2012/08/31
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カテゴリ: 古代史系の妄想
以前2009年5月10日の日記で以下のように言及しました

http://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/200905100000/

34代舒明天皇は「和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。」でした。

足(たりる)日(ひ)広(こう)→たりしひこう
で、舒明天皇だったのではないか?と思いました。

ところで、前回は遣隋使当時、舒明天皇は8歳ということに苦しいで中断していました。

その後、日本書紀の時間軸が水増しされている(特に神武天皇即位が紀元前660年)ことは考古学的に証明されていますから、遣隋使における日本書紀の記述と隋書倭国伝の記述がくい違っているだろうということは無茶な意見ではありません。

その後、私は舒明天皇と欽明天皇の漢風諡号や和風諡号の類似性、とりまくファミリーの名前のあまりにもの類似性から、舒明やそのファミリーが欽明ほかファミリーに水増し分裂したのではないか?と疑いを深めてきました。

舒明天皇は629-641年在位。欽明天皇は539-571年在位で、遣隋使時期とは合いません。

641年や642年は倭国・百済・高句麗の王がつぎつぎ薨去しています。



高句麗栄留王はあの淵蓋蘇文のクーデターで殺害されますが、在位618年-642年です。

3人が同一人物である傍証は、舒明天皇と武王の崩御詳細は伝わっていませんが、栄留王のみ淵蓋蘇文のクーデターにより殺害されたとあるからです。

高句麗管轄地区での事件だから高句麗に詳細な記録が残ったのです。

そんなバカな?とお思いになることはごもっともです。
しかし、舒明天皇は百済宮で崩御したと日本書紀にあります。

これは舒明天皇が百済王も兼任していた証拠です。

しかし百済宮は倭国にあったのでしょう?

そうです。当時の百済王の皇居は倭国にあったのです。

それで、栄留王は淵蓋蘇文(いりかすみ)に惨殺されます。

倭国における百済宮で淵蓋蘇文=いりかすみ=入鹿に殺されたのです。

その記述がなぜか、日本書紀側の記録は蘇我入鹿、山背大兄王死に追いやるの記述にすり変わっています。


金春秋=天智天皇は大化の改新で仇をうったことになります(665年ですが)

舒明・栄留王・武王の家族関係も酷似していますが、それは後日にゆずります。











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Last updated  2012/08/31 08:53:32 PM
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