葛城皇子(のちの中大兄皇子、のちの天智天皇)。
日本書紀には、29代欽明天皇の皇子に葛城皇子。
34代舒明天皇の皇太子に葛城皇子がいます。
ところで、葛城王という人も3人います。
1.敏達天皇の子
2.天武朝の人
3.美努王の子、のちに臣籍降下して橘諸兄となる。
ここでも、また敏達と天武の共通点発見です。
こじつけですが、
「カツラギ」と「ハルアキ」は母音が一緒です。
本人はハルアキと言っても記録した人がカツラギと聞き違えたかもしれません。
こじつけはこれくらいにして、金春秋の父親「金龍春」の諡号は「葛文王」です。
従来、葛城は大和葛城地方のこととされ、このへん一帯の領地をもらったのが、「葛城王、葛城皇子」とされてきました。
もしかすると、そちらがこじつけで、新羅王天智が征服者として飛鳥に君臨したとき、父をしのび「葛」の「城」として命名したかもしれません。
日本書紀の記述からも、葛城皇子=天智天皇は本当かもしれません。
ところで、「中大兄」はどこへいったのでしょう?
日本書紀の皇極紀で、中大兄は鎌足と入鹿をやっつけます。
その後、皇極天皇は史上初の生前譲位を行い、(孝徳天皇)中大兄をたてて皇太子としたとあり、その後「中大兄」の名は出てきません。
中大兄は孝徳天皇の皇太子だったわけです。
従来、孝徳天皇の皇太子は「中大兄」でした。
実子の有間皇子がいるのに不自然でした。
ここでいう「中大兄」がじつは「有間皇子」だったとすれば、自然な摂理になります。
え?有間皇子って中大兄皇子に殺されたのではないの?
斉明紀では、有間皇子はあくまで天皇の命令で処刑されました。
黒幕は中大兄説が有力ですが、日本書紀には書いてありません。
つまり
1.舒明天皇の皇太子は葛城皇子でした。
2.皇極天皇は皇太子をたてていません。(斉明天皇も)
3.孝徳天皇の皇太子は中大兄皇子でした。
4.斉明紀では「皇太子」の記述しかなく、当然中大兄皇子のこととされてきました。
もし、大化の改新(乙巳の変)が新羅でなく倭国でおきていたとしたら?
中臣鎌足(鎌子)と中大兄皇子=有間皇子=蘇我馬子=聖徳太子が、
血縁の蘇我入鹿(孫?子?親?)を暗殺したことになります。
さすがにこれは考えにくく、新羅で647年におこったビドンの反乱をモチーフに
645年に倭国にておこったことに勘違いさせるよう仕向けたのです。
登場人物が不足したので、
悪役=蘇我氏、善役=中大兄(聖徳太子は621年に死んでしまったので)
となると
孝徳=蘇我稲目、有間皇子=蘇我馬子
が
蘇我入鹿、蘇我蝦夷を殺したことになります。
さっき考えにくいと書きましたが、もし本当なら蘇我の内輪もめという結末になります。
これが、大化改新に葛城皇子が登場しない理由です。
私の提唱するように、「大兄」は皇子の長兄を表すでなく、高句麗の官職であれば、
古人大兄と中大兄が同時存在してもいいことになります。
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