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2014年06月25日
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七十六

 けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自ら進んで母に旅費を用立った娘婿は、一歩、しりぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。然し彼の眼に、ただよういろは冷淡でも無頓着でもなかった。寧ろ黒い瞳からひらめこうとする反感の稲妻であった。つとめてその稲妻を隠そうとした彼は、やむを得ずこの鋭く光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。
 父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的につっ掛る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔ものになった。彼から云えば、父はこういう意味に於て彼を苦しめに来たと同じ事であった。父から云えば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の娘婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさにちがいなかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三は矢張馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢い男ではなかった。
「私も今度という今度は困りました」
 最初にこう云った父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。
 父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、又実業家でもあった。
「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか旨く出来そうですよ。三井と三菱を除けば日本ではまあ、あすこくらいなもんですから、使用人になったからと云って、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広い様ですから、面白く働けるだろうと思うんです」
 この財力家によって細君の父に予約された位置というのは、関西にある或私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、そこの社長を選ぶ特権を有していたのである。然し何十株か何百株かの持主として、予め資格を作って置かなければならない父は、どうしてかねの工面をするだろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。
「一時必要な株数だけを私の名儀に書き換えて貰うんです」
 健三は父の言葉に疑いを挟む程、彼の才能を見縊っていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱させるという意味に於ても、その成功を希望しない訳に行かなかった。然し依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の挨拶は形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるでそこに注意を払わないように見えた。
「然し困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」
 彼は懐から又一枚の辞令みたようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。
「今お話した一方の方が出来たらこれは已るか、又は出来ても続けてやるか、そのへんは、まだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の凌ぎにはなりますから」
 昔し彼が政府の内意で或官職をなげうった時、当路の人は、さんいんどう筋のある地方の知事なら転任させてもよいという条件を付けた事があった。然し彼は断然それを斥けた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円のかねを貰って、別に厭な顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。
 こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼は又後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。






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最終更新日  2014年06月25日 07時46分30秒


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