2012/07/18
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カテゴリ: 古代史系の妄想

白壁王はなぜ天皇になれたのか?2

 白壁王・・・62歳で即位、第49代光仁天皇となる。

祖父は大化の改新で有名な天智天皇、父は歌人として有名な志貴皇子(施基皇子)、

皇后は、大仏建立で有名な第45代聖武天皇の皇女井上内親王。

皇子の山部王はのちに平安京に遷都する第50代桓武天皇(母は百済王家の高野新笠 平成 2001年 )、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「 韓国とのゆかり 」発言をおこなった。)

こう列挙するとなるべくしてなった感もありますね。

それにしては、白壁王=光仁天皇の知名度は低いですね。

中大兄皇子・聖武天皇・桓武天皇・・・教科書に必ずでてきます。

つまり、光仁天皇は主だった事績がないということでしょうか?

ところで、天智天皇には記録に残るだけでも皇女は11人と多いのですが、

皇子は5人、建皇子は8歳で夭逝、 阿閇皇子は日本書紀に記録がなく、成人皇子は3人

(大友、川嶋、志貴)

とても少ないのです。

私はかねがね、天智天皇=新羅武烈王(金春秋)と主張していますが、有能な皇子は新羅へいってしまったのでしょうか?

武烈王の皇子も記録には4名ということになっています。

この皇子たちを日本の皇子とは別人とすれば息子8人になるかな・・・

脱線しましたが、壬申の乱以降、倭国勢力や百済勢力の巻き返しなどもあったと思います。 

壬申の乱で、天智天皇系列は不安定な立場に追いやられます。

その後は、藤原氏内部の権力闘争に天武系皇子皇孫は巻き込まれ、落命していきます。

たぶん、厭世感あふれた称徳天皇は天皇家とゆかりない道鏡に天皇位を譲ろうとしたのでしょう。

各豪族はかつぐ神輿が天皇でなくなることに危機感を覚えたことでしょう。

称徳天皇暗殺説がまことしやかにささやかれるのも自然のなりゆきと思います。

そんな中での白壁王即位は、かなりの低倍率な確率だったであろうことは誰しも認めるところだと思います。

このころの藤原氏は天智天皇血統に固執したわけではなく、藤原の不比等は天武曾孫の聖武天皇を、藤原仲麻呂は天武孫の淳仁天皇を推したりしてたわけです。

変わり身の早さというところですか。

しかし、歴史のつながりに矛盾が多いので、隠れた真実はまた別のところにあるのかもしれません。






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Last updated  2012/07/18 12:54:20 PM コメント(2) | コメントを書く


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