売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.06
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8月23日繊研新聞に東京ファッションデザイナー協議会(略称CFD)の7代目議長に就任した元繊研新聞記者久保雅裕さんのインタビュー記事が掲載されました。「世界に向けて、日本のファッションデザイナーの団体ここにありという組織にしていきたい」、ジャーナリスト出身の新議長の抱負、いいですね。

CFD設立時参考にした米国ファッションデザイナー協議会(略称CFDA)は、ファッションウイークの運営をスポーツ業界に実績のある代理店IMGに託し、長い間ニューヨークファッションウイークに直接関わっていません。フランスオートクチュール協会がパリコレを仕切っているのとは対照的ですが、コレクション運営以外の活動で独自の存在感を見せています。最も有名なのはデザイナーたちに贈られるCFDA賞ですが、ほかにもデザイナー社会の意見をニューヨーク市当局に訴えたるなど様々な活動をしています。

東京はCFD発足から20年間CFDが東京コレクションを直接運営してきましたが、2006年から産官協同でスタートした日本ファッションウイーク推進機構(略称JFW)に東コレは移管されました。CFDはニューヨークのCFDAのようにコレクション運営以外で独自の活動を模索し、唯一のファッションデザイナー組織として国際交流、特に近隣アジア諸国との交流を推進してはどうでしょう。

そもそも1985年にCFDを設立したとき、活動目的の軸の1つとして国際交流を積極的に進める、と宣言しました。会員デザイナーの多くが参加するパリコレの主催者との密な連携を図りつつ、アジア各国デザイナーとの交流プログラムをいくつか進めました。パリコレ主催者オートクチュール協会代表だったジャック・ムクリエさんは親子ほど年の離れた協会運営のベテランでしたが、日本人デザイナーにもっと特設テント会場(当時チュイルリー公園やルーブル博物館中庭の大型テントは簡単には借りられなかった)を提供して欲しいと失礼を承知でストレートにお願いしたこともありました。

CFD時代私が一番苦労したのは、そのムクリエ代表から頼まれた「国際モードフェスティバル(略称FIMAT)」の東京開催でした。パリと東京は姉妹都市、我々はこれまで日本のデザイナーに門戸を開放してきた、東京で大規模なファッションイベントをやってくれないか、パリコレ会場で隣席のムクリエさんから突然言われました。


(FIMATのポスター)

フランス大統領選挙で現職フランソワ・ミッテラン再選は危うい、ジャック・シラク市長有利と騒がれていたタイミングでした。オートクチュール協会はミッテラン大統領とジャック・ラング文化大臣に非常に近い組織、もしも現職大統領が選挙で負けたらモードの世界は冷遇されるかもしれないという危機感がありました。シャンゼリゼで大ファッションイベントを手がけるパリ市長に接近する狙いもあったのでしょう。しかし、CFDはデザイナーだけで構成する小さな組織、大イベントの協賛金を集めるのは無理、フランスの政治に絡む話にできれば触れたくないというのが正直な気持ちでした。

が、政治力のあるムクリエさんはパリ東京姉妹都市記念イベントとして東京都知事の賛同を取り付け、東京商工会議所と東京ファッション協会(共に東急グループ五島昇氏が会頭、協会長)の協力も得て、CFDにも協力して欲しいと正式要請がありました。パリコレでの日本人デザイナーの立場も考え、最終的に協力することになりました。主催者は東京都、東京商工会議所、東京ファッション協会、CFDの4団体、数ヶ月後に新築完成予定の東京ドームが会場でした。

記者発表されるとパリからフランスの演出家チームが来日、責任者はシラク市長の選挙戦でイメージ作りをしている映像ディレクター。「俺たちはオートクチュール協会から指名されて来たのだ」と高圧的姿勢に日本側スタッフはイライラ、でも私から「あんたはクビだ」と演出家を解雇すれば国際問題になってしまいます。私はじっと耐えて先方が「これでは仕事できない」と放棄するまで待ちました。そして打ち合わせ最終日の深夜、最後の最後に先方からギブアップ発言、私は「ご縁がありませんでしたね。さようなら」、と返しました。

フランスチーム帰国の翌日、オートクチュール協会ムクリエさんから連絡が入り、パリ協議のため2日間の弾丸出張に。私はムクリエさんに正直に申し上げました。日本の資金を使い、日本で開催、日本の観客に見せるファッションイベント、フランスから演出家を派遣するのであれば我々の指揮下に入ってもらう、それができないのであればフランスの演出家は起用しない。ムクリエさんはフランスの演出家を私の目の前で叱責、彼にチームプレイを約束させました。

こうしてFIMAT開催の準備がスタート、フランス演出家チームのパリコレ映像撮影も始まったタイミングで今度は天皇陛下がお倒れになったのです。万が一FIMAT開催予定日前後にXデーが当たればコンサートやスポーツなど全てのイベントは中止せざるを得ないとの情報も入りました。このまま準備を進め、多額の制作費を投入してもしも中止になったら大損害は明白、前に進むか、止まるか、現場責任者の私は決断を迫られました。

パリに進行状況と使用済み経費の確認をし、天皇陛下のご容態情報を集め、私は「現時点で出費はまだ少ない。中止しましょう」と主催4団体代表の坂倉芳明さん(三越社長)に進言しました。パリ東京姉妹都市イベントとして位置付けられ、東京都から多額の予算も出て、放送権を獲った日本テレビはスポンサー集めをしています、簡単に中止できるものではありません。坂倉さんは「一晩考えさせてくれ」、そして翌朝中止を決断されました。

昭和天皇崩御から4ヶ月後の1989年5月、FIMATは東京ドームではなく日本武道館で規模を縮小して開催されました。東京ドーム開催中止によって発生した欠損は帳消しにすることはできませんでしたが、主催者代表の坂倉さん、実行委員長の福原義春さん(資生堂社長)らが我々の知らないところで動いてくださってことなきを得たと聞いています。開催実現までいろんなトラブルがありましたが、オートクチュール協会とCFDとのパイプは太くなりました。

アジア各国との交流を推進しようと、CFDは各国デザイナーや団体代表者を集めて「アジアファッションフォーラム」も開催しました。また台湾、韓国、香港、シンガポールには足を運んでアジアの連帯を呼びかけ、デザイナー組織の必要性とファッションウイークでその国のデザイナーが創造的競争することの効果を説いて歩きました。この中で最も早く我々の呼びかけに動いたのが李さんのいる韓国でした


(2019年の台北ファッションウイーク)

年々規模が拡大している上海ファッションウイークは日本の若手ブランドも参加して軽視できない発信拠点になりましたが、近年個人的に注目しているもう一つの拠点は台北です。ファッションデザインの領域は台湾経済部(経済産業省に相当)から文化部(文化庁に相当)に監督官庁を移管、政府のテコ入れで新生台北ファッションウイークも始まりました。私は文化部の部長(大臣)や副部長(事務次官)に対して、日本政府がどのようにファッションウイークを支援し、どのような新人若手デザイナー育成プログラムを用意したかを説明、日本と台湾の文化交流も提案しています。

米国CFDAがニューヨークファッションウイーク以外のプログラムで存在感を示しているように、個人的には日本のCFDがCFDAと同じようにコレクション運営以外で社会貢献してくれたら、と思います。CFD7代目議長の久保さんには国際交流の推進を期待したいです。





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Last updated  2022.09.06 23:23:21
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