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百二 比田と兄が揃って健三のうちをおとずれたのは月の半ば頃であった。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年のにおいがした。暮も春もない健三の座敷の中に坐った二人は、おちつかないようにそこいらを見廻した。 比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。「まあこれで漸く片が付きました」 その一枚には百円受取った事と、向後一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟は誰のとも判断が付かなかったが、島田のいんは確かに捺してあった。 健三は「然る上は、ごじつに至り」とか「ごじつのため誓約くだんの如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。「どうもお手数でした、ありがとう」「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないといつまでうるさく、つけまとわられるか分ったもんじゃないよ。ねえ長さん」「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」 比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には遣らないでもいい百円を好意的にやったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるためにかねの力をかりたとはどうしても思えなかった。 彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、そこに自分が復籍する時島田に送った文言を見出した。「私儀、今般、貴家ご離縁にあいなり、実父より養育料さしだしそうろうについては、今後とも、たがいに不実不人情にあいならざるよう心掛たくと、ぞんじそうろう」 健三には意味も論理もよく解らなかった。「それを売り付けようというのが向うの腹さね」「つまり百円で買ってやったようなものだね」 比田と兄は又話し合った。健三はそのあいだに言葉をさしはさむのさえ厭だった。 二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。「こちらのほうは虫が食ってますね」「反故だよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠へ入れてしまえ」「わざわざ破かなくっても好いでしょう」 健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向って訊いた。――「さっきのかきつけはどうしたい」「箪笥の抽斗に仕舞って置きました」 彼女は大事なものでも保存するような口振でこう答えた。健三は彼女の処置を咎めもしない代りに、ほめる気にもならなかった。「まあ好かった。あの人だけはこれで片が付いて」 細君は安心したと云わぬばかりの表情を見せた。「何が片付いたって」「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」「そりゃ今までだっておなじことだよ。そうしようと思えばいつでも出来たんだから」「だけど、ああして書いたものをこちらの手に入れて置くと大変違いますわ」「安心するかね」「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」「まだ中々片付きやしないよ」「どうして」「片付いたのはうわべだけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。「じゃどうすれば本当に片付くんです」「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。いっぺん起った事はいつまでも続くのさ。ただ色々な形に変るからひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」 健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。「おお、いい子だいい子だ。お父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」 細君はこう云い云い、幾たびか赤い頬に接吻した。
2014年07月21日
百一 歳があらたまった時、健三は一夜のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ」 実際彼の周囲には大晦日も元日もなかった。悉く前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見ておめでとうというのさえ厭になった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っているほうがまだ心持が好かった。 彼は普通のなりをしてぶらりとおもてへ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬こだちと荒たはたけ、藁葺屋根と細いながれ、そんなものがぼんやりした彼の眼に入った。然し彼はこの可憐な自然に対してももう感興を失っていた。 幸い天気は穏やかであった。からかぜの吹きまくらない野面には春に似たもやが遠く懸っていた。そのあいだから落ちる薄い日影もおっとりと彼のからだを包んだ。彼は人もなく路もない所へわざわざ迷い込んだ。そうして融けかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つところにたたずんんでいる間に、気分を紛らそうとして絵を描いた。然しその絵があまり不味いので、写生はかえって彼をやけにするだけであった。彼は重たい足を引き摺って又うちえ帰って来た。途中で島田に遣るべきかねの事を考えて、不図何か書いて見ようという気を起した。 赤いインキで穢い半紙をなすくるわざは漸く済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日のまがあった。彼はその十日を利用しようとした。彼は又ペンを執って原稿紙に向った。 健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分のからだに反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、又おのれの病気に敵討でもしたいように。彼は血に餓えた。しかも人を屠る事が出来ないので、やむを得ず自分の血を啜って満足した。 予定の枚数を書き了えた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。「ああ、ああ」 彼は、けだものと同じような声を揚げた。 書いたものをかねに換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただどんな手続きでそれを島田に渡して好いか一寸迷った。直接の会見は彼もこのまなかった。向うも、もうあがりませんと云い放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。どうしてもなかへ入って取り次ぐ人の必要があった。「矢っぱり、お兄さんか比田さんにお頼みなさるよりほかに仕方がないでしょう。今までのゆきがかりもあるんだから」「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼む程の事でもないから」 健三は津守坂へ出掛て行った。「百円遣るの」 おどろいた姉は勿体なさそうな眼を丸くして健三を見た。「でも健ちゃんなんぞは、顔が顔だからね。そうしみったれた真似も出来まいし、それにあの島田って爺さんが、ただの爺さんと違って、あの通りのわるだから、百円くらい仕方がないだろうよ」 姉は健三の腹にない事まで一人合点でべらべら喋舌った。「だけどお正月早々お前さんも随分いいつらの皮さね」「いいつらの皮、鯉の滝登りか」 さっきからそばにあぐらをかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。然しその言葉は姉に通じなかった。健三にも解らなかった。それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって可笑しかった。「でも健ちゃんはいいね。おかねを取ろうとすれば幾らでも取れるんだから」「こちらとらとは少し頭の寸法が違うんだ。右大将頼朝公の髑髏と来ているんだから」 比田は変梃な事ばかり云った。然し頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。
2014年07月20日
百 利子の安いたかいは別問題として、比田から融通して貰うという事が、健三にはとても真面目に考えられなかった。彼は毎月いくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこちらでかねを借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映るくらい明白であった。「辻褄の合わない事は世の中に幾らでもあるにはあるが」 こう云い掛けた彼は突然笑いたくなった。「何だか変だな。考えると可笑しくなるだけだ。まあいいや己が借りて遣らなくってもどうにかなるんだろうから」「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。あすこいらの待合か何かへ」 待合という言葉が健三の耳に猶更滑稽に響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うようなたちではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。 滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田に就いて不愉快な昔まで思い出させられた。 それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は平生から自分の持っている両ぶたの銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今にお前に遣ろう」とほとんど口癖のように云っていた。時計を所有した経験のない若い、健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、いつになったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、暗に未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。 病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の形見とも見るべきこの品物は、不幸にして、しちに入れてあった。無論健三にはそれを受け出す力がなかった。彼は姉から所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。 或日、みんなが一つところに落合った。するとその席上で比田が問題の時計を懐から出した。時計は見違える様に磨かれて光っていた。新らしい紐に珊瑚樹の珠が装飾として付け加えられた。彼はそれを勿体らしく兄の前に置いた。「それではこれは貴方に上げる事にしますから」 傍にいた姉もほとんど比田と同じような口上を述べた。「どうも色々、おてかずを掛けまして、有難う。じゃ頂戴します」 兄は礼を云ってそれを受取った。 健三は黙って三人の様子を見ていた。三人はほとんど彼のそこにいる事さえ眼中に置いていなかった。仕舞まで一言も発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。然しかれらは平気であった。かれらの仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故かれらがそんな面当てがましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。 彼は自分の権利も主張しなかった。又説明も求めなかった。ただ無言のうちに愛想を尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、かれらに取って一番ひどい刑罰にちがいなかろうと判断した。「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫も随分執念深いわね。お兄いさんがお聴きになったらさぞお驚きなさるでしょう」 細君は健三の顔を見て暗にそのけしきを伺った。健三はちっとも動かなかった。「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」「おかねなんか借りさえしなきゃ、それでいいじゃありませんか」 こう云った細君の胸には、比田達ばかりでなく、自分の事も、自分の生家の事も勘定に入れてあった。
2014年07月19日
九十九 又二、三日して細君は久し振に外出した。「無沙汰見舞かたがた少し歳暮に回って来ました」 乳飲み子をだいたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬を赤くして、暖かい空気のなかに尻をおちつけた。「お前のうちはどうだい」「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」 健三は挨拶の仕様もなかった。「あの紫檀の机を買わないかって云うんですけれども、縁起が悪いから止しました」 舞葡萄とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きなとう机は、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金のかたに取った細君の父は、同じ運命のもとに、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。「縁起はどうでも好いが、そんなたかいものを買う勇気は当分こちらにもなさそうだ」 健三は苦笑しながら烟草を吹かした。「そう云えば貴夫、あの人に遣るおかねを比田さんから借りなくって」 細君は藪から棒にこんな事を云った。「比田にそれだけの余裕があるのかい」「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方を已められたんですって」 健三はこの新らしい報知を当然とも思った。又異様にも感じた。「もう老朽だろうからね。然し已められれば、猶困るだろうじゃないか」「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当り困るような事はないんですって」 彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。けれども、長年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべきかねは、一時彼の経済状態をうるおすには充分であった。「いぐいをしていてもつまらないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」「へえ、とうとうかね貸を遣るようになったのかい」 健三は平生から島田の因業をわらっていた比田だの姉だのを思い浮べた。自分達の境遇が変ると、昨日まで軽蔑していた人の真似をして恬として気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点に於て寧ろ子供染みていた。「どうせ高利なんだろう」 細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。「何でも旨く運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長くやって行くつもりだって、お姉えさんがそうおっしゃいましたよ」 健三は姉のいう利子のたかから胸算用で、もと金を勘定して見た。「悪くすると、又みんなすっちまうだけだ。それよりそう慾ばらないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」「だから確かな人に貸したいって云うんでしょう」「確かな人はそんなかねは借りないさ。怖いからね」「だけど普通の利子じゃやって行けないんでしょう」「それじゃ己だって借りるのは厭ださ」「お兄いさんも困っていらしってよ」 比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄にかねを借りてくれと頼んだのだそうである。「馬鹿だな。かねを借りてくれ、借りてくれって、こちらから頼む奴もないじゃないか。兄貴だってかねは欲しいだろうが、そんな剣呑な思いまでして借りる必要もあるまいからね」 健三は苦々しいうちにも滑稽を感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でもよく窺われた。それをはたで見て澄ましている姉の料簡も彼には不可思議であった。血が続いていても姉弟という心持は全くしなかった。「お前己が借りるとでも云ったのかい」「そんな余計な事云やしません」
2014年07月18日
九十八 二、三日すると島田に頼まれた男が又、しを通じて面会を求めに来た。ゆきがかりじょう、断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐るべく余儀なくされた。「どうもおいそがしいところを度々出まして」 彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それ程殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。「実はこのあいだの事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで宜しい、その代りどうか年内に頂戴致したい、とこういうんですがね」 健三にはそんな見込がなかった。「年内たってもう僅かの日数しかないじゃありませんか」「だから向うでも急ぐ様な訳でしてね」「あれば今すぐ上げてもいいんです。然し無いんだから仕方がないじゃありませんか」「そうですか」 二人は暫く無言のままでいた。「どうでしょう、そこのところを一つご奮発は願われますまいか。私も折角こうしていそがしい中を、島田さんのために、わざわざ遣って来たもんですから」 それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足る程のてかずでも面倒でもなかった。「お気の毒ですが出来ませんね」 二人は又沈黙を間に置いて相対した。「じゃいつ頃頂けるんでしょう」 健三にはいつというあてもなかった。「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」「私もこうして頼まれてあがった以上、何とか向へ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つおとりきめを願いたいと思いますが」「ご尤もです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」 健三はそれよりほかに云いようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。 その晩寒さと倦怠を凌ぐために蕎麦湯を拵えて貰った健三は、どろどろした鼠色のものを啜りながら、盆を膝の上に置いて傍に坐っている細君と話し合った。「又百円どうかしなくっちゃならない」「貴夫が遣らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」「遣らないでもいいのだけれども、己はやるんだ」 言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。「そう、え故地をおっしゃればそれまでです」「お前は人を理窟ぽいとか何とか云って攻撃する癖に、自分にゃ大変形式ばったところのある女だね」「貴夫こそ形式がお好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」「理窟と形式とは違うさ」「貴夫のはおんなじですよ」「じゃ云って聞かせるがね、己は口にだけ論理をもっている男じゃない。口にある論理はおれの手にも足にも、からだ全体にもあるんだ」「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見える筈がないじゃありませんか」「からっぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の粉のようなもので、理窟がうちから白く吹き出すだけなんだ。外からくっつけた砂糖とは違うさ」 こんな説明が既に細君にはからっぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手に掴まなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事をこのまなかった。又しようと思っても出来なかった。「お前が形式ばるというのわね。人間の内側はどうでも、外へ出たところだけを捉まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度お前のお父さんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁がないと考えているようなもので」「父はそんな事を云った事なんぞありやしません。私だってそう、うわべばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな僻んだ眼で人を見ていらっしゃるから」 細君の瞼から涙がぽたぽた落ちた。云う事がそのあいだに断絶した。島田に遣る百円の話が、飛んだ方角へそれた。そうして段々こんがらかって来た。
2014年07月17日
九十七 人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。「お前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声が猶彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返して已めなかった。彼は最後に叫んだ。「分らない」 その声は忽ちせせら笑った。「分らないのじゃあるまい。分っていても、そこへ行けないのだろう。途中でひっかかっているのだろう」「おれの所為じゃない。おれの所為じゃない」 健三は逃げるようにずんずん歩いた。 賑やかな通りへ来た時、げいねんの支度に忙しい外界は驚異に近い新しさを以て急に彼の眼を刺激した。彼の気分は漸く変った。 彼は客の注意を惹くために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店先を、それからそれと覗き込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹の根がけだの、蒔絵の櫛こうがいだのを、硝子ごしに何の意味もなく長い間眺めていた。「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」 少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君もほとんど何にも買わないと云ってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな、としを越すのに苦しんでいる連中ばかりであった。中にも細君の父は一番ひどそうに思われた。「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」 借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けた序に、細君はかつてこんな事を云った。 それは内閣の瓦解した当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分達のしりぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。然し多数の候補者のうちから、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選に洩れた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門にせまった。官邸を引き払った時に召し使いの数を減らした彼は、しばらくして、自用ぐるまを廃した。仕舞にわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追って益々悲境に沈んでいった。「相場に手を出したのが悪いんですよ」 細君はこんな事も云った。「お役人をしている間は相場師の方で儲けさせてくれるんですって。だから好いけれども、一旦役を退くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」「何の事だか要領を得ないね。だいち意みさえ解らない」「貴方に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」「何を云ってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものにきまっちまうじゃないか。馬鹿な女だな」 健三はその時細君と取り換わせた談話まで思い出した。 彼は不図気が付いた。彼と擦れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんないそがしそうであった。みんな一定の目的をもっているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。 或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥を与えた。「お前は馬鹿だよ」 稀にはこんな顔つきをするものさえあった。 彼は又うちえ帰って赤いインキを穢い半紙へ、なすくり始めた。
2014年07月16日
九十六 話が行き詰るとその人は休んだ。それからよい加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。云う事は散漫であった。理で押せなければ情に訴えるというふうでもなかった。ただものにさえすればよいという料簡が露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三は仕舞に飽きた。「書付を買えの、今に迷惑するのが厭ならかねを出せのと云われるとこちらでも断るよりほかに仕方がありませんが、困るからどうかして貰いたい、その代り向後一切無心がましい事は云って来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」「ええそれがつまり私の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」 健三はそんなら何故早くそう云わないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそう云ってくれないのかという顔つきをした。「じゃどのくらい出してくださいます」 健三は黙って考えた。然しどのくらいが相当のところだかはっきりした目安の出て来よう筈はなかった。その上、なるべく少ない方が彼の便宜であった。「まあ百円くらいなものですね」「百円」 その人はこう繰り返した。「どうでしょう、せめて三百円くらいにして遣る訳には行きますまいか」「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」「ご尤もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」「そんな事をいやあ、私だって困っています」「そうですか」 彼の語気は寧ろ皮肉であった。「元来、いちもんも出さないと云ったって、貴方の方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃお止しなさい」 相手は漸くかけひきを已めた。「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。そのうえで又あがる事にしますから、どうぞなにぶん」 その人が帰った後で健三は細君に向った。「とうとう来た」「どうしたって云うんです」「又かねを取られるんだ。人さえくれば、かねを取られるにきまってるから厭だ」「馬鹿らしい」 細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。「だって仕方がないよ」 健三の返事も簡単であった。彼はそこへおちつくまでの筋道を委しく細君に話してやるのさえ面倒だった。「そりゃ貴夫のおかねを貴夫がお遣りになるんだから、私何も云う訳はありませんわ」「かねなんかあるもんか」 健三は、たたき付けるようにこう云って、又書斎へ入った。そこには鉛筆で一面に汚された紙がところどころ赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐペンを取り上げた。そうして既に汚れたものを猶更赤く汚さなければならなかった。 客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のため又読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。「神でない以上公平は保てない」 彼はあやふやな自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。然し積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元の様に折ると又あたらしく一組を開かなければならなかった。「神でない以上辛抱だってし切れない」 彼は又ペンを放り出した。赤いインキが血のように半紙の上に滲んだ。彼は帽子をかぶって寒い往来へ飛び出した。
2014年07月15日
九十五 見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、なかいちにち置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれたペン先で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのにいそがしかった。彼の指先は赤いインキでところどころ汚れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。 島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異にしていたが、健三から云えば、双方共ほとんど差別のないくらい懸け離れた人間であった。 彼は縞の羽織に角帯を締めて白足袋を穿いていた。商人とも紳士とも片の付かない彼の様子なり言葉づかいなりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ち明ける前に、卒然として健三に訊いた。――「貴方は私の顔を覚えておいでですか」 健三は驚いてその人を見た。彼の顔には何等の特徴もなかった。強いて云えば、こんにちまでただ世帯染みて生きて来たというくらいのものであった。「どうも分りませんね」 彼は勝ち誇った人のように笑った。「そうでしょう。もう忘れても好い時分ですから」 彼は区切を置いて又附け加えた。「然し私ゃこれでも貴方の坊ちゃん坊ちゃんて云われた昔をまだ覚えていますよ」「そうですか」 健三は、そっけない挨拶をしたなり、その人の顔をじっと見守った。「どうしても思い出せませんかね。じゃお話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所をやっていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱の中にあったんでさあ。あの時、かな盥に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」 健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。然し、いま自分の前に坐っている人のその時の姿などは夢にも思い出せなかった。「その縁故で今度又私が頼まれて、島田さんの為にあがったような訳合なんです」 彼は、すぐ本題に入った。そうして健三の予期していた通りかねの請求をし始めた。「もう再びおたくえは伺わないと云ってますから」「このあいだ帰る時既にそう云って行ったんです」「で、どうでしょう、ここいらで綺麗に片を付ける事にしたら。それでないといつまで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」 健三は迷惑を省いてやるからかねを出せと云ったふうな相手の口気を快く思わなかった。「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじきかねを出すくらいなら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私には余ッ程心持が好いんです」 その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。然しやがて口を開いた時は思いも寄らない事を云い出した。「それに貴方もご承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏めたものを渡して、あの書付と引きかえになすった方が好くはありませんか」 健三はその書付を慥に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れて貰いたいと主張したので、健三の父もやむを得ず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったに就いては、こうご、おたがいに不義理不人情な事はしたくないものだという意味をわずか二行あまりに綴って先方へ渡した。「あんなものは反故同然ですよ。向で持っていても役に立たず、私が貰っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」 健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度が猶気に入らなかった。
2014年07月14日
九十四 年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寝るとお正月」という唄をうたった。かれらの心はかれらの口にする唱歌の通りであった。来るべき新年の希望に充ちていた。 書斎にいる健三は時々手にペンを持ったまま、かれらの声に耳を傾けた。自分にもああ云う時代があったのかしらなどと考えた。 子供は又「旦那のきらいな大晦日」というまり歌をうたった。健三は苦笑した。然しそれも今の自分の身の上には痛切にあてはまらなかった。彼はただ厚い四つ折の半紙の束を、十も二十も机の上に重ねて、それを一枚毎に読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤いインキで棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。 半紙にしたためられたものは、悉く鉛筆の走りがきなので、光線の暗い所では字画さえ判然しないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は、がっかりした。「ペネロピーの仕事」という英語の諺が何遍となく彼の口にあがった。「いつまで経ったって片付きやしない」 彼は折々ふでをおいて溜息をついた。 然し片付かないものは、彼の周囲前後にまだ幾らでもあった。彼は不審な顔をして又細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。「何だい」「島田の事に就いて一寸お目に掛りたいっていうんです」「今、さしつかえるからって返してくれ」 一度立った細君はすぐ又戻って来た。「いつ伺ったら好いかご都合を聞かして頂きたいんですって」 健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分の傍に高く積み重ねた半紙の束を眺めた。細君は仕方なしに催促した。「何と云いましょう」「明後日の午後に来てくださいと云ってくれ」 健三も仕方なしに時日を指定した。 仕事を中絶された彼はぼんやり烟草を吹かし始めた。ところへ細君が又入って来た。「帰ったかい」「ええ」 細君は夫の前に広げてある赤い印の附いたきたならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。 調べものを度外に置いた彼女は、坐るとすぐ夫にたずねた。「また何かそう云って来る気でしょうね。しつこい」「暮のうちにどうかしようと云うんだろう。馬鹿らしいや」 細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少のかねを彼に遣る方に傾いていた。然し話はそこまで発展する機会を得ずに余所へそれてしまった。「お前のうちのほうはどうだい」「相変らず困るんでしょう」「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」「あれは出来るんですって。けれどもそうこちらの都合の好いように、ちょっくら一寸という訳には行かないんでしょう」「この暮のうちにはむずかしいのかね」「とても」「困るだろうね」「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」 細君は割合におちついていた。何事も諦めているらしく見えた。
2014年07月13日
九十三 面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむを得ず彼に背中を向けた。そうしてそこに寝ている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。 章魚のようにぐにゃぐにゃしている肉の塊と彼女との間には、理窟の壁も分別のかきもなかった。自分の触れるものがとりも直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻した。「貴夫が私のものでなくっても、この子は私の物よ」 彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。 その赤ん坊はまだ眼鼻立さえはっきりしていなかった。頭にはいつまで待ってもほとんど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。「変な子が出来たものだなあ」 健三は正直なところを云った。「どこの子だって生れたては、みんなこの通りです」「まさかそうでも無かろう。もう少しは整ったのも生れる筈だ」「今にご覧なさい」 細君はさも自信のあるような事を云った。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために、やちゅう、何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどのくらい強いかの疑問にさえ逢着した。 四、五日前少し強い地震のあった時、臆病な彼はすぐ縁から庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へあがって来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」 何故子供の安危を自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。咄嗟の衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三はおどろいた。「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」「当り前ですわ」 健三は自分が如何にも不人情のような気がした。 然し今の彼は、わがもの顔に子供をだいている細君を、かえってひややかに眺めた。「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」 しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。「今にその子供が大きくなって、お前から離れて行く時期がくるにきまっている。お前は己と離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」 書斎におちついた時、彼の感想が又急に科学的色彩を帯び出した。「芭蕉に実がなると翌年からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生む為に生きているのか、死ぬ為に子を生むのか解らないものが幾らでもある。人間も緩慢ながらそれに準じた法則に矢ッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」 彼は母の立場をこう考え尽した後、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い到った時、彼は心のうちで又細君に向って云った。「子供をもったお前は仕合せである。然し、そのしあわせをうける前にお前は既に多大な犠牲を払っている。これから先もお前の気の付かない犠牲をどのくらい払うか分らない。お前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」
2014年07月12日
九十二 細君は健三に向って云った。「貴夫に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中は、みんなバカ、ばかりですから」 健三の心はこうした諷刺を笑って受ける程おちつきいていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を益々窮屈にした。「お前は役に立ちさえすれば、人間はそれでよいと思っているんだろう」「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」 生憎細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れつきであった。 彼には転宅の手伝いすら出来なかった。おお掃除の時にも彼は懐手をしたなり、澄ましていた。行李一つ絡げるにさえ、彼は細紐をどう渡すべきものやら分らなかった。「男の癖に」 動かない彼は、はたのものの眼に、如何にも気のきかない鈍物のように映った。彼は猶更動かなかった。そうして自分の本領を益々反対の方面に移して行った。 彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎へ伴れて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある、理学士に毎日自宅で課業の復習をして貰う時、彼はその人の前で構わずあぐらをかいた。又その人の名を何君、何君と君づけに呼んだ。「あれじゃ仕方がない。私にお預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」 健三の申出は細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を恣まにする我子を見て、何という未来の心配も抱いていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。「若し田舎へやって貴夫と衝突したり何かすると、折り合いが悪くなって、後が困るから、それで已めたんだそうです」 細君の弁解を聞いた時、健三は満更の嘘とも思わなかった。けれどもそのほかにまだ意味が残っているようにも考えた。「馬鹿じゃありません。そんなお世話にならなくっても大丈夫です」 周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえってここにあるのではなかろうかと推察した。 成程細君の弟は馬鹿ではなかった。寧ろ利口過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来の為に、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、こんにちに至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。「役に立つばかりが能じゃない。そのくらいの事が解らなくってどうするんだ」 健三の言葉はいきおい権柄ずくであった。傷けられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。 きげんの直った時細君は又健三に向った。――「そう頭からがみがみ云わないで、もっと判るように云って聞かしてくだすったら好いでしょう」「判るように云おうとすれば、理窟ばかり捏ね返すっていうじゃないか」「だからもっと判り易い様に。私に解らないようなこむずかしい理窟は已めにして」「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに【算術を遣れと注文するのと同じ事だ」「だって貴夫の理窟は、人を捻じ伏せるために用いられるとよりほかに考えようのない事があるんですもの」「お前の頭が悪いからそう思うんだ」「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じふせられるのは、きらいですよ」 二人は又同じ輪の上をぐるぐる回り始めた。
2014年07月11日
九十一 同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭い眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔をあざやかに眺めた。 実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔ものであった。何しにこんな出来損いが舞い込んで来たかという顔つきをした父は、ほとんど子としての待遇を彼に与えなかった。今までと打って変った父のこの態度が、生みの父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介ものを背負い込んでからすぐ慳貪に調子を改めた父とを比較して一度はおどろいた。次には愛想をつかした。然し彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育にともなう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡げた。彼は遂に憂鬱にならずに済んだ。 子供を沢山もっていた彼の父は、毫も健三にかかる気がなかった。今に世話になろうという下心のないのに、かねを掛けるのは一銭でも惜しかった。繋がる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見て遣るのは、ただ損になるだけであった。 その上肝心の本人は帰って来ても籍はもどらなかった。いくら実家で丹精して育てあげたにしたところで、いざという時に、又伴れて行かれればそれまでであった。「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。然しそのほかの事はこちらじゃ構えない。先方でするのが当然だ」 父の理窟はこうであった。 島田は又島田で自分に都合の好い方からばかり事件の成りゆきを観望していた。「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時表沙汰にしてでもこちらへふんだくってしまえばそれまでだ」 健三は海にも住めなかった。山にも居られなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。寧ろ物品であった。ただ実父が、がらくたとして彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。「もうこちらへ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うがいい」 健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かの序にこんな事を云った。健三は驚いて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は幾つだったかよく覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分萌している頃であった。「給仕になんぞされては大変だ」 彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。さいわいにしてその言葉はむだに繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。「然し今の自分はどうして出来あがったのだろう」 彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲とよく闘いおおせたものだという誇りも大分、まじっていた。そうしてまだ出来あがらないものを、既に出来あがったように見る得意も無論含まれていた。 彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑った。しかもその現在の為に苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。 彼と島田との関係が破裂したのは、この現在のお蔭であった。彼がお常を忌むのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在のお蔭であった。細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在のお蔭にちがいなかった。一方から見ると、人とそりが合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。
2014年07月10日
九十 然しこの不幸な女の死にともなって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも遥に重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。「それに就いて是非一つ聞いて貰わないと困る事があるんですが」 ここまで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からそのあとを推察する事が出来た。「又かねでしょう」「まあそうで。お縫が死んだんで、柴野とお藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」 島田の言葉は変にぞんざいになったり、又鄭寧になったりした。「今までは、金鵄勲章の年金だけは、ちゃんちゃんとこちらへ来たんですがね。それが急に無くなると、まるであてが外れる様な始末で、私も困るんです」 彼はまた調子を改めた。「とにかくこうなっちゃ、お前を措いてもうほかに世話をして貰う人は誰もありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困る」「そうひとにのし懸って来たって仕方がありません。今の私にはそれだけの事をしなければならない因縁も何もないんだから」 島田はじっと健三の顔を見た。半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼つきは、単に相手の心を激昂させるだけであった。健三の態度から深入の危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。「永い間の事は又、ゆるゆるお話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」 健三にはどういう急場がかれらの間に持ちあがっているのか解らなかった。「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこのうちだって暮になりゃ百と二百とまとまったかねの要るのは当り前だろう」 健三は勝手にしろという気になった。「私にそんなかねはありませんよ」「冗談云っちゃ不可い。これだけの構をしていて、そのくらいの融通がきかないなんて、そんな筈があるもんか」「あっても無くっても、無いから無いというだけの話です」「じゃ云うが、お前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」 健三はこの無茶苦茶な言いがかりに、おこらされるよりは寧ろ驚かされた。「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方の関係した事じゃありません」 島田はそこまで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというようなふうも見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。「じゃいくら困っても助けてくれないと云うんですね」「ええ、もう一もんもあげません」 島田は立ちあがった。沓脱へ下りて、開けた格子を締める時に、彼は又振り返った。「もうあがりませんから」 最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗いうちに輝いた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見おろした。然し彼はその輝きのうちに何等の凄さも、恐ろしさも、又不気味さも認めなかった。彼自身の眸から出る怒りと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。 細君は遠くから暗に健三のけしきを窺った。「一体どうしたんです」「勝手にするが好いや」「またおかねでもくれろって来たんですか」「誰が遣るもんか」 細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。「あのお婆さんの方が細く長く続くからまだ安全ね」「島田の方だって、これで片付くもんかね」 健三は吐き出すようにこう云って、来るべき次の幕さえ頭の中に予想した。
2014年07月09日
八十九 日ならず鼻の下の長い島田の顔が又健三の座敷に現われた時、彼はすぐお常の事を聯想した。 かれらだって生れ付いての仇同志でない以上、仲の好い昔もあったに違いない。他から爪に灯を点すようだと云われるのも構わずに、かねばかり溜めた当時は、どんなに楽しかったろう。どんな未来の希望に支配されていただろう。かれらに取って睦ましさの唯一の記念とも見るべきそのかねがどこかへ飛んでいってしまった後、かれらは夢のような自分達の過去を、果してどう眺めているだろう。 健三はもう少しでお常の話を島田にするところであった。然し過去に無感覚な表情しかもたない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。昔の憎悪、古い愛執、そんなものは当時のかねと共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。 彼は腰から烟草入を出して、刻み烟草を雁首へ詰めた。吸殻を落すときには、左の掌で烟管を受けて、火鉢のふちを敲かなかった。やにが溜っていると見えて、吸う時にじゆじゆ音がした。彼は無言で懐を探った。それから健三の方を向いた。「すこし、紙はありませんか、生憎烟管が詰って」 彼は健三から受取った半紙を割いて紙縒りを拵えた。それで、にへんも、さんぺんも羅宇の中を掃除した。彼はこういう事をするのに最も馴れた人であった。健三は黙ってその手際を見ていた。「段々暮になるんでさぞおいそがしいでしょう」 彼は、とおりの好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこう云った。「我々の家業は暮も正月もありません。ねんが年中同じ事です」「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」 島田がまだ何か云おうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。「おや赤ん坊のようですね」「ええ、ついこの間生れたばかりです」「そりゃどうも。ちっとも知りませんでした。男ですか女ですか」「女です」「へええ、失礼だがこれで幾人目ですか」 島田は色々な事を訊いた。それに相当な受け答えをしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。 出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」 彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと明瞭になるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは、とりも直さず赤ん坊の母親にちがいなかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三はそこまで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のあるまなこを注いだ。何の為に生きているかほとんど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間にちがいなかった。「どういう訳でこう丈夫なのだろう」 健三はほとんど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態に就いては、毫も責任がないもののごとき忌々しさを感じた。その時島田は彼に向って突然こう云った。――「お縫もとうとう亡くなってね。ご祝儀は済んだが」 とても助からないという事だけは、脊髄病という名前から推して、とうに承知していたようなものの、改まってそう云われて見ると、健三も急に気の毒になった。「そうですか。可愛そうに」「なに病気が病気だからとてもなおりっこないんです」 島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。
2014年07月08日
八十八 好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、お常の前へ置いた。「失礼ですがこれで車へでも乗って行ってください」「そんなご心配を掛けては済みません。そういうつもりで、あがったのではご座いませんから」 彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐へ入れた。 小遣を遣る時の健三がこの前と同じ挨拶を用いたように、それを貰うお常の辞令も最初と全く違わなかった。そのうえ偶然にも五円というかね高さえ一致していた。「この次来た時に、もし五円札が無かったらどうしよう」 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、お常に分る筈がなかった。三度目にくるお常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼は不図、馬鹿馬鹿しくなった。「これからあの人が来ると、いつでも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要らざる義理だてをするのと同じ事なのかしら」 自分の関係した事じゃないと云ったふうに熨斗を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。「無いときは遣らないでも好いじゃありませんか。何もそう見栄を張る必要はないんだから」「無い時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」 二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗から火鉢へ移す音がそのあいだに聞こえた。「どうして又、今日は五円入っていたんです。貴夫の紙入に」 健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶を買うのに四円いくらか払った。かけ額をあつらえるとき五円なにがしか取られた。指物師が百円に負けて置くから買わないかと云った立派な紫檀の書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して、しょうにんの手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢の付いた五円札がたった一枚残ったのである。「実はまだ買いたいものがあるんだがな」「何をお買いになるつもりだったの」 健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。「沢山あるんだ」 慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚をもっている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、ほかの質問を彼に掛けた。「あのお婆さんはお姉さんなんぞより、よっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と、うちで落ち合っても、そう喧嘩もしないでしょう」「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山なところへ持って来て」「今でも矢っ張喧嘩が始まるでしょうか」「喧嘩はとにかく、おれの方が厭じゃないか」「二人ともまだ知らないようね。片っぽうが、うちえ来る事を」「どうだか」 島田はかつてお常の事を口にしなかった。お常も健三の予期に反して、島田に就いては何にも語らなかった。「あのお婆さんの方がまだあの人より好いでしょう」「どうして」「五円貰うと黙って帰って行くから」 島田の請求慾の訪問毎に増長するのに比べると、お常の態度は尋常にちがいなかった。
2014年07月07日
八十七 この会話がまだ健三の記憶を新しく彩っていた頃、彼はお常から第二回の訪問を受けた。 先達て見た時と略同じように粗末な服装をしている彼女の恰好は、寒さと共に襦袢胴着の類でも重ねたのだろう、前よりは益々丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢をすぐその人の方へ押し遣った。「いえもうお構いくださいますな。今日は、だいぶんお暖かでご座いますから」 外部には穏やかな日が、障子にはめた硝子ごしに薄く光っていた。「あなたは年を取って段々お肥りになるようですね」「ええお蔭さまでからだのほうはまことに丈夫でご座います」「そりゃ結構です」「その代り身上のほうは、ただ痩せる一方で」 健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑われた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見える処もあった。「酒でも飲むんじゃなかろうか」 こんな推察さえ彼の胸を横切った。 お常の肌身に着けているものは悉く古びていた。幾たび水をくぐったか分らないその着物なり羽織なりは、どこかに絹の光が残っているようで、又変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗に洗張が出来ているところに彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人もご座いません」 健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。「この人は己を自分よりかね持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」 近頃の健三は実際健康を損なっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも診て貰わなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。然しからだの未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃした。或時は人が自分をこんなに弱くしてしまったのだという様な気を起して、相手のないのに腹を立てた。「年が若くって、たちいに不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構のうちに住んで下女さえ使っていればかねでもあると考えるように」 健三は黙ってお常の顔を眺めていた。同時に彼はあたらしく床の間に飾られた花瓶とそのうしろに懸っているかけ額とを眺めた。近いうちに袖を通すべきぴかぴかする反物も彼の心のうちにあった。彼は何故この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかとあやしんだ。「ことによるとおれの方が不人情なのかも知れない」 彼は姉の上に加えた評をもういっぺん腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。 お常は自分の厄介になっている娘婿の事に就いて色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕がすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入るかねの意味で、そのかねよりほかに人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当らないらしかった。「何しろ取高が少ないもんですから仕方がご座いません。もう少し稼いでくれると好いのですけれども」 彼女は自分の娘婿を捉まえて愚図だとも無能だとも云わない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入のたかを健三の前に並べて見せた。あたかも物指で反物の寸法さえ計れば、縞柄だの地質だのは、まるで問題にならないと云ったふうに。 生憎健三はそうした尺度で自分を計って貰いたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。
2014年07月06日
八十六「だから元はお姉さんの所へみんなが、色んな物を持って来たんですって」 細君は健三の顔を見て突然こんな事を云い出した。――「とおのものには十五の返しをなさるお姉さんの気性を知ってるもんだから、みんなそのお礼をあてに何かくれるんだそうですよ」「とおのものに十五の返しをするったって、たかが五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」「それで沢山なんでしょう。そういう人達は」 他から見ると酔狂としか思われない程細かなノートばかり拵えている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。「随分厄介なつきあいだね。だいち馬鹿馬鹿しいじゃないか」「はたから見れば馬鹿馬鹿しいようですけれども、その中に入ると、矢っ張仕方がないんでしょう」 健三はこのあいだ余所から臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題に就いて考えさせられた。 今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートよりほかに何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴る面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾った様に喜んだ。 兼てからわが座敷の如何にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂にある、から木の指物師の所へ行って、紫檀のかけ額を一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に貰った北魏の二十品という石摺のうちにある一つをえり出して入れた。それからその額をかんの着いた細長い胡麻たけの下えぶら下げて、床の間の釘へ懸けた。竹に丸味があるので壁におちつきかないせいか、額は静かな時でもななめに傾いた。 彼は又団子坂を下りて谷中の方へ上って行った。そうしてそこにある陶器店から一個の花瓶を買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間のうえへ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さいかけ額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にも無いよりは増しだと考えた。趣味に贅沢をいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。 彼は又本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物を買った。織物に就いて何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好い加減な選択をした。それは無闇に光る絣であった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭に揃いの羽織と着物を拵えるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙を抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。 これらの物を買い調えた彼は毫も他人に就いて考えなかった。あたらしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を過ちょうする姉に比べて見ると、彼は憐れなものに対する好意すらうしなっていた。「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。然し姉は生れ付いての見栄坊なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」「親切気はまるでないんでしょうか」「そうさな」 健三は一寸考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。「ことによるとおれの方が不人情に出来ているのかも知れない」
2014年07月05日
八十五 細君のとこが上げられた時、冬はもう荒れ果てたかれらの庭に霜柱の錐を立てようとしていた。「大変荒れた事、今年はいつもより、さむいようね」「血が少なくなった所為で、そう思うんだろう」「そうでしょうかしら」 細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢の上に翳して、自分の爪の色を見た。「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」「ええ、そりゃ分ってますわ」 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白い頬を二、三度撫でた。「然し寒い事も寒いんでしょう、今年は」 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑しく見えた。「そりゃ冬だから寒いにきまっているさ」 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼のからだに厳しく中った。彼はやむを得ず書斎に炬燵を入れて、両膝から腰のあたりに浸み込む、ひえを防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点に於て、細君とかわるところがなかった。 毎朝夫を送り出してから髪に櫛を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は梳くたびに櫛の歯に絡まるその抜毛を残り惜気に眺めた。それが彼女には、うしなわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。「あたらしく生きたものを拵え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」 彼女の胸には微かにこういう感じが湧いた。然し彼女はその微かな感じを言葉に纏める程の頭をもっていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みとがまじっていた。いずれにしても、あたらしく生れた子が可愛くなるばかりであった。 彼女はぐたぐたして手応えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬へ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。 彼女は自分のわきにその子を置いて、またたちもの板の前に坐った。そうして時々針の手を已めては、暖かそうに寝ているその顔を、心配そうにうえから覗き込んだ。「そりゃ誰の着物だい」「矢っ張この子のです」「そんなに幾つも要るのかい」「ええ」 細君は黙って手を運ばしていた。 健三はやっと気が付いた様に、細君の膝の上に置かれた大きな模様のある切地を眺めた。「それは姉から祝ってくれたんだろう」「そうです」「下らない話だな。かねもないのに止せば好いのに」 健三から貰った小遣のうちを割いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。「つまりおれのかねで己が買ったと同じ事になるんだからな」「でも貴夫に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」 姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他からものを貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。「どうも困るね、そう義理義理って、何が義理だかさっぱり解りやしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田に借りられないような用心でもする方が余程増しだ」 こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。「今に又何かお礼をしますからそれで好いでしょう」 人を訪問する時にほとんど土産ものを持参したためしのない、健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんすを見詰めていた。
2014年07月04日
八十四 退屈な細君は貸本屋から借りた小説をよくとこの上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚らしいその表紙が健三の注意を惹く時、彼は細君に向って訊いた。「こんなものが面白いのかい」 細君は自分の文学趣味の低い事を嘲られるような気がした。「よいじゃありませんか、貴夫に面白くなくったって、私にさえ面白けりゃ」 色々な方面に於て自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。 健三の所へ嫁ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入する二三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは、違った意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫に於て見出した。彼女はその何方かが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くにちがわないという確信をもっていた。 案に相違して健三は頑強であった。同時に細君の膠着力も固かった。二人は二人同志で軽蔑し合った。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。健三は又自分を認めない細君を忌々しく感じた。一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に見下す態度を公けにして憚らなかった。「じゃ貴夫が教えて下されば好いのに。そんなに人を馬鹿にばかりなさらないで」「お前の方に教えて貰おうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、己にゃどうする事も出来ないよ」 誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。然し古いだけで埒は一向あかなかった。 健三はもう飽きたというふうをして、手摺のした貸本を投げ出した。「読むなと云うんじゃない。それはお前の随意だ。然しあんまり眼を使わないようにしたら好いだろう」 細君は裁縫が一番好きであった。夜眼が冴えて寝られない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を洋燈のもとに運ばせていた。長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのがもとで、大変視力を悪くした経験もあった。「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本くらい構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」「然し疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」「なに大丈夫です」 まだ三十に足りない細君には過労の意味がよく解らなかった。彼女は笑って取り合わなかった。「お前が困らなくっても己が困る」 健三はわざと手前勝手らしい事を云った。自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。それが又夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。 同時に彼のノートは益々細かくなって行った。最初蠅の頭くらいであった字が次第に蟻の頭程に縮まって来た。何故そんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、ほとんど無意味にペンを走らせてやまなかった。ひの光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈から出る薄いともしびの影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費して顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。
2014年07月03日
八十三 子供は一番気楽であった。生きた人形でも買って貰ったように喜んで、暇さえあると、新らしい妹の傍に寄りたがった。その妹の瞬き一つさえ驚嘆の種になるかれらには、くさめでもあくびでも何でもかでも不可思議な現象と見えた。「今にどんなになるだろう」 当面に忙殺されるかれらの胸には、かってこうした問題が浮かばなかった。自分達自身の今にどんなになるかをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考える筈がなかった。 この意味で見たかれらは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。「又、かたまっているな」 彼はすぐきびすを回らして部屋の外へ出る事があった。 時によると彼は服も改めずにすぐそこへあぐらをかいた。「こう始終、湯たんぽばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」 彼は何にも解らない癖に好い加減な小言を云ってかえって細君から笑われたりした。 日が重なっても彼は赤ん坊をだいて見る気にならなかった。それでいて一つ部屋にかたまっている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。「女は子供を専領してしまうものだね」 細君はおどろいた顔をして夫を見返した。そこには自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。「何で藪から棒にそんな事をおっしゃるの」「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討をするつもりなんだろう」「馬鹿をおっしゃい。子供が私の傍へばかり寄り付くのは、貴夫が構い付けてお遣りなさらないからです」「己を構い付けなくさせたものは、とりも直さずお前だろう」「どうでも勝手になさい。なんぞというと僻みばかり云って。どうせ口の達者な貴夫には、かないませんから」 健三は寧ろ真面目であった。僻みとも口巧者とも思わなかった。「女は策略が好きだから不可い」 細君はとこの上で寝返りをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。「そんなに何も私を虐めなくっても……」 細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ産褥を離れ得ない彼女の前に慰藉の言葉を並べなければならなかった。然し彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を拭いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。 次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。「貴夫何故その子をだいてお遣りにならないの」「何だかだくと、けんのんだからさ。首でも折ると大変だからね」「嘘をおっしゃい。貴夫には女房や子供に対する情合が欠けているんですよ」「だってご覧な、ぐたぐたしてだきつけない男に手なんか出せやしないじゃないか」 実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡の出来た時、健三の態度がにわかに一変した実例を証拠に挙げた。「それまで毎日だいてやっていたのに、それから急にだかなくなったじゃありませんか」 健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。「何と云ったって女には技巧があるんだから仕方がない」 彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡ての技巧から解放された自由の人であるかのように。
2014年07月02日
八十二 やがて細君の腋の下に検温器が宛がわれた。「熱が少し出ましたね」 産婆はこう云って度盛の柱の中に上った水銀を振り落した。彼女は比較的言葉すくなであった。用心のため産科の医者を呼んで診て貰ったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。「大丈夫なのかな」「どうですか」 健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ産褥熱じゃなかろうかという危惧の念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。「どうですかって、お前のからだじゃないか」 細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。「人がこんなに心配して遣るのに」 この感じをあくる日まで持ち続けた彼は、いつもの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもうさめている事に気が付いた。「矢っ張何でもなかったのかな」「ええ。だけどいつ又出て来るか分りませんわ」「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」 健三は真面目であった。細君は淋しい頬に微笑を洩らした。 熱は、さいわいにしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当にいった。健三は既定の三週間をとこの上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら坐った。「今度は死ぬ死ぬって云いながら、平気で生きているじゃないか」「死んだ方が好ければいつでも死にます」「それはご随意だ」 夫の言葉を冗談半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。「実際今度は死ぬと思ったんですもの」「どういう訳で」「訳はないわ、ただ思うのに」 死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。「お前は呑気だね」「貴夫こそ呑気よ」 細君は嬉しそうに自分の傍に寝ている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さいほっぺをつついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻をもっているとは、いえない程、変な顔をしていた。「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎる様だね」「今に大きくなりますよ」 健三はこの小さい肉の塊が今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限りいつかくるに相違なかった。「人間の運命は中々片付かないもんだな」 細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。「何ですって」 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。「それがどうしたの」「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」「つまらないわ。ひとに解らない事さえ云いや、好いかと思って」 細君は夫を捨てて又自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭な顔もせずに書斎へ入った。 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊のほかに、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息で倒れようとして未だ倒れずにいる姉の事があった。新らしい位置が手に入るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他島田の事もお常の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係がみんなまだ片付かずにいるという事もあった。
2014年07月01日
八十一 その内、待に待った産婆が来たので、健三は漸く安心して自分の部屋へ引き取った。 夜は間もなく明けた。赤子の泣く声が家の中の寒い空気をふるわせた。「ご安産でお目出とうご座います」「男かね女かね」「女のお子さんで」 産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。「又女か」 健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心のうちで暗に細君を非難した。然しそれを生ませた自分の責任には思い到らなかった。 田舎で生まれた長女は肌理の濃やかな美しい子であった。健三はよくその子を乳母車に乗せて町の中をうしろから押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながらうちえ帰って来た。然しあてにならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人につれれられて彼を新橋に迎えたこの娘は、久し振りに父の顔を見て、もっと好いお父さまかと思ったと、はたのものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々丈が詰って来た。輪廓に角が立った。健三はこの娘の容貌のうちに、いつか成長しつつある自分の相好の悪い所を明らかに認めなければならなかった。 次女は、ねんが年中、できものだらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのがもとで、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに切ってしまった。顎の短い眼の大きなその子は、海坊主の化物のようなふうをして、そこいらをうろうろしていた。 三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。「ああ云うものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」 彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気にまじっていた。 彼は外へ出る前に一寸寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏やかに寝ていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具蒲団につつまれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。昨夜暗闇で彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。 一切も綺麗に始末されていた。そこいらには汚れものの影さえ見えなかった。夜来の記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。「蒲団は換えてやったのかい」「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」「よくこう早く片付けられるもんだね」 産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。「貴夫が無闇に脱脂綿を使ってお仕舞になったものだから、足りなくって大変困りましたよ」「そうだろう。随分おどろいたからね」 こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失って蒼い顔をしている細君の方が懸念の種になった。「どうだ」 細君は微かに眼を開けて、枕の上で軽くうなずいた。健三はそのまま外へ出た。 例刻に帰った時、彼は洋服のままで又細君の枕元に坐った。「どうだ」 然し細君はもう、うなずかなかった。「何だか変な様です」 彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照っていた。「心持が悪いのかい」「ええ」「産婆を呼びに遣ろうか」「もうくるでしょう」 産婆は来る筈になっていた。
2014年06月30日
八十 ひどりが狂って予期より早く産気づいた細君は、苦しそうな声を出して、傍に寝ている夫の夢を驚かした。「先刻から急にお腹が痛み出して……」「もう出そうなのかい」 健三にはどのくらいな程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。「少し、さすってやろうか」 起きあがる事の億劫な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産に就いての経験をただ一度しかもっていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。ひとしきり痛んではまた、ひとしきり治まるんだろう」「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」 細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。じっと蒲団の上におちついて、いられない彼女は、枕をはずして右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。「産婆を呼ぼうか」「ええ、早く」 職業柄産婆のうちには電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろう筈はなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼はいつでも掛りつけの近所の医者の所へ、かけつけるのを例にしていた。 初冬の暗い夜はまだ明け離れるのにだいぶん、まがあった。彼はその人とその人の門を敲く下女の迷惑を察した。然し夜明まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の襖を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急き立てて暗い夜の中へ追いやった。 彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは、益々劇しくなった。彼の神経は一分毎に門前で停る車の響を待ち受けなければならない程に緊張して来た。 産婆は容易に来なかった。細君の唸る声がたえまなく静かな夜の部屋を不安にかき乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩した。「確りしろ」 すぐ立って蒲団の裾の方にまわった健三は、どうして好いか分らなかった。その時例の洋燈は細長いほやの中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している辺は、夜具の縞柄さえはっきりしないぼんやりした陰で一面につつまれていた。 彼は狼狽した。けれども洋燈を移してそこをてらすのは、男子の見るべからざるものを強いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむを得ず暗中に摸索した。彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫でて見た。塊は動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうにちがわないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。「然しこのままにして、ほうって置いたら、風邪を引くだろう、寒さで凍えてしまうだろう」 死んでいるか生きているかさえ見分けのつかない彼にもこういう懸念が湧いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚のうちに入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分のうしろにあるからかみを開けた。彼はそこから多量の綿を引き摺り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それを無闇にちぎって、柔かい塊の上に載せた。
2014年06月29日
七十九 不合理な事のきらいな健三は心のうちで、それを苦に病んだ。けれども別にどうする了簡も出さなかった。彼の性質はむきでもあり一図でもあったと共に頗る消極的な傾向を帯びていた。「己にそんな義務はない」 自分に訊いて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。彼はいつまでも不愉快の中で起臥する決心をした。成りゆきが自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。 不幸にして細君もまたこの点に於てどこまでも消極的な態度を離れなかった。彼女は何か事件があれば動く女であった。他から頼まれて男より邁進する場合もあった。然しそれは眼前に手で触れられるだけの明瞭な或物を、つらまえた時に限っていた。ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。自分の父と健三の間にもこれという程の破綻は認められなかった。大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はその他を閑却した。自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだとかんじていた。「だって何にもないじゃありませんか」 うら面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。仕舞にどうなっても構わないという投げ遣りの気分が、単に消極的な彼女を猶の事消極的に練り堅めて行った。 斯くして夫婦の態度は悪い所で一致した。相互の不調和を永続するためにと評されても仕方のないこの一致は、根強いかれらの性格から割り出されていた。偶然というよりも寧ろ必然の結果であった。互いに顔を見合せたかれらは、相手のにんそうで自分の運命を判断した。 細君の父が健三の手で調達されたかねを受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。「産婆はいつ頃生れると云うのかい」「いつって、はっきり云いもしませんが、もうじきですわ」「用意は出来てるのかい」「ええ奥の戸棚の中に入っています」 健三には何が這入っているのか分らなかった。細君は苦しそうに大きな溜息をついた。「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」「今度は死ぬかも知れないって云ってたじゃないか」「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」「どうもお気の毒さまだな」「好いわ、死ねば貴夫の所為だから」 健三は遠い田舎で細君が長女を生んだ時の光景を思い出した。不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれと云われて産室へ入った時、彼女は骨に応えるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛み付いた。そうして拷問でもされる人のように唸った。彼は自分の細君がからだの上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかという気さえした。「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」「じゃ何処かへ遊びにでもいらっしゃいな」「一人で生めるかい」 細君は何とも答えなかった。夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。健三も訊いて見ようとは思わなかった。生れつき心配しょうな彼は、細君の唸り声を余所にして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。 産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。「一週間以内かね」「いえもう少し後でしょう」 健三も細君もその気でいた。
2014年06月28日
七十八「くみし易い男だ」 実際に於てくみし易い或物を多量にもっていると自覚しながらも、健三はひとからこう思われるのが癪に障った。 彼の神経はこの肝癪を乗り超えた人に向って鋭いなつかしみを感じた。彼は群衆のうちにあって、すぐそういう人を物色する事の出来る眼をもっていた。けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。だから猶そういう人が眼に着いた。又そういう人を余計尊敬したくなった。 同時に彼は自分を罵った。然し自分を罵らせるようにする相手をば、更に烈しく罵った。 斯くして細君の父と彼との間には自然の造った溝が次第に出来あがった。彼に対する細君の態度も暗にそれを手伝ったには相違なかった。 二人の間柄が擦れ擦れになると、細君の心は段々生家の方へ傾いて行った。生家でも同情の結果、冥々のうちに細君の肩を持たなければならなくなった。然し細君の肩を持つという事は、或場合に於て、健三を敵とするという意味にほかならなかった。二人は益々離れるだけであった。 さいわいにして自然は緩和剤としてのヒステリーを細君に与えた。発作は都合よく二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下にうつ伏せになって倒れている細君を抱き起して、とこの上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲っている彼女を、うしろから両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。 そんな時に限って、彼女の意識はいつでも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ、幻のように映るらしかった。 枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼にはいつでも不安がひらめいた。時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。彼はよく気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れてやった。汗ばんだ、ひたいを濡れ手拭で拭いてやった。たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。 発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。 或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た。紐の長さを四尺程にして、寝返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。 或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。 或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。「お天道さまが来ました。五色の雲へ乗って来ました。大変よ、貴夫」「わたしの赤ん坊は死んじまった。わたしの死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そらそこにいるじゃありませんか。はねつるべの中に。わたし、一寸、いって見て来るから放してください」 流産してから間もない彼女は、抱き竦めにかかる健三の手を振り払って、こう云いながら起き上がろうとしたのである。 細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。然し大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲がたなびいていた。彼は心配よりも可哀想になった。弱い憐れなものの前に頭を下げて、出来うる限りきげんを取った。細君も嬉しそうな顔をした。 だから発作に故意だろうという疑いの掛からない以上、また余りに肝癪が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。 不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君がもとで出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した後でも、一寸埋める訳に行かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。
2014年06月27日
七十七 細君の父は事務家であった。ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。乃木将軍が一時台湾総督になって間もなくそれを已めた時、彼は健三に向ってこんな事を云った。――「個人としての乃木さんは義に堅く情に篤く実に立派なものです。然し総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ大分あるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものにはよく及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。そこへ行くと矢っ張手腕ですね。手腕がなくっちゃ、どんな善人でもただ坐っているよりほかに仕方がありませんからね」 彼は在職中の関係から或会の事務一切を管理していた。侯爵を会頭に頂くその会は、彼の力で設立の主意を綺麗に事業の上で完成した後、彼の手元に二万円程の剰余金を委ねた。官途に縁がなくなってから、不如意に不如意の続いた彼は、ついその委託金に手を付けた。そうしていつの間にか全部を消費してしまった。然し彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかった。従って彼はこの預金から当然生まれて来る百円近くの利子を毎月調達して、体面をつくろわなければならなかった。自家の経済よりもかえってこの方を苦に病んでいた彼が、こう生涯の持続に絶対に必要なその百円を、月々保険会社から貰うようになったのは、当時の彼の心中に立入って考えて見ると、全く嬉しいにちがいなかった。 余程後になって始めてこの話を細君から聴いた健三は、彼女の父に対して新たな同情を感じただけで、不徳義漢として彼を憎む気は更に起らなかった。そういう男の娘と夫婦になっているのが恥ずかしいなどとは更に思わなかった。然し細君に対しての健三は、この点に関してほとんど無言であった。細君は時々彼に向って云った。――「わたし、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くしてくれさえすれば」「泥棒でも構わないのかい」「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でも好いわ。ただ女房を大事にしてくれれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、うちで不親切じゃわたしにゃ何にもならないんですもの」 実際細君はこの言葉通りの女であった。健三もその意見には賛成であった。けれども彼の推察は月の暈の様に細君の言外まで滲み出した。学問ばかりに屈託している自分を、彼女がこういう言葉で余所ながら非難するのだと云うにおいがどこやらでした。然しそれよりも遥かに強く、夫の心を知らない彼女がこんな態度で暗に自分の父を弁護するのではないかという感じが健三の胸を打った。「己はそんな事で人と離れる人間じゃない」 自分を細君に説明しようと、つとめなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。 然し細君の父と彼との交情に、自然の溝が出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。 健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という葉書だけを出した。父はそれを許さなかった。表向きそれを咎める事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細に心得ていた彼は、何故健三が細君の父たる彼に、賀正を口ずから述べなかったかの源因に就いては全く無反省であった。 一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむおを得ないで犯す罪と、遣らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質の宜しくないこの余裕を非常に憎み出した。
2014年06月26日
七十六 けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自ら進んで母に旅費を用立った娘婿は、一歩、しりぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。然し彼の眼に、ただよういろは冷淡でも無頓着でもなかった。寧ろ黒い瞳からひらめこうとする反感の稲妻であった。つとめてその稲妻を隠そうとした彼は、やむを得ずこの鋭く光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。 父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的につっ掛る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔ものになった。彼から云えば、父はこういう意味に於て彼を苦しめに来たと同じ事であった。父から云えば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の娘婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさにちがいなかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三は矢張馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢い男ではなかった。「私も今度という今度は困りました」 最初にこう云った父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。 父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、又実業家でもあった。「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか旨く出来そうですよ。三井と三菱を除けば日本ではまあ、あすこくらいなもんですから、使用人になったからと云って、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広い様ですから、面白く働けるだろうと思うんです」 この財力家によって細君の父に予約された位置というのは、関西にある或私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、そこの社長を選ぶ特権を有していたのである。然し何十株か何百株かの持主として、予め資格を作って置かなければならない父は、どうしてかねの工面をするだろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。「一時必要な株数だけを私の名儀に書き換えて貰うんです」 健三は父の言葉に疑いを挟む程、彼の才能を見縊っていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱させるという意味に於ても、その成功を希望しない訳に行かなかった。然し依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の挨拶は形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるでそこに注意を払わないように見えた。「然し困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」 彼は懐から又一枚の辞令みたようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。「今お話した一方の方が出来たらこれは已るか、又は出来ても続けてやるか、そのへんは、まだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の凌ぎにはなりますから」 昔し彼が政府の内意で或官職をなげうった時、当路の人は、さんいんどう筋のある地方の知事なら転任させてもよいという条件を付けた事があった。然し彼は断然それを斥けた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円のかねを貰って、別に厭な顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。 こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼は又後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。
2014年06月25日
七十五「己は精一杯の事をしたのだ」 健三の腹にはこういう安心があった。従って彼は自分の調達したかねの価値に就いて余り考えなかった。さぞ嬉しがるだろうとも思わない代りに、これくらいの補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。細君の父もそこまで内情を打ち明ける程彼に接近して来なかった。 従来の牆壁を取り払うにはこの機会があまりに脆弱過ぎた。若しくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。 父は健三よりも世間的に虚栄しんの強い男であった。なるべく自分をひとによく了解させようとつとめるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線にあてさせたがる性質であった。従って彼を囲繞する妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾きがちであった。 境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の平生を顧みない訳に行かなかった。彼はそれを糊塗するため、健三に向って能う限りさあらぬ態度を装った。それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に、連いんを求めたのである。けれども彼がどのくらいの負債にどう苦しめられているかという巨細の事実は、遂に健三の耳に入らなかった。健三も訊かなかった。 二人は今までの距離を保ったままで、互いに手を出し合った。一人が渡すかねを一人が受け取った時、二人は出した手を又引き込めた。はたでそれを見ていた細君は黙って何とも云わなかった。 健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれ程に離れていなかった。彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いておどろいた事があった。「山を掘るんだって?」「ええ、何でもあたらしく会社を拵えるんだそうです」 彼は眉をひそめた。同時に彼は父の怪力に幾分かの信用を置いていた。「旨く行くのかね」「どうですか」 健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされたのち、彼はその用事を帯びて北国のある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ遣って来た。父が旅先で急に病気に罹ったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それに就いて旅費の都合は出来まいかというのが母の用向であった。「ええええ旅費くらいどうでもしてあげますから、すぐ行って、おあげなさい」 宿屋に寝ている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とを心から気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空のわびしさまで想像の眼に浮べた。「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」「じゃ、猶、ご心配でしょう。なるべく早くお立ちになる方が好いでしょう」 幸いにして父の病気は軽かった。然し彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり、たちぎえになってしまった。「まだなにも見付からないのかね、口は」「あるにはあるようですけれども旨く、まとまらないんですって」 細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。然し市の有志家が何名か打ち揃って上京した時に、有名な政治家のある伯爵に会って、父の適不適を問いただしたら、その伯爵がどうも不向きだろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。「どうも困るね」「今に何とかなるでしょう」 細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。健三も例の怪力を知らないではなかった。「ただ気の毒だからそう云うだけさ」 彼の言葉に嘘はなかった。
2014年06月24日
七十四 彼はこんにちまで証書を入れて他からかねを借りた経験のない男であった。つい義理で判をついてやったのがもとで、立派な腕をもちながら、生涯社会の底に沈んだまま、もがき通しにもがいている人の話は、いくら迂闊な彼の耳にも屡伝えられていた。彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。然し頑固な彼の半面には至って気の弱い煮え切らない或物がよく働らきたがった。この場合、断然、れんいんを拒絶するのは、彼に取って如何にも無情で、冷酷で、心苦しかった。「私でなくっちゃ不可いのでしょうか」「貴方ならよいというんです」 彼は同じ事を二度訊いて同じ答えを二度受けた。「どうも変ですね」 世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく、つきあった事もないその銀行家からそれ程信用されるのがかえって怖くなった。「どんな目に逢わされるか分りやしない」 彼の心には未来に於ける自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害しんでこの問題を片付けてしまう程彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで、彼は逡巡しなければならなかった。その解決が最後に来たときですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。「いんを捺す事はどうも危険ですから已めたいと思います。然しその代り私の手で出来るだけのかねを調えて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるよりほかに仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏むかねは借りたくないのです。私のもっている狭いつきあいの方面で安全なかねを工面した方が私には心持が好いのですから、まず、そっちの方を一つ、あたって見ましょう。無論お入用だけの、たかは駄目です。私の手でととのえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」 幾らでも融通が付けば付いただけ助かるといったふうの苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強いなかった。「どうぞそれじゃ何分」 彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関から又同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱の上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に上らずにしまった。 けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は、しょたいを持つときに、火鉢や烟草盆を一所に買って歩いて貰った友達のうちえ又出掛けた。「かねを貸してくれないかね」 彼は藪から棒に質問を掛けた。かねなどをもっていない友達はおどろいた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手を翳しながら友達の前に逐一事情を話した。「どうだろう」 三年間、しなのある学堂で教鞭を取っていた頃に蓄えた友達のかねは、みんな電鉄か何かの株に変形していた。「じゃ清水に頼んで見てくれないか」 友達の妹婿に当る清水は、下町の可なり繁華な場所で、病院を開いていた。「さあどうかなあ。彼奴もそのくらいなかねはあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」 友達の好意は幸い、むだにならずに済んだ。健三の借り受けた四百円のかねが、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経ってのちの事であった。
2014年06月23日
七十三 なか、いちにち置いて彼が来た時、健三は久し振で細君の父に会った。 年輩から云っても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、いつも自分の娘婿に対して鄭寧であった。或時は不自然に陥るくらい鄭寧過ぎた。然しそれが彼を現わす凡てではなかった。裏側には反対のものがところどころに起伏していた。 官僚式に出来あがった彼の眼には、健三の態度が最初から頗る横着に見えた。超えてはならない階段を無躾に飛び越すようにも思われた。その上彼は無闇に自ら任じているらしい、健三の高慢ちきな所を喜ばなかった。頭にある事を何でも口外して憚らない健三の無作法も気に入らなかった。乱暴とよりほかに取りようのない一徹一図な点も非難のまとになった。 健三の稚気を軽蔑した彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて来ようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。すると二人はそこで留まったなり動けなくなった。二人は或、間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。だから相手の長所もはっきりと理解する事が出来にくくなった。そうして二人共自分のもっている欠点の大部分には決して気が付かなかった。 然し今の彼は健三に対して疑いもなく一時的の弱者であった。ひとに頭を下げる事の嫌いな健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。「如何にも苦しいだろう」 健三はこの一念に制せられた。そうして彼の持ちきたした、金策談に耳を傾けた。けれども好い顔はし得なかった。心のうちでは好い顔をし得ないその自分を呪っていた。「かねの話だから好い顔が出来ないんじゃない。かねとは独立した不愉快の為に好い顔が出来ないのです。誤解しては不可せん。私はこんな場合に敵討をするような卑怯な人間とは、ちがいます」 細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すよりほかに仕方がなかった。 このぶっきら棒な健三に比べると、細君の父は余程鄭寧であった。又おちついていた。はたから見れば遥に紳士らしかった。 彼は或人の名を挙げた。「向うでは貴方を知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」「知っています」 健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深いつきあいはなかった。卒業してドイツへ行って帰って来たら、急に職業がえをして或大きな銀行へ入ったとか人の噂に聞いたくらいよりほかに、彼の消息は健三に伝わっていなかった。「まだ銀行にいるんですか」 細君の父は点頭いた。然し二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。又それを詳しく訊いて見たところが仕方がなかった。要点はただその人がかねを貸してくれるか、くれないかの問題にあった。「で当人の云うには、貸しても好い、よいが確かな人を証人に立てて貰いたいとこういうんです」「成程」「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸してもよいと、向うでわざわざ指名した訳なんです」 健三は自分自身を確かなものと認めるには躊躇しなかった。然し自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上ひとに知れていなければならない筈だと考えた。その上細君の父はつきあい範囲のきわめて広い人であった。平生彼の口にする知合のうちには、健三よりどのくらい世間から信用されて好いか分らない程有名な人がいくらでもいた。「何故私の判が必要なんでしょう」「貴方なら貸そうと云うのです」 健三は考えた。
2014年06月22日
七十二「今日、父が来ました時、外套がなくって寒そうでしたから、貴方の古いのを出して遣りました」 田舎の洋服屋で拵えたその二重廻しは、ほとんど健三の記憶から消えかかっているくらい古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。「あんなきたならしいもの」 彼は不思議というより寧ろ恥ずかしい気がした。「いいえ。喜んで、着て行きました」「お父さんは外套をもっていないのかい」「外套どころじゃない、もう何にももっちゃいないんです」 健三はおどろいた。細い明かりに照らされた細君の顔が急に憐れに見えた。「そんなに困っているのかなあ」「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」 口数の少ない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々知っていながら、まさかこれ程とも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。 彼はシルクハットにフロックコートで勇ましく官邸の石門を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木を、きゆうの字がたに切り組んで作ったその玄関の床は、つるつる光って、時によると馴れない健三の足を滑らせた。前に広い芝生を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと続いて長方形の食堂があった。結婚するまえ、健三はそこで細君の家族のものと一緒に晩餐のたくに着いた事を未だに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多に招かれた彼は、そのうちのひとまで、暖かい宵を笑い声のうちに更した記憶もあった。 西洋館に続いて日本だても一棟付いていたこの屋敷には、家族のほかに五人の下女と二人の書生が住んでいた。職務柄客の出入の多いこの家の用事には、それだけの召し使いが必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要も充たされる筈はなかった。 健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさ程困っているようには見えなかった。彼が駒込の奥に住居を構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこう云った。――「まあ自分のうちをもつという事が人間にはどうしても必要ですね。然しそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精精、貯蓄を心掛けたら好いでしょう。二、三千円のかねをもっていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円くらい出来ればそれで結構です。それを私に預けてお置きなさると、一年くらい経つうちには、じき倍にして上げますから」 貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」 彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、驚愕の念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力を眺めた。しかし千円拵えて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を訊く気にもならずについこんにちまで過ぎたのである。「そんなに貧乏する筈がないだろうじゃないか。なんぼ何だって」「でも仕方がありませんわ、回り合せだから」 産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の息づかいは、ただでさえ、おもおもしかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と、つやの悪いその頬とを眺めた。 昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人を描いた下等な団扇を四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父にやって、「親父相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うと寧ろ情なくなった。「でもよく着られるね」「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」 細君は淋しそうに笑った。
2014年06月21日
七十一 筋道の通った頭をもっていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観に囚われる程厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関してほとんど無定見であった。母は又普通の女の様にやかましく子供を育てあげる性質でなかった。彼女はうちにいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的によく感じていた。「単に夫という名前が付いているからと云うだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質をもった人間になって自分の前に出て来るが好い。夫という肩書などは無くっても構わないから」 不思議にも学問をした健三のほうは、この点に於て、かえって旧式であった。自分は自分の為に生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫の為にのみ存在する妻を最初から仮定して、はばからなかった。「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」 二人が衝突する、おおねはここにあった。 夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。ややともすると、「女の癖に」という気になった。それが一段劇しくなると忽ち「何を生意気な」という言葉に変化した。細君の腹には「いくら女だって」という挨拶がいつでも貯えてあった。「いくら女だって、そう踏み付にされてたまるものか」 健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明らかに読んだ。「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがいい」 健三の論理はいつの間にか、細君が彼に向って投げる論理と同じものになってしまった。 かれらは斯くして円い輪の上をぐるぐる回って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。 健三はその輪のうえに、はたりと立ち留る事があった。彼の留る時は彼の激昂が静まる時にほかならなかった。細君はその輪の上で不図動かなくなる事があった。然し細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が融け出す時に限っていた。その時健三は漸く怒号を已めた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、矢張円い輪の上を離れる訳に行かなかった。 細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。生憎留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首をかたむけた。「何か用でもあったのかい」「ええ少しお話ししたい事があるんですって」「何だい」 細君は答えなかった。「知らないのかい」「ええ。また二、三日うちにあがってよくお話をするからって帰りましたから、今度参ったら直に聞いてください」 健三はそれより以上何も云う事が出来なかった。 久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしに拘わらず、向うがわざわざこちらへ出掛けてきようなどとは夢にも予期しなかった。その不審がいつもより彼の口数を多くする源因になった。それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。然しそれは彼がよく彼女に於て発見する不平や無愛嬌から来る寡言とも違っていた。 夜はいつの間にやら全くの冬に変化していた。細いともしびの影をじっと見詰めていると、灯は動かないで風の音だけが烈しく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かなあかりを間に置いて、しばらくしんと坐っていた。
2014年06月19日
七十 元気のない顔をしてうちえ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を惹いた。「ご病人はどうなの」 あらゆる人間がいつか一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口からはっきり聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。「何もう好いんだ。寝てはいるが危篤でも何でもないんだ。まあ兄貴に騙されたようなものだね」 馬鹿らしいという気が幾分か彼の口振に出た。「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫。若しもの事でもあってご覧なさい、それこそ」「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉は又病気に騙されたんだ。つまり、みんな騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房がわずらったって、決して騙されないんだからね」「矢っ張うちにいないの」「居るもんか。尤も非道く悪かった時はどうだか知らないが」 健三は比田のぶらさげているきん時計と、きん鎖の事を思い出した。兄はそれを天麩羅だろうと云って陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。きん着せにせよ、本物にせよ、彼がどこで幾らで買ったのか知るものは誰もなかった。こういう点に掛けては無頓着でいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。「月賦で買ったにちがいないよ」「ことによると、しちの流れかも知れない」 姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。健三には殆ど問題にならない事が、かれらの間に想像の種を幾つでも卸した。そうされればされる程又比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまう癖に、姉はついに夫の手元に入る、又は現在手元にある、かね高を決して知る事が出来なかった。「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」 姉の言葉はまるで隣のうちの財産でも云いあてるように夫から遠ざかっていた。 姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間にちがいなかった。それがやむを得ない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。然し金銭上、飽くまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、妄りに彼女を驚かせたがる料簡に至っては想像さえ及ばなかった。妻に対する虚栄心の発現、焦らされながらも夫を腕利きと思う妻の満足。――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。「かねの要る時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所にいるだけじゃないか」 健三の謎は容易に解けなかった。考える事の嫌いな細君はまた何という評も加えなかった。「然し己達夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そうひとの事ばかり、とやかく云っちゃいられないかも知れない」「矢っ張、おんなじ事ですわ。みんな自分だけはよいと思ってるんだから」 健三はすぐ癪に障った。「お前でも自分じゃ、いいつもりでいるのかい」「いますとも。貴夫がよいと思っていらっしゃる通りに」 かれらの争いはよくこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心をかき乱した。健三はそれを慎みの足りない細君の責に帰した。細君はまた偏窟で強情な夫の所為だとばかり解釈した。「字が書けなくっても、裁縫が出来なくっても、矢っ張姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」 細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が横たわっていた。
2014年06月19日
六十九 姉は細かい所に気の付く女であった。従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。一面に於て馬鹿正直な彼女は、一面に於てまた変な廻り気を出す癖をもっていた。 健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の暮らしに就いて、ひとの同情に訴え得るような憐れっぽいじじつを彼の前に並べた。仕舞に兄の口を借りて、いくらでも好いから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知して貰う事にした。すると姉から手紙が来た。長さんの話ではお前さんが月々、いくらいくら私に遣るという事だが、実際お前さんの、くれると云ったかね高はどのくらいなのか、長さんに内所で一寸知らせてくれないかと書いてあった。姉はこれから毎月、なか取次をする役に当るかも知れない兄の心事を疑ったのである。 健三は馬鹿馬鹿しく思った。腹だたしくも感じた。然し何より先に浅ましかった。「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。彼の姉に宛てた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分をよく現わしていた。姉はそれぎり何とも云って来なかった。無筆な彼女は最初の手紙さえひとに頼んで書いて貰ったのである。 この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何でもかでも訊きたがる彼女も、健三の家庭に就いては、当り障りのない事のほか、多く口を開かなかった。健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかって想い到らなかった。「近頃おすみさんはどうだい」「まあ相変らずです」 会話はこのくらいで切り上げられる場合が多かった。 間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切からくる懸念も大分、まじっていた。然しその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。従って彼女の眼に見える健三は、いつも親しみがたい無愛想な変人に過ぎなかった。 淋しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような、きたない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上に於て、自分の今踏んでいる場所をよく弁えていた。けれどもそこには彼の追憶をいざなう何物も残っていなかった。過去の記念が悉く彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。 彼は昔あった青田と、その青田の間を走る真直な小道とを思い出した。田の尽る所には三、四軒の藁葺屋根が見えた。菅笠を脱いで床几に腰を掛けながら、心太を食っている男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のように広い紙漉ばがあった。そこを折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見おろす水の流れには存外の距離があった。橋の袂にある古風な銭湯の暖簾や、その隣の八百屋の店先に並んでいる唐茄子などが、若い時の健三によく広重の風景画を聯想させた。 然し今では凡てのものが夢のように悉く消え失せていた。残っているのはただ大地ばかりであった。「いつこんなに変ったんだろう」 人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層劇しい自然の変りかたに驚かされた。 彼は子供の時分比田と将棋を差した事を偶然思いだした。比田は盤に向うと、これでも所沢の藤吉さんのお弟子だからなと云うのが癖であった。今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じことを云いそうな男であった。「己自身は必竟どうなるのだろう」 衰えるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。
2014年06月17日
六十八 姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出のほかに、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。「彦ちゃんがもう少ししっかりしていてくれると好いんだけれども」 彼女は時々、はたのものにこんな述懐を洩らした。彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、至極穏やかな好人物であった。朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だという噂を耳にした事はあるが、その他の点に就いて深い交渉をもたない、健三には、どこが不足なのかよく解らなかった。「もう少しおかねを取ってくれると好いんだけどもね」 無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。然し比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな贅沢のいえた義理でもなかった。かれらは彦ちゃんをどこの学校へも入れて遣らなかった。わずかばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取って寧ろ僥倖と云わなければならなかった。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。昔し死んだ赤ん坊については、猶の事同情が起らなかった。彼は、そのいき顔を見た事がなかった。その死顔も知らなかった。名前さえ忘れてしまった。「何とか云いましたね、あの子は」「作太郎さ。あすこに位牌があるよ」 姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いて拵えた小さい仏壇を指し示した。薄暗いばかりでなくこぎたないそのなかには、先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。「あの小さいやつがそうですか」「ああ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵えたんだよ」 立って行って戒名を読む気にもならなかった健三は、やはりもとの所に坐ったまま、黒塗の上に、きん字で書いた小形のふだのようなものを遠くから眺めていた。 彼の顔には何の表情もなかった。自分の二番目の娘が赤痢に罹って、もう少しで命をとられるところだった時の心配と苦痛さえ聯想し得なかった。「姉さんもこんなじゃいつああなるか分らないよ、健ちゃん」 彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。健三はわざとその視線を避けた。 心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思っていない彼女のいい草には、世間並の年寄とすこしおもむきを異にしている所があった。慢性の病気がいつまでも継続するように、慢性の寿命が又いつまでも継続するだろうと彼女には見えたのである。 そこへ彼女の癇しょうが手伝った。彼女はどんなに息苦しくっても、いくら他から忠告されても、どうしても居ながら用を足そうと云わなかった。這うようにしてでも厠まで行った。それから子供の時からの習慣で、朝はきっと肌ぬぎになって手水を遣った。寒い風が吹こうが冷たい雨が降ろうが決して已めなかった。「そんな心細い事を云わずに、出来るだけ養生をしたら好いでしょう」「養生はしているよ。健ちゃんから貰うお小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事にきめているんだから」 田舎ものが、こめの飯を食うように、彼女は牛乳を飲むのが凡ての養生ででもあるかのような事を云った。日に日に損なわれて行くわが健康を意識しつつ、この姉に養生を勧める健三の心の中にも、「ひと事じゃない」という馬鹿らしさが遠くに働らいていた。「私も近頃は具合が悪くってね。ことによると貴方より早く位牌になるかもしれませんよ」 彼の言葉は無論根のない冗談として姉の耳に響いた。彼もそれを承知の上でわざと笑った。然し自ら健康を損いつつあると確に心得ながら、それをどうする事も出来ない境遇に置かれた彼は、姉よりもかえって自分の方をあわれんだ。「おれのは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だと云ってくれるものは一人もありやしない」 彼はそう思って姉のくぼみ込んだ眼と、痩けた頬と、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。
2014年06月17日
六十七 その頃の健三はうちえ帰ると甚しい倦怠を感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく昼寝をした。机によって書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事が屡あった。愕然としてうたたねの夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺激した。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。括り付けられた人のように書斎にじっとしていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図愚図していても、そういうふうにじっと坐っていろと彼に命令するのである。 斯くして四、五日は徒らに過ぎた。健三が漸く津の守坂へ出掛けた時はむずかしいかも知れないと云った姉が、もう回復期に向っていた。「まあ結構です」 彼は尋常の挨拶をした。けれども腹の中では狐にでも抓まれたような気がした。「ああ、でもお蔭さまでね。ねえさんなんざあ、生きていたってどうせひとの厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、矢っぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」 姉は自分の云う裏を健三から聴きたい様子であった。然し彼は黙って烟草を吹かしていた。こんな些細の点にも姉弟の気風の相違は現われた。「でも比田のいるうちは、いくら病身でもやくざでも私が生きていて遣らないと困るからね」 親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。それは女房の心尽しなどに対して余りに無頓着過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、寧ろ気の毒なくらい親切だったからである。「私ゃ本当に損な生れ付きでね。うちとはまるであべこべなんだから」 姉の夫思いは全く天性にちがいなかった。けれども比田が時として理の徹らない我儘を云い募るように、彼女は訳の解らない実意だてをしてかえって夫を厭がらせる事があった。それに彼女は縫針の道を心得ていなかった。手習をさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てからこんにちまで、ついぞ夫の着物一枚縫ったためしがなかった。それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、こように行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかと云って、網戸のうちそとで母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。 そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、そのじつ、どこか似通った所のある、このはらちがいの姉の前に、彼は反省を強いられた。「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」 平生の彼は教育の力を信じ過ぎていた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。斯く事実の上に於て突然人間を平等に視た彼は、不断から軽蔑していた姉に対して多少極りの悪い思をしなければならなかった。然し姉は何にも気が付かなかった。「おすみさんはどうです。もうじき生れるんだろう」「ええ、おっこちそうな腹をして苦しがっています」「お産は苦しいもんだからね。私もおぼえがあるが」 久しく不妊しょうと思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。年を取ってからのういざんだったので、当人もはたのものも大分心配した割に、それ程の危険もなく胎児を分娩したが、その子はすぐ死んでしまった。「軽はずみをしないように用心おしよ。うちでもあれがいると少しは頼りになるんだがね」
2014年06月15日
六十六 お常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。 毎年時候が寒くなるときっとからだに故障の起る兄は、秋口から又風邪を引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、幾日経っても熱がとれないで苦しんでいた。「つい無理をするもんだから」 無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内何方かを択ぶよりほかに仕方がない様に見えたのである。「どうも肋膜らしいっていうんだがね」 彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について、なんびとよりも強い畏怖の念を抱いていた。そうして、なんびとよりも強い速度で、その肉かいを減らして行かなければならなかった。 健三は細君に向って云った。――「もう少し平気で休んでいられないものかな。せめて熱のなくなるまででも好いから」「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、矢ッぱり、そうは出来ないんでしょう」 健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ、暮らしの方面からのみ眺める事があった。彼はそれを残酷ながら自然の眺めかたとして許していた。同時にそういう観察から逃れる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。彼は苦い塩をなめた。「死にやしまいな」「まさか」 細君は取り合わなかった。彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。生家と縁故のある産婆が、遠い所から車に乗って時々やって来た。彼はその産婆が何をしに来て、又何をして帰って行くのか全く知らなかった。「腹でも揉むのかい」「まあそうです」 細君ははかばかしい返事さえしなかった。 その内兄の熱がころりと除れた。「ご祈祷をなすったんですって」 迷信家の細君は加持、祈祷、占い、神信心、大抵の事を好いていた。「お前が勧めたんだろう」「いいえそれが私なんぞの知らない妙なご祈祷なのよ。何でも髪剃を頭のうえへ載せて遣るんですって」 健三には髪剃のお蔭で、しこじらした、たい熱が除れようとも思えなかった。「気の所為で熱が出るんだから、気の所為でそれが又、すぐ除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、杓子でも鍋ぶたでも同じ事さ」「然しいくらお医者の薬を飲んでもなおらないもんだから、試しにやって見たらどうだろうって勧められて、とうとう遣る気になったんですって、どうせ高いご祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」 健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内情を気の毒に思った。髪剃のお蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。 兄がなおると共に姉がまた喘息で悩み出した。「又かい」 健三は我知らずこう云って、不図女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。「しかし今度はいつもより重いんですって。ことによるとむずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそう云ってくれって、おっしゃいました」 兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分の尻を畳の上に着けた。「少し立っているとお腹の具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんか、とても取れやしません」 産がせまる程妊婦は運動すべきものだくらいに考えていた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに、たいぎであるかは全く彼の想像のほかにあった。彼は活動を強いる勇気も自信もうしなった。「私とてもお見舞には参れませんよ」「無論お前は行かなくっても好い。己が行くから」
2014年06月15日
六十五 お常を知らない細君はかえって夫の執拗を笑った。「それが貴方の癖だから仕方がない」 平生彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の里との関係に就いて、夫のこの悪い癖が著しく出ているように彼女は思っていた。「己が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女とつきあった事のないお前には、おれの批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべを云うのだ」「だって現に貴夫の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」「本当に違った人になったのならいつでも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは、うわべだけで腹の中は、もとの通りなんだ」「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」「お前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」「随分独断的ね、貴夫も」「批評が中ってさえいれば独断的でいっこう、さしつかえないものだ」「然しもし中っていなければ迷惑する人が大分出て来るでしょう。あのお婆さんは私と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」 健三には細君の言葉が何を意味しているのかよく解った。然し細君はそれ以上何も云わなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、おもてむき夫と遣り合って行けるところまで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質ではなかった。「面倒臭い」 少し込み入った議論の筋道を辿らなければならなくなると、彼女はきっとこう云って当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さはいつまでも辛抱した。然しその辛抱は自分自身に取って決して、こころよいものではなかった。健三から見ると猶更心持が悪かった。「執拗だ」「執拗だ」 二人は両方で同じ非難の言葉をおたがいの上に投げかけ合った。そうしておたがいに腹の中にあるわだかまりをおたがいのそぶりからよく読んだ。しかもその非難に理由のある事もまたおたがいに認め合わなければならなかった。 わがままな健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも訊かず、又時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心のうちに繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。「これで沢山だ」「己もこれで沢山だ」 また同じ言葉が双方の胸のうちで屡繰り返された。 それでも護謨紐のように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の、のびちじみがあった。非常に緊張していつ切れるか分らない程に行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢いで、そろそろ元へ戻って来た。そうした日和の好い精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が洩れた。「これは誰の子?」 健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。然し彼女はこの時既に自分の胎内にうごめき掛けていた生の脈拍を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭に伝えようとしたのである。「喧嘩をするのはつまり両方が悪いからですね」 彼女はこんな事も云った。それ程自分が悪いと思っていない頑固な健三も、微笑するよりほかに仕方がなかった。「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい仇同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」 健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻った。
2014年06月13日
六十四「とうとう遣って来たのね、お婆さんも。今まではお爺さんだけだったのが、お爺さんとお婆さんと二人になったのね。これからは二人に祟られるんですよ、貴夫は」 細君の言葉はめずらしくはしゃいでいた。冗談とも付かず、ひやかしとも付かないその態度が、感想に沈んだ健三の気分を不快に刺戟した。彼は何とも答えなかった。「又あの事を云ったでしょう」 細君は同じ調子で健三に訊いた。「あの事た何だい」「貴夫が小さいうち寝小便をして、あのお婆さんを困らしたって事よ」 健三は苦笑さえしなかった。 けれども彼の腹の中には、お常が何故それを云わなかったかの疑問が既によこたわっていた。彼女の名前を聞いた刹那の健三は、すぐその弁口に思い到ったくらい、お常はよく喋舌る女であった。ことに自分を護る事に巧みな技倆をもっていた。ひとの口車に乗せられやすい、又見え透いたお世辞を嬉しがりがちな健三の実父は、いつでも彼女を褒める事を忘れなかった。「感心な女だよ。だいち身上持が好いからな」 島田の家庭に風波の起った時、彼女は有るだけの言葉を父の前に並べ立てた。そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と、くやしい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になってしまった。 お世辞が上手だという点に於て健三の父は彼の姉をも大変可愛がっていた。無心に来られるたんびに、「そうそうは己だって困るよ」とか何とか云いながら、いつか入用だけの、きんすは、手文庫から取出されていた。「比田はあんな奴だが、お夏が可愛想だから」 姉の帰った後で、父はいつでも弁解らしい言葉を傍のものに聞こえるように云った。 然しこれ程父を自由にした姉の口先は、お常に比べると遥かに下手であった。まことしやかという点に於て遠く及ばなかった。実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見たくらい、彼女の口は旨かった。 彼女に会うときの健三が、しんちゅう、迷惑を感じたのは大部分この口にあった。「お前を育てたものはこの私だよ」 この一句を二時間でも三時間でも布衍して、幼少の時分恩になった記憶を又あたらしく復習させられるのかと思うと、彼は辟易した。「島田はお前の仇だよ」 彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、又彼の前にさらけ出すにきまっていた。彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。 何方を聴くにしても涙がまじるにちがいなかった。彼は装飾的に使用されるその涙を見るにたえないような心持がした。彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。けれども自分の必要と思う場合には、その言葉に厭らしい強い力を入れた。円朝の人情噺に出て来る女が、長い火箸を灰の中に突き刺し突き刺し、ひとに騙された怨みを述べて、相手を困らせるのと、ほぼ同じ態度で又同じ口調であった。 彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりも寧ろ不思議に思うくらい、お常の性格が牢として崩すべからざるはっきりした一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。 細君は彼の為に説明した。「三十年近くにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」 遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点が行かなかった。「そんなあっさりした女じゃない」 彼は腹の中でこう云わなければどうしても承知が出来なかった。
2014年06月13日
六十三「ああ変った」 顔を見合せた刹那に双方は同じ事を一度に感じ合った。けれどもわざわざ訪ねて来たお常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。ところが健三にはそれがほとんど欠けていた。従って不意に打たれたものは客よりも寧ろ主人であった。それでも健三は大しておどろいた様子を見せなかった。彼の性質が彼にそうしろと命令するほかに、彼はお常の技巧から溢れ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女の遣る芝居を事あたらしく観せられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女の為でもあり、又自分の為でもあった。 彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には人世と切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿しているらしく見えた。 島田と別れてから二度目にかたづいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を貰って、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、或はまだ生きている時分にか、それはお常も云わなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。 養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どのくらいな程度の暮らしをしていたものかよく分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉はお常の口を洩れなかった。 その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむを得ずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或、みよりを頼りに、ずっと辺鄙な所へ引越した。そこで娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ毎年下がる扶助料だけで、くらしを立てて行った。 お常の物語りは健三の予期に反して寧ろ平静であった。誇張した身ぶりだの、仰山な言葉ずかいだの、あてこみの科白だのは、それ程多く出て来なかった。それにも拘わらず彼は自分とこのお婆さんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。「ああそうですか、それはどうも」 健三の挨拶は簡単であった。普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。「昔の因果が今でもやっぱり祟っているんだ」 こう思った彼はさすがに好い心持がしなかった。何方かというと泣きたがらないたちに生れながら、時々は何故本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。「おれの眼はいつでも涙が湧いて出るように出来ているのに」 彼は丸まっちくなって座蒲団の上に坐っているお婆さんの姿を熟視した。そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しくかんじた。 彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。「失礼ですが、車へでも乗ってお帰りください」 彼女はそういう意味で訪問したのではないと云って一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。気の毒な事に、その贈り物の中には、疎い同情が入っているだけで、あらわな真心は籠っていなかった。彼女はそれをよく承知しているように見えた。そうしていつの間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、あきらめるよりほかに仕方がないというふうに振舞った。彼は玄関に立って、お常の帰って行く後姿を見送った。「もしあの哀れなお婆さんが善人であったなら、私は泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水を取って遣る事も出来たろう」 黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。
2014年06月12日
六十二 不治の、病気に悩まされているというお縫さんに就いての便りが健三の心を和げた。何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、ほとんど親しく口を利いたためしがなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もしつきあいという文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人のつきあいは、きわめて淡くそうして軽いものであった。強烈な好い印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の面影は、島田やお常のそれよりも、今の彼に取って遥かに尊かった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼からそそり得る点に於て。また漠然として散漫な人類を、比較的はっきりした一人の代表者に縮めてくれる点に於て。――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。 それと共に彼の胸には一種の利害しんが働いた。いつ起るかも知れないお縫さんの死は、狡猾な島田にまた彼をせびる口実を与えるにちがいなかった。明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。然し彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。「衝突して破裂するまで行くよりほかに仕方がない」 彼はこう観念した。彼は手をこまぬいで島田の来るのを待ち受けた。その島田のくる前に突然彼のかたきのお常が訪ねて来ようとは、彼も思い掛けなかった。 細君はいつもの通り書斎に坐っている彼の前に出て、「あの波多野ってお婆さんがとうとう遣って来ましたよ」と云った。彼は驚くよりも寧ろ迷惑そうな顔をした。細君にはその態度が愚図愚図している臆病もののように見えた。「お会いになりますか」 それは、会うなら会う、断るなら断る、早く何方かにきめたら好かろうという言葉の遣い方であった。「会うから上げろ」 彼は島田の来た時と同じ挨拶をした。細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。 座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に纏って、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。彼の心で想像していたお常とは全く変っているその質朴な風采が、島田よりも遥かに強く彼を驚かした。 彼女の態度も島田に比べると寧ろ反対であった。彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、鄭寧に頭を下げた。言葉ずかいも慇懃をきわめたものであった。 健三は小供の時分よく聞かされた彼女の里の話を思い出した。田舎にあったその住居も庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。床の下を水が縦横に流れているという特色が、彼女のいつでも繰り返す重要な点であった。南天の柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。然し小さい健三はその宏大な屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。それから一度もそこへ連れて行かれたおぼえがなかった。彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を朧気ながら見抜くように、彼の批評がんがだんだん肥えて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の法螺ではないかと考え出した。 健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前に畏まって坐っている白髪頭のお婆さんとを比較して、時間の齎した対照に不思議そうな眼を注いだ。 お常は昔から肥りじしの女であった。今見るお常も依然として肥っていた。何方かというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかと、うたがわれるくらいであった。それにも拘わらず、彼女は全く変化していた。どこから見ても田舎育ちのお婆さんであった。多少誇張して云えば、籠に入れた麦焦しを背中へ、しよって近在から出て来るお婆さんであった。
2014年06月11日
六十一 仕舞に健三は細君に向った。「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇って云うのは。姉に訊いても比田に訊いても、本当のところがよく分らないが」 細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、朱塗の船底枕の上に乱れた頭を載せていた。「そんなに気になさるなら、ご自分で直に調べてご覧になるが好いじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。お姉えさんだって、いま、あの人とつきあいっていらっしゃらないんだから、そんな確かな事の知れている筈がないと思いますわ」「己にはそんな暇なんかないよ」「それじゃほおってお置きになればそれまででしょう」 細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。腹で思っている事でもそう無闇に口へ出して云わないたちに出来あがった彼女は、自分の里と夫との面白くない間柄に就いてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏窟な男であった。「ほおって置け?」 健三は反問した。細君は答えなかった。「今までだってほおって置いてるじゃないか」 細君は猶答えなかった。健三はぷいと立って書斎へ入った。 島田の事に限らず二人の間にはこういう光景がよく繰り返された。その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。――「お縫さんが脊髄病なんだそうだ」「脊髄びょうじゃむずかしいでしょう」「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと柴野とお藤さんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例のかねが来なくなるかも知れないってね」「可哀想ね今から脊髄病なんぞに罹っちゃ。まだ若いんでしょう」「己より一つ上だって話したじゃないか」「子供はあるの」「何でも沢山あるような様子だ。いくたりだか、よく訊いて見ないが」 細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十に充たない夫人の心持を想像に描いた。間近にせまったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。重そうな腹を眼の前に見ながら、それ程心配もしてくれない男の気分が、情なくもあり又羨ましくもあった。夫はまるで気か付かなかった。「島田がそんな心配をするのも必竟は平生が悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田に云わせると、その柴野という男が酒くらいで喧嘩ぱやくって、それでいつまで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。矢っぱり、島田の方が愛想を尽かされているに、ちがわないんだ」「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」「一体あの人はどうしてそのお藤さんて人と――」 細君は少し躊躇した。健三には意味が解らなかった。細君は云い直した。「どうしてそのお藤さんて人と懇意になったんでしょう」 お藤さんがまだ若い未亡人であった頃、何かの用で扱所へ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をしてやったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。然し恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった。「慾も手伝ったにちがわないね」 細君は何とも云わなかった。
2014年06月10日
六十 こんな具合にしてやっと東京におちついた健三は、物質的に見た自分の、如何にも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れた他の方面に於て自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂にかねの問題で色々にかき乱されてくる時、彼は始めて反省した。平生、何こころなく身に着けて外へ出る黒木綿の紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。「この己をまたせびりにくるやつがいるんだから非道い」 彼は最もたちの悪いその種の代表者として島田の事を考えた。 今の自分がどの方角から眺めても島田より好い社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄しんに少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼び捨てにした人から今となって鄭寧な挨拶を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見なしている彼の立場から見て、腹が立つだけであった。 彼は念のために姉の意見をたずねて見た。「一体どのくらい困ってるんでしょうね、あの男は」「そうさね。そう度々無心を云って来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそうひとにばかり貢いでいたひにゃ際限がないからね。いくらおかねが取れたって」「おかねがそんなに取れるように見えますか」「だって、うちなんぞに比べれば、お前さん、おかねがいくらでも取れる方じゃないか」 姉は自分のうちの暮らしを標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田が月々貰うものを満足に持って帰ったためしのない事や、俸給の少ない割につきあい費の要る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額に上る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく、健三に話して聞かせた。「その賞与だって、そっくり私の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私達二人はまあ隠居みたようなもので、月々食料を彦さんの方へやって、まかなって貰ってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」 養子と経済を別々にしながら一所の家に住んでいた姉夫婦は、自分達の搗いた餅だの、自分達の買った砂糖だのという特別な食物をもっていた。自分達の所へ来た客に出すご馳走などもきっと自分達の懐中から払う事にしているらしかった。健三はほとんど考えの及ばないような眼つきをして、極端に近い一種の個人主義のもとに存在しているこの一家の経済状態を眺めた。然し主義も理窟ももたない姉にはまたこれ程自然な現象はなかったのである。「健ちゃんなんざ、こんな真似をしなくっても済むんだからいいやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃ幾らでも欲しいだけのおかねは取れるしさ」 彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまい勝であった。それでも彼女は最後に付け加えた。「まあいいやね。面倒臭くなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とか云ってかえしてしまえば。それでも、うるさいいなら留守をお遣いよ。構う事はないから」 この注意は如何にも姉らしく、健三の耳に響いた。 姉から要領を得られなかった彼はまた比田をつらまえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。「何しろもとの通りあの地面と家作をもってるんだから、そう困っていない事は確かでさあ。それにお藤さんの方へはお縫さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事を云って来るにちがわないからほうってお置きなさい」 比田の云う事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない上っ調子のものには相違なかった。
2014年06月09日
五十九 健三は又日常使用する家具のほかに、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の指物を渡世にする男の店先に立って、しきりに【算盤をはじく主人と談判をした。 彼の誂えた本棚には硝子戸も、うしろも着いていなかった。ほこりの積るくらいは懐中に余裕のない彼の意とするところではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚いたが気の引ける程撓った。 こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職して貰ったかねはいつの間にかもう無くなっていた。迂闊な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要にせまられて、どうしゅくの男から借りたかねはどうして返して好いか分らなくなってしまった様に思い出した。 そこへその男から若し都合が付くなら、さん段して貰いたいという催促状が届いた。健三はあたらしく拵えた高い机の前に坐って、しばらく彼の手紙を眺めていた。 僅かのあいだとは云いながら、遠い国で一所に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派なお役人として、ある重要な事項取調の為という名義のもとに、官命で遣って来たその人の財力と健三の給費との間には、ほとんど比較にならない程の懸隔があった。 彼は寝室のほかに応接間も借りていた。夜になると繻子で作ったぬいとりのある綺麗なナイトガウンを着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたようにじっと竦んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を羨んだ。 その健三には昼食を節約した憐れな経験さえあった。ある時の彼はおもてへ出た帰掛に途中で買ったサンドイッチを食いながら、広い公園の中をめあてもなく歩いた。斜めに吹きかける雨をかたかたの手に持った傘でよけつつ、片々の手で薄く切った肉とパンを何度にも頬張るのが非常に苦しかった。彼は幾たびかそこにあるベンチへ腰を卸そうとしては躊躇した。ベンチは雨のために悉く濡れていたのである。 ある時の彼は町で買って来たビスケットのカンを昼になると開いた。そうして湯も水も呑まずに、硬くて脆いものをぼりぼり噛みくだいては、生唾の力で無理にのみ下した。 ある時の彼はまた馭者や労働者と一所に如何わしい一膳飯屋で形ばかりの食事を済ました。そこの腰掛のうしろは高い屏風のように切立っているので、普通の食堂の如く、広い部屋を一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは、みんないつ湯に入ったか分らない顔であった。 こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼はよく健三を昼飯に誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼からかねを借りたのはこうして彼と大分懇意になった時の事であった。 その時彼は反故でも棄てるように無雑作な態度を見せて、五ポンドのバンクノートを二枚健三の手に渡した。いつ返してくれとは無論云わなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろうくらいに考えた。 日本へ帰った健三はよくこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それ程急に返す必要が出て来ようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人の旧い友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大したかね持でない事を承知していた。然し自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求を容れて、要るだけのかねを彼の前に揃えてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人の許へ返しに行った。あたらしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取って貰う事にきめた。
2014年06月08日
五十八 健三は外国から帰って来た時、既にかねの必要を感じた。久し振にわが生れ故郷の東京に新らしい、しょたいを持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。 彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にある小さな家を空けてかれらの住まいに充てた。細君の祖父母が亡くなるまで居たその家は狭いながらさ程見苦しくもなかった。はりまぜの襖には南湖の画だの鵬斎の書だの、すべて亡くなった人の趣味を偲ばせるかたみと見るべきものさえもとの通り貼り付けてあった。 父は官吏であった。大して派手な暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせる程窮してもいなかった。その上健三の細君へは月々、いくらかの手当が公けから下りた。健三は安心してわが家族を後に遺した。 彼が外国にいるうち内閣が変った。その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引っ張り出されて劇しく活動しなければならない、ある位置に就いた。不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。父は崩壊の渦のうちに捲き込まれなければならなかった。 遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、ほとんど心を悩ませなかった。 迂闊な彼は帰ってからもそこに注意を払わなかった。また気も付かなかった。彼は細君が月々貰う二十円だけでも子供二人に下女を使って充分やって行けるくらいに考えていた。「何しろ家賃が出ないんだから」 こんな呑気な想像が、実際を見た彼の眼を驚きで丸くさせた。細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。仕方がないので、仕舞には健三の置いて行った地味な男物を縫い直して身に纏った。同時に蒲団からは、わたが出た。夜具は裂けた。それでも傍に見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。彼が自分の位置を失った後、相場に手を出して、多くもない貯蓄を悉く亡くしてしまったのである。 首の回らない程高いカラを掛けて外国から帰って来た健三は、この惨めな境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーの為に手非道く打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえもたなかった。 その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱のふたさえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしいいえを探し始めた。同時にかねの工面もしなければならなかった。 彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為にともなって起る必然な結果として、一時、しきんを受取る事が出来た。一年勤めれば役を已めた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれでやっと日常生活に必要な家具家財を調えた。 彼は僅かばかりのかねを懐にして、或古い友達と一所にほうぼうの道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物のいかんに拘わらず無闇にねぎり倒す癖をもっているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、烟草盆、火鉢、丼鉢、眼に入るものは、幾らでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するように云って、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後をおっかけなければならなかった。たまに愚図愚図していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのか、ひとの物を買うのか、その区別を弁えていないように猛烈な男であった。
2014年06月07日
五十七 健三の心は紙屑を丸めた様にくしゃくしゃした。時によると肝癪の電流を何かの機会に応じてほかへ洩らさなければ苦しくっていたたまれなくなった。彼は子供が母にせびって買って貰った草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛ばして見たりした。赤ちゃけた素焼の鉢が彼の思い通りにがらがらとわれるのさえ彼には多少の満足になった。けれども酷たらしく、くだかれたその花と茎の憐れな姿を見るや否や、彼はすぐ又一種のはかない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、かれらの父であるという自覚は、猶更彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。然しその子供の前にわが非を自白する事はあえてし得なかった。「おれの責任じゃない。必竟こんな気違じみた真似を己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」 彼の腹の底にはいつでもこういう弁解が潜んでいた。 平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。然し人を避ける彼に、その会話の届きよう筈はなかった。彼は一人居て一人自分の熱でくすぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女を叱った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度を恥じた。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ないおのれをいかった。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と心のうちで読み上げた。「己が悪いのじゃない。おれの悪くない事は、仮令あの男に解っていなくっても、己にはよく解っている」 無信心な彼はどうしても、「神にはよく解っている」と云う事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳はいつでも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。 彼は時々かねの事を考えた。何故物質的の富をめやすとして、こんにちまで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。「己だって、専門にその方ばかり遣りゃ」 彼の心にはこんな、おのぼれもあった。 彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮らしむきに悩んでいるのを気の毒に思った。きわめて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪しているような島田をさえ憐れに眺めた。「みんなかねが欲しいのだ。そうしてかねよりほかには何にも欲しくないのだ」 こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。 彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられてもその方に使う時間をおしがる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの学校から四十円貰って、それで満足していた。彼はその四十円の半分を親父に取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食っていた。然し彼はそのあいだに遂に何事も仕出かさなかった。 その時分の彼と今の彼とは色々な点に於て大分変っていた。けれども経済にゆとりのないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。 彼はかね持になるか、偉くなるか、二つのうち何方かに中途半端な自分を片付けたくなった。然し、いまからかね持になるのは迂闊な彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすれば又色々な煩いが邪魔をした。その煩いの種をよくよく調べて見ると、やっぱりかねのないのが大源因になっていた。どうして好いか解らない彼はしきりに焦れた。かねの力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだだいぶん、まがあった。
2014年06月06日
五十六 同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念が猶更彼をうるさくした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。「好い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」 島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。「失礼ながらこれでどのくらいします。あちらでは」「たしか十シリングだったと思います。日本のかねにすると、まあ五円くらいなものでしょう」「五円?――五円は随分、よいねですね。浅草の黒船町に古くから私の知ってる袋物屋があるが、あすこならもっとずっと安く拵えてくれますよ。こんだ要る時にゃ、私が頼んで上げましょう」 健三の紙入はいつも充実していなかった。全くからの時もあった。そういう場合には、仕方がないのでいつまで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せて尻を長くした。「小遣を遣らないうちは帰らない。厭なやつだ」 健三は腹の内で憤った。然しいくら迷惑を感じても細君の方から特別にかねを取って老人に渡す事はしなかった。細君もそのくらいな事ならと云ったふうをして別に苦情を鳴らさなかった。 そうこうしているうちに、島田の態度が段段積極的になって来た。二十三十とまとまったかねを、平気にむこうから請求し始めた。「どうか一つ。私もこのとしになってかかる子はなし、たよりにするのは貴方一人なんだから」 彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、くぼんだ鈍い眼を狡猾らしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。「これだけの暮らしをしていて、十や二十のかねの出来ない筈はない」 彼はこんな事まで口へ出して云った。 彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。「ありゃ成し崩しに己を侵蝕する気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は、とうまきにしてじりじり寄って来ようってんだ。実に厭なやつだ」 健三は腹が立ちさえすれば、よく実にとか一番とか大とかいう最大級を使って鬱憤の一端を洩らしたがる男であった。こんな点になると細君のほうは、しぶとい代りに大分おちついていた。「貴夫が引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」 健三はそのくらいの事なら最初から心得ていると云わぬばかりの様子を、むっとした頬と唇とに見せた。「絶交しようと思えばいつだって出来るさ」「然し今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」「そりゃ何の関係もないお前から見ればそうさ。然し己はお前とは違うんだ」 細君には健三の意味がよく通じなかった。「どうせ貴夫の眼から見たら、わたくしなんぞは、馬鹿でしょうよ」 健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。 二人の間に感情のゆきちがいでもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただじっと坐っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人にいつまでも構うけしきを見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢へ入っているのだから仕方がないくらいに考えて、まるで取りあわずにいた。
2014年06月05日
五十五 こういう不愉快な場面の後には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入って来た。二人はいつとなく普通夫婦の利くような口を利き出した。 けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れと云った。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこちらの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して憚らなかった。「じゃ当分子供を伴れてうちえいっていましょう」 細君はこう云って一旦里へ帰った事もあった。健三はかれらの食料を毎月送って遣るという条件のもとに、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的広い屋敷に下女とたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも淋しいとは思わなかった。「ああ、せいせいしていい心持だ」 彼は八畳の座敷の真中に小さなちゃぶ台を据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。丁度、酷暑の頃だったので、からだの強くない彼は、よくあおむけになって、ばたりと畳の上に倒れた。いつ替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の背中を蒸すような黄色い古びが芯まで透っていた。 彼のノートもまた暑苦しい程細かな字で書き下された。蠅の頭というよりほかに形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計拵えるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。そして苦痛であった。又義務であった。 巣鴨の植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽をうちから持って来てくれた。それを茶の間の縁に置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜んだ。けれども彼女の盆栽を軽蔑した。それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物だったのである。 彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。彼女の里へ顔をだそうなどという気はまるで起らなかった。彼女の病気に対する懸念も悉く消えてしまった。「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とか云って来るだろう」 彼の心は二人一所にいる時よりも遥に平静であった。 細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。その代り向うでも来なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継のあたった青い蚊帳の中に入って寝た。 一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先をあちこちしていた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸の影から急に姿を現わした。「貴夫、もとのようになって下さらなくって」 健三は細君の穿いている下駄のおもてが変にささくれて、そのうしろの方がいかにも見苦しくすり減らされているのに気が付いた。彼は憐れになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」 細君が帰ってから幾日目か経ったのち、彼女の母は始めて健三をおとずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もういっぺんかれらを引取ってくれという主意を畳の上で布衍したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な振る舞いであった。彼は一も二もなく承知した。細君は又子供を連れて駒込へ帰って来た。然し彼女の態度は里へ行く前と毫も違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母に騙されたような気がした。 こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これがいつまで続くのだろうかと考えたりした。
2014年06月04日
五十四 健三の気分にも、あがりさがりがあった。でまかせにもせよ、細君の心を休めるような事ばかりは云っていなかった。時によると、不快そうに寝ている彼女の体たらくが癪に障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと慳貪に要らざる用を命じて見たりした。 細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つとも蹴るとも勝手にしろという態度をとった。平生からあまり口数をきかない彼女は、益々沈黙を守って、それが夫の気をいらだたせるのを目の前に見ながら澄ましていた。「つまりしぶといのだ」 健三の胸にはこんな言葉が細君の凡ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼はほかの事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶといという観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼は余所を真っ暗にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君は又、さかなか蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君がいつでも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染みた癇癪もちとして評価されなければならなかった。「貴夫がそう邪慳になさると、また歇私的里を起しますよ」 細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三はひどくその光をおそれた。同時に劇しくそれをにくんだ。わがままな彼は内心に無事を祈りながら、うわべでは、強いて勝手にしろというふうを装った。その強硬な態度のどこかにいつでも仮装に近い弱点があるのを細君はよく承知していた。「どうせお産で死んでしまうんだから構やしない」 彼女は健三に聞えよがしにつぶやいた。健三は死んじまえと云いたくなった。 或晩彼は不図眼を覚まして、大きな眼をあいて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃があった。彼女が黒檀の鞘に折り込まれたその刃を真直に立てずに、ただ黒い柄だけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身をとこの上に起して、いきなり細君の手から髪剃をもぎ取った。「馬鹿な真似をするな」 こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子にはめ込んだ硝子にあたってその一部分をくだいて向う側の縁に落ちた。細君は茫然として夢でも見ている人のように一口も物を云わなかった。 彼女は本当に情にせまって刃物三昧をする気なのだろうか、又は病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものをもてあそぶのだろうか、或は単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚かすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、又はただ浅はかな征服慾に駆られているのだろうか、――健三はとこの中で一つの出来事をいつすじにも、むすじにも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寝ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死を衒う人のようであった。健三は又枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。 その解決は彼の実生活を支配する上に於て、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、まったく、その解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病の為とのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前におのれを懺悔する人の誠を以て、彼は細君のしっかに、ひざまずいた。彼はそれを夫として最も親切で又最も高尚な処置と信じていた。「今だってその源因がはっきり分りさえすれば」 彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠ると又すぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼はゆうべの事に就いて、ついに一言も細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。
2014年06月02日
五十三 翌日例刻に帰った健三は、机の前に坐って、大事らしくいつもの所に置かれた昨日の紙入に眼を付けた。革で拵えた大型のこの二つ折は彼の持物として寧ろ立派過ぎるくらい上等な品であった。彼はそれを倫敦の最も賑やかな町で買ったのである。 外国から持って帰った記念が、何の興味も惹かなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見えるほかはなかった。細君が何故丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥を空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。 その内何かでかねの要る日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。「おい少しかねを入れてくれ」 細君は右の手で物指を持ったまま夫の顔を下から見上げた。「這入ってる筈ですよ」 彼女はこのあいだ島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人にかねをとられたことも全く夫婦間の話題に上っていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。「あれはもうやっちゃったんだ。紙入はとうから空っぽうになっているんだよ」 細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳のうえへ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。「一寸拝見」 健三は馬鹿馬鹿しいと云うふうをして、それを細君に渡した。細君は中をあらためた。なかからは四、五枚の紙幣が出た。「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」 彼女は手垢の付いた皺だらけの紙幣を、指の間に挟んで、一寸胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るもののごとく微かな笑にともなった。「いつ入れたのか」「あの人の帰ったあとです」 健三は細君の心遣を嬉しく思うよりも寧ろめずらしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。「己が内所で島田にかねをとられたのを気の毒とでも思ったものかしら」 彼はこう考えた。然し口へ出してその理由を彼女に訊き糺して見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んでおのれを説明する面倒をあえてしなかった。彼女の填補したかねは斯くして黙って受取られ、又黙って消費されてしまった。 その内細君のお腹が段々大きくなって来た。たちいに重苦しそうな息をし始めた。気分もよく変化した。「わたし、今度は、ことによると助からないかも知れませんよ」 彼女は時々、なにに感じてか、こう云って涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。「何故だい」「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」 質問も説明もこれ以上には上る事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。りんの音が鼓膜の及ばない幽かな世界に潜り込むように。 彼女は悪阻で死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じやまいで苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養灌腸をする筈だった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きているほうが、かえって偶然の様な気がした。「女はつまらないものね」「それが女の義務なんだから仕方がない」 健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目に過ぎなかった。彼は腹のなかで苦笑した。
2014年06月02日
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