2013/01/22
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カテゴリ: 古代史系の妄想
前回は舎人親王の父親の天武天皇について私見を若干述べました。

今回は引き続き、その天武天皇と皇子たち&その母親について考察したいと思います。

妃・夫人とその皇子

1.持統天皇=皇后(草壁皇子)

2.大田皇女=天智の娘(大津皇子)

3.大江皇女=天智の娘(長皇子・弓削皇子)

4.新田部皇女(舎人親王)

ここまでが皇族で妃です。

次に夫人



6.大蕤娘=蘇我赤兄の娘(穂積皇子)

次に嬪(ひん)

7.尼子娘=宗形徳善の娘(高市皇子)

最後に宮人・・・奥さんにもずいぶんランクがあるようで、現代では差別として叩かれそうです。

8.カヂ媛娘(カヂは木偏に穀)- 宍人大麻呂の娘(忍壁皇子・磯城皇子)

つまりこの時代はまず奥さんの出自に高い皇子順に皇位継承順位が決まっていたわけです。

大津皇子は天武天皇崩御後、謀反の疑いをかけられて処刑されます。
これは草壁皇子を天皇にするための持統天皇のワナだったのではないか?とよく言われます。

しかしその草壁皇子も28歳で病死します。
当時天皇になれる年齢資格が30歳という不文律があったので、30歳になっていれば天皇になれたはずだ・・・というわけです。

順位からいけば、この時点で長皇子が有力候補でなければなりません。



実際に天皇になったのは皇后の持統天皇でした。
日本書紀はさらっと書いています。

もちろん、推古天皇の時も30歳に到達した皇子が不在(聖徳太子が18歳)だったので暫定皇位という意味合いで敏達天皇の皇后が推古天皇になりました。

持統天皇即位もこの時と同じ条件である。というのが大方の意見(学会定説?)です。

しかしここでもひっかかることがあります。



血統(皇統)を維持した、という名前だからです。

うがった見方をすれば、もし高市皇子なり長皇子に天皇の位が行ったら、皇統を保持したことにはならかったからである(?)となります。

天武天皇の出自も謎が多く、正当な皇位継承者ではなかった的な記述はよく見受けます。

一般的には、平安以降の感覚からすれば天智系統が正当であり、天智の娘である持統が皇統をつないだのだ的な意見が多いです。

では、大江皇女の皇子たち(長・弓削)ではダメだったのでしょうか?
またまた一般的な意見で、アンド持統天皇は自分の血を引く者だけに天皇になってほしかった。と結論づけられます。

ですから、天智系統は平安以降のあとづけ理由ではないでしょうか。

天智娘たる持統でなく、持統そのものでなければ皇統は維持できなかったとするべきではないでしょうか・・・・

ずばり私は持統天皇を天智天皇の実子と思いません。
持統天皇は645年生まれになっていますが、あの有名な大化の改新が645年でその直近に天智天皇(中大兄皇子)は持統天皇の母親(遠智娘)と結婚しています。
1月に結婚して12月生まれならいいのですが、実際は持統天皇の母親は乳娘(ちのいらつめ)=孝徳天皇の妃、で大化の改新よりずっとあと孝徳天皇崩御後にちのいらつめは天智天皇の妃に加えられ、尊敬語の「お」がついて「おちのいらつめ」に昇格したのです。

つまりその論理から、持統天皇がつなぎたかったのは天智系統ではなく、孝徳系統となります。

持統天皇即位時は天智も天武も傍系皇統であった・・・ということです。





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Last updated  2013/01/22 03:36:25 PM
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