キリスト教カルトを斬る

キリスト教カルトを斬る

PR

×

Freepage List

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Profile

TERA DREAM

TERA DREAM

Comments

コメントに書き込みはありません。
2007.01.27
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 聖公会に神学はないということを聞いたことがあります。神学で一致しているのではなく、祈祷書(礼拝の式文)で一致しているのだということです。ですから、主教や司祭は祈祷書を使って礼拝をしていれば、それで仕事を全うしていることになりますから、「神学はない」ということが、神学をしないということになっても仕方がありません。しかし、ここの大きな落とし穴があるのではないでしょうか。

 一つに宗教団体としての規則、つまり日本聖公会綱憲と日本聖公会法憲法規が、宗教集団としての日本聖公会を規定しているということを忘れてしまっているようです。「主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ」という声が挙がっているようです。聖公会には、明らかな身分制度があるのですね。審判廷は日本聖公会法規で定められていることです。それが「不届き千万」ということであれば、主教は法憲法規の上に鎮座ましましていることになるのですが、それを当然と考えている人がいるということでしょう。
 主教は何をしても裁かれないと思っているようです。
 数億円の使途不明金を出しても、背任を問われないのですから。

 それだけなら、「放っておけよ、いつか必ず自爆するから」とお考えになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、5人の児童に対する性的虐待をし続けた司祭に対する責任と、そしてそれを庇護してきた責任、そして何よりも被害者とその家族に謝罪しないばかりか、無視しているという実態は見過ごすわけにまいりません。
 あまりにも卑劣な行為であるとしか言えないのではないでしょうか。
 宗教的言語で呪縛をかけて数年に渡り性的虐待をし続けてきた司祭を、日本聖公会はその規則に従って裁くことなく、司祭から出された退職願を受理し、法憲法規に定められていない「陪餐停止処分」に付しました。しかし、法憲法規に抵触する処分は無効ですから、この「陪餐停止」はまったく効力を持っていません。法憲法規では、主教の権限をそこまで認めていません。それとも、主教は親分なのでしょうか。親分の言うことには逆らえないという暗黙の了解が、組員である司祭や執事の間にはあるのでしょうか。

 私の友人はある司祭に、「右手でチャリスを持つということになっているのですが、左手ではいけないのですか?身体的な理由で右手では持てない時にはどうしたらいいのですか?」と質問したら、「右手でもって下さい。それが聖公会の仕来りです」という答えが返ってきたそうです。また、別の司祭は「左手は穢れているから、右手で持つんじゃないですか?」と答えたそうです。
 ピュリフィケーターという白い布があって、それでチャリスを拭うのですが、そのピュリフケーターは左手で持っています。ピューリフィケーターという言葉は「ピューリファイ」からきた言葉で、「浄める」ものとか「清める」ものという意味です。もし左手が穢れているとしたら、何故左手にピューリフィケーターを持つのか、実に不思議です。そして、一番重要なのことは、祈祷書のルブリック(脚注のこと・昔は赤で書かれていたのでそう言われています)には、このことの規定はまったく記されていません。「祈祷書で一致」するのであれば、チャリスを左手で持ってもまったく問題はないと思えるのですが。「神学はない」ということが「神学をしない」になって、論理的な思考を停止させてしまっているのかもしれません。実にお粗末な話です。


 被害者の方のPTSDは極限に達していると聞いています。
 一人の女性にこれだけの重荷を負わせておきながら、日本聖公会は女性の人権を大いに語ってきたのではないですか?その終着駅(もしかすると通過駅)が女性司祭按手だったように思えます。これに関しては実に不思議なことがあります。私は女性が司祭になれない理由はないと思っているのですが、司祭は礼拝の中の聖餐の中ではキリストの代理として司式するという考え方が聖公会の中にあるので、祭壇の前に聖餐卓を置いて、司祭はその向こう側で会衆の方を向いて司式しているのではないのですか?
 もう一つの問題は、何故女性司祭を認めておきながら、女性主教は認めないのですか?女性を主教にしないのですか?女性を主教にすると何か都合の悪いことがあるのですか?「とりあえず女性司祭」ということは、女性差別そのものだとお思いになりませんか?ただ単に、女性の地位を執事から司祭に「格上げ」したに過ぎないのではないでしょうか。
 キリスト教の中には、まだ女性が牧師になれない教派もあります。非常に不思議なことです。それでいて、その教派の神学校には女子学生がいます。神学するのはいいが、牧師になることは駄目だということなのでしょうか。

 ローマ・カトリック教会はこのことに関しても、はっきりとした神学的見解を持っているようです。それも、多くの司教や司祭の間でコンセンサスを持っているようですし、信者さんもそれをしっかりと理解しているようです。
 「神学のない」聖公会は、結局は烏合の衆になっているのではないでしょうか。あるいは、主教の数だけ「神学」があるのかもしれません。「主教を審判廷に呼び出すとは不届き千万だ」という声は、どなたから出てきたのでしょうね。まさか主教自身ではないと思いますが。もしそうだとしたら、その主教もまた法憲法規に抵触した発言をしていることになってしまいます。審判廷は、この法憲法規の下で、法憲法規に違反した事例を裁くためのものなのではないでしょうか。

 聖霊のお導きが日本聖公会にありますように。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007.01.29 14:51:44


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: