永井路子氏の「王朝序曲」1993年は、藤原冬嗣を主人公とした異色な小説だと思いますが、
冒頭に、光仁天皇(白壁王)即位に関しての説明があります。
「藤原百川は、すたれ皇子の白壁を皇位に押し込むという荒業をやってのけた」
これは学会の定説を尊重してのごく自然な物語の進行です。
この小説では、桓武天皇を古代最後の独裁者と定義し、凡庸なタナボタ天皇の父親への反発から王者になったのだ、と定義しています。
称徳天皇のヒステリックな粛清を恐れて、酒浸りの日々を送っていたとされる白壁王。
最近の研究では、白壁王を天智の孫と位置づけるのではく、聖武の娘婿と位置づけることで、著しく評価が違っています。
以前私も、奈良時代は天武王朝ではなく、天智女系王朝と定義しました。
白壁即位は、その法則からは外れますが、即位時は天智孫もさることながら、天武玄孫の婿であったことが大きな要因である。というのが、最近多く見かける学説です。
通説では、白壁王は称徳天皇の粛清を恐れてアル中のふりを、していたとされていました。
しかしこう考えると、白壁王が称徳天皇を恐れたではなく、逆に称徳天皇にとって天智の孫である白壁はアンタッチャブルな存在だったと思うのです。
つまり新羅との微妙な友好関係が損なわれるということです。
淳仁天皇の失敗で学習した、称徳天皇は、白壁王と聖武皇女の井上内親王との子供が、皇位につくのは半ばあきらめていたかもしれません。
道鏡を法王につけたのもささやかな抵抗であったと思います。
それにしても、天武の孫の代の皇子は臣籍降下があまりに多いのです。
ここにもヒントがあるような気がしてなりません。
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