売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2023.04.25
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4月25日は親友だった市倉浩二郎の命日です。毎年この日は最後の瞬間を思い出すのでどうしても気分はブルーになります。


毎日新聞編集委員だった市倉浩二郎さん

西国分寺駅からちょっと離れた場所にある都立府中病院(=当時)ICUの控室にいた私たちはドクターからすぐICUに入るよう促され、その数分後市倉さんは目の前で絶命。病室の心拍測定器の数値がどんどん降下して「ーーー」に、よくテレビドラマで見る悲しいシーンそのものでした。

1994年4月2日東京コレクション2日目夕方コムデギャルソンのショー会場は羽田空港駐機場、なぜか市倉さんは取材に来ませんでした。緊急の取材でも入ったのかな、とそのときは思いました。しかし週明け奥様からの電話で体調不良と入院を知らされ、びっくり仰天でした。

前日の東コレ初日最終回ユキトリイのショー直前、西武百貨店渋谷店裏の細い路地のカフェの前をたまたま通りかかったら、市倉夫妻、帽子デザイナー平田暁夫さんご夫妻らがお茶してたので私も合流。海外出張中ストレスが原因でお尻に大きな腫れ物ができて手術したばかりの私は「健康のためにあんたも有機栽培野菜スープを飲め」と言ったら、市倉さんは「あんな不味いもの飲めるか」、と。奥様に後日野菜スープの作り方をお知らせすると約束し、みんな一緒にユキトリイのショー会場まで歩きました。

結果的にはこの野菜スープのやりとりが最期の会話になってしまいました。

ショー終了後「寒気がする」と美登子夫人(文化出版局編集者)にもらし、市倉夫妻は鳥居さの打ち上げには出ずに帰宅、近所の医院で診察してもらったそうです。ところが、翌日夜羽田空港でのショーが終わった頃に容態急変、府中病院に救急搬送されました。医院で処方された抗生剤を飲んだことでウイルスが変容、ドクターは脳に入ったウイルスをなかなか特定できず、適格な治療ができませんでした。

私にできることは快復を祈ることとICU控室で奥様の話し相手になるくらい、何の役にも立ちませんが居ても立っても居られずアポはキャンセルして出勤前と夕方府中病院に顔を出しました。4月23日だったでしょうか、ドクターにICU入室許可をもらって脚をさすりながら「イッチャン」と何度も呼びかけると、意識不明で動けない市倉さんの目から涙が溢れ、反応してくれました。

溢れる涙に微かな期待を抱きましたが、ずっと意識不明のまま一度も目を覚ますことなく亡くなりました。いろんな検査でも意識不明の原因はわからず、新聞記者だった本人が一番自分の死因を知りたいだろうからと解剖を勧めました。でも、残念ながら最後まで死因はわかりませんでした。

ICU控室で美登子夫人が「イッチャンは太田はデザイナー協議会辞めてやりたい仕事があるんだ。早くやらせてやりたいってよく言ってたわ」と話してくれました。市倉さんと飲んだとき、マーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職せずニューヨークに渡ったのでいつかはデザイナー協議会を退任してマーチャンダイジングを指揮したいと話したことがあり、市倉さんは気にかけてくれていたようです。



親友の逝去が人生の転換点になったので、4月25日は私にとって特別な日なのです。合掌。


市倉さんの仲間から指名されて1年後に私が編集した本





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Last updated  2023.05.01 10:36:19
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