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ようこそ、お越し下さました。網地島の梅雨明けも、秒読み段階に入ったか。海の日連休の連日の雨が上がり、海の日当日は神々しいまでの青空が広がった。忙しかった連休だったが、平日はひっそりとしている。週末にお客様が集中するという現象は、近年顕著か。毎日、天から与えられた天職を全うしていることが、どれほどの喜びに満ちているか。有難いことです。この宇宙の創造主を、私は「天」と呼んでいます。その呼び名は何でもいいと思いますが、日本人は「照れ」があるのか、中々「神」とかの言葉は口から出ない。遠藤周作著「深い河」は、死んだ妻の生まれ変わりと思われる少女を探すためにインドに渡ったが、それとは別の流れのストーリーの中で、「神」のことを「玉ねぎ」と称する場面が・・・「あなたは玉ねぎをまだ信じてるの!」なんて、印象的だったな。口にこそ出さないけど、心の中では「神」に類する大いなるその存在を否定している人は少なかろうと思う。古典の中に、梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という、平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集があります。熊野詣のことについて、良く書かれていたので読んだことがあったのですが、その中にこんなのがあります。・仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ仏はいつでもどこにもいらっしゃるのだが、現実にお姿を拝むことができないのが、悲しいことだ。しかし、人が寝静まって物音もしない明け方には、かすかに夢の中に姿をお見せになるのだ。近頃私の感じでは、「ほのかに夢に見え給ふ」どころではなく、けっこう頻繁にそのお姿の片鱗をかいま感じさせて下さる。見守って下さっている・・・という深い安心感がある。新約聖書にもこんなのがあります。ヨハネによる福音書 6:35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」この言葉って、子供のころに聞いた記憶がある方もいらっしゃると思います。大いなる存在を信じ、その子であるべく生きたいと願い、行動を起せば、飢えることがなく乾くこともないと書かれています。「神の子であるべき生き方」というのがなかなか難しいということなのでしょうか。飢えるという事は物質的な総称で、乾くという事は心の充足を表すと考えます。物質的な物とは衣食住のこと。生活していく上で、お金を含めて衣食足るという事です。心の充足とは、「天」に抱かれた安らぎを意味します。島に住んで20年、今では一切が天によってレールが引かれ、その上を安心して歩んで行ける、そんな日々を過ごさせていただいております。うちのカミさんも、「その意味する所が、島に来てようやく解った」と言ってます。この世である3次元世界は、質の世界と言われております。物質=形あるものはいつかは崩れ、その形を変えます。私達の肉体は、「死」という形をとって崩れ、原初に帰る。それまでの間、飢えることなく、乾くこともなく過ごせたら、肉体が亡くなった後の準備をすることができる。この世にある間、飢えと乾きに溺れていたら、そこから脱却するために喘がなくてはならない。そんなことをしていたら、本当の自分を探し発見し、向後の自分に向き合うことなどできはしない。きっと、誰でもそこに気付く時が来るんだよね。100人いれば、100通りのタイミングと道筋が示されるのでしょうね。
2014.07.27
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ようこそ、お越し下さました。いよいよ、シーズンがやってきそうです。ドデカい台風と言われていた8号も、尻つぼみ状態で網地島の脇を通り抜けました。船も上架し荒天対策を施し、万全で迎えたのでしたが、一安心でした。網地島の海開きは、例年海の日辺りとなっていて、今年も7月19日となってます。シーズンに向け、ペンション内のあちこち修繕したり、システムを変えて設備を作り直したりと、忙しく動いている昨今です。そのすべてが人に頼らず、自分一人でこなすことに喜びも感じております。その結果、お客様に喜んでいただけることに繋がるととを信じて・・・島に移り住んで20年が過ぎ、少しずつではありますが残りの人生をどう生きて行きたいのか、モヤが薄れていっている気がいたします。表題に掲げた「自分を薄める」という事。これは、自分色を薄めること。自分の我を薄めること。仏教の修行の根幹をなしていることが、この事に尽きるのではないかとすら感じられる、奥の深い境地です。「自分が・・・」という思いを薄くして、万物の存在を尊重し、あらゆることを受け入れ「許せる」心根か。私の若い頃、何が好きなのか、女性観は、人生観はと、何もかにも決めてきた生き方でした。そして、自分の枠にはまらない人やモノや生き方には、一切受け入れることをせず、自分色をより強く出そうと戦いの場に挑んでいた。そして勝ってきた。勝ってきたと思ってた。それが60歳を少し越した今、勝ち負けなんて何もないことに気付く。若い頃は、何が好きで何が嫌いという事がはっきりしていた。そして、嫌いなことはことごとく排除してきた。つもりだった。だけどこのことも年を重ねた今、何が正しくて何が悪いのか解らなくなってきた。自分の見方では悪と思えたものが、その見方を変えれば悪ではなくなるのだ。元々善悪とは、この宇宙には存在しないからだ。人の都合が絡んでくると、そこの善悪が浮かび上がる。何が好きで何が嫌いかも曖昧だ。どんなことでも受け入れられる自分でありたいと思ってる。自分色が薄れてきた。変な言い方だけど、薄れてきたけど濃くなってきた。自分の心の中に沸々と湧いてくる「こう生きたい」という求道の心は揺るぎないものになってきている。自分の人生の「仕上げ」をするために島に移り住んだ。「自我」を薄め、「真我」を育むために。真我とは、天の意思に沿った生き方をしたいとする願望だ。私の場合、子供たちがそれぞれ独立し、何かの為に生きることを卒業することを許され、自分やカミさんのためだけの時間が作れるのは、何と幸せなことか。若い内は、食っていくために家族を守るために、しゃかりきになって仕事をし、突っ張って生きるもよし。そしてある時、もう一度自分を見つめ直し、本当の自分を見つけるのかな。ただ、食っていくためにのみ今生の天寿を浪費するのは、ちょっともったいない気がするね。我が家のデッキからの夕焼け冷えたビールが旨い時間です。
2014.07.14
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