2009/03/19
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カテゴリ: 古代史系の妄想

古代史妄想コーナーへようこそ

日によって妄想したり、しなかったり、ラジバンダリですが、今日はどんな妄想へとどりつくことやら・・・・

昨日は弘文天皇こと大友皇子の側近(亡命百済学者たち)について妄想しました 。

今日は大友皇子のライバルであり、壬申の乱の勝者である大海人皇子こと天武天皇について考察したいと思います。

常々私は記紀において過失か故意か同一人物がいかにも他人のように分裂していると言及しております。

例をあげればきりがなく、天武天皇の兄とされる天智天皇も葛城皇子・東宮開別皇子・中大兄皇子、記紀だけでもこれだけで、最近ちまたをにぎわしている金春秋説は天命(ティン)開(ヒラ)別(ワケ)でキンハルアキであることから起因しています

(もちろん661年に武烈王=金春秋薨ずととも日本にて天智天皇が即位していますから、傍証はかなりあります。鎌足との蹴鞠の出会いも同じエピソードが金春秋と金ユシンとの間であります。)

蝦夷征伐を行った将軍、阿倍比羅夫も

天(アマ)命(メイ)開(ヒラ)別(ベツ)で、

アメイヒラベツ=アベヒラブ同一人物説もあります。 

てなわけで、じゃあ天武天皇はほかに誰に分裂しているの?

と検証してみると、いない・・・・ 

先日敏達天皇と「渟中」 が一致していると指摘しました。

あと斉明天皇は舒明天皇に嫁す前に用明天皇孫の高向王に嫁して漢皇子をもうけたとし、この漢皇子こそ大海人皇子(天武天皇)という説もかなりの支持をうけています。

ただ、この説は圧倒的有利というわけでなく、天武天皇が天智天皇より年長だということが確定した場合、初めて有利になるというだけの説です(いいすぎ?)

もちろん、日本書紀は天武天皇が編纂指示しているわけですから、当の本人を分裂させるわけにもいかないということですね。

反日本的(倭より)思想の古事記は33代推古天皇で止まっており、天武天皇の記述はありません。

日本書紀の成立は720年ですでに44代元正天皇の時代になっていましたが、元正天皇は天武天皇の孫(しかも皇太子草壁の娘)ですから、 祖父の編纂方針を大きくは変えなかったかもしれません。

が、天武朝の側近は蘇我氏がメインでしたが、元正朝になると、あの鎌足の息子の藤原不比等が台頭し、圧力をかけたと想像できます。

となると蘇我氏メインの天武朝廷では「大化の改新」のような悪役=蘇我入鹿のような記述を許すはずがなく、天武天皇時代には「大化の改新」の話はタブーだったのではないでしょうか?

もちろん実際のできごとが、

正義の味方=中大兄皇子、悪の帝王=蘇我入鹿

で、正義が勝った・・・という図式は藤原不比等が父鎌足を英雄にするために捏造したという説もあります。

実際に殺されたのは蝦夷・入鹿親子でなく、蝦夷・馬子(聖徳太子)という説もあるくらいです。

関裕二氏は蘇我入鹿=聖徳太子とし、大化の改新で暗殺されたという説を唱えています。

その入鹿=聖徳太子=高向王の子が漢皇子=大海人皇子だとします。

私はこの説を100%賛成ではありませんが、かなり近いところをついていると思います。

なぜ100%賛成できないかというと、関裕二説では天武天皇はピュアな蘇我系です。

そのようなシチュエーションでは、藤原不比等は入り込めませんし、川嶋・施基の両皇子や葛野王は皇族として残れません 。

通説では天武皇后の持統天皇が天智天皇の娘なので大友皇子以外生き残れたとします。

いいでしょう。

ただ、そうすると、桓武以降の泉涌寺に持統・元明が祀られないのは合点がいかないのです。

持統天皇が天智天皇の娘なので大友皇子以外生き残れたとすれば、そのおかげで即位できた光仁・桓武両天皇は天智天皇よりむしろ持統天皇を第一に祀らなければならないのです。(アマテラスは持統代替?)

(これが、持統非即位説につながり、長屋親王から高市天皇説に発展するのですが) 

天武天皇についてはまた考察します。 






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Last updated  2009/03/19 03:22:05 PMコメント(0) | コメントを書く


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