舎人親王はなぜ天皇になれなかったのか?
(聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか?)
とか、ばかり言及しきましたので、ここで目先を変えて
なぜ天皇になれたのか?シリーズにしてみたいと思います。
つれづれなるままに・・・・
白壁王は、天智天皇の孫です。
のちに62歳の高齢で第49代光仁天皇になります。
その子、山部王はのちの桓武天皇で、平安京遷都で有名すぎます。
父親は、政治的よりも歌人として有名な志貴皇子(施基皇子)。
志貴皇子は皇位継承順位第6位ながら天武天皇後継者候補の一角をになった皇子なので、その子である 白壁王即位は順当なのでは?
奈良時代の歴史に精通している人はよくご存じで、ヒステリック女帝とレッテルを貼られた称徳天皇(事実はどうかは賛否両論あります)は、気に食わない皇族(とくに天武の孫の代の王)をことごとく粛清します。
白壁王は出世は遅かったのですが、聖武天皇の皇女、井上内親王を妃にし着実に足場を固めていました。
が、一部の説には、称徳天皇の粛清を恐れ、アル中のふりをしていた(アル中だった?)
称徳天皇が後継者を指名しないまま崩御すると、藤原百川の陰謀(策略?)で
「亡き帝は後継者を白壁王にしていました」とでっちあげ
まんまと吉備真備を失脚させます。
恐るべき藤原氏・・・
いま駆け足で「史実」といわれる事象を列挙しましたが、
ポイントは「アル中のふり」でしょう。
つまり白壁王は天皇になるよりも自分の命のほうが大事だったわけです。
もうひとつは当時、天智天皇の血統皇皇族は白壁王しかいなかった(大友皇子の子孫は臣籍降下していました)のですが、
持統天皇のエゴというか、自分の血統以外の天皇を許さなかったという不文律もあり、
当時の皇族男子は戦々恐々としていたようです。
歴史研究家は称徳天皇から光仁天皇への皇位引き継ぎを
「天武系から天智系」への移行と位置付けます。
もちろん昨今反対意見も数多く見受けます。
そんな混沌の中で、白壁王が天皇になれた事実を「奇跡」ととらえる説、「歴史の必然」ととらえる説、全くの相反する説が存在するのです。
けっこう根深いテーマなので、またつづきを妄想したいと思っています。
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