で、年末に矢内原先生に、是非聞きに来たまえと勧められていた。当日ストは中止になったが事後の興奮に落ち着かず、一一55一行かなかった。南原繁東大総長、矢内原所長の挨拶と鈴木鴻一郎「日本現下の経済問題 」、鵜飼信成「アメリカ法学におけるリアリズムとラショナリズム」の二つの講演が行われ たが法文系二十五番教室も停電で暗く聴衆は僅かだったということだった。これが社研の公的活動の始まりだったので、今もこの日を開所記念日としている。 三月二十二日に面接があった。朝二時間半ほど待たされ、十二時頃から三十分くらいの面接試問があった。まだ固有の施設の無い社研なので、経済学部の矢内原研究室に、矢内原、山之内、林さんら六人と記録しているから、他に嘉治真三(アメリカ経済地理)、内田力蔵(アメリカ法)、有泉亨(民法)らの諸先生が狭いソファーにすしづめに座っていたのであろう。 所長には君の論文は文献の引用がしっかり出来ているとまずほめられた(後に聞くと前の志願者の論文が出典抜きで、学生によくある劉切まがいのものだったこととの対比であったようだ)。だが論文中に「政治学の平均的概念」という言葉があるが、平均は統計学の厳密な定義にあわないから不適切だと批判された(それは後に「中間的」と改めた。今ならworkingconcept二作業概念とでもいうべきところだろう)。また大学の成績表で政治学の単位を取っていないことが分かり、政治学を志望するのにと呆れられた。そこで、矢部教授の講義に不満で、受験に足踏みをしたと答えると、むしろ好意を持たれた。ほかにあまり質問も出なかったが、有泉さんが唐突に「君は講座派ですか」と聞いた。論文の末尾で「何故明治維新は天皇政治と結びついたか …一その研究は唯物史観の環境による意識の規定の正しいか否かの証明ともなるであろう」と書いたところから出たものだったかもしれない。しかしこれは正に思想調査にもひとしく、後であれば、反撃したかもしれないが、当時「労農派」「講座派」の意味も対立も全く知らなかったから、返答のしようもなかった。この質問は社研が発足間もないのに、すでに両派の対立が人事に反映しかけていたことを示したのだろう。論文の中で、私が政治学の研究領域として立法に関する研究を法学が行わなっていないから政治学で取り扱うことが必要だと述べた点で、末弘先生に立法学を教えられたのかと内田さんに聞かれた。当時内田さんがその研究を手がけていたためだっただろう。 48年始めに発行された『社会科学研究』第1号に内田さんの「ベンタムの立法理論研究への序説」が発表されている。山之内さんは上述したように外務省勤務の時に隣の部屋に見掛けていた(昭和9年から21年9月まで外務省嘱託)。 また日華学芸懇話会ではその報告を聞き批判的印象を抱いた。山之内さんの側には記憶は無かったはずだが、私の学歴を見て自分も麻布中学の卒業(1913年,私と26年違う)だ と名乗られた。 私もその事は知らなかった。矢内原さんは一高で私の伯父と同級であり、また神戸一 中で私の兄三人の先輩にあたったので、そんな話が続いた。終わり頃に誰かに将来はどうするかと聞かれ、私には東大教授になるほどの能力は無いと思うので、新聞雑誌などで啓蒙的な仕事を見つけたいと答えて和やかに面接が終った。ともかく競争があるとはつゆ知らず楽天的な私は、論一56一文をあまり批判されなかったのだからもう採用が決まったのだと一人決めしていた。客観的に見て審査の結果は、論文の評価、学部の成績、学閥などの諸要素の何がものをいったのか、不明である。矢内原さんの『日記』にその日助手試験。応募者五人。私と下山瑛二を採用と記されている。 ノートに25日午後一時に山之内さんから「最高点で採用」と聞かされたとある。翌々日は事務室から呼び出されて、兵役関係の質問を受けた。現役将校だったときは公職追放に該当するからだった。そして林先生と岡義武先生の研究室で3、4時間話したとある。29日に旅行に出たのだが、4月7日朝旅行から帰ると採用決定の郵便が来ていた。えっ、未だ正式には決まっていなかったのかというのが第一印象。次いでその日所員会が開催されるということで、あわてて初の出勤をしたわけだった。 法学部、経済学部では助手は教授会に出席出来ず、法学部では助教授すら机につかず壁際に着席して発言ができない慣習だったと灰聞したにもかかわらず、社研は新設の意気に燃えて、教授会にあたる所員会に助手の出席、発言、投票を最初から認めた。人事に関してだけは初め投票権だけなく、後には「人事所員会」が助手を除いて開かれることになった(その際助手はpermanentstaffではないからという理由が示されたので、おや?と思った記憶がある)。こちらは助手のままでも、定年までいられる積もりだった。所員一般の考えでは学部と全く同じに二、三年で研究・教育者を養成して他の大学などに送り出す伝統に従うものときめてかかっていたようだ。だが矢内原さんの意向で助手は教授個人に所属するのでは無く、研究所全体に属するとして、徒弟的師弟関係の廃止を宣言された。ところが各教授は自分の助手を持ちたがっており、私は山之内、鵜飼、林、高橋勇治さんな ど数人の教授、助教授から所外の人に私の助手ですと紹介され、あれ?と思ったことがある。実際就職の斡旋などの事態に直面すると、研究所全体の助手という理想では処理がつかない点もあった。またすでに初代の助手には所長自身の弟子にあたる松村憲一、大河内ゼミから塩田庄兵衛氏が採用されており、私の次にもやはり所長の弟子というべき松本達郎氏、故藤井洋、川田侃氏など、所長に縁故ある人がとられる傾向があった。惜しくもこの原則は長く続かず、二年後には採用前からゼミなどで教授の指導を受けた人が選抜されるようになり、個人助手の傾向は抜きがたいものとなった。 日記によるとこの出勤第一日のこの日「大した話はない」としつつ、「最初に山之内さんと矢内原さんの激論にぶつかり、一寸考えさせられた。『公務だから尊重すべきだ。』とか『総長の都合で』とか『雑誌社の座談会位だったら』とかいう態度にはやはり官尊的なものがありはしないか。根本は「社会科学のために」「大衆教育のために」あるのではないだろうか。しかも矢内原さんは実に清らかな性格の持ち主のように思われるのである。 その笑顔の可愛さはそれを示すものだ。」と批評している。 「その後の懇親会〔それは何と経済学部の屋上で周りのお花見をしたのだ〕で大塚久雄先生一57一が僕を覚えていて下さったことは何より嬉しかった。先生を心から慕うものだから。今後公私ともに導いて頂けるように祈ってやまぬ。その傘一本で鴨川の橋から飛び下りた話。ラグビーであごをぬいた話は先生はこんな朗らかな性格の方かと驚かされるほどだった。 その他内田先生、有泉先生、末延三次先生、野田良之先生何れも心から好きになれる方。林先生はもとより良き師。全くうれしくなった。 助手仲間の松村憲一さんは昭和十三年の高知高校、塩田庄兵衛さんは十八年経済卒業、浪速高校の人。共に採用された下山瑛二君(浦和高)も酒も煙草ものめぬ純情をもった男 らしいのでうれしい。 総じてはしつこい人はいないようだ。 遠藤湘吉、大内力、鈴木鴻一郎さんは(遠くにいたので)よく分からない。」とある(末 延、野田、大塚先生は何れも法学部、経済学部からの併任教授であった。いわば新設の左翼的に走るおそれのある研究所へのお目付け役だったのだろう。他に大河内一男、岡義武、楊井克己、辻清明の諸先生が日を追って追加、あるいは交替して併任になられた)。 初めて公的な所員会に出席して早々にこのような激論 にぶつかり、戸惑ったに違いないが、それにしても日記とはいえ新米にしては戦後の若者はなかなかずけずけと大先輩 を批判する眼も鋭かったものだ。 直情径行で左翼急進派の山之内さんが、所員が公務を休んでジャーナリズムに登場することを批判し、所長が柔軟に考えるようになだめた対話だったと思う。山之内さんの、左翼につつきものの建前をふりかざしての批判の仕方に違和感を感じたようだ。§9 戦後の旅行事情・原爆後の復旧 その社研の面接試験の直後、私は大旅行を計画した。当時交通機関の崩壊で旅行が極めて困難であったにもかかわらず、これから世界の政治を考え、政治学を研究するには、まずヒロシマの原爆被害を直接観察しておくことが不可欠だと考えた。家計も苦しかったのに母が支持してくれた。 私達一家は14年前まで神戸東郊の御影町に約12年居住した。小学校5年を終えて東京に転校した後その事実上の故郷を訪れたことはなかった。戦後経済界追放にあった母の兄も東京を去り大阪で勤務するようになって数年経っていたから、母にはその消息をたしかめさせたい気持ちもあったのであろう。窮迫の時代にのんきな話のようだが、この当時はよくぞ戦争を生き延びたという感じが強く、親族や旧友の安否を確かめたり、自分の生を回顧し今後の生き方を真剣に考えたいとの思いが強かったのである。 3月29日行動を開始した。旅行にはきびしい制限があった当時のこと、切符は各所のツーリストビューローなどを4時起きでかけまわっても入手できなかったが、不思議なことにその当日かぎりの大阪までの切符を新宿駅交番で手に入れた。そこでその先はまたゆきあたりばったりとして急遽出発することとし、あわてて予定のカボチャやジャガイモの種まき、植えつけなどを片付け、夜は家族に就職祝いをしてもらい10時半に夜行列車に乗った。といっても電灯もつかない真暗闇の有蓋貨車にすしずめ。身体一58一がねじれても身じろぎも出来ぬ混み方でやっと床に座り込んだが足もしびれる状態だった。真夜中に一回だけ浜松あたりで用便に停車して外に出ただけだった。後にナチスのユダヤ人迫害のルポで彼らの輸送列車の状況を読んだとき何度も思い出した。しかしこれ は兵隊の監視の無い自由な旅行だった。ほとんど停車もせず岡崎あたりで明るくなり、名古屋に8時、岐阜では「ぶち上げ」といわれていたヤミで運搬されるいもを警察が摘発して線路ぎわに山と積み上げているのを見て暗然とした。統制の功罪二面とノートに記している。京都午後1時で初めて朝食。少し腹痛をおこした。2時やっと大阪に着く。今の新幹線とくらべると嘘みたいだ。 長年鴻池信託に勤務し五十半ばで追放されて個人で堂島で家具店を営んでいた伯父一家と再会。大阪人になった伯父の町人的、資本主義的な話に目を開かれる。家具は豊富に在庫し、元の会社関係の注文を基本にしていたが、いろいろの庶民の苦労を味わっていた。 なかでも巡査のたかりに憤慨させられるらしい。翌日は父の友人二人原田立之佑、杉本信一両氏や海軍兵学校出のパイロット(少佐)で無事生き残った親友を訪ねた。今貿易庁 に勤める杉本さんが広島までの切符を入手してくれることになった。三日目も御影を歩 き回ったり、旧居や昔の八百屋さん、女医さんを訪れ、母校の小学校の焼け跡を見て懐かしさが胸にあふれた。 原田さんからもらった切符で甲子園の選抜野球までのぞいたが、見物の少年から「お っさん、邪魔や」と呼び掛けられて、自分の変貌ぶりを思い知らされ愕然とした。あちこちでであう人々の家庭では、一様に父親と息子・娘との世界観の食い違い、はげしい葛藤をまざまざと感じさせられ身につまされた。死んだ自分の父親の場合も多かれ少なかれ同じだった。戦後の見えない悲劇がそこにあった。四日目も広島行の切符が入手できたが、翌々日なのでまたまた小学校の友人宅をたずねて泊めてもらった。 やっと六日目9時に出発、12時まではやはり貨車に座ったが岡山からやっと客車に乗れた。午後5時今度は三原に下車、昔のお手伝いさんの家に泊めてもらう。篤農でいろいろ作物を見せてもらった。自分で畑をいじっているのでその技術の高さが良く分かった。 七日目やっと11時広島着、中学の親友に案内されて午後4時まであいにくの強風のなか町を歩く。その後一人になって広島城を初めとして市内を飛び回り、深刻な印象を受けた。翌日7時半にはもう広島を発ち夕方5時三宮に着いた。そのまま港、元町を歩きまわり懐かしいセントラルベーカリーに入ったりしてまた堂島に戻り、11時ころまで話し込んだ。九日目午後2時に大阪を発ち、帰りは客車に乗れたようだ。それでも窓ガラスはほとんど破れ、ベニヤ板張り。乗降口は満員なので、新たな乗客は窓から乗り込むのが普通。車内の混み方はいうまでもなく超満員。両側の座席に三人づつ座り、向き合った客と客 の膝の間に二人くらい立っ。さらに網棚の上に横に寝る者。座席の背もたれの板の」二に下駄の歯をかみあわせて乗せ、そこに身軽に上がって尻をちょんと下して座席の客の頭の後ろに横座りする者。世馴れない私は荘然とした。その中でこれら空中の旅人たちは大声で一般の乗客を尻目に、互いにすさまじい言葉で一59一遠くから話し合う。これが当時大盛況だったヤミ屋(米などヤミ食糧の運び屋)の日常的 な旅行スタイルだったそうである。翌朝7時ころ帰宅。直ちに前記の社研所員会にちょっと遅刻して出た。そして午餐会。 さて広島は被爆から一年半を経過していたが目抜きの通りの両側には、主として飲み屋のバラックが立ち並び特に米兵めあてのパンパン(当時インドネシア語の女の読りとかいうこの言葉が売春婦の呼び名となっていた)宿がやたら目についた。しかもその裏は全く手つかずの瓦礫の山であった。これは1972年に那覇市を訪れた時、目抜きの平和通りの直ぐ裏が瓦礫の山のままになっていて、驚いたことがあったから、一年半後では当然のことだっただろう。有名な福屋デパートの焼けビルに上って見ると"Kilroywashere!"と米兵が落書きした黒々とした文字が屋上の壁面を埋めて、何とも言えぬ哀愁を感じさせた。Kilroyとはてっきり悪魔をいみするのだろうなどと勝手に解釈していた。 これは`ASupplementtotheOxfordEnglishDictionary.Vol.2,1976.'によれば、「第二次大戦中米兵が世界中で落書きした、神秘的な人名である。」その意味は不明のようだが、戦時中ベスレヘム製鋼会社のドックで戦艦のタンクや二重底などの検査をしていたKilroy氏が検査官への証拠のためにそう書いたのが急速に…般に伝播したのだとの説もそこに記されている。私はすでに東京の神宮外苑の絵画館の壁あたりに書かれたものを見て、従兄の柴 田南雄から由来は聞いていた。 崩れたデパートの屋上から眺めた広島は未だ完全に焦土の都市であった。そこを離れて西部軍司令部があった広島城祉に着いたのはすでに夕方だった。人影もないそこに、驚いたことに自分も陸軍病院で使った、陸軍の青い星の記章付の瀬戸物の飯碗と皿の類の破片が、まるで今支度が出来ましたというように整然と横に二列をなして向き合って散乱していたのである。ちょうど兵舎で食卓に準備が整った時に原爆が炸裂したのであったろうか。しかもよくあたりを見ると瓦礫の中にまだ細かい白骨の残片がたくさんまじっている。ぞっとしながらさらに見回すと脇の瓦礫の中に白いものが風にひらひらひるがえっている。 何かと思って一つを拾い上げて見ると、それは美濃紙に細かく記入した兵籍簿であった。陸軍で各中隊事務室で管理・保管していた、在籍兵士の戸籍、住所、家族などを記したものに間違いなかった。 その時は一体こんなことがあり得るのか、被爆して紙が焼けず、しかも一年半も風雨にさらされ、そのまま片付けられずに残存しているなんてと、総毛立つ思いで眺めた。今思えば資料としてそれを保管すればよかったとおもうが、とうていそれは出来なかった。今も幻覚のような気がする。 しかし兵隊の氏名や本籍などをカーボン紙をあてて鉄筆で書いたものがはっきりと読み取れた事に間違いはなかったのである。 私はこの短い滞在の間に市内のあちこちで市民に原爆被災直後の状況を質問して歩いた。その間にすでに被災者はめったにいない事を知った。多くは戦後移住した人達であった。また何一60一人かは「そんなことを聞いていると米軍のMPに連行されるぞ」と脅かした。東京ではそんな事情を全く知らなかった私には十分恐怖をあたえた。そんなことで、別の人が「比治山の原爆病院に行ってすさまじい傷痕の被爆者を見て来なさい」とすすめた時には臆病になって実行できなかった。長く心残りであった。市内を歩く限り被爆者の姿を見ることはなかった。 相生橋の欄干が無残に倒れている姿や、原爆ドームの有名な鉄骨、人影だけ残った銀行の石段などは見た。しかし聞き取りをやった目的は何とも恥ずかしいことだが、今後再び原爆攻撃を受けるとしたら、どんな対策を講じておけば良いかという戦略的視点であった。 つまり米国の被爆者調査とほぼ同じで、原爆戦争は避けられないものとした上で、どうすれば被害を予防できるかと考えていたのであった。聞き取った印象は、意外に罹災直後の復興対策は順調に行われたのではなかったかということである。 ノートに残されたメモを見よう。 『市内電車〔生き残りの乗務員の話〕。紙屋町一宇品。四日後。5、6台 。護国神社前の変電所が壊滅。本社変電所、本社内車庫、宇品方面で電車100台中5、6台残った。47年4月になお40台しかない。以前より人員も減って44~45人。己斐方面の河は舟で連絡した。乗務員は100人中60~70人残った。女学生の勤労動員の者もいた。被爆後全員出勤、その為に死んだ者もいた。しかし恐怖心はなかった。本社内(鉄筋コンクリートの建物で無事だった)で死んだ者は無し。被爆者の発掘をした。それで横川線の者も2、3日内に死亡した。線路、道路は被害がなかった。架線と電柱の被害。 一般の被害だが3、4日は燃え続けた。その間雨無し。配給は炊き出しで不自由はなかった。 食券を発行した。 国鉄は一昼夜で開通。客車、線路障害。軍用ホーム、枕木焼ける。延焼で駅燃える。(駅での)死傷数名。欠勤者1/3くらい出る。疎開者一週間位で整理。小荷物、戦災者のみ行った。 3、4日後。10月ころ完全復旧。向洋は3日後に開通。 比治山公園の東は家屋が残った。終戦まで三原辺り(東へ18里)では(機密保持の為原爆被害の)実情を知らなかった。 〔一般〕宇品辺りでは北面屋根はすべてくずれているが、家屋倒壊は無いらしく、南面のガラス窓は割れていないものもあり。モルタル壁の家等ガラスの外、北壁も被害無し。白壁はくずれたもの多し。 〔郵便〕8月10日に貯金再開。貯金支局が壊滅した。郵便は記憶がない。 〔新聞〕朝日は当日五日市から乗り込む。自動車で出て連絡した。 〔電気〕9月(復旧)。8月末には電灯会社のみ。変電所は大手町、千田全焼 。段原軽微。大須発電所一部被害。 〔市役所〕1/3翌日出勤。一部事務。女子は全部休む。補充翌年。重要書類は疎開ずみ。 出一61一勤者にガラス等の被害。』等とある。 この時現場を見ておいたことはその後長く参考になった。占領下ではほとんど報道が禁止されていた実情はかって「原爆情報の疎外」と題し『平和研究』9号(1985)に書いたが、講和発効直後に『アサヒグラフ』が原爆被害写真の特集を発行したのが、広く目にふれた最初の出版物であったはずである。1950年の東大五月祭の時、社研職員組合の名で見物人に原爆のアンケートを取り、丸木位里・俊さんの原爆デッサンの小パンフレット『ピカドン』を配ったことがあった。しかしその回答は祭りの終わった後のこととて発表方法がなく、東大のアーケードに小さなポスターを貼ったけに終わった。その記録は残っていない。むすび 戦後体験はまだ続くが、学生時代を一くぎりとして終わる。その後の体験は、機会があれば私の政治研究を中心にまとめる事が出来ればと考えている。自分自身の意識転換については、その後の長い年月をたどっても説明がつけられない予感がある。このような形式の記録の発表を許して頂いたことを厚く感謝する。(1994年8月起稿、2003年1月21日脱稿)一62一〈編集後記〉 4月号をお届けします。今年度は所長、事務局長をはじめ、事務局スタッフが大幅に交替する時期に当たり、発行が年度をまたがるかたちになりました。とはいえ、本号編集 は99%が前編集委員によるもので、編集後記のみ新事務局員が担当しております。さて本号は福島新吾研究参与の御論稿です。 福島参与は1954年に専修大学に入職され、ご退職は1992年でした。社研発足が1949年ですから、その数年後に社研にも入られて、当初は法学部所属のメンバーが少ない中で、社研運営に寄与されてきました。先生はご退職後も社研主催の海外合宿研究会などにも参加されたり、今回もお元気に健筆をふるっておられます。御論稿は1945年から1947年まで、ちょうど敗戦からその直後の時代、激動の中で過ごした学生時代から東大社研への就職に至る青年期を思い起こしつつ、御自身のその時々の時代認識を振り返るものです。 その中に、お父上の思い出、あるいは敗戦2年後の広島旅行で得た印象などが挿入されています。戦後を構想するためにも「ヒロシマ」を見ておきたい、という志から来る旅行だったようです。敗戦を迎えるに至り「一度は戦前の天皇制国家を強く支持し、その国家の存亡の危機を感じて、あえて戦いに身を投じようと決心した。そして敗戦を悔しい思いで迎えた」青年福島が、その後大きく「意識転換」を遂げていくことになる、いわばその出発点で、どのように時代を認識し、戦後を構想しようとしたか、ここでは日記やノート、そのほかに「友人のために卒業レポートを書いたもの」(2本)などの資料を用いて書かれています。 残念ながら、専修大学時代、あるいは氏の「大きな意識転換」について、知りたいものですが、「その後の体験は、機会があれば私の政治研究を中心にまとめる事が出来ればと考えている」とのことで、それは今後の機会を待ちたいと思います。(S.M.)
2025年01月21日
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2025年01月20日
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(朗読とエッセー)八ヶ岳高原ロッジ、八ヶ岳高原ヒュッテ、滝沢観光牧場がある高原野菜農業の長野県南牧村 甲斐鐵太郎├計量計測データバンク ニュースの窓-31-(朗読とエッセー)八ヶ岳高原ロッジ、八ヶ岳高原ヒュッテ、滝沢観光牧場がある高原野菜農業の長野県南牧村 甲斐鐵太郎├├2022/02/27 (朗読とエッセー)八ヶ岳高原ロッジ、八ヶ岳高原ヒュッテ、滝沢観光牧場がある高原野菜農業の長野県南牧村 甲斐鐵太郎 (youtube.com) 写真は順に夏景色の八ヶ岳高原ヒュッテ1、2、3、滝沢観光牧場1、2、清里高原の清泉寮、野辺山高原と八ヶ岳1、2、高原に咲く黄色い花、南牧村の南牧南小学校児童が運営する野菜売り場。動画は2月の八ヶ岳高原ロッジ、2月の滝沢観光牧場。南牧村を主題として話を展開すると次のことにふれなければならない。野辺山の高原野菜と対をなすのが西武グループが開発した 八ヶ岳高原の 別荘地であり、それを象徴するのが八ヶ岳高原ロッジ と 八ヶ岳ヒュッテである。山梨県北杜市 清里高原のホテル・清泉寮か野辺山高原のホテル・八ヶ岳高原ロッジかということで、この二つのホテルは八ヶ岳高原を代表するホテルだ。西武が経営し、かつては宿泊施設として運営されていた 八ヶ岳高原ヒュッテは、現在はレストランならびに結婚式場だけが 商業稼働している。八ヶ岳高原 海の口自然郷の 林に隠れるように建っている リゾートホテルが 八ヶ岳高原ロッジだ。所在地は長野県 南佐久郡 南牧村 海の口 2244番地 1。 八ヶ岳高原ロッジの 客室は 68室。メインダイニング「ル・プラトー」、カジュアルレストラン「花暦」 、ティーラウンジ・バー・ショップがある。近くに八ヶ岳高原音楽堂 があり、コンサートと連動する宿泊企画を 八ヶ岳高原ロッジが運営している。八ヶ岳高原ロッジの少し上に八ヶ岳高原ヒュッテがある。八ヶ岳高原ヒュッテはレストラン、ティーラウンジが夏季の季節営業をしている。 八ヶ岳高原ヒュッテは国の登録有形文化財に指定されている。令和2年8月17日の官報告示。尾張徳川家第19代当主・徳川義親侯爵の本邸主屋として1934年(昭和9年)に東京の目白に建てられた。設計は上野東京帝室博物館(現東京国立博物館) や 銀座和光 を 手がけた 近代日本モダニズム 建築を代表する建築家の 渡辺仁氏。建築方法は、柱や梁などの木部の構造部材が壁面に 露出される ハーフティンバー様式を基調とし、内外の木部を 手斧(ちょうな)で仕上げた温もりのある 造り。施工は竹中組(現・株式会社竹中工務店)。 1968年(昭和43年)、東京 目白の 旧尾張徳川本邸 主屋をそのまま移築する条件で、西武百貨店(現・株式会社そごう・西武) が譲り受け 屋敷を解体して、建築材をトラック60台で八ヶ岳高原に運搬。八ヶ岳高原での移築工事では冬期の間に材木の符号が消え、何度も木材の組み合わせを行うも材料の足りない部分は加工して建築。1969年(昭和44年)八ヶ岳高原ヒュッテとして営業開始。客室は7つ、特別に 高額な宿泊料が設定されていた。1990年(平成2年) からは、主にレストラン営業に変更している。移築 50周年の 2019年 7月に 新装開店。外観はそのままに基礎部分を含む耐震補強をしている。 八ヶ岳山麓にある二つの有名ホテル、清泉寮 と 八ヶ岳高原ロッジ の中間に位置するのが 滝沢牧場だ。滝沢牧場は観光牧場として運営されていて動物との触れ合い体験ができる。標高1,375メートルにある。キャンプ施設が運営されているほか低料金で宿泊ができる。宿泊は2歳以下は 無料、3歳~6歳の未就学児 1,700円、小学生以上 2,700円。馬小屋の2階にある宿泊施設だから馬好きにはたまらないだろう。食事は注文に応じる。滝沢牧場の所在地は長野県 南佐久郡 南牧村 野辺山 23-1。電話は0267-98-2222。冬季もレストランと 蕎麦屋が営業している。ソフトクリームは350円で人気だ。清泉寮のソフトクリームと人気が分かれる。滝沢牧場のソフトクリームは甘みが強い。清泉寮のはあっさりしていながらコクがある。どちらも美味い。富士山を 南の空にみながら食べるのが 清泉寮であり、西の空に赤岳と八ヶ岳連峰をみながら 食べるのが滝沢牧場。ソフトクリームに景色が一層の味付けをする。自然 あるいは動物を 書物を通じての知識として得るものではなく、触れ合ったことの体験を通じて それを得る という考えで、運営されているのが滝沢牧場である。牛をみて 馬に乗る。乗るといっても子どもの場合は手綱を引かれた馬にまたがって牧場をまわる。標高 1,375メートルに ある 滝沢牧場のキャンプ場は冬季にはマイナス 15℃になる。厳冬期登山の訓練をしている状況だ。南牧村(みなみまきむら)の人口は 2022年(令和4年)2月1日現在 2,830人、男 1,381人、女 1,449人、世帯数は1,088戸。村議会は定数8人。隣接自治体は 茅野市、南佐久郡 小海町、川上村、南相木村。山梨県北杜市。村には 佐久海ノ口駅 周辺の海ノ口地区と、野辺山高原の野辺山地区がある。前者は千曲川のほとりにあり、後者は八ヶ岳の裾野に位置しているため、この間に 300メートル近い標高差がある。村の幹線道路である 国道141号線は、両地区を 市場坂と呼ばれる カーブの連続する 勾配のきつい坂 で結んでいる。隣の群馬県の甘楽郡にも南牧村の名の 自治体があるがそちらは「なんもくむら」 と 読ませる。 南牧村は標高が1,000メートルを超えるために、亜寒帯 湿潤気候に属し 冬は寒く、零下20度以下になることがある。夏は涼しいので 高原の避暑地の様相。 南牧村の農業は野辺山高原の夏野菜栽培である。八ヶ岳山麓の なだらかな丘陵は大型トラクターが稼働するための条件を備えている。北に位置する 同じ南佐久郡の南相木村 ならびに 北相木村は山間部に属し林業の様相があることから人口が激減している。前述したように 南牧村の人口は 2,830人、対して南相木村は 931人、北相木村は 711人だ。南牧村と似た形式で 高原野菜農業を営む 南佐久郡 川上村は 3,820人だ。南牧村と川上村は人口が 横ばいで 維持されている。横ばいではあるが時代を反映してわずかに下降はしている。 南牧村は1889年(明治22年)4月1日に町村制の施行により、海尻村、海ノ口村、広瀬村、平沢村および大明村の一部(板橋)の区域をもって発足し 現在に至る。南牧村立 南牧中学校、南牧村立 南牧北小学校、南牧村立 南牧南小学校がある。鉄道は東日本旅客鉄道(JR東日本) 小海線の 野辺山駅(川上村)、佐久広瀬駅、佐久海ノ口駅、海尻駅。野辺山の 国立天文台 電波望遠鏡があるのも 南牧村だ。1981年に完成した口径 45メートルの ミリ波 電波望遠鏡によってたくさんの分子が検出され 同定されてきた。波長が数ミリの電波(ミリ波)を観測する電波望遠鏡として 当時は 世界最大級。1996年にBEARS (25-BEam Array Receiver System) と呼ばれる25素子受信機が搭載され、一度に 25点を観測する高速マッピングができる。近年ではOn-The-Fly (OTF) と呼ばれる観測領域を掃天しながら短時間間隔 でデータを取得する技術が実装されマッピングのスピードと精度を大幅に向上させている。いくつもの新星間分子、原始星周囲のガス円盤、ブラックホール存在の 証拠を見つけ出した。2017年6月、IEEEにより IEEEマイルストーンに 認定された。2018年8月には十分な運営費が確保できないため、2019年6月から宿泊施設を備えた本館の閉鎖、遠隔操作の導入、宿泊費補助の廃止、職員の段階的削減が決定された。2020年3月には 電波ヘリオグラフ の運用を終了。同年には交付金減少や 施設老朽化に伴い無償の共同利用研究を終了し、45メートル 電波望遠鏡の利用料金を 観測時間に応じて 原則徴収する 課金制度を導入した。大型電波 望遠鏡の設置に 長野県南佐久郡南牧村は 好条件を備えていた。天空に向かって左右、上下に 位置を変えている電波望遠鏡は この地を訪れる人の目に留まり、名物になっているが、1970年4月 160MHz(160メガヘルツ) 干渉計の稼動から50年を経て 置かれた状況にマイナス面の影があるのは時代が なさしめることなのか一抹の寂しさがある。
2025年01月19日
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芥川賞作家第三の新人世代の軍隊経験├計量計測データバンク ニュースの窓-150-芥川賞作家第三の新人世代の軍隊経験├├遠藤周作 - Wikipedia遠藤周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 11歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。学生時代(1939年 - 1949年) 遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で三高を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい。遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。 1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している[注 1]。同年、浪速高と姫路高と甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。 遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。├├吉行淳之介 - Wikipedia吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年(大正13年)4月13日 - 1994年(平成6年)7月26日)は、日本の小説家。位階は従四位。 父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。岡山県生まれ。東京大学英文科中退。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。日本芸術院会員。来歴岡山県岡山市に父・吉行エイスケ(モダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれる。2歳の時に両親が上京、東京麹町に育つ。同じ町内には内田百閒がいた。府立一中と武蔵高等学校尋常科と府立高等学校尋常科の受験に失敗し[3][4]、麻布中学に進学。1940年に父・エイスケが急死した。しかし自身はその頃腸チフスにかかり入院していたため、死を知らされたのは退院後であった。翌1941年に旧制静岡高校(現:静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学[注釈 1]、この頃より文学に関心を持つようになる。 1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月25日の空襲で焼け出され自宅を失った。 大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。『モダン日本』時代に小島功らと交流、赤川童太、鈴木義司、富永一朗らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた。 倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『新思潮』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎、近藤啓太郎、阿川弘之、三浦朱門、島尾敏雄らと知り合った。 1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり結核と診断され会社を休職、翌1953年の春に退社した。退社後は千葉県佐原市の病院に夏まで療養し、11月に清瀬病院に入院。その間は生計のためにABC放送のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。├├阿川弘之 - Wikipedia阿川弘之(あがわ ひろゆき、1920年〈大正9年〉12月24日 - 2015年〈平成27年〉8月3日)は、日本の小説家、評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。広島県名誉県民。日本李登輝友の会名誉会長。 海軍体験を基にした戦争物や私小説的作品、伝記物で知られる。代表作として『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作(海軍提督三部作)『山本五十六』『米内光政』『井上成美』などがある。法学者の阿川尚之は長男、タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。経歴自身は『私の履歴書』では、〔私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している。生い立ち阿川甲一の長男として広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に生まれた(本籍地は山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町))。学生時代広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。卒業論文の表題は「志賀直哉」。海軍入り1942年(昭和17年)9月海軍予備学生として海軍に入隊する。1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務を命ぜられた。大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。中尉に進級した直後の1944年(昭和19年)8月「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。戦後1946年(昭和21年)2月「ポツダム大尉」という身分で、揚子江を上海へ下り、3月末博多へ上陸復員する。広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされた故郷の街を見る。家は丸焼けだったが、両親は無事だった。実家の川向こうの牛田という町の、雨漏りのするボロ家にのがれて、中風の父親と、白内障の母親と甥にあたる若者と三人でひっそり暮らしていた。2015年8月3日(平成27年)に老衰のため都内の病院で死去。(満94歳没)。├├安岡章太郎 - Wikipedia安岡章太郎(やすおか しょうたろう、1920年(大正9年)4月18日-2013年(平成25年)1月26日)は、日本の小説家。高知市生まれ。北満に応召されるも結核により除隊。高知県高知市帯屋町に父・安岡章、母・恒の子として生まれる。父方は、安岡正美(覚之助)や安岡正定(嘉助)などの土佐勤王党員を多く輩出した土佐藩士の安岡家であり、幕末は板垣退助率いる土佐藩迅衝隊に加わり戊辰戦争を戦った勤皇家である。母方の入交家も江戸時代は郷士。章太郎の父は陸軍獣医官であったため、生後2ヶ月で千葉県市川市に転居。その後、香川県善通寺市、東京小岩、市川市で過ごした後、5歳の時、一家で京城(現・ソウル)に移った。1939年、旧制高知高等学校を受験するが失敗。浪人生活を城北高等補習学校で送り、古山高麗雄ら浪人仲間と日々遊び歩いた。1940年、松山高等学校や山形高等学校の受験に失敗し、1941年、当時定員割れを起こしていた慶應義塾大学文学部予科に入学するも、1944年に陸軍に学徒動員で召集され東部第六部隊へ入営し、満州・孫呉に在った歩兵第1連隊に配属された。部隊では射撃の最優秀兵であったが「銃の手入れが悪い」と叱責される模範的でない兵隊であった。しかし、安岡は部隊が南方へ出発する前々日に発熱し、翌1945年に肺結核により除隊処分となり内地送還された。なお、部隊は1944年8月にフィリピンへ動員され、同年10月から始まったレイテ島の戦いに投入されて全滅したために数少ない生き残りの一人となる。戦後、復学するも陸軍少将の父は敗戦により失職し、復員後も公職にはつけなかった。そのため、家族は収入のほとんどを失った。├├福島新吾 - Wikipedia福島新吾(ふくしま しんご、1921年〈大正10年〉5月2日-2013年〈平成25年〉5月1日)は、日本の政治学者。専修大学名誉教授。政治学原論専攻。1921年、福島喜三次の四男として東京に生まれる(母〈1893-1981〉は明治期の外交官杉村濬の長女)。太平洋戦争中に学徒出陣を経験した後、1947年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京大学社会科学研究所助手(1947-54年)を経て専修大学に移り、1960年より専修大学法学部教授。同法学部長を務めた。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。従兄(母の妹の長男)に作曲家・音楽評論家の柴田南雄がいる。2013年5月1日に肺炎のため死去。91歳没。├├古山高麗雄 - Wikipedia古山高麗雄(ふるやま こまお、1920年(大正9年)8月6日-2002年(平成14年)3月11日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。芥川賞作家。主として太平洋戦争での従軍体験や戦後の生活を舞台にした小説を発表し、いかなる場においても変わることのない人間のありかたを描き出した。1920年(大正9年)朝鮮新義州で開業医の家庭に生まれる。1938年(昭和13年)新義州中学校首席卒業。成績面では平安北道知事賞を受けて卒業式で答辞を読む資格があったが、自習の時間に抜け出して池でスケートをするなどの行動が問題視され、知事賞も答辞も認められなかった。1939年(昭和14年)第二高等学校理科不合格。筆記試験は合格だったが、面接で「教練と体操は嫌いです」と言ったせいで落とされたという(『人生、しょせん運不運』P.70-71)。城北高等補習学校にて安岡章太郎の知遇を得る。1940年(昭和15年)慶應義塾大学医学部予科と第三高等学校文科丙類に合格し、後者に入学。講義に出席せず、遊郭に通って親からの仕送りを使い果たす生活を送る。1941年(昭和16年)成績劣等と出席日数不足のため進級試験に落第し、同校退学。教授の伊吹武彦に「自分の落第は普通の落第なのか、それとも反国家的な学生としての放校なのか」を問うたところ、伊吹は明確な返答をせず「君のような人は、教育など受けない方がいいかもしれませんね」と言った。母死去。1942年(昭和17年)秋、徴兵検査で第二乙種合格。仙台の歩兵第4連隊に配属される。幹部候補生要員に編入されたが、軍人勅諭の暗唱を拒んだことから落第。そのまま終戦まで兵卒として転戦することとなる。1943年(昭和18年)第二師団司令部に転属、ビルマなど南方戦線を転戦。1945年(昭和20年)ラオスにて終戦を迎える。終戦当時一等兵、ポツダム上等兵。1946年(昭和21年)捕虜収容所勤務歴により、BC級戦犯容疑者としてベトナムにて拘束、サイゴン刑務所に収容される。この間昇進し、最終的に軍曹となる。父死去。1947年(昭和22年)禁固8ヶ月の判決が下されるも、未決通算により翌日釈放、復員。1948年(昭和23年)財団法人日本映画教育協会に就職。1949年(昭和24年)松浪明子と結婚。幻の作品とされる「裸の群」が『雄鶏通信』11月号に掲載。1950年(昭和25年)財団法人日本映画教育協会を退職。河出書房に入社。長女千佳子出生。1957年(昭和32年)河出書房倒産により、退職。1958年(昭和33年)教育出版嘱託契約。1962年(昭和37年)教育出版嘱託を解除、芸術生活に入社。1967年(昭和42年)『季刊藝術』の同人に参加し、編集専従として編集長に就任。芸術生活を退社。1969年(昭和44年)初の作品となる『墓地にて』を発表。1970年(昭和45年)『プレオー8の夜明け』にて芥川賞を受賞。1973年(昭和48年)『小さな市街図』にて芸術選奨新人賞を受賞。1979年(昭和54年)季刊藝術社を退社。1983年(昭和58年)初孫 愛海(のちのタレント春名愛海)出生。1993年(平成5年)『セミの追憶』にて川端康成文学賞を受賞。1999年(平成11年)妻明子病没。2000年(平成12年)『断作戦』・『龍陵会戦』・『フーコン戦記』の三部作にて菊池寛賞を受賞。2002年(平成14年)神奈川県相模原市上鶴間の自宅で死去。享年81。墓所は新宿区東長寺。├├福島新吾 - Wikipedia福島新吾(ふくしま しんご、1921年〈大正10年〉5月2日-2013年〈平成25年〉5月1日)は、日本の政治学者。専修大学名誉教授。政治学原論専攻。1921年、福島喜三次の四男として東京に生まれる(母〈1893-1981〉は明治期の外交官杉村濬の長女)。太平洋戦争中に学徒出陣を経験した後、1947年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京大学社会科学研究所助手(1947-54年)を経て専修大学に移り、1960年より専修大学法学部教授。├├吉瀬維哉 - Wikipedia吉瀬哉事務次官大蔵省吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1946年に大蔵省へ入省。大臣官房文書課に配属。1948年7月に高等試験行政科を合格。1977年6月に事務次官に就任。├├志位正二 - Wikipedia志位正二(しい まさじ、1920年1月1日-1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。 終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。抑留中は陸軍将校のため、日本国内では公職追放となった。├├大島太郎、福島新吾と旧制高等学校 夏森龍之介 大島太郎は1929年3月31日生れ。旧制群馬県立太田中学校4年修了で1945年4月に旧制浦和高校在学中に理科に入学している。理科から文化に転科したために旧制浦和高校の卒業は3年であるところを4年を要した。大島太郎 大島太郎は1945年4月に旧制浦和高校に理科に入学、1947年に旧制浦和高校文科一年二組に転科留年、1949年3月に卒業。同年4月に旧制東京大学法学部政治学科に入学、1952年3月卒業。同年4月東京大学助手。東京大学社会科学研究所勤務。旧制東京大学の卒業年次は三カ年。旧制浦和高校は1950年(昭和25年)3月、最後の卒業生(第26回)248名を送り出し閉校した。飯塚幸三 - Wikipedia 1931年6月1日に生れて、旧制東京府立第四中学校 、旧制浦和高等学校を経て新制の東京大学理科1類へ進学、工学部応用物理学科の計測工学専修へ進んだのが飯塚幸三。 旧制浦和高校理科というのが大島太郎と飯塚幸三と二人を知る私のにとっての共通項。大島太郎は多弁をしない紳士。大学教員の傍ら練馬区長公選制などで地道な社会運動をした。旧制浦和高校は1949年(昭和24年)3月、最後の入学生が1学年終業とともに埼玉大学や地の新制大学に移った。北杜夫 - Wikipedia 1927年(昭和2年)5月1日生れの作家、北杜夫は麻布中学校4年修了。東京帝国大学臨時附属医学専門部入学。父親の斎藤茂吉はこの学校は本来の東大医学部ではなく戦争時の間に合わせの医者養成機関であることを知り合いに確かめている。もともとの帝大医学部への進学の道を選ぶべく同校を対校して麻布中学に戻ったこと。このことを北杜夫は本に書いている。旧制松本高等学校理科乙類(卒業(『どくとるマンボウ青春記』の前半の舞台)。東北大学医学部卒業(『どくとるマンボウ青春記』の後半の舞台)。熊井啓 - Wikipedia 旧制松本高等学校に1948年(昭和23年)、18歳で入学したのが映画監督になる熊井啓。1930年(昭和5年) 6月1日、現安曇野市生れ。学制改革にともなって1949年(昭和24年)、19歳のとき信州大学文理学部に入学。1953年(昭和28年)、23歳で信州大学文理学部卒業。黒部の太陽(1968年、監督、共同脚本)、忍ぶ川(1972年、監督、共同脚本)、サンダカン八番娼館 望郷(1974年、監督、共同脚色)などが有名作品。旧制浦和高校理科というのが大島太郎と飯塚幸三 飯塚幸三と熊井啓は一歳違い 旧制高等学校の旧制浦和高校理科というのが大島太郎と飯塚幸三。飯塚幸三と熊井啓は一歳違い。二人は旧制高等学校在学中に新しい学制が敷かれたために卒業を待たずに移行先の新制大学に移る。旧制松本高等学校から新制信州大学文理学部に移ったのが熊井啓。新制の東京大学理科1類へ移ったのが飯塚幸三。旧制浦和高校は新制の東京大学の教養学部の一部になる案があった。一学年248名ほどの生徒数であった。開学初年度は定員200名で受験者は1,600名、競争率は八倍。大島太郎と飯塚幸三の旧制浦和高校理科時代に一緒であったかを探ったが確証を得るに至らなかった。文科に移った大島太郎と理科に入学してきた飯塚幸三は少しの期間旧制浦和高校で学んでいたようだ。旧制高等学校 理甲、理乙 大島太郎が 文転した二組は文科乙類丙はフランス語 文科で丙があるのは一高、三高、浦和、福岡、静岡理科で丙があるのは大阪高校のみ 大島太郎の履歴は『官僚国家と地方自治』から採っている。「旧制浦和高校文科一年二組に転科留年」の意味は、一組と二組が受講外国語学科による分類によるものと推定される。旧制松本高校でのようすを描いた北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』には理甲、理乙などのことが頻出する。二組は文科乙類であると想定される。静岡高校から東京大学工学部に進んだ高田誠二 旧制高等学校の学科分けのその内容は次のとおり。文科甲と乙、理科甲と乙の四科があり、外国語の学習割合によって区分され、甲は英語、乙はドイツ語が多く配分された。丙はフランス語と想定され、丙を設置する学校もある。文科で丙があるのは一高、三高、浦和、福岡、静岡の各高校。理科で丙があるのは大阪高校のみ。静岡高校から東京大学工学部に進んだ高田誠二はフランス語がよくできたが静岡高校理科には丙はない。古い時代の帝国大学(東京)にはフランス物理学の分野が独立しており度量衡制度の制定に当たった高野瀬宗則は1879年(明治12年)7月に東京大学仏語物理学科第2期卒業。卒業後は駒場農学校で教鞭をとっていた。浦和高校と一高の定員と文科甲乙 丙、理科甲乙丙浦和高校と一高の定員を次のようであった。校名 文科 理科 甲 乙 丙 甲 乙 丙浦和 43 39 37 44 35 総数198名一高 125 36 38 107 91 総数397名├├【第1章】戦争と青春 [第1部]戦争の時代の田舎少年|伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY【第1章】陸軍将校を育てる陸軍の中学校 陸軍幼年学校 伊室一義 昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。├【第1章】昭和20年8月29日、私たち61期生を最後に陸軍予科士官学校は解散となり生徒全員は復員 伊室一義 昭和12(1937)年以降の幼年学校卒業生は、陸軍予科士官学校に無試験で進学できた。当初は中国戦線が拡大傾向にあり、さらに太平洋戦争が始まって2年ほど経つと戦局はますます厳しくなって、兵隊はもちろん将校の総数も不足してきたからだ(いわゆる学徒出陣は昭和18年10月に始まっている)。通常、陸軍士官学校本科を陸軍士官学校(市ヶ谷から神奈川県座間町に移転。通称は相武台)とだけ呼び、予科を陸軍予科士官学校と呼ぶようになったのは、このときからである。私は61期生としてここに入学することになる。予科士官学校では、入学後の早い段階で自分の志望兵科を決める。その兵科における将来の陸軍将校としての自己イメージをしっかりとつくり、目的意識を持って勉学に励むためである。陸軍でエリートコースを行く者は、東京幼年学校から士官学校へ行き、兵科は砲兵か騎兵(何と言ってもかっこ良かった)を選択することが多かった。そして少尉に任官後陸大に進み、陸大を卒業して参謀となる。しかし緊迫した戦況の下では、こんなエリートコースのことなど考えることすらできなかった。もちろん私は航空兵科を選んだ。その志は、幼年学校を志望した時からのものだ。それどころか、航空志望の思いはいよいよ強くなっていた。戦局の厳しさへの認識が、私の背中を押していたと言っていい。入校後3か月ぐらい経ったところで(7月)、航空適性検査があり、私は「甲種」合格となった。そして希望通り航空兵科(戦闘機乗りだ!)に選ばれた。この時はさすがに誇らしげな気分になったものだ。もちろんそれは、特攻隊への道をひた走りに走るということを意味していた。昭和20年8月29日、陸軍予科士官学校は解散となり、私たち生徒全員は復員することになった。4月の入学以来ほんの5か月の間だったが、帝国日本が沈んでいくその様を、まがりなりにも陸軍内部の空気から感じることができた。しかしこの敗戦直後、自分たちがめざした陸軍が解体され、士官学校が解散になった瞬間、学友たちの多くは、生きる目標を失って茫然自失した者が多かった。私も、そのうちの一人にすぎなかった。昭和20年3月26日に始まった沖縄戦において、Yさんは特別攻撃隊の戦闘機編隊を先導する新司偵に乗っていた。沖縄の近海、敵艦隊に接近したところで特攻編隊から離れ、上空から戦闘状況を見きわめるということが、このときの偵察機の任務だった。特攻機が敵艦に何機当たったか、当たった特攻機が撃沈した敵艦は何隻か、撃沈しないまでも与えた損害はどれくらいか等々、その実際の戦況をつぶさに記録し、帰還後に報告するのが仕事だ。Yさんは、サイパン空襲のときも(サイパンからの空襲を知っている人は多いが、サイパンを空襲したことを知っている人は少ない)沖縄戦とほぼ同様の任務に就いている。本土から飛び立った新司偵は、そのときは爆撃機の編隊を先導していた。給油のために一旦硫黄島に立ち寄り、そこからサイパンに向けて飛行を続ける。爆撃機編隊の任務は、サイパン島に上陸したアメリカ軍への空襲である。そしてYさんは、各爆撃機が敵にどのような損害を与え、その損傷はどの程度かを見きわめるために、上空からすべての戦闘を冷 幼年学校の大先輩では、もう一人、東幼6期生(陸士21期生)の飯村穰ゆずる中将のことを思い出す。彼は昭和16年1月に参謀本部総力戦研究所の所長に就任し、その8月、日米が戦った場合の綿密なシミュレーション(いわゆる「総力戦机上演習」)の作成を指揮した人物である。このシミュレーションの最終結論は次のようなものだった。「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」要するに、「日本必敗」の結論が導き出されたのだ。ところが、当時の東条英機陸軍大臣(第3次近衛内閣)は、これを「机上の空論」として一蹴したのである。├├【第1章】戦争と青春 [第2部]戦後復興期を生きる|伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY【第1章】旧制三高編入試験をロシア語の単語を間違えて失敗 伊室一義 高等学校の編入試験を受けてみろと第三高等学校の編入試験を受けた。昭和20年の11月。試験と言っても、学科試験は口頭試問だけだった。 17歳の私は、茫然自失として朝霞の陸軍予科士官学校を後にするしかなかった。 故郷に舞い戻ると母は言った「番茶も出花だよ、これから、これから!」父が笑いながら言った。「弾丸は確かに外れたな。良かった、良かった」 幼年学校入学以前に鑑定してもらった名古屋の易者先生の言葉通り、弾丸の“たの字”にかすりもしなかったわが生還に歓喜してくれているのだ。├├【第1章】戦争と青春 [第2部]戦後復興期を生きる|伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY【第1章】安田火災での面接試験 伊室一義私は、通常よりも3年遅れて旧制高等学校に入っているが、高校を1学年修了で新制大学に入れるようになったので、1年間の旧制高校と4年間の新制大学とで合計5年間で社会に出たことになる。普通は3年間の旧制高校と3年間の旧制大学とで6年間をもって社会に出るのだから、結果的には1年取り戻したことになる。そんなことを頭の中で考えはじめたのは、昭和28(1953)年4月の卒業を前にして、その前年から就職について考えなければならなかったからだ。年功序列が給与に大きく反映する時代の就職活動では、年齢と学齢との差を意識せざるをえないのだ。この問題は、就職してからも尾をひくことになる。私たちは学制改革による新制の大学生だったが、旧制大学生の最後の卒業も同じ28年4月なので、同じ年月に新制と旧制が一緒に就職活動をすることになる。いわばお互いが競争相手ということだ。陸軍幼年学校以来ロシア語は学んでいたが、旧制高等学校の受験のためにだけ英語のヒヤリングを短期集中的に学習した以外に、正攻法的な英会話教育をまったく受けていない。高等学校の外国語でも英文和訳ができれば単位は取得できたし、大学の教養学部では英語とロシア語で登録していたので、リーディングさえ何とか及第点を取れれば単位は修了できた。私の耳はロシア語には何とか対応できたが、英語の耳にはほど遠かったのだ。要するに、試験には落ちたのである。安田火災の入社試験は合格となった。外交官試験に失敗したあと、企業を就職先として選択としている段階では、もはや、「何の仕事をしたいか?」よりも、「いかに給料のいい会社に入るか?」ということに就職の動機が変化していた。四六時中一緒に過ごしていた2人の親友、佐治俊彦と若杉和夫は、就職に際して、むしろ自分たちの「志」の方を優先させていたのではないかと思う。若杉は、私に勧めた大丸百貨店の入社試験を受けて内定をもらったが、並行して公務員試験にもパスしていた。結果として、彼は国家公務員への道を選び、当時の通商産業省に入省して後に審議官にまでなった。通産省退官後も、いろいろな企業、団体の顧問や相談役などを歴任し、現在も石油資源開発株式会社の相談役を務めている。同年輩とは思えないほどの現役ぶりだ。一方、事情があって2年遅れて入学してきた佐治は、知り合った頃から「新聞記者になりたい」と自分の「志」を明確に語っていた男だ。当初志望していた朝日新聞が、佐治の卒業年(昭和30年)には新卒者の採用をしなかったため、毎日新聞社と日本経済新聞社を受けて両方とも合格。結局、毎日新聞社を選んだが、その後、新聞記者として縦横無尽の活躍ぶりを経て、常務取締役東京支社代表を務めるに至っている。├├【第1章】戦争と青春 [第2部]戦後復興期を生きる|伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY【第1章】専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学 伊室一義当時の東京帝大への進学率が、官立の旧制高等学校のなかでは一高と浦和高校に次いで3番目であることも、将来のことを展望すると一つの判断材料となっていたかもしれない。入学試験を受けてみると、これが専検に比べてむずかしいとは感じなかった。試験が終了した瞬間に、「これは受かったな」と確信したほどだ。もちろん結果は合格だった。├├伊室一義さん死去:朝日新聞デジタル伊室一義さん死去(2024年5月30日 5時00分)朝日新聞デジタル伊室一義さん(いむろ・かずよし=元安田火災海上保険〈現損害保険ジャパン〉専務)1日、肺炎で死去、96歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男貴さん。2024年96歳は何年生まれですか1928年 昭和3年 96歳├├(62) 【2025年は戦後80年&昭和100年】大日本帝国「失敗」から得る“教訓”とは|東條英機は本当に独裁者だった?|「愚かだった」で済ませるべきか|生活と歴史を「再接続」しよう【辻田真佐憲】 - YouTube├├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月9日号「日本計量新報週報デジタル版」├├2024年(令和6年)近畿地区の京都、滋賀、大阪の計量協会年賀交換会が相次いで開かれる(計量計測データバンク編集部)├├[解説]トヨタ・プリウス池袋交差点事故(過去の計量計測データバンクの記事から)├トヨタ・プリウスの池袋交差点暴走事故の基本資料├池袋事故におけるハイブリット車暴走の原因は誤操作によるか機械故障か├弁護士郷原信郎の池袋暴走事故「実刑判決に控訴せず」の見方 ユーチューブ動画を含む├交通事故報道の背後にある警察庁の意思と国家権力のジャーナリズム支配├├飯塚幸三氏叙勲祝賀会を併催して12月11日計測自動制御学会力学量計測部会の運営委員開く(更新版)├├科挙 科挙とは隋から清の時代官僚登用試験 唐代では合格者は30名├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介├├南海トラフ、富士山噴火…地学研究の第一人者が明かす最悪のシナリオ(京大レジリエンスフェスティバル:自然災害レジリエンス 鎌田浩毅教授)├├能登大地震-その6-小さな記録 能登半島 港湾部の隆起現象(1)(計量計測データバンク)陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、旧字体:陸軍士官學校)は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。通称・略称として陸士と呼ばれる事例もある。 陸軍幼年学校(陸幼)は幾度の変容があるが、陸士が予科・本科制度となった1920年代以降は将校候補者すなわち将来は陸士の予科に入校し生徒となる者を、若年時から「純粋培養」する旧制中学校相当の養成機関である。陸幼生徒は陸士の予科生徒と合わせて「将校生徒」と呼称された。陸士の予科の生徒は大別してこの陸幼出身者と一般の中学出身者からなる。 陸軍大学校(陸大)は主に参謀を養成する高等教育機関であり、選抜された陸士卒(己種・丁種学生を含む)の中尉・少尉が入校する。 1938年(昭和13年)以降、甲種幹部候補生出身者を生徒とし、予備役兵科将校を養成する教育機関として陸軍予備士官学校(予備士)が複数校設置されている。「予備役」兵科将校を養成する陸軍予備士官学校は、「現役」兵科将校を養成する陸軍士官学校(および士官候補生を養成する陸軍予科士官学校)とは全く異なる別種の士官学校である。 学校住所は、長らくは本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していたが、1937年に本科(陸士)は神奈川県座間へ(航士は埼玉県入間に設置)、予科(予士)は1941年(昭和16年)に埼玉県朝霞へそれぞれ移転している。陸士自体の通称でもあった「市ヶ谷台」の名に倣い、座間移転後の陸士には「相武台」、入間に新設の航士には「修武台」 朝霞移転後の予士には「振武台」の名が、それぞれ当時の大元帥たる昭和天皇から与えられている。陸士の生徒・学生を指して「台上の人」という呼称はこれに由来する。この慣習は陸士以外の将校および将校候補者の養成学校にも取り入れられ、陸軍経理学校の「若松台」、東京陸軍幼年学校の「健武台」、仙台陸軍幼年学校「三神峯台」、名古屋陸軍幼年学校の「観武台」、大阪陸軍幼年学校の「千代田台」、広島陸軍幼年学校の「鯉城台」、熊本陸軍幼年学校の「清水台」、および満洲帝国陸軍軍官学校の「同徳台」がある。予科 「陸軍士官学校」は文字通り現役兵科将校を養成する軍学校であるが、専門の軍事教育(「軍事学」)は主に本科(陸士)にて行われる。そのため、予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。1932年当時の予科の教育課程表は以下となっている。修身、国語および漢文、外国語(英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史、数学(三角法・幾何および微積分・代数)、物理、化学、地理、心理および論理、法制および経済、図画。教育時間数では、外国語が計402コマ、数学が計318コマ、国語および漢文が計269コマ、物理が167コマ、化学が100コマなどとなっている。これらは予科の「教授部」の主に文官教官(陸軍教授)によって教育される。軍人としての教育は「訓育部」の主に武官教官によって教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・柔道・馬術、訓話、学科、内務指導および検査の課程があった。これらのほか、各見学や野営演習、遊泳演習も実施された。予科は自衛隊における防衛大学校に相当・類似する。本科 対して、軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。重点が置かれている外国語は予科教育(普通文書を読解および日常会話・作文可能な程度)に連繋し、本科では主として軍事に関する読書力増進に力むものとされている。これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施された。本科は自衛隊における陸上自衛隊幹部候補生学校に相当・類似する。受験 陸士が予科・本科制度となった1920年の『陸軍士官学校令』では、「四 予科生徒ハ、陸軍幼年学校ヲ卒業シタル者、又ハ陸軍将校タルコトヲ志願シ、召募試験ニ合格シタル者ヲ以テ之ニ充ツ」と定められている。「召募試験ニ合格シタル者」とは概ね旧制中学4年修業「程度」の「学力」を「持つ」者を想定しており、修業・卒業といった学歴は必須ではない。陸幼卒業者は無試験で陸士予科へ入校できる。概ね陸士予科(予士)入校時の年齢は最若年者で16歳からとなる。さらに、徴集によって帝国陸軍に在営中の現役下士官および兵であっても、陸軍将校たることを志願し陸士予科(予士)の召募試験に挑み生徒となることは可能である(このいわゆる「部内受験」は少尉候補者(己種学生)とは全く異なる)。著名者としては二等兵として入営ののち、仙台陸軍教導学校を経た軍曹時代に陸士を受験・合格、24歳で予科へ入校(将校生徒)、かつ本科(士官候補生)の歩兵科を首席で卒業した第52期生若林東一大尉が居る。陸士の位置付けは旧制高等学校、大学予科、旧制専門学校などに相当する。 他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳あまりで高等官(予科入校後は本科に進み卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官すると高等官八等)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた。第一高等学校・第三高等学校・陸軍士官学校・海軍兵学校の難関4校は「一高三高陸士海兵」と並び称された。また、資金難など生活面から旧制高校や大学予科などの上級学校に進学できない、ないし旧制中学を途中退学せねばならない家庭の子にとって、授業料なく無償で高等教育(第二次世界大戦後は旧陸士卒業生の進学等では、短期大学相当の教育程度と認定されている)を受けられる陸士は憧れの的であった。なお、国民生活が比較的豊かになった1930年代末頃においても、旧制中学進学率は全体の8%程度であり(旧制中学校進学率)、大半の国民は高等小学校・青年学校で終了し旧制中学を含む旧制中等学校へは進学出来なかった。大日本帝国においては旧制中学時点で既に一握りの恵まれた存在であり、旧制高校は純然たるエリート、旧制大学に至っては雲上の存在である。陸士(および海兵)は将校たる軍人を養成する教育機関であることから、実質学力のみが重視される旧制高校と異なり、相応の身体能力や精神力が求められ、学力試験と共に厳格な身体検査や身辺調査をもパスする必要があるため相応ないしそれ以上の難度があった。一方で、支那事変(日中戦争)以降は陸士・海兵共に採用人数を増員しているため、相対的に入校難度は低下している。 なお、陸士および海兵を指してその入校難度が短絡的に「現在の東京大学並」とされることがあるが、これは当時と戦後とでは学制が大きく異なるため不適当である。あくまで陸士・海兵は当時の学制では旧制高校相当であり、旧制大学たる東京帝国大学とは明確に位置付けは異なる。陸士・海兵と並び称されていた第一高等学校(一高)が、第二次大戦後の学制改革によって「東京大学の教養学部前期課程(2年間)」の母体となっているだけである。他の旧制高等学校も多くは新制大学の教養部の母体となっている。次の資料によると、明治時代はそれほど難易度は高くなかったようである。「陸軍士官学校へは、如何なる成蹟の卒業生が行くか」と中学校長に聞くと、皆口を揃へて曰ふに、「成蹟の優等のものは大概高等学校へ行くので、四方の入学試験に落第した者か、さなくば、第二流以下のものが、士官学校へ行く、最も中には、殊に軍人を好むものもあれど、それは大概海軍兵学校の方を喜ぶ、陸軍を非常に好む生徒と、海軍兵学校へは入学し得ない者で、学資の少くない者とが、陸軍士官学校に行くと答へる、これが事実とすれば、聊か心細そい次第だ。— 「二二、動物主義と形式主義」、青木龍陵『兵営生活』金港堂、1903年(明治36年)。├├第37話:USA第51州の実態【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)平成15年5月16日改定 鳥越恵治郎(H26年4月17日一部改定)昭和43年私が井原高校を卒業する時、既に幻想でしかなかったかもしれないが、日本には形を成した家庭があり学校があった。ヒューマニズムもフェミニズムも適度だった。いじめはあったがかわいいものだった。みんなに機会平等を保障してくれた寛容で優しい社会があり国家があった。世界に誇る工業技術があった。貧しくて不自由ではあったが実在し躍動する生命感も夢も希望もふんだんにあった。 行政官はnoblesse oblige(高い身分に伴う道徳上の義務)を気高くもっており清廉だった。検察は汚職に薄汚れた政治家の圧力に屈することなく容赦なく巨悪に迫った。2003年(平成15年)に井原高校は創立100周年を迎えるという。私はこの拙稿で、ある一面的な見方でしかないだろうが、限られた文字数の中に現在の日本の有様について、できるだけ多くのことを簡潔に詰め込んで記述してみたかった。そのことは同時に私にとっての35年のへだたりを「現実・夢・希望」をキーワードに書くことにもなった。書き終えて私の心は憂うつになってしまった。私はこの心のくもりが晴れ上がる日を身をこがすような想いで心待ちにしている。井原高校の卒業生の皆様に、そしてこれから卒業しようとする若ものたちに、新しい日本の礎となって欲しいと切実に願っている。鳥越医院院長鳥越恵治郎(とりごえけいじろう)先生昭和51年岡山大学医学部卒業、岡山大学附属病院麻酔科研修医、愛媛大学医学部付属病院麻酔科助手、クワヤ病院(高松市)、藤原病院(南国市)、共立病院(西条市)勤務を経て、昭和59年鳥越医院開業、元井原市医師会長。昭和57年よりAI診断、病名思い出しツールを開発 現在に至る。鳥越恵治郎、他:内科領域におけるコンピュータ診断の試み.日本医事新報 No.3131:29-31.1984.├├人気の「古賀茂明」動画 94本 - ニコニコ動画├├貧困、学歴主義、無気力な若者…デフレが引き起こす日本人の“病”とは?(京都大学経営管理大学院特定准教授 浜崎洋介)├├「~てございます」? | ことば(放送用語) - 最近気になる放送用語 | NHK放送文化研究所「ございます」は、「ある」の丁寧な言い方です。存在を表す使い方のほかに、「お暑うございます」「お久しぶりでございます」のように、形容詞・名詞の後ろにつく補助的な用法もあります。「準備してございます」は、「準備する」という動詞の後ろに「てございます」が付いています。
2025年01月18日
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縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳執筆 森龍之縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之茅野市の尖石遺跡付近から望む天狗岳、標高2,646m。撮影2023年12月2日、15:24:22。 天狗岳は東西二峰からなり、東天狗岳にある天狗岩と呼ぶ岩塔を天狗の鼻に見立てた山名と考えられる。東天狗岳は、長野県茅野市と同南佐久郡小海町の境に位置している。縦走路上にある東天狗岳は男性的にそびえ立っているが、縦走路から外れた西天狗岳は2646mの二等三角点をもつものの、その山容はずんぐりとしており、西尾根が唐沢鉱泉へと下っている。また、北側の黒百合平との間にある天狗ノ奥庭は、摺鉢池をはじめ点在するいくつかの小池とハイマツやコケモモ、ミネズオウなどに彩られた別天地である。 佐久側に東壁と呼ばれる大断崖をもつ東天狗岳の展望は、硫黄岳の火口壁、北アルプスをはじめ北八ヶ岳の山と森のうねりを、太古の眠りそのままに望見することができる。また、周囲には根石岳、箕冠山、稲子岳がある。東天狗岳と根石岳の鞍部は、白い砂に緑のハイマツが映える広々とした所で、南東に「白砂新道」が本沢温泉へ延びている。 渋ノ湯から4時間弱、唐沢鉱泉からも4時間弱、稲子湯から4時間強、本沢温泉から白砂新道を経て4時間の行程。東西二峰の往復は各20分である。2023年8月改定(山と溪谷オンライン編集部) 天狗岳は冬季の登山も盛んで、アイゼンとピッケルを使用する雪山登山の入門の地としてよく選ばれています。雪山登山初心者がメンバーに含まれる場合、黒百合ヒュッテを拠点として、中山峠から往復する行程が一般的です。中山峠より上は、樹林帯を抜けるためしばしば強風が吹きつけます。アイゼンとピッケルをしっかりと効かせて慎重に登ります。よりレベルの高い山行として、南八ヶ岳より硫黄岳や根石岳を経て至ることもできます。ただし、風衝地が長く続くため、十分な経験と技術が求められます。縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之茅野市豊平からの眺めは原村と同じであり位置によっては赤岳(2,899m)が、阿弥陀岳(2,805m)の左横に少し顔をだす。山稜の中央部に鎮座するのが西天狗岳(2,646m)。縄文のビーナスと御神体のとしての西天狗岳 森龍之写真は尖石遺跡の名前の由来となった尖石(とがりいし)。石質は八ヶ岳噴出の安山岩。古くから信仰の対象となっていた。長野県茅野市。御神体(ごしんたい)は、古代では山岳や巨岩、大木などが神体とされていたが、現在では鏡や剣、玉、御幣などが用いられることが多い。縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之写真は西麓より望む天狗岳 標高2,646 m(2014年3月).中央部左が西天狗岳、右が東天狗岳。天狗岳(てんぐだけ)は、長野県茅野市にある八ヶ岳連峰の山である。八ヶ岳連峰は夏沢峠を境に南側を南八ヶ岳(狭義の八ヶ岳)、北側を北八ヶ岳と呼ぶが、天狗岳はこの北八ヶ岳の最高峰である。山頂部は300mほどの間隔を置いて東西に分かれ、西天狗岳と東天狗岳と称する。東天狗岳の標高は2,640mで、西天狗岳の標高は2,645.8mで2つのピークが存在し東天狗岳の山頂を八ヶ岳の主縦走路が通っている。北八ヶ岳はなだらかな山容と深い針葉樹林、点在する湖などに特徴があるが、天狗岳はその中にあって唯一、南八ヶ岳に近い険しい山容をしている。日本二百名山のひとつ。登山道について。西側は奥蓼科温泉郷の渋ノ湯から、および唐沢鉱泉から、東側は稲子湯から本沢温泉を経由する登山道がある。また、八ヶ岳の主縦走路が東天狗岳の山頂を通っている。渋ノ湯からの登山道が主縦走路と合流する地点である中山峠のすぐ西にある黒百合平に、黒百合ヒュッテがある。この黒百合平から山頂までは二本の登山道があるが、その西側の登山道を通ると、「天狗の奥庭」と呼ばれる一帯を通過する。奇形の岩と丈の低い針葉樹、小さな池を配した天然の庭園のような一帯である。(タイトル)縄文のビーナスと御神体としての西天狗岳 森龍之 雪が付いて景色が一変した八ヶ岳連峰をその西側から撮影(2023年12月2日、15:24)した写真がでてきた。良い景色として写してあった山の名前を確かめるために調べると、その山は北八ヶ岳の天狗岳であった。正確には西天狗岳(2,646m)。撮影地点は茅野市豊平、ここは縄文のビーナスが出土した中期の環状集落の遺跡の所在地。八ヶ岳連峰の中央部に位置して全体を取りまとめているかのごとき山である。話が変わって「八ヶ岳思いつくままに」 赤岳(2,899m)、阿弥陀岳(2,805m)に登ったときに諏訪湖や茅野市の街が見えることが不思議であった。硫黄岳(2,760m)に向かう横岳(2,830m)の稜線の東側に展開されるレタス畑などのビニールの白い畝(うね)を不思議な光景としてみていた。二つの不思議は南八ヶ岳の地理を理解していないことに由来位する。 正月休みに北八ヶ岳に属する天狗岳に登った。稲子湯、黒百合ヒュッテ経由で西天狗岳(2,646 m)の鞍部で野営した。このときの登山は佐久山域の山としての天狗岳であった。 八ヶ岳はどのように見える山なのか。清里から見える八ヶ岳ということで清泉寮と赤岳は一対をなす景色である。小海の西武の別荘地である八ヶ岳高原海の口自然郷見える八ヶ岳は赤岳、横岳、硫黄岳とそれを結ぶ稜線。登るには行程の険しさを感じさせる。北斗市小淵沢からは編笠山(2,524m)、権現岳(2,715m)などで構成される三角形の山の集合体である。原村からは編笠山から蓼科山(2,531m)まで八ヶ岳を構成する山々が横一列に一望できる。阿弥陀岳(2,805m)が赤岳の西側に張り出しているので赤岳の姿はない。西天狗岳(2,646m)が中央部に配される。茅野市豊平からの眺めは原村と同じであり位置によっては赤岳(2,899m)が、阿弥陀岳(2,805m)の左横に少し顔をだす。山稜の中央部に鎮座するのが西天狗岳(2,646m)。 昔のあった山の名前が現代に残されているとは思われない。分類学的に天狗岳を東と西に分けなかったはずである。八ヶ岳が山体崩壊しないまままで富士山より高かったのは人類が文字を残す以前のことであり、あるいは人類がこの地にいない時代のことである。尖り石は尖り山、実際には台形に近い三角錐状の巨石 模した山は西天狗岳 茅野市豊平では縄文期に暮らした人が縄文のビーナス、仮面の女神と後に名付けられた土偶をつくっていた。この地では北八ヶ岳や霧ケ峰にある黒曜石の塊りを切り出して矢じりをつくって交易した。この縄文期の遺跡が尖石・与助尾根遺跡(とがりいし・よすけおねいせき)である。 尖石(とがりいし)というから、矢じりの先端の鋭角を思い描くがそうではない。この地から見える八ヶ岳連山の中央部に聳(そび)える西天狗岳(2,646m)の形を模している。三角形の尖り山である西天狗岳を模した尖り石なのである。三角錐状の巨石を尖石と名付けたのは罪作りになった。 尖石の名称に矢じりの先端を意識していたのであるが茅野市豊平からの八ヶ岳連山の遠望は中央部にあるのが西天狗岳であることを意識するようになって、また改めてそのことを撮影した写真によって確かめ、それを尖石遺跡の名前の由来となった尖石(とがりいし)に対比することで、茅野市豊平にある縄文時代中期の環状集落の遺跡にある尖石は西天狗岳だと決めてみた。それは2025年01月15日のことであった。茅野市豊平の縄文時代中期の環状集落の遺跡の概要 縄文土器及び石囲炉を手掛りに建物(住居)を探すもので、尖石では竪穴建物跡33棟をはじめ、53基の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されたが、土器に比べ石器の出土が極端に少なく、特に石鏃(41)が少なく、打製石斧45、破片8が見つかっている。与助尾根でも28棟の建物、石鏃10、打製石斧14、破片4、磨製石斧、石皿、凹石など多数を発掘している。上のことを踏まえてワナ猟とクリ林、黒曜石の交易が行われていたと考える者と、狩猟・採集以外の焼畑農業が存在したと考える発掘当事者がいる。 集落遺跡は東西170メートル・南北90メートルの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことから日本で最初の縄文時代の環状集落の存在が確認された遺跡となった。 上に述べたのが尖石・与助尾根遺跡(とがりいし・よすけおねいせき)である。南側の尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の一つ。同遺跡と浅い沢を経て北側の台地上にある与助尾根遺跡をまとめて扱われるようになった。(写真と文章は森龍之)2025-01-15-jomon-venus-and-nishitengudake-as-a-sacred-object-
2025年01月17日
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月16日号「日本計量新報週報デジタル版」日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25品質工学座談会 品質工学は計測技術にどう貢献したのか―2014年座談会「品質工学は計測技術である」から10年を振り返って―2024年10月5日開催(日本計量新報座談会)品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量管理の解釈と必要な変革の実行計測でも科学でもない数値の強調と人の健康縄文のビーナスと御神体のとしての西天狗岳茅野市の尖石遺跡付近から望む天狗岳、標高2,646m。撮影2023年12月2日、15:24:22。縄文のビーナスと御神体のとしての西天狗岳 森龍之写真は尖石遺跡の名前の由来となった尖石(とがりいし)。石質は八ヶ岳噴出の安山岩。古くから信仰の対象となっていた。長野県茅野市。縄文のビーナスと御神体のとしての西天狗岳 森龍之写真は西麓より望む天狗岳 標高2,646 m(2014年3月).中央部左が西天狗岳、右が東天狗岳。 雪が付いて景色が一変した八ヶ岳連峰をその西側から撮影(2023年12月2日、15:24)した写真がでてきた。良い景色として写してあった山の名前を確かめるために調べると、その山は北八ヶ岳の天狗岳であった。正確には西天狗岳(2,646m)。撮影地点は茅野市豊平、ここは縄文のビーナスが出土した中期の環状集落の遺跡の所在地。八ヶ岳連峰の中央部に位置して全体を取りまとめているかのごとき山である。尖り石は尖り山、実際には台形に近い三角錐状の巨石 模した山は西天狗岳 茅野市豊平では縄文期に暮らした人が縄文のビーナス、仮面の女神と後に名付けられた土偶をつくっていた。この地では北八ヶ岳や霧ケ峰にある黒曜石の塊りを切り出して矢じりをつくって交易した。この縄文期の遺跡が尖石・与助尾根遺跡(とがりいし・よすけおねいせき)である。尖石(とがりいし)というから、矢じりの先端の鋭角を思い描くがそうではない。この地から見える八ヶ岳連山の中央部に聳(そび)える西天狗岳(2,646m)の形を模している。三角形の尖り山である西天狗岳を模した尖り石なのである。三角錐状の巨石を尖石と名付けたのは罪作りになった。(写真と文章は森龍之)窓にカケスがやってきたホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併問題理解のカギ資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-146-)日産とホンダの経営統合で暗躍する「経済産業省」 “負け組”同士を統合させて時間稼ぎをするだけの愚策 古賀茂明資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-148-)├主要鉄鋼企業−粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)主要鉄鋼企業-粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)社名 国名 2020 2021 伸び率20/211 中国宝武鋼鉄集団 中国 115.3 120.0 4.02 ArcelorMittal ルクセンブルク 78.5 79.3 1.03 鞍鋼集団 中国 38.2 55.7 45.74 日本製鉄 日本 41.6 49.5 19.05 江蘇沙鋼集団 中国 44.7 44.2 -1.16 POSCO 韓国 40.6 43.0 5.97 河鋼集団 中国 43.8 41.6 -4.88 建龍集団 中国 36.5 36.7 0.79 首鋼集団 中国 34.0 35.4 4.210 Tata Steel インド 28.1 30.6 9.011 山東鋼鉄集団 中国 31.1 28.3 -9.212 徳龍鋼鉄 中国 28.3 27.8 -1.613 JFE Steel 日本 24.4 26.9 10.214 湖南華菱鋼鉄集団 中国 26.8 26.2 -2.115 Nucor アメリカ 22.7 25.7 13.016 江西方大鋼鉄集団 中国 19.6 20.0 1.917 現代製鉄 韓国 19.8 19.6 -0.918 広西柳州鋼鉄集団 中国 16.9 18.8 11.419 JSW Steel インド 14.9 18.6 25.120 SAIL インド 15.0 17.3 15.821 NLMK ロシア 15.8 17.3 9.822 IMIDRO イラン 17.4 16.7 -3.923 包頭鋼鉄集団 中国 15.6 16.5 5.424 U.S. Steel 米国 11.6 16.3 41.125 Cleveland-Cliffs 米国 3.6 16.3 352.826 中国鋼鉄(CSC) 台湾 14.1 16.0 13.027 敬業集団 中国 16.3 15.4 -5.628 Techint アルゼンチン 12.6 14.9 18.829 河北新華聯合冶金控股集団 中国 14.2 14.3 1.130 Gerdau ブラジル 13.0 14.2 9.2日本の氷河を眺望する白馬駅近くの白沢峠 夏森龍之介松本駅前にあった酒場「昭和横丁」 森龍之アラジンの青い炎が静かにゆらぐ日曜の午後 森龍之令和6年12月15日(日曜日)第75回計量士国家試験実施1. 試験の場所北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州及び沖縄2. 試験の期日令和6年12月15日(日曜日)3. 試験の区分試験は、環境計量士(濃度関係)、環境計量士(騒音・振動関係)及び一般計量士について行う。4. 受験願書(試験案内書)の配布期間受験願書(試験案内書)の配布期間は令和6年7月1日(月曜日)から同年8月2日(金曜日)まで、インターネット及び郵送による配布とする。計量士制度に関するお問合せ経済産業省イノベーション・環境局計量行政室メールによるお問合せはこちら電話:03-3501-1688(直通)受付時間:9時30分~12時00分/13時00分~17時00分(平日のみ)雪の日の朝とシジュウカラ 森龍之・自然のことマユミの赤い実飯塚幸三氏令和6年(2024年)10月26日逝去ロシア、ウクライナ、米国、日本と国の事情 社会主義の弊害と資本主義の幻想をローマ法王が口にした。原案作成に協力したことに感激したのが宇沢弘文であった。社会的共通資本の概念を提唱した宇沢弘文は日本の高速道路は米国車を売り込む目的でつくられたことを『自動車の社会的費用』ほかで述べている。GHQの通訳に駈り出されて調査の現場にいた。国のため天皇のためと命をさしだした日本国民であった。その人々が今や米国を崇拝し、米国が誘導する思想を身にまとう。殺された家族と同じ苦しみをさせたいと過失の人を罵(ののし)り重刑を求める。国に命を捧げた人々と現代の日本人は同じ人だとは思い難い。[予稿]官僚制度と計量の世界 「大島太郎、福島新吾と旧制高等学校」 夏森龍之介晩秋の高原 ひと月の移ろい 甲斐鐵太郎計測でも科学でもない数値の強調と人の健康解説]トヨタ・プリウス池袋交差点事故(過去の計量計測データバンクの記事から)官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介霧ヶ峰挽歌 甲斐鐵太郞伊勢崎賢治氏の話のなかにウクライナ紛争解決と戦争の本質理解の糸口が隠されている伊勢崎賢治 - Wikipedia伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係伊勢﨑賢治 東京外国語大学教授 著者と語る『本当の戦争の話をしよう~世界の「対立」を仕切る』 2015.5.20第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【前編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」【中編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【後編】生命とは生命とは動的平衡(福岡伸一) サプリの99%は添加物で頼りない成分の科学的根拠(田村忠司)第5回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム「生命とは何か?それは動的平衡」福岡 伸一 2018年7月22日2大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界-福岡伸一 - Wikipedia(689) 田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart1】あなたはそのサプリの中身を知っていますか - YouTube田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart2】あなたはそのサプリの中身を知っていますか串田孫一 とうきょうFM「音楽の絵本」の録音版モーツァルトの手紙から/串田孫一音楽の絵本 「冬の記憶」 串田孫一 詩と朗読気持よく働き一日を満足する日本でありたいソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん計量計測データバンク ニュースの窓-111-2024年ノーベル経済学賞「制度がどのように形成され、繁栄に影響を与えるかの研究のために」ノーベル賞の公式ウェブサイト - NobelPrize.org計量計測トレーサビリティデータベースとその辞書人工知能(AI)と人の頭脳の働かせ方2024年9月6日公務員塾発表 国家公務員への転職の穴場は林野庁係長職【穴場の受験先】どうしても公務員に転職したい受験生へ(社会人経験者採用)Vol.033 (youtube.com)林野庁森林管理局選考採用試験(事務系)について:林野庁 (maff.go.jp)林野庁ホームページ (maff.go.jp)森林管理局の概要:中部森林管理局 (maff.go.jp)住所:〒380-8575 長野県長野市大字栗田715-5電話:026-236-2720(代表) 026-236-2721(夜間・休日)法人番号:4000012080002上高地 秋の紅葉と梓川の流れ 甲斐鐵太郎目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)に信州とリンゴ 甲斐鐵太郎2024年ノーベル化学賞はAIでタンパク質の立体構造予測と新タンパク質設計の研究者ら(デビッド・ベイカー、デミス・ハサビス、ジョン・ジャンパー)2024年ノーベル物理学賞は人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明(ジョン・ホップフィールド氏とカナダのトロント大学のジェフリー・ヒントン氏)2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)にドングリが高原の宿の屋根をコツンコツンとたたく夜 甲斐鐵太郎品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量公務員への就職事情計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ)計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ) 計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次) 日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。 日本計量新報 週報デジタル版(週ごとに電子メールでお送りするニュースです。webページで閲覧できます) 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンク What's the news 新着情報 日本計量新報社 過去の第一面 計量計測のエッセー( 2018年1月22日から日本計量新報の社説と同じ内容の論説です) 計量計測の話題(トピックス)過去の計量計測の話題(トピックス) よりぬき計量計測情報ニュース(過去のよりぬき履歴) 計量計測データバンクのTwitter(@keiryoukeisoku) 計量計測データバンクのfacebook 計量計測機器総合カタログ-質量計版- 計量士になるには 計量士とは 計量士国家試験 最新情報 「計量法の読み方」高原隆(元・地方公共団体職員)全文掲載(PDF・2.4MB) 「計量法の読み方」(PDF・2.4MB) 特定商品分類表ハンドブック 計量計測web情報総合サイト 計量計測データバンク 目次 サイト(一括閲覧サイト) 社会の統計と計量計測の統計 「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(一括掲載版) 「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(目次版) 計量計測データバンク 目次 サイト 日本計量新報 一面記事一覧 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンクWhat's the news新着情報 計量計測データバンク ニュースの窓 目次 計量法と行政のニュースの窓 目次 計量計測機器団体のニュースの窓 目次 計量計測データバンク ニュース-2- 日本計量新報 電子版の全紙面のID&PW(日本計量新報は紙面をインターネットで閲覧することができます。新聞と同じ形式のPDF ファイルです。webに掲載の全紙面です。どうぞご利用ください)(IDとPWは計量新報購読者に限り電子メールで月ごとにお知らせしております)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25株式会社計量計測データバンク 編集部 edit@keiryou-keisoku.co.jp〒136-0071 東京都江東区亀戸7丁目62-16-803電話番号03-5628-7070 FAX03-5628-7071日本計量新報あて電子メール mail@keiryou-keisoku.co.jp
2025年01月16日
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├ポスティングシステム - Wikipedia├├日本のポスティングシステム 定義日本のトップリーグである日本野球(NPB)の選手で、国際フリーエージェントを獲得するために必要な9年間のプロ経験がない選手は、メジャーリーグ球団への「ポスト」を申請することができる。2018-19シーズンのオフシーズンに制定されたポスティングルールでは、ポスティング選手とメジャーリーグ球団との間で合意が成立した場合にNPB球団が受け取るべき金額である「放出金」は、ポステッド選手がメジャーリーグ球団と締結する契約の保証額によって決まるとされている。MLBの全30球団は、選手がポストに就いた後、45日以内に選手と交渉する必要があります。その期間内に合意に至らなかった場合、選手は来シーズンのNPB球団に戻る。彼は次のオフシーズンまで再びポストすることはできません。これまで、日本のクラブは2,000万ドルもの放出金を設定していました。指定された放出金を支払う意思のあるMLB球団は、選手が掲載されてから30日間、選手と交渉することができたが、その放出金を支払うのは選手が契約した球団だけだった。現在、リリース料金は次のように決定されます。• 保証総額が2,500万ドル以下のメジャーリーグ契約の場合、解除料は契約総額の20%となります。• 保証総額が25,000,001ドルから5,000万ドルのメジャーリーグ契約の場合、解除料は最初の2,500万ドルの20%に2,500万ドルを超える保証総額の17.5%を加えた額となります。• 保証総額が50,000,001ドル以上のメジャーリーグ契約の場合、解除料は最初の2,500万ドルの20%に次の2,500万ドルの17.5%を加えた額に、5,000万ドルを超える保証総額の15%を加えた額となります。• すべてのマイナーリーグ契約について、契約金は契約金の25%となります。メジャーリーグの条件を含むマイナーリーグ契約の場合、選手が25人のロースターに追加された場合、追加料金が発生します。• 配属選手がボーナス、サラリーエスカレーター、またはオプションを含むメジャーリーグ契約に署名した場合、日本のチームは、選手が実際に獲得したボーナスまたはサラリーエスカレーターの15%、および/または行使されたオプションの15%に相当する追加料金を受け取ることができる。したがって、選手が1億ドルの保証付きでメジャーリーグ契約を結んだ場合、彼の日本のチームは約1690万ドル(最初の2500万ドルに500万ドル、2番目の2500万ドルに440万ドル、最後の5000万ドルに750万ドル)を受け取ることになります。ポスティングシステムの注意点は、外国生まれの選手は、25歳以上で、メジャーリーグベースボールが認める外国リーグでプロとして最低6シーズンプレーしていない限り、国際的なボーナスプールの金銭制限の対象となることです。2017-21年の労働協約では、メジャーリーグの各球団は、免除対象外の外国生まれ選手プールに475万ドルから575万ドルの上限を設けています。クラブは、2017-18年と2018-19年の契約期間中に、最初の国際ボーナスプールの最大75%を、その後の契約期間に最初のプールの最大60%を獲得できます。つまり、初期プールが575万ドルのクラブは、2017-18年と2018-19年の契約期間中に、トレードによるプール総額を約1,010万ドルに増やすことができるということです。├├【現役官僚が解説】国家公務員の総合職・一般職 ココが違う!├├【現役官僚が解説】○○が仕事の9割├├【現役官僚が解説】国家公務員 過去13年分 年収公開
2025年01月15日
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10日(金)調べもの。街にでる。車が雪にとられて救出迄4時間を要しました。a、村上さん向けに思い当たるコンテンツがありました見つかりませんでした。b、何もなしとはいかないので少しデータを拾い出しました。生産状況などは横田俊英が作成したものであり、古い時代にはこのようなことはしておりませんでした。c、webにコンテンツを掲載しておくこと。この繰り返しによってデータが蓄積されます。11日(土)村上さんへの対応と調べもの12日(日)PDFファイルのテキスト化--福島新吾―体験戦後史 1945~47―13日(月)PDFファイルのテキスト化--福島新吾―体験戦後史 1945~47―14日(火)病院へ。日赤諏訪病院。眼の検査と治療のため。
2025年01月14日
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2025年01月13日
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ハカリ産業の記録と日本計量新報記事├計量計測データバンク ニュースの窓-149-ハカリ産業の記録と日本計量新報記事├├日本計量新報-記事目次■2017年1月29日号(3135)計量関連団体・機関 新年あいさつ村上衡器製作所 規格の先を見据えた『サブミリグラム分銅』NMS研究会座談会私の研究成果(3)計工連が代表者懇談会を開催会員、来賓多数が出席して盛大に講演会は「イノベーションの創出に向けて」環境セミナー2016医療・計測・分析・制御機器への環境関連法規制最新動向1月31 日 、東京都の損保会館で国際計量研究連絡委員会3月1日 、(水)産総研東京本部で「第4次産業革命」の実現へ 経済産業省産業技術環境局長 末松広行学会の価値の向上の実現にむけて 計測自動制御学会会長 前田 章計量技術が日本を変える 品質工学会代表理事・会長 谷本 勲村上衡器製作所 規格の先を見据えた『サブミリグラム分銅』開発の背景想定内の規格外トレーサビリティ体系会社概要村上衡器製作所の主要な事業沿 革村上衡器のJCSS(国際MRA)校正範囲一覧表NMS研究会座談会私の研究成果(3)12、理想機能の追求と品質工学研究13、理想機能の実現をめざす (1)京都市計量検査所が廃止されて・・・京都府計量協会副理事長・計量士部会長 吉川 勲社説 ハカリの定期検査が人の介在なしになされる技術と社会状況新製品ニュースエー・アンド・デイ 幅広い素材の厚さ計測に最適な超音波厚さ計「AD−3255」神奈川県立川崎図書館で展示「単位のあゆみ」を開催中 関連講演会を2月15日に開催 会場は県立川崎図書館2階、5月10日まで├├【2799号/2009年11月22日】最新の天びん特集2009秋最新の天びん特集 2009秋 (2)-2村上衡器製作所バックライト付き液晶表示電子天びん「UX型」(株)村上衡器製作所(大阪市旭区赤川2-10-31、村上和雄社長)は、バックライト付き液晶表示の電子天びんUX型を発売している。 自動上皿天びんの使いやすさそのままにデジタル化。計量部と表示部が同一視野に入るデザインで機能性に優れている。独自の新機構による完全防塵ケース付き。吊り下げ計量用フックを内蔵している。 JCSSロゴマーク付校正証明書は別途料金で発行する。【主な機能】▽個数はかりとして使えるカウンティング機能▽パーセント表示機能▽上下限設定機能▽定量値の設定により設定範囲内で鳴るOKブザー▽アナログ感覚で使えるバーグラフ表示機能【主な仕様】▽液晶表示(LCD)=字高10・9mm▽使用温度範囲マイナス5℃~35℃▽重量=約1・4kg├├日本計量新報 記事本文INDEX├├日本計量新報 記事本文9705-08◆認定事業者の技術力確認へ、9月から技能試験開始(97年6月22号) 新計量法で新設されたトレーサビリティ制度の校正サービス事業者(JCSS認定事業者)の技術能力を確認把握するための技能試験が九月から始まる。実施期間は二から三ヶ月。まず質量分野から始め、順次他の量についても実施していく予定である。 質量技能試験の参加申し込みは七月十一日まで。所定の申込書で製品評価技術センター検査部認証業務課に申し込む。 六月十六日、製品評価技術センターでおこなわれた実施手順などについての説明会で明らかにされたもので、説明会には約五十社六十三名が参加した。 質量の技能試験は、JCSS認定事業者の認定作業をおこなっている製品評価技術センターが主催し、計量研究所が仲介器の値付けなどの技術的支援をおこなう。認定事業者との連絡やスケジュール調整などの実務は計量管理協会がおこなうことになる。 質量の認定事業者(現在は三社)が対象だが、将来認定の申請を予定している校正事業者も技能試験に参加できる。 質量の技能試験は、計量研究所を起点とする仲介器(分銅)の持ち回り方式(ラウンドロビン方式)で実施する。計量研究所が値付けし、校正値(質量値)が伏せられた仲介器を参加者が測定し、仲介器を順次次の参加者に渡し、最後に計量研究所に戻すことになる。結果の評価は参加者が報告した測定結果でおこなう。 試験結果の報告書のとりまとめは九八年(平成十年)一月を目途とし、報告書は参加者に送られる。 仲介器はOIMLのE2級相当のステンレス製一体型鏡面仕上げの分銅で、一g、一〇g、一〇〇g、一kg、一〇kgを二個づつ計十個使用する。仲介器は製品評価技術センターが用意する。 参加者は所定の技能試験手数料を負担する必要がある。必要費用は参加事業者数で異なり、参加者が多くなれば安くなる見通しだ。【問合せ先】製品評価技術センター検査部認証業務課=TEL〇三-三四八一-一九二一、FAX〇三-三四八一-一九三七├├日本計量新報社 事本文9608-9704◆96年度はかり生産額は916億円(97年6月15号、97年6月22日号) 九六年度のはかりの生産出荷状況は、生産金額九百十六億三千万円(対前年度比一〇四・〇%)、生産数量が六百三十五万六千九百六十三台(対前年度比一〇二・〇%)だった。日本はかり工業会がまとめたもので、ピークである一九九一年度の九百六十五億円には及ばないもの五年ぶりに九百億円台を回復した。国内出荷数量は五百六十四万三千六百七十七台(対前年度比九九・六%)、輸出数量は六十一万六千三百四十二台(対前年度比一二〇・六%)である。●天びんは金額減 機種別では、天びんは生産金額が七十二億六千七百万円で対前年度比四・一%減、生産数量は十五万千二百五台(対前年度比三・〇%増)。国内出荷数量は七万七千五百七十七台(対前年度比三・五%増)。輸出は好調で数量は四万千三百二十六台(対前年度比一三・七%増)である。 このうち電子式は国内出荷数量で対前年度比一四・七%増、輸出数量で一三・六%増えた。天びんのうち電子式の機種は生産金額で九七・二%、数量で八五・一%とほとんどを占めるまでになっている。 天びんのはかり全体に占める割合は、生産金額で七・九%、生産数量で二・四%である。●台はかりは好調 台はかりは、生産金額が九十八億七百万円(対前年度比一三・三%増)、生産数量は十四万二千二百十三台(対前年度比七・三%増)で、金額・数量ともに。好調である。 台はかりのうち電子式は、生産金額で九一・九%(九十億九百万円)、数量で七七・四%(十四万二千二百十三台)と大きな割合を占める。 台はかりのはかり全体に占める割合は、生産金額で一〇・七%、生産数量で二・二%である。●商業用はかりは1%減 商業用はかりは、生産金額が百五十六億二千万円で対前年度比一%の減、生産数量は五十四万六千六百九十四台で対前年度比で二・七%減った。九五年度は生産金額が対前年比で九・四%の増、生産数量が対前年度比で一四・三%増えるなど好調だったが、九六年度はその反動がきたかたちだ。 商業用はかりのうち電子式は、生産金額で百四十一億三千七百万円で対前年度比で〇・九%とわずかに増えた。数量は十万四千三百四十九台(対前年度比七・九%増)と健闘している。商業用はかりの電子化率は、生産金額で九〇・五%とほとんどを占めるが、生産数量では一九・一%であり、まだまだ伸びていくと思われる。 商業用はかりのはかり全体に占める割合は、生産金額で一七・〇%、生産数量で八・六%である。●家庭用はかりは需要増に 家庭用はかりが好調である。生産金額が百六億四千六百万円で対前年度比三五・九%増を記録した。生産数量が四百九十八万四千七百九十九台(対前年度比四・四%増)である。脂肪率計付のヘルスメーターなど、健康への関心の高まりを反映して需要が伸びている。 家庭用はかりのうち電子式は、生産金額が九十五億八千四百万円で対前年度比一三〇・三%と激増した。生産数量も二百二十三万四千八百三台で対前年度比三九・三%と大きく伸びており、電子化の急速な進展がうかがえる。電子化率は、生産金額で九〇・〇%と九五年度の五三・二%から急増している。生産数量では四四・八%。 家庭用はかりがはかり全体に占める割合は、生産金額は一一・六%だが、生産数量は七八・四%と大きな割合を占める。●工業用はかりは横這い 工業用はかりは、生産金額が四百六十八億千九百万円で対前年度比〇・二%の微増、生産数量は四万六千六百九十九台で一〇・二%減少した。 工業用はかりがはかり全体に占める割合は、生産額が五一・一%と過半数を占める。生産数量は〇・七%である。 機種別にみると、トラックスケールが好調で、官公庁の需要を中心に生産金額が五十八億円、対前年度比で一六・六%伸びた。ホッパースケールは減に転じ、生産金額は六十七億円で、対前年度比二三・八%減になった。組合せはかりは生産金額が百十八億円であり、対前年度比三・〇%増えた。チェッカーは生産金額が六十八億円で、対前年度比一・二%増と伸びが鈍化している。昨年度は二桁の伸びを示していた。●国内出荷は前年並 国内出荷数量は、五百六十四万三千六百七十七台で対前年度比で〇・四%の減とほぼ前年並みである。このなかで電子式のはかりが伸びており、電子式の天びんが七万千五百五十三台で対前年度比一四・七%増、電子式台はかりが八万三千六百八十一台で対前年度比一三・七%、電子式商業用はかりが六万七千八百四十七台で対前年度比一七・六%増、電子式家庭用はかりが百九十二万八千五百七十二台で対前年度比三〇・三%増といずれも二桁の伸びを示した。●輸出数量は二〇・六%増に 輸出数量は、六十一万六千三百四十二台で対前年度比二〇・六%増と大幅増に転じた。九四年度、九五年度はともに前年比で減少していた。 輸出は家庭用はかりが対前年度比三三・二%増と大幅増であり、天びん一三・七%増、台はかり三〇・四%増、工業用はかり九・九%増と商業用はかりを除いては好調である。 商業用はかりは輸出数量が十万二千五百九台で対前年度比一三・四%減と引き続き減少傾向にある。商業用はかりは海外での生産の傾向が一段と進んでいるためである。├├├日本計量新報 記事本文9705-08◆はかり産業は史上2位の生産額を記録-設備投資は堅実に推移中、計量器産業は7.2%の増産(98年8月24日号) 日本の景気は緩やかながら確実な足どりで回復基調にある。日本の実質GDP成長率が九三年年初(四半期ごとの)にマイナス三%を記録したのが底となり、以後一%前後の成長率で推移していたものが九六年からは平均すると三%台の成長を記録するに至っている。九七年四月の消費税率の引き上げが消費動向に陰を及ぼしており順調な回復基調に不透明感がでているものの生産や所得は底堅く推移しており、景気は全体としては緩やかな回復基調を続けている。 九七年一~三月期の鉱工業生産は前期比二・四%と三期連続の上昇を記録、とくに生産財の伸びが大きかった。企業の業況判断・設備投資計画に業種・規模間でばらつきがみられるものの、設備過剰感に着実な改善がみられること、情報通信分野の投資拡大が引き続き見込まれることなどから、設備投資は当面堅実に推移していくものとみられる。 通産省機械統計調査室がまとめた九七年六月分の「機械統計速報」は次のように述べている。機械工業概況-生産、出荷はともに低下生産、出荷、は低下、在庫、在庫率は上昇となった。生産は 三・七%の低下。業種別にみると、電気機械工業、輸送機械工業、一般機械工業が低下、精密機械工業が上昇上昇となった。出荷は 二・四%の低下。業種別にみると、輸送機械工業、電気機械工業、一般機械工業が低下、精密機械工業が上昇となった。在庫は 二・七%の上昇。業種別にみると、輸送機械工業、電気機械工業、一般機械工業、精密機械工業の全業種で上昇となった。なお、在庫率は 七・一%の上昇となった。 株式市況が景気不透明感に反応していたのを数値の上で裏打ちする結果になったが、精密機械工業の上昇は計量計測関係者には明るい材料である。 機械統計速報の一~三月期の精密機械工業に関する調査結果は次のとおりで計測機器の生産が前期比一・八%の増加を報じている。精密機械工業 -生産、出荷、在庫とも上昇生産は、計測機器、光学機械・同部品が増加したことから前期比 〇・四%と三期ぶりに上昇。出荷は同〇・七%と三期連続の上昇。在庫は、前期末比〇・五%と二期ぶりの上昇。細分類業種別にみると計測機器の生産は、ガスメータ、工業用計重機などが増加したことから前期比一・八%の上昇。出荷も、同三・〇%の上昇。在庫は、前期末比二・九%と九期連続の上昇。光学機械・同部品の生産は、レンズシャッタ式35㎜カメラ、カメラ用交換レンズが増加したことにより前期比〇・八%の上昇。出荷は、同六・三%の低下。在庫は、前期末比二・九%の低下。 日本計量機器工業連合会がまとめた平成八年度の計量計測機器の生産は総額九千四百九十二億九千四百万円で対前年度比一〇七・二%であった。これは二カ年連続の増進であるが、過去のピークの九一年度(平成三年度)の一兆三百九十億八千六百万万円には及ばず、まだピーク時の九一・四%の状態にある。 質量計(はかり)の九六年度生産は九千百六十三億円で対前年度比一〇四・〇%、ピーク時であった九一年度の九千六百五十九億千万円には及んでいないのの史上二位の生産額を記録している。現在はピーク時の九一・四%の水準にあり、奇しくも計量計測機器全体の水準と同じである。├├日本計量新報-記事目次 社説├├日本計量新報-記事目次 社説├├計量計測機器産業ネット
2025年01月12日
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日産・シーマ2代目 FY32型(1991年-1997年)とBOSE 1705アンプ(1993年頃)/スピーカーセットBOSE 101TR日産・シーマ2代目 FY32型について。時代が経過してみるとカッコよさを感じるのが日産のシーマ2代目 FY32型である。エアサスペンションは謳い言葉がウソだと思えるほどのもの。付いているエンジンはV6 3L VG30DET。決して大きくはなく派手でもないこの車を長く乗ることは乗り手の質素さを表現する。2025年の現在となっては随分と古いモデルのBOSEのアンプとーカーセット(1705アンプ(1993年頃)/101TRのスピーカーセット )である。シーマ2代目と時代が重なるBOSEのオーディオ。技術がまだ素朴であった時代の確かな商品である。├├計量計測データバンク ニュースの窓-140-日産・シーマ2代目 FY32型(1991年-1997年)とBOSE 1705アンプ(1993年頃)/スピーカーセットBOSE 101TR├├日産・シーマ - Wikipedia2代目 FY32型(1991年-1997年)1991年8月セドリック/グロリアより2か月遅れてモデルチェンジし、車名を「シーマ」に統一。この代から後席居住性およびボディ剛性で有利なセンターピラーを持つ一般的なセダンとなり、トヨタ・セルシオやトヨタ・クラウンV8(→クラウンマジェスタ)に対抗すべく、VH41DE型 4,130cc V型8気筒DOHCエンジンが搭載される。あえて税制上不利な4.1 Lとしたのは、先代で好評だったターボモデルの強烈な加速感をシーマのアイデンティティのひとつと位置づけ、NAで実現するには排気量が4.1 L以上必要であり、さらにはインフィニティQ45との販売政策上の兼ね合いもあった。FY32型ではエアサスペンションが廃止され、インフィニティQ45でも採用された油圧式アクティブサスペンションが用意された。インテリアはバブル経済を反映し、楡・玉杢模様の本木目フィニッシャー(ただし、コスト面と当時の販売規模の制約上、メーカーオプションの本革シート装着車と前期タイプⅢシリーズ限定オプションで内装色ブラックチェリーと組み合わせのタン本革バージョンのみの採用)、イタリア製高級車に見られるようなデザイン重視のアナログ時計、20箇所に設置されたライトが状況に応じて点灯するトータルコーディネート照明、国産車には珍しいタン色の本革内装などが奢られた。海外輸出はこの代から始まり、香港では「日産西馬」として販売。取扱販売会社は先代に引き続き、日産モーター店系列と日産プリンス店系列。千葉県では、1990年からグロリアシーマをメーカー公認で取り扱っていた日産チェリー千葉[注釈 4]が新たに販社に加わり、同年10月に登場するライバルのトヨタ・アリストを迎え撃つこととなった。1992年9月アテーサE-TSを搭載した4WDシリーズ「S-four」が追加設定された。専用装備として、静電気防止加工100%ウールモケットシートと電動ヒータードアミラーが採用された。4WD車追加に合わせて、2WD車のエンジンも仕様向上が行われ、カタログ燃費表示が全車10.15モードに変更された。1993年2月オーナードライバー向けの「タイプ・ツーリング」を追加。鍛造アルミホイールやエクセーヌのシート地を標準で装備する。1993年9月セドリック/グロリアに合わせてマイナーチェンジ。先代同様のVG30DET型V型6気筒DOHCターボを搭載する「ツーリング」シリーズが追加される。後期モデルのエクステリアの変更はフロントラジエターグリル変更、コーナリングランプの設置に伴うフロントバンパーデザインの変更、トランクモールの追加などである。V8とターボの外見上の見分け方はV8エンブレム有無のほか、トランクモールの仕上げの違いであり、V8のクロームメッキに対し、ターボはスモークブラックメッキであった。同時に従来のV8搭載車(リミテッドシリーズ)のグレード体系が見直され、タイプⅢ/タイプⅡシリーズがリミテッド/リミテッドS-four/リミテッドLに、タイプⅠがリミテッドセレクションに変更。1995年5月一部変更。運転席エアバッグを標準装備とし、「ツーリングAV」を追加。1996年6月FR車は3代目にモデルチェンジするが、4WD車は一部変更し販売を継続。├├BOSE 1705 ¥27,800(1993年頃)解説プロの厳しい要求に応えるモニターシステム用として開発されたパワー アンプ。アンプボディケース全体にアルミダイキャストを採用しており、これをヒートシンクとして活用する設計を採用しています。これにより高出力に伴う熱を効果的に冷却しながらボディの剛性を高め、音に悪影響を及ぼす振動や共振を抑えています。101シリーズとの組み合わせを考慮して専用のアクティブイコライザーを内蔵しています。イコライザー回路のON/OFFは背面のスイッチで行え、101シリーズにベストマッチの周波数バランスを実現しています。入力信号をダイレクトに出力するRec出力端子を搭載しています。スピーカーシステム101シリーズと重ねたり、マイクスタンドに設置することができます。機種の定格型式パワーアンプアンプ定格出力20W+20W(4Ω、1kHz)SN比90dB以上(IHF-A)全高調波歪率0.1%以下(1kHz、定格出力時)入力感度/インピーダンス 150mV/10kΩ入力Line:ステレオ1系統、RCAピン出力Line:ステレオ1系統、RCAピンSpeaker:ステレオ1系統、スナップインターミナルEQ切換 2ポジション(101、Others)電源AC100V、50Hz/60Hz定格消費電力50W外形寸法幅218x高さ60x奥行157mm重量2.6kg別売パンスタンド GMA-3(2台1組、¥12,000)マイクスタンド MK-4(1本、¥9,500)├├スピーカーセットBOSE model 101TR取扱説明書特長〇マッチングトランス内蔵ハイ・インピーダンス・スピーカーシステム。〇小型スピーカーの代表的なモデル101MMに定電圧伝送用マッチングトランスを内蔵させました。〇ロータリースイッチによるインピーダンス切換。〇インピーダンスを切り換えるためのロータリースイッチを採用することにより簡単にスピーカーの入力インピーダンスを切り換えることができます。インピーダンス切り換えスイッチロータリー式スイッチで880Ω、1280Ω、2440Ω、5050Ωの4種類のインピーダンスを選ぶことができます。〇自然な音を再生するパッシブ・イコライザーを内蔵。〇どんなレベルの音も自然に再生するためのパッシブ・イコライザーを内蔵しています。〇手入れの楽なパンチングメタルグリルを採用。〇ドライバーを保護するためのグリルに、耐久性が高く、お手入れの楽なパンチングメタルを採用しました。〇11.5 cmドライバー。ボーズ社の特許のアルミリボン・エッジワイズ巻ボイズコイルを採用し高能率化を計っています。仕様ユニット構成 11.5cmコーン型フルレンジユニット×1定格入力 11W(rms)880Ω選択、100V伝送時入力インピーダンス 880Ω、1280Ω、2440Ω、5050Ω周波数特性 70Hz~17kHz出力音圧 88dB(1m/1W)外形寸法232(W)×154(H)×152(D)mm質量 2.5kg(1本)接続端子 プッシュターミナル付属品ワンタッチコネクター2個├├BOSE-model-101TR-standBOSE-model-101TR-stand-ボーズの純正フロアスタンドです。スピーカー101シリーズ用になります。既に廃番になっている希少なモデルになります。筒状で高さ調節も可能です。スピーカー取付ネジ4本付属しています。【対応モデル】100J/PR、101IT/IT-W、101MM、101MM CC/CO、101MM STAGE、101MMG、101MMW、101TR、101VM、111AD/ADW、120/120S、505WB(サテライト)等。質量:2.6kg(1本)。カラー:ブラック。高さ調整:566~756mm。BOSE 純正 フロアスタンド PS-15 101シリーズ用├├スピーカーセットBOSE model 101TR ヨドバシ・コム101TR ハイインピーダンススピーカーシステム(1本)希望小売価格:¥24,150販売終了時の価格:¥19,700(税込)(希望小売価格の18%引き)メーカー:BOSE販売開始日:2003/10/06(販売終了商品)ボーズ BOSE 101TR ハイインピーダンススピーカーシステム(1本)の商品概要プロ用モニターにも使用された高性能11.5cmフルレンジドライバー流体力学とフレームの磁気効率にまで注視して創られた射出成型高分子素材によるフレームにアルミエッジワイズ巻きのヘリカルボイスコイルを採用したフルレンジドライバーです。特殊成形ポリマーを使用したキャビネットプロ用スピーカー802に採用されたものと同じ、音響的なバラツキが無く強靱な、特殊ポリマー素材をキャビネットに採用しています。コンパクトながらも高耐入力を実現ボーズ独自のテクノロジーにより小型スピーカーでは異例のピークパワー150Wの高耐入力を実現しています。■この商品に対する注意事項ボーズ BOSE 101TR ハイインピーダンススピーカーシステム(1本) の商品スペック商品仕様ユニット構成:11.5cmフルレンジドライバー再生周波数帯域:70Hz~17kHz入力インピーダンス:880Ω、1280Ω、2440Ω、5050Ω(100V伝送時入力:11W/8W/4W/2W)許容入力:11W rms (IEC268-5)880Ω選択、100V伝送時感度:86dB SPL 1W 1m指向特性:水平130°垂直:130°接続端子:スナップイン・ターミナル外形寸法:232(W)×154(H)×152(D)mm質量:2.5kg(1本)カラー:ブラック├├PCとアンプの接続方法3.5mmステレオケーブルは、アナログ接続です。USBケーブルでつなぐというのは、デジタル接続ということです。この違いは、受けのアンプによります。通常は、DAC(デジタルアナログ変換器)を内蔵することで、デジタル信号であるUSB信号の入力が可能となります。また、内部処理がフルデジタルのデジタルアンプの場合もUSB入力が可能です。音楽用に専用のPCを使った方が、むしろ楽です。普段はあまり使わないPCの活用にもなります。〇ゲーミングPCならPCのヘッドフォンジャックからプリメインアンプのアナログ入力にアナログケーブル接続すればいい音出ますよ。〇安い方法はステレオミニプラグ→RCA端子変換ケーブルで繋ぐこと、アンプ側にDACがあるなら光接続または同軸で繋げる。音を気にするのであればUSB DACを購入するのがおすすめです。├├山荘と音楽とスピーカー 手塚宗求に影響される 森龍之├├日本計量新報2024年1月1日(1月7日)合併号├├2024年郡上おどり日程 (gujohachiman.com)├├夏森龍之介のエッセー田渕義雄エッセーの紹介TOPへ├├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する├├計量計測データバンク ニュースの窓 目次├2024-01-09-news-140-materia-content-collection-of-metrology-databank-140-1-
2025年01月11日
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ホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併問題理解のカギ 現下、世間を騒がせているホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併の二つの問題を理解するカギを以下に用意した。 自動車産業は電気自動車への流れて決定しているというのが古賀茂明の見立て。部品点数が少なくなることを論拠にする。トヨタはじめ日本の自動車産業はどのように考えて行動しているのか。20年先には完全決着することになる。それまでのせめぎあいは苛烈であり、確かな見通しのない状態での手探り状態にもある。ホンダの日産の吸収を生命の危険はないが入院を要する状態の中等症患者が、生命の危険の可能性がある重病患者を助けようとしているということであり、重病人同士が支え合っても早晩共倒れになるに決まっている、辛辣である。おまけの言葉が凄い。「日産を抱え込むのは荷が重いはずだが、だからと言って、一人でいてもどの道死が待ち受けているというわけだ」と。資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-146-)日産とホンダの経営統合で暗躍する「経済産業省」 “負け組”同士を統合させて時間稼ぎをするだけの愚策 古賀茂明傷病者重症度分類表(厚生労働省)死亡=初診時死亡が確認されたもの。重篤=生命の危険が切迫しているもの 以下のものをいう。①心・呼吸の停止または停止の恐れがあるもの。②心肺蘇生を行ったもの。重症=生命の危険の可能性があるもの 重症以上と判断されたもののうち、死亡及び重篤を除いたものをいう。中等症=生命の危険はないが入院を要するもの。軽症=入院を要しないもの。(昭和39年以降、軽症、中等症、重症、死亡の4つに分類し、現在に至っている。その中で、重症の定. 義については「3週間以上の入院加療を必要とするもの以上」となっている) 日本では昨年末に日産とホンダが経営統合に向けた協議に入ったことが大きな話題になっている。うまく行けば、今年6月に最終合意、2026年8月に経営統合が実現する。今月下旬には三菱自動車が統合に参画するかどうかを決める予定で、そうなれば、世界3位の800万台グループが誕生することになる。確かに大きなインパクトのあるニュースだ。 この統合構想は、単純化すれば、3社が集まって規模を拡大し、効率的な生産体制とEVやSDV(ソフトウェア・ディファインド・ビークル)や自動運転などの研究開発に必要な巨額の投資資金も確保できるという構想のようだが、最も重要な、この連合にどんな強みがあるのかという点において、なんら魅力的な答えがないのが最大の問題である。 日産は売れる車が皆無の状況で、主力市場の中国でも米国でももはや競争力が全くない。利益もほとんど出せず、このまま行けば、確実に倒産するだろう。それを避けるためには、どこかに買収してもらうしかない。 現に、シャープを買収した台湾のホンハイが日産買収に動いていたと報じられている。 こうした状況を反映して、市場では、経営統合というと聞こえは良いが、実態はホンダによる日産の救済であるという見方が一気に広がった。 では、ホンダはなぜ日産を救済するのだろうか。疑問を持つ人もいるだろう。 確かに、ホンダはまだそこそこの利益を出している。しかし、ホンダにはまだ売れるEVが全くない。日産にはリーフというEVを売ってきた実績がある。ただし、リーフはもはや陳腐化したEVで将来性はない。ホンダ自身もEV開発では最後尾と言っても良い状況だ。世界の自動車市場の流れの中では完全に遅れてしまったという意味では日産と同じ。財務的には日産よりはマシだとしても、数年経てば、一気に日産と同じ状況になってもおかしくない。 ホンダの儲け頭は二輪車だが、こちらも中期的に見ると電動化の流れが加速し、これまでの世界市場での地位を守れるかどうかにはかなり大きな疑問符がつく状況だ。資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-148-)とUSスチール合併問題理解のカギ 現下、世間を騒がせている日本製鉄とUSスチール合併の二つの問題を理解するカギを以下に用意した。 粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)では上位を中国企業が占め、日本製鉄は4位、USスチールは米国でも下位に属し世界24位。製鉄の総合技術は日本製鉄が世界一位である。USスチールが身売りを申し出て日本製鉄が破格の好条件で合併すること米国の安全保障を阻害することなどない。暗礁に乗り上げた合併話の背景と問題点を読み解くカギを資料集として用意した。新日鉄は技術を中国に盗まれた のではないか鉄は国家なり AI による概要「鉄は国家なり」という言葉は、19世紀にドイツを武力統一したビスマルク宰相の演説に由来しています。ビスマルクは「国家は血なり、鉄なり」と述べ、鉄と血液を並べて象徴的に表現しました。日本では、1901年に初代首相の伊藤博文が官営八幡製鉄所の火入れ式で「鉄は国家なり」と述べたのが最初と言われています。ドイツを範とした明治政府が八幡製鉄所を建設し、富国強兵を急いだことが背景にあります。鉄は兵器、血は兵士を意味し、大砲や鉄道に欠かせない鉄は国力の源泉でした。鉄鋼生産量は現在でも国力を表す重要な指標です。「鉄は国家なり?」 「鉄は国家なり」という言葉を日本で最初に使った のは 1901 年、八幡製鉄の高炉火入れに立ち会った 伊藤博文だと言われている。├主要鉄鋼企業−粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)主要鉄鋼企業-粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)社名 国名 2020 2021 伸び率20/211 中国宝武鋼鉄集団 中国 115.3 120.0 4.02 ArcelorMittal ルクセンブルク 78.5 79.3 1.03 鞍鋼集団 中国 38.2 55.7 45.74 日本製鉄 日本 41.6 49.5 19.05 江蘇沙鋼集団 中国 44.7 44.2 -1.16 POSCO 韓国 40.6 43.0 5.97 河鋼集団 中国 43.8 41.6 -4.88 建龍集団 中国 36.5 36.7 0.79 首鋼集団 中国 34.0 35.4 4.210 Tata Steel インド 28.1 30.6 9.011 山東鋼鉄集団 中国 31.1 28.3 -9.212 徳龍鋼鉄 中国 28.3 27.8 -1.613 JFE Steel 日本 24.4 26.9 10.214 湖南華菱鋼鉄集団 中国 26.8 26.2 -2.115 Nucor アメリカ 22.7 25.7 13.016 江西方大鋼鉄集団 中国 19.6 20.0 1.917 現代製鉄 韓国 19.8 19.6 -0.918 広西柳州鋼鉄集団 中国 16.9 18.8 11.419 JSW Steel インド 14.9 18.6 25.120 SAIL インド 15.0 17.3 15.821 NLMK ロシア 15.8 17.3 9.822 IMIDRO イラン 17.4 16.7 -3.923 包頭鋼鉄集団 中国 15.6 16.5 5.424 U.S. Steel 米国 11.6 16.3 41.125 Cleveland-Cliffs 米国 3.6 16.3 352.826 中国鋼鉄(CSC) 台湾 14.1 16.0 13.027 敬業集団 中国 16.3 15.4 -5.628 Techint アルゼンチン 12.6 14.9 18.829 河北新華聯合冶金控股集団 中国 14.2 14.3 1.130 Gerdau ブラジル 13.0 14.2 9.2
2025年01月10日
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月9日号「日本計量新報週報デジタル版」日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25品質工学座談会 品質工学は計測技術にどう貢献したのか―2014年座談会「品質工学は計測技術である」から10年を振り返って―2024年10月5日開催(日本計量新報座談会)品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量管理の解釈と必要な変革の実行計測でも科学でもない数値の強調と人の健康窓にカケスがやってきた写した写真をみると随分とカケスは鋭い目つきであった。カケスは雌雄同色。だからオスだかメスだかわからない山荘の窓にカケスがやってきた 森龍之標高1,600mの信州の高原、八ヶ岳山麓の山荘の窓にカケスがやってきた。シジュウカラなどカラの仲間がたむろする餌台に。体長33㎝もあるカケスは大きい。カラス科のこの鳥はジャージャーとしゃがれ声で啼く。正月休みになった2024年12月28日(土)昼のことである。のっそりやってきてヒマワリの実を何粒か食べて消えた。シジュウカラは餌台に御馳走が置かれるのを待っているのだがカケスはそれっきり姿を見せない。カケスは雌雄同色。写真をみると随分と鋭い目つきであった。外は雪が解けずに残り降雪ごとに積雪量を増していく。(写真と文章は森龍之)ホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併問題理解のカギ 現下、世間を騒がせているホンダと日産の合併、日本製鉄とUSスチール合併の二つの問題を理解するカギを以下に用意した。 自動車産業は電気自動車への流れて決定しているというのが古賀茂明の見立て。部品点数が少なくなることを論拠にする。トヨタはじめ日本の自動車産業はどのように考えて行動しているのか。20年先には完全決着することになる。それまでのせめぎあいは苛烈であり、確かな見通しのない状態での手探り状態にもある。ホンダの日産の吸収を生命の危険はないが入院を要する状態の中等症患者が、生命の危険の可能性がある重病患者を助けようとしているということであり、重病人同士が支え合っても早晩共倒れになるに決まっている、辛辣である。おまけの言葉が凄い。「日産を抱え込むのは荷が重いはずだが、だからと言って、一人でいてもどの道死が待ち受けているというわけだ」と。資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-146-)日産とホンダの経営統合で暗躍する「経済産業省」 “負け組”同士を統合させて時間稼ぎをするだけの愚策 古賀茂明傷病者重症度分類表(厚生労働省)死亡=初診時死亡が確認されたもの。重篤=生命の危険が切迫しているもの 以下のものをいう。①心・呼吸の停止または停止の恐れがあるもの。②心肺蘇生を行ったもの。重症=生命の危険の可能性があるもの 重症以上と判断されたもののうち、死亡及び重篤を除いたものをいう。中等症=生命の危険はないが入院を要するもの。軽症=入院を要しないもの。(昭和39年以降、軽症、中等症、重症、死亡の4つに分類し、現在に至っている。その中で、重症の定. 義については「3週間以上の入院加療を必要とするもの以上」となっている) 日本では昨年末に日産とホンダが経営統合に向けた協議に入ったことが大きな話題になっている。うまく行けば、今年6月に最終合意、2026年8月に経営統合が実現する。今月下旬には三菱自動車が統合に参画するかどうかを決める予定で、そうなれば、世界3位の800万台グループが誕生することになる。確かに大きなインパクトのあるニュースだ。 この統合構想は、単純化すれば、3社が集まって規模を拡大し、効率的な生産体制とEVやSDV(ソフトウェア・ディファインド・ビークル)や自動運転などの研究開発に必要な巨額の投資資金も確保できるという構想のようだが、最も重要な、この連合にどんな強みがあるのかという点において、なんら魅力的な答えがないのが最大の問題である。 日産は売れる車が皆無の状況で、主力市場の中国でも米国でももはや競争力が全くない。利益もほとんど出せず、このまま行けば、確実に倒産するだろう。それを避けるためには、どこかに買収してもらうしかない。 現に、シャープを買収した台湾のホンハイが日産買収に動いていたと報じられている。 こうした状況を反映して、市場では、経営統合というと聞こえは良いが、実態はホンダによる日産の救済であるという見方が一気に広がった。 では、ホンダはなぜ日産を救済するのだろうか。疑問を持つ人もいるだろう。 確かに、ホンダはまだそこそこの利益を出している。しかし、ホンダにはまだ売れるEVが全くない。日産にはリーフというEVを売ってきた実績がある。ただし、リーフはもはや陳腐化したEVで将来性はない。ホンダ自身もEV開発では最後尾と言っても良い状況だ。世界の自動車市場の流れの中では完全に遅れてしまったという意味では日産と同じ。財務的には日産よりはマシだとしても、数年経てば、一気に日産と同じ状況になってもおかしくない。 ホンダの儲け頭は二輪車だが、こちらも中期的に見ると電動化の流れが加速し、これまでの世界市場での地位を守れるかどうかにはかなり大きな疑問符がつく状況だ。資料・粗鋼生産下位グループの日本製鉄とU.Sスチールの合併の事情(計量計測データバンク ニュースの窓-148-)とUSスチール合併問題理解のカギ 現下、世間を騒がせている日本製鉄とUSスチール合併の二つの問題を理解するカギを以下に用意した。 粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)では上位を中国企業が占め、日本製鉄は4位、USスチールは米国でも下位に属し世界24位。製鉄の総合技術は日本製鉄が世界一位である。USスチールが身売りを申し出て日本製鉄が破格の好条件で合併すること米国の安全保障を阻害することなどない。暗礁に乗り上げた合併話の背景と問題点を読み解くカギを資料集として用意した。新日鉄は技術を中国に盗まれた のではないか鉄は国家なり AI による概要「鉄は国家なり」という言葉は、19世紀にドイツを武力統一したビスマルク宰相の演説に由来しています。ビスマルクは「国家は血なり、鉄なり」と述べ、鉄と血液を並べて象徴的に表現しました。日本では、1901年に初代首相の伊藤博文が官営八幡製鉄所の火入れ式で「鉄は国家なり」と述べたのが最初と言われています。ドイツを範とした明治政府が八幡製鉄所を建設し、富国強兵を急いだことが背景にあります。鉄は兵器、血は兵士を意味し、大砲や鉄道に欠かせない鉄は国力の源泉でした。鉄鋼生産量は現在でも国力を表す重要な指標です。「鉄は国家なり?」 「鉄は国家なり」という言葉を日本で最初に使った のは 1901 年、八幡製鉄の高炉火入れに立ち会った 伊藤博文だと言われている。├主要鉄鋼企業−粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)主要鉄鋼企業-粗鋼生産上位30社(日本製鉄ファクトブック 2022)社名 国名 2020 2021 伸び率20/211 中国宝武鋼鉄集団 中国 115.3 120.0 4.02 ArcelorMittal ルクセンブルク 78.5 79.3 1.03 鞍鋼集団 中国 38.2 55.7 45.74 日本製鉄 日本 41.6 49.5 19.05 江蘇沙鋼集団 中国 44.7 44.2 -1.16 POSCO 韓国 40.6 43.0 5.97 河鋼集団 中国 43.8 41.6 -4.88 建龍集団 中国 36.5 36.7 0.79 首鋼集団 中国 34.0 35.4 4.210 Tata Steel インド 28.1 30.6 9.011 山東鋼鉄集団 中国 31.1 28.3 -9.212 徳龍鋼鉄 中国 28.3 27.8 -1.613 JFE Steel 日本 24.4 26.9 10.214 湖南華菱鋼鉄集団 中国 26.8 26.2 -2.115 Nucor アメリカ 22.7 25.7 13.016 江西方大鋼鉄集団 中国 19.6 20.0 1.917 現代製鉄 韓国 19.8 19.6 -0.918 広西柳州鋼鉄集団 中国 16.9 18.8 11.419 JSW Steel インド 14.9 18.6 25.120 SAIL インド 15.0 17.3 15.821 NLMK ロシア 15.8 17.3 9.822 IMIDRO イラン 17.4 16.7 -3.923 包頭鋼鉄集団 中国 15.6 16.5 5.424 U.S. Steel 米国 11.6 16.3 41.125 Cleveland-Cliffs 米国 3.6 16.3 352.826 中国鋼鉄(CSC) 台湾 14.1 16.0 13.027 敬業集団 中国 16.3 15.4 -5.628 Techint アルゼンチン 12.6 14.9 18.829 河北新華聯合冶金控股集団 中国 14.2 14.3 1.130 Gerdau ブラジル 13.0 14.2 9.2日本の氷河を眺望する白馬駅近くの白沢峠 夏森龍之介松本駅前にあった酒場「昭和横丁」 森龍之アラジンの青い炎が静かにゆらぐ日曜の午後 森龍之令和6年12月15日(日曜日)第75回計量士国家試験実施1. 試験の場所北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州及び沖縄2. 試験の期日令和6年12月15日(日曜日)3. 試験の区分試験は、環境計量士(濃度関係)、環境計量士(騒音・振動関係)及び一般計量士について行う。4. 受験願書(試験案内書)の配布期間受験願書(試験案内書)の配布期間は令和6年7月1日(月曜日)から同年8月2日(金曜日)まで、インターネット及び郵送による配布とする。計量士制度に関するお問合せ経済産業省イノベーション・環境局計量行政室メールによるお問合せはこちら電話:03-3501-1688(直通)受付時間:9時30分~12時00分/13時00分~17時00分(平日のみ)雪の日の朝とシジュウカラ 森龍之・自然のことマユミの赤い実飯塚幸三氏令和6年(2024年)10月26日逝去ロシア、ウクライナ、米国、日本と国の事情 社会主義の弊害と資本主義の幻想をローマ法王が口にした。原案作成に協力したことに感激したのが宇沢弘文であった。社会的共通資本の概念を提唱した宇沢弘文は日本の高速道路は米国車を売り込む目的でつくられたことを『自動車の社会的費用』ほかで述べている。GHQの通訳に駈り出されて調査の現場にいた。国のため天皇のためと命をさしだした日本国民であった。その人々が今や米国を崇拝し、米国が誘導する思想を身にまとう。殺された家族と同じ苦しみをさせたいと過失の人を罵(ののし)り重刑を求める。国に命を捧げた人々と現代の日本人は同じ人だとは思い難い。[予稿]官僚制度と計量の世界 「大島太郎、福島新吾と旧制高等学校」 夏森龍之介晩秋の高原 ひと月の移ろい 甲斐鐵太郎計測でも科学でもない数値の強調と人の健康解説]トヨタ・プリウス池袋交差点事故(過去の計量計測データバンクの記事から)官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介霧ヶ峰挽歌 甲斐鐵太郞伊勢崎賢治氏の話のなかにウクライナ紛争解決と戦争の本質理解の糸口が隠されている伊勢崎賢治 - Wikipedia伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係伊勢﨑賢治 東京外国語大学教授 著者と語る『本当の戦争の話をしよう~世界の「対立」を仕切る』 2015.5.20第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【前編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」【中編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【後編】生命とは生命とは動的平衡(福岡伸一) サプリの99%は添加物で頼りない成分の科学的根拠(田村忠司)第5回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム「生命とは何か?それは動的平衡」福岡 伸一 2018年7月22日2大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界-福岡伸一 - Wikipedia(689) 田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart1】あなたはそのサプリの中身を知っていますか - YouTube田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart2】あなたはそのサプリの中身を知っていますか串田孫一 とうきょうFM「音楽の絵本」の録音版モーツァルトの手紙から/串田孫一音楽の絵本 「冬の記憶」 串田孫一 詩と朗読気持よく働き一日を満足する日本でありたいソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん計量計測データバンク ニュースの窓-111-2024年ノーベル経済学賞「制度がどのように形成され、繁栄に影響を与えるかの研究のために」ノーベル賞の公式ウェブサイト - NobelPrize.org計量計測トレーサビリティデータベースとその辞書人工知能(AI)と人の頭脳の働かせ方2024年9月6日公務員塾発表 国家公務員への転職の穴場は林野庁係長職【穴場の受験先】どうしても公務員に転職したい受験生へ(社会人経験者採用)Vol.033 (youtube.com)林野庁森林管理局選考採用試験(事務系)について:林野庁 (maff.go.jp)林野庁ホームページ (maff.go.jp)森林管理局の概要:中部森林管理局 (maff.go.jp)住所:〒380-8575 長野県長野市大字栗田715-5電話:026-236-2720(代表) 026-236-2721(夜間・休日)法人番号:4000012080002上高地 秋の紅葉と梓川の流れ 甲斐鐵太郎目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)に信州とリンゴ 甲斐鐵太郎2024年ノーベル化学賞はAIでタンパク質の立体構造予測と新タンパク質設計の研究者ら(デビッド・ベイカー、デミス・ハサビス、ジョン・ジャンパー)2024年ノーベル物理学賞は人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明(ジョン・ホップフィールド氏とカナダのトロント大学のジェフリー・ヒントン氏)2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)にドングリが高原の宿の屋根をコツンコツンとたたく夜 甲斐鐵太郎品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量公務員への就職事情計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ)計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ) 計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次) 日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。 日本計量新報 週報デジタル版(週ごとに電子メールでお送りするニュースです。webページで閲覧できます) 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンク What's the news 新着情報 日本計量新報社 過去の第一面 計量計測のエッセー( 2018年1月22日から日本計量新報の社説と同じ内容の論説です) 計量計測の話題(トピックス)過去の計量計測の話題(トピックス) よりぬき計量計測情報ニュース(過去のよりぬき履歴) 計量計測データバンクのTwitter(@keiryoukeisoku) 計量計測データバンクのfacebook 計量計測機器総合カタログ-質量計版- 計量士になるには 計量士とは 計量士国家試験 最新情報 「計量法の読み方」高原隆(元・地方公共団体職員)全文掲載(PDF・2.4MB) 「計量法の読み方」(PDF・2.4MB) 特定商品分類表ハンドブック 計量計測web情報総合サイト 計量計測データバンク 目次 サイト(一括閲覧サイト) 社会の統計と計量計測の統計 「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(一括掲載版) 「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(目次版) 計量計測データバンク 目次 サイト 日本計量新報 一面記事一覧 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンクWhat's the news新着情報 計量計測データバンク ニュースの窓 目次 計量法と行政のニュースの窓 目次 計量計測機器団体のニュースの窓 目次 計量計測データバンク ニュース-2- 日本計量新報 電子版の全紙面のID&PW(日本計量新報は紙面をインターネットで閲覧することができます。新聞と同じ形式のPDF ファイルです。webに掲載の全紙面です。どうぞご利用ください)(IDとPWは計量新報購読者に限り電子メールで月ごとにお知らせしております)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25株式会社計量計測データバンク 編集部 edit@keiryou-keisoku.co.jp〒136-0071 東京都江東区亀戸7丁目62-16-803電話番号03-5628-7070 FAX03-5628-7071日本計量新報あて電子メール mail@keiryou-keisoku.co.jp
2025年01月09日
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雪が降る窓の外に来たカケスです。ひょいときてその後は姿なし。2024年12月29日(日)年越し用の燃料 灯油とガソリンの補給。食糧と家財道具ほか。2024年12月30日(月)家で興味ある事柄の調べもの。2024年12月31日(火)論説を書く。週報デジタル仕上げ。2025年01月01日(水)ユーチューブ映画「不毛地帯」山崎豊子の何時間もの作品をみる。満州国と関東軍とその幹部の行動のなかにソ連スパイの様子を探るが映画では全く描かれず。その後独自に再調査。山崎豊子が瀬島龍三と関東軍とソ連抑留をどのように捉えていたかの分析調査。2025年01月02日(木)箱根駅伝、大学ラグビー観戦。興味ある事柄の調べもの。2025年01月03日(金)箱根駅伝観戦。興味ある事柄の調べもの。2025年01月04日(土)興味ある事柄の調べもの。陸軍幼年学校などの資料集め。2025年01月05日(日)興味ある事柄の調べもの。陸軍幼年学校などの資料集め。2025年01月06日(月)午前10時に日赤諏訪病院予定。。午後4時に自動車屋で軽トラのアンテナ修理(昨年屋根からの落雪で損傷)。病院は日赤諏訪病院を9日(木)午前10時半に移し、同時間に諏訪中央病院に。この日は灯油40リットル、車への給油。家の片づけ用に日赤諏訪病院。プラボックスを調達。雪かき器3つ。ビニール袋、買い物袋、食品、醤油などを買ってくる。 里は霙(みぞれ)。山荘がある標高1,600mは昼過ぎから降った雪は10㎝の嵩(かさ)になっていた。これによって山荘は銀世界への変化。桜が咲く季節が待ち遠しい。東京都心のイチョウの木は黄色い葉が落ち切っていないのだ。2025年01月07日(火)昨日の行動で疲労。衣類の片づけ、洗濯など。家事に要する時間は一日に動けるうちの3割りにはなる。石油ストーブの手入れ。燃焼芯の周りに付着した焦げを除去。昼飯は朝昼、三時のおやつ兼用で地元原田製麺のなべ焼きに牛肉と卵を投入して、ご飯を添えて食べる。[正月の調べものなど] 押し付けられることなく調べものをした。兼ねての課題であったり、解決したいことなどを迫られない状況下で調べて記録した。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、旧制高等学校への進み方と終戦時に在校中の人々が遭遇した事柄。学徒出陣生徒のその後の状況。ほか。第一次世界大戦、第二次世界大戦、満州事変、上海事件、満州国、ロシア革命とスターリン時代、ヒトラーの戦争、占領時代の日本の状況、ほかの動画を見ていた。これまでは知る機会に恵まれなかったことがユーチューブで市中の普通の立場も物が見ることができるようになった。経済学や経済のことも調べた。終戦直後の日本はモノがなかった。食べ物がなかった。製造、生産が少なくて、需要を満たせない状況下でインフレが高進した。これは当たり前のことなのだがモノが満ち溢れている現代の人々には実感として理解できないことである。 今も戦争があるが第一次世界大戦、第二次世界大戦と人類は戦争を懲りることなくしてきたものである。驚きである。敗戦国には悲惨な結末であるが、戦勝国では例えばロシア、ソ連における戦争の犠牲者がドイツを上回る数になるなどしていた。兵器産業は戦争産業である。戦争産業は変わることなく現代に残されている。
2025年01月08日
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大地震発生の仕組み、山体崩壊、岩屑なだれ、ほか├計量計測データバンク ニュースの窓-21-大地震発生の仕組み、山体崩壊、岩屑なだれ、ほか├├日本の新聞社、メディア、情報機関など web検索(計量計測データバンク)├日本のテレビ局 web検索(計量計測データバンク)├├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2023年11月23日号「日本計量新報週報デジタル版」├楽天ブログ2023年05月11日のアクセス数926アクセス(+204)。トータルのアクセス数3599347アクセス。 (2023年05月12日データ取得 計量計測データバンク編集部)├├(587) 産総研サイエンスカフェ in 関西 「21世紀の巨大地震を考える -歴史から探る関西の地震-」【産総研公式】 - YouTube├├寒川旭 - Wikipedia├├富士山の大沢崩れの深いえぐれのその規模の大きさに驚いてさまざまなことを考えた - livedoor Blog(ブログ)├├富士山は二つに割れ始めた 甲斐鐵太郎├├八ヶ岳は富士山より高かった - livedoor Blog(ブログ)├├富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞├├富士山の大沢崩れ - Wikipedia大沢崩れの空中写真。(1975年撮影の5枚より合成作成)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。大画像はウッキペディアをご覧ください。 大沢崩れ(おおさわくずれ)とは、富士山の山体の真西面側にある大沢川の大規模な侵食谷のこと。最大幅500m、深さ150m、頂上の火口直下から標高2,200m付近まで達する。大沢川は大沢川大橋付近より潤井川と名称変更し、海まで通じている。概要 大沢崩れは現在も進行しており、落岩の音が絶えない。崩壊が更なる崩壊を呼ぶため、崩壊地は拡大する一方である。大沢崩れの形成の年代は明らかではないが、堆積している古い土石流の中に埋もれていた木片を年代測定した結果、約1,000年前に大規模な土砂移動があったと推定された。現在では1日あたり10トン積みの大型ダンプカー28台分に相当する275tほどの崩壊量がある。大沢崩れ下方には土石流などの崩壊物が堆積し扇状地となっており、防災のための砂防工事が進められている。富士山には800以上もの放射谷・侵食谷が発達しているといわれるが(放射谷が集まってより大規模な侵食谷になる)、そのなかで大沢崩れが特に崩壊規模が大きいのは、大沢崩れのある西面がもっとも傾斜が急であるからとされる。なお、このような侵食谷の発達は別に異常のものではなく、現在の富士山の地形は地形の輪廻からすると幼年期であり、やがては風雪などによって侵食が進み、開析された山体となっていく運命にある。├├山体崩壊 - Wikipedia主な山体崩壊の歴史2900年前 富士山東斜面の崩壊[1](御殿場泥流、富士山の噴火史も参照)紀元前466年 鳥海山の噴火による崩壊(象潟も参照)887年 仁和地震による八ヶ岳山麓の崩壊1586年 天正地震による帰雲山の崩壊(これにより内ヶ島氏が滅亡した)1640年 北海道駒ケ岳の噴火に伴う崩壊1707年 宝永地震による大谷崩れおよび五剣山の崩壊1741年 渡島大島の噴火に伴う崩壊1751年 宝暦高田地震による名立崩れ1792年 島原半島眉山の崩壊(後述、島原大変肥後迷惑も参照)1815年 1815年のタンボラ山噴火に伴う崩壊(インドネシア・スンバワ島)1847年 善光寺地震による岩倉山の崩壊1858年 飛越地震による鳶山崩れ(大鳶崩れ)1883年 1883年のクラカタウの噴火に伴う崩壊(インドネシア・スンダ海峡)1888年 リッター島噴火に伴う崩壊1888年 磐梯山噴火に伴う崩壊(後述)1911年 稗田山崩れ(長野県小谷村)1961年 昭和36年梅雨前線豪雨による大西山の崩壊1980年 セント・ヘレンズ山の噴火に伴う崩壊(アメリカ合衆国・ワシントン州)1984年 長野県西部地震による御嶽山の崩壊御嶽山 田の原の駐車場から望む長野県西部地震による御嶽山の南面の山体の大崩壊(2010年8月撮影)2008年 岩手・宮城内陸地震による栗駒山などの崩壊2018年 アナク・クラカタウの噴火に伴う崩壊(インドネシア・スンダ海峡)大谷崩れ、鳶山崩れ、稗田山崩れを「日本三大崩れ」と称することがある。├├大谷崩 - Wikipedia大谷崩(おおやくずれ)は、静岡市葵区の大谷嶺(おおやれい)の南斜面にある、1707年(宝永4年)の宝永地震によってできた山体崩壊である。├├鳶山崩れ - Wikipedia地震により立山連峰の鳶山が山体崩壊を起こした。鳶山には大鳶山と小鳶山のふたつのピークがあったが、山体崩壊により大鳶山と小鳶山は完全に消滅し、立山カルデラに大量の土砂が流れ込んだ。カルデラ内の立山温泉では湯治客[要出典]と普請作業に従事していた人足が土石流に巻き込まれて死亡した。├├稗田山崩れ - Wikipediaもともと崩壊の起きやすい地盤の地域で、小規模な崩壊や土石流はたびたび発生していた。1か月前から音響が轟くといった予兆はあったと伝えられる。崩壊に結びつく直接的な要因は不明であるが、崩壊の4日前に台風が通過し記録的な降雨があったとされている。├├姫川 - Wikipedia流路が北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界となっている糸魚川静岡構造線にほぼ沿い、東西にある急峻な西頸城山地と北アルプスから供給される土砂が多い。また、飛騨外縁帯の脆弱な蛇紋岩が上流部の八方尾根、中流部の平岩・小滝付近、および支流の大所川上流部に広く分布するため、地すべり地形が広く分布する。そのため豪雨による土砂災害が絶えず、道路や鉄道が不通となることがたびたびあり、暴れ川として知られている。├├地質の解説:岩屑なだれ (web-gis.jp)「御嶽山」は,「1984年長野県西部地震(M 6.8)」に伴って発生した極めて規模の大きな火山性の斜面崩壊(山体崩壊)と,それに伴う「岩屑なだれ」により,死者・行方不明者29名などの被害が生じました。崩壊の規模は,最大幅750m,最大長1500m,最大深150mとのことです。御嶽山で発生した岩屑なだれの流下速度は,地震後約7分後に崩壊地から10~12kmの所を通過した,という報道があるため,流下速度を計算すると時速100km弱となります。【参考資料】三村 弘二ほか3氏:1984年御嶽岩屑なだれ-堆積物からみた流動・堆積機構-,地質調査所月報,第39巻,第8号,pp.495-523.,1988年。├├地質調査所月報,第39巻第8号,p.495-523.1988 (gsj.jp)├├岩屑流(岩屑なだれ)堆積物 (yoshitsuru.net)火山の爆発や地震が引き金となり山が崩壊してできる堆積物です。山がくずれさったために山を作っていた様々な岩石がごちゃごちゃに混ざっていることが多く、また数十から数百メートルの巨大なブロックのようになって、いわゆる流山(ながれやま)と呼ばれる丘のような地形となっていることもあります。写真の露頭では右側と真ん中上に赤紫色っぽい火山岩のところがあり、中程には成層した地層の断片が見えています。左上にある地面に平行に近い地層は、この山体崩壊の後にたまった火山灰層です。ちなみに水が多く含まれる状態だと土石流となり、比較的渇いた状態だと岩屑流となります。├├鎌田浩毅 - Wikipedia├├五月山 - Wikipedia├├五月山活動セグメント. 所属起震断層名 : 六甲起震断層 ; 大阪府北部を北東-南西方向に延びる南東側隆起の逆断層 産総研:活断層データベース (gsj.jp)├├(587) 産総研サイエンスカフェ in 関西 「21世紀の巨大地震を考える -歴史から探る関西の地震-」【産総研公式】 - YouTube├├寒川旭 - Wikipedia
2025年01月07日
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計量計測データバンク ニュースの窓-84-計量管理(計測管理)と計量法ほか├計量計測データバンク ニュースの窓-84-計量管理(計測管理)と計量法ほか├├現場の計測管理 座談会 現場の計測管理をどのように推進するか ものづくりと計測管理と校正業務 2023年8月(日本計量新報 計量計測データバンク主催)├├現場の計測管理の現状と課題 ものづくりの計測管理への要求事項にいかに応えるか | 「計量計測データバンク」ニュース├├現場の計測管理 第12回座談会(日本計量新報社 計量計測データバンク主催)(開催日時:2019年7月5日(金)9:00~11:55)├├計量管理とは何かを懸命に問うた一人の技術官僚 | 「計量計測データバンク」ニュース├├計量管理とは何かを懸命に問うた一人の技術官僚├├寄稿・エッセー【矢野宏】本紙7月19日号の社説に 日本計量新報2015年8月2日 (3067号)8面掲載 (keiryou-keisoku.co.jp)本紙7月19日号の社説に 応用計測研究所(株) 矢野宏 『日本計量新報』7月19日号の社説「自分が文化系か理科系かではなく当たり前のことを知っておく」は、きわめて大きな問題を提起した。もともと本紙の社説は大きな問題を提起するが、いわば評論家の言い放しのようなもので、もしこれを本気で受け止めようとすれば、容易ではない問題が多い。 第2次世界大戦後の新制大学では2年生まで教養学部で学ぶことになった。これは理系・文系と専門科目にわかれる前の総合的な教育のはずであった。これは次第にあいまいなものになるが、観念としてではなく本気で総合化を考えるとなると容易なものではない。 品質工学とはまさにこの総合化の学問である。品質工学の創始者田口玄一博士は若い頃、国会図書館で岩波の物理工学全集を読破したという話を聞いたことがあるが、これだけなら理科系である。田口玄一論説集全4巻をみるとわかるように科学、社会学、経済学と広い分野を網羅している。田口博士が多くのことをどこで学んだかは不明であるが、とにかく幅広い知識を持っていた。 品質工学は実践の学問である。少し学べばほかの技術者の欠陥はすぐにみえるが、それでは単なる批評家である。個別の課題を具体化するのは容易ではない。そのための悪戦苦闘の毎日である。 技術系の課題はどうにかこなせたつもりである。医学については東京慈恵会医大の中島尚登博士と肝臓病の診断の研究が成功し、ツムラとは本物の漢方薬を使った足浴の研究で成功した。 富山高等専門学校の早川幸弘氏らと、きわめて困難な地震予測の研究を始めた。つくば地区で1時間前の予測で、新潟地震、三陸地震、宮城沖地震でも、予測の線に乗ったが、まだ誤差が大きい。専門家は見向いてもくれない。年間数百億円の予算がつく研究をコンピュータ1つで予測されては迷惑らしい。 パワーハラスメントの裁判の判例のMTシステムによる研究を、厚生労働省の佐藤誠氏と開始したが、かなり容易でない問題のあることがわかってきた。これらの新たな研究の成果は、本年11月20日開催の第8回品質工学技術戦略研究発表大会で発表する予定である。 総合化の困難さをしみじみと感じている。├├地震予測と品質工学 矢野宏 | 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)├├計量計測データバンク【日本計量新報社】「計量法の読み方」 (keiryou-keisoku.co.jp)├├「計量法の読み方」高原隆(元・地方公共団体職員)全文掲載(PDF・2.4MB)├├計量計測のエッセー ├├計量法における計量器の規制の概要├├「確かめよう 信頼はかる 1目盛り」平成27年度最優秀計量標語 | 「計量計測データバンク」ニュース├├「2016重力値マップ」に計量計測機器はどのような対応をするか | 「計量計測データバンク」ニュース├├国土地理が日本の重力値の基準を40年ぶりに更新。国土地理院が2017年3月15日に公表├├「2016重力値マップ」に計量計測機器はどのような対応をするか | 「計量計測データバンク」ニュース├├放射線測定器の公的で第三者による校正の仕方。線量計とサーベイメーターの校正設備。「JQA多摩テクノパーク」計量計測センターの計量器校正設備と業務。 | 「計量計測データバンク」ニュース├├不都合な事実と不要なことがら | 「計量計測データバンク」ニュース├├不都合な事実と不要なことがら├├キログラム - Wikipedia 単位の「k」は小文字で書く。大文字で「Kg」と表記してはならない。 | 「計量計測データバンク」├├工業技術院計量研究所力学部長を勤めた矢野宏氏は2023年1月27日逝去 | 「計量計測データバンク」├├中部7県計量協議会 2023年7月13日にホテルフジタ福井の宴会場「ザ・グランユアーズフクイ」で開かれ一般計量士登録に関する1年間の実務要件が議題に├├軍人と国家官僚 軍国主義日本の軍人として命を捨てる覚悟の軍人と国民の福祉の向上のために働く人との対比(計量計測データバンク編集部)├├伝統の「技」を今に伝える浮ひょうの専門メーカー 横田計器製作所 | 「計量計測データバンク」├├素描 モノ余り日本と働きたくない人々(計量計測データバンク) | 「計量計測データバンク」ニュース├├素描 モノ余り日本と働きたくない人々(計量計測データバンク)├├KASTO主催セミナー「日本の計量器産業と計量法の概略」韓国での講演の報告です。 | 「計量計測データバンク」ニュース
2025年01月06日
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将校の子弟が同じ道を進んだ検証とその記録庭に来たカケスとその鋭い眼├計量計測データバンク ニュースの窓-144-将校の子弟が同じ道を進んだ検証とその記録 士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。 陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。 将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。 国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。 戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。├├東條英機 - Wikipedia東條英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日-1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後A級戦犯として死刑となった。陸軍次官、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)を歴任した。岩手県(盛岡市)出身。父は東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。├├東條英教 - Wikipedia東條英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日)-大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。第40代内閣総理大臣・東條英機は息子。1855年12月16日(安政2年11月8日)に陸奥国盛岡藩士・東條英俊の嫡男として武蔵国豊多摩郡大久保村に誕生する。1873年(明治6年)4月、陸軍教導団歩兵科。1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、同年4月に陸軍歩兵少尉試補[1]。1878年(明治11年)9月、陸軍歩兵少尉に任官。1885年(明治18年)12月、陸軍大学校(陸大)を首席で卒業し(1期、卒業生は10人)、恩賜の望遠鏡を拝受。 1891年(明治24年)9月16日、 任 陸軍歩兵少佐、補 陸軍大学校兵学教官。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)3月まで、現役の陸軍歩兵少佐のまま、日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)長を務めた。佐官時代には、参謀本部第1局局員、陸大教官、参謀本部第4部長(戦史編纂)などを歴任。東條家は、能楽師として盛岡藩(南部氏)に仕えた家系で、禄高は160石であった[1]。 英教は陸大1期を首席卒業したが、中将止まりであった。その理由として盛岡藩が戊辰戦争で明治政府と戦ったためや、当時は薩長派閥が幅を利かせていたためなどが言われている。 陸大1期の同期生で旅団長として出征したのは、英教の他に秋山好古と山口圭蔵がいたが、山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにもかかわらず、師団長川村景明に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する事態となり川村の面子が潰された。この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き「実兵指揮能力不足」という評価が下され、歩兵第8旅団長を解任されて留守近衛歩兵第2旅団長に左遷された(名目上は病気)。├├山田乙三 - Wikipedia山田乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日-1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。最後の関東軍総司令官として玉音放送による「聖断」を受諾し、ソ連軍に降伏した。息子は登山家の山田二郎。経歴 1939年陸軍経理官・市川確の三男として生まれ、山田貫之の養子となった。成城学校(新宿区原町)から陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校(14期)を卒業。同期に古荘幹郎、西尾寿造、宇佐美興屋らがいる。1912年(大正元年)に陸軍大学校を(24期)卒業、同期に土肥原賢二、飯田貞固、牛島貞雄、香月清司、酒井鎬次、谷寿夫、柳川平助、山岡重厚がいた。 参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任。軍令、教育畑が長く政治色は薄かった。1939年(昭和14年)10月、中支那派遣軍司令官から教育総監に就く。1940年(昭和15年)8月、陸軍大将に進級。1944年(昭和19年)2月に東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長兼任を企図した際には、杉山元参謀総長が強く抵抗、山田も統帥権独立への抵触を危惧するが、最終的にはこれを容認した。しかし7月のサイパン失陥を契機に東條は退陣、参謀総長となった梅津美治郎の後任として関東軍総司令官に就任する。満洲国の日本大使(正式には、満洲国駐箚特命全権大使。)は関東軍総司令官が兼任することになっているため、駐満洲の日本大使ともなる。 1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が対日参戦、当日は大使として、満州の国防団体の結成大会出席のため大連に出張中であり急遽新京に帰還する。この大連出張の際に保養地のホテルに泊まっていたため、帰還が遅れたとも言われている。総司令部を通化に撤退させ持久戦を図るが、15日には日本のポツダム宣言受諾により終戦詔書が発布される。19日にはジャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。 その後は関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らとともにソ連に抑留(シベリア抑留)。ハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に収容された。 10年以上経って日本へ帰国した。年譜1901年(明治34年)5月 陸軍中央幼年学校卒業。1902年(明治35年)11月 陸軍士官学校卒業。1903年(明治36年)6月 陸軍少尉。騎兵第3聯隊附。1905年(明治38年)2月 陸軍中尉。陸軍士官学校教官。1912年(大正元年)9月 陸軍大尉。11月 陸軍大学校卒業。騎兵第3聯隊中隊長。1913年(大正2年)8月 参謀本部員。1918年(大正7年)6月 陸軍少佐。陸軍騎兵学校教官。1922年(大正11年)8月 陸軍中佐。騎兵監部員。1924年(大正13年)2月 騎兵第26聯隊隊長。1925年(大正14年)8月 陸軍大佐。1926年(大正15年)3月 朝鮮軍参謀。1927年(昭和2年)7月 参謀本部通信課長。1930年(昭和5年)8月 陸軍少将。陸軍騎兵学校教育部長。1931年(昭和6年)8月 騎兵第4旅団長。1932年(昭和7年)8月 陸軍通信学校校長。1933年(昭和8年)8月 参謀本部第3部長。1934年(昭和9年)8月 陸軍中将。参謀本部総務部長。1935年(昭和10年)8月 兼参謀本部第3部長。12月 陸軍士官学校校長。1937年(昭和12年)3月 第12師団長。1938年(昭和13年)1月 第3軍司令官。12月中支那派遣軍司令官。1939年(昭和14年)10月 教育総監兼軍事参議官。1940年(昭和15年)8月 陸軍大将。10月 免兼。1941年(昭和16年)7月 兼防衛総司令官。1 2月 免兼。1944年(昭和19年)7月 関東軍総司令官、在満州国特命全権大使。1945年(昭和20年)8月15日 終戦。1948年(昭和23年)1月31日 公職追放仮指定を受けた。1956年(昭和31年)6月26日 シベリア抑留より復員。1965年(昭和40年)7月18日 死去。├├秦彦三郎 - Wikipedia秦彦三郎(はた ひこさぶろう、1890年(明治23年)10月1日-1959年(昭和34年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。ロシア通として知られ第二次世界大戦終戦時の関東軍総参謀長。戦後はシベリアに抑留された。略歴 三重県に生まれ、1912年、陸軍士官学校を卒業(24期)して歩兵少尉となる。1915年、歩兵中尉となる。1919年、陸軍大学校を卒業(31期)。1922年、歩兵大尉となり参謀本部員(ロシア班)となり、翌年、関東軍の満州里機関長となる。1926年、ソ連大使館附武官補佐官となり、翌年、歩兵少佐となる。 1930年、ポーランド公使館附武官、ラトビア公使館附武官となる。1931年、歩兵中佐となる。1932年、ルーマニア公使館附武官となる。1933年、参本ロシア班長、翌年、ソ連大使館附武官となる。1936年、歩兵大佐(新聞班長)となる。 1938年、関東軍司附(ハルピン特務機関長)となり、翌年、陸軍少将となる。1940年、 関東軍参謀副長となり、1941年、関東軍参謀副長(兼秦機関長)となり陸軍中将となる。1942年10月に第34師団長、1943年4月に参謀次長・大本営兵站総監となり、戦局不利な状況の中で作戦指導にあたる。1944年3月から8月までは陸軍大学校校長も兼職した。1945年4月7日、敗戦濃厚の中、関東軍総参謀長となる。同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍が満州と朝鮮に侵攻し、同月18日、満州帝国滅亡。同年8月19日、山田乙三関東軍総司令官と秦は瀬島龍三中佐らを伴い、ジャリコウヴォのアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。 1945年12月2日、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があった[1]が、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。1956年12月26日に復員。├├草場辰巳 - Wikipedia草場辰巳(くさば たつみ、1888年(明治21年)1月2日-1946年(昭和21年)9月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の二男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 参謀本部付勤務、第1鉄道線区司令部員、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、歩兵第4連隊大隊長などを歴任。1924年(大正13年)11月から陸大専攻学生となる。翌年12月、陸大教官に就任し、参謀本部員兼軍令部参謀、第6師団参謀、陸軍省人事局課員、陸軍兵器本廠付、関東軍司令部付(南満洲鉄道)などを歴任し、1931年(昭和6年)3月から8月まで欧州に出張した。 1931年8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任。歩兵第11連隊長、関東軍司令部付(満洲国交通部顧問)を経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級。日中戦争に歩兵第19旅団長として出征し、保定会戦、南京攻略戦に参加[2]。第2野戦鉄道司令官を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進し関東軍野戦鉄道司令官に就任。翌年10月、第52師団長に親補され満洲に駐屯。太平洋戦争を関東防衛軍司令官として迎えた。 1942年(昭和17年)12月、第4軍司令官となり、参謀本部付を経て、1944年(昭和19年)12月、予備役に編入された。同月、召集を受け大陸鉄道司令官となり終戦を迎えた。 1945年(昭和20年)9月からシベリア抑留となった。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年(昭和21年)9月17日に松村知勝、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷することになっていた。9月20日未明、草場は隠し持った青酸カリを飲んで自殺した。3通の書き置きのうち公式当局と親族宛の2通は捜査資料に添付された。アメリカ検事団が英訳させた日記には、シベリアの収容所でソ連側から証言を要求されたこと、ソ連側から恫喝、甘言など受けたこと、「将校でありながら捕虜となり、どの面下げて祖国に帰れるのか」とか「私には自殺しか道がなかったと諦めてください」という表現などが書かれていたという。墓所は多磨霊園。その他山崎豊子の小説『不毛地帯』に登場する「秋津中将」は、草場がモデルといわれる。[要出典]『不毛地帯』では、壱岐正、秋津中将、竹村少将が東京裁判へ出廷し、実際には、瀬島龍三中佐、松村知勝少将が出廷した。親族弟 草場季喜(陸軍少将)。父 草場彦輔(陸軍少将)。├├草場季喜 - Wikipedia草場季喜(くさば すえき、1899年(明治32年)12月16日-1963年(昭和38年)5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。経歴滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となった。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期、員外学生)を優等で卒業した。1924年(大正13年)4月、陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科に入学し、1927年(昭和2年)3月に卒業した。 1928年(昭和3年)4月、陸軍科学研究所員に発令。以後、ドイツ駐在、科学研究所員、陸軍省兵器局課員などを務め、1940年(昭和15年)8月、工兵大佐に昇進し独立工兵第27連隊長(関東軍)に就任し日中戦争に出征した。1942年(昭和17年)10月、第9陸軍技術研究所員(登戸研究所)第1科長となり、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進。 1945年(昭和20年)9月、陸軍兵器行政本部付となり、同年12月、予備役に編入された。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。親族親族兄 草場辰巳(陸軍中将)。父 草場彦輔(陸軍少将)。├├松村知勝 - Wikipedia松村知勝(まつむら ともかつ、1899年〈明治32年〉10月13日-1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。経歴 本籍福井県。松村法吉陸軍中将の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。陸地測量部員などを経て、1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官などを経て、1933年(昭和8年)2月、ポーランド・ソビエト連邦勤務となり、さらにポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官を務めた。帰国後、1936年(昭和11年)3月、陸大教官となり、参謀本部員、参謀本部戦史課長・大本営研究班長などを歴任。1941年(昭和16年)3月、歩兵大佐に進級し、同年10月、参謀本部ロシア課長に就任した。 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月、関東軍参謀に発令された。1945年(昭和20年)3月には陸軍少将に昇進。関東軍総参謀副長となり終戦を迎えた。 戦後はシベリア抑留となった。1946年(昭和21年)9月17日には草場辰巳、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷した。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。1949年(昭和24年)8月に重労働25年の判決を受け、1956年(昭和31年)12月に復員。親族妻 松村英子 石坂善次郎(陸軍中将)の娘。弟 松村辰雄(陸軍中佐)義兄 額田坦(陸軍中将)義弟 樋口敬七郎(陸軍中将)├├種村佐孝 - Wikipedia種村佐孝(たねむら さこう/すけたか、1904年12月9日-1966年3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。三重県出身。参謀本部戦争指導班長を務め、対ソ終戦工作にあたった。主著に『大本営機密日誌』。太平洋戦争中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。├├朝枝繁春 - Wikipedia朝枝 繁春(あさえだ しげはる、1912年(明治45年)1月1日-2000年(平成12年)10月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士45期、陸大52期恩賜。最終階級は陸軍中佐。第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀として知られる。1933年(昭和8年)7月、陸軍士官学校本科を卒業。成績は、皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて25番/335名という好成績であった。陸士予科生徒隊附を経て、陸大在学中の1938年(昭和13年)3月に歩兵大尉に進級。1939年(昭和14年)11月、陸軍大学校を3番/52名で卒業し、恩賜の軍刀を拝受した。1939年(昭和14年)12月、第1軍参謀部付となり日中戦争に出征。1940年(昭和15年)6月、第1軍参謀に移り、1941年(昭和16年)5月、台湾軍研究部員に転じ、同年8月から10月まで南方に出張。同年10月、陸軍少佐に進級、第25軍参謀として太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を迎えた。マレー作戦、シンガポールの戦いに参戦し、辻政信参謀とともにシンガポール華僑粛清事件に関与した。このとき朝枝は軍刀を抜いて、軍の方針に随わねば憲兵でもぶった切ってやると言って、強引に粛清を強要して回ったといわれる。戦後、半藤一利がこの粛清についてインタビューしたとき、朝枝が辻政信にばかり責任を押し付けるようなことを言うため、しまいには両者で怒鳴り合いになった。1942年(昭和17年)7月、関東軍参謀に異動。1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)2月までソ連に出張。1944年3月、大本営参謀(作戦課)。その後、第14方面軍参謀を経て再び大本営参謀(作戦課で満州方面を担当)。1945年(昭和20年)6月、同期一選抜のひとりとして中佐に進級。同年8月、大本営参謀として満州へ出張中に敗戦を迎えた。この時、朝枝参謀は関東軍防疫給水部(通称・731部隊)の部隊長石井四郎軍医中将に研究資料の廃棄を指示している。共同通信社社会部編『沈黙のファイル』(P137,138)には、その時の朝枝・石井のやりとりが載っている。 朝枝「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします。貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください。」朝枝「細菌学の博士は何人ですか」」石井「五十三人」朝枝「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」石井「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。石井「ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね」朝枝「何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」また、この満州出張中、ソ連軍から樺太で現地の第88師団が日本軍師団が交戦を続けていることを知らされ、その上級にあたる札幌の第5方面軍に停戦するよう、電報を打ち、これによって樺太での停戦が成立している。 旧満州や朝鮮半島の民間日本人やソ連の捕虜となった軍人計180万人について、ソ連の指令下に移し、日本国籍離脱まで想定、病人などを除き現地に「土着」させ事実上"棄民"化する「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」を1945年8月26日付で大本営参謀名にて報告した(その3部のうち1部が1993年8月にロシアの軍関係にて発見されたと共同通信が報じている)。 その後、朝枝はソ連軍に捕まり、1949年(昭和24年)8月に復員している。├├瀬島龍三 - Wikipedia 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉9月4日)は、陸士44期次席・陸大51期首席。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として務めた。最終階級は中佐。、1939年(昭和14年)1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となった。同年11月には参謀本部幕僚附(作戦課)に補され、間もなく参謀に昇格して開戦前は対ソ作戦を担当。翌1940年(昭和15年)には関東軍特種演習(関特演)の作戦立案にあたった。1945年9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎中将らとともに捕虜となった。ソ連のハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に送られた。この後、11年間抑留される。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳中将(20期首席、関東軍鉄道司令官)・松村知勝少将(33期、総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められる。出廷に当たって瀬島は草場辰巳、松村知勝と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。1947年(昭和22年)末から1950年(昭和25年)4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルのウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、種村佐孝(37期、大佐)、朝枝繁春(45期、中佐)、志位正二(52期、少佐)らとともに収容されていたとみられる。 日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えた。 1996年の回顧録にて大東亜戦争を振り返り、政治的、経済的な情報を含む国力の総合的な判断を無視した。こういった情報が不足しており、民族の性格上、合理的かつ客観的な判断をせず、心情的、希望的な判断へと流れていった。と書いている。├├志位正二 - Wikipedia志位正二(しい まさじ、1920年1月1日-1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。 終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。抑留中は陸軍将校のため、日本国内では公職追放となった。 1948年11月、シベリアより復員。志位によれば、早期帰国のためにソ連に協力する誓約書に署名したものの、それは戦犯収容所に送られた上官や部下を救うため帰国し残留者の引揚促進活動に取組むためであったという。ところが、舞鶴港で米軍の民間情報部の者が武装兵を連れて船に乗り込み、主だった者を集めて暴行し尋問するのを目撃しショックを受けることになった。志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中華人民共和国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。このとき、1週間にわたって軟禁されウソ発見器にもかけられ誓約書について自白を強要されたことで、米国特務機関のやり方に憎悪を抱くようになったという。この後、ソ連のためにスパイ活動をすることになる。1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。しかし罪には問われず、その後、海外石油開発株式会社常務となり、対ソ連交渉において、社長今里広記の右腕ともいわれる活躍をしている。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス DC-8型機の機内、ファーストクラス席上で死去した。過労からの心臓関係の疾患とみられる。├├志位正人 - Wikipedia志位正人(しい まさと、1889年10月22日-1945年5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。二男が志位正二(陸軍少佐)兵科は砲兵。1909年(明治42年)、陸軍士官学校に入校。1911年(明治44年)5月、同校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉任官。1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進。同年12月、名古屋兵器支廠長に就任。1940年(昭和15年)3月、大阪兵器補給廠長に異動。1941年(昭和16年)11月、第15軍兵器部長に就任し太平洋戦争を迎え、ビルマの戦いに参戦。1943年(昭和18年)3月、緬甸方面軍兵器部長に就任。同年6月1日、陸軍兵器行政本部監督官に転じ、同年8月、陸軍少将に進む。1945年(昭和20年)5月に殉職し陸軍中将に進級。├├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情├├幹部候補生 (日本軍) - Wikipedia日本陸軍における幹部候補生(かんぶこうほせい)とは、中等教育以上の学歴がある志願者の中から選抜され、比較的短期間で兵科または各部の予備役将校、あるいは兵科または各部の予備役下士官になるよう教育を受ける者。場合により幹候と略されることもある。日本陸軍では下士官以上が部隊の幹部という位置づけであった。1927年(昭和2年)12月に一年志願兵制度を改めて幹部候補生制度が定められ、1945年(昭和20年)8月の太平洋戦争(大東亜戦争)終結まで存在した。制定当初は主として予備役将校の養成を目的としたが、1933年(昭和8年)5月の制度改正以後は予備役将校となる教育を受ける甲種幹部候補生と、予備役下士官となる教育を受ける乙種幹部候補生に修業期間の途中で区分された。幹部候補生に対する評価幹部候補生出身の予備役将校は軍歴の長い下士官や兵から見て、士官候補生出身の現役将校と比べ教育期間が短く、また入営時には一般兵と同じ立場であったこともあり、概して軽侮されがちな傾向であったという著述が散見される。士官候補生出身の現役将校を「実弾」「実包」あるいは「本ちゃん」と呼び、一方の幹部候補生出身の将校を「空砲」「擬製弾」と呼ぶ例などがある。連隊にはたくさんの将校がいたが、ほとんどが予備士官学校出の将校であった。予備士官学校出というと、いわば半プロで(後略)。さて“実包”の方はこれとは違う。小学校から幼年学校へと学び、それから士官学校と歩み続けて、軍人としてのプロの道を勉強してきた者である。正真正銘、まじりっ気なし、純金の将校である。バリバリの職業軍人なのである。—春風亭柳昇『陸軍落語兵』69頁兵隊達は、本当の士官学校を出て来たいわゆる職業軍人の将校達には頭が上らなかった。彼らを「本ちゃん」と称しておそれていたのだ。しかし、それまで連隊で特別教育を受けて候補生から昇進して予備役の少尉になった我々の先輩の予備役将校達には、「疑製弾」と称して小馬鹿にしていたのだ。—中村八朗『ある陸軍予備士官の手記』上巻16頁また軍服の襟に着用する特別徽章は制度開始以来、士官候補生とその出身の見習士官が星(五芒星)のみであるのに対し、幹部候補生とその出身の見習士官は差別化され円形の台座に星を配置したデザインから、徽章そのもの、あるいは着用した幹部候補生や見習士官を「座金」と揶揄する場合もあった。しかし、この星には、まるい座金がついていて、厳密に区別された。つまり、一般の大学出身の幹部は「ザガネ」と呼ばれ、また「空砲」と呼ばれた。—村上兵衛『桜と剣』224頁1943年(昭和18年)10月、陸軍服制の改正(勅令第774号)により特別徽章が変更され[96][97]、星(五芒星)を桜の枝葉が囲む共通のデザインになったが、徽章の色は士官候補生と出身の見習士官が金色、甲種幹部候補生と出身の見習士官が銀色に差別化された。 幹部候補生やその出身将校に対する評価の原因となったものは、主として本人の資質とは別の制度上の問題である。1944年(昭和19年)、新たに特別甲種幹部候補生の制度が作られた際には「従来ノ幹部候補生ニ在リテハ統率力特ニ指揮権承行ノ厳粛ニ付テ十分ナラザルモノアリ而シテ其ノ原因ノ最大ナルモノハ(中略)一般兵ヨリ選抜スル点ニ在ル」[90]と、従来の幹部候補生に対する「少し前まではただの兵隊」という認識を改革する点も考慮されていたことがうかがえる。├├陸軍士官学校 (日本) - Wikipedia├├陸軍幼年学校 (日本) - Wikipedia将来の陸軍将校となることが事実上約束されており、若くして軍服に身を包み、規律正しい集団教育を受けるエリート集団たる陸幼生徒は当時の小学生・中学1 - 2年生男子の羨望の的であり志望者が多かった。陸幼入校者を選抜する召募試験の倍率は、時代によって変動したが概ね20倍程度を保ち、中学校のトップクラスでも合格は容易でなかった。太平洋戦争(大東亜戦争)中に旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に在学していた渡部昇一は、下記のように回想している。鶴岡中学では、陸幼を志望する1年生・2年生に対して、毎日の始業前に1時間の「特別授業」を実施していた。陸幼は難関であり、渡部が鶴岡中学に在学している間に、鶴岡中学から陸幼に入校した者は1名のみであった。陸軍幼年学校生徒採用試験は合格・入校すると同時に軍籍に入るため「召募試験」と呼ばれ(士官学校の採用試験も同じ)、身体検査と学科試験が実施された。まず身体検査が行われ、身体検査に合格した者のみが、学科試験(国語・作文・地理・歴史・数学・理科)を受験できた。陸幼受験資格は、満13歳以上・満15歳未満(願書を提出する翌年=入校する年の、3月31日における年齢)という年齢制限のみであり、2回まで受験できた。召募試験において求められる学力は中学校1年第2学期修了程度であったが、受験に際して学歴は不問であった。陸幼の召募試験は高倍率であったため陸幼生徒の多くは中学校出身者であったが、少数ながら高等小学校出身者も存在する。特待生となる資格を持つ「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされた。陸幼生徒選抜にあたっては理数系の素養が重視されており、数学が満点で、他が一定基準を満たしていれば優先的に合格とされた。さらに、召募試験合格者は入校予定の各陸幼において精密な身体検査を受け、これに改めて合格した者が晴れて陸幼生徒となった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置も影響し、陸幼入校者のうち30% - 50%程度が武官の子息であった。├├陸軍大学校 - Wikipedia陸大の受験資格者は、陸軍現役兵科将校(憲兵将校を除く)のうち、所属長(連隊長など)の推薦を受けた、陸軍士官学校(陸士)を経て少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉。大尉に進級すると受験資格を失った。4月に初審を受験する段階で、人数が入校予定者の10倍程度に絞られている。初審科目は、戦術甲(戦闘原則)、戦術乙(陣中用務)、戦術丙(図上戦術)、築城、兵器、交通、歴史、数学、語学の9科目。入校予定者の2倍の人数に初審合格が通知されるのが8月である。年末に再審が行われるが、これは人物考査を兼ねている。再審初日に図上戦術の筆記試験が行われ、以降、受験者は一日おきに陸大に出頭し、20日ほどをかけて各科目の口頭試験を受ける。受験者の多くがノイローゼ気味になり、不合格を確信するほどの厳しい試験であったが、50名ほどの陸大専任教官が全力で行う再審は、当時、最も公正な試験であると認められていた。 再審は12月2日から10日間に渡って実施され、受験者は120名であった。1日目から9日目までは、学識を問う通常の口頭試験であり、戦術は5名の陸大教官が、他の課目は2から3名の陸大教官が試験官を務めた。10日目は「人物考査」という課目であり、陸大幹事(校長に次ぐNo2)の少将、先任兵学教官(中佐)の2名が試験官であった。今村に対する試問は、学識を問うものではなく、いわゆる「圧迫面接」のように、答えに窮する問いを意図的にぶつけて反応を試すものであった。12月12日、入校式の直前に、受験者全員120名が陸大の大講堂に集められて、うち60名が合格と告げられ、今村は合格した。├├海軍兵学校 (日本) - Wikipedia受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者。身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験。面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させた。├├海軍大学校 - Wikipedia海軍の兵科高級幹部を養成する「甲種学生」の課程は海軍兵学校の卒業生が海軍士官(兵科将校)に任官後、10年程度の実務経験を経た中から選抜された。受験資格は兵学校での教育を受けた中堅将校である大尉・少佐であることが基本であった。入校者は海軍兵学校の卒業席次が高いものが多かったが、席次が低くても本人の努力次第で入校することができた。 募集人員は10〜20名前後で、満州事変が始まると30名にまで増やされた。その後、支那事変が始まると学生を採用しない年度も出てくるようになる。海軍の人事においては海軍兵学校の卒業席次(ハンモックナンバー)が重視されており、大学校を卒業せず、艦隊勤務など実施部隊を多く経験した叩き上げの士官で高位昇官を果たした例も少なくない。├├能登大地震-その6-小さな記録 能登半島 港湾部の隆起現象(1)(計量計測データバンク)陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、旧字体:陸軍士官學校)は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。通称・略称として陸士と呼ばれる事例もある。 陸軍幼年学校(陸幼)は幾度の変容があるが、陸士が予科・本科制度となった1920年代以降は将校候補者すなわち将来は陸士の予科に入校し生徒となる者を、若年時から「純粋培養」する旧制中学校相当の養成機関である。陸幼生徒は陸士の予科生徒と合わせて「将校生徒」と呼称された。陸士の予科の生徒は大別してこの陸幼出身者と一般の中学出身者からなる。 陸軍大学校(陸大)は主に参謀を養成する高等教育機関であり、選抜された陸士卒(己種・丁種学生を含む)の中尉・少尉が入校する。 1938年(昭和13年)以降、甲種幹部候補生出身者を生徒とし、予備役兵科将校を養成する教育機関として陸軍予備士官学校(予備士)が複数校設置されている。「予備役」兵科将校を養成する陸軍予備士官学校は、「現役」兵科将校を養成する陸軍士官学校(および士官候補生を養成する陸軍予科士官学校)とは全く異なる別種の士官学校である。 学校住所は、長らくは本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していたが、1937年に本科(陸士)は神奈川県座間へ(航士は埼玉県入間に設置)、予科(予士)は1941年(昭和16年)に埼玉県朝霞へそれぞれ移転している。陸士自体の通称でもあった「市ヶ谷台」の名に倣い、座間移転後の陸士には「相武台」、入間に新設の航士には「修武台」 朝霞移転後の予士には「振武台」の名が、それぞれ当時の大元帥たる昭和天皇から与えられている。陸士の生徒・学生を指して「台上の人」という呼称はこれに由来する。この慣習は陸士以外の将校および将校候補者の養成学校にも取り入れられ、陸軍経理学校の「若松台」、東京陸軍幼年学校の「健武台」、仙台陸軍幼年学校「三神峯台」、名古屋陸軍幼年学校の「観武台」、大阪陸軍幼年学校の「千代田台」、広島陸軍幼年学校の「鯉城台」、熊本陸軍幼年学校の「清水台」、および満洲帝国陸軍軍官学校の「同徳台」がある。予科 「陸軍士官学校」は文字通り現役兵科将校を養成する軍学校であるが、専門の軍事教育(「軍事学」)は主に本科(陸士)にて行われる。そのため、予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。1932年当時の予科の教育課程表は以下となっている。修身、国語および漢文、外国語(英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史、数学(三角法・幾何および微積分・代数)、物理、化学、地理、心理および論理、法制および経済、図画。教育時間数では、外国語が計402コマ、数学が計318コマ、国語および漢文が計269コマ、物理が167コマ、化学が100コマなどとなっている。これらは予科の「教授部」の主に文官教官(陸軍教授)によって教育される。軍人としての教育は「訓育部」の主に武官教官によって教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・柔道・馬術、訓話、学科、内務指導および検査の課程があった。これらのほか、各見学や野営演習、遊泳演習も実施された。予科は自衛隊における防衛大学校に相当・類似する。本科 対して、軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。重点が置かれている外国語は予科教育(普通文書を読解および日常会話・作文可能な程度)に連繋し、本科では主として軍事に関する読書力増進に力むものとされている。これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施された。本科は自衛隊における陸上自衛隊幹部候補生学校に相当・類似する。受験 陸士が予科・本科制度となった1920年の『陸軍士官学校令』では、「四 予科生徒ハ、陸軍幼年学校ヲ卒業シタル者、又ハ陸軍将校タルコトヲ志願シ、召募試験ニ合格シタル者ヲ以テ之ニ充ツ」と定められている。「召募試験ニ合格シタル者」とは概ね旧制中学4年修業「程度」の「学力」を「持つ」者を想定しており、修業・卒業といった学歴は必須ではない。陸幼卒業者は無試験で陸士予科へ入校できる。概ね陸士予科(予士)入校時の年齢は最若年者で16歳からとなる。さらに、徴集によって帝国陸軍に在営中の現役下士官および兵であっても、陸軍将校たることを志願し陸士予科(予士)の召募試験に挑み生徒となることは可能である(このいわゆる「部内受験」は少尉候補者(己種学生)とは全く異なる)。著名者としては二等兵として入営ののち、仙台陸軍教導学校を経た軍曹時代に陸士を受験・合格、24歳で予科へ入校(将校生徒)、かつ本科(士官候補生)の歩兵科を首席で卒業した第52期生若林東一大尉が居る。陸士の位置付けは旧制高等学校、大学予科、旧制専門学校などに相当する。 他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳あまりで高等官(予科入校後は本科に進み卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官すると高等官八等)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた。第一高等学校・第三高等学校・陸軍士官学校・海軍兵学校の難関4校は「一高三高陸士海兵」と並び称された。また、資金難など生活面から旧制高校や大学予科などの上級学校に進学できない、ないし旧制中学を途中退学せねばならない家庭の子にとって、授業料なく無償で高等教育(第二次世界大戦後は旧陸士卒業生の進学等では、短期大学相当の教育程度と認定されている)を受けられる陸士は憧れの的であった。なお、国民生活が比較的豊かになった1930年代末頃においても、旧制中学進学率は全体の8%程度であり(旧制中学校進学率)、大半の国民は高等小学校・青年学校で終了し旧制中学を含む旧制中等学校へは進学出来なかった。大日本帝国においては旧制中学時点で既に一握りの恵まれた存在であり、旧制高校は純然たるエリート、旧制大学に至っては雲上の存在である。陸士(および海兵)は将校たる軍人を養成する教育機関であることから、実質学力のみが重視される旧制高校と異なり、相応の身体能力や精神力が求められ、学力試験と共に厳格な身体検査や身辺調査をもパスする必要があるため相応ないしそれ以上の難度があった。一方で、支那事変(日中戦争)以降は陸士・海兵共に採用人数を増員しているため、相対的に入校難度は低下している。 なお、陸士および海兵を指してその入校難度が短絡的に「現在の東京大学並」とされることがあるが、これは当時と戦後とでは学制が大きく異なるため不適当である。あくまで陸士・海兵は当時の学制では旧制高校相当であり、旧制大学たる東京帝国大学とは明確に位置付けは異なる。陸士・海兵と並び称されていた第一高等学校(一高)が、第二次大戦後の学制改革によって「東京大学の教養学部前期課程(2年間)」の母体となっているだけである。他の旧制高等学校も多くは新制大学の教養部の母体となっている。次の資料によると、明治時代はそれほど難易度は高くなかったようである。「陸軍士官学校へは、如何なる成蹟の卒業生が行くか」と中学校長に聞くと、皆口を揃へて曰ふに、「成蹟の優等のものは大概高等学校へ行くので、四方の入学試験に落第した者か、さなくば、第二流以下のものが、士官学校へ行く、最も中には、殊に軍人を好むものもあれど、それは大概海軍兵学校の方を喜ぶ、陸軍を非常に好む生徒と、海軍兵学校へは入学し得ない者で、学資の少くない者とが、陸軍士官学校に行くと答へる、これが事実とすれば、聊か心細そい次第だ。— 「二二、動物主義と形式主義」、青木龍陵『兵営生活』金港堂、1903年(明治36年)。├├第37話:USA第51州の実態【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)平成15年5月16日改定 鳥越恵治郎(H26年4月17日一部改定)昭和43年私が井原高校を卒業する時、既に幻想でしかなかったかもしれないが、日本には形を成した家庭があり学校があった。ヒューマニズムもフェミニズムも適度だった。いじめはあったがかわいいものだった。みんなに機会平等を保障してくれた寛容で優しい社会があり国家があった。世界に誇る工業技術があった。貧しくて不自由ではあったが実在し躍動する生命感も夢も希望もふんだんにあった。 行政官はnoblesse oblige(高い身分に伴う道徳上の義務)を気高くもっており清廉だった。検察は汚職に薄汚れた政治家の圧力に屈することなく容赦なく巨悪に迫った。2003年(平成15年)に井原高校は創立100周年を迎えるという。私はこの拙稿で、ある一面的な見方でしかないだろうが、限られた文字数の中に現在の日本の有様について、できるだけ多くのことを簡潔に詰め込んで記述してみたかった。そのことは同時に私にとっての35年のへだたりを「現実・夢・希望」をキーワードに書くことにもなった。書き終えて私の心は憂うつになってしまった。私はこの心のくもりが晴れ上がる日を身をこがすような想いで心待ちにしている。井原高校の卒業生の皆様に、そしてこれから卒業しようとする若ものたちに、新しい日本の礎となって欲しいと切実に願っている。鳥越医院院長鳥越恵治郎(とりごえけいじろう)先生昭和51年岡山大学医学部卒業、岡山大学附属病院麻酔科研修医、愛媛大学医学部付属病院麻酔科助手、クワヤ病院(高松市)、藤原病院(南国市)、共立病院(西条市)勤務を経て、昭和59年鳥越医院開業、元井原市医師会長。昭和57年よりAI診断、病名思い出しツールを開発 現在に至る。鳥越恵治郎、他:内科領域におけるコンピュータ診断の試み.日本医事新報 No.3131:29-31.1984.├├何故海軍兵学校・陸軍士官学校は東大を凌ぐ程難関だったのですか?... - Yahoo!知恵袋東大に並ぶ頭の良さが必要と言うよりも、結果としてそういう人が集まった。終戦後、卒業前の生徒たちの半数が東大や京大に試験を受けて入り直したことからも秀才ぶりが伺われる。├├【第1章】陸軍将校を育てる陸軍の中学校 陸軍幼年学校 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である。東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった。昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか。「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。├├【第1章】昭和20年8月29日、私たち61期生を最後に陸軍予科士官学校は解散となり生徒全員は復員 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY 陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である。 昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。 東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった。昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。「親子焼夷弾」が陸幼めがけて3万発落とされ、低空飛行による攻撃といい、まさに幼年学校は狙い撃ちされた。この空襲によって、校舎は全焼し、残念なことに10名の生徒と下士官が死亡した。だが、当時の全校生徒が880名だった。焼けた陸幼を見舞いに行ったときに聞いた話では、この空襲の際に、I少佐という週番士官が中心となって、咄嗟の判断で生徒全員を避難誘導したという。通常なら「火を消せ」と生徒を動員するところを、「消すな、逃げろ!」と生徒たちを逃したのだ。なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか。「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。 昭和12(1937)年以降の幼年学校卒業生は、陸軍予科士官学校に無試験で進学できた。当初は中国戦線が拡大傾向にあり、さらに太平洋戦争が始まって2年ほど経つと戦局はますます厳しくなって、兵隊はもちろん将校の総数も不足してきたからだ(いわゆる学徒出陣は昭和18年10月に始まっている)。通常、陸軍士官学校本科を陸軍士官学校(市ヶ谷から神奈川県座間町に移転。通称は相武台)とだけ呼び、予科を陸軍予科士官学校と呼ぶようになったのは、このときからである。私は61期生としてここに入学することになる。朝霞の予科士官学校には何故かB29は焼夷弾を落とさなかった。一度だけ割りに低空を飛んできたB29がトントントンと爆弾を落としたことがあり、防空壕で生き埋めになった犠牲者が出たが、大方は朝霞の上空でUターンして帰って行った。これは後で知ったことだが、彼らは朝霞の予科士官学校を残し、それを占領後の駐留地として利用するという計画を立てていたようだ。その後、実際に朝霞はアメリカ軍のベースキャンプとして活用され、さらに自衛隊の朝霞駐屯地として生まれ変わっている。 幼年学校は陸軍の幹部将校を早期から純粋培養する学校である。中学のように一般教科も教えるが、さまざまな軍事敎育・教練に重点が置かれる(見方を変えれば、ある種の“洗脳教育”とも言える)。中学卒業者に比べて、3年も早く軍隊の教練や知識を積んできているのだから、予科士官学校の敎育現場で優位に立つことも少なからずある幼年学校卒業組の中には、3年の違いを嵩に来て中学卒業組を見下したりする者が出てくる。教科においては優秀な生徒も多い中学組は、当然のことながら、幼年学校組に対して反発する。実は、士官学校では、予科でも本科でも、そんなことが原因で幼年学校組と中学組が対立することがあった。そういう事態を見越してのことだろうか、東京幼年学校の湯野川校長は東幼在学中に私たちに向けて厳しく言明されていたことがあった。それは次のような教えだ。「お前たちは、予科に上がっても、幼年学校出身であることを決して鼻にかけてはならない。中学出身者に対して絶対に威張ったりせず、何ごとも親切に教えてやれ。いいな!」。 予科士官学校では、入学後の早い段階で自分の志望兵科を決める。その兵科における将来の陸軍将校としての自己イメージをしっかりとつくり、目的意識を持って勉学に励むためである。陸軍でエリートコースを行く者は、東京幼年学校から士官学校へ行き、兵科は砲兵か騎兵(何と言ってもかっこ良かった)を選択することが多かった。そして少尉に任官後陸大に進み、陸大を卒業して参謀となる。しかし緊迫した戦況の下では、こんなエリートコースのことなど考えることすらできなかった。もちろん私は航空兵科を選んだ。その志は、幼年学校を志望した時からのものだ。それどころか、航空志望の思いはいよいよ強くなっていた。戦局の厳しさへの認識が、私の背中を押していたと言っていい。入校後3か月ぐらい経ったところで(7月)、航空適性検査があり、私は「甲種」合格となった。そして希望通り航空兵科(戦闘機乗りだ!)に選ばれた。この時はさすがに誇らしげな気分になったものだ。もちろんそれは、特攻隊への道をひた走りに走るということを意味していた。 相次ぐ編成替えや空襲警報に翻弄され、実際の予科士官学校での生活も5か月ほどしかなかったこともあって、士官学校時代で勉強や訓練に進んで勤しんだという具体的な記憶はあまり残っていない。昭和20年8月14日。その夜、消灯後に東幼出身のY君が私のところに忍び込んできて、興奮気味に話し始めた。「明日、日本は降伏する。われわれ士官学校生徒は、捕まれば銃殺刑になる。どうせ死ぬなら一人でも多くのアメリカ人を殺して死のうじゃないか?」私は直ちに同意。兵器庫に忍び込み、拳銃と弾丸200発を盗み出し、貯金通帳と両親の写真を胸に、深夜学校を脱柵したのだった。夜道を延々と歩き、未明に飯能あたりの農家を訪ねて朝食をご馳走になった。農家は総じて早起きであり、士官学校の生徒となると歓迎された時代だ。敗戦を知らない農家の方々からは、親切なもてなしてと「ご苦労さまです。武運長久を!」という激励の言葉をいただいた。ところが、農家を出発しようとしたそのとき、自分が飯盒を忘れてきたのに気がつき、私一人が学校へ引き返すことにした。「飯盒を忘れたぐらいで」と思うだろうが、本土決戦が持久戦になることも考えのうちだったので、飯盒は武器に次いで大事な装備の一つなのだ。士官学校に到着し、塀をよじ登って校内に飛び降りたときのことだ。背後からの突き刺すような声で、「誰か!」という誰何すいかを受けた。何と、士官学校生徒が50メートル間隔で歩哨に立ち、不法侵入者を見張っていたのである。「われわれは実弾を込めているぞ!」という叫び声を聞き、私は経験したことのない切迫感を覚え、反抗の術もなく逮捕されてしまった。そして、何としたことだろう、重営倉1日の刑を受けてしまったのだ。クーデター計画は未遂に終わったが、当時、陸軍内は血気盛んな本土決戦派が多かった。このことを知っていた阿南惟幾これちか(かつての東京幼年学校校長である)陸軍大臣は、本心では一日も早い和平を望みながらも、混乱を避けるため最後までボツダム宣言受諾に踏み切れなかった(最終的に閣議でポスダム宣言受諾に賛成の後、宮城事件の最中に陸相官邸で自刃)。反乱将校の一部は宮城にも侵入したが、首都の鎮圧に当たった田中静壱東部方面軍管区司令官(大将)に説得され、原隊に復帰した者もいるが、中心的役割を演じた将校たちは宮城前で自決した。昭和20年8月29日、陸軍予科士官学校は解散となり、私たち生徒全員は復員することになった。4月の入学以来ほんの5か月の間だったが、帝国日本が沈んでいくその様を、まがりなりにも陸軍内部の空気から感じることができた。しかしこの敗戦直後、自分たちがめざした陸軍が解体され、士官学校が解散になった瞬間、学友たちの多くは、生きる目標を失って茫然自失した者が多かった。私も、そのうちの一人にすぎなかった。私たち幼年学校46期生は予科士官学校では最後の61期である。もちろん実弾の下を潜ったことはない。しかし、森本秀郎さん(幼年学校の4年先輩の42期生)のレイテ沖海戦での戦死(特攻隊第1号であることは前に述べた)のように、実際に私たちが身近に接した先輩には、戦争末期の過酷な戦闘の中で命を落としていった人が実に多い。ちなみに、航空士官学校に行った森本さんの同期では、ほぼ半数が戦死している。昭和20年3月26日に始まった沖縄戦において、Yさんは特別攻撃隊の戦闘機編隊を先導する新司偵に乗っていた。沖縄の近海、敵艦隊に接近したところで特攻編隊から離れ、上空から戦闘状況を見きわめるということが、このときの偵察機の任務だった。特攻機が敵艦に何機当たったか、当たった特攻機が撃沈した敵艦は何隻か、撃沈しないまでも与えた損害はどれくらいか等々、その実際の戦況をつぶさに記録し、帰還後に報告するのが仕事だ。つまりYさんは、よく見知った部下や仲間が敵の戦艦や空母に体当たりする苛烈な光景の一部始終を、上空を旋回しながらずっと見ていなければならなかった。そこには、敵艦に“見事”体当たりを果たせる特攻機もあれば、敵艦をめがけるその途上であえなく艦上射撃に撃ち抜かれ、爆発して空中大破する機もある。キリモミしながら海面に激突する者、敵艦まであと一歩のところまで接近しながら海中に消えていってしまう者…。「あの機はあいつだ!」、「あいつが体当りしたぞ!」「だめだ、やられる!」…。自分は戦闘に加わるのではなく、多くの、そしてさまざまな死の形をただただ見ていなくてはならなかったのだ。Yさんは、サイパン空襲のときも(サイパンからの空襲を知っている人は多いが、サイパンを空襲したことを知っている人は少ない)沖縄戦とほぼ同様の任務に就いている。本土から飛び立った新司偵は、そのときは爆撃機の編隊を先導していた。給油のために一旦硫黄島に立ち寄り、そこからサイパンに向けて飛行を続ける。爆撃機編隊の任務は、サイパン島に上陸したアメリカ軍への空襲である。そしてYさんは、各爆撃機が敵にどのような損害を与え、その損傷はどの程度かを見きわめるために、上空からすべての戦闘を冷静に観察していなければならないのだ。冷静と言っても限度がある。冷静さをずっと維持したままで、つい昨日まで苦楽をともにしてきた部下や仲間の機が撃ち落とされる様を、ずっと記録し続けることなどできるものではない。任務遂行中も心は大いに揺さぶられ、帰還の最中にも、減ってしまった編隊機の誘導を陰鬱な気持ちで続けなければならなかった。幼年学校の大先輩では、もう一人、東幼6期生(陸士21期生)の飯村穰ゆずる中将のことを思い出す。彼は昭和16年1月に参謀本部総力戦研究所の所長に就任し、その8月、日米が戦った場合の綿密なシミュレーション(いわゆる「総力戦机上演習」)の作成を指揮した人物である。このシミュレーションの最終結論は次のようなものだった。「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」要するに、「日本必敗」の結論が導き出されたのだ。ところが、当時の東条英機陸軍大臣(第3次近衛内閣)は、これを「机上の空論」として一蹴したのである。├├【第1章】旧制三高編入試験をロシア語の単語を間違えて失敗 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY 高等学校の編入試験を受けてみろと第三高等学校の編入試験を受けた。昭和20年の11月。試験と言っても、学科試験は口頭試問だけだった。 17歳の私は、茫然自失として朝霞の陸軍予科士官学校を後にするしかなかった。 故郷に舞い戻ると母は言った「番茶も出花だよ、これから、これから!」父が笑いながら言った。「弾丸は確かに外れたな。良かった、良かった」 幼年学校入学以前に鑑定してもらった名古屋の易者先生の言葉通り、弾丸の“たの字”にかすりもしなかったわが生還に歓喜してくれているのだ。├├【第1章】めでたく東京大学文科Ⅰ類に合格 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY├├【第1章】そうだ、もう一度、学校へ行き直そう 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY├├【第1章】専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学昭和 22(1947)年の秋、12科目の検定試験を一つも落とすことなく、専門学校受験検定(専検)の試験にめでたく合格した。どこの高校を受けようかという段階になって、はたと考えてしまった。三高と八高は以前すでに落とされているし、二度目の受験となると記録が残されているわけだから、例の「軍学徒の一割制限」のチェックに引っかかる可能性もある。専検の合格資格を全面に出しての受験とは言え、このカモフラージュが見破られないとは限らないのだ。と言って、一高は受験レベルが高くて当時の私にはむずかしい。あまり遠い地方に行くのもいやだし、などと考えた挙句、実家と東京とのちょうど中ほどに静岡高校があることに気づいた。下見に行ってみると、静岡の街は空襲でほとんどで焼け野原だったが、賤機山の麓にある静高の校舎は戦災を逃れて厳然と建っていて、私はすぐに惚れ込んでしまった。受験の難易度や勉学環境の問題からだけでなく、当時の東京帝大への進学率が、官立の旧制高等学校の中では一高と浦和高校に次いで3番目であることも、将来のことを展望すると一つの判断材料となっていたかもしれない。入学試験を受けてみると、これが専検に比べてむずかしいとは感じなかった。試験が終了した瞬間に、「これは受かったな」と確信したほどだ。もちろん結果は合格だった。昭和23年の4月、旧制静岡高等学校(以下、静高)に入学。自分の前途は洋々たるものという気分で、門を潜った。ところが、である。待望の高校生活を満喫しようとした矢先、愕然とするような事実が私を待ち受けていた。教員の中に幼年学校で数学を教わったK先生がいたのだ。例の「軍学徒一割制限」というマッカーサー指令は、当時、絶対的なものだったから、もし軍学徒だった自分の素性がバレたら退学になる。そうなれば、戦後に味わった全ての苦労は水泡に帰してしまうではないか。わたしは強く危惧した。授業中は絶対にK先生の顔を見ないように視線を外し、極度に緊張しながら授業を受けていたが、そのせいで、得意であるはずの数学にはあまり身が入らなかった。そこで2学期の試験のとき、とうとう堪えきれなくなって、答案用紙の末尾に「お懐かしゅうございます」と書いてみた。私としては、本心からの表敬のつもりだった。するとどうだろう。なんと先生は100点をつけて下さったのだ。K先生はとっくに私の存在をわかっていてくれたに違いない。武士の情けと言うべきだろうか、それとも理不尽なマッカーサー指令を快く思っていなかったのだろうか。遂にその真意を聞く機会を逸したが、まさに感謝あるのみだった。以来、数学の授業にはことのほか身が入った。静高時代、私は「不二寮」という自治寮に入り、これまでに経験したことのない自由を味わった。旧制高校の寮は、軍の学校とは格段に違って自主性を重んじ、優秀な友人から実に新鮮な刺激を受けつつお互いに成長していく、きわめて理想的な教育環境だった。そこで生涯にわたる友人を何人も得ることになるのだ。原田君はその最初の一人だった。とりわけ寮生活で親交を温めたのは、佐治俊彦君(のち毎日新聞社常務取締役)、芝康平君(のち東京機械製作所社長)、若林孝雄君(医師)、渡辺文雄君(のち俳優)といった面々だ。これに、若杉和夫君(のち通産省審議官)、田口英爾君(のち青東社社長)が加わって、私の高等学校以後の厚い交友の物語が成り立つ。旧制高等学校の自治寮で寝食をともにする意義はすこぶる大きかった。昭和23年当時、まだ敗戦直後の高等学校の寮の建屋などはおそろしくオンボロ。戸や窓はガタガタで、すきま風が吹き込む実にお粗末なものだった。しかし、そこは何の気取りもない、文字通りの“裸の付き合い”から真の友人関係が培われる世界だ。しかも日本中が食糧難の時代である。家を離れて生活する高校生にとって、寮で与えられる食事は見事なくらいお粗末で、量もきわめて少なかった。まともな白飯は夢のまた夢。丼に直経2センチほどのジャガイモが20個ほどしかないという夕食もあった。しかし、本来は食べ盛りの男子ばかりである。これでは持たないと思い、私は田舎へ帰って米や野菜などを担げるだけ担いで運んだ。それは、誰もが認知する、食料生産地出身者の重要な役割だった。実家から持ち帰る大量の食糧とともに静岡駅に到着すると、飢えた学友たちは歓喜して迎えに来てくれた。もちろん真に歓迎されているのは、私の存在以上に、米であり、野菜であることは明らかだった。空きっ腹が人間関係を大いに近づけたのである。カレーの臭いが漂い始めると必ずどこからともなく渡辺文雄が私たちの部屋に入ってきて、ものも言わずに文字通り黙々と食べ続ける。彼は常に胸のポケットにフォークを忍ばせているので、とにかく素早かった。遠い実家から苦労して運んできた食材である。私が「もう少しゆっくり味わってくれよ」と言うと、「ボリューム、ボリューム」と言い返しては早食いするので、それ以来、彼の渾名は“ボリューム”となった。味は二の次で、腹をいっぱいに満たすだけのボリュームを確保することが、何より先決の時代だったのだ(この渡辺文雄は、その後、「くいしん坊!万才」というTV番組に登場するのだから、人生は面白いものだ)。佐治や原田のような中学4年修了で高等学校に入学してきた優秀な生徒は、中学時代に積み重ねてきた圧倒的な読書量によって、議論を投げかけてくる先輩を見事に論破してしまうこともある。軍学校時代にそんなに本を読んでこなかった私などは、気持ちの上では佐治たちを応援しつつ、その論戦を固唾を飲んで見守るしかなかった。それ以来、「なるほど、要は読書か」と思った私は、理論武装のために哲学研究部というサークルの門を叩き(単純な発想だったが)、カント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバー、三木清等々と読み進めた。とは言え、三木清のような日本の哲学は比較的スムーズに頭に染み込んでくるが、難解な翻訳文の西洋哲学には歯がたたないものも多かった。しかし面白いもので、理解に難渋する数行を何度も何度も読み返したり、先輩や友人と「ああだこうだ」と会話したりしているうちに、ある瞬間にピカッと閃き、その文章の意味がストンと腑に落ちてくることがある。一度この快感を味わうとその先をもっと読みたくなり、理解が進むとほかの誰かと議論がしたくなって、夜の寮生の集いが待ち遠しくなるのだった。夜の寮生の議論大会に、同級生だけでなく、先輩たちがなだれ込んでくることもあった。その大半が共産党のオルグで、パルタイ(党)への勧誘がその主流を占めていた。彼らの説得論理はこうだ。「同じ年頃の青年たちは、みんな工場で油まみれで働いているのに、こんなところでのうのうと勉強なんかしていていいいのか?」「共産党に入れば、そういう貧しい人たちを救えるんだよ。入党しないか?」のうのうと勉強しているのはその先輩たちも同じではないかと思ったが、彼らの言い分にはうなづけるところもあった。戦後の混乱期の中で、貧しさのために働き詰めに働かざるをえない同世代の若者のことを、気にしていないと言えばウソになる。それを考えれば、自分たちはもっとしっかり勉強して、彼らを貧困から救い出す方法を考え出すべきではないか。いま思えば傲慢な考え方ではあるが、まだ稚拙な社会通念しか持ち合わせていないせいもあって、次第に先輩たちの言うことが正しいかもしれないと洗脳されかけた瞬間もあった。しかし先輩たちがあまりにしつこく「入党しろ、入党しろ」とオルグするので、最後には辟易して口を利く気にもならなくなってしまった。彼らの説得工作がもう少しうまかったら、その後の私もどうなっていたかわからない。実際、彼らの考え方に共鳴して入党し、その後、党幹部から政治家になった寮生もいたからだ。親友たちの後押しで無事及第点 新制東大第1期生となる昭和22(1947)年3月に制定された学校教育法によって、新制のいわゆる「6・3・3・4制」の導入は始まっていたが(学制改革)、新たな学制に完全に切り替わる昭和28(1953)年3月までは学年によって旧制と新制が入り混じることになる。その混乱を防ぐため、学年の段階に応じてさまざまな経過措置が取られた。この経過措置の中で、24年3月時点での1学年修了者に限って新制大学の入学試験の受験資格が与えられることになったのだ。ということは、もし私がこの年に単位不足で1学年を落第してしまうと、その時点で大学受験資格も失ってしまうことになる。しかも、次年度には旧制高校が廃止になるので、ここで落第すると新制高校生として1学年からやり直さなければならないのだ。私の単位不足の可能性を聞きつけた親友たちは、実に親身になって心配してくれた。そして、こぞって担任に願い出てくれたのだ。彼らはビッテン(bitten)と称し、噛みつくような勢いで先生に掛け合ってくれた(bitten とはドイツ語で“頼む”、“求める”、“問う”などを表す動詞)。「伊室の2学期の成績の6割を3学期の成績として与えてやって下さい。彼の実力が落第するほど下がっているとは思えません! お願いします!」私は涙がでるほどうれしかった。この親友たちのお蔭で、私はクラスのお尻から2番目の成績をもらうことができた。ぎりぎりの点数で何とか1学年の修了が叶ったのである。人によって多少の差はあるだろうが、旧制高等学校が持っていた特有の「自由・自治」の空気を謳歌してきた者は、在学中の体験を “良き思い出”として持っていることが多いと思う。もちろん、私もその一人だ。少なくとも敗戦後から新制に変わるまでの間、旧制高等学校における独立自治の気風はその後に類を見ない稀有のものだった。GHQもこの旧制高校の長所を学制改革によって新制高校に引き継がせようとしたようだが、一度壊したものは学制改革によっても再生することはなかった。 私は、この旧制高校の奔放な空気の中でこそ、敗戦直後の重苦しかった精神状態から一気に解放され、生涯にわたる多くの親しい友人たちを得ることができた。そして、戦前の陸軍幼年学校や予科士官学校で培われた精神力や体力とは別の意味で、自分の中の人間性を豊かにしていくための感覚を体得したように思える。ほんの1年間にすぎないが、私のその後の生涯にとってかけがえのない珠玉の1年間だと言っていい。その大切な1年間を親友たちの後押しで修了することができた私が、次に踏むべきステップは大学入試である。大学もこの年から旧制と新制が同居することになるのだが、私たちの学年が入ろうとするのは、もちろん文字通りの新制の方だ。ただ、多くの友人が新制東京大学の第1期生の入学試験を受ける流れができていたので、私もそれに乗って受験した。結果は合格だったが(ちなみに文科Ⅰ類、法学部コースだ)、きっと高校時代の内申書はあまり問題にはされなかったのだろうと、私は密かに思っていた。ところが私の友人の一人に珍事が起きた。ここでの主人公は、私が寮で作ったカレーを「ボリューム、ボリューム」と言っては早食いを決め込んでいた渡辺文雄である。合格発表の日、私は渡辺と一緒に連れ立って大学まで見に行った。すると掲示板には、私の名前も渡辺の名前もちゃんと書かれている。「やったな!」と二人は笑みを浮かべて握手をし、合格の書類をもらって校門を出た。そしてそのまま、道玄坂まで足を伸ばし、祝杯を上げたのである。ところが翌日、その渡辺が浮かぬ声で電話をしてきた。「おい、俺、実は落っこってたんだ。間違いだったんだよ」と言うのである。聞けば、同姓同名、漢字表記も同じ、もう一人の渡辺文雄が合格で、ボリュームこと渡辺文雄は残念ながら不合格だったというのだ。誰もが落ちるはずはないと思っていたのだから、渡辺の意気消沈ぶりは尋常ではなかった。このとき、「そうか、せっかく道玄坂でお祝いしたのに…、残念だったな」とは言ってみたが、それ以上の慰めの言葉が出なかった。もう一人の渡辺文雄”(合格した方の渡辺)と入学後の大学構内でばったり遭遇したのだ。同年入学で同級生になったのだから、いつかは出食わすだろうとは思っていたが、対面した瞬間にはその男が“件の渡辺”であることなど知るはずもない。すると向こうから「伊室さん、お久しぶりです」と声をかけてきたのだ。見覚えはあるが、名前が思い出せない。「渡辺ですよ、東京幼年学校で1年後輩だった、渡辺です」「おー、そいつは奇遇だ」と声を発したところで、「まさか」と思い聞いてみた。「で、渡辺君…、君…、下の名前は何て言ったかな?」「いやだなー、お忘れですか、渡辺文雄ですよー」私は驚いて声を上げた。 彼によれば、合格発表で自分の名前を見つけて意気揚々と大学の事務所まで足を運んだはいいが、既に渡辺文雄という人物が合格通知と書類を持って行ったと告げられたという。「あなたが合格した渡辺文雄さんということなら、何か証明するものがなければねぇ」と、合格した本人なのに冷たくあしらわれたのだ。「そのときは身分証明になるのは持っていかなかったし、その後の手続にえらい苦労させられましたよ」 この合格した方の渡辺文雄は、卒業後は農林省に入り、水産庁長官などを歴任してから、農林水産次官を経て、栃木県知事(確か4期務めた)になった男だ。彼にしてみれば、確かに気の毒といえば、気の毒な話だったと言える。 東大第1回生の入試には失敗した方の渡辺文雄は、翌昭和25年、今度は文科Ⅱ類(経済学部コース)を受けで見事合格している。そして、彼とはその後も親しい付き合いが続いた。├├【第1章】安田火災での面接試験 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY安田火災の入社試験は合格私という人間を率直に伝えるということが一番大事だと思い、とっさに語気強く答えた。「私は、暴力で会社をこわすようなことはしません。人の意思に反して無理矢理に大衆動員をかけるような今日の左翼のやり方にも反対です」実はこのとき思い出していたのは、旧制静高で共産党シンパの先輩からかなりしつこく入党を勧められた光景だった。あの夜の学生寮での先輩のしつこさは、私の身体に反発心を覚えさせるほどのものだったので、そのトラウマによる左翼イメージ対する強い反応のようなものが、この社長面接で期せずして吐出されてしまったのだ。私のあまりにはっきりした物言いに、社長は目を丸くしていたが、隣に控えていた人事課長は、何やら不思議な笑みを浮かべていた。結論から言ってしまうと、この安田火災の入社試験は合格となった。決して思想的に問題のないことが証明できたわけでもないのに、である。何が合格の決め手になったのか、入社後も確かめることはしなかった。
2025年01月05日
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将校の子弟が同じ道を進んだ検証とその記録庭に来たカケスとその鋭い眼├計量計測データバンク ニュースの窓-144-将校の子弟が同じ道を進んだ検証とその記録 士族の子が陸士、海兵の士官学校を経て軍人を職業とし、その職業に子弟が就く状態が明治中期以降に定着して社会構造を形成する。軍人になるための中学校ともいうべき陸軍幼年学校は13歳で入校できた。旧制中学校の1年あるいは2年で試験を受けた。高等小学校から受験する者もいた。陸軍幼年学校入校者のうち30%から50%程度が武官の子息であった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置があった。「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされる優遇措置があった。 陸士、海兵の士官学校を経て将校となった軍人の子弟が同じ道を進む状態を満州国と一体であった関東軍の高級将校の経歴が物語る。 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。 将校の子弟が同じ道を進んだ記録が物語るのは将校としての軍人が家業となり、国家における軍組織は家業の継続にとって不可欠であった。負けたら終わりの家業の継続であるから国家を巻き込んでの一億層玉砕の発想が生まれた。 国家総力戦としての近代戦争において日米の経済格差、その戦力の格差が明瞭であったのに本土を焦土とされるまで降伏できなかった日本国と日本軍である。 戦争機運を煽り、戦争に勝てそうな気分にさせるために学校教育の場面にも軍国主義が横溢し、ニュース映画が虚構を描き、この世相に子どもは完全に飲み込まれた。狂気に覆われた常識が働かない世界に日本は覆われていた。├├東條英機 - Wikipedia東條英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日-1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後A級戦犯として死刑となった。陸軍次官、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)を歴任した。岩手県(盛岡市)出身。父は東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。├├東條英教 - Wikipedia東條英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日)-大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。第40代内閣総理大臣・東條英機は息子。1855年12月16日(安政2年11月8日)に陸奥国盛岡藩士・東條英俊の嫡男として武蔵国豊多摩郡大久保村に誕生する。1873年(明治6年)4月、陸軍教導団歩兵科。1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、同年4月に陸軍歩兵少尉試補[1]。1878年(明治11年)9月、陸軍歩兵少尉に任官。1885年(明治18年)12月、陸軍大学校(陸大)を首席で卒業し(1期、卒業生は10人)、恩賜の望遠鏡を拝受。 1891年(明治24年)9月16日、 任 陸軍歩兵少佐、補 陸軍大学校兵学教官。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)3月まで、現役の陸軍歩兵少佐のまま、日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)長を務めた。佐官時代には、参謀本部第1局局員、陸大教官、参謀本部第4部長(戦史編纂)などを歴任。東條家は、能楽師として盛岡藩(南部氏)に仕えた家系で、禄高は160石であった[1]。 英教は陸大1期を首席卒業したが、中将止まりであった。その理由として盛岡藩が戊辰戦争で明治政府と戦ったためや、当時は薩長派閥が幅を利かせていたためなどが言われている。 陸大1期の同期生で旅団長として出征したのは、英教の他に秋山好古と山口圭蔵がいたが、山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにもかかわらず、師団長川村景明に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する事態となり川村の面子が潰された。この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き「実兵指揮能力不足」という評価が下され、歩兵第8旅団長を解任されて留守近衛歩兵第2旅団長に左遷された(名目上は病気)。├├山田乙三 - Wikipedia山田乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日-1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。最後の関東軍総司令官として玉音放送による「聖断」を受諾し、ソ連軍に降伏した。息子は登山家の山田二郎。経歴 1939年陸軍経理官・市川確の三男として生まれ、山田貫之の養子となった。成城学校(新宿区原町)から陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校(14期)を卒業。同期に古荘幹郎、西尾寿造、宇佐美興屋らがいる。1912年(大正元年)に陸軍大学校を(24期)卒業、同期に土肥原賢二、飯田貞固、牛島貞雄、香月清司、酒井鎬次、谷寿夫、柳川平助、山岡重厚がいた。 参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任。軍令、教育畑が長く政治色は薄かった。1939年(昭和14年)10月、中支那派遣軍司令官から教育総監に就く。1940年(昭和15年)8月、陸軍大将に進級。1944年(昭和19年)2月に東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長兼任を企図した際には、杉山元参謀総長が強く抵抗、山田も統帥権独立への抵触を危惧するが、最終的にはこれを容認した。しかし7月のサイパン失陥を契機に東條は退陣、参謀総長となった梅津美治郎の後任として関東軍総司令官に就任する。満洲国の日本大使(正式には、満洲国駐箚特命全権大使。)は関東軍総司令官が兼任することになっているため、駐満洲の日本大使ともなる。 1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が対日参戦、当日は大使として、満州の国防団体の結成大会出席のため大連に出張中であり急遽新京に帰還する。この大連出張の際に保養地のホテルに泊まっていたため、帰還が遅れたとも言われている。総司令部を通化に撤退させ持久戦を図るが、15日には日本のポツダム宣言受諾により終戦詔書が発布される。19日にはジャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。 その後は関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らとともにソ連に抑留(シベリア抑留)。ハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に収容された。 10年以上経って日本へ帰国した。年譜1901年(明治34年)5月 陸軍中央幼年学校卒業。1902年(明治35年)11月 陸軍士官学校卒業。1903年(明治36年)6月 陸軍少尉。騎兵第3聯隊附。1905年(明治38年)2月 陸軍中尉。陸軍士官学校教官。1912年(大正元年)9月 陸軍大尉。11月 陸軍大学校卒業。騎兵第3聯隊中隊長。1913年(大正2年)8月 参謀本部員。1918年(大正7年)6月 陸軍少佐。陸軍騎兵学校教官。1922年(大正11年)8月 陸軍中佐。騎兵監部員。1924年(大正13年)2月 騎兵第26聯隊隊長。1925年(大正14年)8月 陸軍大佐。1926年(大正15年)3月 朝鮮軍参謀。1927年(昭和2年)7月 参謀本部通信課長。1930年(昭和5年)8月 陸軍少将。陸軍騎兵学校教育部長。1931年(昭和6年)8月 騎兵第4旅団長。1932年(昭和7年)8月 陸軍通信学校校長。1933年(昭和8年)8月 参謀本部第3部長。1934年(昭和9年)8月 陸軍中将。参謀本部総務部長。1935年(昭和10年)8月 兼参謀本部第3部長。12月 陸軍士官学校校長。1937年(昭和12年)3月 第12師団長。1938年(昭和13年)1月 第3軍司令官。12月中支那派遣軍司令官。1939年(昭和14年)10月 教育総監兼軍事参議官。1940年(昭和15年)8月 陸軍大将。10月 免兼。1941年(昭和16年)7月 兼防衛総司令官。1 2月 免兼。1944年(昭和19年)7月 関東軍総司令官、在満州国特命全権大使。1945年(昭和20年)8月15日 終戦。1948年(昭和23年)1月31日 公職追放仮指定を受けた。1956年(昭和31年)6月26日 シベリア抑留より復員。1965年(昭和40年)7月18日 死去。├├秦彦三郎 - Wikipedia秦彦三郎(はた ひこさぶろう、1890年(明治23年)10月1日-1959年(昭和34年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。ロシア通として知られ第二次世界大戦終戦時の関東軍総参謀長。戦後はシベリアに抑留された。略歴 三重県に生まれ、1912年、陸軍士官学校を卒業(24期)して歩兵少尉となる。1915年、歩兵中尉となる。1919年、陸軍大学校を卒業(31期)。1922年、歩兵大尉となり参謀本部員(ロシア班)となり、翌年、関東軍の満州里機関長となる。1926年、ソ連大使館附武官補佐官となり、翌年、歩兵少佐となる。 1930年、ポーランド公使館附武官、ラトビア公使館附武官となる。1931年、歩兵中佐となる。1932年、ルーマニア公使館附武官となる。1933年、参本ロシア班長、翌年、ソ連大使館附武官となる。1936年、歩兵大佐(新聞班長)となる。 1938年、関東軍司附(ハルピン特務機関長)となり、翌年、陸軍少将となる。1940年、 関東軍参謀副長となり、1941年、関東軍参謀副長(兼秦機関長)となり陸軍中将となる。1942年10月に第34師団長、1943年4月に参謀次長・大本営兵站総監となり、戦局不利な状況の中で作戦指導にあたる。1944年3月から8月までは陸軍大学校校長も兼職した。1945年4月7日、敗戦濃厚の中、関東軍総参謀長となる。同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍が満州と朝鮮に侵攻し、同月18日、満州帝国滅亡。同年8月19日、山田乙三関東軍総司令官と秦は瀬島龍三中佐らを伴い、ジャリコウヴォのアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。 1945年12月2日、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があった[1]が、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。1956年12月26日に復員。├├草場辰巳 - Wikipedia草場辰巳(くさば たつみ、1888年(明治21年)1月2日-1946年(昭和21年)9月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の二男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 参謀本部付勤務、第1鉄道線区司令部員、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、歩兵第4連隊大隊長などを歴任。1924年(大正13年)11月から陸大専攻学生となる。翌年12月、陸大教官に就任し、参謀本部員兼軍令部参謀、第6師団参謀、陸軍省人事局課員、陸軍兵器本廠付、関東軍司令部付(南満洲鉄道)などを歴任し、1931年(昭和6年)3月から8月まで欧州に出張した。 1931年8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任。歩兵第11連隊長、関東軍司令部付(満洲国交通部顧問)を経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍少将に進級。日中戦争に歩兵第19旅団長として出征し、保定会戦、南京攻略戦に参加[2]。第2野戦鉄道司令官を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進し関東軍野戦鉄道司令官に就任。翌年10月、第52師団長に親補され満洲に駐屯。太平洋戦争を関東防衛軍司令官として迎えた。 1942年(昭和17年)12月、第4軍司令官となり、参謀本部付を経て、1944年(昭和19年)12月、予備役に編入された。同月、召集を受け大陸鉄道司令官となり終戦を迎えた。 1945年(昭和20年)9月からシベリア抑留となった。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年(昭和21年)9月17日に松村知勝、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷することになっていた。9月20日未明、草場は隠し持った青酸カリを飲んで自殺した。3通の書き置きのうち公式当局と親族宛の2通は捜査資料に添付された。アメリカ検事団が英訳させた日記には、シベリアの収容所でソ連側から証言を要求されたこと、ソ連側から恫喝、甘言など受けたこと、「将校でありながら捕虜となり、どの面下げて祖国に帰れるのか」とか「私には自殺しか道がなかったと諦めてください」という表現などが書かれていたという。墓所は多磨霊園。その他山崎豊子の小説『不毛地帯』に登場する「秋津中将」は、草場がモデルといわれる。[要出典]『不毛地帯』では、壱岐正、秋津中将、竹村少将が東京裁判へ出廷し、実際には、瀬島龍三中佐、松村知勝少将が出廷した。親族弟 草場季喜(陸軍少将)。父 草場彦輔(陸軍少将)。├├草場季喜 - Wikipedia草場季喜(くさば すえき、1899年(明治32年)12月16日-1963年(昭和38年)5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。経歴滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となった。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期、員外学生)を優等で卒業した。1924年(大正13年)4月、陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科に入学し、1927年(昭和2年)3月に卒業した。 1928年(昭和3年)4月、陸軍科学研究所員に発令。以後、ドイツ駐在、科学研究所員、陸軍省兵器局課員などを務め、1940年(昭和15年)8月、工兵大佐に昇進し独立工兵第27連隊長(関東軍)に就任し日中戦争に出征した。1942年(昭和17年)10月、第9陸軍技術研究所員(登戸研究所)第1科長となり、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進。 1945年(昭和20年)9月、陸軍兵器行政本部付となり、同年12月、予備役に編入された。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。親族親族兄 草場辰巳(陸軍中将)。父 草場彦輔(陸軍少将)。├├松村知勝 - Wikipedia松村知勝(まつむら ともかつ、1899年〈明治32年〉10月13日-1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。経歴 本籍福井県。松村法吉陸軍中将の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。陸地測量部員などを経て、1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官などを経て、1933年(昭和8年)2月、ポーランド・ソビエト連邦勤務となり、さらにポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官を務めた。帰国後、1936年(昭和11年)3月、陸大教官となり、参謀本部員、参謀本部戦史課長・大本営研究班長などを歴任。1941年(昭和16年)3月、歩兵大佐に進級し、同年10月、参謀本部ロシア課長に就任した。 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月、関東軍参謀に発令された。1945年(昭和20年)3月には陸軍少将に昇進。関東軍総参謀副長となり終戦を迎えた。 戦後はシベリア抑留となった。1946年(昭和21年)9月17日には草場辰巳、瀬島龍三とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷した。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。1949年(昭和24年)8月に重労働25年の判決を受け、1956年(昭和31年)12月に復員。親族妻 松村英子 石坂善次郎(陸軍中将)の娘。弟 松村辰雄(陸軍中佐)義兄 額田坦(陸軍中将)義弟 樋口敬七郎(陸軍中将)├├種村佐孝 - Wikipedia種村佐孝(たねむら さこう/すけたか、1904年12月9日-1966年3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。三重県出身。参謀本部戦争指導班長を務め、対ソ終戦工作にあたった。主著に『大本営機密日誌』。太平洋戦争中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。├├朝枝繁春 - Wikipedia朝枝 繁春(あさえだ しげはる、1912年(明治45年)1月1日-2000年(平成12年)10月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士45期、陸大52期恩賜。最終階級は陸軍中佐。第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀として知られる。1933年(昭和8年)7月、陸軍士官学校本科を卒業。成績は、皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて25番/335名という好成績であった。陸士予科生徒隊附を経て、陸大在学中の1938年(昭和13年)3月に歩兵大尉に進級。1939年(昭和14年)11月、陸軍大学校を3番/52名で卒業し、恩賜の軍刀を拝受した。1939年(昭和14年)12月、第1軍参謀部付となり日中戦争に出征。1940年(昭和15年)6月、第1軍参謀に移り、1941年(昭和16年)5月、台湾軍研究部員に転じ、同年8月から10月まで南方に出張。同年10月、陸軍少佐に進級、第25軍参謀として太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を迎えた。マレー作戦、シンガポールの戦いに参戦し、辻政信参謀とともにシンガポール華僑粛清事件に関与した。このとき朝枝は軍刀を抜いて、軍の方針に随わねば憲兵でもぶった切ってやると言って、強引に粛清を強要して回ったといわれる。戦後、半藤一利がこの粛清についてインタビューしたとき、朝枝が辻政信にばかり責任を押し付けるようなことを言うため、しまいには両者で怒鳴り合いになった。1942年(昭和17年)7月、関東軍参謀に異動。1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)2月までソ連に出張。1944年3月、大本営参謀(作戦課)。その後、第14方面軍参謀を経て再び大本営参謀(作戦課で満州方面を担当)。1945年(昭和20年)6月、同期一選抜のひとりとして中佐に進級。同年8月、大本営参謀として満州へ出張中に敗戦を迎えた。この時、朝枝参謀は関東軍防疫給水部(通称・731部隊)の部隊長石井四郎軍医中将に研究資料の廃棄を指示している。共同通信社社会部編『沈黙のファイル』(P137,138)には、その時の朝枝・石井のやりとりが載っている。 朝枝「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします。貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください。」朝枝「細菌学の博士は何人ですか」」石井「五十三人」朝枝「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」石井「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。石井「ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね」朝枝「何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」また、この満州出張中、ソ連軍から樺太で現地の第88師団が日本軍師団が交戦を続けていることを知らされ、その上級にあたる札幌の第5方面軍に停戦するよう、電報を打ち、これによって樺太での停戦が成立している。 旧満州や朝鮮半島の民間日本人やソ連の捕虜となった軍人計180万人について、ソ連の指令下に移し、日本国籍離脱まで想定、病人などを除き現地に「土着」させ事実上"棄民"化する「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」を1945年8月26日付で大本営参謀名にて報告した(その3部のうち1部が1993年8月にロシアの軍関係にて発見されたと共同通信が報じている)。 その後、朝枝はソ連軍に捕まり、1949年(昭和24年)8月に復員している。├├瀬島龍三 - Wikipedia 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉9月4日)は、陸士44期次席・陸大51期首席。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として務めた。最終階級は中佐。、1939年(昭和14年)1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となった。同年11月には参謀本部幕僚附(作戦課)に補され、間もなく参謀に昇格して開戦前は対ソ作戦を担当。翌1940年(昭和15年)には関東軍特種演習(関特演)の作戦立案にあたった。1945年9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎中将らとともに捕虜となった。ソ連のハバロフスクの第45特別地区(将校収容所)に送られた。この後、11年間抑留される。連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳中将(20期首席、関東軍鉄道司令官)・松村知勝少将(33期、総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められる。出廷に当たって瀬島は草場辰巳、松村知勝と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。1947年(昭和22年)末から1950年(昭和25年)4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルのウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、種村佐孝(37期、大佐)、朝枝繁春(45期、中佐)、志位正二(52期、少佐)らとともに収容されていたとみられる。 日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えた。 1996年の回顧録にて大東亜戦争を振り返り、政治的、経済的な情報を含む国力の総合的な判断を無視した。こういった情報が不足しており、民族の性格上、合理的かつ客観的な判断をせず、心情的、希望的な判断へと流れていった。と書いている。├├志位正二 - Wikipedia志位正二(しい まさじ、1920年1月1日-1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。 終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。抑留中は陸軍将校のため、日本国内では公職追放となった。 1948年11月、シベリアより復員。志位によれば、早期帰国のためにソ連に協力する誓約書に署名したものの、それは戦犯収容所に送られた上官や部下を救うため帰国し残留者の引揚促進活動に取組むためであったという。ところが、舞鶴港で米軍の民間情報部の者が武装兵を連れて船に乗り込み、主だった者を集めて暴行し尋問するのを目撃しショックを受けることになった。志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中華人民共和国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。このとき、1週間にわたって軟禁されウソ発見器にもかけられ誓約書について自白を強要されたことで、米国特務機関のやり方に憎悪を抱くようになったという。この後、ソ連のためにスパイ活動をすることになる。1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。しかし罪には問われず、その後、海外石油開発株式会社常務となり、対ソ連交渉において、社長今里広記の右腕ともいわれる活躍をしている。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス DC-8型機の機内、ファーストクラス席上で死去した。過労からの心臓関係の疾患とみられる。├├志位正人 - Wikipedia志位正人(しい まさと、1889年10月22日-1945年5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。二男が志位正二(陸軍少佐)兵科は砲兵。1909年(明治42年)、陸軍士官学校に入校。1911年(明治44年)5月、同校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉任官。1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進。同年12月、名古屋兵器支廠長に就任。1940年(昭和15年)3月、大阪兵器補給廠長に異動。1941年(昭和16年)11月、第15軍兵器部長に就任し太平洋戦争を迎え、ビルマの戦いに参戦。1943年(昭和18年)3月、緬甸方面軍兵器部長に就任。同年6月1日、陸軍兵器行政本部監督官に転じ、同年8月、陸軍少将に進む。1945年(昭和20年)5月に殉職し陸軍中将に進級。├├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情├├幹部候補生 (日本軍) - Wikipedia日本陸軍における幹部候補生(かんぶこうほせい)とは、中等教育以上の学歴がある志願者の中から選抜され、比較的短期間で兵科または各部の予備役将校、あるいは兵科または各部の予備役下士官になるよう教育を受ける者。場合により幹候と略されることもある。日本陸軍では下士官以上が部隊の幹部という位置づけであった。1927年(昭和2年)12月に一年志願兵制度を改めて幹部候補生制度が定められ、1945年(昭和20年)8月の太平洋戦争(大東亜戦争)終結まで存在した。制定当初は主として予備役将校の養成を目的としたが、1933年(昭和8年)5月の制度改正以後は予備役将校となる教育を受ける甲種幹部候補生と、予備役下士官となる教育を受ける乙種幹部候補生に修業期間の途中で区分された。幹部候補生に対する評価幹部候補生出身の予備役将校は軍歴の長い下士官や兵から見て、士官候補生出身の現役将校と比べ教育期間が短く、また入営時には一般兵と同じ立場であったこともあり、概して軽侮されがちな傾向であったという著述が散見される。士官候補生出身の現役将校を「実弾」「実包」あるいは「本ちゃん」と呼び、一方の幹部候補生出身の将校を「空砲」「擬製弾」と呼ぶ例などがある。連隊にはたくさんの将校がいたが、ほとんどが予備士官学校出の将校であった。予備士官学校出というと、いわば半プロで(後略)。さて“実包”の方はこれとは違う。小学校から幼年学校へと学び、それから士官学校と歩み続けて、軍人としてのプロの道を勉強してきた者である。正真正銘、まじりっ気なし、純金の将校である。バリバリの職業軍人なのである。—春風亭柳昇『陸軍落語兵』69頁兵隊達は、本当の士官学校を出て来たいわゆる職業軍人の将校達には頭が上らなかった。彼らを「本ちゃん」と称しておそれていたのだ。しかし、それまで連隊で特別教育を受けて候補生から昇進して予備役の少尉になった我々の先輩の予備役将校達には、「疑製弾」と称して小馬鹿にしていたのだ。—中村八朗『ある陸軍予備士官の手記』上巻16頁また軍服の襟に着用する特別徽章は制度開始以来、士官候補生とその出身の見習士官が星(五芒星)のみであるのに対し、幹部候補生とその出身の見習士官は差別化され円形の台座に星を配置したデザインから、徽章そのもの、あるいは着用した幹部候補生や見習士官を「座金」と揶揄する場合もあった。しかし、この星には、まるい座金がついていて、厳密に区別された。つまり、一般の大学出身の幹部は「ザガネ」と呼ばれ、また「空砲」と呼ばれた。—村上兵衛『桜と剣』224頁1943年(昭和18年)10月、陸軍服制の改正(勅令第774号)により特別徽章が変更され[96][97]、星(五芒星)を桜の枝葉が囲む共通のデザインになったが、徽章の色は士官候補生と出身の見習士官が金色、甲種幹部候補生と出身の見習士官が銀色に差別化された。 幹部候補生やその出身将校に対する評価の原因となったものは、主として本人の資質とは別の制度上の問題である。1944年(昭和19年)、新たに特別甲種幹部候補生の制度が作られた際には「従来ノ幹部候補生ニ在リテハ統率力特ニ指揮権承行ノ厳粛ニ付テ十分ナラザルモノアリ而シテ其ノ原因ノ最大ナルモノハ(中略)一般兵ヨリ選抜スル点ニ在ル」[90]と、従来の幹部候補生に対する「少し前まではただの兵隊」という認識を改革する点も考慮されていたことがうかがえる。├├陸軍士官学校 (日本) - Wikipedia├├陸軍幼年学校 (日本) - Wikipedia将来の陸軍将校となることが事実上約束されており、若くして軍服に身を包み、規律正しい集団教育を受けるエリート集団たる陸幼生徒は当時の小学生・中学1 - 2年生男子の羨望の的であり志望者が多かった。陸幼入校者を選抜する召募試験の倍率は、時代によって変動したが概ね20倍程度を保ち、中学校のトップクラスでも合格は容易でなかった。太平洋戦争(大東亜戦争)中に旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に在学していた渡部昇一は、下記のように回想している。鶴岡中学では、陸幼を志望する1年生・2年生に対して、毎日の始業前に1時間の「特別授業」を実施していた。陸幼は難関であり、渡部が鶴岡中学に在学している間に、鶴岡中学から陸幼に入校した者は1名のみであった。陸軍幼年学校生徒採用試験は合格・入校すると同時に軍籍に入るため「召募試験」と呼ばれ(士官学校の採用試験も同じ)、身体検査と学科試験が実施された。まず身体検査が行われ、身体検査に合格した者のみが、学科試験(国語・作文・地理・歴史・数学・理科)を受験できた。陸幼受験資格は、満13歳以上・満15歳未満(願書を提出する翌年=入校する年の、3月31日における年齢)という年齢制限のみであり、2回まで受験できた。召募試験において求められる学力は中学校1年第2学期修了程度であったが、受験に際して学歴は不問であった。陸幼の召募試験は高倍率であったため陸幼生徒の多くは中学校出身者であったが、少数ながら高等小学校出身者も存在する。特待生となる資格を持つ「戦死した、または公務による負傷・疾病で死亡した、陸海軍の軍人、または文官の遺児」は、一定の成績であれば順位に関わらずに合格とされた。陸幼生徒選抜にあたっては理数系の素養が重視されており、数学が満点で、他が一定基準を満たしていれば優先的に合格とされた。さらに、召募試験合格者は入校予定の各陸幼において精密な身体検査を受け、これに改めて合格した者が晴れて陸幼生徒となった。武官の子息を主な対象とする月謝の減免措置も影響し、陸幼入校者のうち30% - 50%程度が武官の子息であった。├├陸軍大学校 - Wikipedia陸大の受験資格者は、陸軍現役兵科将校(憲兵将校を除く)のうち、所属長(連隊長など)の推薦を受けた、陸軍士官学校(陸士)を経て少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉。大尉に進級すると受験資格を失った。4月に初審を受験する段階で、人数が入校予定者の10倍程度に絞られている。初審科目は、戦術甲(戦闘原則)、戦術乙(陣中用務)、戦術丙(図上戦術)、築城、兵器、交通、歴史、数学、語学の9科目。入校予定者の2倍の人数に初審合格が通知されるのが8月である。年末に再審が行われるが、これは人物考査を兼ねている。再審初日に図上戦術の筆記試験が行われ、以降、受験者は一日おきに陸大に出頭し、20日ほどをかけて各科目の口頭試験を受ける。受験者の多くがノイローゼ気味になり、不合格を確信するほどの厳しい試験であったが、50名ほどの陸大専任教官が全力で行う再審は、当時、最も公正な試験であると認められていた。 再審は12月2日から10日間に渡って実施され、受験者は120名であった。1日目から9日目までは、学識を問う通常の口頭試験であり、戦術は5名の陸大教官が、他の課目は2から3名の陸大教官が試験官を務めた。10日目は「人物考査」という課目であり、陸大幹事(校長に次ぐNo2)の少将、先任兵学教官(中佐)の2名が試験官であった。今村に対する試問は、学識を問うものではなく、いわゆる「圧迫面接」のように、答えに窮する問いを意図的にぶつけて反応を試すものであった。12月12日、入校式の直前に、受験者全員120名が陸大の大講堂に集められて、うち60名が合格と告げられ、今村は合格した。├├海軍兵学校 (日本) - Wikipedia受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者。身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験。面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させた。├├海軍大学校 - Wikipedia海軍の兵科高級幹部を養成する「甲種学生」の課程は海軍兵学校の卒業生が海軍士官(兵科将校)に任官後、10年程度の実務経験を経た中から選抜された。受験資格は兵学校での教育を受けた中堅将校である大尉・少佐であることが基本であった。入校者は海軍兵学校の卒業席次が高いものが多かったが、席次が低くても本人の努力次第で入校することができた。 募集人員は10〜20名前後で、満州事変が始まると30名にまで増やされた。その後、支那事変が始まると学生を採用しない年度も出てくるようになる。海軍の人事においては海軍兵学校の卒業席次(ハンモックナンバー)が重視されており、大学校を卒業せず、艦隊勤務など実施部隊を多く経験した叩き上げの士官で高位昇官を果たした例も少なくない。├├能登大地震-その6-小さな記録 能登半島 港湾部の隆起現象(1)(計量計測データバンク)陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、旧字体:陸軍士官學校)は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。通称・略称として陸士と呼ばれる事例もある。 陸軍幼年学校(陸幼)は幾度の変容があるが、陸士が予科・本科制度となった1920年代以降は将校候補者すなわち将来は陸士の予科に入校し生徒となる者を、若年時から「純粋培養」する旧制中学校相当の養成機関である。陸幼生徒は陸士の予科生徒と合わせて「将校生徒」と呼称された。陸士の予科の生徒は大別してこの陸幼出身者と一般の中学出身者からなる。 陸軍大学校(陸大)は主に参謀を養成する高等教育機関であり、選抜された陸士卒(己種・丁種学生を含む)の中尉・少尉が入校する。 1938年(昭和13年)以降、甲種幹部候補生出身者を生徒とし、予備役兵科将校を養成する教育機関として陸軍予備士官学校(予備士)が複数校設置されている。「予備役」兵科将校を養成する陸軍予備士官学校は、「現役」兵科将校を養成する陸軍士官学校(および士官候補生を養成する陸軍予科士官学校)とは全く異なる別種の士官学校である。 学校住所は、長らくは本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していたが、1937年に本科(陸士)は神奈川県座間へ(航士は埼玉県入間に設置)、予科(予士)は1941年(昭和16年)に埼玉県朝霞へそれぞれ移転している。陸士自体の通称でもあった「市ヶ谷台」の名に倣い、座間移転後の陸士には「相武台」、入間に新設の航士には「修武台」 朝霞移転後の予士には「振武台」の名が、それぞれ当時の大元帥たる昭和天皇から与えられている。陸士の生徒・学生を指して「台上の人」という呼称はこれに由来する。この慣習は陸士以外の将校および将校候補者の養成学校にも取り入れられ、陸軍経理学校の「若松台」、東京陸軍幼年学校の「健武台」、仙台陸軍幼年学校「三神峯台」、名古屋陸軍幼年学校の「観武台」、大阪陸軍幼年学校の「千代田台」、広島陸軍幼年学校の「鯉城台」、熊本陸軍幼年学校の「清水台」、および満洲帝国陸軍軍官学校の「同徳台」がある。予科 「陸軍士官学校」は文字通り現役兵科将校を養成する軍学校であるが、専門の軍事教育(「軍事学」)は主に本科(陸士)にて行われる。そのため、予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。1932年当時の予科の教育課程表は以下となっている。修身、国語および漢文、外国語(英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史、数学(三角法・幾何および微積分・代数)、物理、化学、地理、心理および論理、法制および経済、図画。教育時間数では、外国語が計402コマ、数学が計318コマ、国語および漢文が計269コマ、物理が167コマ、化学が100コマなどとなっている。これらは予科の「教授部」の主に文官教官(陸軍教授)によって教育される。軍人としての教育は「訓育部」の主に武官教官によって教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・柔道・馬術、訓話、学科、内務指導および検査の課程があった。これらのほか、各見学や野営演習、遊泳演習も実施された。予科は自衛隊における防衛大学校に相当・類似する。本科 対して、軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。重点が置かれている外国語は予科教育(普通文書を読解および日常会話・作文可能な程度)に連繋し、本科では主として軍事に関する読書力増進に力むものとされている。これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施された。本科は自衛隊における陸上自衛隊幹部候補生学校に相当・類似する。受験 陸士が予科・本科制度となった1920年の『陸軍士官学校令』では、「四 予科生徒ハ、陸軍幼年学校ヲ卒業シタル者、又ハ陸軍将校タルコトヲ志願シ、召募試験ニ合格シタル者ヲ以テ之ニ充ツ」と定められている。「召募試験ニ合格シタル者」とは概ね旧制中学4年修業「程度」の「学力」を「持つ」者を想定しており、修業・卒業といった学歴は必須ではない。陸幼卒業者は無試験で陸士予科へ入校できる。概ね陸士予科(予士)入校時の年齢は最若年者で16歳からとなる。さらに、徴集によって帝国陸軍に在営中の現役下士官および兵であっても、陸軍将校たることを志願し陸士予科(予士)の召募試験に挑み生徒となることは可能である(このいわゆる「部内受験」は少尉候補者(己種学生)とは全く異なる)。著名者としては二等兵として入営ののち、仙台陸軍教導学校を経た軍曹時代に陸士を受験・合格、24歳で予科へ入校(将校生徒)、かつ本科(士官候補生)の歩兵科を首席で卒業した第52期生若林東一大尉が居る。陸士の位置付けは旧制高等学校、大学予科、旧制専門学校などに相当する。 他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳あまりで高等官(予科入校後は本科に進み卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官すると高等官八等)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた。第一高等学校・第三高等学校・陸軍士官学校・海軍兵学校の難関4校は「一高三高陸士海兵」と並び称された。また、資金難など生活面から旧制高校や大学予科などの上級学校に進学できない、ないし旧制中学を途中退学せねばならない家庭の子にとって、授業料なく無償で高等教育(第二次世界大戦後は旧陸士卒業生の進学等では、短期大学相当の教育程度と認定されている)を受けられる陸士は憧れの的であった。なお、国民生活が比較的豊かになった1930年代末頃においても、旧制中学進学率は全体の8%程度であり(旧制中学校進学率)、大半の国民は高等小学校・青年学校で終了し旧制中学を含む旧制中等学校へは進学出来なかった。大日本帝国においては旧制中学時点で既に一握りの恵まれた存在であり、旧制高校は純然たるエリート、旧制大学に至っては雲上の存在である。陸士(および海兵)は将校たる軍人を養成する教育機関であることから、実質学力のみが重視される旧制高校と異なり、相応の身体能力や精神力が求められ、学力試験と共に厳格な身体検査や身辺調査をもパスする必要があるため相応ないしそれ以上の難度があった。一方で、支那事変(日中戦争)以降は陸士・海兵共に採用人数を増員しているため、相対的に入校難度は低下している。 なお、陸士および海兵を指してその入校難度が短絡的に「現在の東京大学並」とされることがあるが、これは当時と戦後とでは学制が大きく異なるため不適当である。あくまで陸士・海兵は当時の学制では旧制高校相当であり、旧制大学たる東京帝国大学とは明確に位置付けは異なる。陸士・海兵と並び称されていた第一高等学校(一高)が、第二次大戦後の学制改革によって「東京大学の教養学部前期課程(2年間)」の母体となっているだけである。他の旧制高等学校も多くは新制大学の教養部の母体となっている。次の資料によると、明治時代はそれほど難易度は高くなかったようである。「陸軍士官学校へは、如何なる成蹟の卒業生が行くか」と中学校長に聞くと、皆口を揃へて曰ふに、「成蹟の優等のものは大概高等学校へ行くので、四方の入学試験に落第した者か、さなくば、第二流以下のものが、士官学校へ行く、最も中には、殊に軍人を好むものもあれど、それは大概海軍兵学校の方を喜ぶ、陸軍を非常に好む生徒と、海軍兵学校へは入学し得ない者で、学資の少くない者とが、陸軍士官学校に行くと答へる、これが事実とすれば、聊か心細そい次第だ。— 「二二、動物主義と形式主義」、青木龍陵『兵営生活』金港堂、1903年(明治36年)。├├第37話:USA第51州の実態【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)平成15年5月16日改定 鳥越恵治郎(H26年4月17日一部改定)昭和43年私が井原高校を卒業する時、既に幻想でしかなかったかもしれないが、日本には形を成した家庭があり学校があった。ヒューマニズムもフェミニズムも適度だった。いじめはあったがかわいいものだった。みんなに機会平等を保障してくれた寛容で優しい社会があり国家があった。世界に誇る工業技術があった。貧しくて不自由ではあったが実在し躍動する生命感も夢も希望もふんだんにあった。 行政官はnoblesse oblige(高い身分に伴う道徳上の義務)を気高くもっており清廉だった。検察は汚職に薄汚れた政治家の圧力に屈することなく容赦なく巨悪に迫った。2003年(平成15年)に井原高校は創立100周年を迎えるという。私はこの拙稿で、ある一面的な見方でしかないだろうが、限られた文字数の中に現在の日本の有様について、できるだけ多くのことを簡潔に詰め込んで記述してみたかった。そのことは同時に私にとっての35年のへだたりを「現実・夢・希望」をキーワードに書くことにもなった。書き終えて私の心は憂うつになってしまった。私はこの心のくもりが晴れ上がる日を身をこがすような想いで心待ちにしている。井原高校の卒業生の皆様に、そしてこれから卒業しようとする若ものたちに、新しい日本の礎となって欲しいと切実に願っている。鳥越医院院長鳥越恵治郎(とりごえけいじろう)先生昭和51年岡山大学医学部卒業、岡山大学附属病院麻酔科研修医、愛媛大学医学部付属病院麻酔科助手、クワヤ病院(高松市)、藤原病院(南国市)、共立病院(西条市)勤務を経て、昭和59年鳥越医院開業、元井原市医師会長。昭和57年よりAI診断、病名思い出しツールを開発 現在に至る。鳥越恵治郎、他:内科領域におけるコンピュータ診断の試み.日本医事新報 No.3131:29-31.1984.├├何故海軍兵学校・陸軍士官学校は東大を凌ぐ程難関だったのですか?... - Yahoo!知恵袋東大に並ぶ頭の良さが必要と言うよりも、結果としてそういう人が集まった。終戦後、卒業前の生徒たちの半数が東大や京大に試験を受けて入り直したことからも秀才ぶりが伺われる。├├【第1章】陸軍将校を育てる陸軍の中学校 陸軍幼年学校 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である。東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった。昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか。「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。├├【第1章】昭和20年8月29日、私たち61期生を最後に陸軍予科士官学校は解散となり生徒全員は復員 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY 陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である。 昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。 東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった。昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。「親子焼夷弾」が陸幼めがけて3万発落とされ、低空飛行による攻撃といい、まさに幼年学校は狙い撃ちされた。この空襲によって、校舎は全焼し、残念なことに10名の生徒と下士官が死亡した。だが、当時の全校生徒が880名だった。焼けた陸幼を見舞いに行ったときに聞いた話では、この空襲の際に、I少佐という週番士官が中心となって、咄嗟の判断で生徒全員を避難誘導したという。通常なら「火を消せ」と生徒を動員するところを、「消すな、逃げろ!」と生徒たちを逃したのだ。なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか。「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。 昭和12(1937)年以降の幼年学校卒業生は、陸軍予科士官学校に無試験で進学できた。当初は中国戦線が拡大傾向にあり、さらに太平洋戦争が始まって2年ほど経つと戦局はますます厳しくなって、兵隊はもちろん将校の総数も不足してきたからだ(いわゆる学徒出陣は昭和18年10月に始まっている)。通常、陸軍士官学校本科を陸軍士官学校(市ヶ谷から神奈川県座間町に移転。通称は相武台)とだけ呼び、予科を陸軍予科士官学校と呼ぶようになったのは、このときからである。私は61期生としてここに入学することになる。朝霞の予科士官学校には何故かB29は焼夷弾を落とさなかった。一度だけ割りに低空を飛んできたB29がトントントンと爆弾を落としたことがあり、防空壕で生き埋めになった犠牲者が出たが、大方は朝霞の上空でUターンして帰って行った。これは後で知ったことだが、彼らは朝霞の予科士官学校を残し、それを占領後の駐留地として利用するという計画を立てていたようだ。その後、実際に朝霞はアメリカ軍のベースキャンプとして活用され、さらに自衛隊の朝霞駐屯地として生まれ変わっている。 幼年学校は陸軍の幹部将校を早期から純粋培養する学校である。中学のように一般教科も教えるが、さまざまな軍事敎育・教練に重点が置かれる(見方を変えれば、ある種の“洗脳教育”とも言える)。中学卒業者に比べて、3年も早く軍隊の教練や知識を積んできているのだから、予科士官学校の敎育現場で優位に立つことも少なからずある幼年学校卒業組の中には、3年の違いを嵩に来て中学卒業組を見下したりする者が出てくる。教科においては優秀な生徒も多い中学組は、当然のことながら、幼年学校組に対して反発する。実は、士官学校では、予科でも本科でも、そんなことが原因で幼年学校組と中学組が対立することがあった。そういう事態を見越してのことだろうか、東京幼年学校の湯野川校長は東幼在学中に私たちに向けて厳しく言明されていたことがあった。それは次のような教えだ。「お前たちは、予科に上がっても、幼年学校出身であることを決して鼻にかけてはならない。中学出身者に対して絶対に威張ったりせず、何ごとも親切に教えてやれ。いいな!」。 予科士官学校では、入学後の早い段階で自分の志望兵科を決める。その兵科における将来の陸軍将校としての自己イメージをしっかりとつくり、目的意識を持って勉学に励むためである。陸軍でエリートコースを行く者は、東京幼年学校から士官学校へ行き、兵科は砲兵か騎兵(何と言ってもかっこ良かった)を選択することが多かった。そして少尉に任官後陸大に進み、陸大を卒業して参謀となる。しかし緊迫した戦況の下では、こんなエリートコースのことなど考えることすらできなかった。もちろん私は航空兵科を選んだ。その志は、幼年学校を志望した時からのものだ。それどころか、航空志望の思いはいよいよ強くなっていた。戦局の厳しさへの認識が、私の背中を押していたと言っていい。入校後3か月ぐらい経ったところで(7月)、航空適性検査があり、私は「甲種」合格となった。そして希望通り航空兵科(戦闘機乗りだ!)に選ばれた。この時はさすがに誇らしげな気分になったものだ。もちろんそれは、特攻隊への道をひた走りに走るということを意味していた。 相次ぐ編成替えや空襲警報に翻弄され、実際の予科士官学校での生活も5か月ほどしかなかったこともあって、士官学校時代で勉強や訓練に進んで勤しんだという具体的な記憶はあまり残っていない。昭和20年8月14日。その夜、消灯後に東幼出身のY君が私のところに忍び込んできて、興奮気味に話し始めた。「明日、日本は降伏する。われわれ士官学校生徒は、捕まれば銃殺刑になる。どうせ死ぬなら一人でも多くのアメリカ人を殺して死のうじゃないか?」私は直ちに同意。兵器庫に忍び込み、拳銃と弾丸200発を盗み出し、貯金通帳と両親の写真を胸に、深夜学校を脱柵したのだった。夜道を延々と歩き、未明に飯能あたりの農家を訪ねて朝食をご馳走になった。農家は総じて早起きであり、士官学校の生徒となると歓迎された時代だ。敗戦を知らない農家の方々からは、親切なもてなしてと「ご苦労さまです。武運長久を!」という激励の言葉をいただいた。ところが、農家を出発しようとしたそのとき、自分が飯盒を忘れてきたのに気がつき、私一人が学校へ引き返すことにした。「飯盒を忘れたぐらいで」と思うだろうが、本土決戦が持久戦になることも考えのうちだったので、飯盒は武器に次いで大事な装備の一つなのだ。士官学校に到着し、塀をよじ登って校内に飛び降りたときのことだ。背後からの突き刺すような声で、「誰か!」という誰何すいかを受けた。何と、士官学校生徒が50メートル間隔で歩哨に立ち、不法侵入者を見張っていたのである。「われわれは実弾を込めているぞ!」という叫び声を聞き、私は経験したことのない切迫感を覚え、反抗の術もなく逮捕されてしまった。そして、何としたことだろう、重営倉1日の刑を受けてしまったのだ。クーデター計画は未遂に終わったが、当時、陸軍内は血気盛んな本土決戦派が多かった。このことを知っていた阿南惟幾これちか(かつての東京幼年学校校長である)陸軍大臣は、本心では一日も早い和平を望みながらも、混乱を避けるため最後までボツダム宣言受諾に踏み切れなかった(最終的に閣議でポスダム宣言受諾に賛成の後、宮城事件の最中に陸相官邸で自刃)。反乱将校の一部は宮城にも侵入したが、首都の鎮圧に当たった田中静壱東部方面軍管区司令官(大将)に説得され、原隊に復帰した者もいるが、中心的役割を演じた将校たちは宮城前で自決した。昭和20年8月29日、陸軍予科士官学校は解散となり、私たち生徒全員は復員することになった。4月の入学以来ほんの5か月の間だったが、帝国日本が沈んでいくその様を、まがりなりにも陸軍内部の空気から感じることができた。しかしこの敗戦直後、自分たちがめざした陸軍が解体され、士官学校が解散になった瞬間、学友たちの多くは、生きる目標を失って茫然自失した者が多かった。私も、そのうちの一人にすぎなかった。私たち幼年学校46期生は予科士官学校では最後の61期である。もちろん実弾の下を潜ったことはない。しかし、森本秀郎さん(幼年学校の4年先輩の42期生)のレイテ沖海戦での戦死(特攻隊第1号であることは前に述べた)のように、実際に私たちが身近に接した先輩には、戦争末期の過酷な戦闘の中で命を落としていった人が実に多い。ちなみに、航空士官学校に行った森本さんの同期では、ほぼ半数が戦死している。昭和20年3月26日に始まった沖縄戦において、Yさんは特別攻撃隊の戦闘機編隊を先導する新司偵に乗っていた。沖縄の近海、敵艦隊に接近したところで特攻編隊から離れ、上空から戦闘状況を見きわめるということが、このときの偵察機の任務だった。特攻機が敵艦に何機当たったか、当たった特攻機が撃沈した敵艦は何隻か、撃沈しないまでも与えた損害はどれくらいか等々、その実際の戦況をつぶさに記録し、帰還後に報告するのが仕事だ。つまりYさんは、よく見知った部下や仲間が敵の戦艦や空母に体当たりする苛烈な光景の一部始終を、上空を旋回しながらずっと見ていなければならなかった。そこには、敵艦に“見事”体当たりを果たせる特攻機もあれば、敵艦をめがけるその途上であえなく艦上射撃に撃ち抜かれ、爆発して空中大破する機もある。キリモミしながら海面に激突する者、敵艦まであと一歩のところまで接近しながら海中に消えていってしまう者…。「あの機はあいつだ!」、「あいつが体当りしたぞ!」「だめだ、やられる!」…。自分は戦闘に加わるのではなく、多くの、そしてさまざまな死の形をただただ見ていなくてはならなかったのだ。Yさんは、サイパン空襲のときも(サイパンからの空襲を知っている人は多いが、サイパンを空襲したことを知っている人は少ない)沖縄戦とほぼ同様の任務に就いている。本土から飛び立った新司偵は、そのときは爆撃機の編隊を先導していた。給油のために一旦硫黄島に立ち寄り、そこからサイパンに向けて飛行を続ける。爆撃機編隊の任務は、サイパン島に上陸したアメリカ軍への空襲である。そしてYさんは、各爆撃機が敵にどのような損害を与え、その損傷はどの程度かを見きわめるために、上空からすべての戦闘を冷静に観察していなければならないのだ。冷静と言っても限度がある。冷静さをずっと維持したままで、つい昨日まで苦楽をともにしてきた部下や仲間の機が撃ち落とされる様を、ずっと記録し続けることなどできるものではない。任務遂行中も心は大いに揺さぶられ、帰還の最中にも、減ってしまった編隊機の誘導を陰鬱な気持ちで続けなければならなかった。幼年学校の大先輩では、もう一人、東幼6期生(陸士21期生)の飯村穰ゆずる中将のことを思い出す。彼は昭和16年1月に参謀本部総力戦研究所の所長に就任し、その8月、日米が戦った場合の綿密なシミュレーション(いわゆる「総力戦机上演習」)の作成を指揮した人物である。このシミュレーションの最終結論は次のようなものだった。「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」要するに、「日本必敗」の結論が導き出されたのだ。ところが、当時の東条英機陸軍大臣(第3次近衛内閣)は、これを「机上の空論」として一蹴したのである。├├【第1章】旧制三高編入試験をロシア語の単語を間違えて失敗 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY 高等学校の編入試験を受けてみろと第三高等学校の編入試験を受けた。昭和20年の11月。試験と言っても、学科試験は口頭試問だけだった。 17歳の私は、茫然自失として朝霞の陸軍予科士官学校を後にするしかなかった。 故郷に舞い戻ると母は言った「番茶も出花だよ、これから、これから!」父が笑いながら言った。「弾丸は確かに外れたな。良かった、良かった」 幼年学校入学以前に鑑定してもらった名古屋の易者先生の言葉通り、弾丸の“たの字”にかすりもしなかったわが生還に歓喜してくれているのだ。├├【第1章】めでたく東京大学文科Ⅰ類に合格 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY├├【第1章】そうだ、もう一度、学校へ行き直そう 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY├├【第1章】専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY専門学校受験検定を無事通過 晴れて旧制静岡高校に入学昭和 22(1947)年の秋、12科目の検定試験を一つも落とすことなく、専門学校受験検定(専検)の試験にめでたく合格した。どこの高校を受けようかという段階になって、はたと考えてしまった。三高と八高は以前すでに落とされているし、二度目の受験となると記録が残されているわけだから、例の「軍学徒の一割制限」のチェックに引っかかる可能性もある。専検の合格資格を全面に出しての受験とは言え、このカモフラージュが見破られないとは限らないのだ。と言って、一高は受験レベルが高くて当時の私にはむずかしい。あまり遠い地方に行くのもいやだし、などと考えた挙句、実家と東京とのちょうど中ほどに静岡高校があることに気づいた。下見に行ってみると、静岡の街は空襲でほとんどで焼け野原だったが、賤機山の麓にある静高の校舎は戦災を逃れて厳然と建っていて、私はすぐに惚れ込んでしまった。受験の難易度や勉学環境の問題からだけでなく、当時の東京帝大への進学率が、官立の旧制高等学校の中では一高と浦和高校に次いで3番目であることも、将来のことを展望すると一つの判断材料となっていたかもしれない。入学試験を受けてみると、これが専検に比べてむずかしいとは感じなかった。試験が終了した瞬間に、「これは受かったな」と確信したほどだ。もちろん結果は合格だった。昭和23年の4月、旧制静岡高等学校(以下、静高)に入学。自分の前途は洋々たるものという気分で、門を潜った。ところが、である。待望の高校生活を満喫しようとした矢先、愕然とするような事実が私を待ち受けていた。教員の中に幼年学校で数学を教わったK先生がいたのだ。例の「軍学徒一割制限」というマッカーサー指令は、当時、絶対的なものだったから、もし軍学徒だった自分の素性がバレたら退学になる。そうなれば、戦後に味わった全ての苦労は水泡に帰してしまうではないか。わたしは強く危惧した。授業中は絶対にK先生の顔を見ないように視線を外し、極度に緊張しながら授業を受けていたが、そのせいで、得意であるはずの数学にはあまり身が入らなかった。そこで2学期の試験のとき、とうとう堪えきれなくなって、答案用紙の末尾に「お懐かしゅうございます」と書いてみた。私としては、本心からの表敬のつもりだった。するとどうだろう。なんと先生は100点をつけて下さったのだ。K先生はとっくに私の存在をわかっていてくれたに違いない。武士の情けと言うべきだろうか、それとも理不尽なマッカーサー指令を快く思っていなかったのだろうか。遂にその真意を聞く機会を逸したが、まさに感謝あるのみだった。以来、数学の授業にはことのほか身が入った。静高時代、私は「不二寮」という自治寮に入り、これまでに経験したことのない自由を味わった。旧制高校の寮は、軍の学校とは格段に違って自主性を重んじ、優秀な友人から実に新鮮な刺激を受けつつお互いに成長していく、きわめて理想的な教育環境だった。そこで生涯にわたる友人を何人も得ることになるのだ。原田君はその最初の一人だった。とりわけ寮生活で親交を温めたのは、佐治俊彦君(のち毎日新聞社常務取締役)、芝康平君(のち東京機械製作所社長)、若林孝雄君(医師)、渡辺文雄君(のち俳優)といった面々だ。これに、若杉和夫君(のち通産省審議官)、田口英爾君(のち青東社社長)が加わって、私の高等学校以後の厚い交友の物語が成り立つ。旧制高等学校の自治寮で寝食をともにする意義はすこぶる大きかった。昭和23年当時、まだ敗戦直後の高等学校の寮の建屋などはおそろしくオンボロ。戸や窓はガタガタで、すきま風が吹き込む実にお粗末なものだった。しかし、そこは何の気取りもない、文字通りの“裸の付き合い”から真の友人関係が培われる世界だ。しかも日本中が食糧難の時代である。家を離れて生活する高校生にとって、寮で与えられる食事は見事なくらいお粗末で、量もきわめて少なかった。まともな白飯は夢のまた夢。丼に直経2センチほどのジャガイモが20個ほどしかないという夕食もあった。しかし、本来は食べ盛りの男子ばかりである。これでは持たないと思い、私は田舎へ帰って米や野菜などを担げるだけ担いで運んだ。それは、誰もが認知する、食料生産地出身者の重要な役割だった。実家から持ち帰る大量の食糧とともに静岡駅に到着すると、飢えた学友たちは歓喜して迎えに来てくれた。もちろん真に歓迎されているのは、私の存在以上に、米であり、野菜であることは明らかだった。空きっ腹が人間関係を大いに近づけたのである。カレーの臭いが漂い始めると必ずどこからともなく渡辺文雄が私たちの部屋に入ってきて、ものも言わずに文字通り黙々と食べ続ける。彼は常に胸のポケットにフォークを忍ばせているので、とにかく素早かった。遠い実家から苦労して運んできた食材である。私が「もう少しゆっくり味わってくれよ」と言うと、「ボリューム、ボリューム」と言い返しては早食いするので、それ以来、彼の渾名は“ボリューム”となった。味は二の次で、腹をいっぱいに満たすだけのボリュームを確保することが、何より先決の時代だったのだ(この渡辺文雄は、その後、「くいしん坊!万才」というTV番組に登場するのだから、人生は面白いものだ)。佐治や原田のような中学4年修了で高等学校に入学してきた優秀な生徒は、中学時代に積み重ねてきた圧倒的な読書量によって、議論を投げかけてくる先輩を見事に論破してしまうこともある。軍学校時代にそんなに本を読んでこなかった私などは、気持ちの上では佐治たちを応援しつつ、その論戦を固唾を飲んで見守るしかなかった。それ以来、「なるほど、要は読書か」と思った私は、理論武装のために哲学研究部というサークルの門を叩き(単純な発想だったが)、カント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバー、三木清等々と読み進めた。とは言え、三木清のような日本の哲学は比較的スムーズに頭に染み込んでくるが、難解な翻訳文の西洋哲学には歯がたたないものも多かった。しかし面白いもので、理解に難渋する数行を何度も何度も読み返したり、先輩や友人と「ああだこうだ」と会話したりしているうちに、ある瞬間にピカッと閃き、その文章の意味がストンと腑に落ちてくることがある。一度この快感を味わうとその先をもっと読みたくなり、理解が進むとほかの誰かと議論がしたくなって、夜の寮生の集いが待ち遠しくなるのだった。夜の寮生の議論大会に、同級生だけでなく、先輩たちがなだれ込んでくることもあった。その大半が共産党のオルグで、パルタイ(党)への勧誘がその主流を占めていた。彼らの説得論理はこうだ。「同じ年頃の青年たちは、みんな工場で油まみれで働いているのに、こんなところでのうのうと勉強なんかしていていいいのか?」「共産党に入れば、そういう貧しい人たちを救えるんだよ。入党しないか?」のうのうと勉強しているのはその先輩たちも同じではないかと思ったが、彼らの言い分にはうなづけるところもあった。戦後の混乱期の中で、貧しさのために働き詰めに働かざるをえない同世代の若者のことを、気にしていないと言えばウソになる。それを考えれば、自分たちはもっとしっかり勉強して、彼らを貧困から救い出す方法を考え出すべきではないか。いま思えば傲慢な考え方ではあるが、まだ稚拙な社会通念しか持ち合わせていないせいもあって、次第に先輩たちの言うことが正しいかもしれないと洗脳されかけた瞬間もあった。しかし先輩たちがあまりにしつこく「入党しろ、入党しろ」とオルグするので、最後には辟易して口を利く気にもならなくなってしまった。彼らの説得工作がもう少しうまかったら、その後の私もどうなっていたかわからない。実際、彼らの考え方に共鳴して入党し、その後、党幹部から政治家になった寮生もいたからだ。親友たちの後押しで無事及第点 新制東大第1期生となる昭和22(1947)年3月に制定された学校教育法によって、新制のいわゆる「6・3・3・4制」の導入は始まっていたが(学制改革)、新たな学制に完全に切り替わる昭和28(1953)年3月までは学年によって旧制と新制が入り混じることになる。その混乱を防ぐため、学年の段階に応じてさまざまな経過措置が取られた。この経過措置の中で、24年3月時点での1学年修了者に限って新制大学の入学試験の受験資格が与えられることになったのだ。ということは、もし私がこの年に単位不足で1学年を落第してしまうと、その時点で大学受験資格も失ってしまうことになる。しかも、次年度には旧制高校が廃止になるので、ここで落第すると新制高校生として1学年からやり直さなければならないのだ。私の単位不足の可能性を聞きつけた親友たちは、実に親身になって心配してくれた。そして、こぞって担任に願い出てくれたのだ。彼らはビッテン(bitten)と称し、噛みつくような勢いで先生に掛け合ってくれた(bitten とはドイツ語で“頼む”、“求める”、“問う”などを表す動詞)。「伊室の2学期の成績の6割を3学期の成績として与えてやって下さい。彼の実力が落第するほど下がっているとは思えません! お願いします!」私は涙がでるほどうれしかった。この親友たちのお蔭で、私はクラスのお尻から2番目の成績をもらうことができた。ぎりぎりの点数で何とか1学年の修了が叶ったのである。人によって多少の差はあるだろうが、旧制高等学校が持っていた特有の「自由・自治」の空気を謳歌してきた者は、在学中の体験を “良き思い出”として持っていることが多いと思う。もちろん、私もその一人だ。少なくとも敗戦後から新制に変わるまでの間、旧制高等学校における独立自治の気風はその後に類を見ない稀有のものだった。GHQもこの旧制高校の長所を学制改革によって新制高校に引き継がせようとしたようだが、一度壊したものは学制改革によっても再生することはなかった。 私は、この旧制高校の奔放な空気の中でこそ、敗戦直後の重苦しかった精神状態から一気に解放され、生涯にわたる多くの親しい友人たちを得ることができた。そして、戦前の陸軍幼年学校や予科士官学校で培われた精神力や体力とは別の意味で、自分の中の人間性を豊かにしていくための感覚を体得したように思える。ほんの1年間にすぎないが、私のその後の生涯にとってかけがえのない珠玉の1年間だと言っていい。その大切な1年間を親友たちの後押しで修了することができた私が、次に踏むべきステップは大学入試である。大学もこの年から旧制と新制が同居することになるのだが、私たちの学年が入ろうとするのは、もちろん文字通りの新制の方だ。ただ、多くの友人が新制東京大学の第1期生の入学試験を受ける流れができていたので、私もそれに乗って受験した。結果は合格だったが(ちなみに文科Ⅰ類、法学部コースだ)、きっと高校時代の内申書はあまり問題にはされなかったのだろうと、私は密かに思っていた。ところが私の友人の一人に珍事が起きた。ここでの主人公は、私が寮で作ったカレーを「ボリューム、ボリューム」と言っては早食いを決め込んでいた渡辺文雄である。合格発表の日、私は渡辺と一緒に連れ立って大学まで見に行った。すると掲示板には、私の名前も渡辺の名前もちゃんと書かれている。「やったな!」と二人は笑みを浮かべて握手をし、合格の書類をもらって校門を出た。そしてそのまま、道玄坂まで足を伸ばし、祝杯を上げたのである。ところが翌日、その渡辺が浮かぬ声で電話をしてきた。「おい、俺、実は落っこってたんだ。間違いだったんだよ」と言うのである。聞けば、同姓同名、漢字表記も同じ、もう一人の渡辺文雄が合格で、ボリュームこと渡辺文雄は残念ながら不合格だったというのだ。誰もが落ちるはずはないと思っていたのだから、渡辺の意気消沈ぶりは尋常ではなかった。このとき、「そうか、せっかく道玄坂でお祝いしたのに…、残念だったな」とは言ってみたが、それ以上の慰めの言葉が出なかった。もう一人の渡辺文雄”(合格した方の渡辺)と入学後の大学構内でばったり遭遇したのだ。同年入学で同級生になったのだから、いつかは出食わすだろうとは思っていたが、対面した瞬間にはその男が“件の渡辺”であることなど知るはずもない。すると向こうから「伊室さん、お久しぶりです」と声をかけてきたのだ。見覚えはあるが、名前が思い出せない。「渡辺ですよ、東京幼年学校で1年後輩だった、渡辺です」「おー、そいつは奇遇だ」と声を発したところで、「まさか」と思い聞いてみた。「で、渡辺君…、君…、下の名前は何て言ったかな?」「いやだなー、お忘れですか、渡辺文雄ですよー」私は驚いて声を上げた。 彼によれば、合格発表で自分の名前を見つけて意気揚々と大学の事務所まで足を運んだはいいが、既に渡辺文雄という人物が合格通知と書類を持って行ったと告げられたという。「あなたが合格した渡辺文雄さんということなら、何か証明するものがなければねぇ」と、合格した本人なのに冷たくあしらわれたのだ。「そのときは身分証明になるのは持っていかなかったし、その後の手続にえらい苦労させられましたよ」 この合格した方の渡辺文雄は、卒業後は農林省に入り、水産庁長官などを歴任してから、農林水産次官を経て、栃木県知事(確か4期務めた)になった男だ。彼にしてみれば、確かに気の毒といえば、気の毒な話だったと言える。 東大第1回生の入試には失敗した方の渡辺文雄は、翌昭和25年、今度は文科Ⅱ類(経済学部コース)を受けで見事合格している。そして、彼とはその後も親しい付き合いが続いた。├├【第1章】安田火災での面接試験 伊室 一義 KAZUYOSHI IMURO | MYWAY安田火災の入社試験は合格私という人間を率直に伝えるということが一番大事だと思い、とっさに語気強く答えた。「私は、暴力で会社をこわすようなことはしません。人の意思に反して無理矢理に大衆動員をかけるような今日の左翼のやり方にも反対です」実はこのとき思い出していたのは、旧制静高で共産党シンパの先輩からかなりしつこく入党を勧められた光景だった。あの夜の学生寮での先輩のしつこさは、私の身体に反発心を覚えさせるほどのものだったので、そのトラウマによる左翼イメージ対する強い反応のようなものが、この社長面接で期せずして吐出されてしまったのだ。私のあまりにはっきりした物言いに、社長は目を丸くしていたが、隣に控えていた人事課長は、何やら不思議な笑みを浮かべていた。結論から言ってしまうと、この安田火災の入社試験は合格となった。決して思想的に問題のないことが証明できたわけでもないのに、である。何が合格の決め手になったのか、入社後も確かめることはしなかった。
2025年01月05日
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タクシーメーターの料金改定と計量法への対応├計量計測データバンク ニュースの窓-37-タクシーメーターの料金改定と計量法への対応├├タクシーメーターの料金改定と計量法への対応├├タクシー料金はどう決まる?気になる値上げの理由まで解説 |教えて!おとなの自動車保険 (ins-saison.co.jp)├├タクシー運賃関係 - 近畿運輸局 (mlit.go.jp)├├青森県内のタクシー、6月15日から値上げ 13.96%、初乗りや運賃加算の距離短く(Web東奥) - Yahoo!ニュース├├青森のタクシー、13・96%値上げへ、6月15日から:朝日新聞デジタル (asahi.com)├├青森県内タクシー運賃改定へ 初乗り・加算ともに距離が短く実質値上げ 燃料費高騰などで実施 | TBS NEWS DIG (1ページ)├├群馬県内のタクシー運賃値上げへ 関東運輸局が審査開始 来年夏適用へ | 上毛新聞社のニュースサイト (jomo-news.co.jp)├├韓国・ソウルのタクシー きょうから初乗り料金値上げ | 聯合ニュース (yna.co.kr)├├初乗り600円→630円等…タクシー運賃が愛知・岐阜の多くの地域で値上げへ 燃料費の高騰などで3/20から | 東海テレビNEWS (tokai-tv.com)├├タクシー運賃関係 - 近畿運輸局 (mlit.go.jp)├├タクシー運賃の値上げ「待った」 2社への処分、地裁が差し止め決定:朝日新聞デジタル (asahi.com)├├県内のタクシー運賃 約15%値上げ|NHK 石川県のニュース├├香川地区のタクシー運賃が値上げ 普通車初乗りは750円に 利用者からは理解を示す声も | KSBニュース | KSB瀬戸内海放送├├沖縄県 タクシー料金 秋に値上げへ – QAB NEWS Headline├├県内のタクシー運賃 6月にも値上げ 国が運賃改定必要と判断|NHK 青森県のニュース├├青森県内のタクシー値上げへ 7月にも|交通,経済・産業・雇用|青森ニュース|Web東奥 (toonippo.co.jp)├├青森県内のタクシー、6月15日から値上げ 13.96%、初乗りや運賃加算の距離短く(Web東奥) - Yahoo!ニュース├├青森県におけるタクシー運賃改定~新運賃の公表について~令和元年12月13日国土交通省東北運輸局000176165.pdf (mlit.go.jp)├├タクシー料金 | 一般社団法人 青森県タクシー協会 (aomorikentaxi.or.jp)├├青森県のタクシー料金・運賃情報 タクシー料金を調べる タクシーサイト (taxisite.com)├├秋田市のタクシー運賃値上げへ 5月31日から実施|秋田魁新報電子版 (sakigake.jp)├├大阪、兵庫のタクシー値上げ…3地区で5月31日から:地域ニュース : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)├├【独自】タクシー料金値上げへ 神戸と阪神、播磨地域 事業者「初乗り最大750円」申請 早ければ5月にも | 総合 | 神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)├├沖縄本島でタクシー運賃改定。2023年9月中を目途に。 | タクシーメディア by転職道.com (tenshokudou.com)├沖縄の離島地区タクシー運賃を値上げへ 審査経て秋頃改定の見込み | HUB沖縄(つながる沖縄ニュースネット) (hubokinawa.jp)├仙台のタクシー料金値上げ 初乗り710円に | khb東日本放送 (khb-tv.co.jp)├├東北各地のタクシー料金が値上げへ 仙台は乗車3キロで2割増:朝日新聞デジタル (asahi.com)├├札幌圏のタクシー、今夏にも値上げ 20年2月以来 人件費や燃料費の高騰で:北海道新聞デジタル (hokkaido-np.co.jp)├├あすからタクシー料金値上げへ 帯広圏初乗り550円→690円に | 十勝毎日新聞電子版-Tokachi Mainichi News Web├├タクシー料金、種子島・屋久島も「値上げを」 1社が申請、7割の賛同あれば改定 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com├├挨拶・概要|一般社団法人 神奈川県タクシー協会 (taxi-kanagawa.or.jp)├├滋賀県のタクシー料金・運賃情報 タクシー料金を調べる タクシーサイト (taxisite.com)├├タクシー 運賃 値上げ, Readytodistribute.com├├鳥栖のタクシー会社値上げ申請 物価高や燃料値上げ受け | 行政・社会 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞 (saga-s.co.jp)├├京都市でタクシー普通車の初乗り運賃値上げ、1キロ500円 5月1日から|経済|地域のニュース|京都新聞 (kyoto-np.co.jp)├├岩手県内のタクシー運賃値上げ 12月19日から - 日本経済新聞 (nikkei.com)├├タクシー初乗り420円→500円へ 15年ぶり値上げ (tv-asahi.co.jp)├├名古屋地区 タクシー値上げ 12月5日から - 日本経済新聞 (nikkei.com)├├多摩地区で12年ぶり タクシー料金改定 初乗り(1・2㌔)500円に | 西の風新聞 (nishi-kaze.com)├├タクシー運賃3年ぶり値上げへ 燃料費高騰受け栃木県内業者 12月改定目指す|県内主要,社会,経済|下野新聞「SOON」ニュース|下野新聞 SOON(スーン) (shimotsuke.co.jp)├├タクシー初乗り1キロ500円に値上げ 5月、県内全域:中日新聞Web (chunichi.co.jp)├├現役ドライバーが物申す タクシー料金"15年ぶり"値上げで「本当に割を食う人たち」とは | Merkmal(メルクマール) (merkmal-biz.jp)├
2025年01月04日
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テニュアとは 産総研は任期付き職員制度を廃止├計量計測データバンク ニュースの窓-44-テニュアとは 産総研は任期付き職員制度を廃止├(みだし)[解説]テニュアとは(計量計測データバンク編集部)(本文) テニュア(英語: tenure、academic tenure)は、大学等の高等教育における教職員の終身雇用資格(期間の定めのない労働契約)である。学術上のテニュア 米国、カナダ等の北米の大学においては、博士号取得後、任期付きの講師 (lecturer)、博士研究員 (post-doctorate researcher)、そしてテニュアトラックの助教 (tenure-track assistant professor、アシスタント・プロフェッサー) のいずれかの職階上の地位を得て大学や研究機関に勤務することとなる。テニュアは米国大学教員協会 (AAUP) においては「審査期間を成功裡に満了後は、教員は正当なる理由又は特別の環境が存在し、かつ教員委員会での聴聞後でないと解雇できないという取決め」のこと。テニュアは優秀な研究者に与えられる終身身分保障制度(tenure for life)であり学問の自由を保障する意味が強調されていた。近年では研究者の地位と経済面での安定確保の意味が強く加味されている。テニュア取得までの期間とプロセス 米国の大学においてはAAUPの基準もあり、どの大学でもある程度類似の基準が用いられている。テニュア審査応募資格としてはテニュアトラックのポジションに在籍(つまり博士号取得済が前提)審査期間(通常はファイル提出時点までの5年間)成功裡に勤務してきた実績最低でもアシスタント・プロフェッサーの肩書き保持が基本条件であり、6年目の初頭早々に応募者が在籍大学のガイドラインと書式に沿って自分で作成したファイルを提出し、各委員会の審査を通過していくこととなる。米国大学においては研究活動、教育活動、雑務事務の3本柱を全て過誤なくこなしている上で、かつ研究活動においては査読付き学術論文を複数発表、審査付学会報告を複数していないと、いかに他の2分野に優れていても研究者としての終身身分保障であるテニュア取得は困難と信じられている。また、アシスタント・プロフェッサーからテニュア審査を申請する際は、准教授への昇進も同時に申請することになるため、昇進・テニュア審査申込を同時に行うことになる。米国の大学においては、学術年度は9月に開始し5月までとなるが、5年目の5月には申請意図を明示し、夏季期間に外部審査員の推薦状取付、9月には完成したファイル(申請書)を申請者が完成させる必要がある。その後、学科昇進・テニュア委員会投票、学部昇進・テニュア委員会投票、学部長の意見書、次に大学全体の昇進・テニュア委員会投票、副学長意見書を経て、学長の意見書、その後、外部委員からなる理事会の審議投票を得て完了となる(州立大学の場合は、理事会後にもう一つ、州政府教育委員会審査が必要)。この時点で翌年の5〜6月になるのが通常であり、1年がかりのプロセスとなる場合が多い。テニュア審査後 テニュア審査でテニュアが認められた場合 6年目満了前に、通常は学事トップである副学長 (Provost) から「次学術年度よりテニュア供与する」旨の書面通知が回付される。テニュア審査でテニュアが認められなかった場合 基本的には7年目は、更新不可能な1年間任期付きのアシスタント・プロフェッサー扱いとなるため、この1年間を利用して、別の大学で環境を変えて再びテニュアトラックで研究者として再挑戦する職場探しを行うか、テニュアトラックのプレッシャーを避けて、単年度又は複数年度任期付き教員(非常勤)として教鞭を執っていくかの決断を迫られることとなる。├(みだし)産業技術総合研究所が任期付研究員制度を廃止(本文) 国立研究開発法人産業技術総合研究所は任期付研究員制度を原則廃止した。人事制度改革の一環として「テニュアトラック型(博士型)」といわれる任期付研究員」制度を廃止し「パーマネント型研究員(定年制・任期無)」としての採用枠を大幅に広げる。 よりチャレンジングな研究や中長期的な研究は、任期採用制度のもとでは成果を出しにくいことから任期のない雇用形態に移行することになった。ただし一部の公募課題では任期付研究員採用をつづける。├├(みだし)├産総研(国立研究開発法人産業技術総合研究所)における中途採用比率(本文) 最先端の研究開発を行う産総研における研究職員と組織の運営を支える事務職員の中途採用比率が公表された。 「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」に基づき、中途採用比率が公表されたもの。正規雇用労働者の中途採用比率2018年度63.5%、2019年度66.1%、2020年度61.9%。(公表日2022年3月7日)。 国立研究開発法人産業技術総合研究所は、日本最大級の公的研究機関として日本の産業や社会に役立つ技術の創出とその実用化や、革新的な技術シーズを事業化に繋げるための「橋渡し」「社会実装」機能に注力している。そのための体制として産総研のコア技術を束ね、その総合力を発揮する「5領域2総合センター」があり、全国11か所の研究拠点で約2300名の研究者がイノベーションを巡る環境の変化やそれらを踏まえて策定された国家戦略等に基づき、ナショナルイノベーションシステムの中核的、先駆的な立場で研究開発をしている。
2025年01月03日
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数学と物理学を語った言葉を拾う├計量計測データバンク ニュースの窓-66-数学と物理学を語った言葉を拾う├├獨協大学経済学部 森永卓郎教授、経済社会学 (youtube.com)2020/10/02【経済社会学】経済学は多様な人々が暮らす現実の社会を対象とした学問であるため、数学や物理学といった学問のように完全な再現性があるわけではなく、テーマや理論が常に揺れ動いていきます。そのため、本講義では、経済学と社会学の融合をめざして、経済理論の背景となる社会の動きから、経済をみていくことをテーマとします。春学期のテーマは、幸福です。我々は一人ひとりがより豊かな暮らしをするために社会を作り、経済を発展させてきました。しかし、現実にはいまでも多くの人が貧困と抑圧に苦しんでいます。この講義では、なぜ資本主義社会がすべての人を幸せにできないのかを経済社会の歴史と日本の現状を踏まえて考えていきます。├├花藤食堂所在地: 〒404-0031 山梨県甲州市塩山上粟生野1101営業時間:営業時間外 ⋅ 営業開始: 火 11:00秋分の日(振替休日)は時間が異なる場合があります電話番号: 0553-33-6867├├数学は言葉 - hiroyukikojima’s blog (hatenablog.com)2009-11-21 数学は言葉 一般の人が、数学を本を読んで理解しようとするとき、二つの障壁を乗り越えねばならない。一つは、語られている概念が抽象的であること、そしてもう一つは、それを語っている「言葉」が数式というこれまた「読みにくい言語」だ、ということだ。書き手が後者を突破する道は二者択一である。第一の道は、数式を使わず、極力日常の言語で表現すること。第二の道は、あえて「数式言語の読み方をレクチャーする」ことである。でも、第二の道を選択する書き手はほぼ皆無である。なぜなら、相当しんどい作業になる上、それだけの努力が本の売り上げに貢献するとは考えられないからだ。かくいうぼくも、第二の道を試みたことは一回しかない。それは『文系のための数学教室』講談社現代新書で、「ルベーグ積分」を題材に、積分記号の読解の作法を伝授した部分だ。そこでのメッセージは、「数式には独特の読解の仕方がある。記号を記号のまま受け入れようとせずに、自分の懐に引きつけ、自分の感性で読むように心がければいい。そうすれば数式から逃げなくてもよくなる」ということであった。でも、こういう勇気ある試みをしたのは、これ一回であった。だって、なんたって、編集者が嫌がるからね。「せんせー、今回は縦組みで行きましょう!」と毎回言われるから、数式の入れようがないじゃないか。 この険しい第二の道に、勇猛果敢に挑んだのが、新井紀子『数学は言葉』東京図書である。新井さんは、今をときめく売れっ子数学ライターでありながら、こういう不毛地帯に突撃したのはさすがの思いっきりだとアッパレに思う。├├物理の数学 - 岩波書店 (iwanami.co.jp)数学は物理を語る言葉である。微積分から出発し複素関数や偏微分方程式に至るまで、物理のさまざまな分野で使われる重要な7つの数学を、応用に注意しながら、分かりやすく、ていねいに説明。力学系の理論、カオス、ソリトンなどにも触れる。大学初年級から他分野の読者まで、数学を道具として使うひとびとに幅広く役立つ教科書。├├「物理帝国主義」について (jps.or.jp)細矢治夫〈お茶の水女子大学理学部情報科学科 112東京都文京区大塚2-1-1 e-mail: hosoya@is.ocha.ac.jp〉「帝国主義」という言葉の歴史学的な意味はともかく,広い意味では「他の小国の権威・存立を犠牲にしても,自国の領土・権益の拡大をはかろうとする侵略的傾向」という,金田一の「新明解国語辞典(三省堂)」の解説がなかなか的をついていると思う.しかし,「物理帝国主義」という言葉はどんな辞書にも載っていないし,きちんと定義している文献も存在しないであろう.にもかかわらず,この会誌の読者諸氏のほとんどは,ほぼ同じような意味に解釈されていると思う.ところが一歩物理の外に出ると,自然科学に範囲を限っても,そんな言葉を聞いたことがないという人が結構多いのではないかと思う.つまりこの言葉は,物理学者或いは物理屋さん自身がつくりあげ,身内の間で,或いは専門の近い人の間でjargonのように使われている言葉であると,化学畑の私は認識している.そもそも物理学とは何であろうか.天文学は天体を,化学は物質を,生物学は生命体を,それぞれ研究の対象とする自然科学として,それぞれの定義は明白である.しかし物理学には特定の対象はなく,自然界に存在するあらゆる物質とそれらのからむ現象を支配する法則を,厳密にかつ定量的に解明する学問であると言えよう.歴史的に見ても,身近な物体の運動の解析から始まり,地球や天体,更には宇宙の運動からその歴史にまでさかのぼった研究を拡げたかと思えば,物質の根源である原子の内部構造を探り,ついには生命現象の基本的な理解を進めようという学問的な流れの中核に迫ろうとしている.ギリシャ時代の自然哲学以来の自然科学の発展の歴史をたどって眺めたときに,天文学者,生物学者,化学者といわれる人達の活躍は,物理学者のそれに較べれば,はるかに後発,かつ断片的である.プラトン,アリストテレス,アルキメデスはともかく,ガリレイ,ケプラー,ニュートンというまぶしい名前を,化学や生物学の教科書の中に見つけることはできない.ところが,17世紀の後半から19世紀の初頭にかけて活躍した著名な科学者を見ると,ラボアジェは典型的な化学者であるが,ボイル,キャベンディッシュ,ドルトン,アボガドロ,ファラデーなどは,化学者であるか,物理学者であるか本人も意識をしていなかったと思う.両者の差は本質的ではないと私は思う.ここで私自身が学生だった1950年代後半に突然話を移したい.高校,大学入試,教養の講義では,物理・化学・生物という区別が厳然として存在していた.専門の学科に進学した瞬間,物理と化学という別々のおまじないをかけられ,全く混じりあわない空間を,それぞれ異なる呪文を唱えながら這いずりまわる運命を授けられたような気さえした.化学科の学生達の一部は,物理数学,力学,原子物理学というような物理学科の大先生の講義をもぐりこんで聴講していたが,逆のケースは皆無であったと思う.素粒子物理と物性物理が全盛であったから,その間にある原子・分子の面白い実験事実はおろか,量子力学的な応用と展開,特に化学結合の多様性と意外性について注目していた物理学者は小谷グループ以外は極く僅かだったと思われる.量子力学誕生後間もなくパウリは,「原子や分子,更にはそれらに関わる全ての問題は量子力学で完全に説明される.化学の出番はもうなくなった.」という勝利宣言をした.しかしそれから70年近く経った今でも,第一原理計算で再現できる問題は化学の中のほんの一部である.幸いにして最近はあまりないが,現実の化学物質について実験から得られた詳細な事実や,大がかりな理論計算から得られた結果を物理系の人と話をすると,「化学でそんなことまでやっていたのですか」とか,「そんな大きな分子についての結果が信用できるのですか」というような感嘆文や疑問文をもらうという経験が再三となくあった.ヨーロッパ全土を蹂躪した悪名高きナポレオンは,その強大な力を持つ直前にエジプト遠征を行ったが,それは最近再評価されている(「日経サイエンス」1994年11月号).即ち150人という大勢の科学者を同行し,エジプトの現在から過去までのあらゆる文化と動植物を含めた自然を記録し,学び,それらをヨーロッパ全土に伝えたのである.その精神が遠征軍全体に伝わっていたからこそ,こわれかけた神殿の地面の中から,ヒエログリフの解読の鍵となったロゼッタストーンがフランス軍兵士の手によって見つけられたのである.なお当のナポレオンは,イギリスのネルソンに敗れてから密かにエジプトを脱出して復活を遂げるのだが,残されたフランスの科学者達はその後も現地で精力的に研究を続けた.200年前のフランスの科学者達は,断頭台の露と消えたラボアジェを始めとして,国の存亡も自らの生命の保障も全くない革命と激動の時代に,国を動かし,地球規模の測量をもとにメートル法を制定したり,それぞれの分野で世界的な業績を上げている.現代のフランスの政治家や原子力科学者が実にちっぽけに見える.われわれ化学の人間が物理学者へ期待することは,帝国をつくるならば,ナポレオンのエジプト遠征のように,被征服者の築き上げた学問的成果を充分に理解したその上につくって欲しいということである.物質科学を制するにはバンド理論だけでは不十分だし欠陥もある.分子の化学結合の多様性と意外性を正しく理解する必要がある.宇宙天文学,生物物理学また然りである.追記:最近伏見康治先生から,「物理帝国主義」という言葉は,桑原武夫が初めて使った,とお聞きした.├├数学 - Wikipedia数学(すうがく)とは、数・量・図形などに関する学問であり、理学の一種。「算術・代数学・幾何学・解析学・微分法・積分法などの総称」とされる。数学は自然科学の一種にも[3]、自然科学ではない「形式科学」の一種にも分類され得る。「数学の起源は人類が農耕を始めたこととの関連が大きい」とも。農作物の分配管理や商取引のための計算、農地管理のための測量、そして農作業の時期を知る暦法のための天文現象の周期性の解明などである。これら三つの必要性は、そのまま数学の大きな三つの区分、構造・空間・変化のそれぞれの研究に大体対応しているといえよう。この時点では、例えば土木工事などの経験から辺の比が 3: 4: 5である三角形が直角三角形になることは知られていても、一般に直角三角形の辺の長さの比が c2 = a2 + b2 (c, b, a は辺の長さ)になること(ピタゴラスの定理)は知られていなかった。数学が独立した学問でなく純粋な実用数学であった時代には、あたかも自然科学におけるデータのようにこれらの関係を扱い、例を多数挙げることで正しさを主張するといった手法でもさして問題視されなかった。しかし数は無限に存在するため、沢山の数を調べても完全に証明することはできない。数学が一つの学問として研究されるようになって以降は、論理を用いて真偽を判定する「数学的証明」が発達した。現代の数学でも数学的証明は非常に重視されている。├├数学とは何か数学は、量、構造、空間、そして変化の研究です。数学者はパターンを探して、新しい予想を定式化し、適切に選ばれた公理と定義から厳格な推論により真理を確立します。 抽象概念と論理的推論を用いることにより、数えること、計算、測定、そして物体の形と動作の組織的研究から、数学は進化しました。数学の分野は、基礎と哲学、純粋数学、応用数学の大きく3つに分類されます。数学(すうがく)とは、数・量・図形などに関する学問であり、理学の一種。「算術・代数学・幾何学・解析学・微分法・積分法などの総称」とされる。数学は自然科学の一種にも、自然科学ではない「形式科学」の一種にも分類され得る。
2025年01月02日
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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2025年1月1日号「日本計量新報週報デジタル版」日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25品質工学座談会 品質工学は計測技術にどう貢献したのか―2014年座談会「品質工学は計測技術である」から10年を振り返って―2024年10月5日開催(日本計量新報座談会)品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量管理の解釈と必要な変革の実行計測でも科学でもない数値の強調と人の健康日本の氷河を眺望する白馬駅近くの白沢峠 夏森龍之介白馬岳 左の白い田圃は白馬の大雪渓 右手に回るとここにも雪渓があり氷河であることが調査されている。 白馬岳にある幾つかの雪渓が氷河かもしれないと調査されている。2020年から新潟大学と白馬村が共同して白馬連山の氷河調査を始めた。対象は不帰沢雪渓、杓子沢雪渓、白馬沢雪渓の三つ。氷の流動が確認されると氷河としての認定が有り得る。調査を率いる新潟大学の奈良間千之教授に話は次のとおり。「現在、杓子沢雪渓、不帰沢雪渓、白馬沢雪渓の三つの雪渓について氷河調査を行っている。地中レーダー探査により三つの雪渓は30m以上の厚さの氷体を持つことを確認した。杓子沢雪渓と不帰沢雪渓で流動が確認された。この二つの雪渓が氷河であるとされるかもしれない。これら雪渓を氷河と論証するために、氷河調査に関する論文を学術誌に投稿して受理される必要があり、現在その論文を作成している」「世界の山々に行かなければ見られなかったものが町から見える距離にあることが白馬の氷河の魅力。多様な環境を持つ白馬の山の魅力に、氷河というもう一つ新しい魅力が加わり、白馬の箱庭景観を豊かにする」。2025年日本経済の素描 デニムのジーンズのブランド品のリーバイスの生産はバングラディッシュなどでなされていて一本の原価は1,000円に満たない。世界規模で販売されるこのブランド・ジーンズは一本10,000円以上で小売りされる。日本のファーストリテイリングは、ユニクロやジーユー、セオリーなどのブランドで世界展開している。原価ということではリーバイスよりも抑えられているはずだ。大谷翔平が活躍する米国の球場で Levi'sの看板が目に付く。 ファーストリテイリングは、素材調達から企画、生産、販売までの一貫したプロセスにより、高品質な服をリーズナブルな価格で販売。世界のカジュアル衣料品の企業の中での売上はZARAを擁するインディテックス(スペイン)、H&M(スウェーデン)に次ぐ第3位、時価総額は世界1位。グループの中核事業であるユニクロ事業は、世界中に2,434店舗を出店。ジャーナリストの横田一がユニクロに従業員として潜り込んで店舗運営の実態を暴露した。 リサイクル・ショップのアジア人労働者が顧客割合として多い。日本人労働者のある部分がアジア人労働者による置き換えがあるため。人手不足の対応に省力化・合理化投資による労働生産性の向上は限定的。人手不足とは労働力雇用の資金不足のことである。低賃金でしか雇うことができないのが中小企業。大企業であっても低賃金を前提とした事業運営の実態。非正規雇用は低賃金雇用のためになされる雇用方式。工場の海外移転が続く過程で日本の労働組合の組織率は低下し実態を失っている。電力労連は原子力依存、政府依存の体質を身に纏う。連合は自民党と仲良くしたい。独占的大企業の労働組合であり、政府の政策支援の下に成り立つ構造だ。 厚生労働省第3回社会保障審議会年金部会が2023年5月8日に発表した日本の将来推計人口(令和5年推計)では、わが国の人口は、2020年の1億2,615万人から、2070年には8,700万人に減少。高齢化も進行し、65歳以上人口割合は2020年の28.6%から一貫して上昇し、2070年には38.7%へと増加。 総務省統計局による 2022年(令和4年)7月の労働力調査(基本集計)に基づいて考察した外国人採用サポネット-マイナビグローバル (mynavi.jp)は、「深刻化する日本の人手不足問題:原因と解決策」のリポート。人手不足とは、企業が企業が業務を行うにあたって必要人材が集まらず業務が思うように行えない状態。日本の人手不足は年々深刻化しており対策を講じる必要がでてきた。少子高齢化や団塊世代の一斉退職、非正規雇用の待遇の低さなど問題がある。終身雇用が当たり前だった時代とは異なり、転職を繰り返す人も増えている。人手不足の最も大きな要因は少子高齢化。生産年齢人口に該当する15歳から64歳の人口の減少。人口減少と少子高齢化のグラフは直近の20年間では右肩下がりで、これからこの世代に突入する14歳以下の人口も減り続けて、65歳以上の人口は増加の一途。内閣府見通しでは2020年時点で生産年齢人口は7,406万人だが、2065年には4割近く減り4,529万人となる。人手不足が原因で廃業・倒産となる可能性が高くなる。廃業や倒産は免れても人手が足りなくて十分なサービスを提供できないことから、企業の評価が下がる。人手不足は中小企業には深刻。中小企業庁が公表している「令和元年度(2019年度)の中小企業の動向」は、製造業、建設業、卸売業、小売業、サービス業のすべておいて、従業員の今期の状況について「過剰」と答えた企業の割合から、「不足」と答えた企業の割合を引いた「従業員数過不足数DI」が2013年第4四半紀にマイナスとなり、それ以降は一部の業種で改善が見られるものの、人手不足感は強まり続けている。地方では有効求人倍率があがっていても雇用に結びつきにくい。よりよい条件や職場環境をお求めて転職する人も増えており、特に若者の都心部流出が進んでいる。東京には毎年10~20万人程度が地方から移住しており、一極集中化が進んでいる。これが地方の人手不足要因。 政府が労働賃金の引上げを口にする日本の政治運営の状況。GDPの6割が個人消費であるから経済政策は変わる。輸入資材と原油高の高騰は、円安とロシア・ウクライナ戦争を契機としたエネルギー価格上昇がもたらした。諸物価が高騰していても実質賃金の低下が統計で証かされる。自動車、電力、電機ほかで政策的に賃上げされても世の中には賃上げのための体力と条件がない。供給と需要とのギャップが続くなか経済は低迷したまま。圧力計製造業は需要に対して供給力が慢性的に過剰。中小企業による競争だ背景にある。計量計測機器産業は全般的にこのような状況。需要に対して供給が多ければ価格低下の圧力が働く。圧力ゲージ一個の出荷額が300円だと苦笑していたのは20年前のことであるが現在の状況は不明。 世界の国内総生産(GDP)に占める日本の割合は、2022年時点で4.2%。1980年以降で最低の割合。円安の影響が大きい。日本のGDPに占める割合の推移は、1980年:9.8%、1995年17.6%、2010年8.5%、2022年4.2。国際機関の予測は、2040年には3.8%、2060年には3.2%まで低下する。経済規模は2014年に中国に追い抜かれ、2030年にインドに肩を並べられる。世界GDP割合が1995年に17.6%であったのが2022年に4.2%に縮小しているのは企業の海外生産が進行したことにもよる。ある人が素朴な疑問を発した。海外の儲けをそのまま日本に持ってくることができないものか、と。そのようにはなっていない。労働者の賃金を払い、海外での販売経費とから利益がもたらされるが、利益は海外での再投資に回される。ここには国内の雇用が除外され、GDPの6割を占める個人消費も関係しない。 経済のことを分析して一喜一憂している傍らで自身による大災害の要素がつねに潜んでいる。2011年3月11日発生の東北大震災を現実の問題として意識し予測してこれに備えることはなかった。2024年1月1日の能登大地震にしても同じ。能登地震では志賀原発は休止中であったから原発被害は発生しなかった。珠洲には原発計画があり立地場所近くが震源であった。福島原発事故の20㎞圏内の人口の回帰率は1割であり戻っているのは老齢者が多い。ここの経済は完全に崩壊している。東南海大地震、関東大地震ほかが待ち受けている。高層ビル群と都市部の弱弱しい社会インフラが崩れたときの経済損失を考慮から排除しているのが政府機関とエコノミストによる経済予測。 労働生産性を一定だとすると2020年に1億2,615万人であった人口が2070年には8,700万人に減少し、2020年の生産年齢人口は7,406万人が2065年には4割近く減り4,529万人となるとしたら、日本の経済規模は人口ならびに生産年齢人口の減少に伴なうどの割合かで小さくなる。小さな国で大きな経済を夢見るのは過去の亡霊を追うのと同じことである。GDPの消費割合は60%から70%に進行していく。人口が減れば消費の全体は減る。人口が戦後復興の昭和20年(1965年)の7,000万人になり、明治初年(1868年)の3,000万人に下降していく日本。経済規模を維持していくこと自体が難しい。 森永卓郎が言う。月に15万円の年金があれば豊かに暮らせると。都心に住まなければ住宅費は安い。500万円を用意すれば十分な規模で質の高い住宅を取得できる。小さな国の小さな経済の日本国。とはいっても日本国の人口は比べれば大きい。米国の大学卒業のための学費が4年間で5,000万円になることを有識者たちが語る。一部の大卒者とそれ以外の人々との年収の格差は米国で広がっている。日本がそのようになりかねない。松本駅前にあった酒場「昭和横丁」 森龍之アラジンの青い炎が静かにゆらぐ日曜の午後 森龍之令和6年12月15日(日曜日)第75回計量士国家試験実施1. 試験の場所北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州及び沖縄2. 試験の期日令和6年12月15日(日曜日)3. 試験の区分試験は、環境計量士(濃度関係)、環境計量士(騒音・振動関係)及び一般計量士について行う。4. 受験願書(試験案内書)の配布期間受験願書(試験案内書)の配布期間は令和6年7月1日(月曜日)から同年8月2日(金曜日)まで、インターネット及び郵送による配布とする。計量士制度に関するお問合せ経済産業省イノベーション・環境局計量行政室メールによるお問合せはこちら電話:03-3501-1688(直通)受付時間:9時30分~12時00分/13時00分~17時00分(平日のみ)雪の日の朝とシジュウカラ 森龍之・自然のことマユミの赤い実飯塚幸三氏令和6年(2024年)10月26日逝去ロシア、ウクライナ、米国、日本と国の事情 社会主義の弊害と資本主義の幻想をローマ法王が口にした。原案作成に協力したことに感激したのが宇沢弘文であった。社会的共通資本の概念を提唱した宇沢弘文は日本の高速道路は米国車を売り込む目的でつくられたことを『自動車の社会的費用』ほかで述べている。GHQの通訳に駈り出されて調査の現場にいた。国のため天皇のためと命をさしだした日本国民であった。その人々が今や米国を崇拝し、米国が誘導する思想を身にまとう。殺された家族と同じ苦しみをさせたいと過失の人を罵(ののし)り重刑を求める。国に命を捧げた人々と現代の日本人は同じ人だとは思い難い。[予稿]官僚制度と計量の世界 「大島太郎、福島新吾と旧制高等学校」 夏森龍之介晩秋の高原 ひと月の移ろい 甲斐鐵太郎計測でも科学でもない数値の強調と人の健康解説]トヨタ・プリウス池袋交差点事故(過去の計量計測データバンクの記事から)官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介霧ヶ峰挽歌 甲斐鐵太郞伊勢崎賢治氏の話のなかにウクライナ紛争解決と戦争の本質理解の糸口が隠されている伊勢崎賢治 - Wikipedia伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係伊勢﨑賢治 東京外国語大学教授 著者と語る『本当の戦争の話をしよう~世界の「対立」を仕切る』 2015.5.20第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【前編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」【中編】第一回講演会 伊勢崎賢治氏(東京外国語大学大学院 名誉教授) 「ウクライナ危機から学ぶ日本の安全保障と国際平和」 【後編】生命とは生命とは動的平衡(福岡伸一) サプリの99%は添加物で頼りない成分の科学的根拠(田村忠司)第5回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム「生命とは何か?それは動的平衡」福岡 伸一 2018年7月22日2大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界-福岡伸一 - Wikipedia(689) 田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart1】あなたはそのサプリの中身を知っていますか - YouTube田村忠司×宮台真司×神保哲生:【5金スペシャルPart2】あなたはそのサプリの中身を知っていますか串田孫一 とうきょうFM「音楽の絵本」の録音版モーツァルトの手紙から/串田孫一音楽の絵本 「冬の記憶」 串田孫一 詩と朗読気持よく働き一日を満足する日本でありたいソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん計量計測データバンク ニュースの窓-111-2024年ノーベル経済学賞「制度がどのように形成され、繁栄に影響を与えるかの研究のために」ノーベル賞の公式ウェブサイト - NobelPrize.org計量計測トレーサビリティデータベースとその辞書人工知能(AI)と人の頭脳の働かせ方2024年9月6日公務員塾発表 国家公務員への転職の穴場は林野庁係長職【穴場の受験先】どうしても公務員に転職したい受験生へ(社会人経験者採用)Vol.033 (youtube.com)林野庁森林管理局選考採用試験(事務系)について:林野庁 (maff.go.jp)林野庁ホームページ (maff.go.jp)森林管理局の概要:中部森林管理局 (maff.go.jp)住所:〒380-8575 長野県長野市大字栗田715-5電話:026-236-2720(代表) 026-236-2721(夜間・休日)法人番号:4000012080002上高地 秋の紅葉と梓川の流れ 甲斐鐵太郎目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)に信州とリンゴ 甲斐鐵太郎2024年ノーベル化学賞はAIでタンパク質の立体構造予測と新タンパク質設計の研究者ら(デビッド・ベイカー、デミス・ハサビス、ジョン・ジャンパー)2024年ノーベル物理学賞は人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明(ジョン・ホップフィールド氏とカナダのトロント大学のジェフリー・ヒントン氏)2024年のノーベル生理学・医学賞は線虫から「マイクロRNA」を発見した米マサチューセッツ大学のビクター・アンブロス教授(70歳)と、米ハーバード大学のゲイリー・ラブカン教授(72歳)にドングリが高原の宿の屋根をコツンコツンとたたく夜 甲斐鐵太郎品質工学の考え方 計量士 阿知波正之計量公務員への就職事情計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ)計量計測データバンク index 目次ページ(サイトマップ) 計量計測データバンク トップページ(計量計測データバンク目次) 日本計量新報全紙面 (PDFファイル)は「日本計量新報」本紙をご購読いただいている方のみ閲覧できます。閲覧の際は、本紙に記載された「今月のIDとパスワード」を入力して下さい。 日本計量新報 週報デジタル版(週ごとに電子メールでお送りするニュースです。webページで閲覧できます) 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンク What's the news 新着情報 日本計量新報社 過去の第一面 計量計測のエッセー( 2018年1月22日から日本計量新報の社説と同じ内容の論説です) 計量計測の話題(トピックス)過去の計量計測の話題(トピックス) よりぬき計量計測情報ニュース(過去のよりぬき履歴) 計量計測データバンクのTwitter(@keiryoukeisoku) 計量計測データバンクのfacebook 計量計測機器総合カタログ-質量計版- 計量士になるには 計量士とは 計量士国家試験 最新情報 「計量法の読み方」高原隆(元・地方公共団体職員)全文掲載(PDF・2.4MB) 「計量法の読み方」(PDF・2.4MB) 特定商品分類表ハンドブック 計量計測web情報総合サイト 計量計測データバンク 目次 サイト(一括閲覧サイト) 社会の統計と計量計測の統計 「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(一括掲載版) 「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(目次版) 計量計測データバンク 目次 サイト 日本計量新報 一面記事一覧 計量計測データバンク ニュース web 版(履歴の一覧) 計量計測データバンクWhat's the news新着情報 計量計測データバンク ニュースの窓 目次 計量法と行政のニュースの窓 目次 計量計測機器団体のニュースの窓 目次 計量計測データバンク ニュース-2- 日本計量新報 電子版の全紙面のID&PW(日本計量新報は紙面をインターネットで閲覧することができます。新聞と同じ形式のPDF ファイルです。webに掲載の全紙面です。どうぞご利用ください)(IDとPWは計量新報購読者に限り電子メールで月ごとにお知らせしております)日本計量新報全紙面 (PDFファイル)今月のIDとパスワードを入力して閲覧することができます。日本計量新報の全紙面閲覧(pdf版)のID&PWをご覧ください。2025年01月のIDとPWは次のとおりです。2025年01月ID:5165PW:A1PHYF25株式会社計量計測データバンク 編集部 edit@keiryou-keisoku.co.jp〒136-0071 東京都江東区亀戸7丁目62-16-803電話番号03-5628-7070 FAX03-5628-7071日本計量新報あて電子メール mail@keiryou-keisoku.co.jp
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