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古代史系の妄想
2015/12/31
2015年の総括
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今年は妄想をさぼっていました。
自戒もこめて古代史妄想の総括をしたいと思います。
1.卑弥呼の邪馬台国は九州だと思う。
奈良の巻向が邪馬台国だったという説も多々見受けますが、巻向遺跡は当時の邪馬台国より強大な「某国家」
だったと思います。
「親魏倭王」の称号は地の利を生かした卑弥呼が他国より先手を打って獲得したにすぎず、「親魏倭王」の称号
は必ずしも当時の日本列島で最強国であった証明にはならないと思うからです。
2.前半・天照大神は卑弥呼のことを言っていると思う。
ではあめのうずめの舞で再び顔をだしたのは誰?ということになると、卑弥呼の死後男王を立てたが、国乱れて
宗女「壱与(台与)」を女王にたてたら収まったとありますから、後半天照は宗女「イヨ(トヨ)」のことと
すればつじつまが合います。
3.倭の五王は仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略の各天皇が混在している。
倭の五王ですが、比定候補は六天皇です。
讃=仁徳説は「和名=オオサザキ」の「サ」ということですが、中国の宋書に「讃死して弟珍立つ」とあるので、
仁徳→履中は親子関係なので、讃=仁徳説は弱まっています。さらに仁徳が倭の五王からはずれると世界最大
の古墳の主ではないだろう・・・などとして「大山古墳」という呼び方にしたり・・・
私の意見は仁徳天皇は讃岐の国を新たな支配下に入れたので、「讃」であると宣言したと考えます。
その讃岐王の名乗りは子の履中天皇に引き継がれ、その死をもって弟の反正天皇が後を継いだと考えます。
その反正天皇は珍、つまりチヌ=茅渟=大阪湾を支配下に入れたので珍と名乗ったのです。
「済」の名乗りはおそらく允恭天皇に引き継がれたものと考えます。
「興」を安康天皇とすると「済」の世子「興」とつじつまがあいます。
ただ、世子という表現は「正式な世継ぎ」ということで必ずしも血縁関係を表すわけではないところが
引っ掛かります。
結論:倭王讃=仁徳・反正、珍=反正、済=反正・允恭、興=安康、武=雄略 という乱暴な意見となります。
4.蘇我氏は倭王だった。
月並みな意見ですが、大化の改新の時に蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。
とあるので、「天皇」(そのころはまだ天皇という呼び方はありませんでしたが)に相当する支配者であった
裏付けと思われます。
私の妄想ですが、卑弥呼以来、女王の伝統は倭国に残っていたのだろうと思っています。
つまり先述の倭の五王も実は婿さんだったのだろうと。
倭国女王の婿が代々蘇我を名乗ってきたとすれば、突然推古天皇が初の女帝として登場したのでなく、日本書紀は
代々女帝の婿をさも天皇のように振り替えたとするといろいろすんなり説明できます。
一例は聖徳太子の母穴穂部間人皇女は用明天皇死後聖徳太子の異母兄の田米皇子と再婚します。
一見不謹慎に見える行いも、女王婿不在回避という観点からぎりぎりセーフになるのでは?と思いました。
5.初代天皇は天智天皇である。
百人一首の一首目が天智天皇であるように平安時代から鎌倉時代にかけて当時のインテリ層は天智天皇を初代
とみなしていました。
これは桓武天皇が天智天皇のひ孫であることを強調したかった説もありますが、私は、舒明斉明天皇の子ではなく
外来の征服者であると考えます。
ずばり新羅武烈王=金春秋だと思いますが、傍証のひとつは中臣鎌足との出会いの蹴鞠の場面は当時の倭国では
ありえないこと(まだ蹴鞠が輸入されていなかった)
同じエピソードが金春秋と忠臣金ユシンとにあること、などです。
6.天武天皇は藤原定恵である。
これは以前も述べました。
理由は、定恵死去後、大海人皇子が歴史の表舞台に登場する。
天智天皇の娘四人を妃にしている(実の兄弟ではありえない)
天武天皇の息子は誰も天皇になっていない。
天武天皇皇子の舎人親王は藤原の縁者でもないのにやたら味方している(鎌足の孫だからならつじつまがあう)
ただ、鎌足の娘を二人妃にしているのでそこをつかれると微妙ですが、異母兄弟ならセーフということで
7.持統天皇は倭国の正当な女王である。
これも以前述べましたが、天智天皇=金春秋説にたつと、持統天皇は天智天皇の実子でなく連れ子ということに
なります。
持統天皇の母は遠智娘(おちのいらつめ)ですが、孝徳天皇の妃に乳娘(ちのいらつめ)がいます。
二人とも父親は蘇我倉山田石川麻呂なので、娘にこんな紛らわしい名前を付けるとは考えにくいのです。
同一人物とすればすっきりします。
つまり持統天皇の実の父親は孝徳天皇だと思います。
孝徳天皇・斉明天皇は倭国の正当な王なので、その子である持統天皇も倭国の正当な女王であると結論づけるわけ
です。
8.天武天皇は持統天皇の入り婿である。
つまり藤原定恵は天智天皇政権下において天智天皇の義理の娘である持統天皇と政略結婚したことになります。
それではなぜ、天智天皇の息子の弘文天皇(大友皇子)を倒して政権をうばったのでしょう?
9.壬申の乱はなかった。
私は壬申の乱は存在しなかったと仮説をたてました。
天武天皇が武力によって弘文天皇政権を簒奪したことにはいろいろとムリがあるからです。
では、壬申の乱とは何をモチーフにしているのか考えました。
戦場で似通っているのは、恵美押勝の乱です。
藤原仲麻呂=恵美押勝は天智天皇の近江政権復活を期し、孝謙天皇に敗れたとされます。
ですから大友皇子=弘文天皇は戦死でなく、病死か暗殺とし、戦乱は後世の藤原仲麻呂の乱だったのではないか
と思いました。
10.平城京と近江京の並立
つまり、近江京は壬申の乱で壊滅したのではなく、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で壊滅に近い打撃をうけ
たのではないかと仮説を立てました。
奇しくも敗死した淳仁天皇も弘文天皇も明治時代になってから天皇の序列に加えられたことも偶然の一致とは
思えません。
11.平安京遷都
平城京と近江京の並立の最終決着は、光仁天皇・桓武天皇vs称徳天皇まで持ち越されたと思います。
藤原氏はもちろん双方に分散して味方していたのです。
家系の存続のために。
最終勝利は光仁・桓武天皇だったということです。
ですから私は通説における光仁天皇凡庸説には賛成できません。
※ 駆け足でおさらいしました。
ことばたらずでおわかりにくい箇所も多々あったと思いますが、ご容赦ください。
二〇一六年もよろしくお願いします。
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Last updated 2015/12/31 09:16:12 PM
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