2012/08/05
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カテゴリ: 古代史系の妄想

昨日の鎌足=天武天皇妄想より

石川麻呂=古人皇子のほうが面白そうなので、検証してみようかなと思い立ちました。

wikiでは、大兄とは皇位継承資格者の年長皇子をさすとのこと。しかし実際に皇位についた例は少ないと記述してあります。

中大兄皇子が最後でなぜ大友皇子は「大兄」とよばれていないとあります。

同じwikiの高句麗の項で、官位のひとつとして「大兄(だいけい)」とあるのになあ・・・・

wiki自体一つのジャンルに責任者なるものが存在しませんから。

古人大兄皇子逝去後、葛城皇子が「大兄」をひきついだのであれば話が通じますが、

645年の大化改新時点では、古人大兄・中大兄と2人の大兄が存在していたことになります。

私の説「大兄は高句麗の官職」説であれば、同時に2人の大兄がいてもよいのです。

高句麗滅亡とともに、日本から「大兄皇子」がいなくなったこともすっきり説明できます。

だからといって、中大兄・古人大兄が高句麗人だったという説ではありません。

私に言わせれば、当時の日本列島と朝鮮半島は政権が交錯していましたから、

淵蓋蘇文  』(ヨン・ゲソムン)=高句麗人

中大兄皇子=金春秋=新羅人

鎌足=百済人

古人=石川麻呂=倭国人

という実に国際色豊かな布陣になります。

ここで、中大兄に言葉巧みにだまされた蘇我倉山田石川麻呂が

言われたとおりにしたのに目前で入鹿が殺され、

「韓人、鞍造臣殺しつ、吾が心痛し」と嘆き逃亡したのではないかと思いました。

その後日本書紀では、古人大兄皇子は吉野に入ったという記述なく、突然謀反の疑いで「吉野太子」を討ったとあります(????)

 それから4年後、これも謀反の疑いでいきなり蘇我倉山田石川麻呂を自害させます。

その後、時を経て、天智天皇晩年、大海人皇子は自分に謀反の心はありませんとあてつけのように吉野に隠遁します。

ここのくだりが似ているので、関裕二氏は大海人皇子=古人大兄皇子としました。

私は、日本書紀に明確に古人大兄皇子が吉野に隠遁したという記述がないので、

4年後の蘇我倉山田石川麻呂自害が史実で、古人に分離し、大海人皇子の吉野行きと混在してしまったのではないか?と思いました。 






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Last updated  2012/08/13 09:31:10 PMコメント(0) | コメントを書く


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