キリスト教カルトを斬る

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TERA DREAM

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2007.01.03
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 日本聖公会の権威主義は、明らかに江戸時代の封建制度化の武士社会や商人社会にあった、封建制度的身分制度に根ざしていると思います。その人物の資質や能力には関係なく、家柄や学歴によってその地位がはっきりと決められているのではないですか。私の知る限りでは、主教の息子さんが主教になっているケースがかなりあるように思えますし、主教や司祭の息子さんが教会委員になっているケースが多いと思います。あるいは、教会院の選挙で選ばれるはずの教会委員も世襲のように理解されていないでしょうか。
 その根底には、日本的イエ制度が影響していないでしょうか。

 これは日本聖公会だけに言えることではないのですが、日本聖公会ではそれが顕著であるように思えます。こうしたことはどこから来ているのでしょうか。日本聖公会は神学ではなく祈祷書によって一致しているとは言いながら、あくまでも「アングリカン・コミュニオン」の一員であり、原則的にはランベス会議の決定を尊重してきました。新しい祈祷書の「聖別祷」がその典型かもしれません。今の祈祷書では、聖餐制定語が読まれてから聖別が行われますから、聖餐制定語を読む時に司式者は聖別されたホスチアや葡萄酒を奉挙することが出来ません。
 かつて、祈祷書が改訂される過程でこのことを指摘した方に対して、明確な神学的反論が出来なかったからか、「何も判ってない!」という侮辱とも思えるような発言があったと聞かされています。しかし、「神学による一致ではなく、祈祷書による一致」を貫くのであれば、それがランベス会議の決定に反することであっても、二つの聖別祷を用いることが出来るように、そしてそれはどちらかが「正」でどちらかが「副」であるということではなく、同時並立的なものとして定めれば良かったのではないでしょうか。
 ですから、司祭によっては聖餐制定語の奉挙を、「聖別」されていないホスチアと葡萄酒に対して行っているという、実に奇妙な御ミサをしているという珍事が行われていると聞いています。
 あるいは、聖餐は「繰り返し行われる犠牲奉献」ではなく「感謝・讃美の祭りだ」と、聖書にある制定語を無視して主張してしまいました。「私の記念としてこのように行いなさい」という聖書の言葉は、「エイス ムネーモスノン」というギリシア語が使われています。旧約聖書のギリシア語訳=七十人訳でこの言葉が使われる時、そのほとんどは「神が想起するために」という意味で使われていることをご存知なかったようです。
 この「感謝・讃美の祭り」であるということを強調する時、そこには「共生」という概念がしっかりとあったのでしょうか。彼らの多くはそれを主張していたように私には聞こえてきています。しかし、彼らの中にはそうした丹念な研究を無視した発言が見えていました。「犠牲奉献」でなければ女性司祭でも聖餐式が出来ると考えたのでしょうか。だとしたら、その根底には女性蔑視が横たわっているとしか考えられません。「女性は犠牲奉献が出来ない」という女性蔑視です。確かに旧約の規定では女性は神殿で犠牲を捧げることは出来ません。しかし、現代において聖書を紐解く時、私たちはそこに何を見つけだすでしょうか。
 そうした意味では、日本聖公会は神学的に破綻していないでしょうか。

 文語を口語にすることによって会衆が理解しやすくなるという考え方もあったようですが、宗教学的に見ると、自ら宗教であることを否定しているのかもしれません。私たちの日常生活の中でも非日常的な言語はたくさん用いられています。また、文語は会衆が理解できないと考えたとしたら、あまりにも中学生や高校生を馬鹿にしているとしか思えません。中学の国語の教科書には古文や漢文が出ていますし、高校では必修科目です。
 宗教とは、非日常的な世界のことですから、例えば曹洞宗の葬儀で読まれるお経はサンスクリットを音訳したものが読まれていても、皆さん何の不思議も感じていらっしゃいません。あるいは、浄土真宗では最近、参列者にもお経を渡して一緒に唱えるお坊さんがいらっしゃいます。渡されたお経には仮名がふってありますが、すべて漢字で書かれていますから、ほとんどの人はその中身を理解することが出来ます。ローマ・カトリック教会では、ラテン語の御ミサが復権するかもしれないようですが、私は素晴らしいことだと思っています。それは、ラテン語が正しいということではなく、ラテン語で御ミサを捧げようと日本語で御ミサを捧げようと、定められた式文を用いてそこで御ミサが捧げられれば、「御ミサ自身で御ミサになる」という知り合いの神学に共感しているからです。

 日本にキリスト教が土着する過程で、日本聖公会はイギリスという国と日本という国の歴史の相異を無視して来たのかもしれません。うどんに蒲鉾を入れて食べている主教は、あくまでも日本人なのであって、イギリスの国教会やアメリカの聖公会を表面的に真似しても仕方がないと思っています。そう言えば、アメリカの聖公会の議長、女性がなったそうですね。日本聖公会で、司祭になれる女性が主教になれない理由が私には判りません。
 日本の武家社会の思考が歴然と残っているのでしょうか。






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Last updated  2007.01.03 14:34:49


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