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第35回目 マルコの福音書11章27節~33節(2008年1月20日)「キリストの権威」***エルサレムで神殿の境内をイエスが歩いていると、祭司長、律法学者、長老達がやってきて「何の権威でこのようなことをするのか、誰がその権威を与えたのか」と聞いた。イエスは答えて、「これに答えたら言おう。ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」彼らが分からないと答えると、イエスも何の権威でするのかお答えにならなかった***この箇所では、イエスは祭司長たちに試されましたが、うまく回避しています。ユダヤ人たちは、救い主が現れることをずっと待っていました。それは、民族全体で、待ち、期待していたのです。ちょうど、ドイツが東西に分かれていたころ、その壁が無くなることを民族全体で待ち望んでいたときのようにです。それは、韓国と北朝鮮の人々にとっても同じでしょう。日本には、そのように民族全体で待っているというものが無いため、私たちには分からないことでもあります。ユダヤでは、敵でも味方でも、同じに待っているものがあったのです。そのような中で、祭司長、律法学者という立場の人々は、頭の片隅に真実を追いやり、待っているという人々の気持ちを利用して、自分たちの権威を作ろうとしたのでした。ヨハネとは、キリストの道備えをした人です。預言者であり、ヘロデ王に斬首刑によって殺されました。28節、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と祭司長たちは尋ねます。イエスという人物は、民衆を扇動し、自分達が教えるのとは違うことを人々に教えていて、一体この人物は、何の権威で神の言葉を話しているのか、と、彼らはまさに正しい質問をしました。法律的には「正しい」質問です。(教会とは、聖書の権威によって建てられているものです。しかし、一方、カルト化した教会では、牧師の権威によって建てられているといえます。)ここで、祭司長たちはイエスを罠にかけようとしました。イエスがもし、「神の権威によって」といえば、「神を冒涜した」として訴えることが出来ます。なぜなら、祭司長たちが神の代理人である立場の人々だからです。しかし、「自分の権威によって」といえば、それもまた神を冒涜していることになります。どう答えたとしても、イエスを陥れることができる質問でした。すると逆にイエスが彼らに質問しました。それに答えられたら、自分もその権威について言おうというのです。バプテスマのヨハネは天から?それとも人からのものか?ヨハネは預言者として悔い改めを迫りましたが、祭司長たちは彼の言葉を聞かず、放置しました。そして、刑に処せられるときも、助けようともしなかったのです。彼らは、「分かりません」といわざるを得ませんでした。31節「天からのものだといえば、ではなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろうし、人からのものだと言えば・・・彼らは群集が怖かった。皆がヨハネは本当に預言者だと思っていたからである」クリスチャンでない人がここの箇所を読むとき、彼らは正しい質問をしていると言うでしょう。なのに、なぜイエスは答えないのか?と。彼らが分からないと答えた、その経緯をここで私たちは見なければなりません。それは、「真実と真理に向き合えなかった」ということです。これが悲劇を生むのです。彼らは旧約聖書の専門家でした。神の言葉を伝えようという思いがあったはずです。最初から詐欺師であったはずはありません。同じように、クリスチャン、牧師であっても罪を犯します。今年になって、愛知県では何人かの教職者が性的問題を犯して解任されました。最初から、牧師の立場を使って悪いことをしてやろうなどとは思っていなかったはずです。神によって救われ、宣教の道に入り、しかし、真理と真実から目を離した途端に形だけの信仰に陥ってしまったのです。私たちは、牧師達のために祈らなければなりません。「真理、真実に向き合っているか」が問われます。一歩そこから外れると、神の御名を借りて、狡猾な殺人の罪を犯すことにさえなります。彼らはこの後、自分の手は一切汚さずに、人々の手を使ってキリストを殺すのです。「今ある、私たちの宗教観を壊す者が来た。私の納得しないことをやる奴が現れた」祭司長たち、彼らこそが変わらなければなりませんでした。しかし、自分たちは決して変わらない。イエスこそが変わらなければならないという態度です。聖書に聞かなかったのです。常識的に「こうだ」と思っていることも、まず聖書に戻ってみましょう。自分の感覚、感情にたとえ合わなかったとしても、聖書に合せられないのなら、祭司長たちと同じことになります。くだらないテレビ番組を敢えて見るようにしています。それらがどのようなメッセージを発信しているかを知るためです。ある番組で婚外婚について話していました。少子化を止めるには、それを認めるべきだと。それは良さそうに聞こえるかもしれません。しかし、生まれてくる子供たちは年金の働き手という理解でよいのでしょうか?結婚という制度は神が作られたということを、彼らは知りません。離婚には、呪いにも近い神の裁きが待っています。子供を「つくる」という表現にも既に、性的なことをいいかげんに扱っている日本人の姿勢が現れています。こういったことが、今の社会を滅茶苦茶にしています。それは聖書から教えられるのですが、世の人には分からないのです。ヨーロッパのある国は、クリスチャン人口が1%未満です。日本の数字と同じですが、本当だとしたら、日本以下です。なぜならそこはキリスト教国と言われる国でありながら、そうなのですから。10年程前まで、国が認めた娼婦がいたといいます。性的にはルーズな国民だといえます。真理、真実に向き合わず、聖書に聞いて歩むということをしないならば、人間の思いはどんどん悪くなっていきます。形の上では、その国のようにキリスト教国であったとしても、内側は腐り続けていくのです。一端落ち始めた道徳は、戻ることはありません。公務員の不正は、自浄作用が全く効いていないことの現れです。どんなに法律を作っても、抜け穴は多くあり、それは法律では変わらないのです。認識しないまま、腐っていきます。しかし、イエスこそが私たちの防腐剤となってくださいます。主を絶えず目の前に置き、主が赦してくださるから悔い改めつつ、霊的高嶺を目指していけるのです。そうしなければ、祭司長たちにイエスが語られたと同じく、「あなたには話すまい」といわれてしまうでしょう。真実、真理なるキリストに向き合い、私たちは一体どうしたらいいのかと言わなかったことが、祭司長たちの問題でした。人間がそのように罪深いことを主はご存知です。本当の意味で私たちが生き生きと生きるためには、聖書に聞き、真理、真実なるキリストに向き合い、どうしたらいいのですかとイエスに問いつつ歩んでいくことが必要なのです。
2008.01.30
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今日、神のために生きているなら、永遠に朽ちない遺産を残して逝くことができる**デイリーブレッドより***
2008.01.30
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つくづく、すごいクワイアだと思う・・・よくこんなことを思いつくね!?っていう企画がポンっと飛び出してきたりして、ほんと、「びっくり箱」みたいだと思ったりもする。去年の11月、恒例のゴスペルキャンプを企画中に、同時期に岡崎で三河地区の大きなライブがあるらしいから、ライブ裏方スタッフを体験しよう!みたいな企画をキャンプ初日に計画しよう、とか、、、さらに、アラバマからTPWがその頃来日するらしいことが分かって、ならば、キャンプに彼らを招待してWSが出来ないかな!?とか、、よくそんなアイデアが出てくるね・・・そしてアイデアだけじゃなくて、そんな途方もないような企画が本当に実現してしまうのだからスゴイ。自分は、一応VOVのスタッフではあるものの、「へえ~」っと感心したり、「ええ~っ」っと焦ったり心配したり、なんとか皆に必死でついていくだけなんだけどね(^^;そんなVOVのまたまた素敵な企画。明後日(31日木曜)のリハは、ゴスペルセミナー&TPWメドレー講師に梶原寿先生をお迎えし、「公民権運動の父、キング牧師を支えたゴスペル(仮題)」というタイトルで学びます。梶原先生は日本におけるキング牧師研究の第一人者といわれる方で、Uooも最近何気に買ったキング牧師の本が、梶原先生の著書だったという感じで(^^どなたでも無料で参加していただくことが出来ます。夜7時より、いつものように大韓名古屋教会7階チャペルです。ゴスペルは3本の大きな柱から成り立っているといわれてる。Music(音楽)、 History(歴史)、 Christianity(キリスト教)の3つがそれだけど、たいていのクワイアでは、Musicばかりに重きが置かれ、信仰を重んずるクワイアではChristianityの色が濃くなることはあるかもだけど、なかなかHistoryまでは、深く掘り下げるってことは難しい。そんな中で、まだまだ不十分ではあるものの、VOVはゴスペルの背景、その歴史を学ぼうという真摯な姿勢を持った素敵なクワイアだと、我ながら誇らしいです。興味のある方、ぜひいらしてねアメリカ南部繋がりということで、TPWの曲もいっぱい歌うよ~
2008.01.29
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らみいの発表会が迫ってきました今年は3月20日、5周年を記念して初めてホールでの開催☆生徒たちの曲も、少しずつ仕上がりつつあります。Iちゃん(小2)は、大好きなアニメ映画の主題歌をソロ演奏します。数ヶ月前、楽譜を初めて目にしたときは、「え~~・・・、むずかしそう・・・」と、かなり不安そうな表情でした。たしかに譜読み、そして難しいリズムを弾きこなすまでにはとても時間がかかりましたが、最後まで諦めたり投げ出したりすることなく、コツコツと頑張ってきたIちゃん。その頑張りだけでも、先生は花マルをあげたいですね♪もちろん、努力の甲斐あって、とっても上手に弾けるようになりました。Iちゃんは、実は、かなりの天然系です。ピアノを始めたばかりの年中さんのころは、なかなか日本語が通じなくて苦労もしました(^^;)昨日のレッスンでのこと。テクニックのテキストの中で、「スケボー」という曲がマルをもらえました。次の宿題は、「不安なスケボー」という曲。実は、スケボーと殆ど同じ曲なのですが、ハ長調のスケボーを、ミに♭をつけてハ短調にしたものです。Uoo「これ、さっき合格したスケボーとそっくりでしょ?でも、どこかが違うの。Iちゃん、おうちで練習しながら、発見してきてね」Iちゃん「I,もうわかったよ!!!このアリさんとこのアリさんの絵がちがう~」Uoo「・・・ そ、そうだね~、間違い探し、Iちゃん得意だね~って、そうじゃなくて、この曲とこの曲のどこが違うかも、探してきてね」小学校にあがる前は、こんなこともありました。あるときレッスンで、「Iんち、こんど、ひっこしするの。とうきょうだよ」というIちゃん。お母さんにお引越しの話は聞いていたものの、東京とは初耳だったので驚きました。レッスンは続けますということだったはず・・・近くのスーバーでお母さんとバッタリ出会って立ち話。「Iちゃんが言ってましたけど、お引越しって東京なんですか?」お母さん、苦笑いをされながら・・・「幼稚園の先生にも言ってるらしくて、びっくりされたんですよ~Iはディズニーランドが大好きで、引越しするなら東京って、思い込んじゃってるみたいで・・」買い物カゴをぶらさげた2人、その場で大笑い天然かつ、超肯定的思考の持ち主、Iちゃん。おいしすぎます・・・そのIちゃんが、嬉しそうにUooを見上げて言いました。「あした、Iのたんじょうびだよ!プレゼント何かしってる?でんしピアノかってもらうの~♪」うわ~良かったね、Iちゃん!ずっとキーボードで練習していて、ちょっと前に、ピアノの購入についてお母さんからご相談を受けたところでした。本当に上手になるためには、生のピアノを強くオススメしたいところですが、このご時世、住宅事情などもありますし、なかなかそうもいきません。でも、ピアノを習い始めて数年、最初は海のものとも山のものともつかなかったものが、これだけ頑張って、いろいろ弾けるようになったのだから・・・とご家族が納得してくださったことの現れでしょう。おじいちゃんとおばあちゃんからプレゼントしてくださるとのこと。それを聞いて、本当に嬉しくなりました。Iちゃん、これからも頑張ってね~天然ネタも楽しみにしてるよ~
2008.01.24
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あ、Uooが作ったんではありません・・・ダンナさんの会社は基本的に日曜だけがお休みですが、突然土曜日が休みになることがあります。先週金曜日、翌日の休みが急に決まったダンナさん、手作りパンやケーキの本を熱心に眺めていました。そして、意を決したように買い物に出かけ・・・夕食後、試作だと言って、菓子パンを焼いてくれました♪焼きたてのパンは、めっちゃ美味しかったです~パンの上にのってるフルーツは、桃とパイナップル。本にはアプリコットって書いてあったけど、お店になかったらしいです。夢中になって2個も食べてしまいました!そして翌日の朝も、2個。(さすがにくどかったかも^^;)UooがVOVの運営委員会に出席し、その後も友人と遅めのランチを楽しくいただいている間に、ダンナさんは、翌日曜に教会に持っていくためのパンをせっせと焼いてました~☆教会では、みなさんにとっても喜んでいただけて、Uooも嬉しかったです(^0^)焼きたてじゃなかったので、「オシイ」味だったけどね~・・・次は何を作ってくれるかな~楽しみだ~
2008.01.22
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前後しますが、先週のメッセージです。クリスマスが終ると、いよいよ受難週が近いということを意識するようになりますね。礼拝のメッセージも、ちょうどイエス様が十字架に向かっていかれる場面に入りました。=====第33回目 マルコの福音書11章1~10節(2007年1月6日)「キリストは受難の道へ」***エルサレムの近くに来られると、イエスは弟子を使いに出して、子ロバを村から連れてこさせた。イエスが子ロバに乗られると、人々は「ホサナ、祝福あれ」と言って叫んだ***いよいよキリストの受難へと進んで行きます。8節を見ると、エルサレム入城の際に群集は木の葉を道に敷いてイエスを迎えたとありますが、これはシュロの木でした。そのため、この日はシュロの主日と呼ばれます。イエスのエルサレム入城は、旧約聖書にある預言の成就でした。ゼカリヤ書9章9節には、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。それも雌ろばの子ろばに。」とあります。救い主が、まさか、ロバに乗るとはどういうことでしょうか?馬の間違いではないのでしょうか?ロバとは英語でDonkey(まぬけ)とも言われるような動物なのに。子ロバ、これはイエスの生き様を語っていると言えます。皆の考えているようなスーパースターとして登場しないのです。イエスは仕えるもの、弱いものとして現れました。8節のような「ホサナ!」と華やかに迎えられるのとは大変ギャップがあり対照的です。この「ホサナ!」と叫んだ同じ人々によって、数日後にはイエスは十字架にかけられることになります。人々は、救い主が自分の願いどおりのそれではないと知るや否や、イエスを十字架にかけたのです。それを全てご存知の上で、イエスは彼らの敷いた上着や木の葉・・今で言えばレッドカーペットでしょうか・・・の上を行かれました。エルサレム入城、それはご自分の使命を果たすためです。私たちは、人間的発想というものをかなり変えなければいけません。この箇所では人間というものがいかに不安定かを見せ付けられます。精神分析をする人は、不安と平安、悲しみと喜び、正反対のものですが、それはどちらも「症状」にすぎないといいます。人間には将来のことはわからないので不安になるし、逆に平安、希望を持ったりもします。しかしそれは単なる症状に過ぎず、同じ心の変化だというのです。将来に向かってどういう症状を持っているかに過ぎないのだと。希望は妄想に過ぎず、不安は鬱傾向をもたらす、結局は今の自分しか信じられないというのが人間の姿です。しかし、信仰者は違います。神がおられるということ、そしてキリストの愛で照らされるときに本当の平安と喜びが得られるのです。妄想ではない、本物の喜びです。イエスは、十字架という使命にむかって行かれました。周りがどうであろうと、その使命を果たすことによってこの世を変えていくのだという目的のためです。私たちは使命を与えられて生きています。御言葉を読み、そのように生きていくとき、イエスがそうあったように、神の御心が成就していくという約束なのです。ロバが用いられたように、弱い私たちも神の国を作るという使命の一端を担っているのです。ある面ではそれは困難がいっぱいです。しかしある面では、それは生き生きと生きてゆける唯一の道です。
2008.01.13
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第34回目 マルコの福音書11章11節~25節(2007年1月13日)「神を信じなさい」***エルサレムに入城されたイエス。葉の茂ったいちじくに実がなっていないのを見て、「今後ずっとお前の実を誰も食べることがないように」と言われた。そして宮に入り、商売をしている人々を追い出した。***この章の26節はありません。25節の後、27節にとんでいます。脚注を見ると、異本には26節として加えられているとのことですが、聖書を編さんするときに、多くの写本に書かれてあるものを聖書としてまとめていったため、26節は省かれたということでしょう。今日の箇所は、よく議論される場所です。イエスはなぜ、いちじくを食べにいかれたのか。いちじくのなる季節ではないことを分かっていながら、呪いをかけたのはなぜか。あるいは、この箇所はそもそも時期が違っているのではないか、など。多くの議論があるにもかかわらず、全ての写本に残っていた。だから聖書として今あるのです。15節からは、宮きよめの記事です。イエスのイメージとは、決して暴力をふるう人ではないはずです。宮きよめをされるイエスは、普段のイメージからはかけ離れています。ここで私たちは、その背景を見なければなりません。まず宮きよめについて。神殿では、神殿の中でしか使えないお金がありました。そのため、両替商がいて、大変儲けていました。人々は両替したお金で捧げ物である鳩を買っていました。この商人たちにとっては、それが生活の術でした。むしろ、イエスが責めたてたのは、彼らの上にたって、場所を決めてとりしきることで儲けているユダヤの指導者たちだったのでしょう。イエスは、彼らを頭において、宮きよめをしたのだと考えられます。ところで、宮きよめの記事は、先ほどのいちじくの話にまるでサンドイッチのようにはさまれています。葉ばかり茂っていて実がなっていないいちじく、これは象徴的なものです。私たちの信仰が形だけで、実がなかったら、それは意味がなく枯れたものと同じ、ということをイエスは言いたいのではないでしょうか。遠くから見たら、葉が青々と茂っていて、まさに「信仰しています」と見えるが、その実、キリストと共に歩むということをしていないなら、「今後いつまでも、だれもお前の実を食べることがないように」とイエスは言われたが、私たち自身が枯れるのです。それは、イエスの呪いの言葉で枯れるということではなく、信仰がない、すなわち枯れるという象徴としてそうされたのです。エルサレム入城、そしてやがてくる十字架。救いの成就に向かっているイエスが最初になされたのは、宮きよめでした。きよめというと私たちは、タバコやお酒をやめることだと思い勝ちですが、本当のきよめとは、「神と友にいる」ということです。私たちは、どこまでいっても罪人であり、その罪はどうしようもなく重く恐ろしいものです。しかし主がいてくださるなら、私たちは本当の意味できよめられるのです。日本はカルト集団が蔓延しやすいと言われます。欧州では法律でつぶしてしまえるが、日本は簡単に認めてしまうのだそうです。どうやら、カルトというのは、日本人にしっくりくるもののようです。多くのカルトの共通点として、形骸化された宗教、理念というものがあげられます。脱会カウンセリングを受けた人が教会にやってくる場合、彼らは教会の有り様に対して、非常に生ぬるいのではないかと感じるといいます。形骸化された宗教によって「信仰しているつもり」になることはとても怖いことです。今恐れられていることの一つに、新型インフルエンザの脅威があります。報道されていることが現実になれば、一億の人が死ぬのではないかといいます。環境問題にしてもそうです。非常に危機迫る時代です。それらの問題は、起こるか起こらないかではなく、「いつ起こるか」の問題といわれます。必ず起きるというのです。私たちは相当な覚悟が必要です。そのような脅威についてどれだけ報道しても、テレビではそれを忘れさせるような楽しい番組をやっていて、人々は真実を忘れていきます。外からみたら葉が青々として、実がなっているのかと期待させるようないちじくの木。テレビもそう、真実から目をそむけさせているのです。しかし、本質は枯れているかもしれません。信仰もそうです。形だけで、内側が腐っているのです。22節、「神を信じなさい」とイエスは言われます。これは、次の段階の話をしています。新型インフルエンザ、大地震などの脅威により、文明や文化はすでに死んでいるのかもしれません。それに対して、「一体どうしたらいいのですか」と私たちは問いたくなります。ユダヤ人は神を知っています。そして弟子達は、イエスが救い主であるということがそろそろ分かってきた頃でした。その弟子達にわざわざ言います。「神を信じなさい」と。「山に向かって動いて海に入れと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなた方にいうのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。」23、24節。山を動かせます。その通りになるとイエスは言われます。そこまでには、「祈り」があります。1次元的なものではなく、祈りとは、神との会話、そして葛藤です。必要かどうか主ととことん語り合い、必要ならそれが成るのです。語り合いがない祈り、それが形骸化した信仰です。祈りとは、神さまに何でも話すこと、そしてみことばが与えられ、結論として山が動くこともありえるのです。25節は祈っているときの状況です。「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」聖書での命令形は、できるようになる、という約束と捉えられます。赦しなさいとは、あなたは赦すことができるようになる、という神の約束です。そして、私たち自身が神さまに赦されていることを気づいていくということです。今まさに十字架へと向かわれるイエスが、内側の信仰を放さないように、そして艱難は信仰がなければ耐えられないということを私たちに教えてくださっています。多くの脅威にさらされたこの時代だからこそ、信仰が必要であり、信仰者が社会の礎になっていくのです。
2008.01.13
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自分が洗礼を受けたのは、1989年の12月23日。イエス様を信じたのは、その年の夏だったと思うけど、何月何日だったかまでは覚えがない。受洗日よりも信じた日の方を重んじる国もあるようだし、果たしてクリスチャンとは、信じたからそう呼ばれるのか、洗礼を受けたからそうなのか、というのは議論の余地があるところだろう。こんな例えがあるそうだ。イエスを信じるようになった人は、ある意味『胎児』の状態、そして、洗礼という決断によって、この世に『生まれ』るのだと。もちろん、赤ちゃんは自分の決断によって生まれてくるわけではないけど、イエスを信じて実質クリスチャンになっていたとしても、洗礼という決断がないままのクリスチャンは、胎児のようにただ守られているのみで、クリスチャンとしての試練もなければ、成長もないということだと思う。~礼拝後の交わりより~
2008.01.13
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子育てをするときに、子供にお金を与えることは悪いことではないそうです。洗濯が出来たら10円、皿洗いが出来たら10円、そのことによって達成感を得させてやれることには意味があります。そのことの、もっと高度なものとしてボランティアがあります。ある地域が大きな災害に見舞われた時に、普段は家に引きこもっているいわゆるニートの青年達が大変大きな働きをしました。それは、災害によってその地域の人がお金持ちも貧乏もなくある意味全員がゼロの状態になったことによって、彼らが「自分もやっていける」と思ったからではないかと言われています。教会の働きは、ある意味、皆がゼロの状態になることといえます。国籍の違い、奴隷であっても自由人であっても、男も女も関係なく、イエスにあって私たちは一つだと聖書は語るのです。教会の奉仕とは、そこが根源となっているものです。互いが仕えあい、愛しあうことによって、キリストにあって一つであるということを、奉仕によって実体験していくのです。***聖書の言葉***そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 ガラテヤ人への手紙 3章28節 ~礼拝後の交わりより~
2008.01.13
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中毒症状です。うちのダンナさん、ここ数日帰宅したら即、テレビにしがみついて離れません。昨日は9枚もDVDを借りてきたそうです。連休中、ずっと観ているつもりらしい・・『24』というアメリカのドラマシリーズ。24時間、リアルタイムでテロと戦う連邦捜査官の姿を描くスリル満点のサスペンスドラマ・・・Uooもパソコンやったり、ピアノ弾きながらチラ観してますが、こんなハラハラしどおしのドラマは心臓に悪い~と思いつつ、ついつい観てしまいます。映画会社が製作してるドラマらしくて、画像も内容も、かなり作りこんであって見ごたえがありますね。あ~やることいっぱいあるのに~・・・ドラマが気になって、手につかない!自分も既に中毒
2008.01.12
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2月23日、UooもメンバーになってるTGC(豊田ゴスペルクワイア)のコンサートがあります。そこでプレイズダンスを披露するということでメンバー募集のメールがあり・・本番に出るかどうかは別として、以前から興味があったのと、最近の運動不足を解消したくて(^^;)練習に参加してみました。楽しかった~♪振りを覚えるのに、すごく時間がかかるし、下手っぴなのは充分承知なのですが、先生のRさんが誉め上手なので、ついつい本番も出ることに・・・(あ、でも、やっぱり、直前にリタイアするかも・・)というわけで来月のTGCコンサート、ぜひいらしてください!豊田ゴスペルクワイアコンサート Rejoice & Shout日時:2008年2月23日(土)16:30開場 17:00開演場所:豊田市民文化会館 小ホール 豊田市小坂町12-100チケット:前売り2000円 当日2500円出演:兼松弘子 Kaz Kato 豊田ゴスペルクワイア他前売り券はメールで予約可!2月21日までにご予約いただければ、当日受け付けにて前売り券をご購入いただけます。tgc2008live@yahoo.co.jpまで、(1)ご指名 (2)チケット枚数 (3)ご住所 をご記入の上メールしてください。
2008.01.12
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遅ればせながら・・・あけましておめでとうございます♪年末年始は、岐阜のUooの実家に1泊と大阪のダンナさんの実家に2泊しました。移動日は元日、大阪に行く前に少し足を伸ばして姫路城へ行って来ました。ここは、国宝であると同時に、ユネスコで認められた世界文化遺産だそうです。『我が国の築城技術が昂揚期を迎えた江戸時代初期に造営された最も完成された城郭建築であり、壮麗な連立式の天守閣郡をはじめ数多くの建物が築城当時のままの美しい姿で今日まで残る唯一の城としてその普遍的価値が認められたものですが、姫路城が長い歴史の中で一度も戦や大きな災害に遭うことなく奇跡的に生き残り、多くの人々の努力と熱意によって保存・整備されてきた結果でもあります。』パンフレットより元日はなんと、入場無料という大サービス!(普段は600円)そのせいか、お客さんも凄い数でした。入場規制もしていたようです。天守閣を最上階の6階まで、急で狭くて高さの低い階段を頭をぶつけないようにして恐る恐る上がって行きます。人が多すぎて、今もし地震でも起こったら大パニックだわ・・と、ちょっと怖くもなりましたコンクリートではなく、当時の木材、石材で作られたそのままを残しているというのは、やはりかなり見ごたえのある素晴らしいお城でしたお城前の公園は桜並木になっているので、春は更に素晴らしい眺めでしょうね~攻めて来た敵を上から石を落としてやっつけるという仕組み。千姫が住んでいたという西の丸。細い通りと門がいくつもありました。迷路みたい・・・?天守閣最上階からの眺め。姫路の街が一望できます。残念に思うのは、心ない人たちによる落書きが目立ったこと・・日本の誇る文化遺産、大切に残したいですよね~写真に撮り損ねちゃったけど、ここには『お菊井戸』という深さ20メートルはあろうかという井戸がありました。『播州皿屋敷は、お家のっとりの企てを女中お菊が知り、城主の難を救ったが家老はそれをうらみ家宝の皿一枚を隠してお菊を責め、井戸に投げ込んだという有名なお話です。』パンフレットより番町皿屋敷というのは有名ですが、そっくりな怪談がこの姫路城にもあったのですね~他にも、天守閣最上階にある長壁神社は、宮本武蔵の妖怪退治伝説で有名なんだそうです。壮麗な天守閣、美しい白壁、まるで空を舞う白鷺のようだということで、別名『白鷺城(はくろじょう)』とも呼ばれるそうです。元日の青空を背景に聳え立つ美しいお城、いい思い出になりました
2008.01.04
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