2004年11月09日
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楊 玉 芬(ヨウギョクフン)さんの証言
 当時の私の家は3室に分かれていて24人が生活していました。このうち6人が生存しました。
 1932年9月15日の夜、寝ている間に叫び声が聞こえ馬賊が来たと思った。逃げ出した人が戻ってきて「日本兵が来た」と言ったんです。
 当時の平頂山村は田舎の家と労働者の家と2箇所に家並みがあった。
 日本兵が何をしに来たのかわからなかったが、家に入り込んできて村人に山のふもとにある牛小屋に行くように言われた。「団体写真を撮る」と言ったので、服装を整えて外で親戚の人たちと話をしていると日本兵が来て「みんな行け」言われて行きました。
 集まってからトラックに積んであるのが写真機でなく機関銃だった。機銃掃射が始まった。叫び声と泣き声、父さんは私をかくまった。お母さんは妹をかばった。「逃げろ」といわれても逃げ場所はなかった。
 機銃掃射が始まったのは次の日の午前10時頃、飛行機が上空に来たとき、日本兵が「爆撃は必要ない」というサインを送ったため、私は死体の下で助かった。
 日本兵が帰りかかったが生存者に気づき生存者を探しながら銃剣でさして殺したり銃で殺して歩いた。お母さんはその場で亡くなった。お父さんは負傷していて「逃げろ」といったが4歳の妹は「イヤダ」といって泣き出した。母さんはいくら声をかけても返事はない。負傷したお父さんが2人を連れて逃げ出した。日本兵がガソリンを取りに行っている隙に逃げ出すことができた。
 逃げた後、村を振り返ると家は焼かれ煙が出て炎に包まれていた。帰るところがない私たちを助けてくれる人はいない。他の村の人たちは、報復を恐れて助けてはくれないのだ。コーリャン畑で一昼夜身をひそめていた。

 私たちの家族は、父親、妹、おばあちゃん、など6人が生存していることがわかった。撫順で会うことができた。親戚の家に身を寄せていた。
 と証言した楊さんは何度も涙を吹きながら、最後に「8歳の私には、何でこの事件が起きたか知らなかった。殺した人に怒りを感じる。とても残虐な事件だ」と結び、ハンカチで顔を覆いました。
 いままで、こうした証言は他の人が行っていたそうですが、みんな亡くなってしまい、生存者は楊さん唯一人になってしまったそうです。証言するのは今回で2回目ということでしたが、証言した時は、当時のことを思い出し2~3日何も食べられなく眠れなくなってしまうそうです。
 証言には、お孫さんが付き添っていて傍らで心配そうに見守っていたのが印象的でした。
証言する楊さん
証言する楊玉芬さん





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最終更新日  2004年11月09日 19時08分38秒
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