2012/08/29
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カテゴリ: 古代史系の妄想
推古天皇、和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
です。
「推古」という漢風諡号は8世紀後半、天智天皇の玄孫とされる「淡海三船」が一括撰進したとされます。

昨日、遣隋使の件で、隋側の記録として日本の使者の名前が「蘇因高(そいんこう)」であったとしました。
当然淡海三船はそのことを熟知していて当時の天皇に「推古」とおくりなしたわけです。

それとも、これは三船の皮肉でしょうか?

遣隋使ですから、当時の朝廷においてもそれなりの地位でなければならないわけですが、日本書紀上当時の女帝とした大王に遣隋使の使者と同じ名前を贈るとはちょっと怖いもの知らずではなかったのではないかと思います。

私はしつこく、30代敏達天皇と40代天武天皇の名前が似ていると指摘してきました。
渟中倉太珠敷尊VS天渟中原瀛真人天皇。


大海人皇子の最初の奥さんは額田王です。

旦那の名前と奥さんの名前が酷似しているカップル。
現在でも珍しいのではないでしょうか?
まして、6世紀前半と後半の皇室の話です。

私は、こう推測します。

日本書紀編纂時、倭国を併合したのですから、倭国側の歴史も提出させました。
それが、29代欽明-31代用命-33代推古 とつづく蘇我系系譜です。

ところが、日本側の提出した歴史にも

34代舒明-35代皇極-36代孝徳-40代天武(敏達) と非蘇我系の系譜でありました。

編纂者は故意か過失か(おそらく不比等の指令で故意)に歴史を古く見せるためにタテに並べてしまったのです。
ですから、隋側の記録と年代的に齟齬が生じたのです。



28代宣化-石姫-30代敏達(天武)でその妃は33代推古(額田王)という系譜になります。
宣化天皇は6世紀前半の天皇ということになっていますが、実は、7世紀前半の天皇といことになります。

中国側や朝鮮側の記録と照合していくと、どうしてもズレが生じてきます。

仏教伝来も552年の壬申の年でなく、60年後の612年壬申ではないでしょうか?

どうしても、同一人物が分裂して60年前の歴史と重複記録したとしかかんがえられないのです。





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Last updated  2012/08/29 08:56:24 PM
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