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選挙速報を見ていて、どこのチャンネルか忘れましたが、投票率は埼玉県が全国最低としばらくテロップで流れていたように思い、新聞で確認しました。前回より3・75ポイント上回る56・35%とあり、少し安心(最低ではなかったようです)。しかし、実に4割以上もの人が棄権していることが気になります。今回の選挙、与党が大敗すると言われていて、その通りになりましたが、投票に行ける条件があるにもかかわらず投票しない、という意思表示は一体何を意味するのか?とても知りたいと思いました。投票するしないは個人の自由といってしまえばそれで終わり?誰が当選しようと、落選しようと、私には関係ない、ということなのか、自分ひとりが行こうが行くまいが大勢に影響はない、と達観?しているのか?どうしても投票したい人がいない、ということもあるかと思いますが、折角の権利を放棄してしまうのはもったいない。そういう方たちは、もし、選挙権というものが与えられていなかったら、是非ともその権利を手に入れたい、と思わないのでしょうか?『国政に参加する』事が許される、数少ないチャンスだし、いつまでも好き勝手な事をさせてはならない、という意志を示すことができるだけでも意義があると思うのですが・・・これだけ、政府与党に対していろんな批判が吹き出ている時に尚、棄権もいとわない、というのは『今の政治に何の不満もない』、という意思表示になる、のでしょうが、それなら批判票に負けないくらい大きな力で政府の応援票を投ずるというのもあり、ですよね。そこまで応援もしたくない、批判もしたくない、ということなのか?ようするにどっちでもいい、のか・・・・無関心なのか・・・・これが一番かもしれませんね。無関心を育てているのも政府の仕事。お上のすることに唯々諾々と従うのがめんどくさくなくていい?我が身にふりかからないと、無関心のままで過ぎてしまうのかもしれません。全然関係のない話ですが、タバコの害がいくら言われても、体に悪いとわかっていても、とんと辞めなかった人が、本当に体を悪くしてからピタリとやめた、という話をよく聞きます。酒とタバコとどっちを辞めるか聞かれたら、迷わず酒、と言ってた人も・・・喉頭がんになってしまってから、激しく後悔していた人も・・・”我が身に降りかからない”うちに、(ホントは降りかかっているのに気がつかないダケカモしれません)今の社会のあり方を考え、イエスかノーかの意思表示をするのもいいのではないか?選挙の投票に足を運んだからといって、それがすぐさま社会をよくする方向に向かうかどうか保証はないところですが、棄権するよりはよほどいい、と思うのです。美しい国、でなく、美しい地球のために・・・
2007年07月30日
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道徳を教えるということ・・それは人の道を教えるということでしょうか・・・人の道に外れている人がいるということなのかどうか?心が荒廃?してるということかどうか、道徳教育の必要性を説く人がいます。道徳を教えれば、誰もがみんないい子になり、悪い事をする人はいなくなるというわけなのでしょうか、何故か”道徳教育が足りない”と力を込める方が見受けられます。学校での道徳教育で、悪い事を考えたりしたりする人がいなくなる、なら、こんな楽なことはない、と思われます。物言わぬ羊の群れを作りたいなら、効果はあるかもしれませんが(人は羊ではない!)。道徳教育がどうして必要か?そもそも、道徳で何を子供たちに教えたいのか?わかるようでわかりません。善悪の区別を?うそをついてはいけない、とか。しかし、政治の世界では子供でもわかるようなウソが公然とまかり通っていますよね。我々の代表である人々が『事務所費はルールにのっとって、適正に処理されています』、その言葉にうそがなければ、何故領収書の公開ができないのでしょうか?付け替えがないというなら、公開すればすむこと、それができないこと、つまりそれは隠すべきものだから、公開したらたちまちウソがばれてしまうものだから、と考えるのが普通です。(それに尚悪い事にソーリ大臣までウソの片棒を担いでいる!)でなければ、公開すればたちどころに真実が証明されるというのに、貴重な時間を費やして、事務所費の行方を追及する手間をかけさせ、税金を無駄遣いしてるのと同じでは?その間に有益なことはいくらでもできるのに、説明する必要すらないのに・・公開さえすれば!公開できないようなことをしている、それはウソをついていると同じ事。そんな姿を子供たちに毎日毎日見せて、そして自分達は立派な大人だとして、子供たちに道徳を説くそれで恥ずかしくないのでしょうか?子供たちに立派な大人になってほしいなら、自分達が立派な振る舞いをすべきでは?貴重な税金は一円まで公明正大に公開してこそ、子供たちに誇れるのでは?その方が百のお説教よりどれだけ子供たちの道徳心の向上に役にたつか、はかりしれない、と思うのですが・・・教育で道徳を教えることができる、ということは大人社会がそれだけ立派でないと難しいと思います。言葉でいくらいいことを言っていても、だって大人はあ~じゃないか、と思われてはなんにもなりません。学校教育で教えるべきは助け合い、支えあい=これがなくては生きていけない=の大切さということで十分だと思います。それには一人では出来ないこと、野菜を育てるとか、一緒に何かを作り出すこととか、いろいろ考えられると思うのですがを取り入れる事が是非とも必要だと考えます。。そもそも、片方で無意味な蹴落とし競争を煽っておいて、何が道徳なのでしょうか?「道徳」のない人たちが教育行政を牛耳っているとしか思えません。
2007年07月26日
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NHKにて安倍自民党総裁の演説をすこしばかり耳にしました。今回の参院選は”改革”か”後戻り”か、どちらを選ぶかが大事、自分がやってきた”改革”の続行を選ばないと大変な事になる、とのこと。経済が発展したことにより雇用は増え、年金財政も改善した、経済の発展が何より大事。それがあれば他のことはついてくる、つまり、雇用も家計も経済に従属して後からよくなるのだから、先に経済を良くしなくてはならない。といってるのですね。企業が儲からないと、労働者の生活もよくならないよ、といってるのと同じですね。これは昔から言われているパイの論理から一歩も出ていない、言い古された言葉だと思います。二言目には競争に勝たなくてはならない、それが一番大事、そうでなければ賃金=パイの分け前ですね=も払えない、競争力をつけることにみんながまい進しなければ、働く者の生活はよくならないのですよ、と。。かくして、働く者は企業が儲けるためにまい進しなければ最低の文化的生活も保障してもらえない、ということになっています。(雇用が増えたと豪語していますが、増えたのは非正規の労働者でワーキングプアという言葉も生まれ・・)働く者に厳しい政治がそうした企業を後押しするように、どんどん推し進められています。派遣労働は昔は専門職だけでした。それが一般の仕事にまで広められ、←政治が後押し!ピンはねが合法的になされるようになってしまいました。正規の労働者はどんどん減らされ、パートやアルバイトや派遣といった非正規の労働者に置き換えられて働く者の権利はどんどん切り縮められています。働く者にはますます厳しく、←消費税もあぶない、企業にはますます甘く←法人税をまだまだ減税しようとしています、労働者の定率減税は全廃して!国際競争力の名を出せば労働者は黙ると思っているのでしょうか。国同士は対立しているかもしれませんが、働く者同士、国は違っても、何も対立する軸はありません。同じく搾り取られている仲間ではないでしょうか。他国の労働者と競争するのではなく、同じ働く者同士、手を取り合って、それこそ、地球のために、人類のために、貧困をなくし、差別をなくし、それらに基づくすべての争いごとをなくし、真の平和な世の中を築くことが働く者の使命ではないか?と思えます。競争礼賛の弁舌に怒りを覚え、社会を根底から支える労働者の生活をなんと心得る、と言いたくなりました。
2007年07月22日
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と同僚が言うので、『元気なら別にいいんじゃない?』と何気なく言ってしまったのだが・・『いや。元気なだけじゃダメ。お金がなくっちゃ』つる『それはないな~』『そしたら、まわりに迷惑がかかるよ』・・・・つる『働くところがあれば働くよ』『土地でもあれば耕すくらいはできるかもしれないけど、なんにもないじゃん』確かに80歳過ぎて働ける場所があるかどうか?非常に心許ない。それまで元気でいられるかどうかももちろんあるが、それはクリアしたと仮定した上で、何ができるか考えて見ました。。ところ。。何か技術があるわけでなし、どこか雇ってくれるところはなさそうだし、自分で何かやるとしたら、・・・・何にもできない!という事実に直面したのでした。それより何より、『80歳過ぎてたら元気でも社会の迷惑』とはちと暴言でしたね。私にだけ言った言葉ならいいのですが。(それが迷惑なら、天下りで職場を転々として、何億という税金を食いつぶして底辺で働く労働者を踏みつけている方たちはもっと迷惑では?ナンテ)そこで、人間はやはり助け合い、支え合って生きていくものなんだな~としみじみ、考えました。年をとるのは誰でも同じ、なのだから、いつか社会のお世話になるかもしれない。。(できればあまりお世話をかけたくないものです)だからそれより前に、自分が社会に何ができるか?を考えて行きたいと改めて思ったことでした。それはやはり(?)人が生きやすい社会に変えよう!と訴え続けること、だったりして・・(*^_^*)。。――文中間違いがありましたので、訂正します。いつか社会のお世話になるかもしれない、なんてのは間違いで、すでにしっかり社会のお世話になっているのでしたm(__)m。。それ以上のものがお返しできればいいのですが。。。――
2007年07月17日
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「情熱大陸」というテレビ番組で初めて、アレックス・カーという方の名前を知りました。彼の言う「美しい日本」とは、どこかで聞いたような?言葉だと思いきや、そうではなく、開発が進んでいない、紅葉が美しい、かやぶき屋根や、瓦屋根のある、看板のない、大型バスでは入れないような、古きよき時代の美しい風景のある日本、というような意味での言葉だったようです。大型バスで行くような、パックツァーはよくない、と言われ、恥ずかしながら、それしか行った事がないかも?・・・と反省。確かに観光というと、名所を見て、美味しいものを食べて、遊んで、という何処に行っても違う景色を見て、違う食べ物を食べて違う遊びをしているかもしれないが、本質的に大した違いはないのかも?と思ってしまいました。何だか知らないけど・・・・自然が自然のまま残っている処って本当に少なくなってしまったと思います。人が手を加える、ということは生きていくためにある程度必要でしょうが、不必要なまでに土木建設の事業が全国的に行われた、と指摘されて、事業のために人は大切なものを失ってきたんだと妙に実感しました。ギロチンによって殺された有明海の干潟を思い出しました。実は今日の東京新聞に載っていたせいですが。あの堤防をなくすだけでまた海はよみがえるというのに、走り出した事業は止まらない?とばかりに、あくまでも借地による農業を推し進めようとする人たち・・・調整池の水をきれいにするのだけでも大変なようで、そのままでは農業用水には使えそうもないのに、農家の人たちも過当競争になって大変なのに、ただもとの海に返すという”簡単”な事ができないでいる・・・開発によって得たもの、開発によって失ったもの、開発する必要のないもの、ここら辺を社会の成員みんなが考えなくてはいけない時期にきているのでは?私の生まれ故郷では秘境と呼ばれるに相応しい処がまだあり、道路を作るより、お年寄りや弱者に優しい自治体を目指している心優しい友人がいます。
2007年07月15日
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幼児虐待の相談件数が3万件を超えたという話です。統計を取り始めてから増え続けていて(10倍にもなっている!)、ここ3年くらいで1万件も増えているとか。生まれた子供が大切に育てられるためには、その子の親を大事にすることから始めなければならない、という話を聞いた事があります。妊婦さんを社会が責任を持って、大切に扱う、というようなことが、今は実現できていないと思われます。ムロン、妊婦さんでなくても、「一人一人が大切にされる社会」でなくては困るわけですが・・・ザンネンナガラ全然そんな社会ではナイ・・・とりわけ、幼子を抱える親を孤立させないこと。これが、まず第一に社会で取り組まれなくてはならない、と感じます。(幼児虐待に苦しむ親子にとって、ですネ。精神障害者にとってもその家族を孤立させないことが第一、という風に思います。)つまり、孤立する人が誰もいないような社会、というのが考えられればな~と♪その精神障害者の話ですが、なんと300万人を越えたとか。(303万人、0605年)それだけストレスの多い社会なのだと、両方の話はかなり似通った背景があるのではないか?と感じました。競争社会、格差拡大、市場至上主義?と決して無縁ではない、との思いを強くしたのです。経済至上主義で、人間は本当に豊かになったのか?その考え方でこれからやっていって、人間にとって本当に住み良い社会になるのでしょうか。。
2007年07月12日
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娘達と出かけ先でおそろいの箸を購入しました。家族そろって(干支のみ違う)同じデザインの箸です。まだ使える箸があるので、『これ会社で使おうかな』とぽろっとひとりごと・・言った途端、『ダメ、家で使わなくちゃ~、イミないじゃん』と叱られてしまいました。おそろいのイミをそこで少し考えてみたのです。家で使わなくちゃダメ、とは・・・今朝、ラジオの投稿に、熊本の人からのものが。。。連日の雨でお孫さんが登校するときの靴がぐちゃぐちゃになり、あわてて買いに行ったそうですが、そのサイズが売り切れてしまってない、とのこと。白のスニーカーと決まっているので、いっぺんに買いに来られるとそうそうたくさんはおいてないのでしょう。それでも奥の方から何とか見つけてもらって間に合った、という話でした。ここでも、おそろい、と言えなくもない、制服ならぬ制靴があるのですね。白のスニーカーと決まっているというのはこの場合、不便な話だと思ったのです。別に白でなければ茶でも青でもクリームでもいろいろあるでしょうに、何で白でなくっちゃいけないの???と・・・白でなくちゃいけないことに、何か合理性はあるのでしょうか?そろいのお箸は家の中で使って、というのはいいように思うのですが♪学校のおそろいのものって、制服でも鞄でも靴でも、どうも合理性に欠けるような気がするのですが・・・・上記のような場合、利便性にも欠けますし、実際問題として、”これでないとダメ”、というのは使う側のことを考えて決めているのか?疑問に思うことが多くあります。決めるにしても、使う人の意見を聞いてくれるならいいのですが・・・・
2007年07月10日
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朝のテレビでほんの少し見ただけなのですが。とても気になりました。今の若い人たちが目指す役職について、前回と比べて、部長までと答えた人が増えて、社長までと答えた人が減ったという話題。なんで社長が減ったのか?あるキャスターと思しき人は・・・「日本の社長は収入が平社員のせいぜい10倍くらいしかない、そこへ行くと米国では、何十倍、何百倍である。だから日本の社長は他の国と比べても魅力がない?」と。何だ、お金かい?若い人が目指して欲しいこと。それはより高い収入が得られる仕事につくこと?結局、お金が一番と言ってませんか?しかも、10倍しか!ないですと。何で、社長は10倍以上平社員より多く受け取らなくてはならないの?そんなに多くを手に入れなければ生きていけない?そんなわけないですよね。現に平社員はそれで生きている・・・どうも、たくさん収入を得られる事が目標、でもいいかに言われるのですが・・・その10倍のお金はどこからくるのでしょうか?2年ほど前、ラジオで聞いた話を紹介したのですが、それは昔NHKの解説員で、今は学習院の客員教授の平野氏の言葉。「1980年代米国は世界中の富を掃除機で吸ってしまった。地球上の富がひとりアメリカに吸い寄せられてしまったのだ。」(事実として、その前後で、世界の富の分布がそのように変わっている)という言葉は何を意味しているか?アメリカの富は世界中から奪ったものだ、というに等しい、と思うのです。つまり、どこかにごっそりお金が集まるということは、どこかから吸い集められたからに他ならず、どこかで必ず同じだけ損をしている人がいる、ということではないでしょうか?米国の社長が平社員の何百倍もの所得があるということ、それはとりもなおさず、それと同じ数だけ、大勢の人々から吸い上げているということなのです。それは自国の労働者のみならず、はるか遠くの国の労働者からかもしれないし、『世界が100人の村だったら』に出てくるような幼い子供達からかもしれません。一部の人に集まる富は多数の人たちの貧困の上に成り立っていると思います。というか、富がなければ貧困もない、のでは?若者が目指すべきもの、それが米国並みの収入が得られる社長だなんて、絶対健全だとは思われません。貧困のない社会、を作りたいということなら大歓迎ですが・・・
2007年07月05日
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労働者殺しの言葉ですね。”労働者の権利殺し”というか。できればこの世から抹消したいですね・・・その後に続く言葉は(たいがい)”代わりはいくらでもいるんだから”と相場が決まっています。しかし、現状に対して批判的であることをやめて、いやならやめるしかない、とあきらめてしまってはいつまでたっても!何事も改善しないと思います。改善する必要を感じないから、そういう言葉が出るんですね。年齢で賃下げされても、なんら不都合を感じない人もいることを忘れていました。というか、男性社員はまだしも女性よりは優遇されていたのでした。同じ年なのに、3年も賃下げの時期が違うのです。しかし、賃下げには違いない、その実感がわかないから今のところ、問題だと考えていないのでしょうか。それとも、そもそも元になる賃金が違うことも関係しているのか?同じ境遇を分かち合える人がいなくて残念。男性にわかってもらおうとしたのが間違い?確かに労働者全体に関わる問題ではないかもしれない、けど、一つ一つ、労働条件をよくしていこうという声をあげていく事は大切なことと思います。そういう声がまるで聞こえてこない、どころか”いやならやめれば?”では・・・これは経営者の側の言葉でしょう。防衛相が、日本の大臣なのにアメリカ側の説を紹介して?辞任に追い込まれましたが、労働者が経営者の側の言葉を”自分の言葉”として口にするのはどうでしょうか?一個の労働者として日々の労働に喜んで携わりたいと切に望みます。(相変わらず支離滅裂なナグリガキ、にて自分でもガックリ来ています。まだスランプ状態ということにして♪)
2007年07月04日
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2月のラジオで聞いた言葉なのですが、この言葉がいつも心に浮かんできます。生活=生きることそのものだとすると、労働がそれを支えるものであり、生きることの意味は労働の中にあり、という気がしてきます。労働とは私の定義によるとつまり働く事=”傍を楽にすること”何らかのその人の方法で、自分の得手の道で、自分を生かす方向で、人の役にも立つ、それが生きるってことなんじゃないか?それが生きる喜びの大きな部分を占めているということはありそうです。なぜ、生きること、生きるとは、について考えているのかというと?・・・恩師の訃報を聞いてまだ間がないのに、今日は同級生の訃報が耳に・・・彼は声帯をなくしながらも、のどを使って声を出す訓練をしつつ、必死に生きようと努力していました。その努力には頭が下がりっぱなし・・こちらが、もっとがんばれよ、と励まされる思いだったのに・・・死ぬってどういうことか?生きるってどういうことか?自分はちゃんと生きているのだろうか?悔いのないように生きているだろうか?(否、否、否・・・残念ながら悔いばかり、ではなかろうか?今のままでは・・・)何のために働くか?生活のため。しかし、生活のためでなく、本当は住み易い社会を創るために、働きたいのだ・・生活のためだけに働くのだとしたら、虚しい・・今それしかできていないから?虚しいのか・・・・しかし、その前にそもそも、働きたくても働けない人がいるという現実があります。事情がどうあれ、働きたい人にはそれ相応の仕事が社会から与えられるべきと考えます。それができないのは、”儲け”なくてはならないという社会の強制。儲けを度外視することができれば、たいていの仕事は社会に意味のある仕事となり、社会全体のためにならない仕事はする必要がなくなります。儲けなくてはならない社会をそのままに、弊害だけを取り除こうとしても、ムリがあると思います。競争を排除しようとしてもどうにもならない、弱肉強食の法則が(政治がそれを薦めるような状況で)とことん、労働者を追い詰めようとしている・・・重労働でかつ人の役に立つ仕事、それが今は社会的に低い評価しか与えられていない、という面がありますよね。介護労働などは報酬がとても低いように感じられますが、天下りのお役人は何時間かの仕事で何千万円とかの報酬が得られるとかききますと、?????がいくつも湧いてきます。本当に社会に必要な仕事はどっちなんだ?天下りの人に払うお金が必要だから仕事がいる、だから国から仕事をもらわなくてはならないという話を聞いた事もありますが・・・仕事のために人がいるのか、人のために仕事があるのか・・・仕事はすべて、人間社会のためにこそあるべき、儲けのために、であっては、人のためにならないし、ひいては未来を担う子供たちのためにもならない、と思うのです。(今日もまた、支離滅裂気味・・・ダケドキニセズ♪)
2007年07月01日
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