キリスト教カルトを斬る

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TERA DREAM

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2007.11.10
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 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく
 神への賛美はいかに美しく快いことか。
 主はエルサレムを再建し
 イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
 打ち砕かれた心の人々を癒し
 その傷を包んでくださる。

 主は星に数を定め
 それぞれに呼び名をお与えになる。

 英知の御業は数知れない。
 主は貧しい人々を励まし
 逆らう者を地に倒される。
 感謝の献げ物をささげて主に歌え。
 竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。

 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え
 山々に草を芽生えさせられる。
 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば
 食べ物をお与えになる。

 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
 人の足の速さを望まれるのでもない。

 主の慈しみを待ち望む人。

 エルサレムよ、主をほめたたえよ
 シオンよ、あなたの神を賛美せよ。
 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし
 あなたの中に住む子らを祝福してくださる。

 あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
 主は仰せを地に遣わされる。
 御言葉は速やかに走る。
 羊の毛のような雪を降らせ
 灰のような霜をまき散らし
 氷塊をパン屑のように投げられる。
 誰がその冷たさに耐ええよう。
 御言葉を遣わされれば、それは溶け
 息を吹きかけられれば、流れる水となる。

 主はヤコブに御言葉を
 イスラエルに掟と裁きを告げられる。
 どの国に対しても
   このように計らわれたことはない。
 彼らは主の裁きを知りえない。
 ハレルヤ。


 ひとは誰も、明日、いやこのあと何が起こるかさえ知ることは出来ません。
 自分のまわりだけではありません。この世界の中で、明日何が起きるのか。そして、その後どうなるのかを、ひとは予測することが出来ません。

 思ってもみなかったことが、時として私共のまわりに降りかかってまいります。天災と呼ばれるもの・人災と呼ばれるもの・交通事故・病気・怪我など。思いもしなかったことが目の前で起こります。
 台風や地震で田圃や畑を失い、家が無惨に潰れ、家財だけでなく肉親までもがその中に埋まってしまった人々の顔をテレビのニュースで見る時、そこにどうしようもないものを感じてしまいます。
 何もかもを失ってしまう。
 家を失い、財産を失い、家族を失う。あるいは、戦争や暴動が一瞬にしてすべてを失わせてしまう。

 あるいは、すべてを投げうって病気と闘った結果が、死であったひとの肉親の方に出会ったことがご座います。自分自身の過失でもない。他人の過失でもない。けれども、何故そうなったのか判らない。

 ある時は、まわりの目を気にして、その悲惨さを隠そうとします。
 ある時は、その悲しみの中で、死を願うことがあるかもしれません。
 父親の顔を見ることの出来なかった幼子がテレビの画面に写しだされる時、その母親の涙を目にする時、ひとは何を思うのでしょうか。

 自分に降りかからなくて良かったと思うのでしょうか。
 自分には降りかからないと思うのでしょうか。

 そして、自分の力なさのゆえに、途方にくれます。



 バビロニアという国に攻め滅ぼされ、バビロニアの首都バビロンへ連れ去られたエルサレムの人々は、およそ50年たって、エルサレムの町に帰って来ることが出来ました。ある意味では、望郷の念がかなったと言うことも出来ます。
 しかし、彼らを待っていたエルサレムは、決して、安住の地でも、豊かな実りをもたらす町でもご座いませんでした。50年間、バビロンで故郷を思い続けていた人々を待っていたもの、それは、彼らが想い描いていたものとは、はるかに遠く掛け離れたものであったようでご座います。
 しかも、帰ってきたとは言うものの、バビロニアを滅ぼし、バビロンから自分たちをエルサレムの町へ帰してくれたあのペルシャが、今度は自分たちの生活を脅かしていたのです。ペルシャは、バビロニアの力どころではなく、イスラエルの地を越えてエジプトまでその勢力を延ばしていました。

 50年ぶりに帰って来たエルサレム、それは、彼らにとって決して安住の地ではご座いませんでした。彼らが見たものは、彼らを待っていたものは、豊かに地を潤す雨でもなく、たわわに実る麦畑でもありませんでした。
 日照りのために、地はひび割れ、野の獣やカラスたちさえも死んでいく世界でした。エルサレムの町は、かつて栄えていたというのがまるで嘘であるかのように、破壊されてしまっています。また、天から降ってくるものは、雨ではなく、ひょうやあられや雪でした。このイスラエルの地方、エルサレムの周辺に雪が降るということは、おおよそ考えられないことでご座います。時として、ひょうが降り農作物が被害を受けることはあっても、当たり一面が霜で真っ白になり、雪が積もり、ひょうが寒さと共に襲って来る。そうしたことはめったにあるものではご座いませんでした。
 そうした災害が彼らを襲う。

 あるいは、砂漠地方の国境は、あってなきに等しいものでご座います。現在でも、国境は地図上のものであって、実際の場所には何もないというところがかなりあるようです。
 大きな河の流れがあるわけでもなく、高い山並みが連なっているのでもない。勿論、壁が築かれているわけでもない。周囲の国々は、いつでも入り込んで来ることが出来ます。たわわに実った麦畑から、一晩のうちに麦の穂がなくなり、ぶどう畑から葡萄の実がなくなるということなど、日常茶飯時のことでご座いました。

 そうした中で、今朝の詩篇147篇は歌われたものでご座います。
 8節9節
   主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え
   山々に草を芽生えさせられる。
   獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば
   食べ物をお与えになる。

 現実には、雨が降らず、農作物はおろか、野の草さえ枯れていく中で、この詩人は、あえて、正にあえてこう歌うのです。

 16節17節
   羊の毛のような雪を降らせ
   灰のような霜をまき散らし
   氷塊をパン屑のように投げられる。
   誰がその冷たさに耐ええよう。

 あるいは、14節

   あなたの国境に平和を置き、
   あなたを最良の麦に飽かせてくださる。

 敵が来て、麦の畑に毒麦の種をまいていく話しが、新約聖書の中に出てまいりますが(マタイ.13:24)、この時代、譬話としてではなく、そうしたことが実際に起こって居りました。正に、国境を越えて敵が侵入し、たわわに実った麦を掠奪していくということが、毎年のように起こるなかで、この詩人はこう歌うのです。


 いつ雪やひょうが降って来るのか、いつ雨が降らなくなってしまうのか、いつ敵が襲って来るのか、彼らにはまったく予測出来ない。そうした中で、彼らは、自分たちがバビロニアから連れて帰った馬を思い出します。エズラ記の記録によれば(2:66)、736頭もの馬を連れて帰ったとされて居ります。
 にもかかわらず10節ではこう歌われます。

   主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
   人の足の速さを望まれるのでもない。

 この時代、イスラエルの民にとっての馬とは、間違いなく軍馬を意味して居りました。彼らは、この馬の威力に活路を見出そうとしたようです。

 そして、こう続きます。

   主が望まれるのは主を畏れる人
   主の慈しみを待ち望む人。

   エルサレムよ、主をほめたたえよ
   シオンよ、あなたの神を賛美せよ。

 シオンとは、エルサレムのある丘のことでご座いますが、この言葉の背後には、軍馬に助けを求めた民が、主なる神を離れ、異教の神々への雨乞いに走り、主なる神以外の神々を礼拝しようとしていることが、隠れて居ります。つまり、この詩人は、災いの中で、主なる神から離れてしまいそうになる中で、だからこそ、こう歌います。

   エルサレムよ、主をほめたたえよ
   シオンよ、あなたの神を賛美せよ。


 そうした、絶望的な情況の中で、詩人は歌います。
 飢えと渇き、病と苦しみ、貧しさの中で疲れ切った人々に、そして詩人自身もまた、そうした苦しみの中にありながら、にも拘らず歌うのです。
 7節
  感謝の献げ物をささげて主に歌え。
   竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。

 敵が来る、ひょうが降る、雨は降らない。そうした中で、歌います。

   感謝の献げ物をささげて主に歌え。
   竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。


 それは、「羊の毛のような雪を降らせ、灰のような霜をまき散らし」「氷塊をパン屑のように投げられる」方が、にも拘らず「御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、流れる水となる」からに他なりません。


 詩人は、冒頭で歌っていました。
 2節・3節
   主はエルサレムを再建し
   イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
   打ち砕かれた心の人々を癒し
   その傷を包んでくださる。

 飢えと寒さと、貧しさと弱さとに疲れ切った民と共に、自分もまた苦しみ痛む中で、この詩人は、自分を強めようともするのでもなく、他の人々の中に、あるいは異教の国々に、助けを求めようとするのでもない。絶望と無力さの中で、ただ主にだけ、主なる神にだけ頼ろうとしているのです。目の前に、ペルシャやエジプトといった豊かで強大な国がありながらも、ただただ、主に頼ろうとしている。


 自分自身の罪を悔やみ、無力さを嘆き、失意と絶望の中で、正にそうした中で、ひとは神に助けを求めることが出来ます。

 11節
   主が望まれるのは主を畏れる人
   主の慈しみを待ち望む人。

 思いもよらぬ出来事の前で、考えてもいなかった苦しみの中で、主なる神のみを信じていくこと。何もかもが、絶望の淵に沈んでいく時、ただただ、主なる神に心を向け、神を賛美し、神の力に徹底的に信頼する以外に、本当の希望はありません。
 そして、ここにだけ、本当の慰めがある、そう詩人は歌います。

 14節
   あなたの国境に平和を置き
   あなたを最良の麦に飽かせてくださる。


【 祈 り 】
 天の主なる神よ、
 この世の現実に中で、私ども人間の力ではもはや、為すすべのないことばかりを耳にし、目にし、そして自分自身のまわりに起こることを思います。そのような時、どうか主よ、あなたに帰ることが出来ますように。そして、御子主イエス・キリストの十字架とご復活の救いを、常に心に思い、ただただあなたに信頼し、あなたの力を信じ続けていることが出来ますように。
 人間の力や人間の手の作り出したものの力に信頼することなく、あなたのお恵みと、そしてあなたがこの地上のすべてをも支配して居られることを忘れることがありませんように。
 私たちに真実の平和を与え、すべてを解決し、すべてを喜びへと変えてくださる、私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン。





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Last updated  2007.11.10 14:29:36


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